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筆者、23歳、新社会人当時の「MyDiary1963(Oct.31,1963-Apl.19,1964 」の連載を始めます(2004年4月13日)
日記の部屋1963ーその2-01~1964(index) /Diary1963ーNo.2-0~1964(index)

ここには、「MyDiary1963(Oct.31,1963-Apl.19,1964 」を掲載しております。

(2004/4/13~ )。

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日 付index

1963 年10-11月










10/31



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掲載日
(1963/10/31-11/8 分..........2004/4/13)
(1963/11/9-11/22分……2004/4/15)
(1963/11/23-11/29分……2004/4/16)


1963年12月







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3
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19









29






(掲載日1日から19日…2004.7.23
29日から1月7日…2004.7.26)

1964年1月










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7

9


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12-2



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25

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12月29日から1月7日…2004.7.26
9日から12日…2004.8.12
15日から17日…2004.9.7
22日から27日…2008.1.7)

1964年2月




























16
17



21
22
23

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(掲載日16日、17日…2005.1.10
21日から27日…2005.1.12)

1964年3月












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24
25

27








(掲載日6日、8日…2005.1.13
9,10,12,13日…2005.1.17
14,15日……2005.1.21
17,18,19,20……2005.1.28
22.24日……2005.2.1
25日……2005.2.2
27日……2005.2.3)

1964年4月










1
2
3

5
6

8

10
11
12
13
14



18
19/19-2
あとがき












掲載日1日、2日3日…2005.2.3
5,6日……2005.2.8
8,10,11,12,13日……2005.2.9
14,18,19日……2005.2.10)


**事 項index**

新しい日記へ
詩集を編む
歓送会
力衛ご夫妻のこと
留学の夢
大災害発生
三池炭鉱災害
日曜出勤
仕事にハリ
愛子さんの悩み
力衛先生と歓談
至上の価値:生命と
保安について
忙中の閑
マラルメ詩集
憲法動態の分析
総選挙
人間社会について
Sさんへの手紙
ケネディ暗殺
ケネディ暗殺を悼む
ケネディ暗殺の影響
オズワルド暗殺
鉱山保安想定問答集作成
歴史的瞬間に生きること
国会委員会終わる
ダンス・パーティへ
I嬢と会う
師走ののどかな一日
自由時間のない勤務状態
朝日ジャーナルのケネディ暗殺特集
ロシア文学短編集を読了 島原に帰省
新年を迎えて
碁のこと、トランプで遊ぶ
KKさんと話す
島原最後の夜
帰京
ボヴァリー夫人、読了 局長異動の報道 I嬢と初デート
新局長のお話
I嬢、来訪
家内旅行、幹事
小林 直樹先生の「日本における憲法動態の分析」読了 課 内旅行で天神平にスキー
鉱 山保安法改正作業に従事
胃腸の調子悪し
課 長辞任
姉を東京駅に迎える
I嬢とデート
I嬢のためにHamletのレポートを書く ベー トーヴェン書簡集、読了



************

月 日
曜 日
MyDiary1963日記本文
事 項index
1963.10.31

1963.10.31

 

 赤い顔をしたお前 は今夜から僕の日記だ。お前は美しく装っていて何となく僕の心をひきつける。今夜から僕らはいい友人になろう。僕は出来るだけ正直に僕のことについてお前 に話すことにする。面白い話もあれば、つまらない話もあるだろう。だが、嫌な顔をせずに聞いて欲しい。僕という孤独な魂を持った男にとっては、自分自身に ついての話を、いつでも僕の好きな時に、嫌な顔一つせず聞いてくれる友人が必要なのだ。

 お前が今朝、店頭 に並べられていた時、お前はこんな運命を予期していなかったに違いない。こんな損な役回りを夢想だにしていなかったことだろう。

 お前の赤い美しい 顔。白い美しい肉体をもってすれば、もっと素晴らしい張りのある運命を期待してもおかしくはなかったはずだ。お前はピチピチと若々しいBGの腕に抱かれる夢を見なかっ たろうか。美しいBGでいっぱいのあのイイノビルの地階の売り場にいて。

 だが僕はお前を一 目見たとき、何となくウマが合うような気がした。僕の気持ちがわかって貰えるような気がした。そしてある種の出会いの霊気をさえ感じたのだ。お前の中に隠 されている何か偉大なものへの情熱とでも言うべきもの(それをお前はまだ気付いていないのだが)、その情熱に僕は火をともしてやりたいと思ったのだ。

 そうしたものへの 共働を通じて僕らが全き理解へと達し、ある種の偉大なものへと接近して行けたらどんなにか素敵だろう。僕らはまだ友情の芽生えるきわめて初期の段階に立っ ている。我々の友情が、今後の永い風雪に耐えていくように、僕は正直にお前に次のことを打ち明けておこう。

 お前はすでに僕に とって第一の友人の座を約束されている。しかし、僕はお前を最後まで僕の第一の友人としてしか扱わない。僕が必要とする限り僕はお前にさえ僕のことを隠し 通すだろう。第一の友人であることと、このことは決して矛盾しない。そして、第一の友人である快適さはそれによって少しも殺がれるようなことはない。

 友情とはそうした ものなのだ。人間の隅から隅までを互いにぶちまけ合わなければ友情は成立しないと言うなら、そんな友情は真っ平だ。自分自身でさえ嫌になるようなところの 多い人間のことをそう隅から隅まで穿り出して語ることが一体何の役に立つ。それは美女を描写するに性器の隅々まで描き出す必要のないのと同様である。

 僕は出来るだけ正 直に僕自身についてお前に語りはする。しかし、屁のひり方までお前に活写して見せようとは思わないということだ。そのほうがお前にとっても望ましいことだ ろうし、僕らの友情にとっても、より長続きする方途というものだ。

 お前も僕の提案に 気持ちよく同意してくれることだろう。僕が上に述べたような留保をしておきたかったのは、要するに、お前にはいつも正直でありたいと願っているからに他な らない。完全に僕に関することは全部話すなどと言って陰に隠れてこそこそやるよりは、最初から打ち明ける必要のないと思うことは、黙っておくと言ったほう がどれほど正直なことだろう。そのほうがどれほど、公明正大に自分自身について語れることだろう。

 とにかく、今夜か ら僕らは新たな友情を築いていかなければならない。僕という人間は決して付き合いやすい人間ではない。お前も色々と気苦労の多いことと思う。我慢できるも のであれば許してくれ。

 いずれにしても、 僕はお前が他の運命を歩んでいて得たであろう様々はものよりも、より値打ちのあるものをお前に与えたいものと思っている。お前を決して失望させたくない。

     午後1050分 K.A

 


 


 

 

新しい日記へ
1963.11.4


 

1963.11.4(月曜日)晴れ

 

 昨日三時半頃まで 家にいて詩集を編んだ。以前大学ノートに12ほど集めていたものに最近の作を3つほど足して、この日記帳と一緒に買った赤い表紙のFancy Noteに書き移し たのである。すでに数編の詩には、美しい挿絵を入れた。早く僕のこの詩集をいっぱいにしたいものである。そうしたらどんなにか僕の慰めとなることだろう。 この詩集を聞きさえすれば、そこには僕の夢がある希望がある情熱がある悩みがある憂いがある。僕はたちまちにして詩の世界引き込まれ、この世の一切のわず らわしさから解き放たれる。

 僕にはその楽しみ がとてもよくわかる。わかるからこそ、僕は詩を書くのである。詩は他でもない僕の心の慰めである。慰安である。僕の心は詩によって救われ、僕の魂は詩に よって洗われる。詩句を練る瞬間ほどに僕の全エネルギーが一事に集中されることはない。詩の一句を求めてさまよう時ほどに苦しみ多くかつまた楽しいひとと きはない。

 僕の詩はまだ若々 しくてロマンティックなものが多い。魂の悩みをえぐるような詩句はまだ僕の詩にはない。

 僕は、しかし、強 いて僕の詩の中にそうした詩句を持ち込む必要はないと思う。僕の若々しい魂が素直に求めているものを詩にしさえすればよいと思っている。そのことによっ て、僕の魂が十分に慰められるならば、不満はないのである。詩の中にまで敢えて現実を投影する必要なない。現実を全然投影しないで詩を書くことは不可能だ が、それは僕の詩魂で濾過し、屈折せしめた現実の投影に過ぎない。そうした現実であれば、僕にとっても詩にとっても無害である。

 僕の詩魂が、枯れ ないように、絶えず詩を作る努力を惜しんではならない。

    午後936分    K.A

 

 


詩集を編む
1963.11.7

1963.11.7(木曜日)

 

 昨夜寺本の歓送会 をやった。山下先生も久し振りに出席されて、祐天寺の≪万喜& NestedGreaterGreater;というテンプラ屋に同士が10人ほど集まった。思わず話が弾んで10時半になるのにいくらもかからなかったような感じがした。

 その後渋谷に出てBon Soirで閉店まで飲ん だ。 Bon Soirにはつい先ごろやったClass会のときも行き、しかも顔ぶれがその時とあまり変わらなかったから、バーの女の子も覚え ていて、「あら、クラス会の人たちね」とか、「又クラス会?」とか、愛想よく迎えてくれた。“ふさ子”とか“広子”とか名前も覚えて少し馴染みになった。 そんなわけで下宿に帰ったのは、午前1時に近かった。

 寺本のオヤジさん は寺本熊本県知事である。彼は日本銀行に入行し、今度、福岡に出ることになった。その歓送会をやったわけだ。23貫の体躯は堂々としていて貫 禄がある。なかなか勉強家だし、酒も強い。みんなから色々と激励されて、彼も「頑張ります」と張り切っていた。好漢、必ずや出世することだろう。

 ところで、 ≪万喜 ≫での話。僕が力 衛宅にいることを話すと、山下先生は鈴木さんを ご存知とのこと。学生時代、本郷の近くの喫茶店に山下 先生がお行きになるといつも力衛さんが来ていらっしゃる。変だなと思っていると、とうとうその喫茶店のマダムと結婚されたという話である。

 歳月は人を変え る。おばさんには、その当時の感じは残っていない。そんなことをしていらっしゃったようには少しも見えない。だから、最初その話を聞いたとき随分意外な感 じがしたものだ。しかし、ご夫婦にとってみれば、その頃が懐かしい恋愛時代なのに違いない。誠に夫婦とはいつ、いかなる縁で結ばれるやも知れないのであ る。

 ところで、明日の 夕刻、力衛氏はフランスからお帰りとのことである。少々期待に胸が弾む。おばさんの胸中は察するにあまりがある。

 


歓送会


力衛ご夫妻のこと
1963.11.8

 

 
1963.11.8
(金曜日)晴れ

 

 ぼくは今日大決心 をしようと思う。これから来年の7月までの約9ヶ月間をひたすらフルブライト留学のために打ち込むのだ。今は結果がどうなるなんてこと は考える必要はない。要するに自分の力を賭けてみるのだ。うまくいったときはそれでよい。うまくいかなかったときは諦めればよい。たとえうまくいかなかっ たとしても、9ヶ月間の努力は何らかの形でぼくの内に残るだろう。それはぼくにとって何もしなかったの と比べれば大きな収獲である。

 とりあえず、ま ず、フルブライトの試験内容について調べておかなければならない。

 次に、その内容に 即した勉強を始めるのだ。目的のためには僕の時間的、経済的すべての余裕を注ぎ込んでよい。また、注ぎ込まなければなるまい。英語の全般的力を養うのが何 よりも重大であると思われるので、出来れば、Tape Recorderを買おう。毎日欠かさず、英語を読むことにしよう。

 僕の境遇は勉強す るのにそれほど恵まれているとは言えない。しかし、かなり恵まれている。職場は、それほど忙しくないし、下宿は勉強さえする気になれば十分やれるだけの環 境が整っている。

 今更言うまでもな いが、これからの青年はすべからく国際人でなければならない。フルブライトで一年間米国に留学してくるのは決してぼくの一生にとってムダなことではない。  

 一大発心して、こ の計画をうやむやに終わらせたくないものである。努力のしようによっては、可能性のある計画である。 やらねばならない。

留学の夢
1963.11.9

1962.11.9

 

災害日本!

何と響きのいい言葉 ではないか。

午前04分、NHKは特別放送を行い、今夕起 こった二つの大災害ニュースを報道している。

一つは九州の三池炭鉱で起こった戦後最大の鉱山災害、すでに死者は177人を数え、坑内に閉じ込められ安否を気遣われている労働者が160人以上いる。

 もう一つは、今夜945分頃横浜& horbar;鶴見間で起こった 貨車、横須賀上下線の三重衝突、死者は80人を越え、まだ被災者の実数さえ正確にはつかめていない。

 これはいったい天 災なのだろう か、人災なのだろうか。特に三池の鉱山災害については、僕の配属されているのが鉱山保安局であるだけに、一通りではない関心が湧く。僕は今年の保安年報の 序文を局長に代わって書くにあたり、最近の災害率の漸増傾向を、急激な合理化に対する保安態勢の遅れに原因しているのではないかと指摘した。ところが、そ ういうことを書いてはまずいと言われもっと穏健な毒にも薬にもならぬような字句と入れ替えさせられた。

 ところで今夕の災 害である。はたして僕の指摘したような原因ではなかったのかしらん。何といっても戦後における最大最高の鉱山災害である。鉱山保安局の一員として責任を感 じる。

 いつ何時、このよ うな大災害を 起こしかねない鉱山がまだ日本には無数にあるのではないだろうか。とにかく僕が配属された局でその年にこんな大災害が起こるとは皮肉な巡り合わせだけれ ど、これを機会にぼくももう少し鉱山保安行政に身を入れねばならないと考える。この事件は局長の進退問題を生むかもしれない。明日は、日曜日であるけれ ど、当然出勤しなければなるまい。

一 日も早くこの災害の原因を究明し、再び、こうした災害が起こらないように保安態勢を確立しなければならない。今年は災害防止五カ年計画の初年度である。し かし、今度の災害はそうした机上の計画に対する痛烈な警鐘である。実質的な予算を伴わぬ単なる机上の計画を立てただけで、保安がうまく行くという発想法そ のものが間違っている。それにしても、今日の保安局の空気は何とのんびりしていたことか。悪く言えばたるんでいたのだ。明日からはそうは行くまい。何かピ リッと引き締まったものが職場の空気の中に感じられることだろう。感じられないとしたら、救い難い。坑内の泥沼の中で、苦悶しながら死んでいった180人に及ぶ霊魂は救われま い。

 

 さて、横浜の方は98人の死亡が確認され、100名を越す負傷者がいる。原 因は踏み切りでトラックと貨物列車が衝突し、そこに横須賀線の上下線が突っ込んだものらしい。

考 えてみればいつ何時我々が通勤の途中でこんな大事故に遭遇しないとも限らないのである。誠に恐るべきことである。どだい東海道線のごとき、列車の頻繁に通 る線路に踏み切りがあるのがおかしいといえばおかしいのである。今日の死傷者の中に僕が入っていてもおかしくないことを思えば背筋がゾッとする。

もっとも、今日わずかに生き延びたに過ぎず、又明日からの危険があるのだが。(午前042分)


大災害発生

三池炭鉱災害
1963.11.10

1963.11.10晴れ

 

 電報で眠りを覚ま された。「10ヒスグシュッキンセヨ ホアンキョク」

 昨夜「明日は日曜 日だけど当然出勤せねばなるまい」と日記にも書いたぐらいだから電報を受け取っても少しも驚かなかった。

保安局では、行ってみると緊迫した空気が流れ、昨夜から局長以下が徹夜して対策に大童の 様子であった。ニュースが入るたびに死亡者の数が増え、ついに日本の鉱山災害史上第二位の数を越え、その夜の11時近くになって、452人となった。一酸化炭素中 毒は後にも残るらしく、重軽傷者の中からまだ死者が出る可能性があり、この数はもっと増えることが予想される。

 いずれにしても現 代においてさえ鉱山においてこれほどの大災害が起こり得るとは予想だにしなかっただけに僕は色んな意味で考えさせられた。

 この452人 という死亡者は昨年の全鉱山災害の死亡者数とほぼ比肩する数である。昭和に入ってから日本では今度のような大きな災害は起こっていない。保安技術は大正年 間に比べれば格段の進歩を遂げているはずである。三池の三川坑は全国一の出炭量を誇り保安設備も全国で最高の部類に入っていた。そうした山で今度の大災害 である。保安とはいったい何であろう。保安局は今まで何をやって来たのだろう。今までのやり方でいいのだろうかと次々に疑問が湧いてくる。三川抗であれほ どの災害が起こり得るとすれば、あれ以下の保安設備しか持たぬ山が無数にある現状では又同様の大災害が起こらぬとは断言できないのである。

 又鶴見の列車三重 衝突でも死者163人で、三河島の160人を上回った。

 今日ほど生きてい るこの重みを身近にしみじみ感じたことはない。死んでしまった者がだまっている以上、我々が何かをやらなければならないのだ。我々は、死をわずかに免れて 今日生きているのだ。この生の重み。生きることの尊さが僕にはよく分かる気がする。


日曜出勤
1963.11.15

1963.11.15

 久し振りに早く帰宅した。早くといっても午後10時過ぎだ。連日11時過ぎ、そのうち一日は午前1時 過ぎ、まさしく日曜日以来、三池炭鉱三川抗爆発事故対策に追われて、早参遅退の毎日であった。でもハリのある日々であった。こうした歴史的時点に立って連 日の動きを逐一追える立場にあるということは僕にとっては非常に貴重なことだった。しかも、自らも微力とはいえ、資料作りに参画し、対策作りに頭をひねる のだ。楽しい経験でもあった。課内の空気がこれで随分まとまった感じがする。雨降って地固まる“とは良く言ったものである。

 今度の災害を契機 として鉱山保 安体制上の諸種の欠陥が熱心に討議されるような空気が課内に醸成されつつある。大局的な視点に立って鉱山保安体制のあるべき姿をとことんまで追求するにこ れほど適切な時点はかつてなかったと言ってよい。この機会を逸すれば、永久に腐卵を抱えた体制を持たざるを得なくなる。僕の一番若々しいbrainから清新なidea,斬新なplanを生み出したいものと思 う。

 要するに視野を出 来るだけ広く 持ち、出来るだけ慎重に客観的に物事を見ることである。単に鉱山保安というものに集中してしまった視野はこの際有用ではない。現代と言うこの日本の状況の 中で、保安体制はいかにあるべきか。これが問題の要点である。現実を無視した対策は無意味であり、ヴィジョンを欠いた対策は改めてこの時点において取り上 げる必要はない。社会制度、経済制度、人間の心理的状況、政治的状況、その他もろもろの複雑な与件の中で、最も優れた鉱山保安体制の樹立こそ我々に課され た課題である。仕事にハリを感じ始めたこと。これは僕にとって大きな変革である。午後11時。K.A.


仕事にハリ
1993.11.17

1963.11.17(日曜日)

 Got up in the afternoon.

  今日は洗濯をする予定だったがとうとう出来なかった。洗濯しようと思って降りていってみ るとSoapがなかった。のこのこ買いに行き出したのがもう四時過ぎだった。下宿のおばさんや愛子さ んが買い物に行く途中だったので一緒に行った。三鷹センターで別れて愛子さんと一緒にshoppingした。

 僕は碁会所に行く のでセンター の前あたりで彼女と別れたが、別れしな彼女色々と悩みを打ち明けてくれた。<こんなこと人に言っちゃだめよ>という言葉から大体の内容も察せられよう。他 人の家に間借りしている辛さを細々と話してくれた。誰も話す相手がいないらしい。里に帰ってもそんな話を持ち出すと勝手に結婚しておいて、とやられるらし い。ご主人はのんびりしていて……と彼女は言うのだが。とにかく、小姑や婿の兄弟のいる家庭に単身乗り込んできたも同然の情態に彼女は置かれているらしく て、僕も同情を禁じ得なかった。

 碁会所に行った関 係で10時 半頃帰ってきた。

 力衛先生とそれから12時ごろまで色んな話をした。面白かった。先生もダンスが好きとかで、立大総長の松下先生 や、宮沢俊義先生、その他諸々の先生とダンス交友伝のごときものをうかがった。

 また、誤植の話で は、森田たま女史が、「夕立となった、わたしはあわてて大きな木の陰に身を隠しふとい雨足を見詰めていた」と書いたつもりが、本では雨のところが両となっ ていたというのが面白かった。

ところでたか子さんは明日帰ってくるそうである。(午前125分)


愛子さんの悩み

力衛先生と歓談
1993.11.18

1963.11.18(月曜日)

  人間にとって至上の価値とは生命以外の何ものでもない。ぼく自身生命を他の何ものにも増して大切なものと考えている。ここから又ぼくの他の人々の生命への 尊敬が生まれてくる。この世にこうして生きていることの中にこそ、我々にとってすべての意義あるものが含まれているのである。自分自身の生命への熾烈な願 望がなければ他人の生命への尊重は生じてこないのである。

三池の炭鉱災害で450人の人が死んだ。この450人 一人一人の死に代替し得る感覚を持ち得るかどうかということも自分自身の生命への徹底的な尊重があるかないかにかかっている。自分の生命が他の何ものにも 増して貴重なものであるものにとっては、他人の死とは言え決して他人事ではありえないのだ。自分自身がそこで死ぬという経験を実感として捉え得るもののみ が、今度の事件の眞の意味を解明できるのである。死の重みを実感として捉え得ないもの、言い直せば、自分自身の生命の重みを徹底的に考えてみなかったもの によって、今後の保安行政が推進されるとしたら、450の遺柱は亡霊となって地獄をさまようことになろう。

この時点で、我々がまず考えなければならないことは、保安の基本命題は何かということで ある。基本命題に想到しえずして、保安の枝葉の問題にのみ係らずおうのは、心臓に突き刺さった槍を抜かずに、手足の傷を洗浄する医師のごときものである。

保 安の基本的命題とは何か。言うまでもなく≪人間の生命の尊重& NestedGreaterGreater;である。ここから一切の価値判断がなされねばならぬ。いかなる社会体制であろうと、この価値 観を失った瞬間から衰退の一路を辿ることになる。我々が生きているこの体制の中でいかにしてこの至上の価値である生命を保存維持していくか、これが問題の 核心である。したがって保安の問題は単に保安の問題に留まらず、この体制とそこに生活する人々の生命維持機能の問題として捉えなければ正確な問題把握と はならないのである。

我々は人間にとって至上の価値であるこの生命がないがしろにされるような体制であれば、 その体制そのものを否定しなければならないのである。

今 日の人命軽視の現象は単に風潮として捉えるのでは正確ではない。我々の住むこの体制そのものの持つひずみとして捉えてはじめて正確な展望が我々の前に開け るはずなのである。これほど毎日数多くの人命を奪う体制がこれまで存在したであろうか。そしてこうした傾向に対して何ら抜本的な対策が打たれずに、いわば 一種の社会的慣行となってしまった体制がこれまであったであろうか。その何よりもいい証拠が、警察署の前に掲げてある交通事故死亡者数の掲示板である。今 日では見る人にとっても毎日毎日数字を入れ替える警官にとっても一種の慣習と化してしまって、むしろ毎日45人の人が交通事故で死に、百何 名もの人間が負傷を負うことを平常のものと受け取るごとき感覚の鈍化現象が見られる。しかも、交通事故で死んだところで遺家族にはスズメの涙ほどの慰謝料 が支払われるに過ぎない。

こうした現象が果たして健全だろうか。断じて健全ではありえない。とすれば、これを体制 そのもの持つひずみとして捉えないわけにはいくまいと思われるのである。

こうした体制のひずみが象徴的に現れたのが、119日の二大惨事であったのだ。

人間の生命よりも重要な意味を持つ怪物がこの体制の中では我がもの顔にのし歩いている。 我々はそれにcapitalという名を与えている。Capitalの驀進する後に累々たる人の死体が転がっていようとも、怪物の背中に跨って手綱を取って いる御手にとっては意に介することはないのである。

まことに恐るべき怪物ではある。

怪 物の話はこれくらいにして、現在ぼくが考えねばならない問題に焦点を絞ろう。僕にとって今一番大きな問題は、鉱山における保安はいかにあるべきかというこ とである。これを考えるにあたっては現在の体制をまず与件の一つとして考慮せねばならぬことは論を待たない。したがって、保安をどういう問題として捉える かという視角をまず設定しておく必要がある。

ぼ くはこれを社会政策として捉える。資本主義社会の中での悲劇は、人間の至上価値である生命に対する直接的な尊重という視角からよりも人間を「労働力」とし て捉えて総体としての資本の立場から、労働力の保存再生産を直接の目的とする方策が政治を媒体として行なわれるということである。したがって、社会政策は あくまで労働力の保存の問題であって、人間の生命の讃歌とは縁なきものなのである。

個としての資本は労働力の摩滅をも恐れず、労働強化をもって労働力に対処しやすい傾向を 常に内包している。これに対して総資本の立場から全体としての労働力の保存維持を図るのである。したがって個々の資本ではpayし ないため、そこに政府の乗り出す必要性が生まれてくるのである。保安行政をこうした政府の社会政策の一環として捉えない限り、いたずらに夢を追いすぎた り、いたずらに現実迎合の対策になり終わってしまうことになろう。したがって我々としては、この時点で保安に対する我々一般の認識を明解にして統一的な戦 線を張らねばならないであろう。

さ て、もう遅くなったので最後に一言だけつけ加えるが、我々は常に自分自身に対して厳しくあらねばならぬということである。一酸化炭素を吸ってのたうちなが ら死んでいった人々の体験を常に自分のものとしておかねばならぬ。我々が代わりに生きているという思想、これまで死んでいったすべての人々に代わって生き ているという考え、これを失ってはならない。ここからこそ自分自身の生を意義あらしめ偉大なるものへの一歩の前進を心掛け、すべての境遇の人への愛が生ま れてくるのである。(午前147分記す)


至上の価値:生命と保安 について
1993.11.20

1963.11.20(水曜日)

 今風呂から上がったところである。後一分少々で午前1時。

 今夜は少々早く帰してもらった。暇のものが一人ずつ早く帰ることにしたのだ。それでも 家に着いたのは9時半近く、普通なら遅いほうだ。帰ってから一眠りして風呂に入った。頭の中もすっきりし ていて気持ちがいい。(今1時の時報あり)。あたりはすっかり静かである。

ちょうど10日 あまり毎日忙しい日々が続いた。ゆっくりと自分の時間を持つ余裕さえない連日であった。何といっても時間的に余裕が持てないことが悩みだが、これほど忙し いと精神的なゆとりまでも失いがちになる。乱にあっても治を忘れてはならないのであって、精々出来る限りの努力をして行かなければならない。読むべき本は 山積している。忙しさにかまけて交友関係を断ってもならない。手紙を出すべき人には出し、電話をかけるべき人には電話すべきである。永い無沙汰は、すべて の友情を冷却こそすれ、暖めはしないものだ。

本と言えば今日鈴木信太郎訳の≪マラルメ詩 集≫を買った。岩波文庫150円の本である。少々難解で はであるが、詩を読む楽しさは、すべて詩の中に転がっているよ うに思われる。

8日には、小林直樹先生の「憲法 動態の分析」が出る。先生は僕の敬愛する人である。一冊1000円は痛いけれど、僕の最も深い関心を寄せている憲法動態についての鋭い分析を期待してす でに本屋に注文しておいた。仕事はたとえどんなに忙しくとも、出来る限りの余暇は割いて、これら優れた書物の読破に努めなければならないと思う。(午前115分)


忙中の閑


「マラルメ詩集

「憲法動態の分析」
1993.11.21

1963.11.21(木曜日)

○     総選 挙。明日夕刻結果が判明する。いかに政界地図が塗り替えられるか興味がある。しかし、大勢はそれほど動きそうにない。投票率は68パーセント強。戦後最低のも のになりそうな雲行きである。

************              ************                 *************

     ぼくは人間という種族にそれほど期待をかけていない。すべての人間が完全無欠になりうるような社会はいつまでたっても実現できないと思う。したがって我々 が健全な人間社会という時、それは人間的な限界の中で最高のものと言っているにすぎない。

 

人 間のもつ不合理性、個人個人の人間の限界、そうしたものを考えれば、現在我々が描き上げる理想図はあまりにも理想的であるように思われる。なるほど、人間 は変わり得るものとする認識は正しいであろう。しかし、それほど容易に変化し得るものでもなく、種族としては、やはり相当レベルの低い部分を持たざるを得 ないように思われる。したがって我々が、社会制度や経済制度についての未来図を描くとすれば、そうした人間の社会につきものの多くの欠陥を考慮した上で、 行なわれなければならない。

 したがって私の展望し得る限りの比較的近い将来においては、国家権力は決してなくなら ないであろうし、それほど、優れた社会制度を持った国も現れないことだろう。

  現在我々は社会主義とか資本主義とかいう言葉を遣いその中に一定の意味があるように考えているが、それらの言葉は今日あまりにも多義的であり、社会主義制 度であるからといって資本主義社会より優れた制度とは言い切れぬ事例も数多くある。人間の社会は少しずつ変革する。それはそこに住む人民の自発的な意欲に 基づくものだが、すでに人民の中に多くの限界があることを忘れてはなるまい。


総選挙

人間社会について
1993.11.22

1963.11.22

 お手紙有難う。大変楽しく読ませて頂きました。「ご返事いたしますが、もうお手紙はい ただかなくて結構です。」とあなたがおっしゃるのに、敢えて、お返事を差し上げるのは少々未練がましいとお考えかも知れませんけれど、あなたのことばを借 りれば「こういうことは弁解でも何でも自分のやり方をきちんとしておかないと、何か変な風に認めたことに男の人は取られるそうですからあえ て出します。」アンダーラインを引いた部分を女の人と改めてよいかどうかは僕の乏しい経験からは判断できませんので、そのままにしておきましたが、あなた のおっしゃることは男の人に限らず人間一般に通用するのではないかと思うのですが、いかがですか。

 正直言ってあなたの手紙は、大変素晴らしいものです。そして、こんな素晴らしい手紙を どうしてもっと早くこの僕に書いてくれなかったのだろうと残念で仕方がありません。初めてのこんな素晴らしい手紙が実はあなたからの最後の手紙だというこ とに、少々運命の皮肉を感じます。どうして、素晴らしいと僕が思ったか申しましょうか。僕はこの手紙の中に初めてほんとうの一人の女の人としてのあなたの 歯ごたえを感じることが出来たからです。あなたがどんなにか真剣な面持ちで手紙を書いたかがひしひしと伝わってくるような手紙でした。

あなたはこれまで僕あてにこれほど真剣になって手紙を書いたことがあったでしょうか。あ なたが用心深く自分の手紙を複写していらっしゃるとしたら是非読み比べていただきたいのです。今度の手紙ほど、あなたに対する僕の理解を深めさせてくれた 手紙は他にありません。少なくとも、今度の手紙の中には、あなたの良い面も悪い面も余すところなく現れており、そこには一人の女性を見ることができるので す。今までのあなたの手紙の中には、今度の手紙に比べるとずっと程度が低くて思いつくままに文章を並べたという感じのが随分ありました。僕はそうした手紙 に一人のはっきりとした女性像を結ぶことが出来なかったのです。そうした人に向かって僕自身の本当のはっきりした考えを伝えることは出来ませんでした。率 直に言って僕の手紙には(特に先便など)、思いつき程度の単なる微苦笑を誘うためのくだらない文章の羅列に過ぎないものが相当多かったのではないかと思い ます。

それはあなたという人を僕自身があまり深く知らなかったということ、そして、あなた の手紙の調子に幾分合わせて書いたということに起因しているのだと思います。

あなた自身、僕に「恋愛なさいますか」と尋ねて来たとき、本当に僕の真剣な答を求めての 問いだったのでしょうか。僕はそれを誤解したのです。その誤解が僕のあの不用心な問いを呼んだのです。確かにああした問いが僕らの間柄にあってどんなに不 適当なものであったかは率直に認めざるを得ませんし、そのことを理由にあなたが、僕らの別離を提案し(突きつけられ)たのも合点がいきます。

僕の問いがたとえ真面目な問いでなかったとしても、訊くべきではないことを訊いたと言わ れれば全くその通りだと僕は認めざるを得ません。

しかし、僕に対し「恋愛なさいますか」とあなたがもし真剣に尋ねられたのなら、僕にも真 剣に答える場を与えて欲しいし、又、もっと真剣な手紙の中で訊いて欲しかったと思います。

「偉大な神聖な重々しい真剣な恋、精神のあらゆる筋、あらゆる力によって生きている恋 を、私は呼んでいる、待っている、今も望んでいる。それがわからない女は私にふさわしくない。いつでも独りでいなければならないとしても、自分の精神を不 釣合なものと一緒にするよりは、希望と夢を抱いて去る方がましだ。」

このアミエルの気概をあなたになら、今のあなたになら、わかってもらえるような気がしま す。男とは、一面自分自身をいい加減なものに見せかけようとする半面、やはり本質的には自分自身にとって一番大切なものを知っているのです。そしてそれを 真剣に求めているものなのです。

あなたの手紙の言葉の陰に潜んでいるある種のものを鋭く敏感に感じるだけの感受性も、い かなる男性といえども持っていると思うのです。あなたは神に何ら恥じるところなく、僕に対して先のお手紙を書いた時のAndo Sanに対する気持ち と、今度の手紙を書いた時の気持ちとの間に少しも差がないと断言することができますか。

あなたには、ちょっとしたスキを見せてみたいような気持ちがなかったのでしょうか。実を 言えば、僕には、あんな文体であんな手紙を書いてよこしたあなたの心理状態があまり良くわからなかったのです。そこで、あなたには、申し訳ないのですが、 僕の一人の男の友人に読んで貰って一体どんな風にこの手紙を書いた人の心理状態を思うかと訊いてみたのです。するとその友人が言うには、

「何かその人の心の中には、フラフラしたはっきりと定まっていないところがあるのではな いか。こんな手紙を書くことによって少々遅ればせながら、フィアンセに対する、はっきりとした気持ちの整理をしようとしているような。」

僕は、その診断を絶対的には正しいとは思いません。しかし、僕が手紙を書くに際してその 評にかなり影響されたことは確かです。そして一つあなたとAndo Sanとの間の心のつながりの情態を確かめておきたいと思ったのです。あなたが「結婚するつも りで恋愛なさいますか」などと書くような不用意さに便乗したふりをして、敢えてあんな問いをしてみたのです。

先にも書いたように、これだけが僕の問いの真意などと言うつもりは毛頭ありませんが、ま さしく僕の狙いは的中して、僕はあなたとAndo Sanとの間のはっきりとした心の結びつきを確かめることができ、本当に嬉しく思ったわけで す。とはいえ、僕は幾分あなたの言葉の中に虚勢を感じるのですが…もうこれ以上心配する必要もないようですね。とにかく、あなたとAndo Sanとの間に介在す る男性としての僕の務めは終わったような気がします。あなたからのさようならは、まさに時宜を得たものと言えるのかも知れません。」

 

最後にもう一つだけご忠告したいことがあります。あなた自身もプロポーズずれなどと書い ていらっしゃいますが、男性が何の理由もなくそれほど安易にプロポーズするとあなたは本当に思っていらっしゃるのでしょうか。理由があるとすれば、それは 一概に全部男性側にあったのではなく、あなたの側にもあったのではないか、ということです。しかも、あなた自身が意識しているものでないとしたらもっと危 険だとお思いになりませんか。

僕があなたにプロポーズしなかった理由はおわかりでしょう。ぼくも、あなた同様、自分自 身の夢と希望を持っているからです。そして、それを大切にしたいと思っているからです。そして、他人を愛することによって、他人を傷つけることを最も恐れ ているからです。

23歳の男性にとって、他人を傷 つけることなしに恋愛することが社会的にも非常に難しいことを知ればこそ、僕は今、こうして、時機の熟する日を待っているのです。こんな僕に単純に<恋愛 なさいますか>などといったいどんな気でおっしゃったのか、一瞬驚いたくらいです。自分の書いた手紙を何ら恥じることなく読めるような手紙をお互い書きた いものです。

あなたが、どうして僕らの二人の間を絶交状態にしようと考えたか僕には手に取るようにわ かります。なぜなら、あなたは僕に対してすこぶる簡単な結論を下ろしたからです。まるで僕が商船大の学生さんや、加藤君や、吉岡くんみたいな単純な男であ るみたいに。「結局あの人も普通の男だったのだ」と。これはあなたのようにプロポーズずれした人にはすこぶる似合いの結論かも知れません。

あなたがもし、今度の手紙でおっしゃったようなことを、きちんと整理して、そのとき考え ていらっしゃったのだとすれば、どうして「結婚するつもりで恋愛なさいますか」などと僕に対してお訊きになるのです。「女の子って、知り合いになるとすぐ 結婚のことを考えるーが一般定説のようですがそれはうそですね、と思います。」なんて。

それに対して僕が「結婚できなくても愛し合えると思います」と答えたことに対して大上段 に振り構えてのお答えをいただきましたけれど、その答えはあなたが先にあんな質問をした以上は、少々空回りしているのではないでしょうか。

僕という人間がきわめて殊勝な人間なら、起こりそうにもないような儚い夢を抱いてある偶 然の来るのを待ちもしましょう。しかし、僕はそれほど殊勝な人間ではないつもりです。

それに実名であなたにプロポーズした人を挙げてよいほど自分自身を魅力的な人間と考えて いるような感覚は、キリスト教の傲慢の罪に当たらないのでしょうか。


Sさんへの手紙
1963.11.23

1963.11.23

 

午後2時。今起きだしたところだ。と ころで、最初に耳に飛び込んで来たニュース。

ケネディ暗殺!

 

一瞬、耳を疑った。 誰が、何の目的で?

詳細は全然わから ぬ。

謹んで哀悼の意を表 する。

ラジオは& NestedLessLess;神々の黄 昏≫の中の葬送行進曲をやっている。

 

僕の全身に怒りが込 み上げてくる。いかなる目的からとは言え、人をしに至らしめる行動ほどに私の憎むものはない。

あの若い溌剌たるケ ネディ大統領が一夜にしてこの世から消え去ったという考えに慣れるには相当の時日がかかるだろう。

ケネディ自身にとっ てさえ今日の自分の死に慣れるには相当の時日を要することだろう。

 アメリカ国民もソ 連国民も、全世界の人々も、一瞬にして、あれほど若くしかも世界一の強国のleadershipsymbolであった彼が、この世から消失したという現実の重みをはっきりと認識するまでには相当の 時日を要しよう。

 政治的に言えばKennedyの死はおびただし いinfluenceを各方面に与えることだろう。確かに今日の彼の死は、世界の流れを変えるだけの重大性を 持っている。

 それにしても、人 はいつ何時しに直面せねばならぬかわからないのだ。Kennedyは、もうこの世にいない。いかなる哀悼の辞ももはやKennedyの耳には達しない のだ。


ケネディ暗殺
1963.11.23-2

全世界が今、悲しみに包まれている。

 そして、ある不条 理なものへの激しい憤りに満たされている。 

 あってはならぬこ とが起こったのだ。

 すべての人々が自 分の耳を疑わずにはいられないようなことが事実となって起こったのだ。

 日本時間23日午前4時(米国中部標準時間22日午後1時)テキサス州ダラス。

 そこに轟いたわず か3発 の凶弾によって、世界は今もっとも必要とする人物の一人を失ったのだ。

 白日夢なら醒めて くれ。

 この知らせを受け た時のすべての人々に共通した感情ではなかったろうか。

 なぜかしら隣人の ような親しみを感じさせるあの若く行動的な快男子が、もはや、この世に存在しないとは!?

 

 死とは、何と言う 不条理なものであろう。

 死んでしまった以 上もはや二度とこの世に還ってくることができないなんて。 

 わたしは承服でき ぬ。

 せめて、天命を全 うした上での死であれば、少しの安らぎはあろう。

 しかし、上映の最 中、フィルムが何者かに引き裂かれたような突然の死であってみれば…

 ああ、ケネディ

 死んでも死にきれ ぬ死を彼は死んだのである。

                       (午前135分)


ケネディ暗殺 を悼む
1963.11.24

1963.11.24

(午後1230)

 

 全世界はまさに脳 天を鉄髄でブン殴られた。

 そして、いった い、自分がどこをブン殴られ、どうして手足をばたばたさせているのかさえわからないでいるのだ。我々は次第にこの気絶状態から蘇るにしたがって、自らの受 けた傷の深さに気づくことだろう。

 一瞬の知覚麻痺、 それはまた一瞬の恍惚の状態でもある。我々は、おろおろと悲しみ、おろおろと憤っておりさえすれば足りるのだ。

 まだ、傷の痛みの 自覚症状もない。

 しかし、我々の知 覚が徐々に戻ってくるにしたがって、そのうずくばかりの痛みに頭を抱え込まねばならないであろう。

 我々には駆け込む べき病院もないのだ。自ら受けた傷を自らの手で治療しなければならぬ。

 この素人療法がう まく行くとい う保証はどこにもない。この傷は全世界を死に至らしめるほどの傷ではなさそうであるが、少なくとも鉄髄でブン殴られる前の健康状態に戻るまでには、相当の 時日を要するであろうし、それより不健康な状態で長らくベッドに横たわらねばならないかも知れない。 

 我々は、まさに今 ショックの中にいる。時間の真空状態の中にある。記憶喪失症状を呈している。しかしいずれ我々は徐々に記憶を取り戻し始め、時間の空白を埋める作業に取り 掛からなければならない。

 ケネディを失って みて初めて我々は彼がいかに全世界の期待を担っていた、価値ある政治家であったかということに気がついたのである。

 生前にも彼の重要 さはわかって いたにしても、彼がこんな不幸な死に方をし、世界から彼が消え失せるということを想像だにしていなかっただけに、国際政治の中から、彼を取り除いて考える という考え方に慣れていなかったのだ。もっとも、慣れるにしてはあまりにも想像を絶するようなことではあったろうが。しかし、現実はこのあまりにも想像を 絶するような考え方に一日も早く慣れることを強要しているのだ。


ケネディ暗殺の影響
1963.11.28

1963.11.28

 

○    ケネディ暗殺後のニュースを最初に少し追っておこう。ケネディの国葬は25日世界数十カ国の元首や首相 の参加の下、しめやかに挙行された。わが国からは池田首相が参加し、式後ジョンソン新大統領と会談し、今夕5時帰国した。

○     と ころで、ケネディ暗殺の容疑で逮捕されたオズワルドは、護送中ダラスの一劇場主から狙撃されて死亡した。この二重の暗殺事件で全世界は完全にど肝を抜かれ ている。民主主義国アメリカのプレスティッジはいまや失墜しつつある。憎んでもあまりあるテロ行為のdouble play! まさしく、自由民主国アメリカの歴史に汚点を塗る ものであったろう。

 

○    とこ ろで、世界は1125日以降新しい段階に入ったの言ってよい。

 

○    119日以降、我々も又新しい局面に直面している。我々とは、鉱山保安に携わるすべての者であ る。とにかく連日早参遅退である。25日はついに徹夜。26日も、午前2時過ぎまで。そしてようやく、今日、明日の参議院商工、石炭対策、社労合同委員会用の想 定問答集ができあがった。明朝10時 からの本会議を待つだけである。

     わずか一冊の想定問答集に何と莫大な労力と時間と、そして無駄とが費やされることであろうか。そのようなあわただしさの中 に一体我々は何を得たらよいのだろう。そこに何も得るものがないとは言わない。確かに多くの学ぶべきものもあり、僕にとってはすべてが新経験のことである から、貴重なことは貴重である。しかし、自分自身のすべてを費やして学ばねばならぬというにしては、あまりにも実が少ないといわざるを得ないのだ。これは 労働の無駄遣いであり、限られた人生の大切な時間の空費である。僕にとって、もっと価値あるものをもっと自由にやってみたいとは、現在の偽らざる心境であ る。

 

○    あ る歴史的な瞬間に生きること。そして、その時のあらゆるものを自分の中に吸収すること。これこそ、生きるとい うことの証である。生きている者の務めであ る。我々の生存とともにあった幾多の歴史的瞬間が、現実的ななまなましさをもって留められ、長く生き続け得るのは、生きた眼を持った人間の脳髄のうちのみ である。

 

○    我々 のおかれている196311月という時点は、間違いなく歴史的な決定的瞬間の一つである。1122日の米国大統領の暗殺事件の 与えた影響は測り得ないほどのものである。今や全世界がテキサス州ダラスを震源地とする大地震に揺さぶられている。

 

○    私は 今、その地震の揺れの中でこの一文をしたためているのだ。しっかりした眼で地震のある前の形相と、地震中の形相を見詰め、脳裏に留めなければならない。そ して、この地震がどのようにして力を失い遠のいて行くかを見守らなければならない。

 

○    この 地震の三態を正確に観察するとともに、我々は地震の原因の究明、諸々のものに対する影響の調査等を怠ってもならないのである。

 


オズワルド暗殺


鉱山保安想定問答集作成


歴史的瞬間に生きること
1963.11.29

1963.11.29(金曜日)

○    参議 院の社労・商工・石炭対策合同委員会がともかくも終わった。局内で打ち上げに一杯飲んだ。みんなの顔に久し振りの解放感が輝いた。ぼくもやれやれという気 持ちであった。

    と ころで、酒を飲みながら局長が大いに気炎を上げている。みんながお追従でエヘラエヘラ笑っている。腹の底ではみんな(とは言えないかも知れないが)少々軽 蔑しながら。だから、笑いが笑いとならない。腹の底からの笑いではないからだ。国会から帰って来るやいなや、小島さんが吐き捨てるように言った。「なっ ちゃいねぇや」

      参議院の合同委員会には、課長以下課長補佐連、小島さんがお供した。6時近くみんな疲れて帰って来た が開口一番、小島さんはそう言ったのである。課長にしても伊藤さんにしても、腹の中ではそう思っているに違いないのだが、口にはさすがに出さない。

   60点で合格とすれば40点だ」小島さんの局長の答弁 振りに対する採点である。「森本福岡鉱山保安局長にばかり答弁を押し付けたり、もたもたしたり、質問の趣旨を取り違えたり…」

      こんな話を聞いた後で局長室に行ったのである。そこで一杯やるというので。さぞかし、局 長もしょげ返っていると思いつつ。ところが、案に相違して盛んにまくし立て減らず口を叩いているのが局長その人なのである。「…課長 はずいぶんとっちめられておったなぁ」と。「あんなことを言えたもんか」と清成さんは僕らのところにいて大憤慨である。「ひとつも自分じゃ感じとらせん。 失敗したとは思うとりゃせん。あれで良かったと思うとるとじゃけん」。それに小島さんも相槌を打つ。ますます局長は意気軒昂である。伊藤さんが、清成さんのそ ばに来て慰める。「今日だけ、局長にも飲ましてやりなさい」

    あ あ、それにしても、体内に敏感な神経を持たない人間ほどに付き合いにくい、始末に終えないものはないものだと思う。


○    そこ を6時 分頃抜け出して東大旅研主催のDance Partyに行った。場所はSankei Kokusai Hall.

   720分頃着いたかと思う。すごい混みようだった。上から見下ろすとうじゃうじゃという表現が ぴったりするくらいだ。薄暗い照明の下でみんなが踊っている。バンドがけたたましい音を立て続けに吹き鳴らしている。まさに壮観である。

      さて、おもむろにそのうじゃうじゃの中に降りていった。まず、手ならしに踊り始めた。 ちょっと太った感じの人はあまりうまくない。それでいい加減で止めて、次に踊ったのが東京女子大英文科、静岡県出身の188ヶ月の大学一年生。ピッタリ くっついて踊るのは嫌だそうで、ぼくに再三足を見ちゃいけないよと注意されてハイハイと恥ずかしげにほほえむ。わたし箱入り娘だったので、これからうんと 修行しますとか言いながら目をくりくりさせる可愛い感じの子だった。ずいぶん長身で寮の門限があるのでというので8時に別れた。   

   それで彼女を送りしな。ロビーに出て、しばらくぶらついていて、須田嬢を見つけ た。なにせ旅研主催のパーティだから、彼女の顔は売れているわけで、あちこちに知り合いがいるらしく忙しそうだった。僕もそのあたりは心得てあまり親しげ な素振りを差し控え、また彼女の態度にも少々嫌気がさしたので、ホールの方へ降りていった。

  そこで一見して冷ややかな感じの女の子に申し 込んで踊り出した。最初はジルバ。彼女リズム感はしっかりしているのだけれど、普通の女の子のように大胆に動こうとはせずに、ほとんど突っ立っているの だ。そこで癪に障ったから皮肉みたいなものを二、三句浴びせかけてやった。どうも僕より年上らしい。一曲終わった向うの方から<どうも>とでも言い出すか なと思っていると悠然としている。ブルースを踊ってみるとやはりうまい。何か最初のうちはちぐはぐしたものが感じられたが、それが取れていって、彼女の学 校その他を聞けるような雰囲気になった。青山の短大の二年だという。広島の出身。寮にいるんだという。冷たい感じから笑顔に転じるととっても可愛い。僕は 口は悪い方だから、思ったことをずばずば言う。「一見、冷ややかな感じ」と言うと「あなたの方が」と言い返してきた。「最初、ぼくよりお姉さんだと思っ た。ところが話してみるとわかっちゃうね」というと、彼女は体中に笑いの渦を巻き起こして、手を握り締めて打ちかかってくるのだ。

     一人っ子で、来年学窓を出たら、広島に帰るんだという。だから、何かチ ラチラと甘えた感じがする。寮には4人一緒にいるというから「女の四人じゃ大変でしょ」「そうでもないわ」「あなたみたいな おしとやかな方がいらっしゃれば」「わたしそれほどおしとやかでもないのよ」……とにかく、この会話の続きで彼女にブタれたことは覚えているが、僕が「意 外とね」と言ったときだってこと以外は忘れてしまった。その時は、彼女のほうから言い出した「休みません?」の休みの最中だったのである。

    「ダ ンスなんか好きですか?Partyには良く行く?」と向うから聞き出してきた。「ダンスは好きだけど、Partyにはそれほど行かない ですね」と答えて、しばらくしてから、「あなたの方は」と聞き返すと、ちょっと小首を傾げて考えて「やっぱり好きだわ」「それじゃ、いつか一緒に行きませ んか」「Partyにですか」「何でもいいですけど」と彼女ためらいつつもうなづいた。こうして約束を取っ ておいてから、もう帰らなければならない彼女と踊り始めて、名前とPhone Numberを聞き出したのである。(4021011猪俣理子。第二寮第21号室夜8時まで。

      彼女名残惜しそうに礼をして帰っていった。踊っている途中でちょっと立ち話をしていたら 「踊りたいわ」と身を寄り添わせながら、自分から手を組んできた彼女である。その時はなんとなく素敵だった。

      いずれにしても、楽しいDance Partyであった。(午前130分)

  

 

   

国会委員会終わる


ダンス・パーティへ

I嬢と会う
1963.12.1 日曜日
1963.12.1

○今日は一日中家にいて、切り取った庭木を焼く手伝いをしたり、ルネちゃんと話したり、テレビを見たりして過ごした。平穏無事。師走の第 一日目であった。
 力衛先生と里見さんの将棋も拝見した。香落とし、飛車落としの二番。第一戦は先生、第二戦は里見さんがそれぞれ勝って1勝1敗。ビールの取引は行われず にすんだ。
 ルネちゃんといろいろ話したけれどなかなか可愛いと思った。10月8日が誕生日とかで今14歳と2ヶ月ばかり。少しも臆するところがなく、いたって元気 にいろんな話をする。言い合ったり、猫を奪い合ったり、師走の短い日はたちまちにして暮れてしまった。
 夕飯をご馳走になった。
 一正君が暇な折、歌声喫茶なり、映画なりに連れてってくれという。いつか一緒に行きたいと思うがなにせこれから毎日忙しい日が続きそうでその chanceがあるかどうか。

○11月29日のpartyで会った彼女からちょっとたたかれた2度目のシーンを思い出した。
 彼女が卒業したら国に帰ると言っていたので、僕が、「卒業まで4ヶ月?四ヶ月なんてほんとにアッというまにたってしまいますよ。ほんとに」と強調したと ころ「どうしてそんなことを言うのよ」と言いながらコブシで僕をブツ真似をしたのである。

師走ののどかな一日
1963.12.3
火曜日
1963.12.3

○朝雨が降っていた。起きだしたのが10時近い。職場に着いたのが0時に30分しかないころだった。前夜、家に帰ったのが午前3時を少々 回った頃、今朝9時頃おばさんに一回起こされたが、また眠ってしまった。

○これではまるで身柄をすべて売り渡したようなものではないか。わずかの給料の代価として。
 自分の時間というものがない。他人の踏み込みを絶対禁ずることのできる時間が皆無だということはどうしたことだろう。すべてのもの優先させね ばならないほどわれわれは国家公務員という身分に浸りきらねばならぬのであろうか。ぼくは公務員であるよりまず人間でなければならないと思う。人間である ためには自分の自由時間を持つことが不可欠なのではなかろうか。誰がいったい我々のそうした人間としての権利を無残にも踏みにじろうとするのだろう。他人 の貴重な時間を無残に踏みにじっておきながら、そこにほんのわずかのやましさも感じないとう精神風土のよって来る所以とは一体何か。居残りなり超勤なりを むしろ当然のこととして受け入れがちな人々の心理的傾向は何に根ざすのであろう。

 これほど馬鹿馬鹿しい時間の使い方が他ではたしてあるのだろうか。昼間はだらけており、夜中の午前過ぎまで居残りを命ぜられるような。悪循環が始まると 止めようがない。
 明確な方針を持ったタイムプログラマーが一人としていないため、貴重な我々の時間はただむやみにやすやすと空費され、我々は体ばかりでなく、精神まで疲 れ果て、ぐったりといらいらしている。ぼくは自分の時間が欲しい。7等級2号俸でぼくのすべてを売ったのではないのだ。
      (午前0時30分)

自由時間のない勤務状態
1963.12.4
水曜日
1963.12.4

○何と早く一日が過ぎ去ることか。12月も4日である。このところ一日がこうして早く過ぎ去るということに慣れすぎてはいないだろうか。 12月4 日と聞いても、一日は早く過ぎ去るものなんだから同然だと言わんばかりの反応がぼくの内部に見られるようだ。いずれにせよ、自分にとってはほとんど収穫の ない日があまりにも毎日続きすぎる。悠々と8時間睡眠をとる時間さえないのだから、悲しい。つくづく何のために生きているのだろうと考えてしまう。
 とはいえ落ち着いて思索する暇もないのである。
 惰性的に生きているのに過ぎぬ毎日なのだ。

○朝日ジャーナル12/8はケネディ暗殺を特集している。かなり面白い記事が多く、改めて考えさせられた点や、わが意を得たような指摘等 があり、 好企画だと思うが、もうひとつ物足りなく感じた。巻頭の座談会はいいのだが、一人の論者によるばっしりと歯ごたえのある論文が欲しかった。まだニュースが 新しくて十分な時間と論者に人を得なかったためであろうが、次週号にあたりに落ち着いた今度の事件の分析を期待したい。

○とにかく忙しくてせっかく読み始めた小林先生の「憲法動態の分析」もまだ2章を終えたに過ぎぬ。
 この2章の中にもさすがは小林先生だと思わせる鋭い分析や的確な批判もあるにはあったが、本巻の力境に入るのは今だしの観がある。一日も早く読み終えた いものと思っている。

○すでに今夜も午前1時を回った。胃の調子がひどく悪い。毎日の生活が不規則のせいである。

朝日ジャーナルのケネディ暗殺特集
1963.12.19
木曜日
1963.12.19
 
 毎日遅く帰宅する日が続いている。今日も12時ちょっと前に帰ったばかりだ。そんなわけでゆっくり本を読む時間がなくて読みかけた本ばかり多くて一向に は かどらない。でも今夜一冊よっとこさ読み上げた本がある。世界短編文学全集ロシア文学19世紀ー406頁の大冊である。
 ロシア文学の19世紀は、まさしく編者の言うごとく「ロシア文学の誕生と開花」の時代である。ここに集められた22編の一つ一つが私にはまるで宝石のよ うに尊いものに思われた。何度も何度も掌に転がしてじっくりと味わいたいと思うものばかりだった。

 ロシア文学の19世紀はまさしく世界文学の宝庫である。そこには日本文学史上類例を見ないような巨匠がまるで綺羅星のごとく燦然と輝いている。どの一人 をとっても日本でならその形容する言葉を知らないような巨大な存在となってしまうような優れた作家ばかりである。だから、短編とはいえ、その一編一編まこ とに味わいが深いのである。読み終えて心の底までしっとりとした情感に濡れてくる。その味わいをぼくと同じくらい味わうことのできる美しい女の人にぜひ読 ませたいと何度思ったことだろう。そして二人してその素晴らしさをその心の震えを語り合い分かち合えたらどんなに素晴らしいことだろうと幾度思ったことだ ろう。

 本当に素晴らしいの一語に尽きる。改めてこれら巨匠の前に潔く頭をたれるものである。僕もいつかこの本の一編に比肩するほどの短編を書いてみたいものだ と思う。読む人の胸の中に快い興奮とともにいつまでも生き続けていくような佳品を。

 ああ、僕の心はいまやロシア文学に対して貪婪な欲望に目覚めたがごとくである。

ロシア文学短編集を読了
1963.12.29 日曜日
1963.12.29

 昨日島原に帰ってきた。課の古山さんのお世話で特急「はやぶさ」の寝台券が取れたのである。27日分だったけれども伊藤さんに話したらOKとのことだっ た。

 27日は朝、下宿の整理を一生懸命にやって11時ごろ役所に行き、またまた一日中部屋の掃除をやった。5時ごろから局内の人全員が集まって打ち上げが始 まった。

 僕が今夜7時に発つのだというと局長をはじめみんながなにやかやと話しかけてきた。課長は別れる段になって「家族の方々によろしく、課長がこんなことを 言っていたと伝えてくれ。事務官として申し分がないと課長が誉めていたと」と言ってくださった。なかなか機嫌が良くて、故郷の彼女のことなどまで話題に なった。

 はやぶさでの旅は楽だった。目が覚めた頃にはもう広島に着いていた。博多で西鉄に乗り換える時間を利用して日銀福岡支店にいる寺本に会った。昼飯をご馳 走してくれ、福岡でのいろんなことを話してくれた。元気にやっているらしかった。

 4時40分ごろ、島原外港に着いた。船の旅は良かった。有明海は波一つ立たず、深い紺一色に輝きわたり、空も青く、空気もうまかった。つくづくこの空と この海とこの空気が僕を育んでくれたんだ。そしてこれさえあれば、僕はすっかり生気を取り戻すのだと感じた。
 
 桟橋には父母が出迎えに来てくれた。なんだかずいぶん老け込んだ感じがした。桟橋に二人がポツネンと立って出迎えてくれたのだ。

 今日は島田のおじさんが早速碁打ちに見えた。2子ではまだ相当きつい。

 「インドで暮らす」(岩波新書1963.12.20発行、石田保昭著)を今日、読み終えた。


島原に帰省
1964.1.1
水曜日
1964.1.1

 それぞれの日付が、その日一回限りのものであり、それぞれに意義深いものを持ち、それぞれに貴重なものであるのだが、何と言ってもやはり、その年の最初 の日付というものは、他の364日ないし365日の日付に比べて格段の値打ちがあるように思われ、日記をつける者にとってはどうしても逸すべからざる日付 けのように思われる。とにかく、今日を境としていかなる日付も末尾に同じ1964を持ち、それがあまりにも陳腐になりすぎてついには略されかねないもので あるのに引き換え、今日に日付からはどうしてもこの1964という数字は逸すべからざるものなのであり、それ故にこそ今日という日付は尊ばれもするのであ る。

 その年の初めの日ーー何回それを迎えようとやはりそれは何かしら新鮮な感じのする日であり、未来に対する望みを心に抱かせる日である。

 僕は今月の5日で満24歳になる。したがって今年は僕の年でもある。干支とかそうしたものにこだわるつもりではないにしても、日本人の普通の意識として は完全にそれを閑却すべき理由もないように思われるし、たとえそうしたものによってさえ人間の意識が鼓舞され、今年は自分のトシでもあるし、一つ頑張って やろうという気が生じるとするならば、あながち無視する必要もないように思われる。

 とにかく24歳を過ぎてからの一年一年というものは、えてしてところてん式にずるずると過ぎさってしまい、瞬く間に一年過ぎ二年過ぎ、気づいたときに は、人生において最も華やかであるべき20代が残り少なくなっていないとも限らないのである。20代以後というものには、たとえば成人式とかいったような けじめが少ないので、ぼやぼやしていると単なる惰性のみで生きてしまうことになりかねない。特に職に就いてしまうと、これから20年ないし30年はその職 場に安んじていても、うかうかとしていても、とにかく、生活だけは保障されるという気安さがあって、ごくありきたりのサラリーマンに成り果てかねない陥穽 が大きな口を開けているのである。

 そうした意味から、自分を年男と意識して、ひとつ今年は頑張ってやろうと、肝に銘ずることの意義を先には述べたのである。

 24歳。何かうかうかしているうちに24歳にもなってしまったような気がする。この歳になるまで、自分のやったものとして、誇りにすることのできるもの が一つとしてないというのは何と言ってもさびしい。もっと計画的に人生を生きてきたとすれば少しは誇りに足ることができていたはずである。つくづく努力の 足りなかったことが思われてならない。

 そこでひとつ今年こそという気がしてくるのである。今具体的な計画を立てるだけの時間的余裕はないけれども、思いつくまでに、努力目標みたいなものを掲 げておこう。

 まず今年は大いに読書することである。

 昨年中に読破した本は、大・中・小とりまぜて29冊である。これは一月に約2冊半、一週間当たり0.56冊読んだことになる。今年はこれを一週一冊に是 非したいものである。昨年のように三池の大爆発事故などがあり、連日退庁時間が12時近かったり、それを回ったりするような時に、一週に一冊というのは無 理かも知れないが、とにかく52冊読破の意気込みでやっていこう。

 次にフルブライト留学を目指してしっかり英語の勉強をしよう。まず会話をしっかりやることである。hearingの練習のために、Tape Recorderを買おう。毎日欠かさず耳の練習さえすれば、7月ごろまでには相当の力がつくはずである。

 この他にまだまだ書きたいことも多いけれど紙と時間がない。後は明日ということにして、とにかく今年も張り切って行こう、とだけ最後に付け加えておく。


新年を迎えて
1964.1.2
木曜日
1964.1.2

午前2時7分

* 深夜、遠くに犬の遠吠えがする。つい10分程前まで、皆起きていてずいぶん賑やかだった我が家もすっかり寝静まって時計の秒を刻む音さえはっきり聞こ えてくる。とにかく静かである。

* 今日は島田おじさんと碁を打ってついに常先まで漕ぎ着けた。最初は5子位から始めたのであるから、相当に進歩したものである。この分で進歩していけ ば、今年の暮れには互先ぐらいにまでは行きそうである。頑張りたいものだと思う。

* 夜はずうっとTwo Ten Jackをして遊んだ。姉夫婦に、僕達3人兄弟の5人の勝負である。3位の座は維持できるのだけどそれ以上にはなれなかった。どうも碁ほどに執着心が湧か ないせいもあるのだが、やっぱりすっきり勝ちたいものだと内心では思っているのである。

* 毎日、家からほとんど外に出ない。5日の「雲仙」の寝台券が取れたので、その日に帰るとすると、もう明、明後日の2日しかおれないことになる。また今 度帰って来られるのはいつになるかわからない。もう少しあちこちを見て回ったり、いろんな人を訪ねてもいいとは思う。

* 明日は長崎の長姉の夫婦がやってくる予定らしい。また一段と我が家も賑わうことだろう。母は、我々がたまに帰ってくるのだけが楽しみだ、としんみりし た口調で言う。わかっているのだけれど「もう、帰って来ないよ」なんてすげないことを言う。戒心!戒心!

碁のこと、
皆でトランプ
1964.1.3
金曜日
1964.1.3

午前0時57分

 午後島田のおじさんと碁を打った。常先で3連勝し最後に惜しくも1敗した。その最後の碁を打っていたらKKさんが来た。珍しく和服姿である。碁を打ち終 わるまで上がってもらって、終わってからもしばらく秀雄さんたちも交えて話などをした後で、一緒に彼女の家に行った。

 それから11時過ぎまでいろんな話をした。お互いに社会人一年生として見たこと聞いたこと感じたことなど、話は尽きなかった。

 われわれのわまりに結婚の話をタブー視する雰囲気がある。とはいえ、もちろん他人の結婚のことなどはあれこれと話しはするのであるが、実際自分の身に少 しでも関係のありそうな話しに立ち入ると少々煙たい感じがするのである。

 彼女が僕を愛してい、結婚を望んでいることは知っている。しかし、僕には今のところ彼女と結婚する意志はない。なぜか。それはなぜとは言えぬ理由ー理性 的には説明できないような理由からである。彼女がどんなにか献身的な妻になってくれるかは僕にはわかる。だけど、僕には何かピンと来るものがないのであ る。これだと心から身を乗り出していくような決定的なポイントを彼女に感じないのである。こうした心理で結婚しても決して僕にとっては仕合わせではないだ ろう。彼女が嫌いなわけではない。彼女の人柄の良さも十分知っているし、僕をどんなに愛してくれているかも知っている。

 今日の僕の態度には何かしらそ知らぬふりがあったことであろう。別れ際、もう来年まで会えない、とつぶやく彼女の声が僕の背後からとても寂しげに響いて きた。星は冷たくも美しく輝いていたが..........




KKさんと話す
1964.1.4
土曜日
1964.1.4

*今日が島原での最後の夜である。すでに午前2時40分。今母が風呂に入ったところだ。みんな他の連中は眠りに就いた。今夜は全員で13人にもなる。長姉 の一家が3人、次姉の夫婦、叔母と智子。それに我が家の祖母、父母、兄弟3人の計13人というわけだ。いたるところに布団がびっしり敷かれて、いつもなら 2人で寝るような部屋に4人も5人も寝ている。そんなわけで今夜も賑やかだった。

* 夕刻、島田のおじさんが碁打ちに見えたので、碁を打ち4勝1敗の成績で互先に打ち込んだ。これでやっと島田おじさん級になったわけである。しかし、こ れからはその棋力に安住せずにしっかりと頑張りたいものである。

*朝と言っても確かもうお昼のサイレンは鳴った後だったから正確には昼過ぎなのだが、なんだか遅く起きた僕には朝方のような気がした。みんなで写真を撮っ た。築山のあちこちにいろんな組み合わせで並び、写真を撮った。白黒とカラーと。どんな出来栄えか興味が湧く。

*その後でみんなで晴雲寺に行った。一人ちょっと遅れて門を出たらKKさんがお母さんと一緒に買い物の帰りらしく手提げ籠をぶら下げて10メートルぐらい 前を歩いている。追いかけてKKさんの家まで一緒に話しながら歩いた。彼女は明朝早く発つ。「さいなら」とさりげなく別れを言ったが、いつ再び会えるかわ からない心許なさが表情に見えた。悪くすれば一年以上も会えぬことになりかねぬ。その頃われわれはすっかり変わっていても不思議ではないのだ。

島原最後の夜





碁、互先に
1964.1.5
日曜日
1964.1.5

午後10時54分
 この日記を書き始めたのは、すでに東京の人となった僕である。昨日2時23分発の諫早行きの快速列車に乗ってから、今日4時過ぎ、三鷹駅に着くまでの約 26時間の間に、僕はすでに東京の人に変質してしまっている。

 言葉。おお、僕はもうちゃんと東京弁を話しますよ。自然な反応がすでに東京弁を引っ張り出すまでになっているのだ。僕を取り巻いている人々は全て東京の 人ばかり、島原の人ほど気の置けない連中は一人としていない余所者の国である。

 今夜もきっと島原の自宅では炬燵を囲んでみんなが楽しそうにトランプなどに打ち興じていることだろう。笑いの渦がここまで響いて来るような気がする。温 かい何のわだかまりもない団欒風景が目に浮かんで来てはひとしお懐かしさを誘う。

 わが身一つを今は他人の家において六畳間に一人、ひっそりラジオなどを聞き、あまりさえぬ頭持て日記などを記す。いと寂しきかな。

 明日は休もう。役所に行くのはよして、のんびりと正月休みの最後の一日を楽しもう。映画でも見に行こうか。誰かを誘って。

 明後日からまた役所勤めが始まる。それから一年、切れ目のない役所勤めの日が、そこからどうしても抜け出ることのできない役所勤めの日々が続く。なにか しら息苦しい感じが、休みぼけしたのであろう僕の頭には感じられるのだ。

 そうした毎日毎日、追われている中でしっかり自分自身を鍛え磨いていくのでなければ、本当に単なる生活のための役所勤め、生活のための身売りになってし まう。

 できるだけのことはしよう。自分自身を駄目にするのも良くするのも自分自身の意志の力にかかっているのだ。意志を強く持とう。

帰京
1964.1.7
火曜日
1964.1.7

午前1時30分 「ボヴァリー夫人」、読了

どの微笑にも倦怠の欠伸が、どの歓び にも呪詛の影が、どの快楽にも嫌悪が隠されている。そして無上の接吻さえも、さらに高い逸楽への実現しがたい欲求を唇の上に残すに過ぎない。

*青春客気の 時代というものは、ただ一日、ただ一分間に過ぎないにしろ、すべての俗人は、その青春時代には、無限の情熱、高邁な企てをいだき得るという満々たる自信を 持っているものである。いかに平凡な蕩児でもサルタンの王妃にあこがれることがあり、どんな公証人でも詩人の糟粕ぐらいは胸に秘めている。

午後1時30分

 上に書き出したのは「ボヴァリー夫人」の中の一節である。この書物の中にはこんな素晴らしい箴言が無数に見出される。上の二つもたまたま今日読んだ部分 から抜き出したに過ぎないのであって、書き出しはしないにしても、これはと膝をたたくようなものはこれまでも数多くあったのである。

 人生に対する鋭い洞察、肝をえぐるような奇抜な警句に、とにかくこの本はあふれているのだ。とはいえ、この本の最も優れた存在価値は、感情を交えぬ外科 医のメスのような鋭さで人間の心理の襞の一つ一つを抉り出し、そこにエンマという普遍的な一個の女性像を描き出したところにあるといってよかろう。われわ れはすでにエンマの住む世界が動き出していることを、本を読み進めながら思い知らされるのである。

 普遍的というのは、エンマが女性として普遍的であるという意味ではない。エンマは女性的なもののエキスである。そこにある程度の抽象化があるのは仕方が ないところであろう。しかし、典型化された女性としてエンマはやはり息づいているのである。男性の胸に、かかる女性を愛したい、シャルルとともに愛したい という気持ちを興させる魅力を持った女性なのである。

 エンマは、しかし、典型的な女性であると同時に、人間としての一つのタイプでもある。われわれだとて、どうして彼女の中に自分の分身を見出さずにおられ よう。エンマとともにわれわれもまた「.......しかし、もしこの世のどこかに、たくましくて美しい人がいるなら、熱狂と洗練とをあわせ備えた勇まし い気質、天使の姿めに宿った詩人の心、大空に向かって悲しげな祝婚歌をかなでる青銅弦の竪琴のような心情があるとするなら、それにふとめぐりあえないこと がどうしてあろう?」という夢想をこれまで一度もしなかったであろうか。われわれの人生はこうした夢想が現実の荒波に次々と洗われ、現実の磯辺に白いむく ろとなって打ち上げられるのを、一人寂しく拾い上げることの連続ではないのだろうか。われわれはそれゆえにこのあまりにも自由奔放に、安全など露ほどもわ きまえず、まるで小娘のように不実な恋に憂き身をやつすこのエンマという女を、自分の分身のように慈しみ、その死に涙を流すのである。彼女が現実に打ち負 かされ、一歩一歩と奈落の底へと沈んでいくのを、まるでわれわれに成り代わってそうした浮かぶ瀬のない深みに入って行くかのように思い、彼女をいとおしむ のである。われわれはあまりに世知に長けているが故に彼女のごとく純粋に夢想することを忘れ、夢想と現実との食い違いにもてあそばされることもなく、こう して無事に、わびしい毎日を淡々と送っていけるのである。

 ボヴァリー夫人は私だ。私が少なくとも過去において、裏切らなければならなかった、そして、置き去りにしなければならなかった私である。


 *フロベール(Gustave Flaubert1821-1880)は、Madame Bovary(1857)を書き上げるのに5年という歳月をついやしている。天才における5年と凡人における5年、しかも文学一筋に生きることのできたフ ロベールと役所にも勤めなければならない私とでは、その5年間の収穫も雲泥の差があることは必定であろう。しかしながら今年から5年を限って何か一つの文 学作品の創作に取り組んでみようと思う。フロベールにしてが一句を書き、一事実を調べるのに一日をついやしたという。この私にしても同様の努力を傾注しさ えすれば、少しはましな作品が生まれる可能性がなきにしもあらずだ。物事は努力をするところに結実するのである。最初の一作が凡作で終わったとしても悲観 するにはあたらない。また後5年を傾注するまでのことである。

 Madame Bovaryが5年の歳月をついやされて生み出されたものであるとすれば、すでに1852年には着手されていたことになる。作者31歳の時のことである。 それから5年間の一切を作者はその作品にかけるのである。それがどのような評価を得るか、たとえ作者がいかに自分自身の作品を自負していようとも、厳しい 批評家の目をくぐらなければ見当もつかないのである。しかも、いつ何時作者に死が襲って来ないとも限らないのである。一つの作品に5年間をかけるというこ とは、確かに一つの大きな賭けであり、自作に対する燃えるがごとき信念、不撓不屈の精神力がなければなしえぬ業である。

 私がこれからの5年間を一作にかけようとするとき、まさしくわたしにはフロベールと同じだけの覚悟がなければならないのである。単に作品を一つ生み出す のではない、自分自身の可能性を精一杯かけるのでなければ意味がない。とにかく、自分自身に対してだけは納得の行くような作品を一つ創作したいものであ る。



「ボヴァリー夫人」、読了
1964.1.9 火曜日

1964.1.9(火曜日、晴れ)

*今日の夕刊によれ ば鉱山保安局の局長が変わる。10日の閣議で了承を得る予定だという。

思えば田原氏は気の 毒な方であった。三池災害というような大災害さえ起きなければ2年間は局長の椅子にもたれかかっておれたはずなのである。昨年7月 に八谷氏からバトンを受け継いだばかりだった。就任後わずか五ヶ月目にあの事故が起こり、連日連夜多忙をきわめ、本当に寝る暇さえないような日が続いた。 まさしく退陣の公の理由となっている「激務に耐え」かねるような日夜が連日続いたのであった。決して有能な局長ではなかったけれど、やはり人の一生がこう してちょっとした巡り会わせのいたずらから急転するのを見ると哀れさを感じるのである。

 ところで、新局長 は、川原氏で ある。小島さんや僕らのクラスの採用の際の秘書課長である。佐賀県の出身で、人柄は穏健、通商産業省きってのアイデアマンで、中小企業庁は彼の構想によっ て設置されたといわれる。一時体を悪くし今もそれほど健康体ではないが、病床にあってものにした論文は川原論文として、高く評価されている。とにかく16年組としては最初の局長であ り、相当の抜擢であることは間違いない。

 一昨年の採用の 際、川原さんに はいろいろとお世話になった。東大で就職説明会の際、しっかりと手を握り締めて「がんばってくれ」と言われたことこそ、僕をして自信満々その後の面接試験 に立ち向かわせたのである。その後も、面接中にも僕が苦境にあると何かと好意的な助言を与えてくださったし、「君はどうみても九州男児だね」と並み居る試 験官の前で誉めてくださった方である。

この人物を迎えて僕も大いに頑張りたいものだと考えている。

 

局長異動の報道
1964.1.12 日曜日

1964.1.12(日曜日)

午前零時15

     今日は午後1時から猪俣倫子嬢とDateをした。去年の129日旅研のPartyの時に会って以来、初めてのDateである。うすいブラウンのOverを着て、渋谷の「でんえん」に彼女が現れたのは1時を20分ほど回ったときである。約 束は1時 だったけど、とがめようなんて気は全然起こらなかったのは、今考えてみると不思議だ。やはり初めてのDateで少々いつものようには気が回らなかったのかもしれない。「でんえん」で凡そ2時間ばかり話して、駒込の六義 園に行った。外は相当に強い風で、六義園もなんとなく薄ら寒く、ほんの1時間ばかりいて、新宿に出た。新宿の歌舞伎町にある民芸茶房「すずき」というところで夕 食を食べた。今日一番印象に残っているのは、ここでの話である。

     僕は最初のPartyのとき、自分の身分をあまり明らかにしていなかったので、彼女は僕を学生と思っていたら しい。「3年でも4年でもないと言っていらしたので2年かしらと思っていた。とうてい1年には見えないし」。これは渋谷の「でんえん」での話である。すでに卒業して勤めている と言ったら、少々驚いていた。そんなわけで「すずき」に行ってから、自分の職場のことをいろいろと話したのである。彼女は非常に興味を持って聞いてくれ た。

     「すずき」を出て、彼女の寮まで送って行った。渋谷の宮益坂をほぼ上りきったところを右 に折れたらすぐのところに彼女の寮がある。「東京で一番思い出深いものは」と聞いたとき、「寮の生活ね、やっぱり」と答えた彼女である。門限の8時には約1時間余して、「今度はいつかお 電話しますわ」とにっこり笑いながら、門の中に消えて行った。

     彼女の好きな色、Pink.

I嬢と初デート
1964.1.12-2 日曜日

午前零時41分。

     10日の夕刻課内で飲もうということになり、おつまみなどを地下の生協から買ってきて、ビー ルや清酒を飲んでいると、新局長が現れた。温顔をほころばせていらっしゃるが、同期の川原君が言うようにどことなく凄みがある。管理課でやや話をして課長 とともに姿が消えたと思っていたら、石炭課にいらっしゃるらしい。小島さんが迎えに行った。しかし、どうもミイラ取りがミイラになったらしい。そこで僕も 石炭課に行ったが、再びミイラ取りになった。

     局長がどうして商工省に入ったかの一席を拝聴するためである。初恋その他を織り交ぜて、 めったに聞けない話を伺った。管理課に下りていらっしゃってから10時過ぎまでも、実に面白い話があった。

     秘書課長時代の思い出で僕らの採用時の話もされた。連日18時間、実に500人もの人に会われるそうで ある。そのうち200人は体よく「あなたは大蔵省に向くでしょう」とか何とか言って断る。残った300人の中から選択する。それ はまるで釣りをするように楽しいことである。こちらは餌を何にもつけてやらない。給料は安い、仕事はどっさりさせる、等等と悪いところばかりを並べ立て る。それでも針に食いついてくる者ばかり。だけど他省と二股かけて、通産省に来てやるなんて考えているような連中は採用しない。少なくとも天下の大通産省 だ。そんな連中に来てもらわなくても、優秀なやつがうやうや集まってくる。

     そこで採用に際して、この連中が国民のために役に立つ連中かどうか、この阿部なり小島な りが国のためになるかどうかを考えて採用する。学校の成績なんか少しも重視しない。あれはナンセンス以外の何者でもない、等々である。そして最後に我々二 人に頑張ってくれとおっしゃった。頑張らずにはおられたものではない。

 

新局長のお話
1964.1.15
水曜日

1964.1.15

 

     成人の日。僕にとってはもう4年も前の話である。しかし、この成人式を迎えたばかりのお嬢さんが僕の部屋に今日の午後 訪ねてきてくれた。美しく装って。猪俣倫子嬢である。3回会ったうちで今日が一番おませにも美しくも見えた。

     ア ルバムを見せてと言われていろいろと見せてあげたけれど、「阿部さんは学生時代真面目だったの」と聞かれたのには参った。真面目がどんな意味かわからない ので返答に窮したが、僕のアルバムに現れる未知の多数の女性が彼女の頭にこんな質問を思い起こさせたと想像に難くない。

     「真面目といえば真面目。そうでないといえばそうでない。人間なんて真面目とかそうした 言葉で一色に塗りつぶされるような単純なものではない。ところであなたは真面目だったの?」

     これが僕の凡その返答である。彼女が僕の質問に答えられないでいるのを見て、「ねぇ、そ んなに一概に言えたものじゃないでしょう」とこの質問は片がついたけれど、彼女の質問の中にある種の関心方向を推測していいのかもしれない。

     彼女は一人っ子で、お母さんは、彼女が6年 生の時に亡くなられたお父さんの跡を継いで、広島で事業をやっていらっしゃるらしい。彼女はよく原稿を書いてとか言って人に頼る。一人っ子の甘えん坊だっ たようで、相当に我儘もしたらしい。それでもなんとなく可愛いし、魅力的なところがある。一体何を考えているのかわからずに時々僕のほうが戸惑ってしまう けれど、彼女と一緒にいて楽しくないことはないのである。今夜も彼女の寮まで送って行った。

     とても魅力的な笑顔を残して元気に寮の門に消えていったのは7時少々前の頃であった。


I嬢、来訪
1964.1.17
金曜日



1964.1.17

*今日は朝から雨が 降っていた。冬らしい寒さが身に染みるような一日だった。だけど僕にとっては寒ければ寒いほど、雲が厚ければ厚いほど、うれしい日でもあった。明日から水 上温泉にスキーに行く。

*僕が課内の幹事で これまでいろいろと手筈も整え、あちこちと交渉してやっと実現の運びとなった課内の旅行なのである。

3 日前までは水上温泉には雪がなかった。天神平に行けばなんとか滑れそうだと課長の話だった。そんことで、伊藤さんと相当やりあったりした。ところで今朝の 雨と寒さである。きっと山のほうでは雪が降っているに違いない、そう思った。幹事にとっては、この寒さもこの雨も気にならなかった。水上の宿のほうに電話 してみると、降っているとのことである。大穴スキー場でも滑ろうと思えば滑れぬことはないとの話だった。まさに今朝の天気図は僕にとっては有難いの一語に 尽きるものであった。

*明日の車中で飲ん だり食べたりする“酒菜”は、今日のうちに買っておいた。水上までの5時間半の道中、皆が愉快に打ち興じて行けるように、いろいろプランを練っておきたいもの である。

 

     昨日、小林直樹先生の「日本における憲法動態の 分析」を読み終えた。ちょうど先生から「旧ゼミの諸君から“本を読んでいる”という便りをもらうのは、大変うれしいことです。職場での御活躍を祈りま す。」という葉書を貰った日であった。

     この本のユニークさは、世論調査に表れた世論、国民の意識状況を緻密に分析することに よって、日本における日本国憲法の動態を広く実社会の動きの中でとらえてところにある。

     先生の熾烈な民主主義=平和主義擁護の思想が行面にあふれていて、詠む者の胸に強く迫っ てくる。公法学の分野にこうした法社会学的方法論を持ち込み、かかる成果を挙げられた先生の功績を偉としたい。(午後12時)


家内旅行、幹事


小林直樹先生の「日本における憲法動態の分析」読了
1964.1.22
水曜日
1964.1.22

*今日はもう1月22日なのだが、1月18,19日の課内旅行についてはどうしても記しておきたい気がする。それほど楽しい旅行だったのだ。

18日12時半通産省を出発し、19日夜の12時近く下宿に帰るまで、とにかく楽しいこと以外に何にも感じられなかったぐらいの旅行だった。

 今度の旅行は、宿を借りることから、バスの手配、スケジュールその他一切を幹事たる僕が切り盛った。課には幹事が3人いるのだけれど、旅行に行ったのは 僕一人だったから3人分を1人でやったわけである。でも、張り切っていたので、旅行中は少しも疲れなかった。

 とにかく着いたその夜、宿で3時まで麻雀をした。課長、雨宮、内山、僕のメンバーである。プラス66、ほとんど僕の独り浮きだった。課長はマイナス 56.酒の少々入った課長はとにかく愉快である。口も軽くなるし少々お調子乗りの感じで、誰彼の見境なくあれやこれと話しかける。

 3時まで麻雀をやるにはやった。しかし、5時半にはすでに飛び起きていたのである。前夜麻雀を始めた頃に降り始めた雪が途中で雨に変わってしまい、明日 のスキーはだめかと思わせるものがあるにはあったのだが、とにかく全員が5時半に起床し、天神平スキー場に出掛けたのである。

 われわれの心配は杞憂に過ぎなかった。バスで5分も行かぬうちに周りは雪景色に変わり、バスが進むにつれてますます雪は深く白く美しくなっていったから である。

 天神平ロープウエイで20分揺られて着いたこのスキー場は、まさに天神の名に背かぬ美しさで我々を迎えてくれた。白銀のスロープ。抜けるような空の青 さ。 神々しく横たわる谷川岳。ああ、スキー場にやって来たんだなという感じが全身に湧き上がってくる。

 課長に指導を受けてスキーを履く。まず歩き方から。そして直滑降。

 ところがである。その最初の直滑降でやすやすと30mばかり滑り降り、ちょっと山なりになったところにすくっとたったのである。

 この初すべりが僕に俄然自信をつけた。何事でもあれ初経験というものは、重要なものである。バットを持って初めて立ったバッターボックスでヒットが打て ればそれは生涯忘れがたいものになるだろう。後にも先にも一回限りしかないスキーの初滑りにおいて、こうも巧みに滑ったということは、僕にとっては忘れら れないものになりそうである。これからもきっと何度かスキーに行くことになるだろう。しかし、初めてスキー場に行き、初めてスキー靴を履き、初めてストッ クを使い、初めて滑った最初のそれで全然転ばずに滑ったということは、確かに僕にとっては嬉しい語り種となることと思う。

 こうして僕は自信を持ってスキーを開始した。スキーとはまた何と面白いものであろう。人々が熱中して冬山に出かける心理がほんとに良くわかった。課長に 手ほどきを受けて斜滑降、全制動ボーゲン等の練習を励む。斜滑降ができれば3日分の教程であるとか、とにかく3日分はマスターできたと思う。リフトで2回 も一番高いところに昇って行って、滑り降りてきた。まだ制動がうまくいかないので、止まるときは大方転んで止まらなければならない。でも、けっこう楽しい のだ。転んでも少しも痛くない。危ないと思った時は、とにかく転んでおけば大丈夫である。大いに一日中ハッスルして5時20分水上を発った。

 バスの中ではみんながこんなに楽しかった課内旅行は初めてだったと口をそろえて話している。歌声と笑い声が絶えない楽しい帰路であった。

課内旅行で 天神平にスキーへ

初スキー
1964.1.24
金曜日
1964.1.24
金曜日

*連日遅くなる日が続いている。今日も帰ったのは12時だ。来週の月曜日から鉱山保安法の改正案の審議をやる。それに間に合うように今大童で改正法案を 作っているわけだ。まさにやっつけ仕事の感がある。

 明朝局長が九州出張から帰って来られる。その前に一応の案を作っておこうというわけで、課長、伊藤さん小島さんそれに僕の四人で色々と議論していたわけ である。10時45分頃ともかくも案だけはまとまった。まだすっきりしないものが多いので明日の局長、来週の文書課、さらに法制局と審議が進むにつれて、 大幅の改正が加えられることであろう。しかし、ともかくもこうして法律を作る仕事に直接携わるということは面白いものである。しっかりやって行きたいもの である。

*連日このように忙しくてまったくプライベートの時間がない。たまの日曜もこの調子ではゆっくり休めるかどうかあやしい。本を読む時間が行き帰りの電車の 中でしかない始末だ。また、忙しくてものすごく食事時間が不規則である。あかげで胃腸の調子がものすごく悪い。ゆっくりと直さなければもうほとんど慢性化 しているので直りそうにない。こんあことで命取りになられたんじゃまったく情けない話である。

 日曜日には次姉が東京駅に着く。迎えに行くと電報は打っておいたけれど、その時間に体が空いているかどうか。Inomata嬢にreportその他の助 け船が出せるかどうか。
 とにかく忙しすぎるのっては嫌である。午前0時30分。

鉱山保安法改正作業に従事

胃腸の調子悪し
1964.1.25
土曜日
1964.1.25
土曜日

*午前1時05分(26日)
全然予想もしていなかった。今朝課長が課内の全員を集めて、話し始めようとされた時、僕はまだ多分ちょっとした訓示があるのだなぐらいにしか考えていな かった。開口一番「私は今日付で大臣官房審議官に発令され管理課長を辞めることになりました」

 一瞬みんながしんとした。それほど突然のことだったのだ。話す課長の口振りも寂しそうだった。みんなどんな顔つきをしたらよいかととまどっているのだっ た。愛ちゃんが「早いわねぇ」とかかなり大きな声でさも意外だという風に後ろの山西さんあたりに話しかけている以外みんな言葉にもならないことをブツブツ 言っていた。課長も、みんなから自分自身の寂しさを見透かされ、変な同情が集まるのを恐れるかのように笑いかけられるのだが、顔が引きつるようになってし まい、いかにも寂しい笑いになってしまうのだった。伊藤さんも「あまりに突然で……」とその笑いに同調してみても、最後まで明朗な笑いでありうるはずがな いのだった。

 局長が辞任した責任問題がからんでの今度の人事であろう。局長を辞任に追い込んだのは補佐が悪かったのだという論理であろう。

 小島さんとも話したことだが、こうして我々の前を幾人もの局長・課長が通り過ぎて行く。一人一人がいい人であり、なつかしい。もっと深く接触しておけば よかったと心残りがしてならない。

 僕にしてみれば、7月以来わずか7ヶ月足らずのうちに三代の局長と三代の課長に仕えるわけである。まさに動乱の時代にいきているような気がする。

 課長には先頃のスキー旅行で手を取ってスキーを教えて貰ったこともある。とってもいい人であった。今後のご多幸を祈りたい。

 ブラームスのヴァイオリン・コンチェルトII

課長辞任
1964.1.27
月曜日
1964.1.27
*午前0時51分(28日)

昨日は、順序よく話せば、姉を東京駅に迎えに行った。正月に帰ってからずっと島原にいたのである。善子おばさんからのお土産と言って<諫早おこし>を持っ てきてくれた。その他にちくわやかまぼこやのんきりなども。昼を神田の「藪そば」ですませた。少々古風な構えの店でかなり通が来るものらしい。
<せいろう>が80円、<鴨南蛮>が180円。それだけおごってもらった。おいしかった。

*2時に三鷹駅で待ち合わせたのに例によって30分も遅れてくるのはInomata嬢である。2月1日に親友「マーちゃん」のWeddinng Receptionに招待され    Table Speechを頼まれたとかで、その原稿を書いてくれとの仰せである。色々助言めいたことは言えても自分自身で筆をとって書くとなるとなかなかうまくいか ないものであることをつくづく感じた次第である。

 彼女は薄手のウールでできたピンクのブラウスを着ていた。白いビーズで刺繍のしてあるなかなか感じの良いものだった。

 その前日、彼女に    Telすると開口一番「首の骨を折ったのよ。それで今首にぐるぐる包帯をしてるの」と驚かす。「首に湿疹ができて日赤病院に行ったら相手にしてくれなく て」というのである。その湿疹たるや見て驚いた。目を皿のようにして見ない限り目にもつかないような代物で、首筋の少し左寄りのところがほんのちょっぴり ピンクに染まっている程度である。医者が取り合わないのも宜なるかな。彼女も最初は部屋に入っても恥ずかしそうにしばらくグリーンの襟巻きに隠して見せよ うとしない。
「大げさだったかしら」
まさしく!

東京駅に姉を迎える

Inomata嬢とデート
1964.2.16
日曜日
1964.2.16
日曜日

*ずいぶん長い間日記をお留守にした。今日開いてみて実は驚いたくらいだ。自分では、こんなに長いこと日記をつけずにいたなんて気は少しもしなかった。今 夜は遅いから、億劫だからと屁理屈を相当長い間並べていたことになる。

 だから、こんなに長い間お留守にしていたからといって、この約20日の間に書き記すに値するものが全然なかったと思われては困るのである。とかく世の中 では、下らぬ屁理屈が通りがちなものなのであるから。

*この間、僕は4冊の本を読み上げ、5本の映画を見た。それぞれに一頁を割いて批評するに値する書であり、映画であるのだが、すでに午前0時半に近い今夜 それをすることは無理である。いつか都合のよい時に譲らなければならない。

*2月3日月曜日夜の8時少し前。I嬢に電話した。彼女はいかにも困ったというような声で「実は私の方からお電話しようかと思っていたのよ。昨夜も7時頃 にもお電話したんだけど……」「今から会って下さらない、渋谷で。HAMLETに関するReportのことで、お願いがあるの」

 僕はもちろん渋谷にかけつけた。その僕に彼女はそのReportをまるっきり書いて欲しいという大仕事を押しつけてしまった。しかも、期限は5日の朝9 時半というのである。4日の夕刻5時少し過ぎ、虎ノ門にある本屋で岩波文庫のHamletを手に入れたが、その夜は残業が遅くまであって下宿に帰ったのは 11時だった。
 それから精意Hamletを読破し、メモを取り、outlineを2〜3枚にまとめてessay執筆にかかった。大判のreport用紙6枚の reportを書き終えた時には朝の7時になっていた。それから小1時間眠って9時半の約束の時間にはきちんと日比谷公園の冷たい空っ風が無情に吹き付け る朝の光の中で、彼女を待ってたたずんでいた。ところが肝心の彼女がその時刻にやってこないのである。
 腹を立てて40分まで待ち、一旦役所まで行って、引き返してきてみると、今度は彼女が冷たい空っ風の中でたたずみながら待っていた。
 その朝の彼女はなかなかcharmingに見えた。僕の方と来たら一夜の徹夜で無精ひげが伸び、皮膚が生気を失ってしまい、見るも哀れな様子をしていた に違いない。輝くような皮膚の彼女を前にして、我ながら、少々引け目を感じたのである。もちろん、僕をしてこのような生気ないものにした元兇は彼女であ る。しかし、恋にとってはそうした言い訳はなりたたない。たとえ彼女のために火の中水の中に飛び込み、片眼でも失い、片足でもびっこになろうものなら、冷 たく去って行ってしまいかねない恋人もいることであるから。いや、得てしてそういうことは起こり勝ちなのだ。つまり、たとえ、どんな雄々しい振る舞いで も、その雄々しい振る舞いの挙げ句に彼女に幻滅を抱かせるほど落ちぶれては元も子も失ってしまいかねないという教訓なのである。
 それはまたこういうことについても言える。一連の会話の脈絡の中では、十分理由もあり、その場では笑い飛ばして少しもおかしくないような言葉であって も、その言葉だけすべての脈絡の中から切り離してみたとき、ぐさりと胸をえぐり、心胆を寒からしめるような言葉は、どんな親密な仲であっても、いや親密で あればあるほど、決して言ってはならないということである。
 たとえば、鼻のことをすごく気にしている女の子に向かって、会話の流れの中で、自分が彼女の鼻のことを少しも気にしていないことを示す絶好のチャンスが 訪れたとばかり、下らぬ言葉を弄したばかりに、彼女がついに冷たくなってしまうような事態も生じかねないということである。
 というのは、彼女は一人きりになって、ふと恋人の言ったその言葉を思い出す。その時にはなんとなく笑い飛ばしたものの、今となってはその前後の会話の脈 絡は全然思い出せない。その言葉だけが岸壁のように彼女の前に立ちはだかり、彼女はその言葉の中に、男の意地悪さ、冷ややかさ、彼女の劣等意識に対する無 関心、無理解をはっきり感じ取ってしまう。
 彼女はこうして恋人に対して冷ややかな女性と化してしまうのだ。
 とにかく、話を元に戻せば、彼女は僕の徹夜の労に最大の感謝の意を示して虎ノ門の地下鉄の階段を降りていったのである。
 その日にも電話をかけ、今日まであわせてその日から5回電話した。
 昨日、渋谷の”Miami"で久しぶりにDate。彼女の試験は20日に終わる。しかも、3月の23日には彼女はもう東京にいなくなってしまう。その間 の約1月がわれわれにとって自由な時間なのである。
 ”ああ、東京に出てこなければ良かった。”
 彼女は昨日のdateの中でため息をついた。どうして今更広島なぞに帰りたかろう。こうして僕らの仲が毎日親密さを加えようとしている今、人間はあまり にも美しい楽しい思い出のために幾夜もまぶたを濡らさなければ生きて行けないものなのであろうか。
I嬢のためにHamlet のレポートを書く
1964.2.17
月曜日
1964.2.17
月曜日
午前0時5分
 ベートーベン書簡集(小松雄一郎著 岩波文庫版)を今夜、今しがた読み終えた。素晴らしい読み物だった。
 この書を読む前から、僕はベートーベンを深く尊敬していた。「あなたの尊敬する人は?」という問いにはっきりとBeethovenと答えていたものだ。 この本を読み終えた今、Beethovenのより一層赤裸々人間性に親しく触れ得た今、僕のBeethovenに対する敬愛の念は、減退するどころか、一 層激しくかき立てられたようである。僕は今や断固として、Beethovenをして自分の敬愛する人と言いうるのだ。
 Beethovenほどに真摯にこの世を生きた人がこの世にいるのだろうか。Beethovenの書簡を通して僕が一番痛切に感じたのは、この巨人の人 生に対するひたむきと言って良いほどの真摯な生き方であった。ひたすら己の信じるところに邁進するBeethovenの生活態度には誰もが敬服の頭を垂れ ることだろう。偉大な魂は常に偉大なものを求めるのである。偉大な魂は常に偉大なものを希求し、それを吸収しさらに偉大さを加えていくのだ。
 偉大さを童子のごとき天真爛漫さを兼ね備えた魂よ!結ばれぬ恋に涙を流す乙女の心を持った魂よ!幻術の神の前にまるで養女のごとく謙虚に額ずき、9歳の 少女ピアニストにも優しく語りかける温かい魂よ!
 「わたしは人間が人間に対してすぐれていると言われるのは、より一層善良な人間として数えられる、ということ以外には認めません。こういう人のいるとこ ろがわたしの故郷です。」
 ヴィーンは彼の故郷であるボンでなかったように彼の心の故郷でもあり得なかった。この巨匠もまた常に人間の社会に生活しその中で苦戦苦闘し、57歳の短 い生涯を閉じねばならないのだ。自分の甥に対するBeethovenの「態度は見る者にとって、あまりにも痛ましい情景ではある。かくも偉大な魂が、裏切 られ、手荒くはね除けられ、血みどろになりながらも、ひたすら頭を低くしてカルルの愛を求めるのを、胸を掻きむしられるような思いで見た。 Beethovenの善良さが、彼を導く徳が、彼のあまりな馬鹿正直さ加減が、ーと言いたいくらいに実際なるのであるがー一種の哀れさを誘うのである。し かし、どうしてそうしたBeethovenに、我々が一層低く頭を垂れずにおれよう。
 Beethovenの自然に対する限りない愛情をこの書簡集の至る所に見つけ出すことができる。彼は自然の腕の中に抱かれて心の平安を得るのである。自 然の中に包まれて彼はミューズの女神の激しい抱擁を感受するのである。自然の偉大さもまたこのつんぼの音楽家の魂の偉大さを知って、ある時はおおように抱 擁し、ある時は激しく叱咤するのである。
 Beethovenはまた激しい愛情の持ち主であった。恋人宛の書簡を読む者は、若々しい彼の情熱のほとばしりに我知らず胸をときめかすことだろう。彼 もまた我々と同じく、女性のいたずらっぽいほほえみにも心を揺さぶられる人間なのである。
 楽聖と呼ばれ、あらゆる賛辞の的となり、現代においては不幸にも偶像視化されつつあるベートーヴェンは、決して単なる音楽的な偉大さをもって評価され尽 くされるような種類の人間ではない。
 彼は全人間的に偉大だったのであり、彼の偉大な作品の前にまずそれを生み出した偉大で強靱な魂があったのだ。彼は人間的により近しく知り合うことによっ て失望させられるような存在ではなく、むしろ逆にその輝きを増すような、世にも希な偉大な存在であったのだ。

ベートーベン 書簡集、読了
1964.2.21
金曜日
1964.2.21

金曜日

*     この世は我々にとって両極端があるにすぎない。生―それは一切のものであり、死―それは皆無である。生きていることの素晴らしさはーその中に全てのものが 含まれているからだ。崇高と穢汚。華麗と悲惨。壮大と矮小。この世は何と限りない光と暗黒に満ちていることだろう。この二つの物質の織り成す微妙な陰影の 中に、我々はこの世における最高のものから最低のものまでを見、感じ、味わうのである。



*今夜、帝国ホテルに駆けつけたとき僕がそこに見出したのは、まごうことないこの世の傑作であった。こんなきれいなI嬢をこれまで見たことがなかった。和 服―それは何と彼女にぴったりしていたことだろうーを見事に着こなして、美しく化粧したI嬢には思わず僕はため息を誘われたのである。帝国ホテルのロビー を僕はまるで世界一の美女と歩くような気持ちで闊歩した。確かに彼女はそこら中の女性の中で一番美しく僕には思われた。

 帝国ホテルのバーでほんの一杯ハイボールを飲んで(彼女もPink Ladyをほんの少々)僕らは渋谷までtaxiに乗った。僕のすぐ右隣に座っているそんなにも美しい(おまけにPink Ladyのために少々彼女の頬はPinkに染 まっていた)彼女を僕は何度抱きすくめようと思ったか知れやしない。膝の上に組んだ彼女の透き通るように美しい手をやにわに握り締めてやろうと何度思った かしれやしない。でも、僕の意気地なさには、taxiはたとえあと30分余計に走ったとしても勝てなかったろう。

 ああ、Iはあの時いったいどんなことを考えていたのだろう。僕が唐突に彼女に襲い掛かっていたとしたら…僕がやにわに手を握り締めたとしたら…いったい いったい彼女はどうしていたろう。

おおこの世はまた何と華麗であり、悲惨であることか。恋する男にとって。



1964.2.22
土曜日
1964.2.22

土曜日



*     I.とDate。410pm~710pm  at Kojimaya at Shibuya

*     とっても楽しかった。いろんなことを話した。彼女の両親のこと。趣味。生き方。思い出話。Etc.etc.

*     「口で言うほどでもないことがわかったでしょう」と彼女が言う。「ほんとだね。本当は君はとっても真面目で慎重で…」

*     彼女は自分でも認めるようにときどき口先だけで少々大げさなことを言う。けれども根はとっても考え深い、気立ての良い、ごく当たり前のお嬢さんなのだ。少 々自分自身の偽りのイメージを他人に与えて喜んでいるふしがある。だから、今日は「口ほどでもないね、君は」と言ってやったのである。この育ちの良いお嬢 さんは、恥ずかしそうに笑うのである。正体が分かってくるにつれて、彼女はますます僕には好ましく思われてくる。そこまで気の回る女の子はそんなにはいな いのである。

*     また、彼女は今まで付き合ってきた男の子は確かに格好ばかりは良かったけれど話すことに味がなくてといったようなことを匂わせた。Miamiのご同伴席の ある階数を思わず話してしまって、下を向いて小声で「でも、あんなの嫌い!」。これを言い訳と聞くべきなのだろうか。

*     アラン・ドロンのことに絡ませて「忘れられなくなったらどうしよう」といったような気持ちを彼女はほんのほのかに示しても見せる。

*     結婚したら私なら貰えるものは何でも貰っちゃう、と暗に僕が彼女のお父さん(は養子だったらしくて、彼女の母方の親から借りた金に利子をつけて返したとい う)に質問するのに対して反対の気勢を示す。僕が結婚したらということがその背後に少々感じられなかったろうか。

*     結婚の年齢差は1年は嫌、4,5年がいい。私は目上の人が好きなの…I.


1964.2.23
日曜日
1964.2.23

日曜日

*     いつも私にとって日曜日は、一幕物の芝居のようにまったくあっけなく幕を閉じてしまう。

*     今日の開幕と来たら、午後4時なのだから、たとえ幕が下りるのが午前1時だろうが、普通の日に比べれば半分ほどしかないことになる。

 開幕早々に部屋掃除を した。部屋は清々として、勉強にしろ、思索にふけるにせよ、次なる精神的労働のために絶好な状態にはなったのではあったが、それからがまずかった。とにか く午後4時までほとんど何も食べていないとすれば、人間たるもの理性にとって代わって、胃が行動の支配権を持つようになるのは避けられぬことなのであろ う。食料品の買出しに出掛けることになった。

*     順調に1300円ばかり食料品を買い込んでさて家路につこうとしたせつな、ふと頭に浮かんできたのは、ちょっと碁会所を覗いてみようという、やむにやまれ ぬ衝動であった。それをぐっと抑えるのが理性なのであるが、なにしろそのときは、胃に行動の支配権を握られている。その頼りの胃が、ひもじさもなんのそ の、おめおめとその衝動の赴くところに引きずられてしまったのである。

*     碁会所に入ってしまってからでは、たとえどんな理性的な胃であろうと、いかに理性がひもじいときは早くご飯を食べたほうがいいと絶叫しようと、もはや、私 を引きずり出すことは出来ないのである。

*     とにかく、家に帰ってきたのは12時15分前である。これでは一幕物の芝居以上にあっけないと嘆かざるを得ない道理である。0時半ごろからフロに入って、 出たのが1時20分。それからしばらく日記をつけていたら2時まであと10分しかない。あわてて今夜も幕を下ろすより仕方がない。

*     これが私の日曜日である。


1964.2.25
火曜日
1964.2.25

火曜日

○     Dance Party(invited by Miss Watanabe).

○このところ僕は音楽ないし音楽家に関する書物を興味深く読んでいる。17日には「ベートーヴェン書簡集」を読み上げ、ベートーヴェンの偉大さに今更のご とく打たれて、すぐさま彼の「音楽ノート」に取り掛かった。この100頁あまりの小冊子の中に盛られた200余りの箴言の中にベートーヴェンの生涯を貫く 重要なライトモチーフを見る思いがした。彼はその強靭な精神力をもって「かくあるべく生きるべし」という彼の精神の命ずるところをまさに真摯に生き抜いた のである。

○さて、今はシューマンの「音楽と音楽家」を読んでいる。青春の香気に満ち溢れたこのロマン派の大家の清新な文章はまことに歯切れがよく、その天才的な慧 眼をもって、古今の音楽の分野における大家の作品なり肖像なりを鮮やかに描き出してみせるのである。彼の文章を読んでいると、その行間に音楽を感じる。彼 のペンによって讃えられている作曲家なり作品なりが目に浮かび、耳元で鳴り始めるような気がする。音楽評論というものの「本物」に接したような気がする。 これまで読んだ多くの音楽評論のたわいなさが思われてならない。

 この本の中ではまさに天才と天才がぶつかり合っているといってよい。論ずる者が天才であれば、彼がその論評する作品の不朽性を云々するとき、それはまさ に万鈞の重みを持つのである。彼の予言が今日ことごとく成就していないだろうか。天才は天才を求め、天才に遭遇し、天才を愛するものである。天才と天才と の間に通ずる一種の霊感とでも言うべきものが随所に感じられる素晴らしい本である。後20頁ほどで終わる。

ベートーヴェン「音楽 ノート」

シューマン「音楽と音楽家」
1964.2.27
木曜日
1964.2.27

木曜日

○     24歳の若者にとって、この夜、心が幸福(しあわせ)に満ち溢れ、すべてのものが喜びの源でなかったとしたら、恋とはなんと言う石女であることだろう。つ い2時間ばかり前、あの白いやさしい手は僕の手の中にあったのだ。ほんの30秒ぐらいだったからといって、それが僕の心の喜びをどれほど減らすことができ るだろう。

○     Coffee Shop ”River”(at Shibuya)で、僕らは2時間ばかり楽しく語らいあったのだ。今日ほど僕らが親密に寄り添って語らいあったことはなかった。僕があの人の横顔の美しさ をため息をつきながら味わっていると、あの人はあの人で時折あのはっとするような美しいやさしさの溢れた笑顔で僕に正面きって話しかけてくるのだった。僕 らはお互いの心が、言葉の端々に親しみの度合いを刻々深めていくのを半ば恐れながら、半ばある種の幸福の予感を持って見守っていたのだ。僕らはそのとき いったいどんなことを話し合ったのだろう。あの時の心のうずきだけは思い出せても、話の中身はなかなか頭に浮かんでこないのだ。

○     僕がこんなことを聞いた。「あなたはいったいどんなことを考えたり、思ったりしているの」「いつも?」「うん」「そうね、広島のこと」「それから」「母の こと それに阿部さんのこと」「…ほんとに僕のことをときどき思い出してくれる?」「それは思うわよ、もちろん」

○     ああ、なんと彼女はきっぱりとそう断言してくれたことだろう。そのとき僕らのー少なくとも僕のー心は、突き抜けるような喜びーそれでいて一種の耐え切れな いような甘いやるせなさを含んだーに打ち震え、それに、胸を強く圧迫されてしばらく物も言えないしまつだった。

○     僕はそのときなにものかに酔い痴れ、そのまま今までと違った世界の中にフラフラと迷い込んだような気がしたのだ。そこでならあの恋愛における最初のきっか けともいえる「愛している」とか、「好き」とか言う言葉がなんの躊躇もなく口に出せるようなそんな世界に。自分の心がそうした言葉をほんとに反射的に言っ てしまおうという誘惑にとらわれたのをやっとの思いで押しとどめてしばらくたってからこんなつまらないことを言ってしまった。「僕のこと好き?」

○     おお愛は表明するものであって尋ねるものではないのである。むしろ僕は最初の衝動に従って「君のこと、とっても好きだ」とでも、言うべきだった。何か胸の 底からこみ上げるものを抑えるように、きっと向こうを向いたまま頬を紅潮させ夢見るように美しかった彼女は、僕のその言葉に、僕らが今二人して赴いたその 世界から再び理性の世界に舞い戻ってしまったのだ。彼女はしばらく考えた挙句に「どっちとも言えない」と言った。「だってわたしたちまだ知り合って日が浅 いでしょう」そのうえ、こんなことまで言うのだ。「阿部さんはなんだか、お兄さんみたいな感じがするの。教養があって、何でも知っていらっしゃるし、いろ んなことを相談しても頼みがいがあるし…。だから私ずっとお友達でいて欲しいなと思っていたの」「君の言わんとしていることはわかる」という僕の心の中に は、一種の悲痛さがあった。僕は彼女にとって敬愛の対象ではあっても、愛の対象ではないのだろうか。それなのに僕の口のほうは勝手にこんなことをその頃 言っていたのだ。

○     「ほんとにいつまでもお友達でいて欲しいと思う?約束して」と。そう言って、僕は小指を差し出した。彼女は僕の小指に、その白く美しい小指をきつく絡ませ て僕の瞳の中を覗き込みながら小声で「約束する」と言ったのだ。

○     僕らはしばらくして”River”を出た。渋谷の裏通りの、夕刻から振り出した小雨に濡れた街路を二人とも黙って歩いた。人通りのないその街路をコツコツ と足音をたてて歩きながら、僕は一種のジレンマに陥っていたのだった。

○     彼女のさっきの言葉は僕に対する愛情を拒否する言葉なのだろうか。単なるお友達として単なる良き相談相手としてしか、彼女は僕を見ていないのだろうか。そ うとなれば突然僕が彼女の手を握り締め、そのうえ唇でも求めるような挙に出るとしたら、僕らの間はそれっきりになるのだろうか。それにしてはどうして彼女 はこんな人通りのない道を選んだのだろう。わからなかった。そんなまま僕は彼女に指一本触れることなく、宮益坂のあのジンタンの眩しいようなネオンサイン のところまで来てしまっていたのだ。

○     彼女はいつものようにちょっとおつにすまして黙りこくっている。

○     「君はまた怒ったような顔をして、取り付く島もないな」と僕はちょっとすねてみた。彼女は心外だと言わんばかりに「だって、そんなつもりなんかこれっぽっ ちもないことよ」と僕が安心するようなほほえみを見せた。「あれやこれや言いたいことがいっぱいあるような気がする。それなのに何も言えないうちに、いつ も僕らはお別れのところまで来ているんだね」

○     事実、もう彼女の寮の入り口のところまで来てしまっていた。

○     「それではまた三月にね」と彼女は僕のほうに向き直って言った。「うん、三月にね」と言って、僕はそのままそれっきりのそっけない別れを予感してぎくりと した。これから約10日間の別れをこんなにもあっけなく別れようとしているのかと思うと、僕はなにか耐えられないような寂しさに襲われ、一瞬フラッとした のだった。と彼女は右手をそっと差し出したのである。僕の心は最初ハッと驚いたのだった。そして予想だにしなかったこの贈り物に不覚にも動転しながら、あ わててポケットの中から手を引っ張り出したのである。

○     僕は彼女の手をきつく握り締めた。彼女もそれに応えながらそれでもそれはただの握手として終わらせようと手を引っ込めた。「しばらく握らせておいて」僕は 息急ききって言い、彼女を門脇のところにちょっと引っ張って行った。「だってこれまで一回も握らせようとしないんだもの」彼女はそれにほんの少し抗うふり をしながらも、心と体のどこにも少しの反対も示さなかった。がすぐ背後に足音がし始めた。それに彼女は怯えて「もう中に入れて」と甘えた。「広島に着いた らお葉書を差し上げるわ」僕を見上げる彼女の目がきらきらと輝き、背後の足音はますます近づいてきた。両手にしっかり握り締めた彼女の右手を、僕は門のと ころに立ちながら彼女がその中に入っていくにつれて、しぶしぶ放していかなければならなかった。

○     「さよなら」「さよなら」僕はもう一度言った。「さよなら」「サヨナラ」

○     彼女は足早に門の中に消えていった。僕の背後の足音はもうすぐのところまで来ており、僕は振り返るわけにもいかなかった。そっとそっぽを向くようにし、足 音を後ろに門の向こうに行き過ぎると、足音は僕のすぐ脇を通り抜けるようにして、門の中に消えていった。足音が遠のくのをしばらく待って門の中を覗き込む と、二、三人の女の子が普段着にover coatと引っ掛けたようない でたちで建物の陰の暗闇に中に消えていくところだった。

○     僕は喜びと悲しみとがごっちゃ混ぜになったような憮然たる面持ちで門の前から離れたのである。いつしか粉糠雨に街はけぶっていた。

<午前1時>


1964.3.6
金曜日

1964.3.6

午前0時20分

     彼 女が東京を離れてからもう一週間になる。その間何の音沙汰もない。毎日彼女のことを思い出す。今日こそ手紙が来てやしないかと思いながら帰宅する。彼女の 言うことが本当なら明日東京に帰ってくるはずである。でも、お手紙を書くといいながら今日までなんとも言ってこない伝で行けばそっちのほうもあやしい。

     広 島のほうが面白くて、僕のことなど遠の昔に忘れてしまっているのかもしれない。どうして彼女とこのまま別れっぱなしでいられよう。自分でも分からぬこの愛 しさ。どうしてこんなにも好きになってしまったのだろう。3月末に彼女が東京を今度は本当に離れるときのことを思うと今から胸が張り裂けそうになる。どん なに寂しいことだろう。毎日彼女の面影を胸に思い浮かべるだろう。だが、それでどうなるというものでもないのだ。彼女と話すことも会うことも全然できなく なるなんて!耐えられそうにない。

     でも、耐えねばならないのだ。3月ももう7日だ。彼女は今月の21日には東京を発つ。も し、今日帰ってきて明日会えたとしても彼女に会えるのはせいぜい2,3回だ。

     ああ、彼女をぐっと抱きしめたい。彼女の思い出をこの僕の胸の底に焼き付けるためにも。 そして、彼女の胸の中にこの僕を忘れがたい存在とするためにも。その2,3日のチャンスを、僕は僕らのこれからの美しい思い出のために最大限に利用しなければな らないのだ。

     何と言っても一日も早く彼女があの魅力的な声で、電話口でもしもし、と帰京を告げて欲し いものだ。

 


1964.3.8
日曜日

1964.3.8

日曜日

     12時頃起きだしたらIZから電話があり、1時に荻窪で落ち合って新宿に出ることにした。昨夜来の積雪は、春らし い湧き上がるようなかなり強い風に、僕が起きだした頃はほとんど融けてしまっていた。新宿御苑を散歩したり、ルフランという喫茶店に入ったりして6時ごろ までつきあった。

  先月の23日に彼が訪ねてきて、自分は女性には少しも関心が持てない。僕はつまりか たわなのだ、と秘密を打ち明けてくれたので、僕らの間には今や一切の気兼ねも秘密もないのだが、だからと言って彼がのうのうと自分の恋人(?)の話をした り、写真を見せてくれたりするのには、少々うんざりさせられる。時折人目を引くようなきれいな女の子に出会っても、その子のことを共通の話題にすることが できない。お互いにてんでバラバラに自分の好き勝手のことを話すようなことになる。

     彼はこの27日に大阪に彼の恋人を訪ねていくのだそうである。その相手の写真と手紙をご 丁寧にも持参してきて僕に見せてくれたけれど、やはり僕には一種の不潔感が先立って、見ても少しの興味も湧かなかった。いったい僕らの友情はどんなきっか けで始まったのだろうと気にかかり出した。

     彼がこの僕に彼の恋人に対する気持ちのようなものから接近してきたとなると割り切れぬも のを感じてしまうのである。

     とはいえ、僕の心の中にはこれまでそうした疑いとか不純なものなど、ほんのひとかけらさ えなかったことは事実なのだ。これこそが僕にとっては唯一の友情のよすがである。僕を信頼すればこそ、自分の秘密を打ち明けてくれた彼の信頼に応えるべ く、この友情をできるだけ永続せしめたいと思う。そのためにも、彼がいわゆる“健全”さに立ち戻って欲しいと思う。それは我々の友情にとってもプラスにな ることであると同時に、それ以上のプラスを彼自身の生活にももたらすに相違ないからだ。常には常識的な健全さの味方ではないにしても、こういうことにおけ る常識の強靭さはまだまだ抜くべからざるものを持っているように、僕には思われる。

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     自分がこの世からたった一人で突然の朝、消えて行かなければならないことを思うと僕は無 性に悲しくなる。本当に突然にある朝、僕らは死に直面させられるのだ。僕らがどんなに年老いているにしても、どんなにしっかり心の準備を重ねるにしても、 死の訪れは確かに誰にとっても突然の、思いがけないものであるに違いない。

     僕はしばしば突然の死の予感に背筋を冷たくする。自動車が猛り狂うかのように僕のすぐ側 を通り過ぎた刹那、ぐちゃぐちゃに押し潰された血みどろの手足、肉体にしがみ付こうとしながらも、死神に無理やり引き裂かれる生命を眼底にまざまざと思い 浮かべ、ぞっとするのである。

     今日都会では至るところに死の可能性が転がっている。毎日毎日僕らは死の脅威の前に、ま るで白旗を掲げた兵士のように無力のまま立たされているのである。僕は自分自身をまだ十分に若く、幾多のヴァイタリティを秘め、これから大いに活躍しなけ ればならない存在だと考えている。しかし、たとえ僕がいかに有能であり、いかに若くはつらつとしていようと、この若さと将来の有用性というものは、なんら 僕の生命の安全性を保証しはしないのである。死と直面していることにおいては、老人も若者もまったく同じなのだ。単に肉体的な衰えの点で一般的には老人が 少々不利な立場に立たされているとは言えるにしても。だから、逆説的にいえば、すべて人間は常に死に切れぬ死を死なねばならないのである。

     僕は本当に強く生きたいと思う。本当に死にたくないと思う。もし、肉体の老衰のみが死の 唯一の要件であるのなら、せめて後50年は生きたいと思う。今は、少なくとも今は、まだ何ものも獲得せず、何ものにも勝利の旗を打ち立てていない今は、絶 対に死にたくない。

     僕ほど生きていくことの素晴らしさを意識的に、しかも、しばしば胸に刻みつけているもの はそんなには多くはいないように思う。生きていくことのなかに僕はすべての善きものを見出すのである。

     恋の切なさが、ときめきが、女性のやさしさが、美しさが、たとえこの世でどんなにささや かな、人目に隠れて咲く小さな花であろうとも、僕はそれを息を弾ませて愛撫するのである。

     この大自然が時々刻々その容貌を変え、ある朝は銀色に輝き、ある夏は灼熱の思いに燃え、 ある夕べ突然の怒りに轟然たる雷鳴を轟かせようとも、墓石の下の冷たいなきがらにとってそれがどんな意味があるというのだろう。

     処女であり、生気にあふれ、美しい今日といふ今日こそーとマラルメが詩(うた)うよう にー確かに今日という今日こそわれわれはあやまたず、その魅力を余すことなくとらえ、自分の胸の中にしっかりと刻み込んでいなければならない日なのであ る。

     時々刻々が無為に終わることの中に我々は痛恨の涙を注がねばならないのだ。我々の心が無 限の空間を包含し、無数の思いに様々に彩られるその姿を、我々は、時を移さずnoteに記録しなければならないのだ。今日という今日は、2度と帰って来ない。ちょうど天国に 旅立ったわれわれの先達が、たとえ生前いかなる宗教を信じていたかにかかわりなく、2度とこの世に帰って来ないのと同じように、失われた時間は2度と帰っ て来ない。

     今日という日を失いたくなかったら、ちょうど先達がしたようにそれを克明に記録せねばな らないのだ。優れた偉大な先達の中の少数の人々は、自らの記録を、人類の心という巨大な最良のnoteの上に残して死んだ。それ故、人類の心をめくれば、それら偉大な人物の思い出が無数に見 出される。そうして、その時代とその人物の姿をわれわれはまざまざと今日にあっても思い浮かべることができるのだ。

     われわれにはまだ人類の心という巨大な樹木に刻みつけ得るほど鋭いのみや、巧みな手腕の 持ち合わせがない。そうしたものを持つことが、今日という今日を一番長く記録する最上の方途なのであるが、今はいつかそうしたものを持ちたいと願望するぐ らいにして、自らのnoteに記録することだけで間に合わせておかなければならないのだ。だからこそ、僕にとっては 今日という今日は重要なのであり、今は死にたくないのである。どんなことでも良い、勝利の旗を打ち立てる日まで、僕は今日という今日を最高に愛しみ大切に して生き続けなければならないのである。

     ああ、世界よ。僕が今、生きているということを血の出るほど痛切に噛締めながら生きてい るこの世界よ。僕はどんなにお前を愛していることだろう。お前の麗しさ、お前の素晴らしさ、お前は僕にとっていつも讃嘆の対象(まと)だ。どうか僕を見捨 てないでおくれ。お前がこの僕に与えてくれたこの歓びに対するささやかなお礼を僕がお前に与えることが出来る日まで、僕をどうか見捨てないでくれ。お前に とっては、取るに足らぬこの卑小な存在にも、今しばし、どんなちっぽけなものでも良い夢と愛と自由とを恵みたまえ。

     お前を愛し、讃嘆し、お前の愛に見守られて、毎日生きることの歓びを噛締めながら、ささ やかな恋の歓びに浸っているこの僕の前に、真っ黒な、時間というもののないヴェールを突然下ろすような振る舞いに出ないでおくれ。お願いする。

     今宵、空には無数の星が燦然と輝き、世界はまるで処女の眠りのように安らかな吐息をたて て眠っている。明朝までの安らかな眠りを僕にもまた与えたまえ。<午前1時5分記>

      

 


1964.3.9
月曜日

1964.3.9

月曜日

     人 を信頼することには、痛烈なしっぺ返しをもって報いられることを常に予期しなければならぬとしたら、ああ人生とはまた何と不毛の土地であることだろう。他 人の口にすることを何一つ信用することができないとしたら、僕はいったい何を信用したらよいというのだろう。信頼の裏に常に猜疑の眼を潜め、他人の言葉の 陰に常に偽りのにおいを嗅がねばならないものなら、僕にとってこの世は生きていくに値するものと言えるだろうか。

     僕 が常に人の信頼を裏切っているような人間であるとするなら、僕はどうしてこの世にのうのうと恥も外聞もなくこうして生きていくことができるだろう?僕はこ れまで他人の信頼に応えうる人間になりたいと常に願ってきたのだ。たとえ相手が誰であれ、僕の本質を知った上で信頼してくれる人であれば、僕は誠心誠意そ の人の信頼に応えてきたはずである。それに僕の約束がそれほど信用するに足りないものであったろうか、たとえそれがほんの口先の約束に過ぎないようなもの であったとしても。

     し かし、人を疑うことはどんな事態に直面したとしても、最後に回すべき事柄ではある。疑う前にまずその事態を招来せしめた種々の原因を静かに思い浮かべてみ るだけの心の余裕がなければならないと思う。信頼を裏切られたと思う前に、その人が約束を果たせないでいる種々の事情、心理状態その他に思いやりのある考 慮を加え、その後で徹底的にその人を疑っても遅くはないのである。本人の口から、いかなる弁明も聞かぬうちから、カンカンになってしまうのは短慮であり、 思いやりのない仕打ちというものである。本人の口から出たほんの一言が、どんな赤熱した疑いをも一瞬にして冷めさせてくれることは良くあることなのであ る。

     今 宵心寂しい僕は、一人でブツブツと訳のわからぬことをとめどもなくつぶやいている。しかも、その心寂しさを上記のようなつまらない理屈をこねて紛らわそう としたのだが、そんな簡単なことで、氷解するような安易な寂しさではないのである。寝ても覚めても忘れることができなくなってしまった一人の女性から裏切 られたと感ずる心が、そこに単なる寂しさを見出すことしかできず、取るに足らない屁理屈で慰められうるようなものであるのなら、そんななまちょろい心は最 初から持たぬほうが増しなくらいなのだ。

     あの人は7日には上京してくると言った。あの別れの夜の最後の言葉は、きっとお便りをす るということではなかったか。それなのに何の音沙汰もない。昨日電話してみてもまだ帰ってきていない。

     どんな理性的な思いやりのある心がこうした事態を円満に理論的に解き明かしてくれるとい うのだろう。

     彼女はお母さんに引き止められて帰るに帰れないのだし、僕に便りができないのは、きっと 僕のaddressを 持って帰るのを忘れてしまったのに違いない。東海道線で事故が続いたりしているので、上京を少々差し控えているのかもしれない。お便りをしようとしても何 となく気が引けるということがあるものだ。どんなことを僕らのような関係にあるとき手紙に書くべきか彼女は迷いに迷い、そのうちに日ばかりがたってしま い、手紙を書くよりあの人に会って話すほうが早いということになる。だが、入学の手続きとか何やかやで、出立の日が、日一日と遅くなる。彼女は裏切るよう なつもりは少しもないのだが、乙女らしい逡巡の心に突然襲われてどうしてよいか迷っているに違いない……と。

     僕の心はこうして自慰的な言い訳を求めて終日さまよい歩き、せめてもの慰めを得ようとた わいのない理屈にすがりつくのである。(午前0時40分記す)

 

 


1964.3.10
火曜日

1964.3.10

火曜日午後10時 30分

     わ れわれの心は、このたゆとい、複雑に渦を巻く現実の奔流の中にあって、自らを支え、波に呑み込まれてしまわないために、それぞれに、小さな木の枝なり、藁 束なりにしがみついている。どんなに小さく脆い木の枝であろうと、ほぐれやすい藁束であろうと、一度しがみついたが最後、それを容易に放そうとしない。 やっとの思いで見出し、やっとの思いでしがみついたものであれば、危うく奔流に押し流され、波に呑まれそうになったその時の恐怖(おそろしさ)が身に染み 込んでいるわれわれの心にとっては、近くにもっと頑丈な大木が流れて来ようと、絶対確実にそこまで泳いで行けるという目安がつかない以上、決して手につか んだ藁くず一本ですら、手放そうとしないのはむしろ当然なのだ。

     そ の大木にしてが、絶対に安全確実なよすがであるかどうか、遠目に見るだけでどうして分かろう。今取りすがっている小さな木の枝の方が、たとえいつ沈むかど うかは分からぬにしても、少なくとも後何分かは確実に浮いているだろう。そのほうが下手に冒険をして波に呑まれてしまうよりは、少しは安全というものであ る。

     こ の世には絶対確実なんてものがありえようか。もし、ありえないとするなら、今数分の手に入れた確実さにしがみついている方が、手に入れれば数時間持つかも 知れぬ確実さのため、あえて冒険を行うよりは賢いというものである。この移ろいやすく、定めがたい本流の中で生きていく以上、心が上のような心理に目覚 め、波の上に飛び立つ飛び魚のような冒険をあえて試みてみようとしないからといって、あまりに現実的だと決め付けてよいものだろうか。

     と ころが、僕の心は、今までしっかりしがみついていた藁束が、すっかりバラバラにほぐれて、今にも波に押し流されてしまおうとしているのに、やっとこさ気が ついて、うろたえているのだ。せめてものよすがと、やっとのことでしがみついた矢先に、またしても僕の心は渦巻く波の中に投げ出され、生命さえ保証されぬ まま、当てどもない漂流を余儀なくされかねないのである。

     ああ、わが心の悲しみをいったい、いかなる心が理解してくれよう。この視界もきかぬ大海 原のただ中で。


1964.3.12
木曜日

1964.3.12

木曜日

     “第2つばめ”は、20分ほど遅れて、東京駅に滑り込んできた。車内の明るい光が目まぐるしく 目の前を通り過ぎていく。乗客は立ち上がったり、悠然と腰を下ろしたり、列車が止まるまでの本のつかの間をめいめいに楽しんでいるかのようだ。

     ホー ムの一番端から僕は心を我知らず弾ませながら、順繰りに降りてくる乗客を見て回った。誰か他の迎えの人が来ていては彼女も都合が悪いだろうと思いながら、 できるだけ遠くから彼女を探し出そうと列車の着いた反対側のホームの端を歩いた。相当前のほうに進んだけれど、彼女の姿は見えない。ホームには出口は三つ もあることだから、もうすでに出てしまったのかしら、あるいはこの列車で来なかったのかしらと、疑いが色濃く胸に浮かび上がって来た矢先だった。一番ホー ムの端をこちらに歩いてくる彼女の姿を認めたのだった。

     だが、次の瞬間それは彼女ではないように思えて、なかば彼女を探し出すのを諦めてしまっ た。しかし、あのオーバーの色あの毛の襟巻き、どうしても彼女である。と思うと、こんなところまで彼女をわざわざ迎えに来たことを彼女がどう取るかとすご く心配になってきた。

     な ぜか叱られそうな後ろめたい妙な気にかられて近づいていくのを止め、彼女が近づくのを見守っていた。しかし、次の瞬間、愕然とした。他人の空似だったの だ。彼女ではなかったのだ。ハッとしてその人の近づいてくる真正面に立っていた自分をあわててホームの片端に寄せ、見るとはなしに見ていると、その人も何 となく不思議そうにこっちを振り返りながら通り過ぎそうになった。とそこで立ち止まった。

     驚いたような顔の中に少しずつほほえみが現れてきて、最後には驚きと笑いとがごちゃ混ぜ になった顔になった。やはり彼女だったのだ。僕も何となく胸につっかえるようなほほえみを浮かべながら、彼女のように近づいて行った。

     「まぁ、驚いたわ。どうして?」彼女は言った。ほんとに思いがけないといった様子だっ た。そこで僕は、今夜寮にTel.し、彼女が寮の先生宛に打った「10ジニツク」というTelegraphから、きっとこの21時着の第2つ ばめで着くはずだと思ってやってきたわけを説明した。「この重い荷物をどうしようかと思っていたのよ」と一応彼女は僕のことを歓迎するような口ぶりであっ たけれども、僕はそれを素直に受け入れてよいものかどうか半ば気がかりだった。彼女は故意に広島に長く滞在し、手紙を書かなかったものとすれば、僕がこう して迎えに行ったことは彼女の予定をひどく壊すことにならないだろうか。

     僕 のほうがこう考えており、彼女のほうでも、もしそんなふうに考えていなかったにしても、これまで13日間も約束した手紙も書かなかったことを、僕の前では 自分自身に咎めなければならないとしたら、僕らの間にあの2週間前の夜のように、親密に語り合えるような雰囲気がなかったとしても当然だろう。お互いに相 手の心のうちを推し量りかねていたのだった。どんな風に振舞ったらよいかわからず、今までどんな風に振舞っていたかも忘れかけていたのだ。

     非 常に親密な間柄であっても、何かずうっとしゃべりあっていなければならないような状態におかれると、えてして人はどきまぎしてしまい、しゃちこばって、ろ くなことが話せなくなり、適当な話題が思い浮かばなくなってくるものなのだ。それを意識すればするほど、何となく話は間延びして、突然に二人の心が大変遠 いところにあるような気がしてくる。そうしたまだるっこさが、山手線の中で隣り合って座っていたときの僕らの中にはあったように思う。

     し かし、車から降りて、吊り皮につかまって前に立っている人を全然意識しないでよくなると、僕らは互いに些細は冗談をまさぐって、次第に元の親しさの方へ歩 み寄っていった。寮の前で、土曜日に会うことを約束して別れた。その頃はもう僕の心は十分に幸福だったようである。ほんのちょっとした物足りなさはあった としても。

     僕の心は2週間ぶりにやっと落ち着きを取り戻したのだ。(0時45分記す)

 

I 嬢を東京駅に出迎える
1964.3.13
金曜日

 


1964.3.13

金曜日午前1時12 分

ツルゲーネフの「父 と子」を読み終えた。その詳しい感想を書くひまはないが、一気に読み終えたことだけは記しておきたい。親の世代と子の世代の心理的な綾をこれほどまでに見 事にとらえた作品はそう多くはあるまいと思う。バザーロフはいかにも矛盾に満ち、しかも僕自身の分身を思わせる魅力ある性格の持ち主である。ニヒリストと いう言葉が、この世に初めて現れたとき、それはそれほど弱弱しい虚無主義を意味していなかったことがわかる。

例によってツルゲー ネフの美しい自然描写には感心した。いや、それ以上に美しい二人姉妹の描写にも感心した。なぜともなく名残惜しさが今も僕の心に残っている。本を措くと き、そんな気持ちを起こさせる種類の本である。


ツルゲーネフ「父と子」読了
1964.3.14
土曜日
1964.3.14

土曜日

○     たとえどんな言葉によっても表現し得ない心の状態というものがあるものである。うずくとか震えるとか、それを言い、苦しんでいるとか悩んでいるとか表現し てみても、ただ言葉の不完全さを呪いたくなるような時があるものである。

○     心の中に重たくよどんで渦巻いている得体の知れないものを一体僕は何と名づけたらいいのだろうか。全身がけだるく、ただ物憂げに椅子の上にのけぞって、 じっと目をつぶっていたいような、それでいて、あいまいな心の状態に思い切り決着をつけて、むしろはっきりとした深い悲しみの中か、それとも、しびれるよ うな歓喜の高みの中へか、身体を投げ出してしまいたいような、そんな状態におかれているとき、僕らはこれをどういう風に表現したらいいのだろうか。

○     言葉は、非常に純粋なものなので、こうした輻輳した心の状態を一言で表現するのには不向きなのだ。“寂しい”という言葉の純粋性のゆえに表現し尽くされな い寂しい心の状態がどんなに多いことだろう。(僕はまったくのところ、今そうした寂しい心の状態にあるのだが)、自分自身を呪い、ののしり、嘲り、誹謗 し、徹底的に痛めつけてやりたいような衝動が時折間欠泉のように激しく突き上げてくる。

○     なんという浅ましい男だろう。なんという短慮な、浅はかな男だろう。うすのろ、とんまめ、人間の信頼感に対する驚くべき不感症。ああ自分自身ですら、愛想 が尽きる。まったく付き合いきれたものじゃない……

○     だが、こうして自虐することによってせめてもの慰めを得ようとしても、今日の心はただその苦しみを増すだけのようだ。

○     今夜ほどの楽しい夜を、僕のあの浅はかな振る舞いがまったく台無しにし、そればかりか、これからの一切の希望まで奪ってしまったのだとしたら、僕は自分自 身を呪い殺してしまわなければならないのだ。だけど、どうしてあのときの自分の振る舞いを責めることができよう。

○     それほど愛しい人が…いや、確かに僕が悪かったのだ。あんなにしつこく振舞うこと自体、今思えば自分自身でも、その嫌らしさに反吐をもよおすべき代物だっ たようだ。あの人は最後に明日きっと電話すると約束してはくれたけれど、あんな振る舞いに及んでしまった以上、たとえ、その約束が守られなかったとして も、どうして、彼女を責めることができよう。その人があまりにも近くを、しかもそれを避けるように門を潜り抜けようとしたとき、あまりの愛しさに我を忘 れ、その人を思わず、抱きしめようとしたからといって、ほんとうに僕だけの罪だったろうか……

○     でも、その前に、明日も是非会ってくれと駄々をこねて、彼女が門の中に入れないようにしたのは、疑いもなく僕のほうが悪い。そんなことをしなければ、彼女 はあんな風にすばしっこく逃げ込むようにして、僕の側を通り過ぎなぞしなかったのだから。それに今夜、あれほど遅くまで付き合ってくれた彼女に、明日まで 無理にdateの約束をさせるのは、酷というものだ。それも月曜日には必ずお電話をするという彼女を。

○     彼女はむきになって僕の両手の中から逃げ出して、僕が「そんなつもりは少しもなかったんだ。悪かった」と言うと、「もし悪いと思うなら、ごめんなさいと謝 りなさい」ときっぱりと言った。僕は「ごめんなさい」と素直に謝った。一切のものをこんなことで失ってしまったとしたらと、僕の心は動転していたのだ。い や、動転というより、背筋が寒くなるような後悔の風に僕の心の中は、吹き荒れていたのだ。「ごめんね。でも、明日電話することだけは、約束してね」彼女 は、こっくりした。「じゃ、さいなら」「サヨナラ…」

○     僕があんな振る舞いに及んだことを恥じて、これっきり彼女の前から姿を消し去ることができるとするなら、どんなにか僕の心の悩みは和らぐことだろう。それ ができないからこそ、僕の心は苦しんでいるのだ。どうして彼女にもう一度会わずにいられよう。たとえ恥ずかしさに赤面しながらでも、彼女に会わずにおれな いのだ。そして、今夜のことを許してもらわなければならない。

○     彼女が自分の部屋に帰ってきてから、僕のことをどんな風に思ったことだろう。

○     今日「小島屋」で落ち合って、そこで2時間ばかり話をしたけれど、その中で「お母さんが阿部さんに会いたいって」と彼女が言ったのを、僕はそのとき、決し て生半可な気持ちで聞いたのではなかったはずだ。僕は彼女が自分のことをお母さんに包み隠さず話してくれたことをどんなに嬉しく思ったことだろう。そし て、お母さんに是非お会いしたいと思ったのだ。それほどまでに僕のことを信頼してくれている彼女にとって、僕の今夜の振る舞いは、どんなにか失望を買うも のであったに違いない。ゆっくりと落ち着いて考えれば考えるほど彼女は僕に対する信頼を失っていくことだろう。いつまでもいいお友達でありえた二人が、一 瞬にして別れ離れになり、おまけに人間に対する限りない失望と、やりきれない自己嫌悪とがくっ付き回ることになるとしたら、あの振る舞いはまた何という高 価な代価を支払わねばならないものだろう。

○     僕らは「小島屋」を出て、夕食を「コックドール」でとった。僕が「カマトト」とか「トトカマ」と言うものだから、彼女はさも可笑しそうに、何度も吹き出し てしまうのだった。

○     「阿部さんは、どんな奥さんがいい」と彼女が正面切って訊ねてきたとき、僕は即座に「like you」と答えたかった。もし、彼女が訊ねる場所を過たず、まるで列車の隣り 合わせみたいにして、お客が手近に座っているような食堂で、そんなことを聞いたりせずに、どこか二人きりの静かなところででも、聞いてくれたとしたら、僕 は「like you」と答えたことだろう。それを「君なら どんな旦那さんがいい?」という質問にすり替えてしまったのは、いかにもずるいやり方だった。彼女はそこでもうひとつ「阿部さんと私とではなにかとっても 大きなへだたりがあるような気がする」と、ひどく気がかりなことを言い出した。

○     僕はその言葉にすごく不吉なものを感じた。僕らが結びつく可能性を疑い、そうした可能性を否定しようとする彼女の心の動きを感じたからだった。4年も年上 でしかも男性である僕がいろんな面で彼女との間にある程度の隔たりを持っているのは事実だろうし、またそれが当然なのであるが、そうした隔たりが性格的な もの、感覚的な齟齬を意味しているとしたら、それは非常に重要なことだからだ。

○     7時20分頃だったろうか、「コックドール」を出て、ハッピーバレーというダンスホールに行った。若いー僕らにとってはあまりにも若い人々に埋まって喧騒 なドラムの音がうなり、ツィストのリズムが熱気をはらんでいる、そのごちゃごちゃした場所には、たちまちいたたまれないものを感じて、僕らはすぐ外に出 た。それから東大の教養学部まで散歩した。人通りが少なくて静かな散歩には好適な道だった。

○     僕らはいろんなことを話したようでいながらほとんど何も覚えていない。ただ、何かしら甘く、心を震わせるようなものを僕はひそかに感じていたのだった。東 大の裏口は修理中で、通りにくかったけれど、彼女の手をとってやったりして、コンクリートは半乾きの水溜りの多い箇所を通り抜けると、道も良くなり、僕が いた頃はまだ建っていなかった学生会館のあるところに出た。寮の灯はかなり灯っており、駒場の青春を休みにも残って楽しんでいる連中の姿もポツポツと寮の 前の広場付近に見えた。

○     どんよりと曇った夜の空をバックに、銀杏並木が寒々と、霞んで見えなくなるまで続いていた。葉をすっかり落とした銀杏の枝が、曇り空のうえに黒々と複雑な 模様を描いていた。僕ら以外に人影はなかった。

○     彼女は「素敵ねぇ、北海道より素敵ねぇ」と何度も繰り返した。僕も素敵だと思ったけれど、彼女の気に入ったほうがよけい嬉しかった。銀杏並木のはずれまで 行って、以前は一段低いグラウンドになっていたところと、新しく建った校舎の間を歩くことにしたら下は砂利だった。

○     彼女が歩けないというから、「負ぶってあげようか」というと「いい」という。「手を取ってあげようか」といっても「いい」という。途中の階段のところで立 ち止まったりするので「抱っこしてあげようか」というと「いい」という。

○     やっとこさアスファルトの道に出たころ、彼女の後ろから歩いて行きながら「君はずいぶん用心深いんだね」というと「そうよ。プラトニックで行かなければ」 と彼女は答えた。プラトニック・ラブ。彼女にとっても、これはラブというつもりなのだろうか。それは、思わず洩らした彼女の本音だったろうか。

○     本館を一回りしてから、もう一度「用心深いね」というと「あら、今頃気がついたの」と彼女にうまくやられてしまった。

○     キャンパスの中をぐるりと一巡してから、井の頭線の駅に出て、彼女の寮まで送って行ったのだ。

○     ぼくが「君が口を尖らせところはなんとも言えず可愛いよ」と言ったら「まあ、大人をつかまえて可愛いなんて失礼ね」と言い返してきたので、「大人だからっ て可愛いと言っちゃいけないことはないじゃないか」などと、他愛もない、しかしながら、とっても楽しい言い争いが生じた。

○     宮益坂も登りつめて仁丹の明るいネオン塔の下あたりに来たところで「明日も会ってくれない」と僕のほうから言い出した。そこで先にも述べた顛末に発展する 押し問答が始まったのだ。教会に行って、お友達のところへ行く約束があるから、明日はだめだというのである。−そんなに私に会って楽しいの?−少し、考え る時間が欲しいのよ。−広島に帰ったらそれっきりでしょ?

○     今思えば、彼女の最後の問いに対してだけは、もっと親切に答えるべきだったのだ。その問いの中に含まれている彼女の危惧、不安、希望―そうした意味の深さ に無神経で、どうして恋を語れようか。

○     僕は何としつっこく“明日も会って”と繰り返したことだろう。勤めの関係で他の日はだめだからなどと自分の勝手ばかり言って、彼女の都合などには耳も傾け ないような態度ではなかったか。

○     −私たちの間は、広島に帰ったらそれっきりでしょ?―広島に帰ったらそれっきりだって?それじゃ、それっきりの人にはせいぜい冷たくしようというつもり?

○     ああ、なんて意地の悪いことを聞き返したことであろう。彼女の問いの本当の意味を知っていたくせに。「月曜日に電話する。だから、帰して」と哀願する彼女 に僕は何と卑劣に振舞ったことだろう。





○     僕はしぶしぶ諦めて、彼女にそれじゃと言ってお別れの握手を要求した。彼女はあまり気乗りしない様子だったがそれでも手を差し出してくれた。僕はその手を 握り締めた。どちらも冷たい手をしていた。もういいでしょというのを、もうちょっとと僕は容易に放そうとしないものだからーもう帰ると彼女は手を僕に預け たまま動き出した。僕は、待ってと彼女の脇の下に手を回したが、弾みで彼女にのしかかるようになってしまった。−イヤと彼女は小さく鋭く叫んだ。−そんな ことイヤ。僕にしてみれば、彼女がそんなことと言ったようなことをそのときは少しも心に留めていなかった。それだけになおさらはっとした。しかも、すでに 閉められた門扉の鉄枠と僕の胸の間に彼女を押しはさむようになっており、彼女があわててその扉を開こうとしているのをつい目の先に見て、ほんとうに我知ら ず、彼女の体に手を回し、うなじに口を押し当てようとしていたのだった。しかし、それより速く彼女は僕の腕からするりと抜け出して、僕の背後に回ってい た。

○     そのとき彼女が何と言ったかは、はっきり覚えていない。「ここで話すことは寮にまで聞こえているのよ」と言ったことは覚えている。それに彼女の悲鳴にも似 た「私はまだ子供なのよ」という言葉だけは、耳の底に強く残っている。男として、女性にこんな言葉を叫ばしめるほど恥ずべきことはないように思う。しか し、僕はその言葉によって、彼女に対する限りない憧れを掻き立てられたのだ。僕にはその言葉の意味することが良くわかる。そして、女性がこんな言葉を言い うる時期というものは、非常に短いということを知っている。こうした言葉の言える時期の女性ほどに魅力的な存在はないのである。あまりにも若すぎる女性 は、そんなことを意識しない。少々年をとりすぎて、恋を二度三度と重ねた女にとっても、あの言葉は、そんな場面に、あれほど真実を迸らせて口をつき、男の 胸を打つようなことはない。女性の生涯にあって、本当にほんのちょっとの間だけ、ちょうど3月のように、完全な4月の春の明朗さも知らず、それでいて2月 の冬の陰気さからは抜け出しかかった頃の娘の口からのみ、紛れもない真実として語られ得る言葉なのだと思う。

○     僕は自分の非を謝り、彼女に明日電話することだけは約束して欲しいと念を押して別れたのだったけれども、彼女が寮に入ってからの心の移り変わりをどうして 僕に推し量れよう。

○     僕の心の痛みの治癒も、彼女が明日電話してくれるかどうかにかかっていると言っていいのだ。しかも、何時ごろ電話してくれるかわかりもしない一日中をいら いら待たねばならないのだ。   (午前2時45分記す)













1964.3.15
日曜日

1964.3.15

日曜日

○     フトンの中で、悩ましい一日を過ごす。一日といっても、4時前には起きだしていた。いつ彼女から電話がかかってくるかわからない。それが気になってどこへ 行くわけにもいかない。いろんなことを考えた。彼女から電話がかかってこないのではないかーそれも当然かも知れない、と。

○     大相撲が終わったのは5時30分頃だった。朝から何にも食べてなかったので、さすがにおなかが空いた。しかたなく、買物に出た。独り者の男のしがない買物 である。出来合いのメンチカツとか、八宝菜とか、手のかからぬものを少々買いこんで来て、ストーブで卵スープを作り、トースターでパンを焼き、うまいうま いと言って独りきりの夕食をとった。買物のついでに買ってきた今日の朝刊と夕刊を読んでいたら、ルミちゃんが「阿部さん、お電話です」と階下(した)から 教えてくれた。彼女からの電話に違いなかった。

○     彼女はやさしいおだやかな声で話した。一点の曇りも気後れもない無邪気に澄んだ声だった。明るく弾んでさえいた。

○     僕の心は今しみじみとした幸せの流れにたゆたっている。彼女に対する感謝の念でいっぱいだ。人から許してもらったときの嬉しさ、それにもまして人を許すこ とのできる心を近しい友として持つことの嬉しさ。ああ、お前は僕の心の主人だ。



<<ぼたん>>I.に贈る



水色の朝風のそよぎに

春は床しき思いを秘めて

雪白のぼたんの花と

咲きこぼれよ

姿やさしく



あめ色の透き通る葉陰に

春は気だるき光に揺れて

鷹揚にぼたんの花と

咲き乱れよ

においも彩に



むらさきの夕暮れのとばりに

春はやさしき薫りに満ちて

しめやかにぼたんの花と

咲き匂えよ

思い切なく





1964.3.17
火曜日
1964.1.17

火曜日

○     彼女は約束通り月曜のお昼過ぎに電話してきた。

○     ―19日の夜6時からもしお母さんが来なかったら空けといてくれない。−お母さんが来なかったら?−ええ。

○     彼女もこれ以上説明しなかったし、僕もこれ以上聞かなかった。でも僕には彼女の用件の内容がすぐわかった。彼女はなんだかそんなことを話したのをもう忘れ てしまっているような口ぶりだったけれど、僕のほうはちゃんと覚えていたのだ。広島に帰る前に日生劇場の『リチャード三世』の券が取れたの。19日。母が 上京して来るので一緒に見るのよ。とってもいい席なの。と話していたのだ。お母さんがいらっしゃらなかったら、その代わりに僕と見ようということであるら しい。これは推測に過ぎないけれど、大体当を得ていると思う。

○     こんなことから、有頂天になるとすれば、お人好しであろうか。僕の推測が正しいなら、彼女があのような場所に出掛けるときこの東京でお母さん以外の人で誰 と一緒に行こうかしらと考えたとき、僕のことがまず最初に心に浮かんだということになるのだ。いやたとえ最初に浮かんだのが僕でないにしても、僕に決めて くれたその心が嬉しい。

○     でも、僕はジレンマに陥ってしまった。それは確かに彼女と一緒に中村勘三郎演ずるリチャード三世も見たいけれど、彼女のお母さんにも東京に来ていただい て、愛娘の晴れの卒業式の姿や、このシェイクスピアの名劇を見てもらいたい。それに、僕も彼女のお母さんに一目お会いしておきたいと思うからだ。(午前零 時丁度)




1964.3.18
水曜日

1964.3.18

水曜日

○     20日間ばかり扁桃腺が腫れたり引っ込んだりしていて、体がどうも本調子でない。昨日、医務室に行くと、慢性になる恐れがあるというので、抗生物質の薬を 処方してくれた。それでも今日も咽が赤く腫れており、体は妙な寒気がするし、どうも具合がおかしい。忙しい時とあって、勝手に休暇を取るわけにもいかず、 それかと言って、このままではいつまでたっても直るきっかけがつかみにくいし、一体どうしたものだろうかと心配である。





1964.3.19
木曜日
1964.3.19

木曜日

○     心は寂しかりき、限りなく寂しかりき、

○     ものも思わず、ただかたくなに

○     独り殻の中に籠りて今宵

○     時の移ろいを虚ろなまなこもて

○     眺めていたり



○心は寂しかりき、限りなく寂しかりき

されど、心は知らず、なぜかくも寂しきかを

物憂げに四肢をすぼめて

心は独りぽつねんと ぽつねんとただ一人心は

寂しさを耐えていたり。



(3/22)

○     心は寂しかりき、

○     限りなく寂しかりき

○     されど、われこの心の痛みもて

○     愛しき人には別れを言い

○     やさしきほほえみもて別れを言い

○     人知れぬ奥山の

○     水は冷たき湖に

○     この身を投げむと思いしよ



1964.3.20
金曜日

1964.3.20

金曜日



――駅員さん。汽車は遅れているんですか?

19××年7月の初めのことである。薄いブラウンのツーピースを着て、手にたたんだ日傘を持った40がらみの女が、顔に浮かんだ汗をハンカチでせわしく拭 きながら、汽車が着くのがいかにも待ち遠しいといった面持ちで、折から改札口の辺りにジョロを持って水撒きに現れた駅員に尋ねかけた。駅員は仕事の手を休 めるといかにも好人物らしい顔をほころばせながら、

「奥さん、お迎えですかね」

と問いかけてきた。

奥さんと言われた女は別に驚いたような様子も見せずに、―というのは、この辺りでは奥さんよりも、おかみさんというのが普通だからであるがー「ええ」とこ れまた聞かれたのがいかにも嬉しいとでもいうかのように「息子が東京から帰って来るんですの。初めての大学の休みで」

「汽車は、30分ほど遅れましょうなぁ。本線にちょっとした事故がありましたんでね」

「事故?」

女は鋭く聞き返した。

「ええ、事故と言うても、大したことはなからしかですばい。先ほど下り快速はI××を出たちゅう連絡がありましたけん、あと20分も待たっしゃれば、間違 がうのう、着きますばい」

と言って駅員はジョロのついた手押し車を押しながら行ってしまった。

女はため息をついて、小さな待合室のベンチに腰を下ろした。





1964.3.22
日曜日

1964.3.22

日曜日

     愛する人と、長い、もう二度と巡り会えぬかも知れない別れをしたことのない者には、人間 がこの地上において、どれほどまでに哀愁の甘い哀しみに心を無残に斬り苛まれるものであるかということがわからないであろう。

     愛する人と長い、ことによったら、もう二度と巡り会えぬかもしれない別れをしたことのな い者には、人間がこの地上において味わい得る感情のうちのほとんど半分しかわからないのである。

     愛する人と長いことによったらもう二度と巡り会うこともないかも知れない別れをしたこと のない者には、人間の哀しみについて語る資格などこれっぽっちもないのである。

     ああ、哀しみよ、我が胸を抉れ。まるで新妻のように疑いを知らず、心を開いた僕の心の上 に、その鋭い刃をつきたててかき回せ。

     心よ、僕のこの哀しみを甘いお前の涙に浸し、バラ色のキュビックを作っておくれ。

     おお、この胸の痛みはどうだ。どうして、僕が理性的でおられよう。

     僕は泣いた。ほろ苦い涙が止め処もなく頬を伝うのをどうしようもなかった。できることな ら、思い切り嗚咽したかった。涙がかれてしまうまで泣いて泣いて泣き通したかった。そうすることによって、心の中の哀しみの塊をすっかり洗い流し、泣き疲 れた甘いけだるさに身を任せ、静かに深い眠りの中に落ち込んで行きたかった。たとえそれが、二度と醒めぬものであっても。

     僕はあなたを自分のものにしたい。あなたの可愛い小さな体を僕の胸に力いっぱい抱きしめ て、あなたのやわらかい心を駆り立てる唇の上に、甘いしっとりとした口付けをしたい。あなたはいつまでも僕の傍らにいて、あなたのやさしさで、僕を温かく 抱擁していて欲しい。僕ほどにあなたを愛した者は、今までもそしてこれからも決していまい。なぜなら、僕は今もこれほどまで愛しており、これからはもっと もっと強く愛していくからだ。ああそれなのにあなたは何とあっさりと最後のさよならを言ったことだろう。

 

     僕にとっては、この“東京の休日”は、高くつきすぎた。グレゴリー・ペックが特ダネを追 いかけ回すつもりで、とうとう王女に恋してしまうように、僕も最初から恋など意識して彼女に近づいたのではなかったのに、僕の王女が厚い宮殿のヴェールの 陰に隠れてしまった今になって僕は自分のハートをすっかり持って行かれてしまったのに気がついたのである。

 

     ああ、そんなことなら、あの日、1月11日、あの子に電話なんかするんじゃなかった。も う僕は当分女の子などに興味を持てないだろう。僕の心のこの疼きは、一体いつ、何によって癒されることだろうか。

 

     運命よ。お前はどうしてこれほどまでに非情で不条理なのか。倒されることのない絶対君主 よ。僕はお前に挑戦する。お前の非情の剣は、やすやすと僕の心臓を抉り、瀕死の僕を、まるで猫が鼠を弄ぶように、じくじくとなぶりものにすることだろう。 しかし、もし僕がお前に勝ちうる望みがたとえ一分であれ1厘であれある限り、僕はお前に挑戦する。驕り高ぶるお前の首筋に剣を突きたて、恐れおののくお前 を心の底からあざ笑ってやりたいのだ。一刻として油断するな。僕に命ある限り、僕は常にお前に付きまとい、お前の首筋を掻っ切ろうと努めているのだから。 さあ、真剣勝負だ。俺は犬死はしないぞ。お前が俺の上に絶対的に君臨するか、俺がお前を超えた者になるか、どっちかひとつだ。

 

     僕はお前を超えたものとなって、僕の心のこの床しい思いを、この甘い哀しみを、このうち 震える恋のときめきを、時の移ろいの最中から掬い上げ、すべてのものを腐蝕させずにはおかない時のいうバクテリアから守ってやるのだ。どうしても僕には合 点がいかないのだ。この僕のみずみずしい心が、かくも僕の存在を揺り動かし、あるときはため息をつかせ、あるときは喜びに酔わせるこの心が、時のバクテリ アに易々と腐蝕され、水素と酸素と炭素に分解され尽くしてしまうということが。

 

     今日、一人の女と、一人の男が、渋谷の雑踏の中で「サヨナラ」と言い交わした。初々しい あどけなさを浮かべたその女は、二十歳。瑞々しいほどのその白い肌の輝きはどうだ。輝くばかりのほほえみの美しさはどうだ。こんな女を一目見た瞬間から、 男という男は恋に陥ってしまう。女はほほえみながら、サヨナラと言っている。男はもう胸がいっぱいだといった面持ちで、一分でも長く女と一緒にいたいと思 いながらも、女に怒られるのが怖くて、咽まで出かかったその言葉をひたすら押し留めながら、その乾いた舌先で「サヨナラ」と言っている。

 

     その思いつめた瞳は、これから幾週、幾月、耐えねばならぬ孤独の日々に女の今日のこの輝 くばかりの美しさを容易に思い描けるようにと、女の一挙一動を、さりげない視線の動きひとつを、しなやかな身のこなしひとつも見逃さず、眼裏に焼き付けて おきたいと言わぬばかりに女の上に食い入るように注がれている。

 

     女は、小さく腰を折って、首をよじるようにして、サヨナラを言うと、若風和服に包んだ小 柄な身を男の側から離していく。男は憮然たる面持ちでその場に立ち尽くしている。女は東横デパートの二階への階段をゆっくりと上っていく。和服の裾から女 の白いふくらはぎがわずかに見え、足袋の白さが目に染みる。階段を上りつめたところで、女は男を振り返り、にっこりとほほえみながらかすかに頭を下げた。 一瞬華やぐような小さな突風が男の頬をかすめてよぎる。女の姿は消えた。

○それ からしばらくの間男が放心の態であちこちをほっつき歩いている姿が渋谷駅の近辺で見られた。男の顔はあるときは思い詰めて紅潮し、あるときは哀しみに青ざ めていた。男はしばらく東急ジャーナルの座席に腰を下ろしているようだったが、それは映画を見るためというより時間が欲しかったからに違いなかった。なぜ ならスクリーンにウォルト・ディズニーのマンガが映っているときにでも男の瞳は涙に光っていたのだから。

○男がやっとの思いで下宿にたどり着いたのは、すでに4時近い頃だった。男は訳のわか らぬものを日記に書き付けたり、冷たい畳の上に頬をすり寄せ、俯せになって、こみ上げてくる哀しみにさめざめと涙を流し、訳のわからぬことを叫びだした り、女から貰ってきたばかりの数葉の写真をさも大事そうに取り出すと、その哀しみ深い口元に弱々しいほほえみを浮かべて一枚一枚じっと見つめたりしなが ら、時の過ぎるのがあまりに遅いのにいらいらして、呪いの言葉を並べたてたりするのだった。

○でも、時折今朝女と会った時の会話の端々を思い出してか、幸福そうにほほえみ、怪し げに瞳を輝かせるのだった。

○今朝、いつものように遅れては来たけれど、これまでまだ一度も見せたことのない若奥 様風の魅力的な装いの女に、男はたちまち魅了されて、ただ美しい素晴らしいと繰り返すことしかできなかったことを男は思い浮かべているのだろうか。

○この女と男は今朝10時30分頃渋谷の「小島屋」で落ち合っていた。女がお手紙下さ いねと男に言うと、男の方も、是非、お手紙下さいと言う。今日別れねばならないことを認め合った言葉のやりとりから、二人は最後のデートの最初の会話を始 めるのだった。女は「廣島に帰ったら」という言葉を良く使った。「廣島に帰ったらギターの練習をするの」と女は言った。「廣島に帰ったらやることがなくて 退屈するでしょうね」と女はこれまで何度繰り返したことだろう。女はそのたびに男が何かを言ってくれることを望み、男が何かいわなければならないことを感 じていた。

○「廣島に帰ったらギターの練習をするの」これはこれまで繰り返えされた「廣島に帰っ たらピアノの練習を、洋裁を、お料理を、ゴルフを、etc.を……をするの」の一変形にすぎない。新しい思いつきのひとつにすぎない。女はしばらくたった ら、そんなことを言ったことさえ忘れてしまうだろう。そして、そんな言葉に毒されない勝手気ままなことをやり始めているに違いないのだ。彼女は、少しも退 屈することなく、廣島の生活を始めるだろう。だから、男が「あなたは何もすることがなくて退屈なら、毎日僕にお手紙を書いて下さい」と言ったところで、退 屈しようのない女にそれは無理な注文だった。 

 

     女はしばらく話し合った後でハンドバッグから数枚の写真を取り出して男に手渡した。

     女はいつか男からせがまれて気に入った写真を持ってきてあげると約束したことがあった。 この最後のデートのとき、女はさりげなくその約束を果たしたのである。そのさりげなさに男は、女の行き届いた心根を感じ、愛しさを掻き立てられている。そ れは女がこの春南紀、奈良、京都に学友と遊んだときの写真である。20数葉の写真の中から男は女の映ったものばかり12葉を選んで「これ、貰ってい い?」と遠慮深げに聞いた。女はもとよりそのつもりで持ってきたものらしく、ためらわずに頷き返した。

     男は嬉しそうに一枚一枚を丹念に見た。写真には写真独自の良さがあって、男がこれまで一 度も見たことのない女のある面が映し出されているように思われた。

     「この中で好きなのは?」と男が12枚の写真を差し出すと、女は3枚選り分けて「これ」 といった。その三枚とも男も気に入っていたものだった。それはいかにもその女らしいやさしさと気品と明るさにあふれたものだった。

     「僕も気に入っていたんだ」男は言った。女は12枚の写真を選り分けながら、「これ、ス カーン」といって一枚放り出した写真がある。それはいかにも真面目な顔をした写真で男のほうでもそれほどいい写真とは思っていなかったものだった。しか し、女が「スカーン」といった様子が、男にはいかにも愛らしく思われたのである。

     女はときどき方言で話した。気がつくと恥ずかしそうに口をすぼめるようにしてほほえみか け、話を途中で止めてしまうのだった。男は女が方言で話すのが、ことのほか気に入っていたのだ。女にそういっても、女はかたくなに方言では話をしなかっ た。

     男は大切そうに12枚の写真を定期入れの中にしまいこんだ。しかし、男は心の奥で、たと え写真がどんなにうまく写しても、自分の目の前の、この生気にあふれた美しい女を写し尽くすことはできないことをひそかに悲しんでいたのだ。男は写真の中 の女の表情に数倍する様々な女の表情を知っていたし、その中には女がこれまでに他の誰にも見せたことのないようなものも種々あるのだった。

     レンズの前によそよそしくたたずめば、人は、自分の日ごろの生き生きした表情のほとんど を失くしてしまう。あざやかな目の動き、目まぐるしい表情の変化、激しい感情の移ろいを冷たい写真のレンズがどうして捉えることができるだろう。それはで きない相談だった。人は白昼レンズの前では見せない様々な表情を持っているものなのである。

     これまで女のそうしたはっと息を呑むような表情を無数に眼裏に焼き付けている男にとっ て、女の写真がそれほどに喜びを与えるものでなかったとしても、それは仕方のないことなのである。目の前に実在している宝石を、わざわざ写真にとって見る とすれば、それは何と愚かなことであろう。たとえ、どんなに素晴らしい写真技術とカラー仕上げをもってしても、実物には遠く及ばないことは最初からわかり きっているからである。ましてや白黒写真においておや。

     しばらくしてから女はハンドバッグから小箱を取り出すと「これ私のところで作ったものな の。気に入ったら使って」と男に差し出した。真珠のNeck Tie Pinだった。男は嬉しさですっかりどぎまぎして、喉を詰まらせながら「ありがとう」といっ た。女もはにかみながらそれを受けた。

     お母さんが言ったとかいうことで、女は「男の人で浮気しない人はいないんですってね」と いった。「僕の役所の人を見ていると皆真面目そうに見えるけどね。女の人もよろめきドラマなんかよく見ているようだけど、君は結婚したら浮気しない?」女 はなまめかしくしばらく考えて「結婚していないからわからないわ」と答えた。

     「私たちが始めてデンエンに行ったのはいつでしたっけ」「1月12日頃だった」「2月 たったのね」「僕が言ったようにアッという間に過ぎてしまったね」「ここへも3度ばかし来たわね。私も広島で頑張りますから、あなたも東京で頑張ってね」

     12時15分頃この男と女は小島屋を出た。それから渋谷駅まで1分。春のやわらかい陽を浴び て女の白い肌は息を呑むばかりに美しく輝き、男は「ああ、こんなことなら、最初からこの女に会わなければよかったのだ」と寂しげにつぶやいた。

     「お手紙を忘れずにね」
「東京に来たら是非連絡してね」
これが最後に取り交わした言葉で ある。
(午前零時40分)

 



1964.3.24
月曜日

1964.3.24

月曜日

     彼女は今夜広島に着き、今頃は、久し振りに我が家に舞い戻ったという安堵の気持ちと二度 と繰り返すことのできない東京の生活を懐かしむ気持ちとがごっちゃになったような妙な心境にあることだろう。

     車中でも家に着いてからも彼女はきっと僕のことを思い出してくれたことだろう。――僕は そう信じたい。

     事実はわかりっこないとすれば、そう信じることが僕の無上の慰めでありまた、最小限の喜 びである以上、それは許されてよいことだと思う。


1964.3.25
火曜日

1964.3.25

火曜日

 

     私はこの日記に向かいながら一体何を書くべきかとずいぶん迷っていた。しかし、ほんとう に一体何をかくべきなのだろう。何を書いたらいいのだろう。

     私の心は今まったく空虚である。私の心はしばしばこうした空虚にとらわれる。止め処もな い思いが心の中を駆け巡り、ひとつの思いはそれ自身としてはひとつのはっきりした映像を結ばないうちに次の思いに移り変わって行く。まるで奔流の中に川水 がくるくる渦を巻きながらも流れの勢いにたちまち押し流されて完全な渦にならないように、私の心の中で小さな無数の思いの渦がくるくると輪を描きたちまち 奔流の中に流れ去ってしまう。

     映像としてはっきりした像を結ぶにはもうひとつ決断が足りないのである。要するに思いの あぶくに過ぎないのである。

     I.さんのことを思う。写真をまた出してしばらく眺める。今となっては彼女に対して一体何が できるだろう。彼女は手紙を書いてくれるだろうか。この世において、私たちは色々な思い出を持つ。彼女とのことも私にとっては単なる懐かしい思い出に過ぎ ないのだろう。

     彼女が僕の妻になってくれたら。彼女が僕に甘えて僕がこうして椅子に座っていると後ろか ら近づいた彼女が両手を僕の首の周りに回して、やわらかい頬を僕に摺り寄せてくれる。

     われわれにとって真実とは?僕の使命は一体何だろう。僕は役人向きの人間ではない。役人 にはほとほと愛想がつきた。だからと言って僕は役人を辞める決心がつくだろうか。辞めたとしたらどうして生活をしていけるだろう。

     3月ももう終わりだな。ああ、なんて時の過ぎ行くのは速いことか。20年。これもあっと 言う間に過ぎそうだ。僕にとっては、泣いても泣ききれぬほどの大切な20年があっと言う間に……思いの渦はこうして止め処もなく湧いてきては、あっけなく 流れ去ってしまうのである。


 


1964.3.27
金曜日

1964.3.27

金曜日

     ほんとうにやっとこさ鉱山保安法の改正案を閣議にかけるところまできた。

     三井三池の大災害があってから、緊急に手をつけた改正事業であったために、時間的にいろ いろと制約されて、曲がりなりにも3月31日のギリギリの閣議に間に合わせ得たのは幸甚とせねばならぬのかもしれない。

     法案を作ることとはまた何と面倒なことであろう。国民の権利義務に直接影響する問題であ るので、慎重の上にも慎重な検討・審議を行うのはもっともだとは思うけれど、まだまだ改善すべき多くの無駄が、改正過程にはあるように思われる。

     そ うした多くの無駄や、当然踏むべき多くの手続きのためにこの数ヶ月間何と忙しかったことだろう。3月31日の閣議に間に合わせるためにわれわれはいつも試 験が終わりもしないのに途中の休みに入ったような中途半端な気持ちを味わわされてきたのである。閣議請議の大臣決裁も今日下りた。なんとなくホッとした気 持ちのする今宵である。

     高 島は3月29日に京都で式を挙げる。同期生を代表して僕が京都に行くことになった。まだスケジュールは決めかねているが、30日(月)は休暇を貰ったので たとえ日曜日に東京を発つにしても一日はゆっくり京都見物が楽しめそうである。明日すぐ発つことにすると夜の9時・10時頃に京都に着くことになって、そ の夜の宿をどうするかに困ってしまう。日曜日に発つとすれば、午後5時の披露宴の前にほんのわずかの時間的な余裕しかない。宿の件さえうまくいけば明日 発ったほうがいいとは思うのだけれど。

     明日に役所からそのまま発てるように準備だけはして行くことにしたが無難のようだ。

 

 *****      *****      *****     *****

     心よしめやかに夢をこの夜更け紫のしじまに

 

     むせび泣く星の光は、ちぢに乱れ

 

     風は真珠の涙を、流れ星に

 

     安らぎの日はいずこ、この心は苦しむ

 


1964.4.1
水曜日

1964.4.1

○丁度今日が一年目 である。昨年 の今日僕らの同期の者30名が初めて通産省に勢ぞろいして、社会人としての第一歩を踏み出したのだった。早いものであれからもう一年たったのである。

○今日 僕の下に中田君という新人がやってきた。昨年の小島さんが僕となり、昨年の僕が中田君となったのである。彼も僕同様東大の法学部卒、がっちりとした体格で 面構えもなかなか良い。有望な新入りと見た。

○話が前後するが、 28日の夜行 で東京を発ち、京都まで行ってきた。高島の結婚式は大変盛大であった。行って良かったと思った。あれほど多くの人々に祝福されて高島は仕合わせなやつだと 思う。新婦のますさんもすごい才媛のようで、それでいて少しもそうしたものを表に出さない人柄の良さを持った人のように思える。きっと二人は幸福な新家庭 を持つに違いない。祝福を送ろう。

 

     29に日は京都で一泊して翌日は奈良に行った。奈良は麗らかに晴れて春らしい良い日和に 恵まれ楽しい観光気分を味わうことができた。奈良の古い文化の跡は、これからも幾度か訪れて、じっくりと味わってみたい気を起こさせるだけのことはある。

     その後大阪に出て久し振りにK.Kさんに会った。職場のことなどいろいろ話した。でもそれほど楽しいとは思わなかった。僕 の心が冷たいのかもしれない。しかし、我々の感情は我々の支配の及ばぬところにあるものなのだ。

 


1964.4.2
木曜日

1964.4.2

○高島君から絵葉書 が来た。“松山にて”とある。ハネムーンを四国で送っているらしい。文面に曰く、「当日はよく来てくれました。ありがとう。久しぶりにのんびりと出来て役 所のあわただしさをわすれている。結婚とはイカスものである。君もガンバレ!!」

これではガンバラざ るをえない。ああ一日も早くイカス結婚をやりたいものである。安月給がうらめしい。

 


1964.4.3
金曜日

1964.4.3

○人間よ。この世の はかなさをお前ほどによく知っているものはいない。しかもお前ほどに忘れっぽく、この世の享楽にすべてをゆだねてしまうものもいない。この世がかくもすば らしく喜びと快楽に満ちているのにどうしてあの世のことを思わねばならぬのだろうか、とお前は享楽の最中にあれば思うに違いないのだ。

○お前にとって昨夜 あの世に旅立った白い冷たいむくろなど、とっくの昔に過ぎ去った悲しいセンチメンタリズムに過ぎないからだ。昨夜白い冷たいむくろを前にしてさめざめと泣 いたことでさえも、今享楽の宴に酔い痴れたお前の心には、子犬に吠え付かれて必要以上に驚いた時のような一種の無念さをもって思い出されるのだ。

○しかし、灼熱の太 陽が、地上を照らすとしても、地上の半分は陰に覆われてしまうのだ。白日の太陽の下に、はちきれるような裸体をさらして、われわれが快楽に酔い痴れる時、 その快楽に歪んだ顔の下には白い骸骨が潜んでいるのだ。

○この世とはいった い何なのであろう。生きているということはどういうことなのだろう。文化とは?われわれの生存がかくも大きく死というものにゆだねられていることに人々は 気づいていないのだ。いや、気づいていてもあまりに心弱い人間は、気づかぬふりをしているに過ぎないのかもしれぬ。いつかはこの世から消えて行かなければ ならないという定めこそが人間の行動の最も基本的な動機のように思える。われわれはその動機をはっきりと意識しているのではない。それこそわれわれは無意 識のうちにそれに支配されているのだ。


1964.4.5
日曜日
1964.4.5

〇 このところ暖かい日が続いている。4月に入ってから連日5月中旬の陽気なのだ。とくに昨日などは、暖かいというより暑いくらいだった。電車のつり革に つかまっていると背広一枚どうしても余計に着ているように感じられるくらいだった。

〇そんな暑さの中で川口まで出掛けて野球をやった。保安局は野球人口が恐ろしく少ないのでやっとこさかき集めた10人で編成したチームで、相手の資源研と いえば、れっきとした野球部なのである。普通ならば勝てる相手ではないはずだった。

〇赤羽に着いたのは2時少し前だったが、タクシーでグラウンドまで行くことにして二手に別れた。僕らのほうが先発して2時少し過ぎにグラウンドに 着いた。荒川の川原のグラウンドは、まるで夏を思わせる日の光に照り映えてまぶしいほどだった。ところが後発の5人が待てど暮らせど一向にやって来ないの だ。すでに僕らの来るのを待ち構えていた資源研の方はもとより、先着の僕らもやきもきすること夥しい。僕らが強い日差しにたたかれてぐったりしてしまった 頃、やっとこさ後発隊が到着した。

〇ゲームを始めたのはそんなわけで3時過ぎだったのだろう。それまでほとんど風はなかったのに試合が始まる頃になって急にものすごい風がピッチャーに真向 かいに吹き始めた。試合は最初は資源研の一方的リードのうちに進んだが、5回俄然保安局のバットが火を噴いた。

〇この回のトップの鈴木さんが四球で一塁へ歩き、続いて僕が三塁線を抜く二塁打(保安局の初安打)、益田立君が選んで満塁。そこで一発有山だんが 三遊間を抜き、2点。その回一挙に5点をとり、6-5と一点差までつめより、6回またもや鈴木さんから始まり、彼がうまくバットを合わせて、ライト前に ヒット、僕が選んで、一,二塁、塩田三振のあと有山さんがレフトの頭上を越すスリーラン、逆に8-6とリードした。6回の裏、7回裏もガッチリ守って、つ いに8-6と逆転勝ちした。

〇僕は、三塁を守って敵に最初の得点を与える本塁への暴投こそあったが、その後は無失策、4打席、3打数1安打(二塁打)1四球、二得点とまずまずの成績 だった。試合終わって風呂に入り、皆で飲んだビールのうまかったこと。忘れられない。



〇今日は小島さんのお宅に行った。今日もとてもいい日だった。空は晴れわたり桜も昨日の暖かさで3分から5分程度にほころんでいた。市川駅に降り たのは初めてだった。ごくありふれた日本的な駅だった。定刻の2時に5分ほど遅れて市川に着いた。小島さんが人のよさそうなほほえみを浮かべて、やあと声 をかけてくれた。

〇少々遅れて来た内山さんと3人そろって江戸川の川べりを歩いた。休日とこの陽気がうまく重なって行楽を求める人の波が続いていた。里見公園に 行った。桜が5分咲き程度に咲いていてきれいだった。花見客があちこちにござを引きつめて「私のラバさん」とか陽気に歌い興じていた。人気の少ないお寺の 境内の白いぼけの花の下でしばらく腰を下ろしてドーナツをぱくついた。

〇それから10分ほど歩いて小島さんのお宅に伺った。あまり広くはないけれど、手入れの行き届いた感じの家だった。家族の人たちも皆感じのいい人 たちで、気楽な雰囲気があった。増田さんと鈴木さんと加わった5人でなにかと談笑しているうちに8時も過ぎた。夜桜を市川駅までの帰り道に楽しんで、下宿 に着いたのは10時30分ぐらいだった。

〇市川駅までの帰路で小島さんの恋人に会ったのはまったく偶然のことだった。油谷靖子嬢――感じのいいお嬢さんに思えた。

野球

小島宅訪問
1964.4.6
月曜日


1964.4.6

〇私はこのごろ自分の生活を失っている。収穫のない殺伐たる日が続いている。取り留めのないことでこの貴重な青春の日を費やしてしまうことほど、今の私に とって大きな損失はないのにと思う。

〇今は自然も一年中で一番いい時期である。それがまた私にとって大きな誘惑となる。この暖かい春の日差しに包まれてのほほんと日を送ってさえすれ ば、結構楽しい一日が過ごせるものなのだ。苦労して机の前に坐る必要もないだろう、とつい心は安易についてしまう。3月24日以来読了した本が一冊もな い。今年に入ってから初めて10日以上も、本を読み上げなかったことになる。何となくあわただしく、何のとりえもない一日を、このように送ってよいもの か。つくづく努力が足りないと思う。

〇今Thomas Mannの<<Tonio Kraeger>>を読んでいる。100頁足らずの小冊である。今夜中に読み上げたいと思っている。

〇確かに<<Tonio Kraeger>>は100頁足らずの小冊ではある。しかし、なんと豊かな情緒がこの小品の中に満ち満ちていることか。この本は人間の心の中 で一番敏感な<<哀切>>の弦を切なく震わせるような、そんなきめの細かい音色で染められている。

〇私の心の共感を呼び覚ます何ものかをこの本は持っているのだ。マンほどの鋭さはないにしても、私も人生の中にマン同様の様々の情感を見、感じ て、それを何ものかに表したいと強くこいねがっているのだ。マンほどの芸術家ではないにしても、私も芸術家の心情の何がしかは持っているのだ。彼の淡々た る筆致の下に描き出される美しい思い出の世界。私もまた涙ぐんだ故郷のさりげない風物の鮮やかな印象。

〇「小説を作る銀行家、それは珍現象でしょうね。しかし前科のない、無瑕な、手堅い銀行家でいながら小説を作る人――そんな人はあったためしがないので す」

〇「お前の切れ長な、碧い、笑っている眼よ、金髪のインゲ。お前のように美しく朗らかであり得るのは、「インメンゼエ」なんぞ読まず、また決して自分でそ んなものを書こうなんぞとしない人だけに限る。それが悲しいことなのだ……」(p.27)

〇「彼は、彼はインゲ・ホルムを恋しているのだ。詩なんぞ書くというので、彼を軽蔑しているに違いない、あの金髪の快活なインゲを。…彼はインゲ を見つめる。幸福と嘲りに満ちた、切れ長の碧い眼を見つめる。するとねたましい憧憬が―彼女と切り離されて永久に他人で終わるという鋭い息詰まるような苦 痛が、彼の胸を占めて燃え立つのである……」(p.24)

〇「最も多く愛する者は、常に敗者であり、常に悩まねばならぬ」(p.8)



〇読了午後11時40分)



「……君のようになれたら!もう一度やりなおして、君と同じように、公明に快活に素朴に正則に秩序正しく、神とも世ともやわらぎながら人となっ て、無邪気な幸福な人たちから愛されて、インゲ・ボルグよ、君を妻として、ハンス・ハンゼンよ、君のような息子を持つことができたら―認識と創造苦という 呪 いを脱して、甘美な凡庸のうちに、生き愛し讃めることができたらなあ。…もう一度やりなおす?しかしそれはなんにもなるまい。やりなおした所で、またこう なってしまうだろう―一切は、今まで起こって来た通りにまたなってしまうだろう。なぜといって、ある人々は必然的に道に迷うのだ。彼等にとっては、もとも と本道というものがないのだから。」(p.90~91)






トーマス・マン「トニオ・クレーゲル」
1964.4.8
水曜日

1964.4.8

〇“シベールの日曜 日” いい映画だった。

〇この世において純 粋であるこ と。このかけがいもなく美しいものが純粋の家から追放されてしまった人間どもから、もろくも壊されてしまうかなしさ。汚濁を知らぬ魂と魂のふれあい。この 最も純粋無垢の存在の美しさが、凡庸の徒輩には異常なものと映り、彼らの心を駆り立てて凡庸の世界に立ち返らせようとするのだ。

〇シベール。自分の 名前をXマ スの贈り物に。シベールよ。穢れを知らぬ天使。お前の瞳こそ純粋の愛に輝き、そして濡れるのだ。この世の最も尊いもの―それはシベールの魂。

〇シベールの可愛 さ。

〇ピエールとシベー ル。

〇大人になること は、純粋さを失うこと。純粋さを失うこととは異常なものとなること。すべての大人が異常だから、大人でありながら、純粋であることは異常なのだ。…

〇ピエールとシベー ルの世界。純粋の世界。

〇シベールは子供で あり母であり妻であり友である。最も純粋な意味での。ピエールは迷い子だ。シベール。その愛らしさ。

〇大人はシベールの 世界を置き忘れて成長する。ここにもいる大人は今夜、シベール!お前のために泣いたのだ。

〇シベールの世界を かいま見てしまった以上私の魂は住処を失った迷い子だ。シベールの世界を訪ね歩きたいと思いながらも、探しあぐねてこの世の汚い路地をさまよい歩く、さす らい犬だ!

〇シベール。ああ純 粋の愛の透明な輝き!(午後1200

映画「シベールの日曜日」
1964.4.10
金曜日

 1964.4.10

金曜日

〇シベールは何と言 う無邪気さだ。おませな言葉を使ってもわたしたちのほほえみを誘わずにはおかない。それはシベールの心が純真だからだ。シベールの言葉と彼女自身がいつも 一心同体だからだ。いつわりを知らぬシベールの魂ほどに、この世にかけがいもなく尊いものはない。

〇ピエールが撃ち殺 されたのを知ってシベールは泣く。「名前は?」と見知らぬ国の住人から問われてシベールは答える。「名前なんかないわよ。もう私には名前なんかないわよ。 私はいないのよ」

〇ピエールとシベー ルは愛を誓い合う。「永遠に愛する」という言葉が、これほど真実をもって語られたためしはないのだ。いつわりを知らぬ二つの心が、奇しくも到達しえたこの 愛の誓いの中にこそ、わたしたちは悲しいうらぶれたわれわれ自身の姿に対する限りない愛惜の涙を流すのだ。

〇シベール。ぼくは やはりお前を愛さずにはおられない。お前の純粋さを、穢れを知らぬお前の天使の魂を。ピエールが約束を破ったとき、シベールお前はかたくなにピエールを撥 ねつけ、涙でお前のつぶらな瞳を濡らしたのだ。

〇シベール、お前は 謎だ。お前はいったい何なのだ。僕をこれほどまでに愛しさに駆り立てるお前は。そうだ。お前は詩なのだ。人間の魂が、この世の汚濁を逃れて、しばし眼を閉 じれば、憧れの彼岸に自ずと眼に浮かぶ美しい祈りのこもった純粋な愛の詩なのだ。


1964.4.11
土曜日

1964.4.11

〇早速のお返事ありがとう!でも二十歳の乙女が退屈だ退屈だとはもったいない話ですね。 僕のほうはむしろ精一杯退屈してみたいくらいなものです。勤めだしてから早いものでもう一年にもなるのですから、このところ毎日何かと忙しくて退屈するど ころではないからです。仕事から離れて退屈なくらい自由を満喫できたら!これが今の僕の夢だなんていったら、あまりにもサラリーマン的だと笑われそうです ね。

〇奈良の旅は、観光日和に恵まれて良かったことは良かったのですが、やはり独りきりの旅 行というものは少々寂しく物足りないものだと思いました。東京であなたと二人で六義園とかあなたの学校とか東大教養学部などを歩き回ったことがありました ね。そのときのことを思い浮かべて、あなたがもう少し長く東京にいたとしたら、いつかこんな美しいところを二人してのんびりと見て回れたかも知れない、そ うしたら、どんなに楽しかったことだろうと思ったりしたものです。

〇あなたに貰った写真の中に春日参道のや奈良公園のがありましたね。定期入れの中に入れ て旅行中持って行っていたので、あなたの写真の背景とまったく同じところを見つけ出すと懐かしい気がしました。広島と東京ではあまりにも遠く隔たってい て、あなたがずいぶん遠い人に思われるのに、そのときばかりはあなたをすぐそばに感じたような気がしたのです。

〇今日は課内(カナイと発音して、家内と言っているように聞こえるというので大笑いした ことがありましたね)の花見で狭山湖に行きました。昨日まで毎日毎日降り続けた雨が、バスに乗り込む頃になると嘘のように晴れ上がり、狭山湖に行ってみれ ば桜もまた満開で、大変楽しい一日を過ごすことができました。毎日毎日大都会の真ん中で暮らしていると、「自然」に飢えてくるのです。自然の懐に抱かれる ということのすばらしさ!空気のうまいこと!景色の美しいこと!久しぶりに生き返ったような気になりました。

〇「広島はいいわよ」といつかあなたが僕を羨ましがらせるような口調で言ったことがあり ましたね。広島も今頃はきっと素晴らしいのでしょうね。その広島で此の頃、どんなことをして毎日暮らしていますか?まだ退屈で退屈で、のままですか?

〇春は、二十歳で生気にあふれているあなたの季節のはずです。大いにハッスルして頑張っ てください。東京は4月の初めはまるで5月のように暖かかったのですが、このところ寒さがぶり返したようです。それでももうオーバーを着ている人は見当た りません。また明日ぐらいから暖かくなりそうです。

〇先日“シベールの日曜日”という映画を見ました。映画通のあなたのことですから、きっ とご覧になったことと思いますが、まだだったら是非ご覧になることをお勧めします。いい映画だと思いました。

〇いつかあなたにsimpleであることの良さについて話したことがありましたね。もしそのとき僕がこの映画を見てい たとしたらsimpleとは”シベールのような“意味だと説明したことでしょう。純粋であること。純真で無邪気 であること。純粋な率直な愛を捧げることができること。―これがシベールの属性です。シベールは詩です。作者が描かずにはおれなかった美しい一編の詩なの です。

〇詩といえば、僕が作った拙い詩を一編差し上げようと思うのですが、貰っていただけます か。この手紙の一番後につけることにします。

〇この手紙、あなたの退屈しのぎにでもと思って書き始めたのですが、少しはお役に立ちま したか。長すぎる?短すぎる?トーンをもっと明るく?いやもっとロマンティックに?あんなことを書いて欲しい、こんなことは書かないで?

〇ご要望がありましたらどうぞ今度のお便りで。あなたは自由時間がいっぱいあるのですか ら、返事が遅くなったらよっぽどうまい言い訳を考えて下さいね。

〇東京に出てくるようなことがありましたらできるだけ早目に教えてください。

〇ではまた。

I.さんへの手紙
1964.4.12
日曜日

1964.4.12

日曜日

〇毎日マラソンで君 原が優勝。2位円谷、3位寺沢。

結局上位のこの3人 がオリンピック候補選手に指名された。オリンピック大会での健闘を期待したい。

〇此の頃の僕はどう も怠慢が習い性になってしまったようだ。今日の日曜日もまったく得るところなしのうちに終わってしまった。

〇父から便りがあっ た。テープレコーダーを買うといったら5000円送金があった。感謝して使うことにしよう。Sonyの29800円のを買うことにもうずっと前から決めてある。まず1万円だけ先に払って後 の分はゆっくり払うことにする。

 


1964.4.13
月曜日

1964.4.13

月曜日

〇一日に終わりの時 にわれわれが空虚なる頭を持っているとすれば、その日はわれわれにとって空虚であったに等しいのだ。一日の思索の沈殿物で、本当ならこの時間には頭は重く なっていてしかるべきなのだ。昂然と空っぽの軽い頭を振りかざしていても、見掛けはよいかも知れないが、自分自身の惨めな気持ちまでは偽ることができな い。しかも、空虚で軽い頭を抱え込んで、悩み多き人のポーズをとることはなおさらいやみである。

〇自分自身のふがい なさを精一杯軽蔑することだ。これこそ今の私に残されたただ一つの道である。自分自身から軽蔑されても奮起することのできないほどのくずなら、何をか言わ んやであるが。



1964.4.14
火曜日

1964.4.14

火曜日

〇今ちょうど12時を打ったところである。一 日が終わり、また新たな一日が始まったのだ。ふと大晦日のことを思い出して奇異な感じがした。

〇一日が終わって新 しい一日が始まる。われわれは何らの感慨なしに365回そうしたことを経験した挙句、たった一回だけお祭り騒ぎをやって、驚いてみなければならないのだろ うか。

〇一日が失われるこ とに対して、われわれは日頃は大して惜しいとも何とも思わない。一日のあとには必ず新しい一日が待ち受けていることをいいことにしてわれわれは怠惰に一日 を浪費している。

〇主観的な感じから だけでなく、この社会そのものが時間というものをすごく浪費しているのである。超音速の旅客機さえ開発され、東京大阪間を超特急が3時間で結ぼうという現 代において、われわれはますます時間を浪費することに慣れてきた。技術が開発され、あらゆるものが速度第一主義で処理されるようになるとともに一方ではそ れに比例して、時間が浪費される面がますます増えてきたのである。

〇現代は決してわれ われに実り多き時間を与えてはくれない。われわれの一日は、高度に機械化され、高速度化された環境の中で、勝手気ままに寸断されわれわれをして時間の浪費 へと駆り立てるのである。

〇1日8時間制。こ れこそ時間浪費の第一の旗手である。しかも国家公務員たる僕には、それ以外のまさに連日の予期せぬ超過勤務が控えている。僕の人生はそれほど長くはない。 何と多くの時間が無意味な仕事の中に浪費されていくことだろう。その他我々の時間を奪おうと血眼になっているものは無類にある。テレビ・ラジオ、映画、書 物、スポーツ等の享楽的なものから、過度の人口集中にともなう自動車ラッシュ、通勤時間の延長等等挙げればきりがないほどである。

〇毎日毎日を自己の 成長とは何ら関係のない仕事に追い回されて自分自身のために時間を持てない人々のなんと多いことだろう。彼らはまた何と悲しい存在だろう。


1964.4.18

1964.4.18

〇私は非常に繊細な 感覚を持った男なのだ。私は時としてこの自己の持っている他の人間よりも繊細な感覚に対して、不当な態度で臨んできた。いやむしろほとんどいつもそれをな いがしろに振舞ってきたといったほうがいいのかも知れない。他人の前に出ると私はできるだけ自分のその感覚を押し殺して、駄洒落と笑いの中に自分を任せて いるように振舞う。しかし、私は心の底からそこに満足を見出しているのではないのだ。私の心は繊細に相手の心の中を読み取り、場の雰囲気を探りながら、一 方で意味のない駄洒落に浮き身をやつしているような自分自身のなさけなさに、嫌気を覚えているのである。そして、時折その嫌気にすっかり囚われてしまっ て、他人には、いつもの快活な僕にも似ないと思わせるような態度をとってしまうことがある。僕には常に僕以外の僕が付きまとっていて、いつも僕とその周り の人々を上から静かに見守っているのだ。そいつは、いかにも敏感に他人の心の中を見尽くしてしまう。

〇そこで僕は、まる で映画監督でありながら主役もかねるということになってしまい、どうしても演技をしてしまうことになるのだ。だから僕は、自然の振る舞いはこの場合どうあ るべきなのだろうかと、考えなければならない始末だ。これはいかにも負担である。

〇そのため僕はしば しば人の前に出るのが嫌になることがある。一人ぼっちでいるほうが性に合っていると思うことがたびたびある。サラリーマンなぞ止めてしまってブラブラと自 分の好きなことをやっていかれたらと何度思ったか知れやしない。詩を書いたり、小説を創ったり、旅行をしたり、本を読んだり、気の赴くままに自由な生活が できたらと、僕はいつも祈っているのだ。


1964.4.19
日曜日

1964.4.19

日曜日

〇雨の日曜日。午後 12時50分。つい今しがた起きだしたところである。昨日に比べるとずいぶん寒いようである。それは空腹のせいでもあるのだろう。昨夜来何一つ食べてない のである。

〇この一月私は一回 のデートもしなかった。一月といっても正確に言えば先月の23日来ということになる。22日にI.と最後のデートをして以来ということである。I.と別れて以来デートする気力 がなくなったような感じである。I.とのあの楽しい盛り上がったデートを知ってしまったからには、ありきたりの型通りのデー トでは私の心の空白をますます広めることにしかならないだろうという気持ちがあるからである。

〇それに一体誰と デートしたらいいというのだろう。その相手からして探し出さなければならないのである。どうして探し出したらいいのだろう……と考えてくるとどうも面倒く さくなってしまうのである。そこまでの気力が足りないのである。春であり、24歳の若者であり、しかもデートする相手もいない心の空虚さ!

〇私の性分は確かに 孤独を愛するのだけれど、女性もまた愛するのである。私は誰かを愛していなければ生きてはいけないタイプの男なのだ。愛することの中に私はエネルギーを迸 らせる。そのエネルギーの迸りが、私のすべての活動を快く刺激して、生活全体が生気を帯びてくるのである。

雨の日曜日
1964.4.19-2
日曜

1964.4.19-2

日曜日

午前零時25分

〇5時を少し過ぎた 頃、散歩に出た。一日中降ったり止んだりしていた雨はいつしか霧雨になっていた。局長のお宅に行くつもりで井の頭公園の脇の玉川浄水に沿った小路をゆっく り歩いていった。しっとりと雨に濡れた木々の緑が幾重にも重なり合って息を呑むほどに美しかった。玉川上水のせせらぎが絶えず耳に心地よく響き、耳をすま すと数種の小鳥の声が聞き分けられるのだった。

〇小路には若い男女 のアベックがひとつの傘の中に寄り添い合って愛を語らいながら散歩を楽しんでいる姿が幾組か見受けられた。木々にもたれ掛かって抱きあっている組も!

〇と、鶯の鳴声がし た。初めは耳を疑った。東京で鶯の声を聞くなんてと信じられなかった。しかし、それは確かに鶯の鳴声だった。大きく良く澄んだ声でホーホケキョと鳴いた。 何年振りに聞く鶯の声だろう。島原を出立して以来初めて聞いたような気がする。

〇局長のお宅に行っ てみたが、局長は昨日から熱海に絵を描きに行っていらっしゃるとかで、奥さんに挨拶だけしておいとました。奥さんはとても品の良い美しい人で、僕は好感を 持った。

〇帰りがけに井の頭 公園の池を一回りした。私は久しぶりに詩人の午後を味わった。壮大な幸福感が私の心を満たした。春であり、木々の緑がこれほど鮮やかにそれぞれに美しく萌 え出で、夕暮れであり、これほどしめやかに霧雨にけむって緩やかに夜が訪れようとする公園を、感じやすい詩人の魂を抱いて散歩することほどに、この世に素 晴らしいことがあるだろうか。井の頭公園の池はさざなみひとつ立てず、霧雨の中にけむっており、向こう岸は、水面と陸の区別もつきかねるほどだった。すべ てが霧雨の大海の底に沈みこみ、ただ橋の上の水銀灯の光だけが青白く二つ輝いているのだった。

〇漂泊の魂にさえも 何かしら憩いを与えるような静かな情感にあふれた、この霧雨にけむる自然のたたずまいの中を、とっぷりと日が暮れるまで歩き回って私は一向に飽きなかっ た。私は生きていることの幸せを久しぶりに味わい、魂が清められたように感じたのだ。

 

 



井の頭公園を散歩
1964.4.1.19-3
日曜日にちようび

(以下の文章は、日 記の裏表紙に記されていたもの)

〇私の日記とも今日 でお別れのようだ。

私にとってお前は何 と大きな慰めであり、心の拠り所であったことだろう。私の孤独の魂のさすらいをお前は知っている。いや、それを知っているものはお前だけしかいないのだ。 他人に対して自分を語りたがらない私が、お前にだけはあれこれと自分について語ってきた。

〇私は矛盾に満ちた 存在であって、自分自身でも私というものがいかなるものであるかわかっていないのだ。お前は私のそうした矛盾をもたびたび見てきたことだろう。私の長所も 短所もお前にはよくわかるはずだ。この人付き合いの悪い私と今日までずうっと一言の愚痴も言わず付き合ってきてくれたお前に私は何とお礼を言ったらよいこ とだろう。アリガトウ。

〇今日でお別れだけ ど、お前の心に刻み込んだ私の若き日の姿を私はいつか懐かしみ、お前のところに引き返して来ることだろう。そのときは、私の今日の姿を、生き生きと描き出 してみせて欲しいものだと思う。私も決してお前のことは忘れやしない。若き日の情感を分かち合ったお前のことをどうして忘れることができよう。今夜限りで 一応お別れしなければならないけれど、笑って別れようじゃないか。

〇また会う日まで  元気で   アデュー

Kiichiro Abe(署名)

日記
あとがき
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ご愛読ありがとうございました。

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