島校さとみ会西安・洛陽5日間
2001/2/25〜3/1
今年も、一番寒い時期に、島校同窓会さとみ会有志とで中国に行くことになった。わたしもこれで、3年連続の参加になる。最初の年の上海には日程が合わず行けなかった。
2/25
07:50 成田空港集合。
定刻までには、総勢24名が集合。私は6:07新宿駅発の成田エクスプレスで、20分以上早く到着。たまたま同行の宮崎宗介君と新宿駅で会う。25名の内訳は、さとみ会オリジナルメンバーが12名、その他が12名と拮抗している。男性15名に女性9名。新参加は、小室夫妻(メンバーの木下れいこさんが、イタリア旅行で知り合いになったカップル、奥さんのガブリエルさんが島原に縁があるという)、井出(野島の女婿)さん、西さん(野島の同僚)の4人、後はこれまでの中国旅行に同行した経験のある人。
09:50 成田空港発
定刻に成田を発つ。私の席は前に椅子がなく、脚を伸ばせて快適。
14:05 西安着
オリジナルメンバーの市川君が空港で出迎え。彼はJTBの北京事務所長として昨年から二度目のお勤めをしており、今回もこの旅行をアレンジしてくれたのだ。
彼の「面子」で、おいしいものを安く食え、めったに見せてもらえないものを見せてもらえることが、これまでの旅行でも沢山あったが、今回もまさしくその通りになった。
専用のバスが出迎え、バスで西安へ向かう。
ガイドは王小霞さん。なかなか頭の回転の速い、世間話にも通じた、しっかりしたガイドで、今回の旅行を中身のあるものにしてくれた。彼女は1992年に廣島に日本語の勉強に行ったことがあるという。彼女の日本語はなかなかのものだ。運転手は張さん。この人の運転技術がなかったら、到底西安の中をあれほど自由自在に動き回ることはできなかったろう。とにかく、運転するに一番の条件は勇気があること。元解放軍兵士。
西安市の中心部は城壁に囲まれている。われわれは北門から入った。東西に長く、南北に短い。城内の中央に鐘楼が建っており、道路はロータリーになっている。そのすぐ脇を抜けて目的地に向かう。
最初に訪れたのが、碑林博物館 。中国には無尽蔵のものが沢山あるが、これもその一つ。
石碑に彫られた碑文を保存し、公開しているしている、博物館である。もと孔子廟。夥しい数の碑文が保存されており、平成という年号の元となった碑文も、論語のオリジナルテキストもここにある。
漢字という文字が発展し、形成されるプロセスがわかる。篆書、楷書、行書など。草書は酔っぱらって書いた文字が定着したものという。科挙の試験を受けるために、受験する人がここに泊まって磨きをかけた。詩文を作って競い負けた方が酒を飲まされた。負けて酔った士が書いたのが草書の初めだという。
この施設の入口から奥へ続く道の両脇に赤い八角楼がずらりと並んでいる。東西南北のどの方向に太陽があろうとその方向の扉を開いて明かりを取れるように考えられた八角の小さな楼である。その中で科挙の受験生が、勉強したのだ。
館内には、
石碑が所狭しと佇立している。11世紀、北宋時代に、唐代の碑石保存のために集められたのが始まりで、清代に本格的に収集が開始されたといい、全体で3千余あるという。文字通り、石碑の林立する碑林である。石碑を下からじっと支えているのが、亀である。
ジャポニカによると『中国最古の経典『書経(しょきょう)』に、「霊亀(れいき)は玄文(げんもん)五色にして神霊の精なり。上は円くして天を法(かた)どり、下は方にして地を法どる」と記されているように、神秘的なカメは宇宙の縮図、象徴とみなされていた。(C)小学館』のだ。
ガラス戸越に見ることになっている石碑は少なくとも1000年以上経ったものであるという。
現在の元号「平成」の出典となった石碑(「地平天成」)や、「論語」の石碑も見せてもらった。王羲之、顔真郷などの大書道家の碑が無造作に並んでいる。書が好きな人には堪えられないところだろう。
館内では、拓本を作り販売している。一番下の写真は、拓本を作る様子である。紙を貼り付けている。この上から墨を付けたはらんのようなもので叩くと文字は白く浮かび出るのである。 唐代以降紙が発明されて拓本が取れるようになったので、墨の色が石碑に付いている。
次に訪れたのが、青龍寺である。
弘法大師(空海)が、唐の時代(805年〜)、恵果阿闍梨から学んだ名刹であるが、唐末の戦乱で廃寺となり、所在さえ不明だった。1973年に畑の中から寺跡が発見され、空海ゆかりの地として、日本の真言宗派協力の下に1982年再建されたもの。唐の時代の寺の様式で建てられている。庭が日本庭園の趣を持つのもその故だ。しかも四国88お遍路札所の0番寺になっている。ちなみに89番札所は空海の創建した高野山の金剛峰寺。 庭には、黄色のかれんな花が咲いていた。葉は、ネギのように細く長い。これが迎来春(イエライシャン)という花であった。山口淑子が歌った同名の曲がある。 恵果像と空海像が並び祀られている恵果空海記念堂がある。空海は密教八僧の8番目に列せられている。 1982年に日中共同で建てた空海記念塔がある。ところで碑文は「記念塔」となっており、一目で日本語とわかるという。ちなみに中国語でなら「紀念塔」となる。塔の上部の五輪塔は、空風火水地を表す。
夕食は、回族の料理。回族は、西安に7万5千人ほど住んでいるという。
珍しいもの好きのわたしにはぴったりの料理。本格的なシシカバブも出てきた。唐辛子の辛みが効いていて美味い。 今夜は、この回族の最高級レストラン同盛祥で回族料理(羊肉包)を楽しむのである。しかし、その前には、子供をだしにした物乞いがたむろしており、しつこくつきまとい、ゆかいではなかった。 前菜と一緒に、焼き餅が出てきた。これを細かく砕いて、一番下の写真のような雑炊状にして食べるのである。中には、牛の肉が入っており、ニンニク、バンバンジー、チャイニーズパセリのきざみを適宜足して食べる。緑のものは、緑のもやしのようなもの。鴨の辛味炒め。湯葉巻き。このように一行は、いつも、3つの円卓に分かれて食べた。
料理は次々に運ばれてくる。全品少しでも食べようと努力しなければならないほどだ。肉メンチの胡麻衣揚げ、骨付き牛肉の甘み煮、柔らかく煮た牛タンなど美味。。撮り損なったが、長い竹串に差した羊の唐辛子の辛みの着いたシシカバブはうまかった。回族の料理もなかなかいける。フルーツは、リンゴ、ブドウ、ミカン、キューイ。酒はビールに、紹興酒。
夕食後、レストラン近くの海賊の屋台市場に足を延ばす。
小さなプラスティック製のケースに入れられた食材が、ずらりと棚に並べられている。
それがすべて竹串に刺されているのである。
二月下旬のまだ寒い夜だが、扉は開け放ち、客は歩道のイスでむしゃむしゃやっている。客も結構多い。串に刺したも のを料理して貰って食べるのだ。強いガスの炎がかまの外まで吹き出している。 魚介類から干した木の実類まで、豊富な食材があふれている。
宿泊は、唐華賓館 。
2/26
朝一番に訪れたのは、大慈恩寺・大雁塔である。泊まったホテル(唐華賓館)のすぐ近くにあり、バスだとすぐだ。
648年、唐の三代皇帝高宗が皇太子のとき亡くなった母・文徳皇后の慈恩を追慕して建立した。 645年、インドから帰国した玄奘三蔵は、この寺に入り、経典の翻訳にあたった。訳出された経典は75部1335巻に及び、鳩摩羅什などの訳に対し新訳と呼ばれた。この経典と仏像を収蔵するため建立されたのが大雁塔である。玄奘三蔵自らもっこをかついて建築に参加したという。四角七層、高さ64メートル。248段の木の階段で頂上まで登れる。
そこから西安市が一望できる。西安のシンボルといわれ、西安では、これが一番高い建物で、これ以上のものを作ることは認められていない。私は、グループのトップで最上階に達したが、あいにくの雨で遠くはかすんでいた。西を臨む門の前には玄奘三蔵法師の大きな銅像があり、西の方を眺めているのが見える。
この日は、小雪が降っていた。小雪の中の西大門である。東西南北にこれと同じ大きさの四つの門がある。西大門は、これがシルクロ ードへの起点になるので、特に有名である。
城壁:これは、明代に作られた城壁で、全周17.2キロメートルある。この城壁の上を三周するフルマラソンが行われるという。
シルクロード側に大きな展望台があるかと思いきや、大門の中は土産物品の売店になっており、シルクロードを見ようとすると かがみ込んで、小さな窓から見なければならないのだ。
門の天井は高く、絵が描かれている。 東南北の門も大きな建物である。
11:30 列車で洛陽へ
人口600万人を擁する首都の玄関口だけあって、西安駅は大きく、人が溢れていた。
構内には温かい食べ物を売る屋台がたくさんあり、大きな食堂もある。食堂の前には、持ち帰りできるお総菜がずらりと並んでいる。
鶏の足や豚の足を炒めたもの、鶏一羽の唐揚げなど、種類が多い。
中国の列車には硬座と軟座の区別がある。軟座が日本のグリーン車にあたる。われわれが乗ったのは軟座の、しかも見晴らしのいい二階部分の座席である。
専門のサービス係が乗務しており、お手拭きをくれたり、頼むと熱いお湯を持ってきてくれる。イチゴやスイカなどを売りに来たりする。車内売店もある。座席はゆったりしており、長旅でも疲れない。駅には多くの売り子が待ちかまえていて、熱心に商売をする。
昼食には、日本料理店「阿倍」謹製の日本弁当 を食べる。
西安から洛陽まで400キロの旅だが、6時間近くもかかる。この間食事を摂り、酒を飲み交わし、おしゃべりをし、旅のご一行様はすっかり打ち解け、仲良くなった。
初参加のベルギー人女性から、ある人を知っているかと聞かれ、わたしの仕事場の先輩であり、よく知っていると答えると、彼女はブラッセルでその人の秘書をしたことがあり、その人の仲立ちで当時ドイツに赴任していた今の夫(この方も今回初参加)と結婚することになったというのだ。しかも、彼女の叔母にあたる人は、上海に住んでいた祖父が大村出身の女性を後妻に迎えてこともあり、戦後間もない頃、私の故郷・島原の鉄砲町に住んでいたことがあるという。私は小学生の頃その叔母さんの住処である洋館の側を通って、通学していたのだ。彼女は35年前島原を訪問したことがあるが、そのとき叔母さんのかつての友人に案内して貰ったという。その友人がわたしの高校一年のときの担任の先生だった。
世間は広いようで狭いと実感し、このような小説よりも奇なる事実を聞かせてもらえることになったのも、この長旅のおしゃべりのおかげである。
線路の沿線は、黄土地帯で、砂漠地帯から運ばれた黄土が100メートルも堆積しているという。地層は垂直に強く、谷も垂直にえぐられている。鉄道近くまで垂直の黄土がむき出しのままになっており、法面の補強をしなくとも容易に崩れないらしい。したがって車窓からも、横穴式の住居が見える。今も人が住んでいるのである。雨は少ないが、地下の水をよく吸い上げるので、小麦などの栽培には向いており、農家は豊かであるという。中原に鹿を追った、まさしくその中原なのだ。
17:12 洛陽着 黄河見学
洛陽の駅に着いたのは、5時半近い。
これから黄河までは、バスでも一時間かかるという。みぞれも降っている。それでも、ここまで来たからには、是非とも黄河を見たいと言うことでバスをとばす。夕闇の中に黄河がかろうじて見える。大きな河であることだけは、なんとなくわかる程度。
黄河の岸周辺には、数多くの水堀があった。そこで養魚しているとも聞く。橋は11メートルの幅しかなく、中央車線がなく、自転車も車道を走っているので、対抗車とすれ違うたびにはらはらのし通し。確かに運転には勇気がいる。
黄河見物でスタートは少し遅くなったが、洛陽の夕食は、スープをメインにした水席料理なるものを楽しむのだ。スープの種類はなんと16種、それ以外にも次々に料理が運ばれてくる。スープはそれぞれに味が異なっていて、それぞれにうまく、飽きない。最後の方には、甘いものまででてくる。中華料理の奥は限りなく広いことを実感する。
詩聖杜甫が飲んだという38度の酒「杜康酒」もうまい。老酒もうまい。ビールもうまい。満足大満足。
この店で「杜康酒」を土産に一本購入した。
泊:牡丹大酒店
2/27
午前中、まず訪れたのは関林、関帝廟である。
関帝廟については
(以下、小学館の Supernipponica2001による)中国、蜀漢(しよくかん)の英雄関羽(かんう)の神霊を祀(まつ)る廟。出生地の山西省解県はもとより、中国全地にある。ここもその一つ。関羽は勇将で、信義に厚く、また経書を好んだとされ、劉備(りゆうび)との盟約を達成しないまま非業(ひごう)の最期を遂げたので、人々はその怨霊(おんりょう)を鎮めるために廟を建てた。唐・宋(そう)以後の王室は関羽の義勇をたたえ、関寿亭侯(かんじゆていこう)、忠恵公、壮繆義勇武安英済王(そうびゆうぎゆうぶあんえいせいおう)、三界伏魔大帝神威遠鎮天尊関帝聖君(さんがいふくまたいていしんいえんちんてんそんかんていせいくん)としだいに称号が加わった。また、関羽は山西夫子(さんせいふし)とも協天(きようてん)大帝ともよばれる。のちに神格化され武神、伏魔神、財神(商業神)となり、結社、会館の守護神ともなった。 関帝廟には、関平と周倉とを従えた朱面美髯(びぜん)の関帝像があり、愛馬の赤兎(せきと)を置く所もある。〈原田正己〉 (C)小学館}
関羽が、いまもって国民的に人気のある英雄であることを知り、中国人の歴史感覚が、わたしの想像の及ばないものであることを思い知らされた。
洛陽市の南、13キロ、ゆったりと流れる伊河に沿って、龍門石窟がある。北魏の孝文帝によって、493年頃に開削が始まって以来、東魏、西魏、北斉、北周、随、唐、北宋と、歴代王朝が造営を引き継いで、400年の長きにわたって掘り続けられた。もっとも盛んだったのは、北魏と唐代で、龍門山と対岸の香山を合わせると、現存する石窟の数は、2345、碑文2800、仏塔40余、仏像は10万体に上る。
観光のピークには、一日5万人の観光客が訪れるという。駐車場も見渡すように広いが、この時期、ほんの数台のバスが駐車しているだけ。幸い、ゆっくり見物できた。押すな押すなのシーズンでは、あの石段の上り下りは大変に違いない。まして、人気の高い仏の前でゆうゆうと記念写 真を撮るなど、できないに違いない。
昼食はここでも、おいしかった。
街の中心部は、街路樹がよく整備されている。中央にポプラ、その外側に市の樹木でもある槐(えんじゅ)の木が植えられていた。
洛陽駅では、瑪瑙の碁石セットを買った。
西安市に戻って、夕食の火鍋は羊肉のしゃぶしゃぶである。たれは各自黒酢や、ゴマ油、ラー油などなど20種類もある調味料、香辛料をまぜて作る。おいしかった。
昼食
15:02 列車で西安へ
18:26 西安着
夕食:火鍋料理 泊:唐華賓館
2/28
唐の第六代皇帝玄宗皇帝が寵妃(ちょうひ)楊貴妃とともに冬を過ごした宮殿である。中国には珍しい温泉があり、楊貴妃専用の湯船なども発掘されて展示されている。
ほかに西安事件の舞台になった建物が保存されている。、
秦始皇帝(紀元前259年〜全210年)陵墓は、頂が平らな四方形の錐体で、本来の高さは115メートル。そこの周りは2000メートル。現在の高さは76メートル、底の周長は1390メートル。
兵馬俑は、秦始皇帝陵墓の中にある殉葬坑の一つ。1974年に井戸掘りの農夫により発見された。陵墓の東1.5キロメートルにある。これが、第1号兵馬俑坑(右軍歩兵、推定6000体)で、その後、第2号兵馬俑坑(1976年4月、左軍騎兵、推定1300体)、第3号俑坑(1976年5月、指揮部)が、発見された。全体で8000の兵馬俑が陪葬されていると推定されている。1979年には兵馬俑遺跡博物館が建てられ、そのドームの下で、現在まだ発掘作業が進められている。全貌が解明されるにはあと100年かかるという。
その規模の巨大さには、驚かされるが、陶俑の形象はそれぞれ異なっており、表情・態度が生き生きしていて、当時の彫塑芸術のレベルの高さに圧倒される。
午後は、西安市歴史博物館へ。ロビーを飾るこの獅子の石像の重さは10トンもあるという。
この博物館で国宝物の唐代壁画を多数見せてもらった。
この旅行最後の夕食は、宿泊した唐華賓館のレストランで。
前菜に出たクジャクの飾りはなかなか色彩が鮮やかであった。
女性二人のデュエットがBGMの演奏。中国の曲だけでなく、日本の曲の演奏も、多数演奏してくれた。
次々とおいしいごちそうが運び込まれ、テーブルの上に所狭しと並べられる。
土産に、ホテルのロビーで、絵文字で名前を書いてもらった。千円なり。
泊:唐華賓館
3/1
西安市文物保護所で、新しく発見された石碑から拓本を取っていた。発掘された古銭の塊も、無造作に屋外に放置してあった。
西安市文物保護所には、発見されたばかりで、まだ博物館に展示される前の貴重な文物がたくさんあった。陶磁器や青銅の酒器などを直接手に取って、触れさせてもらった(白い手袋をしてではあったが)。
西安市郊外総合市場には、食べ物から衣類電気製品のたぐいまでそれこそ何でもありだった。そこで買ったのは唐辛子の粉。帰国後これでラー油を作った。それに山椒の種を買ってきたがまだ、使い方がわからず、そのままになっている。
秦の始皇帝から80年後の漢の景帝の陵である。地上32メートル。博物館(漢陽陵考古陳列館)には、発掘された副葬品が展示されているが、人体から牛馬猫犬豚の家畜家禽類から財布の中の銅貨まですべて正確な三分の一に縮尺された形で作られているのだ。しかも、これもほんの少しだけ発掘されたに過ぎない。
今も、兵馬俑の発掘が進められている。その現場を見たが、しかかりのものが無数にあるし、しかも盗掘の跡もある。
当時のGDPの三分の一をかけたという陵の規模は、想像を絶するものだ。ここだけでも、発掘に何年かかるか想像もできない。中国の時空のスケールの大きさは、とにかく想像を絶する。
そこを出ると、空港までのどかな風景が続く。
飛行場近くで最後の中華料理の昼食。
実によく食べ、飲んだ。
15:25西安発
北京に帰る市川君や案内役の王さんと別れて、全員元気で離陸。
21:26 成田空港着