ポーランド通信





 ここに収録したのは、ポーランドに赴任した1975年当時参加していた「×××」同人会の会報用にポーランドから書き送った5通の手紙である。

 当着のすぐ後から、一年後の四月まで、四季折々のポーランドのたたずまいを、滞在後、比較的日の浅い観察者の目を通して、描いたものになっている。(1999/3掲載)


目次

ポーランドと熱帯植物(第一信)

ポーランドと美味い物(第二信)

ポーランドの夏(第三信)

ワルシャワ・十月・ショパンコンクール(第四信)

ポーランドの冬(第五信)   
(完)



 「×××」の皆さんDZIEN DOBRY(ジェニ・ドブリ=今日は)、出発の時には盛大な壮行会ありがとうございました。お陰さまでポーランドに安着し、元気にやっております。

 さて、壮行会の席上、「ポーランド通信」を忘れず送るようにと約束させられたわけですが、今になってその重みが肩に食い込んできているというところです。つまり、皆様には肩のこらない読物をと考えてこちらでは大いに肩をこらしているというわけです。とにかく、思いつくまま気の向くまま、軽いエッセイ風の通信をこれからお送りしたいと思いますので御愛読のほどを!



ポーランド通信(5)(1999/3/19収録)
ポーランドの冬

 そろそろ暑くなりかけている時節に「冬」の話で恐縮ですが、ポーランドを語るからには、冬について触れぬわけには参りません。

 昨年の十月、私にとって初めてのポーランドの冬を前にして、それこそどんなに厳しい冬が待ちかまえているかといささか不安な気持を抱いていたことは前便を読んでいただいた方にはおわかりいただけたことと思います。そして今、その冬もほとんど終りかけている時点でポーランドの冬を振り返ってみると、むしろ、なんとなくなつかしいような気持にさえなるのです。

 ちょうど一年前私がこの国に着いた頃ポーランド人はここ数年ポーランドには冬がなかったという云い方をよくしておりました。ほとんど雪も降らず、気温もそれほど下がらなかったというのです。そして、今年の末の冬こそ、本格的なポーランドの冬らしい冬になるだろうと、何か厳しい冬を待ち望むかのような口調で付け加えたものです。そして、その予想は当ったのです。

 十一月の末には、気温はもう零下十二度を記録しました。十二月半ばまで降らなかった雪も、降り初めると十二分に降って毎日のように雪かきに追われる日が続くようになりました。(とは云えワルシャワの雪は積ってもせいぜい二〇〜三〇センチメートルで、それ以上積るようなことはまずありません。)ワルシャワの中央を流れる、ポーランドの母なる大河ヴィスワでさえ完全に氷結し、まるで焼跡の瓦礫の山のように大きな氷の塊が水面からゴソゴツと盛り上るしまつです。零下十度より気温の上がらない日が幾日も続き、ときに零下四、五度の日になると、「今日は暖かいね」などと話し合うようにさえなりました。雪が降る日は決まって気温が零度近くに上るので雪は大いに歓迎されるようになります。

 しかし、不思議と寒い目に合ったという記憶はありません。

 事実、ポーランドの冬は我々が当初想像していたよりははるかにしのぎやすい冬でした、窓の外の寒暖計が零下十八度をさしているのをこの目で確めながら、夜半シャワーを浴びたこともあります。完全な二重窓で室内の気温は常に二十四五度に保たれているのでこういう芸当もできるのです。日本の家屋で冬にシャワーを浴びるなんてとても想像できません。

 着る物も年中ほとんど変りありません。外出するときは室内着の上にコジェフと称する羊の毛皮のコートを着、これも毛皮の帽子をかぶります。室内で体は十分温まっていますので、これだけで寒さはほとんど気になりません。この服装で、冬の夜、山中でキャンプファイアを楽しんだ経験が、寒さに対する私の危倶の念を取り除いてくれました。零下十度以下の乾燥してビンと張りつめた冷たい空気は、ときとして肌にこころよくさえあるのです。

 年末から正月にかけての休暇にチェコとの国境に近いザコパネ地方にスキーにでかけました。家族ともども車で行ったわけですが、自動車の運転だけは、さすがに冬は快適とは申せません。

 幹線の道路はきれいに除雪されておりますが、それでも雪が降りはじめたら右から左へというわけにもいかず、そんな道路でも運転には苦労します。ほとんど前方は何にも見えなくなりますし、ちょっとカーブをきっても、ブレーキを踏んでもタイヤはスリップします。とくに幹線遠路から脇道に入ると路面には二〇〜三〇センチの氷が張りついていますので用心が肝要です。ちょとした上り坂でも迂闊にストップしますともう発車できなくなります。坂の一番下までバックして、そこから発進するよりないのです。坂の途中でタイヤを空回りさせている車を見かけても同情して停車するのは禁物です。自分にも同じ運命が待ち構えているからです。

 アイスバーンの上では急ブレーキや急カーブこそ禁物です。ザコパネまでの道中、何度ひっくり返ったり、ぶつかったりした車を見たことでしょう。こんなに苦労してザコパネに行ったわけですが、ザコパネ行きは苦労のし甲斐があったと申せましょう。ポーランドの人達が冬をどういう風に過すか、垣間見ることもできましたし、一緒になって大いに楽しんで来たのですから。

 我々は民宿に泊りましたが、初めての日本人客ということで大いに歓迎されましたし、同宿のドイツ人、スェーデン人、インド人、ポーランド人とも仲良しになって、クリスマスを祝い新年を祝いました。新しい年を迎える午前零時には威勢よくシャンパンを抜き杯を上げ、おめでとうを云い合い、大合唱です。夜更けまで踊り興じウオッカの杯を重ねます。

 元日の夜一緒に馬橇に乗って夜半満天の星を仰ぎながら雪の山野を走り回ったのも忘れられない思い出です。前を行く橇の炬の火が、黒い木立の向うに見えがくれします。樅の木が不思議な音色をかなでます。馬橇から下りて、小さな樅の木を切り倒して焚火です。その火でソーセージを焼いて、ウオッカと一緒に食べるのです。子供も大人も、ソーセージより数等美味しいものを噛みしめているような顔付きをしています。

 ある日はスキーを、ある日は馬橇にゆられて雪の渓谷を遊覧し、ある日はケーブルカーから雪の山々を眺め、ある夜はブランデーを飲みながらチェスの熱戦に打ち興じたりしているうちに、十日足らずの我々の短かい休暇はアッという間に過ぎ、短かくても二週間単位で遊びに来ている同宿の人達に別れを告げて、またもや危険な雪の道をワルシャワヘと引き返すことになったのです。

 車を運転しながら、昼が短かく、雪が多く、零度以下の日々が続く北国の冬にもそれなりの楽しみがあり生活があるのだとしみじみ思ったことでした。(完)
(一九七六年四月記)
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ポーランド通信(4)(1999/3/18収録)

ワルシャワ・十月・ショパンコンクール



 ワルシャワの十月は日本では初冬の寒さです。もう我が家でも暖房を人れています。前便でお伝えした鬱蒼と生茂り、緑をしたたらせていた街路樹のおもかけはもうどこにもありません。

 落葉は九月に入るか入らないうちから始まります。一雨降るとそれこそ街路一面に落葉が溢れます。木の葉は黄色味を帯び、ちぢれて、一雨ごと、風が吹くたびに、まるで髪をすかれるように散ってゆ<のです。木によってはもうほとんど落葉してしまったのさえあります。

 毎朝通勤する途中の亭々とそびえ、空をおおいつくしていた街路樹も、今ではすっかり黄色くなり、そこに日差しが当ると青く澄んだ空をバックに輝き立つような美しさにあふれます。

 今年のワルシャワの十月は、ショパン・コンクールの十月でもあります。ワルシャワ滞在の初めの年に五年に一度のこの世界的な音楽祭に遭遇できたのは幸運としか云いようがありません。

 今回で第九回を迎えるこのコンクールには全世界から一一八人が参加して、十月七日から二十八日まで、三次にわたる予選を経て最後に残った六人で覇を競います。

 日本からは十二名が参加しています。参加数では、アメリカ、イギリスに次いで第三位、地元ポーランドですら、厳選されて六名にしぼられていますから十二名という全体の一割を越す数はかなりなものなのです。

 現在一次予選が進行中ですが、過日家族ともども演奏を聞きに行きました。場所はワルシャワの中心にあるコンサートホール。なかなか立派な建物で、ポーランドはこの種の建物には相当力を注いでいてここのオペラ座や方々にある劇場にしてもかなり豪華なものです。入場料は一人三十ズオーテイ。邦貨にして二百円程度です。二次で五十、三次で七十、決勝が百ズオーティです。
 
 日本の入場料と比べるとまるで月とスッポン、驚くほど安価です。これは音楽会に限らず、オペラでも演劇でも映画でも同じです。文化事業に国が相当力を入れており、経済的な援助をしているからこんな価格でやっていけるのです。ただし、ショパン・コンクールには世界中から観客が押しよせるのでキップを手に入れるのはなかなか容易ではありません。

 我々がコンサートホールに出掛けた日は折良く、五人の演奏者のうち三人までが日本人でした。中山、西田、岡本の三人のお嬢さんのうち、私には西田嬢が最も素晴しいように思えました。事実、拍手も最も高かったのです。

 ポーランドはショパンを生んだ国、ポーランド人の音楽、なかんずくショパンを愛する気持は並大抵のものではないように思えます。文字どおり老若男女が一生懸命に耳を傾けております。中には演奏曲目ごとに採点をしながら聴いている人がいます。拍手も演奏者の力量を敏感に反映します。いつぞやオペラを見に行ったとき、曲の間合いを利用して拍手をおくるうまさに感心したことがありますが、これも長年の蓄積があって初めてできる芸当です。

 先に入場料が極めて安いということを書きましたが、安いので誰でも見にくるようになったと考えるのはある意味で本来転倒です。誰もが見に来るので安くすることができるというのでもありません。政府が政策的に安い料金にせざるをえないほど一般の人々の音楽やオペラや演劇に対する愛着、ないしは欲求が大きいのだというのが、かなりの程度正鵠を射ているように思えます。

 観客の中には、もう腰のまがりかけたようなお婆さんも沢山います。昔の貴婦人さながらドレスアップした女性もいれば、背中やおヘソの出そうなセーターを着た若い人もいます。そして皆んな一様に熱心に音楽に耳を傾けているのです。

 いい演奏だとブラボーという歓声が飛び交い、拍手が鳴りやみません。ショパンコンクールの−オープニングリサイタルでベートーベンのバイオリン協奏曲を弾いたシェリングは、観客の熱狂的な拍手に応えて二曲もアンコール曲を演奏したほどです。

 一次予選を聞きに行った日、会場の出口で、我々が連れて行った七つになる長女がかわいいと言って話しかけてきた老婦人がいました。もうかなりの歳で、片言の英語でしたが、私が今日の演奏者のうら誰が一番良かったかと聞きますと、彼女は持っていたメモ用紙に目をくっつけるようにしながら、「ニシダ」というではありませんか。その紙にはボールペンで演奏者の名前と採点が書き込んであるのでした。

 この通信が掲載される頃には、とっくにショパンコンクールは終わっており、入賞者の名前は全世界に知れ渡っていることでしょう。いったい誰が入賞するのでしょうか。その中に日本人の名はあるのでしょうか。今から楽しみです。(注)

 コンクールが終わる頃には、ワルシャワはもう本格的な冬の入り口に来ていることでしょう。今年の冬は厳しいというのが通説です。少々心配でもあり、またはじめての北国の冬のことでもあり、若干楽しみでもあるのです。

(1975年10月15日記)
(注:このときの優勝者が現在も大活躍しているクリスティアン・ツィマーマンである。日本人はこの年は入賞しなかった。エッセイ「ギドン・クレーメル讃」参照のこと)

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ポーランド通信(3)(1999/3/15収録)
 
 

ポーランドの夏





 早いものでポーランドヘ来てからもう四月以上もたってしまいました。慣れない土地で無我夢中で生活しているうちに、あっという間に四月たってしまったような気がしてなりません。気がついて周りを見渡すと、気候はもう夏、自然はがらりと様相を替えてしまっております。冬から春へ、そして駆け足で夏へと。

 今、ワルシャワは、したたるような緑にあふれています。道路を覆いつくさんばかりの街路樹、市内至るところにある公園も、もう緑、緑です。本当にこれが北緯53度度の北国とは信じられないぐらい濃い緑の木々が、鬱蒼と生い繁っています。それに日差しの強いこと。しかし、ちょっと木陰に入ればひんやりと涼しく、いい気持です。空気が乾燥しているせいです。日本の梅雨を思い浮べると、避暑地に来ているような気分にたります。事実、ワルシャワの年間平均気温は軽井沢のそれとほとんど変わらないうえに、冬暖かく、夏涼しく、そのうえ、もっと空気が乾燥しているのですから、日本だったらさしずめ軽井沢以上の避暑地になったことでしょう。

 ところが現地の人の中には「夏は暑いので大嫌い。私は冬が好きだ」という人がいます。零下数十度にもなる冬が好きというのですから、皮下脂肪の薄い我々温帯地方出身者には理解できません。とにかく、この「暑い」夏を逃れて、彼らはさっさと避暑へ行くのです。長い人で二月、短い人でも二十日、ちゃんと休暇をとって、方々へ出かけます。国内のみならず外国へも出かけます。そういう人たちを安く受け入れる施設が整っているのです。私の家の六十を過ぎたお手伝いさんも、八月の休暇にはイタリアへ出かけると言うことです。

 中央官庁の次官であろうが、お手伝いさんであろうが、ちゃんと休みをとってバカンスをエンジョイする点で、少しも変りがありません。日本では、一週間続けて休みをとるのさえまだ難しいのですから羨ましくなります。ましてや、中央官庁の次官とか局長とか、会社の社長や重役が一月も二月も続けて休みをとるなどということは日本ではおよそ考えられません。そんなことをしたら、たちまち馘になるのがおちというものです。

 ところでポーランド人の「避暑」の代表的な方法は日光浴であろうと思います。老いも若きも実によく裸になって日光浴をします。ワルシャワの中心部を流れるヴィスワ河の河岸をドライブすると、それこそ河岸は裸の人の群れで肌色に見えます。別に泳ぐでもなく日永一日川岸に寝そべって甲羅を干しているのです。男はパンツ一枚、女はビキニというのが代表的なスタイルです。

 でもこのスタイルは、なにも河岸だけに限りません。公園、テニスコート(実際このスタイルでテニスをやるのです)、自宅の庭。ビキニ姿の若い女性が畑で農作業をやっているのも珍しくありません。私の同僚の一人は、ボトムだけで、畑仕事をしている女性を見たことさえあるそうです(うらやましい!)。とにかく、足が長くスタイルがいいのでビキニがよく似合うのです。私の家の両隣りに住む女性も、自宅の庭でときどさ甲羅を干していますので私もたまには目の保養にあずかることができます。

 子供たちは、小さいときから実によく日光浴をさせられております。隣り家の二歳になる男の子はほとんど丸一日裸んぼで日光浴をしています。近所の子供たちは、普段遊ぶときも裸にされて外に放り出されます。わが家に裸で遊びに来た子がいて驚いたことがあります。
 
 ポーランド人が、これほど日光浴をするのは、冬が長く厳しいためです。冬の日光は弱く日照時間は極端に短いのです。八時過ぎに日が昇り、午後の三時半には暗くなります。だから、一年分の日光をこの短い夏の間にからだいっぱいに吸収するのです。

 そこで我が家も負けておれぬとこのところ私はじめ子供たちもチャンスがあれば裸になって、庭で日光浴をしております。

 さて、日光のもとで甲羅を干すのが一興なら、したたるような緑の木の下で食事をとるのもまた格別です。

 我が家には六十坪ぐらいの庭があって、大きなアプリコットの木が枝を広げています。その下で朝食や昼食をとるのです。ときには夕食もそこでします。なにせ一夜は八時半まで明るいのですから、夕食でもO・Kです。ビールを飲めばビアガーデンになります。いい空気を吸いながら、昼間なら咲き乱れているバラを愛でつつ、夜間は星を仰ぎつつ飲んだり食ったりするのは爽快そのものです。庭木には、グーズベリーや桜んぼ、苺等がびっしり実をつけています。

 我々の心を満ち足りたものにするものがワルシャワの生活にはあります。それは他でもない「自然」が身近にあるということではないかと考える此頃です。
(一九七五、七、八記)
 

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ポーランド通信(2)
 
 


ポーランドと美味い物










「人生至るところ美味い物有り」という信念(?)を私は持っています。人間という人種は、動物界では飛び抜けて食い物にうるさい。だからどこへ行こうともおよそ人間社会がある限り、必ずやそこには美味いものがあるに違いない、というのが私の信念(?)なのです。ポーランドも決して例外ではありませんでした。

 こちらに着いてから持前の何でも食ぺてやろうという精神で、早速いろんな食物を試してみました。前菜、スープ、魚料理、肉料理、デザート、酒・・・その結果それぞれに美味いものがあり、私は自分の信念を変える必要がないことを知りほっとしたものです。

 例えば前菜。
 この前菜にも冷たいのと温かいのとがあります。前者にはスモークドサーモンのサラダ(これはスモークドサーモンを牛の骨からとったゼリーで固めたもの)やタルタルのビーフステーキと云う、牛の生肉を各種の薬味やオイルサージン、卵の黄味と混ぜ合わせて食べるもの(これはかつおのたたきに似た味がします)等々があり、後者にはビゴスと云ってキャペツと肉・ソーセージを少々酸味を持たせてシチュー風に煮込んだもの等があります。このビゴスはポーランドの風土料理として有名な料理なのだそうですが、私がポーランドに着いたその日、初めての食事でとにかく何もわからずに頼んで食べたのがこの料理だったので今もって何となく愛着を感じます。

 またスープには、コノソメ、ブリヨン、ボルシチ(赤蕪のスープで、それこそ真赤な色)から、マッシュルームスープ、トマトスープ、ヨーグルト入りのスープ(ピンク色)等々色んな種類があって、しかも実がたっぷり入っているものが多く、日本で云えばビーフシチューであり、何とかラーメンとでも云うべきようなものがこちらではスープの仲間に入っているのです。(我が家で、日本から持っていったインスタントラーメンを食ぺていましたら、我が家のポーラード人のお手伝いさんは、これは何というスープかとたずねました。)

 肉料理は安くておいしくそれ自体、量がたっぷりなうえに、それこそ食べきれないほどのフレンチポテトや生野菜が付いてきます。肉の種類も牛や豚や鶏に止まらず、アヒル、鴨、七面鳥、きじ、鹿、猪と豊富にそろっていて、それぞれに美味です。

 デザートのアイスクリームも店によってそれぞれ味が遠い、中には酸味の強いものがあって初めは抵抗を感じましたが、慣れてくるとサッパリしておいしいものです。

 最初は、前菜とスープとパンとで、お腹の八分どおり満杯になったりしていましたが、次第にフルコースいけるようになってきました。それというのも、ポーランドでは、実にゆっくりと時間をかけて食事をとるからです。日本流に五分間でラーメンをかき込むというような風景にはまずお目にかかれません。ゆっくりとメニューを見て料理を選び、注文した料理がなかなか来なくても悠々として待ち、運ばれて来た料理を楽しげに語り合いながらゆっくり時間をかけて食べる。これがポーランドのペースです。

 私も日本人のこととて、最初はこのペースになかなか憤れませんでした。料理が来ないとついついいらいらして、

「遅いなあ、何やってんだろ」
とか
「サービスがやっぱり社会主義の国は悪いなあ」
とか愚痴ったりしたものでしたが、しばらくするとそういう食べ方の方がなんとなく人間らしい食べ方のような気がしてきました。そして今では、家族一同すっかりそのぺ−スになってしまい、六才の娘までがゆっくり食ぺるせいかフルコースに付きあえるようになってきましたし、食事に二時間以上かかっても、まったく驚かなくなってしまいました。そして、ゆっくり食ぺるということこそが、食事を美味くする何よりの条件なのではないかと考えるようにさえなってきました。

 注文をとるのももどかしく、料理をぱっぱっと手際よく運び、食事が終わるや否や請求書を持ってあらわれて早く出て行けと云わんばかりにしている日本のレストランのサービスぶりに比べれば、客にゆっくりと料理を選ばせ、前菜、スープ、肉料理と一つ一つ間をおいてサービスし、食事が終わっても、こちらが、黙っている限りいつまでたっても請求書を持って来ないポーランドのやり方の方がある意味ではサービスがいいのではないかという気さえしてきたのです。

 とにかくこの国ではどんなにゆっくりとしていても、追い立てを食うことはまず絶対にないと保証してもいいでしょう。

 ひとつ、ポーランドまでやって来て、わたしと賭けてみませんか。
(1975/5/18記)


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ポーランド通信(1)
 
 

ポーランドと熱帯植物





 変な題とは思いませんか。北緯五十数度。ポーランドは寒帯地方のはず、”ポーランドと寒帯植物”の間違いではないのか、などと「学」のある方はいぶかしんでおられることでしょう。いえいえ間遠いではありません。ポーランドは熱帯植物の育成にとっては、日本よりもある意味では適している国であると云ったら驚かれるでしょうか。

 私がポーランドに着いたのは二月二八日、ポーランドではまだ冬です。今年は百年来の暖冬とかでポーランド人は口ぐせに

「今年は冬がなかった」

と言っていますが、零下何十度にはならないにしろ、雪が全く積もらなかったにしろ、やはり夜中には零度以下にもなりますし、厚いオーパーコートと襟まきが離せませんし、寒いことは十分寒いのです。

 飛行場からワルシャワの市街へ向う途中には、いたるところに林があります。市街に入ると、街路樹が沢山立ち並んでおります。しかし、木という木はまるで枯木同然、緑らしいものは一切なく寒々とそそりたっております。

 ところが驚いたことには、町の方々に花屋があって縁のしたたるような観葉植物や、ピンク色の花の咲いたさつきやつつじの類の植木鉢を売っているのです。かなり高い値札がついていますが、店はいつもお客さんで賑っています。

 私はまずホテルに入りましたが、ホテルのあちこちに大きな熱帯産の観葉植物が置いてあります。レストランには屏風がわりに熱帯種物が植えてあります。どの店にも、植木鉢の数箇は飾ってあります。

 四月五日、一月と一週間ぶりにホテル住まいを解放されて新居に移りました。その家の家主さんが家にある植木鉢をそのまま置いていきたいというのでOKしましたところ、家中の窓側という窓側には熱帯植物の鉢があり、ある部屋では、一方の壁一面に長い蔦状の植物が繁っているではありませんか。

 ポーランドに熱帯植物。こちらへ来る前には全く考えもしないことでした。しかし、考えてみれば先にもいったとおりポーランドの家屋は熱帯植物の繁茂には大変適しているのです。何故ならポーランドの室内の温度は年中はとんと変りがないうえに、いつも半袖姿でいられるほど暖かだからです。ポーランドヘ発つ前は、半袖シャツやセーターを持っていきなさいという忠告が我々にはよく理解できませんでした。樺太と同じ緯度にある国へ何で半袖を持っていく必要があるのかと思いもしましたし、とにかく冬の最中にいくということで、手持の携帯品の中には、ほとんど半袖のシャツを入れませんでした。ところが家の中にいれば半袖で十分なのです。外出するときだけ、その上から厚い毛皮のコートをはおるのです。

 私は仕事で初めてウイーンへ出張したとき、二人の子供のためにわざわざ半袖のシャツを買って帰えりました。子供達はこれで汗をかかないで遊べると大喜ぴしたものです。

 ーポーランドと熱帯植物ー日本にいて、日本人の頭で考えれば、絶対結びつかないものが、ポーランドではちゃんと結びついているのです。ポーランド人にとって緑へのあこがれは大変なものでしょう。冬になれば自然界からほとんどすべての緑が消え失せるのですから。そこで彼らはシーズンを通して緑の変ることのない熱帯性の植物を家の中で大事に育てるのです。

 自然に恵まれた我国では、それほど切実に緑を必要としませんし、家の防寒にしましてももいわば中途半端なところでとどまっておりますが、防寒なしにはそれこそ命にかかわるポーランドでは年中半袖で暮らせるほどにちゃんとした防寒設備をほどこし、それ枚にこそ、年中緑の変わることのない熱帯性の植物を育てることができるというわけです。

 熱帯植物と半袖のポーランドの例から、われわれの常識とか物の考え方とかが、いかに日本的な風土に縛られているものであるか、われわれがその桎梏から逃がれ出ることがいかにむずかしいものであるか、数万キロもはなれた国の実情を推し図ることがいかにむずかしいものであるか、少しはお分かりいただけたでしょうか。

(一九七五・四・一六記)

(以下は、原稿の送り状である。)

拝啓「×××」81号と二度のお便り、うれしく拝見させていただきました。Iさんが撮ってくれた写真もさすがに我が「×××」の「プロ」の名に恥じぬできばえで忘れることのできないよい記念になります。お返事が遅れて中し訳ありませんが、ポーランドへ着いて以来一月と一週間ホテル住まいを余儀なくされて、この五日やっと新居の方へ移ったというところで、一月二十一日に我が家から送り出された船荷もまだ届かぬやらで、なんとなくまだすっかり落ち着いた気分になれなかったためです。そんなわけで、作品及びお約束した「ポーランド通信」早く送らなければならないと思いながら、今日までたってしまった次第で、申し訳なく思っております。作品の方はもう少し待って頂くことにしてとりあえずポーランド通信をお送りしますのでよろしくお願いします。なお手紙類は、消印で見ますと3月28日付けのものが4月5日に着きましたので8日ばかりで着くようです。今後ともよろしくお願いします。それではお元気で。×××の方々にもよろしくお伝え下さい。(在ポーランド)


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