Quotationの部屋

(2000.4.23掲載)
index(事項別)
喜劇
せりふ
トウガラシ
燈火で蝉・蜩が鳴く
夢の実現に努力
歴史
書くこととピアノの類似
運と不運
健康
真剣勝負
散文と映画
 論争
 世界感覚
 チャンピオン
 理屈
良い絵
 目前心後
index(人名別)
リットン・ストレイチー 蜷川幸雄 多田富雄 柴田宵曲
イリヤ・ムーシン マイク・マンスフィールド ブラッドベリー 俵孝太郎
梶田正巳 穐吉敏子 アンドレイ・タルコフスキー アンドレイ・タルコフスキー
アンドレイ・タルコフスキー ジーン・サラゼン 小倉記蔵 高塚省吾
世阿弥

 
タイトル 本文 出典名 号・日付等 記入日
喜劇 純粋な喜劇は、悲劇やふつうの演劇や小説とは違う世界に成立しているのだ。成立基盤となる世界の構造が違うのだ。つまり、人間の性質と行為は暴かれるが、それらの行為の結果は保留されるという、そういう世界があってはじめて純粋な喜劇は成立するのである。喜劇の登場人物は現実の人間みたいにリアルだが、いわば真空世界の住人なのである。彼らはわれわれを教育したり、われわれの品性を高めたりするためにそこにいるのではなく、ただ単にわれわれを楽しませるためにそこにいるのだ。だから、現実の世界なら彼らの行為は重大な結果を招くだろうが、喜劇の世界では重大な結果は起きてはならない。もし起きたら喜劇は成立しない。たとえば嫉妬深い夫はみんな悲劇的人物になってしまうし、尊大な父親はみんなゴールズワージーの小説の登場人物に、放蕩者はみんな世の中の害虫に、そして退屈な老いぼれじじいはみんなただの退屈な老いぼれじじいになってしまうだろう。だが喜劇の魔術によって、現実の人生では厄介なものも、憂鬱なものも、不道徳なものも、退屈なものも、すべて楽しい笑いときらめく喜びに変わるのである。(p.46〜47) リットン・ストレイチー「てのひらの肖像画」みすず書房1999年 1999.6.4 1999.9.1
せりふ 蜷川(幸雄/演出家、「リア王」の演出中):近くイギリスからせりふをチェックする先生が来るんだ。RSC(注:英国ロイヤル・シェークスピア劇団)はケチなくせに、そういうところに費用を惜しまない。言葉に対して実に厳格だ。
野田(秀樹/劇作家・演出家・俳優、ルポライターとして登場):日本と違うね。おれたちも、そういうことやっていないものね。
朝日新聞1999/9/10ニッポン現場紀行(ルポ蜷川演劇の現場)「彩の国さいたま芸術劇場ー野田秀樹さんと行く」 1999/9/10東京12版Np.21 1999.9.10
トウガラシ 中米原産のトウガラシは、コロンブスのアメリカ発見以前には、ヨーロッパにもアジアにも存在しなかった。
スパイスを求めての旅でもあったコロンブス航海日誌には、1493年1月15日の日付で、現地でアジと呼ばれる強いスパイスがあって、住民がそれを常食していることを記載している。このアジをコロンブスがヨーロッパに持ち帰った。それがトウガラシの先祖である。トウガラシがヨーロッパに普及するのはきわめて速かった。(中略)
コロンブスの帰国後五十年もたたないうちに、トウガラシはヨーロッパからインドに到着し、やがて東南アジア一帯に広まる。驚くべきことに、1540年ごろまでインド人は、トウガラシの入っていない、つまり辛くないカレーをすすっていたのである。
トウガラシはポルトガル人によって日本にもたらされる。京都の鷹の爪だって、十六世紀後半以降に栽培されるようになったのだ。この鷹の爪が韓国に渡って広く栽培され、キムチや焼肉に使われるようになる。十七世紀までの朝鮮のキムチには、トウガラシは入っていなかった。辛くないキムチなど、あなたは想像することができるだろうか。
多田富雄「ビルマの鳥の木」日本経済新聞社 1995/10/19 1999.9.15
燈火で蝉・蜩が鳴く 軒ラムプが電燈に変わってからも、はじめのうちはかなり暗いもので、街燈の光がその度を加え、店舗が内外の電燈に強烈な光を競うようになったのは、まだ久しいことではない。そのため夜は店を閉じても外の明りで十分羽子をつくに足り、夏の郊外などでは蝉が鳴き蜩が鳴くようになった。こういう燈火の作用は明治時代の人の想像も及ばぬところであろう。p.14
(この書の底本は、昭和18年12月15日発行である。大都会では、郊外ではなく、町の真ん中で蝉や蜩が夜中に鳴いている)
柴田宵曲「古句を観る」岩波書店 1984.10.16第1刷1999.4.16第12刷 1999.9.18
夢の実現に努力 「悩む暇があるなら、夢を実現するため努力しなさい。」
サンクトペテルブルグ音楽院教授イリヤ・ムーシン教授(1999.6,95歳で死去)が、弟子の指揮者西本智美さん(29歳)を励ました言葉。
朝日新聞「ひと」西本智美 1999.9.28朝刊14版p.3 1999.9.20
歴史 歴史から学ばなければ、歴史が教えにくる。

◆マイク・マンスフィールド(Mike Manfield)元米国駐日大使の「私の履歴書」の締めくくりの言葉。「歴史は繰り返す」という言葉には、こうした警告の意味もこめられているとして。

私の履歴書」(マイク・マンスフィールド) 1999.9.30日経新聞 1999.9.28
書くこととピアノの類似 ピアノの練習を一日さぼれば自分がわかる。二日さぼれば音楽評論家が気づく。三日さぼれば観客がわかる。書くこともこれと同じだ。 ブラッドベリー「」 1999.9.30
運と不運 母親はよく私に向かって、自分たちは運が悪かった、あんたは運がよかった、といったものだ。あまり再三なのにむっとして、運が悪かったというのは他人を慰めるときに使うセリフで、運がよかったというのは自分の勤勉努力を謙遜して使う言葉だ、話が逆ではないか、といってやったことがある。
 運も実力のうち、という。それなりの努力がなければ運は向いてこないし、それなりの勤勉さがなければ、たとえいっぺんは気まぐれで向いてきた運も長続きしまい。
 そもそも、勤勉努力によって克服できない不運は、ガンなどの重病や不慮の事故を別にすればないのではないか。運が悪かったから自分の人生はうまくいかなかった、というのは、所詮自己弁護にすぎまい。会社の人事などでの運、不運はあるだろう。しかしそうした不運は、会社での出世などというケチくさいことから別の次元に目標を切り替えて努力すれば、それを通じて克服できるはずだ。状況に応じて捨てるべきものは捨て、追求すべきものだけを追求することに集中すれば、必ずどこかで努力は酬いられる。そこで満足することが出来れば、世の中に自らボヤかなければならない不運などというものはありえない、というのが私の多年の考え方である。p.98
俵孝太郎「どこまで続くヌカルミぞ」文芸春秋社 1999.9.20第1刷 1999.10.25
健康 健康とは単に病気でないということではなく、人に襲いかかるさまざまな病原体に対して、勇猛果敢に立ち向かっている状態だといわれている。実際、身の回りには、最近やウイルスがみちあふれているので、それらに対して勇敢に戦っている身体の「動的均衡状態」が、まさしく健康という実態である。身体の抵抗力が衰えたときなど、不利な戦いをしいられて、動的なバランスを失い、インフルエンザにかかることもある。p.36 梶田正巳「勉強力をつける」筑摩書房 1998.7.20第1刷 1999.10.26
真剣勝負 私はそれ(注「インディ500」500マイル自動車レース)を見ているうちに、私たちの世界はこの世界に比べると安易だな、と思った。レーサーは、瞬間的な判断の誤りで生命を失うこともある。私たちは即興演奏中、とっさに誤っても生命をなくすようなことはない、と思った。それからの私は、即興演奏に対する心構えが変わった。私は、ステージに上がるときはいつも真剣勝負に立ち会う気構えで上がる。(穐吉敏子「ジャズと生きる」p.183) 穐吉敏子「ジャズと生きる」 1996.10.21 1999.11.5
散文と映画 ・・・散文ならなんでもスクリーンに移せるというわけではない。
 諸要素のすばらしい統一、文学的イメージの正確さと独自性、登場人物を表現することばの信じがたいほどの深み、また、作者の驚くべき、またとない性格が、頁を通して、はっきりと現れているような、本の全体としての構成の魔術的な力やその大きな作用力を作り出すすばらしい能力ーこうしたものを、その作者に負っている作品がある。こうした傑作を映画化しようと思うのは、映画も散文も同じように軽蔑している人だけだ。(p.24)
アンドレイ・タルコフスキー「映像のポエジア」鴻英良訳 キネマ旬報社 1988.1.31第1刷 1999.12.6
論争 正直に言って、私は自分の思想を、基本的に、論争によって構成できるタイプの人間に属している(真理は議論のなかで獲得されるというあの視点に、私はまったく同意している)。たったひとりで試作するような場合、私はいつもあの思弁的状態におちいってしまいがちなのである。(p.15) アンドレイ・タルコフスキー「映像のポエジア」鴻英良訳 キネマ旬報社 1988.1.31第1刷 1999.12.6
世界感覚 自分のしていることよりも高い評価を期待することはできない。私の最も秘められた夢はつねに、私の映画のなかで、最大限の誠実さと完全さでもって、自分の意見を表明し、だれにも自分の視点を押しつけないということだった。しかし映画のなかに表明されている作家の世界感覚が、観客にとっても、彼ら自身にとっても固有な、だが単にこれまで明確にされえなかったなにかとして、知覚されうるのである。そしてそのことが作品にとって大きな原動力となりうるのである。(p.16) アンドレイ・タルコフスキー「映像のポエジア」鴻英良訳 キネマ旬報社 1988.1.31第1刷 1999.12.6
チャンピオン 惜しくても負けることを続けると、良いプロだけどね、勝てないね、と言われるようになる。結局のところ、チャンピオンとは何なのか?チャンピオンは好機に立ち向かうチャンスをより多くする何かを持っている人間だ。テニスをフルセット戦って負ける。陸上競技で最後の10メートルで逆転される。ボクシングの最終ラウンドでの敗戦、そしてゴルフでいえば、1ストロークか2ストローク差で負けるプレイヤー達の何と多いことだろうか。チャンピオンとはその接戦で勝つ能力を持った男なのだ。(p.204) ジーン・サラゼン「サラゼン・ウエッジ」 小池書院 1997.9.20 1999.12.14
理屈  日本では「理屈」というものを嫌い、理屈をいう者はめめしいという固定観念があるが、これは「武」の社会における非常に特殊の考え方だ。
 日本の男子(をのこ)は日本刀によってのみ死にうるのであって、理屈というのはその死を回避するために振り回す道具にすぎない。ところが朝鮮では、士大夫の武器は専ら文であり、丈夫が死ぬときは文によって、つまり理屈によって死ぬのである。ここでは刀を振りまわすような
輩は理屈によって勝負し死ぬことを回避する卑怯者にすぎない。すなわち刀こそはめめしくひよわな道具である。(173頁)
小倉記蔵『韓国語はじめの一歩』第1刷 筑摩書房2000/2/20 2000.4.21
良い絵  描く以上はよい絵を描きたいと思うのは当然です。それには自分で批評眼をまたなくてはなりません。「上手い絵」は描いた量に比例します。「良い絵」は考えた量に比例します。
(p.17)
高塚省吾「高塚省吾の絵の話」 芸術新聞社1996.7.10第1刷 2000.4.21
目前心後 目を前に見て、心を後ろに置け。 世阿弥『花鏡』 2000.4.21