| タイトル |
本文 |
出典名 |
号・日付等 |
記入日 |
| 島原(町並み) |
町並が生きているかぎり、町は生きている。町並が死んだとき、町は死んでいる。(中略)現在では家並みといえるものは、高山の一之町、二之町、三之町の三筋と、倉敷の一角と、松江の濠端と、島原の鉄砲町と、奈良県の今井町と、私はまだ行ったことがないが、木曽の妻籠にわずかに残っているだけにすぎない。 |
鈴木成高『中世の町』東海大学出版会 |
1982/12/1 第1刷 1987/1/16第4刷p.18) |
98.9.28 |
| 存することが不断の驚き |
われ存すということが不断の驚きであるのが人生である。 |
『タゴ−ル詩集』山室静訳 弥生書房 |
1966.10.5第1刷1989.3.10第18刷p.77 |
98.9.30 |
| 花は花弁を失って |
花はその花弁のすべてを失って
果実を見いだす |
『タゴ−ル詩集』山室静訳 弥生書房 |
1966.10.5第1刷1989.3.10第18刷p.83 |
98.9.30 |
| 自分自身を笑う |
わたしは自分自身を笑う
すると自我という重荷がそのことで軽くなる |
『タゴ−ル詩集』山室静訳 弥生書房 |
1966.10.5第1刷1989.3.10第18刷p.82 |
98.9.30 |
| 透視能力 |
過去の多くの作家同様、私は偶然の一致を信じるし、また時には、作家に透視能力の天分があるとも信じている。もっとも「天分」という語は、一種の優越性を示唆するから、正しくはないであろう。そうではなく、ようするにこれが仕事の一部だということなのだ。つまりものを書く際には想像力を発揮せねばならず、物事の道筋を見失い、怠惰に流れることのないよう細部にまで精神を集中する(まるで何かにとりつかれたように)必要がある。この緊張そのものが、この脳の体操が、ついには『ラルース辞典』の「透視能力」の項目に記されているように、「過去あるいは未来の出来事に関する」瞬間的な直感を生み出すのであろう。 |
パトリック・モディアノ『1941年、パリの尋ね人』白井茂雄訳 作品社 |
1998.7.30第1刷p.65 |
98.10.11 |
| 脱走 |
思うに脱走とは助けを求める訴えであり、ときには一種の自殺と言える。だがその時、永遠の感情を一瞬味わえるのだ。この世との絆を断ち切っただけでなく、時間との絆も断ち切ったのだ。 |
パトリック・モディアノ『1941年、パリの尋ね人』白井茂雄訳 作品社 |
1998.7.30第1刷p.96 |
98.10.11 |
| 時間 |
われわれは短い時間を持っているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。人生は十分に長く、その全体が有効に費やされるならば、最も偉大なことをも完成できるほどに豊富に与えられている。 |
セネカ『人生の短さについて』茂手木元蔵訳 岩波書店 |
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98.10.13 |
| あなたは誰だ |
あなたは誰だ、私の詩をこれから百年後に読んでいる読者よ
私はこの春の富の中のただ一つの花、彼方の雲の黄金のただ一筋をも君に送ることができない
君の扉口をひらいて外を見たまえ
花咲いている君の庭から、百年前に消えた花の香ばしい思い出を集めたまえ
君の心の喜びの中で、ひょっとすると君は、百年という歳月をこえて、その喜ばしげな声を送りだした、ある春の朝の詩人の生き生きした喜びを感じるかもしれない |
『タゴ−ル詩集』山室静訳 弥生書房 |
1966.10.5第1刷1989.3.10第18刷p.82 |
98.10.29 |
| 歴史関心 |
加藤周一:現在の日本の歴史関心の低さははなはだしいね。ヨーロッパ諸国はもちろん、いまやアメリカ人を凌ぐんじゃないかな。西欧の立場からいえば、アメリカなんて歴史のうちに入らない。それでもアメリカ人のほうがましだ。明治の初期の日本人は世界でもっとも歴史的感覚が鋭かったと思うんですよ。外国の文明に接すると、それをすぐに歴史コンテクストのなかに置いてみようとする傾向があって。
丸山真男:それがいまや、逆になっちゃった。第一の原因が漢学の衰退にあるとすると、第二の原因は学校制度と受験にあると思います。ぼくらの学生のころから、歴史は暗記ものと呼ばれて嫌われていた。歴史感覚と何ら関係のないことを一生懸命暗記するうちに、みんな歴史はきらいになっちゃう。試験制度と結びついたああいう歴史教育の影響は大きいと思う。戦後ものすごく加速されたけど、けっして戦後に始まったものではなくて、ぼくらのころでも、「神武、完成、安寧、、孝昭、孝安、孝霊、孝元・・・」と、歴代天皇からして全部暗記なんだもの。 |
「翻訳と日本の近代」岩波書店 |
1998.10.20第1刷 |
98.12.8 |
| 人糞を犬や豚が食う(1) |
エスキモーの部落では犬が片っ端から食ってしまう。外でするときは、犬に尻を噛まれないように注意が肝心。「エスキモーになった日本人」
ネパールでは豚が食ってしまう。豚に押し倒されないように用心が肝心。「ネパールの蒼い空」流儀といえば、植村(直己)さんは前夜、エスキモーの家における排便作法をレクチャーしてくれた。
方法その一ーエスキモーの家では、部屋の片隅に便器代わりのブリキのバケツが置いてある。ここでは人目もはばからず堂々としゃがんでするのが当たり前で、誰も気にする人はいない。ただ、用をたしたら自分で外へ持っていって捨ててくること。犬たちがすぐ駆け寄って、我さきに平らげてしまうであろう。
方法その二ー地吹雪(ブリザード)でもなければ、はじめから外で済ますほうが手っとりばやい。ただし、大事なところがシモヤケや凍傷にでもなっては大変だから、あまりねばらないほうがよい。また、気をつけなければならないのは犬。飢えた犬に尻を舐められたり噛みつかれたりしないよう、必ず背後に壁をしょってしゃがみ、片手にたずさえた棒っきれで前方の的を牽制しながらの用足しとなる・・・
まるで川中島の信玄といった趣である。
それでも植村さんは、死角をついて後ろにまわりこんだ犬に、ふいに尻をなめられて飛び上がったこともあるという。それにしても、人間にふようになったものが犬たちにはまだ充分役に立って、その犬たちがまた人間に役に立ってくれるというのは、じつにありがたい話である。むろん犬たちの主食は、セイウチ、アザラシの肉ではあるのだが。大島育男「エスキモーになった日本人」p15〜16 |
大島育男「エスキモーになった日本人」 |
文芸春秋社1988.8..15第1刷1990.7.15第2刷 |
98.12.8 |
| 歴史関心(2) |
丸山真男:日本は先進国を隣に仰いで学んできたまさにその態度から、歴史的および地理的関心がとくに強かった。中国ではエターナルなものへの関心のほうが強いと思うのですよ。すべてを時間の相においてとらえるのはむしろ日本の方であって、永遠とか恒常の相においてという考え方はあまりないんですね。(中略)日本だと、歴史中心になる。だから実証主義が非常に発達するが、あまり形而上学とか、つまりファンダメンタルというか、歴史を超えて真なるものというか、そういう関心はないと思うんだな。ないといっちゃ言いすぎですけど、相対的に低い。 |
「翻訳と日本の近代」岩波書店 |
1998.10.20第1刷p.70 |
98.12.8 |
| 読書について |
私は書物とは読むものではない、と思っている。本とは読むものではなくて、いつか読もうと思っているものだ。そのいつかは、それこそ、いつなんどき訪れるかわからない。そのとき手もとに本がなければ、彼は永久に本を読むきっかけを失ってしまうだろう。自分の書棚に並んでいる本は、そのときのためのものである。すなわち、未来の書物なのだ。だからそこに並ぶ本は多いほどいいのである。(中略)
私は読書とは何よりもまず本をさがすこと、さがして買ってくること、買ってきて本棚に飾ることだと確信している。実際に本を読むのは、いつかでいいのだ。書斎とは、この意味で「未来の図書館」というべきであろう。p.72 |
森本哲郎「書物巡礼記」文化出版局 |
1985/11/4第1刷1986/3/14第3刷 |
99.1.11 |
| 文体 |
個人に、事実に、人々の運命に惚れこむことのできる人間は、自らの言葉、自らの文体を有する! |
ユーリー・エラーギン『暗き天才、メイエルホリト』青山太郎訳みすず書房1992/5/20第1刷の序文(ミハイル・チェーホフ) |
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99.2.27 |
| 手本 |
ある賢者は言ったー精神の発展には三つの条件、三つの原理が不可欠である。すなわち、大いなる目的、大いなる障害、そして大いなる手本の三つである、と。 |
ユーリー・エラーギン『暗き天才、メイエルホリト』青山太郎訳みすず書房1992/5/20第1刷の序文(ミハイル・チェーホフ) |
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99.2.27 |
| ワク |
結局、ワクを越えていかないと、なにごとも新しいものは生まれてこない。日本に住んでいて寂しいのは、ワクの中の人ばかり声が高いことである。 |
三浦雄一郎「冒険から世界は広がる」NTT出版P.80 |
1994.11.28 |
99.3.2 |
| 怒り |
怒りとは剣の刃のようなものだ。長いあいだ握っていたら自分が傷つく。 |
リチャード・ジョンソン「中間航路」p.136 |
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99.3.2 |
| パルミラ、ワジェンキ公園 |
1948年の初夏の頃、ワルシャワに滞在していた私は、どことなくヴェルサイユの両トリアノン宮を思わせる「夏の浴場」という十八世紀の美しい宮殿が、市街の大部分は壊滅してしまった中でほとんど無償で残っているのいるのを見て心が和んだものだ。池のほとりに小さな野外劇場があって、石造りの座席が列をつくり著名な劇作家の胸像が並んでいる。変わっていると思ったのは、ステージが設けられているのが小さな島で、観客からは数ヤードの水で隔たっていることだった。そこには造りつけの舞台装置があったが戦火による損傷の跡がいくらか残っている。木の足場を通して古典的な舞台面が見えたので案内してくれた人に尋ねてみると「パルミラの廃墟をあらわしている」との答えだった。
九章「隊商帝国、パルミラ」p.258 |
ジュリアン・ハクスリー「時の回廊」 |
1992.6.20第1刷 |
99.5.6 |
| アサシン(暗殺者)の語源01 |
「アサシン」の語は、この暗殺教団(注:)が麻薬ハシーシュを常用したことに由来するという説についてはその確証はなく、「アサス」(原理)に忠実な人の意味でのアサシューンからきたともいわれる。(時の回廊の訳注第11章の注352から353)
注:イスマイル派暗殺団、同書p.341 |
ジュリアン・ハクスリー「時の回廊」 |
1992.6.20第1刷 |
99.5.10 |
| アサシン(暗殺者)の語源02 |
沢木耕太郎「深夜特急」2ペルシャ編には、ハシシを語源とする説を取り入れている。
コーンウォールと同様、平行して読んでいる書物に、関連する記述があるのが、おもしろい例。 |
沢木耕太郎「深夜特急」 |
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99.5.10 |
| 肥前島原、堀部弥兵衛 |
堀部弥兵衛金丸、この年七十六歳、この企ての最年長である。内蔵助は亡き大叔父大石頼母によく似た性情の弥兵衛を、殊の外信頼し、参謀として江戸組の総指図役を委嘱している。
弥兵衛は、赤穂浅野家の譜代の家臣ではない。五十年ほど前は、肥前島原六万五千九百石、松平主殿頭(とのものかみ)の家臣で、上司と争って浪人した。このあたり、硬骨ぶりがうかがえる。p.154 |
池宮彰一郎「四十七人の刺客」 |
1992.9.15第1刷1994.9.4第16刷 |
99.5.15 |
| 文化と言葉 |
文化の豊かさを決定するのは、言葉の豊かさである。現在の日本文化の幼稚さは、明らかに今の日本語の幼稚さに決定されている。昔の日本語(文語体として残存する)は、今の日本語に比べ明らかに語彙が豊富で、文法的に複雑なだけにずっと表現力に富んでいる。P.51 |
デニス・キーン「忘れられた国ニッポン」講談社 |
1995.1.10 |
99.5.18 |
| 人は運、 |
人は運、人の一生は運の流れに泳ぐしかない。人はその流れの中で、いかに美しく泳ぎ、いかに美しく消え去るか、である。p.327 |
池宮彰一郎「四十七人の刺客」 |
新潮社1992.9.15第1刷、1994.9.15第16刷 |
99.5.24 |
| 支配欲 |
夫婦仲は、二男二女をもうけ、はた目にはよかった。だが内実は気位高い家付き妻が、奉公人上がりの亭主に細事瑣事まで干渉して倦む事を知らなかった。それは、嫉妬ではない、嫉妬するほどの愛情はない。支配欲というべきであろう。女というものの業の深さ、女自身もほとんど気付かぬさがである。男なら百人千人、あるいは万人にひとりが持つ独占な支配欲、おのが周辺の者、殊に連れ合いや家族の者の言動に掣肘を加えずには止まぬ欲望が、女には例外なくある。それは男と違って自覚がないだけに、余計に罪深い本能といえよう。p.283 |
池宮彰一郎「四十七人の刺客」 |
新潮社1992.9.15第1刷、1994.9.15第16刷 |
99.5.24 |
| 予断 |
自分のいだいている予断を検討することができないばかりに、愚かにも、自分はいかなる予断とも無縁だと思いこんでしまうような輩こそ、無知の見本と言うにふさわしい。このことは、他の分野におけると同様、歴史家たちにも当てはまる。ハーバード・バターフィールド「キリスト教と歴史」p.5 |
A・スノー「人格の成熟」岩波書店 |
1992/1/06 |
99.5.28 |
| 日本は独裁者の国 |
私は日本は独裁者の国であると思う。(中略)いくつかの集団が国内に存在して、互いに暗闘を繰り返し、その内の一つが勝利を占めて独裁を勝ち取った国、いわば競争的独裁の国なのだが、どの集団のトップも独裁者でなく集団内競争の勝利者に過ぎない。p.173
(中略)先ず日本の基本的社会原理は「和」である。それ故競争的独裁制もまた和と両立する(あるいは和の上に建てられる)のでなければならない。その上に社会は競争的独裁制であるのだから、いくつかの集団ないし派閥があり、そのうちの一つが他に対して独裁的に振舞わなければならない。しかも和が保たれねばならないのであるから、独裁的集団の中で、リーダーが選ばれる仕組みは和の原則に則っていなければならない。p.175 |
森嶋通夫「なぜ日本は没落するか」岩波書店1999.3.5 |
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99.6.21 |
| 化学的通信と視聴覚 |
夜の森というものはおおむねいつでも、まるで洞窟の中の暗黒圏のように真っ黒で物音ひとつせず、感覚のほとんどを奪ってしまう。そこにはごまんという数の生きものたちがいるはずだ。ジャングルにはあふれんばかりの生命がひしめいているのだが、その存在は人間の感覚ではほとんど捕らえようがない。動物の99パーセントは地表に残された臭跡、空中や水中に放出された一抹の臭いや、あるいは目に見えない小さな分泌腺から放出され風に乗ってくる化学物質で、自分のいる位置や進む方向を知ることができる。動物たちはこの化学的通信の達人であり、私たち人間はこの点ではまったく無能だ。だがこと視聴覚による通信となると人間は天才であり、この点では二、三の例外的グループ(クジラ、猿。鳥類など)を除いて、他に肩を並べるものはない。だから人間はひたすら夜の明けるのを待ち、動物は暗くなるのを待つのだ。そして視聴覚が知能の進化の必要条件であるがゆえに、私たち人間のみがアマゾンの夜だの感覚の種類だのについて思いを巡らせるこちになったわけである。 |
ウイルソン「生命の多様性」岩波書店p.4 |
1995.11.27 |
99.7.17 |
| 第二の人生 |
ドラッカー著「明日を支配するもの」ダイヤモンド社1999年。最終章の「自らをマネジメントする」が圧巻。企業の平均寿命は三十年。これに対してボランティア活動を含めて労働寿命は五十年におよぶ。人間の方が組織より長命になった。サラリーマン二毛作時代である。第二の人生をどうするか?第二の人生をもつには、一つだけ条件がある。本格的に踏み切るはるか前から、助走していなければならないーなるほどと感心。(朝日新聞99/8/5夏の読書特集欄「江坂章の私の選んだ上半期ベスト5」から。) |
朝日新聞99/8/5夏の読書特集欄「江坂章の私の選んだ上半期ベスト5」 |
1999/8/5 |
99.8.5 |
| 出世レース |
堀田力著「壁を破って進め」講談社1999年。組織の中で栄達するより、自分の職業倫理に忠実にいきたプロフェッショナルの心意気が、われわれをひきつけてやまない。出世レースは勝ち負けだろうが、人生は必ずしも勝ち負けではない。より深く生きたかどうかである。(朝日新聞99/8/5夏の読書特集欄「江坂章の私の選んだ上半期ベスト5」) |
朝日新聞99/8/5夏の読書特集欄「江坂章の私の選んだ上半期ベスト5」 |
1999/8/5 |
99.8.5 |
| 油然 |
油然:止めることが出来ない勢いで盛んにわきおこり・浸透して(広がって)行く様子。
友との出会いと別れがあり、忍ぶ恋があり、自然との交流がある(純文学にはこの光景は乏しい)ーああ、日本人の生とは本当はこうだったのか、という、失われた日本懐かしさの情が油然と生じてくる。(朝日新聞99/8/5夏の読書特集欄「秋山駿のこれだけは読みたい五冊」藤沢周平「蝉しぐれ」の解説) |
朝日新聞99/8/5夏の読書特集欄「秋山駿のこれだけは読みたい五冊」藤沢周平「蝉しぐれ」の解説」 |
1999/8/5 |
99.8.5 |
| 多芸・万能 |
フッドが宮内庁楽部におけるバイミューズィカリティの訓練を、日本の音楽教育の先進的な例をして特筆しているのは、われわれにとっていささか面映ゆいところである。なぜなら、楽部の楽師の訓練は例外中の例外であって、今日の日本では概して伝統音楽を捨てて洋楽を選択しているのであり、これをフッドの用語を使えば、オールタナティヴ・ミューズィカリティ(択一的音楽性)なのである。音楽に限らず、何事においても専門性を高く評価し、多芸・万能をむしろ低く評価しがちな日本人には、音楽性に関しても勿論、オールタナティヴの方が生に合っている。日本の伝統音楽におけるおびただしい数の種目と流儀、およびそれら相互間の没交渉が、まさにその傾向を浮き彫りにしている。(p.12) |
柘植元一「世界音楽への招待」音楽の友社 |
1991.1.10第1刷 |
99.8.7 |
| 遊ぶということの集積が文化 |
それからもうひとつ、演技とは言葉をかえていえば遊びである。英語ではmake-believeであり、to
pretendだ。これが幻想のパン種であり、また文学や演劇や絵画の基礎である。人は幼年期に、遊ぶこと、make-believeすることで現実を学び、また現実の枠を押し広げる。しかし悲しいことに、人は成人すると、遊ぶこと、「ごっこ」をすることをやめてしまう。しかし、実は遊ぶということの集積が文化なのだ。 |
鶴田欣也「越境者が読んだ近代日本文学」p.80 |
1999.5.20第1刷 |
99.8.12 |
| 常にイメチェンが大切 |
深浦(六段) 南さん、塚田さん、高橋さん、中村さん。五十五年組は色はあるけど少し単調なきらいがあると思います。以前のままの姿勢で勝てるかどうか。羽生さんにしても佐藤さんにしても常にイメージチェンジをしています。 |
朝日新聞「将棋第十八回全日本プロ将棋トーナメント」座談会 |
1999.8.13朝刊23ページ |
99.8.13 |
| 喜劇 |
純粋な喜劇は、悲劇やふつうの演劇や小説とは違う世界に成立しているのだ。成立基盤となる世界の構造が違うのだ。つまり、人間の性質と行為は暴かれるが、それらの行為の結果は保留されるという、そういう世界があってはじめて純粋な喜劇は成立するのである。喜劇の登場人物は現実の人間みたいにリアルだが、いわば真空世界の住人なのである。彼らはわれわれを教育したり、われわれの品性を高めたりするためにそこにいるのではなく、ただ単にわれわれを楽しませるためにそこにいるのだ。だから、現実の世界なら彼らの行為は重大な結果を招くだろうが、喜劇の世界では重大な結果は起きてはならない。もし起きたら喜劇は成立しない。たとえば嫉妬深い夫はみんな悲劇的人物になってしまうし、尊大な父親はみんなゴールズワージーの小説の登場人物に、放蕩者はみんな世の中の害虫に、そして退屈な老いぼれじじいはみんなただの退屈な老いぼれじじいになってしまうだろう。だが喜劇の魔術によって、現実の人生では厄介なものも、憂鬱なものも、不道徳なものも、退屈なものも、すべて楽しい笑いときらめく喜びに変わるのである。(p.46〜47) |
リットン・ストレイチー「てのひらの肖像画」みすず書房1999年 |
1999.6.4 |
99.9.1 |