Quotationの部屋
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index(掲載日)
(2003.6.4掲載、2003.6.27,2003.7.15,2003.7.24、2003.7.25
2003.8.2、2003.11.13、2004.1.9、2004.3.18、2004.4.21追 加)
index(事項別)
通訳
哲学
眠り
歴史の面白さ
情報と知識
書店嫌い
言葉は商品ではない
だしぬけ
犬
秋
 地獄
 
恐怖
目
エリート
小説の書き方
遊ぶ
発見
 飲み食い  巨人の労苦  存在
手紙
悲劇
一生
煙草
詩
チョーク
書きなれ
シャーマニックな力
安い飴
試し
今日と違う自分
偶然
日本的コンセンサス
迅速さ
事なかれ主義
トップへの道程
リー ダーの最も重要な責任
努 力の文化から、結果の文化へ 幸福と不幸
儀礼
生死
精神と「質」
「わかる」と いうこと
人の可能性
精神生活だけが存在
神
スポーツの語源

index(人名別)
米原万里
池田晶子1
池田晶子2
池田晶子3
池田晶子4
池田晶子5
池田晶子6
池田晶子7
池田晶子8
リルケー1
ポー ル・ボネ
カミュ
リルケー2
山口二郎
高橋源一郎
高橋源一 郎2
リチャード・ フォーティ
 阿堅  ヴィーグラドフの評伝より  タルムード
スティーブンスン1
スティーブンスン2 スティーブンスン3 スティーブンスン4
スティーブンスン5 リチャード・ フォーティ2
夏目漱石
ボロット・バイルシェフ
阿堅-2 テイル・ドーテン1
テイル・ドーテン2 テイル・ドーテン3
カルロス・ゴーン 、 フィリップ・リエス1 カルロス・ゴーン 、 フィ リップ・リエス2 カルロス・ゴーン 、 フィリップ・リエス3 カルロス・ゴーン 、 フィリップ・リエス4
カ ルロス・ゴーン 、 フィ リップ・リエス5 カ ルロス・ゴーン 、 フィ リップ・リエス6 宇野千代
シュテンファン・ツヴァイク
池田晶子9
池田晶子10 池田晶子11 池田晶子12
池田晶子13 池田晶子14 オウエン・ バーフィールド

 

通訳

 

  現在,曲がりなりにも私が母語の日本語と第一外国語のロシア語を使いこなし,両者 のあいだを行き来する通訳と言う仕事で口を糊することが出来るのは、ふたつの言 葉で多読乱読してきたおかげだと思っている。新しい言語を身に付けるためにも、維 持するためにも、読書は最も苦痛の少ない、しかも最も有効な手段である。だから 、 「通訳になるにはどのくらいの語学力が必要なのでしょうか」 と尋ねられるたびに、私は自信満々に答えている。小説を楽しめるぐらいの語学力で すね、と。そして、さらに付け加える。外国語だけではなく、日本語でも、と。

 

米原万里(岩波文庫編集部編『読書のすすめ』(第7集p.69)


(2003.6.4掲載)

(2003.7.15掲載)
哲学

 

 思い切って言ってしまえば、「哲学」すなわち「考える」「考え続ける」なんてい うのは、ある種の「体質」なのである。詩人や芸術家がそうであるように生まれつき の性向なのである。なるほど自分が居て世界があり、それについて考える限り、哲 学は万人に開かれている。しかし、哲学が万人に必要なわけではないのは、「知りたい」「考えたい」という欲求を、他の何ものにも勝る強さで欲求する人は少 ないか らだ。大体は「実生活」と秤に載る程度の話で、それが人生論としての哲学という 度し難いものが現れるゆえんでもある。

  人生は、各人勝手に生きるものだし、またそうするよりほかないものなのだが、だ からこそ私は、絶対に変わらないもの、誰が考えても必ずやそうであるもの、を考 えたくて考えていた精神たちが記し残したもの「哲学」、その清潔な普遍性を凡庸な 人生論と一緒くたにさせたくないと思う。

 哲学の普遍性を守りたいと思っているのは、べつに私のためではない。人類のた めである。    

 

池田晶子著「睥睨するヘーゲル」講談社 1997.1.22(定価1500円 )から

  p.62

(2003.6.4掲載)

 

眠り

 

 眠りの愉悦はその孤独と受動性にある。

 

同上「過眠と神」p.82
(2003.6.4掲載)
歴史の面 白さ

 

 英雄や天才の出現する意義と必然、彼らに与えられる偶然的出来事の布置、逡巡と 決断の一刃、このとき偶然は必然の別の名となる。歴史の面白さとは、彼を我と知 り、我が彼を生きられると知ること、これにつきるのではないか。もっともこれは 、「客観的」学問としての歴史学には認め難いこととは思うが。

 

同上「歴史と年齢」p.96
(2003.6.4掲載)
情報と知 識

 

・・・考えて知った事柄のことを「知識」という。したがって、情報と知識とは、人 間の頭脳において対局の位置にあるわけで、情報は外から入手して知るものだが 、知識は自ら考えて知る以外入手する方法はない。絶対にない。激しく言えば、情 報はそも、「知る」ものではない。あれは取って付けて、受けて流すもので、サルに でもできる。

 

 同上「情報と知識」p.79

(2003.6.4掲載)
書店嫌い

 

 私は売るために文章を書いているのではない。読まれるために書いているのであ る。結果として売れればそれに越したことはない。しかし、売るために書くくらい なら、私は何もこんな仕事をしやしない。他に仕事はいくらだってある。

 

 同上「書店嫌い」p.122

(2003.6.4掲載)
 言葉は 商品ではない

 

 言葉は商品ではない

 言葉はこの世の商品ではない

書籍の出版という一連の活動は、この絶対的事実の自覚からこそ始まるはずなのに 、作り手からも売り手からも、そうしてたぶん書き手からさえ、それが失われつつ あると感じられる。それで私の足は、いよいよ書店から遠のく。

 

同上「書店嫌い」p.122

(2003.6.4掲載)
だしぬけ

 

 ぶしつけな人は失礼なことを言うが、だしぬけな人は真っ当なことを言う。両者は 全く同一の文句を口にするかもしれないが、それをぶしつけととるか、だしぬけと とるかは、つまるところ相手の器量による。

 

同上「だしぬけかしら」p.128

(2003.6.4掲載)
犬

 

 犬を自由に飼えること。これが社会の成熟度を示すひとつの指標になると私は思 う。犬は社会性の動物だから、犬の社会における、人の社会における、自分の位置 を常にはかっている。飼犬は飼主を示し、飼主はその人の社会性を示す。そして 、その人の社会性は、他でもない、それを認容する社会の姿を示すはずだからであ る。

 

同上「愛犬の友」p.132

(2003.6.4掲載)
秋

 

木の葉が散る、遠くから散ってくる

天国の庭がみんな枯れていると思えるほどに。

木の葉は散る、イヤイヤをする身ぶりで。

そして夜になると、重い大地も ほかの星たちから離れて、孤独へと落ちていく。

私たちみんな落ちる。

ほら、この手も落ちる。

ほかのものも、見てごらん、みんな落ちていく。

けれど、落ちていくこれらすべてを やさしくやさしく受けとめる存在が、どこかにいる。

 

リルケ「 秋」(山下肇訳)

山下肇「蓼科幾歳月」信濃毎日新聞社2003.1.3〇所載

p.140

(2003.6.4掲載)

地獄

 

 民族の才能は微妙に異なる。「地獄を表現しようとする試みにはいろいろあるが …」と名著『The English』の著者は皮肉たっぷりに書いている。

「英国人にとってみれば、ドイツ人が警察官をし、スウェーデン人が喜劇役者を演 じ、イタリア人が衛兵をつとめ、フランス人が道路を掘り、ベルギー人がポップ歌 手となり、スペイン人が鉄道を運営し」と地獄を構成する人々について、まだ延 々と続くが幸か不幸か“日本人”ははいっていない。

 もしも、私につけ加えろと いわれれば、「…日本人が道路標識を立て」と書くかもしれない。

 

ポール・ボネ 『貧しき経済大国』p.9


(2003.6.4掲載)
恐怖
 旅を価値あるものに しているのは恐怖心である。恐怖は従来の精神構造といったものを破壊する。旅先ではごまかしはいっさい通用しないーオフィスや工場で働くという名目の陰に 身をひそめることはもはやできないのだ(勤務時間に対してわれわれは声高に不服を唱えるが、そうした時間があるからこそ、われわれは孤独の苦しみを知らず にすむのである)。

カミュ

目あり。モリス『中米ひとり旅』心交社1990.3.25

p.35
(2003.6.4掲載)

目

今を生きずに いつを生きるというの

すべての色は 音にかわり 香りにかわる

すべての色は 限りなく美しい音色で応えてくれる

たとえ本を読むことができなくても

木々の間をぬけて吹く風が ページをめくり

私に 優しく物語を きかせてくれる

そして 人の命を 花のようにつみ取る 死さえも

もはや 私の目を つみとることはできない

 

リルケ「盲目の女」より

ジミー<幾米>『地下鉄』小学館2002.11.20

p
(2003.6.4掲載).

エリート

エリートのエリートたるゆえんは、国民感情から離れて、国のあり方について冷静な思考を 行なう地点に身を置くことにある。

山口二郎(「政治危機の2003年」週刊ダイヤモンド、「民権宣言」p.119)
(2003.6.4掲載)
小説の書き方

小説家は、小説の書き方を、ひとりで見つけるしかない。

高橋源一郎「一億三千万人のための小説教室」岩波新書から2002.6.20(p.v )
(2003.6.4掲載)
遊ぶ

人間はなにかをする時、それが重要問題であればあるほど、いつも、同じことが 起こっているかもしれませんね。たいせつだ、やらなくちゃ、すべてをかけて、と やる気を見せれば見せるほど、小説も(もし小説を書きたいのなら)、詩も(詩を 書きたいのなら)、女の子も(もちろん、「男の子」も可)、夢も(たくさんの夢 )、お金や地位も(よくわからないけど)、あなたから逃げ出してしまいます。だ から、あなたは、まず、小説と遊んでやる覚悟を決めなければなりません 。

 

高橋源一郎「一億三千万人のための小説教室」岩波新書 2002.6.20(p.75)
(2003.6.4掲載)
発見
 発見のどきどきするような喜びは、金で買うことも、疑似体験することも、本から学びとることもできない(もっとも本で学んだこ とは必ず役に立つ)。この感情は、人類が意識を持つ動物として進化した当初から発達したもので、たとえば獲物のそばまでうまく忍び寄ることができたときの 高揚感、あるいは見つけにくい木の高みにつくられたミツバチの巣を見つけたときの歓びに似たものにちがいない。遠からず所有欲とか強欲といった世俗的な欲 望によって汚されてしまうにしろ、これはもっとも単純かつ純粋な喜びの一つなのだ。岩のなかから美しい新種の化石を発見しようものなら、うれしくて思わず 叫んでしまうし、凍える指のことも忘れ、長い一日があっという間に過ぎてしまう。この感情は単に好奇心が満足させられたときにおぼえるそれではない。クロ スワードパズルを完成させたときのように理性から生じるものではなく、無意識の奥底から湧いてくるものなのだ。しかも何年たっても色あせることがない。科 学論文は慣習上、私情をまじえない散文で記述されるが、その客観的な文章の背後にはこういう感情が隠されているはずだ。だからこそ科学者や考古学者は、運 が悪ければ同業者にすら認められずに終わるかもしれない探求を続けるのだ。

リチャード・フォーティ「生命 40億年全史」草思社2003.3.31

p.24



(2003.7.1掲載)

飲み食い

「飲みかつ食えば健康で長生き」。このきわめて通俗的な言葉、この偉大な真 理、この愚にもつかぬ無駄話のために、中国人民は何千年も努力してきたのである。なぜ派手な飲み食いは抑制しにくいかといえば、まず、歴史と関係があり、 人びとは往年の飢餓に非常に怯えており、腹いっぱい食べれば引き合い、腹がもたれるほど食べれば儲けた気になり、たくさん食べれば銀行に金を預けて飢餓に 備えたかのように感ずるのである。ついで、理想と関係があり、かつて庶民のもっとも素朴な理想は「社会主義の段階になったら腹いっぱい食べる」、「共産主 義の段階になったら美味いものを食べる」にほかならなかった。いまでも、組織の末端の人びとが派手に飲み食いするときの表情は、「インターナショナル」の 誇りに満ちあふれている。

(阿堅「中国人の食べもの」(「食べ残したら持ち帰ろう」の第一節)(『中国美味礼讃』青土社 2003年所載)p.15

(2003.7.15掲載)
安い飴
 ずっとむかしは果物を売る露店があり、「便宜」(安売 り)の二字が目には入るや近づいていった。「便宜」、「処理」(処分販売)というような文字は、目に飛び込んでくると、真理よりも庶民を惹き付けるのであ る。質素と節約は、政府が提唱しなくても、貧しい者は先天的に会得しているし、半ばも貧しい者は学ぶや名手になる。安いものにいいものはないというのは、 金のある人の話である。貧しい者は金の無駄使いを笑話のたねにするー当然である。金でものを買えない者などいるだろうか。馬鹿者はできない。ものを相場よ り高く買うのは、「金儲けがうまかっ」たり、高貴であったりするかのようの思われるが、実のところ、売主をも含めて、人びとが買った者を血のめぐりが悪い とあざけっていることはまちがいない。適切な価格や相場より安い価格で必需品を買うことは、芸術とか聡明さとかとは関係がないけれども、実利を得る生活の 腕である。生活とは総体的な感覚ではないのか。家に帰ってから、蜂蜜が相場の二倍で売り付けられたことを知ってから食べても、どうして甘いことがあろう か。心が苦しく口は甘いが、蜜の味は割り引きしなければならない。いずれにせよ、安い飴は普通の飴より甘いのである。

(阿堅「安売りの品」(「食べ残したら持ち帰ろう」の第一七節)(『中国美味礼讃』青土社 2003年所載)p.62-3

(2003.11.13掲載)
巨人の労苦

出版された著作物は大小とりまぜて実に二六六 点、それは悉く、永い間毎日十二時間ずつ勉強したという努力家、フィッシャーのいう「巨人の労苦」Cyclopean toil をもって一生を貫いた学徒の苦心の結晶であった。

ヴィーグラドフの評伝より(1962.2.27日記より)
(2003.7.24掲載)
存在

ーもし私が、私のために存在しているの でないとすれば、だれが私のために存在す る のであろうか。

 もし私が、ただ私のためにだけ存在する のであれば、私とはなにものであろうか。

 もしいまを尊ばないなら ばーいつというときがあろうか。

『タルムード』第一編「ミシュナ」より。
E・フロムの『自由からの逃走』の巻頭にある言葉

(1962.2.4日記より)
(2003.7.24掲載)
手紙
 全 く、手紙は親交を全うする目的には役に立たない。本人がいないと言うことは関 係の完全な中絶ではある。しかし二人が充分に知り合い愛の永続を望んでいれば愛 情を変わらず持ち続け、別れた時と同じ親しさで相会うこともできるのである。 ステ ィーブンスン『若い人々のために』p.61(1962.2.4日記より)
(2003.7.24掲載)
悲劇
 一 人の人間が、生きている間中、自分自身の生活を自分に与えることを惜しみ、 す べてを決して見られない祝典のために貯えているのは、喜劇に近い、一種の極めて 愍むべき悲劇となる。 ステ ィーブンスン『若い人々のために』p.81(1962.2.4日記より)
(2003.7.24掲載)
一生

 
人は一生のあらゆる段階においてその前段階が間違っていたことに気づくが、最後 には自分が結局どの段階においても間違っていないと言う驚くべき結論を引き出す 。
ステ ィーブンスン『若い人々のために』p.88(1962.2.4日記より)
(2003.7.24掲載)
煙草
 
 私達は水の漏る船に乗って大きな危険な海を渡るのである。そして悲しい昔の舟 歌の文句を借りれば、私達はすでに人魚の歌を聴いたので、もう二度と乾いた陸地が 見られないことを知っている。老いも若きも、私達は皆、最後の航海である。若し 私達船乗りの間に一服の煙草があったら、何卒それを皆にまわして貰いたい。そして 出掛ける前に一服吸おうではないか。

ステ ィーブンスン『若い人々のために』p.82(1962.2.4日記より)
(2003.7.24掲載)
詩

 しかし、悲しいかな! 心は人に見せられない。それは言葉で証明されなければ ならない。諸君は詩を綴ることを難しいことと考えるだろうか。そうだ。それは詩 をー最高のものではないが、一つの高遠な詩をー書くことなのである。


ステ ィーブンスン『若い人々のために』p.60(1962.2.4日記より)



(2003.7.24掲載)

チョーク

中世においては、いかがわしい人物の正気度をたしかめるための質問の一環として、チョークとチーズを識別する質問がなされた(英語の「チョークとチーズの 判断がつかない」という言い方には「分別がない」という意味がある)。そんな検査で、チョークは小さな動物とそれよりもさらに小さい植物のポプリでできて いて、そこにたまに、ちょうどプディングのなかのプラムのようにウニも混ざっているなどと答えたら、まずまちがいなく、第二の質問に移ることもな
く自由を拘束されたことだろう。われわれの視覚に限界があることはすぐにわかることだ。知識は、目に見えていることの一部でしかない。


リチャード・フォーティ「生命 40億年全史」草思社2003.3.31

p.346



(2003.7.25掲載)




書きなれ


・・・私のは画というよりもむしろ子供のいたずら見たようなものです。その子供の無慾さと天真が出れば甚だうれしいのですが、ただ小ぎたない所だけが子供 で、厭味は大人らしいから困ります。書でも画でもかきなれないと一通りのものは出来ず、また書きなれると黒人(くろうと)くさくなって厭なものです。



夏目漱石(歌人門間春雄宛の手紙(大正二年十一月三十日付))

半藤一利
「漱石先生お久しぶりです」平凡社2003.2.21
前口上より

(2003.7.25掲載)
シャーマニックな力
  シャーマニックな力というのは、民族の遺伝子のなかに組み込まれているものだと思います。
 だから完全に消してしまうことはできないんです。
ボロット・バイルシェフ(ロシア連邦アルタイ共和国のミュージシャン)Link Club Newsletter August  p.15)
(2003.8.2掲載)
試し
試 してみることに失敗はない。
テイル・ドーテン1『仕事は楽しいかね?』きこ書房2001年版p.28
(2003.11.13掲載)
今日と違う自分
明 日は今日と違う自分になる。
テイル・ドーテン2『仕事は楽しいかね?』きこ書房2001年版p.30
(2003.11.13掲載)
偶然
必 要は発明の母かもしれない。だけど、偶然は発明の父なんだ。
テイル・ドーテン3『仕事は楽しいかね?』きこ書房2001年版p.52
(2003.11.13掲載)
日本的コンセンサス


今回の再建計画ーすなわち、リバイバル・プランの策定のように、ある限られた時間のなかで具体的な目標を決定していかなければならない時、”全員が同意し ないかぎり、先には進まない”という日本式コンセンサスは、非常に大きな足かせとなる。そんなことをしていたら、その間にも事態は悪化していくばかりだか らである。

そもそも、意思決定の方式として日本式コンセンサスが優れているというのは、かなりのところ神話にすぎない。というのも、過去に偉大な成功を収めた日本の 企業は、たいていの場合、非常に個性的な経営者、あるいは経営陣が過去の習慣にとらわれず、時には独裁的な権力を行使して、会社の方向を決めてきたからで ある。その意味で言うと、日本式コンセンサスは隠れ蓑にすぎないのだ。

だが、高度成長経済のあと、組織が次第に動脈硬化を起こして、日本の多くの企業が官僚主義的な体質になってくると、”日本式コンセンサス”というのが、自 信がなく、能力にも欠ける経営陣が、何も決定しないですませるための言い訳に使われるようになる。p.244
 









カ ルロス・ゴーン 、 フィ リップ・リエス『カルロス・ゴーン経営を語る』日本経済新聞社2003/9 (2004.1.9掲載)
迅速さ
経営における迅速さというのは、実を言うと、決定の迅速さではありません。行動の迅速さです。p.245
カ ルロス・ゴーン 、 フィ リップ・リエス『カルロス・ゴーン経営を語る』日本経済新聞社2003/9 (2004.1.9掲載)
事なかれ主義
 私はこれが日本の企業に多く見られる状況なのだと思います。また、日本という国の状況なのだと思います。人々はどうやったらよいのかわからないでいる。 そして、ただ対面を失いたくないという気持ちで、現状を認めるのに抵抗する。強く反発する。そうやって、最後は事なかれ主義に陥ってしまうのです。そう なったら、もう状況を判断することもできなければ、具体的な方法も思いつかない。目標を掲げてそれを達成しようという気にもならない。また、世間にコミッ トメント、つまり、責任を持って目標の達成を約束することもできません。これはすべてつながり合っているのです。
p.252

カ ルロス・ゴーン 、 フィ リップ・リエス『カルロス・ゴーン経営を語る』日本経済新聞社2003/9 (2004.1.9掲載)
トップへの道程
…どんな会社でも、トップへたどり着くための道程は、その会社の歴史、伝統、性格に左右されるということだ。こういった文化を支えている裏には、経営陣の 選考が現メンバーによって行なわれている、ということもあるだろう。もちろん、年功序列制もおおいに関係している。そういったことの結果、トップになるた めには、”どれだけ商品に詳しいか””どれだけ会社の業績に貢献したか”ということよりは、”社内での政治的駆け引きに長けているか””人脈が広いかどう か””現在のトップに忠誠心を持っているかどうか”といったことのほうが重要視されることがある。p.297


カ ルロス・ゴーン 、 フィ リップ・リエス『カルロス・ゴーン経営を語る』日本経済新聞社2003/9 (2004.1.9掲載)
リーダーの最も重要な責任 ゴー ンからすれば企業リーダーの最も重要な責任とは、将来の指導者を育て、引き継の準備をすることである。つまり、優秀な指導者を育てたら、その人間にあとを 託し、自分は引退するのだ。p.316

リーダーは"いちばんきつい仕事"によって育ちます。p.319
カ ルロス・ゴーン 、 フィ リップ・リエス『カルロス・ゴーン経営を語る』日本経済新聞社2003/9 (2004.1.9掲載)
努力の文化から、結果の文化へ

"努力”という価値を"結果"という価値に置き換えることにしました。たくさん働いたという事実が、結果を出したという事実より重要になってはいけませ ん。いくら働いても結果を出せない人もいます。私の場合も、たとえ一日十六時間以上働こうが、そんなことは関係ありません。私はオフィスで過ごした時間で はなく、出した結果で給料をもらっているのですから…。
日産は今、"努力の文化”から"結果の文化”へ、ただ会社にいればいいという"存在の文化”から、”そこでどれだけ仕事をしたかという”効率の文化”へ移 行しつつあります。これは”人生のほとんどの時間を会社で過ごさないようにする”ためにも大切です。また、結果を大切にすることは、チームを大切にするこ とにもつながります。"努力”だけなら個人でもできますが、"結果”を出すにはチームが協力する必要があるからです。p.324


カ ルロス・ゴーン 、 フィ リップ・リエス『カルロス・ゴーン経営を語る』日本経済新聞社2003/9 (2004.1.9掲載)
幸福と不幸



「人が聞いたら、吹き出して笑って了うようなことでも、その中に、一かけらの幸福でも含まれているとしたら、その一かけらの幸福を自分の体のぐるりに張り めぐらして、私は生きて行く。幸福のかけらは、幾つでもある。ただ、それを見つけ出すことが上手な人と、下手な人とがある。幸福とは、人が生きて行く力の もとになることだ、と私は思っているけれど、世の中には、幸福になるのが嫌いな人がいる。不幸でないと、落ち着かない人がいる。「まあ、聞いて下さい。私 はこんなに不仕合わせなのよ」と話す人がいる。私はそう言う人の話を聞くのが、苦手である。聞いている間に、その人の不幸が伝染して、私まで、不幸になる ような気がするからである。
 これは、私が、利己主義者で、人の不幸に無関心でいたいからでは決してない。その人の不幸は、実はほんとうの不幸ではない。不幸だ、とその人が思ってい るだけのことだからである。無意味に人の不幸に感染するのは、利口なことではない。紙一重の違いであるように見えて、この二つの間には、実に大きな違いが ある。」

宇 野千代「生きて行く私」(下)毎日新聞社 1983 p.115より

(2004.3.18掲載)
儀礼

「しかし儀礼というものの本来の意味、あるいはむしろ無意味は、生活のあらゆる形式において自然的なものを抑圧したり、あるいは歪曲し たりする点にある。」

シュ テファン・ツヴァイク「マリー・アントワネット」(上)p.99 高橋禎二、秋山英夫訳 岩波書店 1980年
(2004.3.18掲載)
生死

「 人が、死を恐れ、恐れるゆえに避けようとするその心性が、元をただせば、人類が大きく道を誤ったことの第一原因なのだが、死を恐れ なければならない理由など、本当に、ないのである。
 無は存在しないから死は存在しない、という論理的な理由がうまく納得できない人のために、だからといって、無責任に「死後の生」を保証するわけにもいか ない。「死後の生」のことは、私はよくは知らないけれども、しかし、げんに、宇宙は存在するのである。「自分の」存在と無ばかりを考えようとするから、人 は恐怖と不条理を覚えるのだが、「自分が」存在しようがしまいが、げんに宇宙は存在すると、げんに考えられるのだから、このうえなぜなお「自分の」生死を 憂える理由があるだろう。
 無ければ無いで、無いのだし。 
 在ったら在ったで、それなりに。
 私は最近、もっぱらそんなふうに感じる。どうジタバタしたところで、人間の為すこと考えることはやはりたかが知れているのである。そんなふうに腹を括っ て、より大きなものに委ねてしまった方が、よほど賢いのではないか、幸福なのではないか。」

池 田晶子「魂を考える」法蔵館1999 pp.138所収 「脳死と 「人の」死」より
精神と「質」



「欲得でしか動けない人間だけが、人間は欲得でしか動かないと思う。しかし、ひとりの人間が全人類をも包含する大思想を抱くに至るプロ セスと、個体 の快感原則とは、はじめから全く別のものなのだ。より正確に言うならば、「リビドー」は肉体の快感原則に従うが、思想は、言わば、精神の快感原則とでも言 うべきものに従って生み出されるのである。精神は「質」にしか興味がない。というよりも精神というものが既に「質」なのだ。それは「絶対」に魅入られるべ く定められたものだ。だからこそ自分が隠しもっていた普遍性、無限性に気づいた人間にとっては、個的な欲得のあれこれや、自分の肉体の消滅さえ、「量」の 問題として、どうでもよくなてしまうという事態が生じ得るのである。」

池田晶子「事象そのものへ!」法蔵館1991

pp.131

(2004.4.21掲載)
「わかる」という こと


 

「彼(=ヘーゲル、引用者注)が言葉を濁した「主観的思惟の陶冶とは、教育学の問題」とは、しかし実は決定的な通告で、ありていに言え ば、常に誰か が誰かについて言っている「わかるヤツにはわかるし、わからんヤツにはわからん」なのである。「哲学とは本性上、万人のため」と断言した彼が、なぜこのよ うな憎たらしい言い方をせざるを得ないか。これは、「わかる」のわかり方とは、ある種の気付きだ、これは学習や努力ではどうしても叶わない種類の能力だと いう事実についての苦々しい吐露なのである。「わかる」ということを不思議と感じない人に、不思議と感じろとは命じられないのだ。これは、嫌いなものを 「好きになれ」と命じることができないのと同じ、誤解を恐れずに言うと、体質や生理や品性の問題なのである。こればかりは、まさに、いかんともし難い。私 たちは、わからない人に対して「わかれ」と命じることはできない、「わかる」に関する限り、他人にも本人にも手の下しようがない!」

池 田晶子「考える人」中央公論社1994/9/7 p.29

(2004.4.21掲載)
人の可能性


「人は様々な可能性を抱いてこの世に生まれて来る。彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう。しかし彼以 外のものにはなれなかった。これは驚くべき事実なのだ。」

池田晶子「事象そのものへ!」法蔵館1991

p.135
(2004.4.21掲載)

精神生活だけが存在


「私たちは、心的でない現実というものを全く考えることができない。……目に見えないものこそが目に見えるものたちを動かしているとい うこの事実 は、当たり前すぎて盲点となる。めくらまされてはならない。目に見え、手に触れられるものものの方が、まぼろしなのだ。「精神生活」に対するところに「物 質生活」などありはしない。そんなものは、ダイヤモンドに目が眩んだ者の寝言である。ダイヤモンドに目が眩むことができるためには、こころが先にそれを欲 していなければならないからだ。こころこそが全てであり、私たちには精神生活だけが存在するのだ。」

池田晶子「事象そのものへ!」法蔵館1991

pp.138
(2004.4.21掲載)

神

「神とは実は私ではないのかと予感されながらも、バタイユの無神論があれほど悩ましげであるのは、信仰の対象としてあるべきはずの神へ の思慕が未だ 断ち切れていないためだった。しかし、ヘーゲルという老獪な巨人にとっては、もはや神も私も、自己認識する精神という同一の運動における、たまたまの表象 の違いとしてあるにすぎない。自身を認識しつつ隈なく宇宙を満たしてゆく精神活動の力強い波浪のなかに、抽象的に措定された神や私などは呑み込まれ果て、 同じ「自分」の海となる。それが全てだと気づけば、精神はもう悩まない。自己は自身に、「純粋確信」するのだ。」


池 田晶子「事象そのものへ!」法蔵館1991版 p.177
(2004.4.21掲載)
スポーツの語源
sport はフランス語のdisportの短縮形で、その意味は「自分自身を通常の仕事の方向とは違った方向へ運ぶ」
オウエン・バー フィールド「英語の中の歴史」p.67
(2004.7.13掲載)

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