日記の部屋1954(夏休み)/Diary1954(Summer Vacation)

 

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1954.7.21 Wednesday

1954.7.21

 今日は第一日目だ。義務教育最後の夏休みの。我々はこの四十日間の夏休みを有意義に過ごさなければならない。高校進学のためにもまた人格の完成のためにも。
 よく私は、人間は何のために勉強するのかと「ギモン」を持つ。我々が生まれてまた死んでいく。たとえ文化が進もうとどうでもいいじゃないかという考えになる。しかしそうなってしまってはもう人間というものの意義がなくなる。この世にたった一度生まれ出てまた死んでいくのだからこの間を立派に過ごさなくてはならぬ。いわゆる勉強というものは、己をうち負かすためにやるものである。この人間の人生のもとである時間は過去、現在、未来からなる。我々が時間をうまく使うと言うことはそれは人生をいかに立派に生きるかと言うことに直通する。私がこの夏休みに、この時間に本当に取り組んで時間の有効な使い道を知ったならそれは何より増して大きな収穫だったと言わなければなるまい。過去過ぎ去った時というものは我々がいくら手を伸ばしても届くものではない。現在は矢のように過ぎ去って未来は悠然と突っ立っている。
 私は今日は五時四十五分に起きた。いつもはだいたい七時に起きていたから早起きしたことになる。しかし、私の計画から考えるとすでに四十五分経過後に起きたことになる。早速、この第一日に私は時間の使い方を失敗したことになる。

1954.7.22 Thursday

1954.7.22

 今日今年になって初めて海の水に触れた。今日はそう天気も良くなく、海水浴日よりではなかったが私は父の自転車で水泳に行った。海の水は濃い青が吸い取り紙に滲んだような色だった。
 準備体操をして元気良く海に入って行ったがじーんとするほど冷たかった。
 泳ぎはあまりうまくないので、飛び込み台まで行こうとしたがはじめての日だからあまり無理に泳ぐなという母の言葉なども思い出して止めた。
 海から上がると身体ががたがた震えて寒くてしょうがなかった。村田先生が来られて色々指導してくださった。私は今度の水泳大会に一組の背泳ぎの選手として出なくてはならないが、私はどうにか泳げる程度でうまくないので、足の蹴り方、水に手を入れる時の注意などを教えて貰った。
 午後六時頃鬼山書店から中学コースを持ってきて貰った。

1954.7.23 Friday

1954.7.23

私は今日ラジオ体操に遅刻した。朝早く目は覚めたがなにやら考えているうちに眠ってしまった。
母から起こされたときはもうラジオ体操の始まるちょっと前だった。それで急いで着物を着、顔を洗って自転車で一小に行ったが、その時はみんなぞろぞろ校門を出てくるところだった。
 そこで私が考えねばならぬことはなぜ遅れたかと言うことになる。
 まず、前の日に遅く寝たこと。しかし、一回目を覚ましたのだから、これではない。するとそれは目を覚ましながら起きなかった私の心にあるということになる。私はまたここで心の弱さをつくづく考えなくてはならぬはめになる。そうだあの目の覚めたとき少しぐらい重たいまぶたにわがままをさせずに、飛び起きていたならば、蛙が濁水にのまれたような思いをしなくて済んだに違いない。
ものをやるにはやらなくてはならないと思ったときすぐ実行しなくてはならないと私は思った。

1954.7.24 Saturday 1954.7.24
今日はちっとも勉強できなかった。
朝から図書館に行き、勉強しようとしたが目的の本がなかったので新聞や小説を読んでいたら12時になった。帰って勉強を始めたが、眠くなってすぐ昼寝をしたらとうとう5時近くまで寝てしまった。
晩家のものが全部出ていかれる時残って勉強すればよいのに一緒に行ってしまったから、本当に勉強した時間と言ったものが一時間に満たなかったかも知れない。帰ってすぐ寝て明日早く起きて勉強すればいいのだが、私の悪い癖で十時のニュースにあるプロ野球ナイターの結果を聞いてからしか寝ないくせになっている。その上、私は寝付きが悪い。そうこうしている間に十一時になった。
1954.7.25 Sunday 1954.7.25
今日南高郡市の中体連大会があった。私は学級招集の後でそれを見に行った。午後三時まで見ていたので頭が帰るとき痛かった。
私の見たのはバスケットとピンポンだった。バスケットじゃ前半は8-4とリードしておきながら、前半を終わるときには逆に11-9とリードされ、後半よく盛り返したが、ついに力つき20-18で終わった。
私は一中がなぜ負けたかはっきりわからなかった。技術的に見ても決して土黒には劣っていなかったし、相手にぶつかっていくと言うことにしてもそう劣ってはいなかった。一中は体力的に劣っていたのかも知れない。チームワークの悪さかも知れない。チームワークとは五人全部の心が一つにそろわねばならない。その点一中はわずかな隙があったのかも知れぬ。ばバスケットはいくらうまいものが四人いても勝てぬ。五人全部が心をともにしてやらなければ。
ピンポンも見たがこれは文句なしで練習不足で負けたと言えるだろう。
高校入試にしてもそれが言える。平均した点を取らぬと入学はおぼつかないと。そしてたゆまぬ練習が必要であると。
1954.7.26 Monday 1954.7.26
早いものだ。夏休みになってもおう六日が過ぎ去り、あと数時間で今日も終わりだ。
そこで私は夏休みになってからの生活の反省が必要である。
私は今まで五時四十分頃起き、十時半頃寝ている。睡眠時間は七時間とちょっとしかない。しかし私は昼寝を二三時間するから睡眠不足にはなる心配がない。
ときに学習においてはあまりにも進んでいない。私は私の時間の使い方の欠陥を知りもっと計画的な暮らしをしなくてはならない。
五時四十分に起きて六時十五分まで勉強する。しかし、その間顔を洗ったりするのであるからごく小時間だ。それからラジオ体操に行く。どうしても三十分以上かかる。そうすると六時四十分からの英語会話(NHK第二)に間に合わない。本当にこの時間三十分という時間を割くことは私にとって大変な苦痛だ。今日も課外があったから、八時--十二時までは学校にいるとして午後の時間を私は何の気なしに遊んで過ごすかもしくは昼寝で過ごすのである。
私が午後の時間をうまく使ったならもっと立派な生活ができるだろう。そして私の昼寝は余りに長すぎて、夜の勉強の時頭が痛い。昼寝は一時間で十分だ。
1954.7.27 Tuesday 1954.7.27
ヂスレリー--イギリスの誇る大英雄・大政治家・大宰相。彼はいかなる時も周到なる準備をもって臨み、相手が首相だろうとだれであろうと一歩も引かず、天下無敵の宰相に面と向かって揶揄した。そして少年の夢成って彼が大英国宰相になるや彼一流の政治的手腕はスエズ運河株買収、かの伯林会議においての外交的大成功などイギリスに貢献したところは大きい。
しかるに彼にはグラッドストーンをはじめとする多くの政敵があった。しかし、彼は他人に類なき寛大さを持っていた。だから彼は他人を憎むことを全然知らなかった。後年彼が首相であったとき彼は彼の敵に爵位を授けたのであった。
彼の演説のうまさは比類がなかった。彼を好まなかった人でさえ「ヂスレリーが立ち上がると自分は実に心からなる喜びを感じた。彼の音声、所作とは議院の他の人々の声と態度とに疲れたる後に実に満足の情を与えた」と言わしめたほどである。
彼は作家としても偉大であった。政治小説を誕生せしめたのも彼であった。彼はいつも青年の気持ちを持っていた。彼を成功に導いたのも彼がいつも青年の日を思い続けたからであると作者鶴見祐輔は語ってヂスレリー伝の幕を閉じている。ああ偉大なるかなヂスレリーよ。
1954.7.28 Wednesday 1954.7.28
 映画見学に行った。今日の映画は「ともしび」と「母の湖」だった。私は「母の湖」と「ともしび」を比べてみて、その作品価値の数段違うのを感じた。それほど「ともしび」は、単なるお涙頂戴の創作映画たる「母の湖」と比べて、その底に流るる現実感があって立派だった。
 良き師のもとに良き生徒あり。しかるに封建的農村には封建的学校しかなかった。
 背景はある貧しき農村である。活動的な先生のもとに学級全部が心の合った学級があった。学級費を収めきれない者、教科書を買えない者、赤ん坊を負ぶって勉強する者、みんな貧しかった。しかし貧しさに屈せず先生と楽しく勉強していた。
 しかし、村の顔役に赤とにらまれてその先生は学校を追われた。別れのあいさつの先生の一言一言に思わず生徒は涙をこぼすのだった。
 担任の先生が替わった。それこそ今までの楽しい学校生活と一変して暗く不安に包まれた生活となった。それはあの先生に吹き込まれた言論の自由などの精神が一々先生の癇に触れて殴られる者が続出した。
 しかし、数日して生徒会が開かれた。そして先生の出された問題を二つまで否決に終わらせた。しかし、先生たちはもう言う言葉がなかった。生徒の一言一言が先生の良心に食い込んだ。その一言一言は生徒の切なる叫びに相違なかったからである。青い空そしてなんと晴れ晴れとした明るい顔・顔。
僕たちは百姓だ。新しいものを作り出すのだ。
1954.7.29 Thursday 1954.7.29
 梅雨前線が頑強に日本列島の上に腰を下ろしている。普通の梅雨だったならとうの昔北上して、今は日さんさんと輝き、入道雲むくむくと広がりといったところであるのに。
 この頃の日本の政治もそれに似ている。依然としてワンマンの席は揺るがず、あっちからもこっちからもつつかれながらもすまんしたものである。政治家たるものはこのくらいの強心臓でなくてはならないのかも知れない。
 一昔造船疑獄も賑やかだった。なんでも代議士様がたが実地に警察をご視察のこととか。政治家たるものは何の経験でもしておいた方がいいのかも知れない。
 政治家たるものは動物から多くを学ぶのである。猫に通じたある代議士が仕事場で実験したところ成功をおさめたという。いざ仲間に危機訪れば鶴が一声鳴けば犬どもは遠吠えするばかりであるという。これは動物園にでもいって研究しておくと便利である。
 またワンマンのいう人は持ち駒が豊かでやられるとぴしりぴしりと打たれる。はたしていつまで持ち駒が続くか、相手たる野党もなかなかうまく行きそうでない。そしてじめじめしている。いやな政治だ。
1954.7.30 Friday 1954.7.30
あと一日で七月も終わりだ。月日の流れの速さに驚かずにはいられない。
私くらい時間をむやみに過ごすものが二人といるだろうか。私は嘆かずにはいられない。
千九百五十四年の半年を過ぎた今日まで私は何をしただろうか・・・学力はいかほど向上したろうか。体力は・・・何を考えても私には十分のところがない。これからはと思うのであるけれどそれがうやむやに終わってしまうのが常である。いや終わって終うと書いたのでは語弊がある。まだ死んでしまったわけではないから。だから悪い習慣は止めてよい習慣をつけなくてはならないと思っている。
1954.8.2 Monday 1954.8.2
人から良く「夏と冬とではどっちがいい?」と聞かれると私は「夏がいい」と答えた。なぜなら「泳いだり何でも自由にできるから」
しかし、これは夏の暑さになる前に冬のことばかり考えて言ったことである。夏がこれほど蒸し暑く、しのぎにくいものだとは考えていなかったようである。
どうしてだか分からないが私は夏というとき蒸し暑い夏の日を思い出したことがない。
昼寝、夕涼み、精霊流しと言ったぐあいに、涼しい風の中ばかりのことを思い出していたのだ。
今年になってこのうだるばかりの暑さと風がちょっともない真昼にじっとしていても汗がぽたぽた流れ出る真昼を考えて、あの寒い冬に合わないようになぜ日本の家が造られているかがわかった。
「夏と冬ではどっちがいい?」と他人から聞かれたら「どっちも悪い」と答えるだろう。しかし、夏も半ばを越すと「夏がいい」と言うようになるかも知れない。
我々はこの夏に身体をうんと鍛えなくてはならない。
1954.8.3 Tuesday 1954.8.3
 私の家では新聞の来るのを今や遅しと待ちかまえていて、来たら引っ張りだこである。
 家には毎日系の新聞を三種とっている。小学生用、中学生用そして、全員用。
 私用の毎日中学生新聞を読んでも面白いことが沢山ある。食糧の大増産目指すインドに世界最長の大運河ができたとか、新しく短波放送に許可が下りたとか。読者文芸には西部日本中学生の活気溢れる作品がある。
 これが更に毎日新聞となると読むところはなお増してくる。私が必ず読むのはスポーツ欄だ。プロ野球のひいきのチームが負けては地団駄を踏んで悔しがり、勝って躍り上がって喜ぶのである。新聞一枚あると結構面白い。
1954.8.4 Wednesday 1954.8.4
 二三日前知らぬ者から往復葉書が来た。
 初めは名も知らぬ者だから、私の宛名をどうして見つけだしたのかとびっくりした。しかし、すぐ分かった。それはこの人も中学コースの愛読者で私が出した試験の発表紙で見たとのことであった。
 この人は愛知県岡崎の人で、私に君の地方の方言を書いて送ってくれと言うことだった。これを夏休みの自由研究として出されるのだろう。
 見ず知らずの人からでも便りが来るのは嬉しいものだ。私も知人に暑中見舞いぐらい出さねばなるまい。
1954.8.5 Thursday 1954.8.5
 平凡なことを毎日、非凡な気持で実行することが非凡なのである。
という言葉がある。我々はこうして毎日毎日二十四時間を何の変化もなく同じことを繰り返して行くのである。太陽が出ると起き、沈むと寝て、本当に平々凡々たる生活を繰り返しているのである。
 しかし、この生活のなかに何の変化もないというのではない。わずかの変化はある。毎日毎日を高校入試の準備のために勉強することでも、テニスの練習でも、図画ばかり描いていても、それを自分自身が非凡だと思ってしているのならそれは平凡とは言われない、非凡なのである。私も私の変化のない生活も非凡だと思ってやっていこう。そうしたらどんな成果が現れるかしら?
1954.8.6 Friday 1954.8.6
 今日が来るたびに日本人は嘆かずにはいられない。今日が来るたびに世界の人々は何を思うだろうか。
アメリカ人は、イギリス人は、フランスは、インドは、中国は。
 今日はあのむごたらしいほど強烈な原爆が広島上空で炸裂した日なのだ。あの九年前の今日8.15世界で初めて残虐なる実験が行われたのだ。我々同胞が20万の人々が原爆の犠牲となり、幾人かは死に、幾人かはケロイドを負ってうめき続ける。今もってうめき続けている。
 日本。世界。世界の人々はこの犠牲者を何として見るだろうか。戦争と言ってもあんまりだ。本当にあんまりだ。
 しかし・・・終わってしまったことは取り返しがつかない。目を未来に向けなくてはならない。この恐ろしい原爆をそれよりなお強烈な水爆コバルト爆弾を、人類はまたしても兵器として使って良いものだろうか。本当に身をもって原爆の恐ろしさを知っているのは日本だけだ。日本は立ち上がらなくてはならない。世界の平和を築くために、その先頭に立って平和の旗を振りながら、進まなくてはならない。と、私は思う。
1954.8.7 Saturday 1954.8.7
 学校図書館から宇宙旅行と言う本を借りてきている。
 著者は明治二十三年生まれの原田三夫という人だ。未来にきっと訪れるであろう宇宙への旅行を多く図解して説いてある。科学的に、そして空想を入れてやさしく初心者にも分かるようにしてある。毎日少年文庫17である。
 ドイツのV2号の発明者であるブラウン博士の考えが主流となっている。今から三十年前の人でも考えなかった宇宙旅行の実現の日は案外早いかも知れないと私には思われる。
 ニューヨークのヘイドウン・プラネタリウムというところでは、月世界旅行の希望者を募集したという。何だか気が早いような話もある。
 実際ロケットの研究は一秒の休みもなく続けられているのだ。世界中の科学者が宇宙旅行の夢の実現のため、多くの費用を費やして研究に没頭し実験を繰り返しているのだ。決して私の生きているうちにできぬと言うことはできない。
 この本が空想に入るとあたかも私が隊員となって地球を見下ろすこと十万キロ、引力の働かない時はふあふあ浮いて、ロケットが故障したらと考えてぞうーっとしたりした。
 難しいところも二三あるが、結構面白い本である。
1954.8.8 Sunday 1954.8.8
 今日二時からテニスの練習があった。しかし、練習はすぐできなかった。コートの位置が変わったので砂を出すのも大変だ。水を撒いて砂を出して、ラインを引くとわずかに赤土色したコートが出来上がった。南の方はでこぼこで、不規則バウンドするから打ちにくい。砂に隠れた石に足をすりむいた。日が強く照るのでちょっとしても汗ばみ目が眩みそうになる。
 ノックを終わって練習試合をした。榊原君と私の方が相手よりよけい強かった。
 月も輝きだした頃、酒井先生が来られて指導して下さった。家にたどり着いて頃はもう八時に少々しかなかった。
1954.8.9 Monday 1954.8.9
スポーツは良い。私はどんなスポーツでも好きだ。
今日は都市対抗野球大会の最終日だった。東京八幡の決勝戦があった。第一試合の川崎釜石は川崎が10-4で勝ち、三位となった。
 引き続き行われた決勝戦はテニスの練習のために四回ぐらいか聞かれなかったが、東京一回早くも二点を先取して試合を有利に進めれば、八幡は三回井原の三点ホーマーで逆に三対二とリードした。実況はここまでしか聞かなかったが、八幡が三対二から相手に点を加えさせず五--二で勝ったと聞いた。正確なところはわからない。もし本当だとすれば、優勝旗が関門海峡を越えて九州に来るのだ。我々九州人にとって嬉しいニュースだ。
1954.8.10 Tuesday 1954.8.10
今日で夏休みも半分過ぎた。
日がたつのは順調で二十四時間ごとにきちんと一日過ぎる。ところが私の学習の方はそうはうまくいかない。宿題は半分も進んでいない。自由課題の題さえ決めかねている。
 ところが九月が来るとすまんして宿題を平気でやったように持っていかなくてはならない。
 この頃はテニスの練習があるので、疲れてちっとも勉強しない日がある。そして頭が痛く常にだるいからこれも学習に大いに影響。また高温多湿という天災がある。どうもうまくいっても勉強は二時間ぐらいだ。僕の身体が人並みにもっともっと立派だったらと思う。
1954.8.11 Wednesday 1954.8.11
 本立てに私にとって懐かしい本がある。それは研究社発行の「自動車の理科研究」と言う本だ。発行された年はわからないが、戦争(第二次)のちょっと前らしい。
 なぜ懐かしい本かと言えば、今から十年ぐらい前ちょうど戦争の真っ最中だった。私はそのころ小さかったから、もちろん字を読めるわけではない。本の中にある自動車の絵に絵本のない私は満足していたのかも知れないが、空襲があると私はすぐさまその本を持って防空壕へ逃げた。ずきんを被ってその本を下げ鞄の中にしっかり入れていた。もちろん戦争の恐ろしさも知らない私だったから、その本一冊持っているだけで満足して、悠々と飛ぶ敵機を防空壕の穴から眺めたりしていた。
 この本を見るとき私は幼かった頃のことを知らず知らず思い出すのだ。大変痛んでいるけれど今の私が読んでもなお面白い。
1954.8.12 Thursday 1954.8.12
 私はクイズといったようなものは好きだ。よく新聞広告など見て投書もした。ナショナルの?ライオン歯磨きの空の旅などいくらでもある。しかし、当たることは大変希でナショナル電球が一個当たったぐらいなものだ。
 また私は誰でしょうなどのクイズ番組も欠かさず聞いている。私は誰でしょうなんかでは私が考えても第一ヒントで、七つぐらいは当たるときがある。また中学時代なんかのクイズの問題なんかも出したが、まだいくら精密に見ても誌上に現れていない。

 テニスの練習も今日で終わりだ。四時から八時ごろまで毎日行っていたが、大変疲れる日が多くて、勉強もよくできない日があった。これから頑張って勉強を正常に戻さなくてはならない。
1954.8.13 Friday 1954.8.13
 今日から盆だ。私の家でも例年通り提灯を下げて迎え火をたいた。仏壇には盆菓子を並べた。
 真の信仰心から生まれたというよりもうほとんど形式的だ。迎え火をたく。何を迎えるためにたくのか。盆には金の要ることが多いから貧乏神でも迎えるのか。
 盆にはこう言うところもある代わり、いいところもないではない。  
 一年顔を見なかった親戚の人々が盆にはいらっしゃる。遠いところで文通もしていない人でも、つい近くの人でも、こんな人に触れて、この人達を通してその地のあらましを知ることもできる。叔父が兄弟がそれぞれ土産話を持って帰ってくる。
 昔の貧農は盆と正月しか白飯が食べられなかったという。また休まれるのも藪入りとか言う正月と盆しかできなかったという。昔の人々にとっては、どんなに楽しいこの日だったに違いない。
 こう考えると私たちがあまりに幸福に思われる。今では形式化していることも昔は庶民がこの唯一の楽しみである盆をより楽しく過ごすためのものだったかも知れない。やはり盆は長くこの世にあってよい行事だ。
1954.8.14 Saturday 1954.8.14
 墓参りに行った。
 家の墓は晴雲寺にある。七時頃だったからもう暗かった。盆だけあって寺は賑やかだった。墓の前に提灯をぶら下げて花火もした。
 それから、私以外の人は本光寺へ行かれた。私は自転車だったので一人で板倉に行った。板倉へ行くと直人叔父さんが来ておられたが、お嫁さんだけおられた。叔父さんはボート乗りに行かれたとか。仏様に参ったり話をした。そして周治叔父さんと碁を打った。しかし、完敗に終わった(頃、本光寺に参って家の人が来られた。そして、直人叔父さんも帰って来られた)。直人叔父さんとそれから二回打って二回とも、二目、二十二目と負けてしまった。
十時近くになったので、私たちは帰った。
1954.8.15 Sunday 1954.8.15
 直人叔父さん夫婦と忠叔父さん親子が遊びに来られた。直人叔父さんと昨日の雪辱戦たる碁を二回した。一回目は17目で勝ったが、二回目はまったく完敗に終わった。父とも二回したが、父が二子で、二回とも勝った。忠叔父さんと将棋もしたが八5王と詰めて勝った。それから昼寝をした。
 精霊流しを見に行った。「ナッマイドー」のかけ声も勇ましい。それぞれにロウソクを灯した切り子灯籠や提灯が船いっぱいに積まれて、人出も大したものである。その人混みに精霊船が突進するとどっと人並みが崩れる。
 海はちょうど満潮で波が荒く、猛島の境内で見ている人にも波飛沫がかかった。すでに流された船が提灯に輝く波に隠れたり出たりしている。日本人もだんだん贅沢になってきた。この何万円という金を流して何の利益があるのだろうか。
1954.8.16 Monday 1954.8.16
 今日、直人叔父さんが帰られた。私にも盛んに崎戸に来いと言われたが私の宿題を考えると行けそうもないし、また18日は学校招集日だ。だから私のすぐ上の姉と一番下の弟が行った。来年は必ず行くと言うことにした。
 台風5・6号が近づいてきたようで空にはどす黒い雲がある。甲子園の全国高校野球大会もいよいよ白熱化してきたが、九州勢はまったく振るわず、大会三日にしてその姿は消えた。涙に来年こそはと誓ったに違いない。私も高校入学試験の関門がある。来年の夏、高校生として崎戸に行けたら幸いである。
1954.8.17 Tuesday 1954.8.17
 私はこの頃七時か八時ごろ起きる。
 私は前の日の十時からあるラジオ会社の講座を受けている。だからたいてい寝るのが十一時にはなる。それで十二(1)、一(2)、二(3)、三(4)、四(5)、五(6)、六(7)、七(8)という風になって七時まで寝ていると私たちの睡眠時間に足りるのである。
 それなら昼寝をすればと考える。しかし、私の身体は妙なもので昼寝するとしただけ寝付かれない。また寝付きが悪い。それでどう早く起きたいと思っても七時八時になってしまう。
 何とか切り抜け策はないものか。
1954.8.18 Wednesday 1954.8.18
 今日は台風だった。
 始終ガラス戸が震えて、ガタンガタンといっていた。木々は倒れて枝が土に着きそうになった。雨も少し降った。ちょうど二十日ぶりぐらいだ。
 朝から連絡がなかったので学校へ行った。風が真正面から私の行く手を遮るように吹き、木々はそれをあざ笑うかのようにざわめいた。
 町の曲がり角が危なかった。風が渦を巻いてどっちから吹くのか分からないのだ。私は傘をつぼめて曲がった。誰も行く者がなければと思ったが、風にぶっつかりながら誰でも学校へ急いでいる。
 学校まであとちょっとのところで、向こうから来る女の生徒が見えた。それですぐ学校はないんだなと第六感で感じたので、引き返した。そして電話のある者に聞いてその考えを堅くした。
 午後新聞の号外が来た。もう各地に相当被害がある。
1954.8.19 Thursday 1954.8.19
 うちに来ていらっしゃる善子叔母さんの婿さんである古瀬叔父さんが来られた。子供の智ちゃんが大はしゃぎで、畳にどたんどたんひっくり返ったりしていた。叔父さんが冗談に有家に帰ろうと言われるといやいやとかぶりを振る。お土産にキャラメルを十個持ってきてくださった。碁も教えてもらった。
 崎戸に行っていた啓子姉さんが帰ってきた。高校三年だが子供のようにぺちゃくちゃ崎戸のことを大声で話すから食卓も大賑わいだ。
1954.8.20 Friday 1954.8.20
 今日郵便局へ振替をしに行った。振替を出した経験がないので、父に良く習って行った。振替用紙を貰って加入者名や口座番号などを書いた。日が背に当たって汗がじわじわ出てきた。ようやく書き終わって葉書一枚とその金を払って外に出た。
 今たけなわである全国高校野球大会の優勝校と準優勝校をあてるクイズが三菱電機からあったので、それを出した。優勝中京、準早実と書いたが早実が負けたので高知と書いてもう一枚出したが、はたしてどうか。
1954.8.21 Saturday 1954.8.21
 朝から今日学校招集だと連絡がなかったが、うちの他の者は全部行く日だというので僕はうちの前を通る者に注意していたら、鍬を持ったものなど通りかかったので、自分も行った。
 今日は運動場整備の作業だった。私達はテニスコートをした。浅く土を掘り返して赤土を入れる作業だ。土が硬いので鍬の先が三回ほど取れた。ときどき石に当たってかちんという。土の粉がにじみ出た汗について顔が汚れたり足の上の方まで土が付く作業は一時間で終わった。
 家で高知の負けを知った。中京は勝った。静岡と決勝だ。
1954.8.22 Sunday 1954.8.22
 今日は午後ずうっと昼寝した。中京静岡の決勝戦も最初の方と一番最後にちょっと耳が覚めて聞いた。3-0で中京の優勝だ。
 それからまた眠った。五時頃ようやく目が覚めて風呂の水汲みをして沸かした。鬼山(書店)の人が中学コースを持ってこられた。
 今日はあまり昼寝が長くて勉強もしなかったから書くことが少ない。
1954.8.23 Monday 1954.8.23
 宿題の作文を書こうと思ったが本当に書くものがない。書くものはあたりに転がっていると言われるがはたして・・・
 去年の夏休みのことを思い出した。去年書いたのは三郎と熊だった。あれは夜遅くまで起きていたときだった。ふとんに寝たがなかなか寝付かれないのでどうせ書かなくてはならない作文の案を考えて、ふと二三日前から考えていたことと良く合うような作文の案が案外簡単にできるので善は急げと飛び起きて書いたのだ。
 私は良くこんなことを経験した。寝床で文章などを練ると本当にすらすらの名文?が、出てくるのである。それを翌朝書こうと忘れまいと思っても必ず忘れてしまって、主に表そうとしたところがポカリポカリ浮かんでいるだけなので、かえってそれらに気をとられて頭の中で考えてような下らないものができるのだ。
 私は、こんな経験があったので、すぐ飛び起きて書いたのだ。ところが今年はいくら案ができても飛び起きて書くわけにはいかない地理的な条件がある。また、日にちがこんなに迫ってくると焦りが出て、うまく行かないものである。
 前に新聞の碁の観戦記に、昔のように時間を考えず打っていたときと今のように制限された間に打つのとどちらが立派に打たれるだろうかと書いてあったのを思い出した。
 時の圧迫というものは苦しいものだ。
1954.8.24 Tuesday 1954.8.24
 私はよく「世間知らず」と言われる。本当に世間を知るということは大切なものだ。
 社会というものは私のような貧弱なる知識から割り出す公式で成り立つものではない。どれほど複雑だか、その底を見たことがないから、こんな状態で満足しているのだ。
 ある自分の位置で大変満ち足りた生活と思っている人が多い。人間の欲には限りがなかろうけれど、ある程度の欲を出して貰いたい。あまりにも流れ任せではなかろうか。いま日本は危機にある。貿易不振が最も大きい問題だろう。この頃女子工員の社会への目覚めや黄変米などで日本国民の大部分のものが自分の意見を発表するようになった。しかし、その他の人はどうだろうか。新聞も読まず、ラジオも聞かない人がありはしないだろうか。成り行き任せほど損なものはない。いくら陰でぶつぶつ言ってもそれが何の価値があろうか。それが世論として取り上げられるだろうか。日本人は自分の意見を率直に発表する習慣をつけなくてはならない。目を広く世界に向けなくてはならないと私は思う(これは本当にまとまりのないバカな文)。
 私は人の小言に、その地位で満足しきった進歩のない人の小言を聞き、怒られながらもその人を冷笑し、相当な人格者でもなく人を冷笑する自分をまた冷笑する。
 早く世間知りになりなりたいと思う。反対にいつまでも少年時代の世間知らず時代でありたいと思うのは十四歳という歳のせいだろうか。
年月日 曜日 日記本文
1954.8.25 Wednesday 1954.8.25
 今日は三年一組の学級招集日なので、一時間早く七時に起きた。
 僕が学校に行ったのは早くもなかったが、あまり来ていなかった。そうこうしている間に十人ほど増えた。松崎先生はなかなかいらっしゃらないので、プロレスリングの話に花を咲かせた。力道山がもう一人いたらとの話はレスリングの真似を加えていよいよ弾んだ。
 敵機来襲、すわ一大事と大急ぎで部屋に入った。欠席者が21名ほどいた。ヘリコプターの来る話などあって、いよいよ舞台は最後通例の掃除となった。
 縄たわしと水を使いに使って掃除した。松崎先生も上半身裸下半ズボンのいでたちで大いに奮闘された。ところが、人工雨が降り出した。僕たちの所ではない。その真下である三の四にである。バケツ十数杯分の水が今や瀧のごとく私たちの真下に降り注いでいるのだ。
 私はその名勝を訪れた。見学者から雨が降っていると聞いて、葉よりこぼれる雫の感覚のひろいものと思ったが、あに計らんやそれはまさに豪雨であった。
 それで急いでぞうきんで上の水を吸い取ったが、バケツ十数杯の水は三杯ぐらいしかなく、人工雨になってしまっていた。
1954.8.26 Thursday 1954.8.26
 親戚同士、友人同士が集まると言うことはいいことである。
 今年もうちには多くの人が来られた。また私ども一家も行った。
 子供で余所に行かなかったものは今年は私一人だ。だから来年こそはと意気込んでいる。
 今日も親戚のものが誕生祝いをするというので行った。丸一日トランプや花札などして遊んだ。こういうことにより互いに相手の家庭に触れ、相手を知って交際の上に人格を磨かなくてはならない。出されるごちそうは遠慮なくいただいた。遠慮なんか親戚同士は通用しなくなってもいいはずだ。
 知人親戚の輪を更に進めて町市などの地方公共団体すべてが仲良くならなくてはならない。仲良くなって相手を知り、仲良くする仕方を覚えることは大切なことだ。私たちの日本がもし世界に仲良くしようと呼びかける時それはどんなにか役に立つか知れない(馬鹿げた空想?)
1954.8.27 Friday 1954.8.27
 私は時間の使い方が下手だ。朝は遅く起きるし新聞が来るとそれを隅から隅まで読むので、すぐ二時間はたってしまう。そして昼からは人並みに昼寝をする。いや人並み以上である。そして勉強は晩にするものと決めてしまう。それでも勉強し始めるのは七時半くらいからだ。そして今日のようにふいに映画なんかに行くと勉強する時間というものがほとんどない。もう夜のラジオ講座は止めて朝早く起きてやらなくてはならない。朝から勉強すると丸一日うまくいくのである。
 今日行った映画は「東京物語」だった。なんとなくしみじみとした映画である。父・子・孫と三代の姿をまじまじと目のあたりに見せてくれる。
 大きくなると子は親から離れていく。もう七〇ぐらいの老夫婦が東京の子供のところに遊びに行く。そして数々の矛盾に合う。そして自分の家に帰ったとき、夫人の方が急死する。最後の方の一言一言に涙を流さずして聞くことができない。
 出演は一流スターの原節子や山村聡、笠、三宅、東山、香川といった面々だ。
1954.8.28 Saturday 1954.8.28
 早いものだ。もう夏休み中の反省をしなくてはならない時期になってしまった。
 今年の夏休みは時期として大切な夏休みの一つであったが、この四十日あまりをほんとうに有意義に過ごしたとは言えない。私は今年は一回も余所に行きもしなかった。といって宿題が多くできたわけでもない。ただ自分の家でむやみに時を過ごしたばかりだった。
 私のした宿題と言えば日記、地図制作、スポーツルールといった位なものだ。他の者が宿題を熱心にやっているのを知るとただ後悔の念しか浮かんでこない。私の消極的なやり方が悪いのだ。四十日という日数にごまかされて明日、明後日と延ばしてきた自分が悪いのだ。
 自分の反省は明日の進歩を生まなくてはならない。私も男だと腹の底にたんとしまっておかなくてはならない。
1954.8.29 Sunday 1954.8.29
 今日願望かなって「小百科事典」を買った。
 平凡社発行で1300円だった。私はパンフレットや新聞広告などでこの本を知ったので、もう何回も本屋に行って内容の検討をした。そしてさすが事典の平凡社が自信を持って勧める価値のある本だと思っていたのが、今日この運びとなったわけである。字はあまり大きくないが、私には読むのにそう支障はない。
 きのこ、魚鉱石などの美しい天然色の写真などもあって、この事典を一層充実させている。
 早速多くのことを引いてみた。そして「阿部愛書」の印と買った月日を書いた。私がこれからずうーっと大きくなるまで、この本はいつも座右の本として、私に知識を与えるだろう。
1954.8.30 Monday 1954.8.30
 今日は中学コースの模擬試験の締め切り日だ。
 今月の問題は相当難しいので簡単に解くことはできない。早速小百科事典を使ったがフェーリング溶液たる私にとって今最も必要なものが載っていない。しかし、今日が締め切り日だ。えぇーいどうでも勝手になれと言う気持になって、ブドウ糖---フェーリング---泡が立つと結んだ。私は何の試験も相当自信を持って出すのであるがその結果が芳しかった試しがない。今度のもそうであろう。しかし、出したって悪いことはない。なんの点が悪いから出さぬと言うようにはなりたくない。返って今度こそと勇気が出るものである。
 今日はそういう模擬ものに70円あまり使った。郵便切手代が50円そのほか手数料代などでこの値が出る。
 人間すべてがこうだとは言わないが、本当に最後の土壇場になって本当に真剣になるのである。今日が締め切りだとなると普通の五日分くらいやってしまうのである。これに共通するかは知らないが偉人の言葉にこんあのがあることを覚えている。
「人間は貧乏のどん底において自分の最大能力を発揮する」と。
どん底というのがこの締め切り寸前に相当するのではなかろうか。
1954.8.31 Tuesday 1954.8.31
 とうとう夏休みも今日で終わりだ。
 長かったようで短かったし、短いようで長い四十日間であった。私のしたことをここに書くのではあまりに貧弱過ぎる。この四十日間の一分子を真剣に原子として動いていたら、物質である四十日がどんなに有意義に動いたかも知れない。結局は一日一日の一時間を私がほんとうにうまく動かなかったからだ。
 高校入試が目前に迫った頃あわてなければならないのは私のようなものを言うのであろう。
 二学期も明日からだ。この夏休みを無意義に過ごした私は二学期こそはと信念を燃やさなくてはならない。
 日記をつけるということは、本当にためになることだ。こうして一日一日を反省するところに私の進歩があり人格をより向上させるためにどれほど役に立つかわからない。
 夏休みよ、さようなら!!もう来ないんだね・・・・。

 



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