紀行文の部屋

台湾旅行2001・台北一人旅(2001/5/1/〜5/5)


目次

(一日目)龍山寺、中正紀念堂、忠烈祠、石鍋料理

(二日目)故宮博物館と至善園、士林夜市

(三日目)淡水(清水巌祖師廟、馬偕博士像、長老教会、ガジュマルの樹、紅毛城、イギリス領事館跡、真理大学、喫茶店・領事館、淡水名物料理と似顔絵描き、

(四日目)国父紀念館、薬膳料理、

(五日目)南京東路、帰国


写真の部屋への目次

(一日目)龍山寺、中正紀年堂、忠烈祠、石鍋料理

(二日目)故宮博物館と至善園、士林夜市

(三日目)淡水(清水巌祖師廟、馬偕博士像、長老教会、ガジュマルの樹、紅毛城、イギリス領事館跡、真理大学、喫茶店・領事館、淡水名物料理と似顔絵描き、

(四日目)国父紀念館、薬膳料理、

(五日目)南京東路、帰国


私は、made in Taiwanである。それゆえ、台湾への思い入れは人一番強い。一度は台湾へ行ってみたいと思っていた。それが、今回やっと実現した。

made in Taiwanというのは、父母が台湾の台南市で暮らしていたからである。わたしの姉二人はそこで生まれた。台湾でわたしを身ごもった母は、九州の熊本へ引き上げてから半年後にわたしを出産した。その意味で、わたしはmade inn Taiwanなのである。

一番上の姉夫婦がいまから20年も前に、台北に4年ほど滞在したことがあった。その時期に、まだ健在であった父母や、わたしの兄弟の大半 は、台湾を訪れ、台南市へも足を延ばし、以前住んでいた家屋がまだ残っているのを確かめてきてもいた。その折、わたしも同行を誘われたりしたのだが、時間 がとれず、結局今年まで、台湾はお預けになっていた。

海外へは、いつも妻と一緒に行っていたので、今回も誘ったのだが、病身の老父を抱えていて、5日も家を空けられないということで、一人で行くことになった。

 自分で航空便やホテルの予約を取るのも大儀なので、旅行代理店の勧める5日間の台北市へのパック旅行にした。同じ日数で台湾を一巡りする のもあったが、一カ所一泊の強行旅程では、どこも中途半端になりそうだし、体も疲れるだろう。台北市だけのコースにした。ただ、パック旅行とはいいなが ら、着いた最初の日のみ、添乗員の案内があり、同行者と夕食を一緒にするという程度で、翌日から、最後の日にホテルで空港への送りのバスに乗るまでは完全 フリーなのである。フリーの方が、自分の好きなようにスケジュールが組めるし、自分の好きなところへ行き好きな時間見られるし、好きなものが食える。いか にも、気軽で、私の好みに合う。

5月1日、午前10時半の成田発便で台北へ向かう。台北の中正国際空港に着いたのは13時。時差が1時間あるので、正味の3時間半の飛行時間である。

 空港では、出迎えがいるということなので、きょろきょろあたりを見渡した。わたしと同じバッジを付けている人はいないか探すが、一人も見あたらない。やっと、私が使った旅行代理店の名前を書いた紙を持った私と同年輩の男の人を発見した。声をかけると、

「阿部さんですか」

「そうです」

なかなか達者な日本語である。

「さあ、行きましょう」

「えっ、ほかの人は?」

「今日はあなただけです」

なんと、パック団体旅行のはずが、一人旅同然の旅となった。出迎えてくれたのは、了さん、昭和12年の生まれといい、その旅行代理店が、台 北市に支店を開いたときからの社員だそうだ。日本語が達者で、日本の最近の事情にまでよく通じている。小泉内閣の組閣人事や田中真紀子外務大臣の父君こと まで、よく知っている。

 

 

 

一日目

{龍山寺}

 そんなわけで、20人乗りのバスに一人乗り込む。

 空港から台北市まで4車線から5車線の高速道路がある。両側には小高い丘があるが、さすが亜熱帯地帯だけに緑が濃い。丘を覆うように生い茂った木々の間に白い花が咲いているのが見えるが、台湾ツツジだという。

 やがて、市街地に入り、たっぷり水を湛えた淡水河を渡って高速道路を降り、建物がごちゃごちゃと建て込んだ一角に入り込んだ。そのあたりはまだ、再開発が進んでいないので、古い建物が多いのだと了さんが、少し残念そうな口振りで言う。

 最初にバスを降りて見たのが、龍山寺である。

 1738年に建立された、台北市内ではもっとも歴史のある寺。現在の建物は第二次大戦後に再建されたもの。ご本尊は観音菩薩。大きなお供 え物を供え多くの人が熱心にお祈りしていた。お寺そのものも色鮮やかだが、お供え物の色がなんとも鮮やかである。果物や花、豚肉のローストなどなど。長い 線香を束にして持ち、熱心にお祈りを唱えている。線香の煙を浴びるといいという。

 ここでは、おみくじももらえるが、無料である。まず、八卦の竹棒を回して、出た番号を選び、パソコンのマウスのような形をした二つの木 片を放り投げ、片方が表、片方が裏になると、その番号のおみくじを用意されたおみくじ棚から自分でとるのである。裏だけになったり表だけになったりした ら、八卦の番号選びからやり直すのだ。了さんのは第七十一首中吉だった。

 

{中正紀念堂}

 次に行ったのが、この記念堂である。中国語では紀念堂と書く。

 蒋介石(中 正公)を記念して死去後の1980年に完成した、高さ70メートルの巨大な記念堂だ。25万平方メートルの広大な中正公園には、国家戯劇院と国家音楽庁が あり、演劇やクラシック音楽のコンサートが催される。遠目だが、左右に赤い屋根が見えた(一番下の右の写真)のがそれである。

 その夕、ホテルのフロントで催し物ガイドを調べ、翌夕国家音楽庁で催されるクラシック音楽を見つけ、チケットを買おうとしたが、直接売り場に行くより無いと言われ、入手できなかった。

 敷地内はよく整備されており、様々な花が咲き誇っている。いちいち名札が付けられていた。

 記念堂の一階には文物展示室があり、等身大の蒋介石の人形が座っている執務室があった。

 広いロビーには蒋介石が乗った、防弾ガラス入りの大型セダンや、孫文との出会いの場などの歴史的場面を描いた大きな絵画などが多数が展示 されていた。了さんは、かなりのスピードで歩くので、ビデオカメラと、デジタルカメラを両手に抱えて撮影もしなければならないわたしは、どうしても遅れ勝 ちになった。

{忠烈祠}

 次は、忠烈祠である。

 その前に、時間調整という名目で、タックスフリーの店に寄った。中年の女定員が寄ってきて、強引にあれこれと勧める。最初は瑪瑙の装飾 品。妻は瑪瑙は嫌いだというと、マリーンブルーはどうかと、別のコーナーに連れて行く。その熱心さにほだされ、買うときに買わないと時間がなくなるおそれ もあったので、そこでひとつ妻への土産を買った。

 それと台湾の高地で取れるという凍頂ウーロン茶の最高級品というものも一缶買った。1700元した。

 3000元以上買ったと言うことでサービスに腕時計が貰えた。それに、台湾バナナがおいてあり、それは何本でもそのサービスにとっていい らしい。そのバナナを、店の人と顔なじみらしい了さんが6本ももらって来てくれたので、台湾滞在中、ホテルで食べることになった。次第に熟れてきて、皮の 色が黒ずんできたが、黒ずむほどにうまくなった。

 

忠烈祠は、抗日戦線や国民党政府のために命を落とした軍人などの英霊を祀るため、1969年に創建された。広大な敷地の奥に中国宮殿風の本殿があるが、これは北京の太和殿を模したものという(写真下)。

(写真上)正門に立つ衛兵と記念撮影を一枚撮ったが、見物客も多くて、変わりばんこに撮るのである。

 衛兵は1時間に1回交代式をやる。了さんは時間を見計らって行ったので、ビデオテープにばっちり納めることができた。一挙手一投足を必要以上に仰々しくやるようなものではあるが、まあ、少しは記念になるだろう。

 

石鍋料理

忠烈祠からホテル(環亜大飯店)へ直行して、チェックイン

忠烈祠からホテル(環亜大飯店)へ直行し、チェックインをすませた。ホテルはかなり大きい。14階建てで14階までぶち抜いた巨大な吹き抜けがある。

了さんは、5月5日ホテルのロビーに12時半に迎えに来るので、間違わないようにと、しつっこいほど繰り返した。「わかった」とこっちも繰り返すと、了さんはそこで 立ち去るそぶりを見せた。

 日本で旅行代理店からもらったスケジュール表に寄ると、初日は夕飯まで付き、後は5日目の空港への送る時間までフリーのはずだった。 そのことを確かめると、了さんは、自分はそんな指示はもらっていないと言いながらも、わたしの書類を見て納得し、バスは帰ってしまってので、それではタクシーで石鍋料理に出かけましょうということになった。

とりあえず、まず、11階にある部屋までスーツケースを運び込んで、持参した荷物を整理する。しばらくしたら、ドアにノックがあり、了さん が顔を出した。きちんとした部屋が取れたか確認に来たのだという。一緒にエレベーターでロビーに下りる。エレベーターは、大きな吹き抜けに面しており、ガ ラス張りなので、客室のあるフロアーや、地階の食堂や料理店、などがよく見える。各国の旗が飾ってある。 

 ホテルの玄関でタクシーに乗った。石鍋料理の料理店に着くと了さんは近くにオフィスがあるのでちょっと顔を出してくると言っていなくなってしまった。

 夕食時間より早いせいか、がらんと空いた店で、一人で石鍋料理なるものを食することになった。

 石鍋は韓国からの輸入品したものだという。コンロの上に乗っている。鍋底に油を引いて、まず肉を焼き、そのあとに水を加え、野菜や様々な具を入れて料理するのである。赤い前掛けをかけたおばさんが目の前で料理してくれる。

 鍋の出来上がるのをまちながら、生ビールを飲み、次々に出てくる春巻きやら肉まんやら、青菜炒を食べる。おばさんも少し日本語は分かる。コックが出てきて、私の日本名は青山二郎であると名乗り、かなりうまい日本語で話す。この人も昭和12年の生まれだという。

 若い気のいい男も出てきたが、この人は日本語はわからない。一緒にデジタルビデオとデジタルカメラに収まる。

 鍋は、野菜もたっぷりだし、日本の鳴門みたいなものも入っているし、味はなかなかのものだ。うまかった。 最後にスープで麺をつくり、おじやを作ってくれる。

 食事が終わった頃、了さんが現れ、ここでも、やや強引に同じ店の二階にある土産物店に連れて行かれた。中国茶の入れ方なるものを若い女性 から一対一でまずたっぷり講義された。目の前に出された並んだおつまみをかじりながら、入れたてのお茶を飲むのである。講義が終わると、講義した女性が店 内を案内する。ここでも熱意にほだされて、ピーナツと干し肉と唐辛子を配したおつまみを5袋かった。

女性に「あなたの熱意にほだされて」というと、「よく分かっていただいて」と感謝された。

 お土産を抱えてホテルへ引き返した。

 ホテルの土産物店を覗いてみた。女店員が二人いたが、日本語が分かる。明日、故宮博物館へ行く話をするとバスの番号を親切に教えてくれた。(写真下)

 台湾の焼き物で作った龍の置物が気に入ったので、値段を確かめた。日本円で12000円のところを10000円にするという。考えておくということにした。四日目の夜、結局これを9000円也で買ったのだが、空港でみたらもっとぐっと安く売っていた。

 さて、その夜は早めにベッドに潜り込んだのだが、防音装置が悪いのか、道路から車の走る音が遠慮会釈無く飛び込んでくる。これには参った。翌朝、手首などに、虫に刺されたような赤い斑点ができていた。なにか虫がいるのだろうか。

二日目
故宮博物館と至善園

 朝食はバイキング方式。例の吹き抜けになった部分の地階にあるレストランでとる。食べ過ぎないように注意しながら、品数は多めにとった。味はたいしたことはない。

 今日の目的は、故宮博物館である。今回の旅行の最大の眼目でもある。

 ホテルの前の通りの向かい側にバス停があるのは、昨夜教えてもらっていたのでそこからバスでMRTの中山駅まで行った。運転手に、中正駅 と書いた紙を見せたら、すぐ後ろに座っていた中年の女性が分かったという風にうなずいた。料金は15元と書いてある。ところが手元には50元紙幣しかな い。背中のバックバックを下ろして、引っかき回してみても、貨幣は見つからない。運転手に紙幣で払えないかとアピールしていたら、後ろから、背中をとんと んとたたく人がいる。運転手の後ろの席の二列目にいる主婦らしい人が、貨幣を50元分手のひらに載せて差し出してくれた。ありがたく両替してもらって、 10元と5元の貨幣をスロットに滑り込ませた。親切な人はどこにもいるものだ。

 中山駅から士林駅までMRTで行き、士林駅から、故宮博物館まではタクシーに乗った。

 故宮博物館はさすがにすごかった。半日割いたけれど、それでも駆け足もいいところ。驚くべき逸品が次々と出てくるのでちょっと足をとめた くなるのであるが、留め始めたらそれこそ、ごくごく一部しか見られないことになってしまう。およそ70万点の収蔵品のうち常時展示されているのは 6000〜6500点という。特別展も次々やっているが、この日は、鈞窯の磁器が見事だった。紫や青などの微妙な色彩が出ていて、飽きない。

 ただ、館内はしんしんと冷えていて、途中でクロークに引き返し、セーターとジャンバーを着込んだ。 

 三年前に北京の故宮博物館を見たがたしかにそれより充実している。世界四大博物館と言われるだけのことはある。殷時代の青銅器から始まっ て、鉄器、陶磁器、書、絵画、玉器、彫刻、象牙細工、漆器、琺瑯、などなど、息を飲むような高度な製品がそれこそ所狭しと並んでいるのだ。感嘆置く能わず といった次第。象牙の10層以上もある球形の入り子構造など今もって製造方法が分からないらしい。

 さすがに午後いっぱい見続けていたら腹が空いてきたので、4階の三希堂という茶芸スペースにたちより、お茶と饅頭の軽い食事をとった。

 5時の閉館時間まで粘って、見られるものは見つくそうとしたが、もう定刻より少し前から館内から追い出そうという雰囲気が立ちこめてきた。クロークに行くと館員はすでに制服から平服に着替えをすましており、わたしの持ち物が最後の一つというので首を長くして待っていた。

 

 故宮博物館を出てすぐ左手に至善園という庭園があった。しばしこの中国庭園でくつろいだ。7000坪あり、宋・明代の様式で、池や橋が美しく配されている。池には大きな緋鯉が泳ぎ、美しい花がたくさん咲いていた。

 

士林夜市

 士林駅までの帰りはバスにしようということで、故宮博物館の前から、士林駅行きとおぼしきバスに飛び乗った。かなり込んでいたが、しばらくいく と、背中をとんとんとたたかれた。振り返ると若い女性の四人連れがいて、席が空いたから座れというのだ。遠慮したが強く勧めるので座らせてもらい、ガイド ブックを取り出して、先ほどの女性に士林夜市に行くのはどう行けばいいのか尋ねた。四人連れの女性でなかの一人の人が日本語を話せた(写真の一番右端の 子)。

 自分たちも今から行くところなので、一緒に行きましょうということになった。士林夜市へは、そのままそのバスで行くのではなく、思った 通り、高速電車(MRT)に士林駅で乗り換え、隣の剣潭駅で降りるのだ。駅から、歩いて数分でもう士林夜市である。日本をたつ前から、台湾のエネルギーを 感じられる場所として、人にも勧められていたし、インターネットの台湾関係のホームページでも推薦されていたので是非とも行きたかった場所だ。

 さて、なにを食べますかというので、何があるかというと、海鮮料理や肉料理はどうだという。それじゃ、海鮮料理にしようということに し、彼女たちの行きつけの屋台に入った。煌々と明かりが点いている。料理も彼女たちの勧めるものにした。出てきたのがカキ入り卵焼きだった。虫可仔煎 。卵焼きの中に小粒のカキがたくさん入っている。温かくておいしかった。40元。

 聞くと、彼女たちは4人とも真理大学の数学科の学生だという。

 日本語のできる女性は、台南市の出身だった。そこでわたしはMADE IN TAIWANなので、台湾の食べ物が合うというと、小首を傾げるので、実は両親は台南市に戦前住んでおり、わたしの姉二人はそこで生まれたが、わたしは母 の胎内に半年いただけで日本に戻りそこで生まれた。したがって、わたしは文字通りMADE IN TAIWANなのであると説明した。それを日本語の話せる女性が中国語に訳すと、なるほどといったような笑いがおきた。

 おごるのでもう一皿ずつ、好きなものを注文するように勧めたら、7時までに帰らなければならないのでといって、みんな腰を浮かす。それ じゃ、卵焼きの分を払うと言っても、お客に払わせるわけにはいかないと、受け取らない。結局割り勘ということで、支払った。わたしは、もう少し食べたかっ たので、隣の人が食べている、ビア樽みたいなスチール製の容器に入ったものを指さしてあれは何かと尋ねると、メニューから、名菜佛跳牆を指さす。かつて佛 が飛び上がって喜ぶほどおいしいスープである、といういわれを説明してもらいながら、そういう名のうまいスープを飲んだことがあったのを思いだし、彼女た ちに注文してもらった。注文を済ませると、彼女たちはバイバイと手を振りながら出ていった。

 出てきたスープは、蓮の実をはじめ、たっぷりと様々な具が入ったもので、私好みのものだった。なかなかいける(70元)。

 食事の後、活気溢れる夜市を何度か巡り歩き、ハンコをまず一本作った(20分でできるという。「毅」を一字を彫った。水墨画の落款用)。

 レコード店に寄って、ヨーヨーマ(馬友友)のCDを買った。台湾の土着民の歌や台湾の童歌(彼はフランスで生まれたが、父君は台湾の出身 らしい。この伝統的な調べに彼の台湾という島へのイメージが込められているという解説がついている)、日本の「サクラサクラ」。ほかにクライスラーやバッ ハ、シューベルト(「鱒」)、ガーシュインなどの曲が納めれれている。帰国して聞いたがいいゆったりとくつろげる音楽だった。もう二枚癒し系自然物、「A Day in Paradise」(随著島の自然の音を集めたもの)、飛魚。これも聞けば心が和む。

 市場のあちこちで、プラスティック製のボールに飲み物を入れて販売している店がある。ある店で、液体の中に黒っぽいゼリーのような物の浮いたのを買って飲んでいる男の人がいるので、顔をのぞき込むと「おいしいよ」

 そこで同じ物を店のおばさんに頼んでみる。大きめの紙コップにストローをつけて売ってくれた。ストローから吸い込むと、冷たい液体ととも にとろりとしたゼリーの感触のものが喉を通った。それほど甘くはない。おいしい。あとで仙草ゼリーであることがわかった。立ち食いしながら市場の中を歩い たが、足が痛くなってきたので、引き上げることにした。

 台湾はスクーターが大流行で、夜市の近くの駐車場はそれで一杯だった。

 この夜も道路騒音に悩まされながら寝た。翌朝、窓を調べてみると、向かって右端の窓と窓枠との間に、2センチほど隙間ができている。引っ張ってみてもびくともしない。これではうるさいはずである。

 

三日目

 

淡水・清水巌祖師廟

 三日目は、淡水へ出かけた。

淡水は、淡水河の河口の街である。MRTで台北駅から40分の距離だ。

 淡水駅で降り、中正路を8分ほど歩き、右手にある民芸品の店で、目の周りや顔をマッサージする竹製品を買った。店の女性に旅行案内書を示 して清水巌祖師廟はどこかと聞くと、先に立って案内してくれた。そのまま同じ道をまっすぐ進んですぐのところに右に折れる細い道があった。先は坂になって いる。そこを登って行けいという。細い坂を登ったところに、この清水巌祖師廟があった。

 廟堂の屋根の「雙龍搶珠」は美しい装飾として、台湾の廟のなかでも屈指のもの。内部も彫刻や装飾が美しい。この廟に祀られている清水祖師は、干ばつの際、雨乞いと医薬で人々を救った宋代の僧・陳昭応のこと。

 中正路に戻ったところに福佑宮があった。この宮は、淡水の鎮守様ともいうべき媽祖廟。その建物の中で、日本から観光旅行に 来ていた家族に出会った。川上敦子さんというリストの超絶技巧練習曲でデビューしたばかりのピアニストの一家だった。(写真右の右から二人目が敦子さ ん)。ご両親は札幌在住と言うことだった。

 昨日着いたばかりだという。気さくな感じなので、いろいろと話した。

 なんとこの一行と帰国便で乗り合わせることになるのだ。

 福佑宮を出て、中正路をぶらぶら歩くと、馬偕博士像が交差点に建っている。博士(ジョージ・マッケイ)は台湾に近代医学を伝えた人。そこでくだんの川上一家がタクシーを呼んで乗り込んでいる。紅毛城まで、術後の父親をおもんばかってタクシーにしたというのだ。乗らないかと誘われたが、ぶらぶら歩いていきますからと断った。

 その交差点から、細い道に入ると、そのすぐ近くに長老教会が ある。その教会の前に、古物店があった。実に色んな物を売っている。段ボールの表装をしたCDをまず、買った。「南下列車専輯」。30歳台と思われる男の 店のオーナーらしき人に視聴できるかと尋ねると、二階へ行ってくださいという。彼は、東京にも行ったことがあるという。少し内気な感じがした。

 二階は絵などが飾ってあって、木のイスもが数台置かれている。イスに座っていると、ステレオが響いてきた。ゆったりと落ち着いた感じの音楽である。買うことにした。

 地下もあるので、そこにも降りて見た。電気シェーバー、時計などから、ブックマークのような小物まで雑多な物が並んでいる。ブックマークと、熊ちゃんをあしらった磁石性のピンを買った。教会の前にあるせいか、聖書の名文句などが刻まれている。熊のには、「Love bears all things」とあった。

 河岸通りに出て、岸に沿ってあるくと気根の垂れ下がったガジュマルの樹が茂っている。ハイビスカスの花も初めて見た。昨日訪れた故宮博物館の陶磁器や銅器などにもハイビスカスの花の形を採り入れたものがかなりあった。実をたくさんつけた樹もあった。若者がたむろしている喫茶店もあった。

 

淡水・紅毛城・イギリス領事館跡

 中正路に出て、しばらく行くと、紅毛城の入り口に着いた。そのすぐそばに真理大学の看板が出ている。

 紅毛城は、17世紀(1629年)にスペイン人が建てたものだ。ジャポニカによると、「17世紀に入ると台湾はヨーロッパ列強の角逐の舞 台となり、オランダが1622年に澎湖島、24年に南部台湾を占領した。またスペインは1626年に北部のキールン、淡水を占拠したが、42年にオランダ 軍の攻撃を受けて台湾から撤退」したという。

 紅毛はかつてオランダ人を意味した。1642年にはオランダ人のものとなったので、紅毛城と呼ばれるようになった。外壁は赤っぽい色だ。その後、1868年にはイギリスの領事館となった。

 城と言っても小さい。中は自由に見られるようになっている。地階には、牢屋もあった。

 すぐ近くに煉瓦造りの英国の領事館跡がある。二階建て。ここも室内は自由に見学できる。執務室や、寝室などが調度品とともに展示されている。庭には緑の芝生があり、花も咲いている。大きな樹木もたくさんある。

 ここから、淡水河と河口、観音山などが見渡せる。

 

 

淡水・真理大学・喫茶店・領事館

 

 真理大学紅毛城の入り口近くに、真理大学の看板があった。昨日士林夜市を案内してくれたのは真理大学の女子学生だったことを思い出してキャンパスを覗いてみた。

 なかなかすてきなキャンパスだった。ミッション・スクールである淡水工商の牛津学堂(オックスフォード学堂)とその前に広がるガーデンが素敵だった。

 そこであった女子学生に連れて行ってもらったのが、喫茶店領事館である。そこからの淡水河の眺めもよかった。ブルーベリーのフラッペ(180元)を食べながら景色や喫茶店の雰囲気を愉しんだ。

 

淡水・名物料理と似顔絵描き

 バスで淡水駅に戻り、例の民芸品店に寄って、竹製の筆立てをかった。

 淡水に来たからには土地の名物料理を食べたようと、ガイドブックに紹介されている店を目指したが、かなり距離があったので、途中で諦めて駅の方に引き返し、庶民的な店に入った。店のおばさんに、ガイドブックを示して、名物料理なる物を食してみた。

魚丸湯:これは魚肉団子を入れたスープ。あっさりした味で美味。

阿給(あげ):日本の揚げ豆腐からきた命名で、揚げ豆腐の中に春雨や肉などの具を入れて蒸し、特製のタレをかけたもの。豆腐の皮を破ってタレと春雨を混ぜて食べるととてもおいしかった。

臭豆腐:町中この臭いがするほど、臭う。発酵させた豆腐で、漬け物と一緒に食べるといける。くさやが食べられる人なら問題ない。

酸梅湯:乾燥梅を煎じた汁を甘くし、サンザシなどで香りをつけた中国風飲み物。さっぱりした味。

以上の4品で、100元だった。フラッペの180元より安い夕食になった。

鉄蛋:鶏の卵をしょうゆで煮込んででは干すという作業を何度も繰り返して作る。卵と思えないほど歯ごたえがあり、おいしい。土産物店で売っている。90元。

 淡水駅には似顔絵描きが三人いた。お客も様々で、女性一人、若いカップル、中年の人などがイスに座って動きを止めている。

 ちょうど描いてもらったばかりの若い女性に、出来上がった絵を見せてもらい、絵と一緒に記念撮影をした。彼女は日本語が話せた。しかも、自分で挿絵などを描くという。わたしも水彩画を描くことが好きといことで、しばらく立ち話をした。

 MRTの南京東路駅で降り、ホテルまで歩く。路上に、靴や衣料品や装飾品など様々な賞品を並べて商売をしている。ホテルのすぐ近くに食堂 がある。そこによって肉ソバを食べた。その店の隣に、さまざまな食材を並べ、客の注文に応じて、食材を組み合わせ、茹でたり炒めたり料理してテイクアウト させる店があった。OLのような女性が、立ち寄って買っていく。

 ホテルに帰りベッドに入り、寝込んだものの、冷房の機械音と道路の騒音で夜中に目が覚めた。しかもどうも虫がいるらしい。体がかゆい。冷房を留めてやっと寝付けた。

 

四日目

国父紀念館

 朝、フロントに行って、中年の男性職員に、部屋の窓ガラスがきちんと閉まらなくてうるさくてよく寝られない、虫もいるようで刺されたというと、一 言の文句も言わず、すぐ14階の部屋に替えてくれた。こんなことなら、もっと早く言えば良かった。斡旋してくれた旅行社にも少し遠慮していたのである。

 午前中は、ホテルの隣にデパートと大きな家具の店があったので、孫用のアルファベットや数字のオモチャや絵の道具のセット、マップハサミ、ポプリなどを買った。

 午後は、国父と崇められる孫文を記念する国父紀念館へ行くことにした。

 MRTの南京東路駅への道はもう勝手知った道になっている。その途中にあるディスカウント店で、筋肉痛の薬を買い、レジにあったチューイ ンガムを買った。ガムを噛みながら、南京東路駅の自動改札を通ってプラットフォームへ向かおうとしていたら、警官のような制服を着た若い女性が、顔面に怒 りをみなぎらせ、右手をつきだしてわたしに向かってきた。なにか叱責しているようだ。わたしがきょとんとしていると、着いてこいという仕草をする。わたし の口元を指差しているので、チューインガムかと聞くとどうもそうらしい。口からガムを取り出して、紙にくるんでポケットにいれたら、すこし表情がゆるん だ。外国人であることもわかったのであろう。そこで放免してくれた。

 MRTに乗ってから、車内のポスターを見ると、MRTの構内、車内で飲んだり食べたりしたら1500元の罰金と書いてある。合点がいった。

 国父紀念館駅で下車し、国父紀念館へ。 

 大きな建物で、館内には2000人を収容するホールや、孫文に関する展示室があるほか、書画の展覧会などを開催していた。

 敷地は4万平方メートルもあり、孫文の彫刻や碑文のある一角もある。、多くの草花が植えられており、市民が凧を揚げたり、球技をしたり、ボード・ゲームごとをしたりしてくつろいでいた。

 建物正門の孫文の座像の前に立つ衛兵の午後五時の交代(引き上げ)式の情景を見たうえで、立ち去った。その敷地の一部に道路沿いの柵に そって健康道と称して玉石を敷き詰めた100メートルほどの道が設けられていた。木陰になっているその道を、老人から若い女性まで、靴や靴下を脱いで裸足 になり、歩いている。巨大な竹踏みのようなものだ。

 

薬膳料理

 国父紀念館へ行った後、台湾でも名高い書店である誠品書店に寄って、「Like」という本を買った。驚いたことには、店のいたるところに、座り込んで本を読んでいる人がいる。品ぞろいはさすがに豊富で、日本関係の本もかなりの数揃っていた。

 夕食をとろうということでガイドブックにある店を目指して歩き出したが、途中に、セット料金の中華料理店があったので、そこに入った。混 んでいる。一人だというと、若い女性が四人座っている席に案内してくれた。同じ席にいた二人のOLが日本語ができたので、いろいろと話し合った。

 注文を取りに来た女性店員が勧める料理を、この二人連れにうまいかと確かめると、うまいという。薬膳料理の一種と言うことであった。向 かって右の女性は、保険のセールスで優秀な成績をあげ、今日、賞品にビジネスバッグをもらったとかで、連れの女性からスーパーウーマンだと言われていた。 たしかにしっかりした感じの人で、東京にも行ってみたいという。オフィスはこの近くで昼にもよく来るのだという。

 店がますます混んできて、席を入り口に近い場所に一度替わらさせられた。その入り口に4人もの客が待っているのを見て、すでに食事を済 ませていた二人連れは、デザートはもういいと、店を出ていってしまった。わたしは、薬膳料理と麺とご飯とデザートとのセットを全部食べてから店を出た。

 最後に、台北駅に出て、台北市で一番高いビルの展望席のある喫茶店から、アイリッシュコーヒーとケーキを味わいながら、台北の夜景を愉 しんだ。左手に淡水河があり、明かりが水面に反射している。幾筋もの高速道路を通る自動車の明かりが、ずっとつながっている。台北はかなり大きな都市であ る。この喫茶店にしても、東京と変わらない雰囲気である。李登輝以降自由化が進んだのであろう、台湾には中国にない自由さがあるように思えた。

 ビルから出たところにも夜市がたっていて、人だかりがしている。原住民の民芸品の店で、紐とガラスで人形を模した小さな飾りを買った。お守りに使えそうである。

 ホテルに帰り、閉店直前の土産物店で、例の龍の置物を買った。店員は代わっていたが申し伝えがしてあって9000円だった。

 14階の部屋に戻り、荷物のパッキングをした。知らないうちに買い物が増えていたが、なんとかスーツケースの鍵はかかった。

さすがにその夜は、快適で、ぐっすり眠ることができた。

五日目

南京東路、帰国

五日目、もう帰国である。

 ホテルの周辺を散策した。ホテルの正門が面している南京東路は、堂々たる大通りで、大きな街路樹が五列もあり、中央帯には公園があって、いろんな美しい花が咲いていた。こんな立派な通りは東京にもない。

12時15分にホテルロビーで旅行社の陳さんと待ち合わせ空港へ向かった。昨晩、この陳さんから電話があり、了さんは別件ができて迎えにいけなくなった。迎えの時間も15分早めて欲しい、と電話があったのだ。20人乗りのバスに8人ほど乗った。

空港で最後の昼食。好きな料理をお盆に載せてくる方式なので、おいしそうな物を選んだ。ディスク店で、阿妹(a-mei)のデビューした 1996年から2000年までのbestを集めた二枚組のCDを買った。阿妹(張恵妹)は、台湾の原住民ピュマ族の出身で、有名なポップス歌手である。ア ルバムを見ると可愛い顔をしている。電気ギターやドラムアコーディオンなどを持っている写真もあるので、きっとそんな楽器もうまいのだろう。もちろんこの ごろの若手の歌手のように踊りもうまいようだ。

チェックインしてから、タックスフリーの店で土産のお茶や故宮博物館の青銅器などの形をした純金メッキのブックマークを土産に買いこむ。

 すべてを済ませて、待合室に座ろうとすると、右手に持っていたはずのデジタルカメラがない。つい、今までデジタルビデオカメラと一緒に 持っていたのだ。青くなった。カメラそのものより、撮った映像が惜しい。電子メールで送ってあげると約束が果たせない。必死になって、最後に買い物した、 故宮博物館の出店に駆けつけた。と、さっき買い物をした女店員がキープして置いてくれていた。

「謝謝」

 ほんとうに胸をなぜ下ろした。

 改札が始まった。指定席なのだからと、最後まで残ったら、残った乗客の中にピアニストの川上敦子さんの一家の顔があった。

「奇遇ですね」

お互いに再会を喜び合った。

 お母さんが、座席の番号を教えてくれたので、日本への飛行中に川上さんの席に話しに行った。そのとき、あなたを紹介した記事を日経か朝日 でみたような気がするというと、日経にデビュー前にたしかに紹介されたということだった。とっても小さな記事でしたが・・・。普通は、音楽祭の賞をとって デビューするのが日本では普通だが、まったくそういうこととは、無縁でデビューをした。日本ではきわめてめずらしいケースだという。4月28日にリサイタ ルを終え、そのすぐ後にこの旅に出たのだそうだ。

 1975年ワルシャワでツメルマンが優勝した際のショパンコンクールを一次予選から入賞者のリサイタルまで見る機会があったが、聞き手に安心感を与え一緒に音楽を楽しめる人が結局最後まで残ったように思ったなどの話もした。

 12月にリサイタルをオペラシティでやるので是非来てくださいということであった。

 こうして、五日間の台湾・台北一人旅も無事に終わった。