(2001.2.14掲載)
仁平勝「俳句をつくろう」講談社現代新書 2000年11月20日
これは、読み甲斐のある俳句入門書である。 いかなる俳句結社にも属さない筆者が、俳句というものの本質を自由に、しかもと ことん考え、読む人に、俳句の面白さを理解させ、俳句を詠むようにし向けようと、 わかりやすい例示や的確な引用句をふんだんに使いながら、説得力のある論考を展開 している。わたしも、インターネット上の句会に参加して俳句を詠んでいるが、自分の俳句のいたらなさがどこからくるのかなどもよく分かり、これから作句する上での 多くのヒントを得ることが出来た。
プロローグで著者は、俳句は定型詩であり古典詩である。定型詩であるから、内容 より五七五という形式のほうが大事である。俳句に入門する第一の心構えは、まず五 七五に全幅の信頼を置くことである。俳句は、古典詩であり、近代以前の価値観を引 き継いでいるので、俳句への招待は、じつは同時に、反(アンチ)個性のすすめでも ある、と言う。
「そもそも本当に個性的といえるのは、いつの時代もほんの一部の人たちであり、残
りのわたしたち圧倒的多数は、みな似たり寄ったりの個性(とあえて呼ばなくていい
もの)をもって生きています。だとすれば、圧倒的多数のほうにこそ価値があるとい
う考え方も成り立つはずです。
そして俳句は、その圧倒的多数を支持する文芸です。さらにいえば俳句は、個性と
いうものがしばしば幻想であることを気づかせてくれます。そして反個性という場所
から、これまで気づかなかったような自己表現の世界が生まれてくるのです。もしか
するとその場所は、現代において貴重な精神のオアシスかもしれません。」(p.
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第一部「俳句の『型』を考える」では、定型の意義、季語の力、俳句的な場面につい て考察されている。
「発句はすべてをいいつくしてはいけないということで、なぜなら、それでは脇句が つけられないかららです。それに対して川柳は、前句の題に答えを出すのですから、 逆にいいつくさなければなりません。
「俳句的な表現の本質とは、すべてをいいつくさないにもかかわらず、切れによって その句を自立させることです。・・・俳句と川柳は、どちらも五七五に見えますが、 じつは俳句のほうには、目に見えない七七がぶらさがっているのです。」(p.39)
なるほど。 わたしの属しているインターネット歌句会には川柳部門もあるので、川柳も投稿し ているが、私の場合、川柳のほうの投票点がいつも高い。わたしは言い切るほうが得 手で、俳句の後ろにぶらさがっている七七が見えていなかったのであろうか。
「季語のなかには和歌のエキスが詰まっている」(p.42)。
「俳諧という新しいジャンルの担い手になったのは、貴族の世界から身を引いた隠者 であり、また武士やさらに町人ブルジョワジーなどの新興階級でした。ですから、そ こに生まれてくる新しい解釈(いわゆる俳諧味)は、貴族的な美意識にたいする批評 精神であり、また新しい時代意識の表現でもあったわけです。
そして季語は、その批評精神や時代意識を通して、詩語としての本質を手に入れる のです。その本質とは、中世的な美学への憧れであると同時に、反面それにたいする 違和感であるような、アイロニー(反語)の表現だといっておきます。」(p.53)
俳句は映画のディテールのようなもので、そこにはストリーはないということを、 小津安二郎の「東京物語」を引用してわかりやすく解説している(p.68〜)。 「俳句にかぎらず、およそ文学的(芸術的)な表現は、現実のできごとが題材であっ ても、作品として虚構の世界を手に入れます。誤解はないと思いますが、虚構という のは、現実の反対語ではあっても、真実の反対ではありません。」(p.82)
第二部「なにを詠むか、どう詠むか」では、写生と取り合わせ、省略とデフォルメな ど実際に作句するときの技法が論じられており、役に立つ。 第三部「俳句の醍醐味」では、まず、吟行と句会の楽しみが語られる。わたし自身、 俳句を始めたきっかけになったのは、小林恭二の「俳句の愉しみ」(岩波新書)とい う、句会の愉しみを紹介した本を読んだことだったのだが、ここで紹介されている黒 田杏子が主宰する結社「藍生」の台風の最中の吟行と句会も実に愉しい。作品のレベ ルも高い。
エピローグには、「通俗とは何か」についての考察がある。
俳句をサッカーにたとえて、「俳句はいつもオフサイド・ライン近くにいるフォワー
ドのようなものです。すれすれのところでオフサイドを切り抜けて、うまくボールを
もらえれば得点につながるし、ちょっと気をゆるせばすぐ反則になります。そんなプ
レイが俳句の醍醐味だといっておきましょう。」(p.206)
「標語やスローガンは、いつも公認の正義を背負っています。俳句はそういうものに
加担しません。俳句の存在意義は、いうならばその脇のほうで、「でも、こんなもの
もいいですよね」と遠慮がちに語ることにあるのです。含羞という言葉があります
が、俳句とは含羞の詩だとでもいってみたい気がします。」(p.208)
「旅行に出かけて、美しい自然の景色を見て感動しますが、そういう感動はだれでも
味わうものですから、それ自体は通俗なことだといえます。・・・
わたしは俳句の特徴を、そういう人間の通俗さから出発することだと考えていま
す。それはたとえ本人が意識しなくても、五七五という通俗な形式を表現手段として
選ぶこと自体が、自身の表現行為をそのように規定しているのです。」(p.212)
「俳句は、いわば定型の根っこのところで、歌謡曲を愛する心情とつながっているの です。いくらか独断的にものをいえば、歌謡曲が好きでない人は、たぶん俳句の五七 五という定型にもなじめないと思います」(p.208)
わたしの通俗を愛する心、標語を目の敵にする言動、自ら歌謡曲の作詞をし、知ら ず知らずのうちに歌謡曲を口ずさむ心情も、ちゃんと理由あってのことだったのか と、合点がいった。
「標語と同じ形式を使って詩を表現し、歌謡曲になだれ込みたい心情を五七五に封じ 込めること。それが俳句の魅力であり、すなわち俳句を愛する理由です。そしてその 同じ理由で、みなさんに俳句をつくることをすすめたいと思います。」(p.216)
こうして、この本を読み終わってみると、俳句とは何かということの理解が深ま
り、俳句にたいする愛着の気持ちが高まり、実作への意欲がふつふつと湧いてくるの
を感じる。