(2000年7月14日掲載)
読書の部屋・読後録
ベルンハルト・シュリンク著『朗読者』松永美穂訳 新潮社 2000年4月25日第1刷、2000年6月30日第8刷

 

 読み出したら止められず、読み終わったらその直後に、すぐ、読み返し始めた。初めての経験である。一行一行が、初めて読むときよりも、二倍、三倍もの、大きな感動を伴って、胸にしみ込んで来る。
 この物語は、主人公ミヒャエル・ベルグが15歳の少年の日、ちょっとしたきっかけで、21歳も年上のハンナ・シュミッツという女性と知り合い、愛し合うところから始まる。一人称態で書かれており、「いまになってみると」(p.20)という、「いま」が、判然としないまま、物語は進行するのだが、「いまでは三十六歳の女性を見ても若いと思うようになった。でも、十五歳の少年は、いまのぼくには子どもとしか思えない。」(p.41)というあたりで、かなり歳をとってからの回想であることが分かってくる。
 全編を読み終わり、読み返すと、「あのころのことを思い出すと、どうしてこんなに悲しくなるのだろう?」(p.37)と書く、主人公の気持ちに、一層痛切に共感し、先に書いたように、感動は二倍にも三倍にも膨らむ。
 何気なく交わす会話や、彼女のしぐさ、彼女のそのとき取った態度などを、その背景にあったものを知ったうえで読むと、作者の周到さに脱帽させられるし、作者が、むしろ、再読を前提として書いているようにさえ思えてくる。今はもうそこにない建物や自然のたたずまいの緻密な描写が、悲しいまでの懐かしさを呼び起こす。
 21歳も歳の違うハンナと愛し合うことで、主人公は、むしろ、学業にも励み、女性を含め、交友にも余裕を持てる少年として成長する。あるとき、彼女は彼に、さまざまな本を朗読してくれるように頼む。こうして「オデュッセイア」や、ゲーテやシラーの作品を朗読して後、愛し合う関係が続く。
 しかし、彼は彼女との関係を、家族にも友人にも誰にも明かさない。話すべき人に、話すべき時になっても話さないことで、いわば、彼女の存在を黙殺し続ける。これは、裏切り行為にあたいするものだった。
 彼女のほうからこれまでになかったほど、深く積極的な性愛を求めてきた日の翌日、プールサイドで、学友達と戯れている主人公のところへ、彼女は、初めて姿を見せる。20メートルか30メートル先に立っている彼女を認めても、彼は、すぐ、駆けていくことをしない。彼はやおら立ち上がるが、ほんの少し視線をそらしたあいだに、彼女は姿を消し、それっきり二度と彼の前に現れない。これが、第一部のあらすじである。
 第二部。ミヒャエルが進学した大学の法学部のゼミで、ナチの強制収容所の裁判を取り上げ、実際の法廷を傍聴することになる。その法廷で、彼は、親衛隊の女看守の一人として、被告席に座らされているハンナと再会する。女囚人らを爆撃で火災を起こした教会の中に放置し、皆殺しにした事件の責任を、他の女看守らとともに問われているのだ。彼は、公判の度に傍聴に出かける。裁判が進行するにつれ、事実関係の誤認は正すものの、罪は罪として受け入れようとするような、良心的な立場を貫こうとするハンナが、むしろ、裁判長や他の被告人の反感を買い、自分自身を不利な立場に追い込んでいく。
 しかも、彼女には、プライドにかけて明かしたくない、秘密があった。ミヒャエルも、やっと、そのことに気づく。それは、ハンナが書くことも読むこともできない、文盲であることだ。それゆえ、彼に朗読を頼んだのだ。それゆえ、裁判所でも、何かにつけふてぶてしい態度を取ったのだ。書跡鑑定をするというようなときに拒絶するような。
 この秘密を、ミヒャエルが裁判長に知らせれば、事件当夜の報告書を自ら書いたと自白したハンナの宣言は偽りであることが明らかになり、ハンナの罪は軽くなるだろう。しかし、彼は裁判長に会いにはいったものの、そのことを話さなかった。ハンナは結局、主犯格と見なされ、他の被告人より重い無期懲役の判決を受ける。
 第三部。ミヒャエルは、ゲルトルートという同じ法学を専攻する女性と結婚し一子をもうけるが、どうしてもしっくりと行かず、離婚する。ハンナという女性の存在がどうしても頭から離れないのだ。
 ミヒャエルは「オデュッセイア」の再読を始める。それを朗読し、カセットに吹き込み、服務中のハンナに送る。服務後8年目のことだ。それから、恩赦の認められる18年目まで、次々と送り続ける。
 接触して四年目にハンナから手紙が来る。
「坊や、この前のお話は特によかった。ありがとう。ハンナ」。いつまでたっても、彼は彼女にとって「坊や」なのだ。しかも、彼女は、書くことを学び始めたのだ。彼女からの手紙は次々と届いた。しかし、彼は、ただ、吹き込んだカセットを送り続けるだけで、手紙も書かず、面会にも行かない。そして、無期懲役が思いがけず18年目で恩赦されることになる。
 刑務所に会いに行くと、彼女はもう、灰色の髪で、額にも頬にも口元にも深い縦皺が刻まれ、重たげな体つきをした老人に変貌している。以前好きだった彼女の体臭もいまは、老人の匂いに変わっている。
 彼は、彼女を受け入れる住居や仕事場の整え、迎えにいく前日、刑務所に電話する。ハンナも出て、二言三言言葉を交わす。しかし、翌朝、ハンナは首を吊って自殺する。残された遺品などから、彼女が、彼の朗読して送ったカセットの一語一語を、図書館から借りた本と照合しながら、繰り返し聞き、必死になって文字を学んでいったことを知る。こうして、文字を学んだ彼女は、強制収容所に関する本の多くも読破していたのだ。一方で、ミヒャエルからの手紙をいつもむなしく待ち望んでもいたのだ。
 それから、また十年たった。「ぼくは、彼女を裏切ったのだろうか」。ハンナが死んだ直後から、主人公はハンナと自分の物語を書こうと思っていた。その自責の念から自由になるために書こうとしたが、果たせなかった。
「ぼくは自分たちの物語をそっとしておくことで、何年か前に物語と仲直りをした。すると、物語がよみがえってきた。次々と細かいできごとまで、いわば完全な形で、ぼくをもう悲しませないように、きちんと完結し、整えられて。なんて悲しい物語なんだろう、とぼくは長いあいだ考えていた。いまではそれを幸福な物語とみなしているというわけではない。しかし、いまのぼくは、これが真実の物語なんだと思い、悲しいか幸福かなんてことはまったく意味がないと考えている。」
 ナチの戦争犯罪という重たい主題を扱いながら、ハンナやミヒャエルという魅力的な人物を造形することで、性急に断罪せず、じっくりと考えさせることに成功している。
 ある人との出会い、その人との人間関係が、人の一生を支配するメーントーンとなる。人はそれに殉じざるを得ない。
 訳文も優れていて、感受性の豊かな主人公たちの気持ちを、上手く伝えている。
 再読すると、ますます、涙もろくさせてしまう本だ。


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