2009/9/5新設  

ウズ社会論のためのメモワール・引用・データ

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ウズ社会(阿部毅一郎) 教育(平田オリザ) 空気(週刊東洋経済) 空気とウズ(阿部毅一郎)
空気を乱す(宮本常一) 空気を読む(香山リカ) 手締め(阿部毅一郎) フェイスツーファイスのコミュニケーション(阿部毅一郎)
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2 1997/7/20
 
ウズ社会 うずしゃかい 阿部毅一郎 政府刊行物新聞1997/7/20  「気」の渦巻く「ウズ社会」 
  
最近判決の出た三越の岡田元社長ではないが、企業のトップであろうと、組織がら浮上ってしまうと、取締役会で突然解任されることにさえなりかねない。組織から浮上ったら最後、完全に「干されて」しまい、事案上組織から排除される。この「浮上る」とか「干す」という言葉は気安くつかわれているが、ここに日本人の組織観が集約されている。 
 
ウズ社会 
 
浮上るとは組織の要請から逸脱し、組織の他の成員との精神的な紐帯が切れてしまう意味だが、このことは、日本人は組織というものを、求心力を失うとそこから浮上ってしまいかねない、ある種の流体としてとらえていることを示している。流体の浮上に逆らって浮上らせない力を持つものは、渦である。とすると日本の組織も流体の渦であり、成員は普通その渦に巻込まれてその底部に吸寄せられているが、組織の他の成員とうまくいかなくなると、その渦の吸引力から解き放たれて、浮び上がってしまうものらしい。 
 
ところで、その流体とは何だろう。どうも「気」といわれるものがそれらしい。日本の組織はこの「気」という流体の渦としてとらえられうるようなのであって、組織の成員は、この渦に一度巻込まれると、他の成員と「気」を合わせようと、「気」を遣い、「気」を配り、「気」を回し、「気」を通じ、「気」を構える。そこに、「気」の渦が生じ、その結果、渦の中心へ向かう求心力が生じる。この様な逆円錐形に似た渦状の構造を持つという意味で、日本型の組織を「ウズ社会」と名付けよう。 
 
日本の組織はほとんど例外なくウズ社会であり、その成員をその中心底部へ向かって吸引する。 
 
日本人は小さい時から、「気をつけ」「前に習え」と気を合わせるように仕付けられている。だから組織に入ると、大した抵抗感なく各成員は他の成員へ気を合せようと、気を遣い、気構え、それによってその吸心力に感応する。ところが、もともとそういう気構えを欠く人がいる。それが、一匹狼とか変人・はみだしものといった称号を奉られる一群の異端者であって、ウズ社会では「干される」。外国人を外人と呼ぶのもこの文脈だ。つまり、気を合せようとするかどうかで同質か異質かを嗅きわけ、異質なものは排除するメカニズムが、このウズ社会には組込まれており、これが閉鎖性の根源である。 
 
「気」の支配 
 
こうして日本人は、一度組織入ると組織から浮び上がらないように気を遣い、上司・同僚から気が利くとして気に入られるように努める。遅くまで残業もし、有給休暇もとらず、付合い・接待に明暮れる生活も我慢する。渦の求心力の源泉を成す中枢部(組織のトップ連)への接近を図り、出世しようとして、その組織の伝統的な「気風」に染まり、たとえ上司の気紛れであってもそれに合わせる。 
 
およそ人聞の気という極めて変わりやすいものに合せることを旨とするため、このウズ社会では契約会社と異なり、原則とかルールはあってなきに等しく、その場の「空気」が変わればすぐにでも渦の流れが変わる危うさがある。 
 
気が絶対権力を持つこの社会では、個人の能力・業績よりも、むしろ気を合わせる要領の良さ、組織の「気風」に抵抗なく合せうる気質、渦を自ら巻きおこす気質、気力が尊重される。 
 
 
肩書は他でもない、個性を捨て、「気」に殉じた人への勲章なのだ。気を合せることを通じてウズ社会の成員は同質化・一体化していき、他のウズ社会の成員とは、その意味で気を合せることが出来なくなっていく。これが組織間の縄張り争いや、セクショナリズムの源泉だ。こうして、四六時中気を配っていなけれぱならないために気疲れし、気がおかしくなる人も出てくる。これが中高年に自殺の多い所以でもある。とにかく一生気に振回され、やっと定年退職すると、長年の気苦労でポックリいく人も惚けてしまう人も多い。 
 
 
3 6/16/2009 「山県有朋」伊藤之雄著p.13 文春新書684 …山県小助(山県有朋)が人材である。…山県には「気」がある。」(吉田松陰の山県有朋評)松陰がほめた「気」とは、大きな目的のために自らを犠牲にすることを恐れない気力のことであろう。松陰は二十歳の山県にこの「気」を見たのである。山県も松陰の気持ちに応じ、生涯松陰を尊敬し続けた。
4 4/30/2009 教育 きょういく 平田オリザ 朝日新聞090429「オピニオン」 「産業構造が大きく変わったにもかかわらず、日本の教育制度は工業立国のスタイルのままではないか。上司の言うことを聞いて黙々と働く産業戦士だけを育てるような教育を続けていては、この問題はどこまでいっても解決しない。派遣村の問題は、だから根本的には、コミュニケーション教育を放棄してきた教育行政の失政であり、その失敗のつけを、個々人が払わされる由縁はない。製造業に従事していた方たちがコミュニケーションが苦手なのは、まったく本人たちの責任ではない。そしてそれ故、私は、少なくとも中高年の製造業従事者に関しては、保護政策として労働者派遣法を適用すべきではないと考える。」
5 9/16/2007 「空気」 くうき 週刊東洋経済1995.3.18   『日本の企業は、不思議なことに、投資案件などdプロジェクトについて、一度やろうという「空気」ができると、引き返さないという習性がある。』p.19 
「日本の企業の特色は、トップが明確に意思決定をして、それを表明したわけではないのに、社内の「空気」で一度「大方針」が出てしまうと、それに個人は逆らえない」同上p.20 
「会社の方針が「買え」だと、失敗すると内心は分かっていても、走るのが日本のサラリーマンだ。会社の方針に逆らって、買わないで、損を免れたとしても、誰も評価してくれない。皆と一緒にみこしをかついでいれば、たとえみこしが転んだとしても、個人の立場は安全だ。」p.20 
 
6 9/16/2007 「空気」と「ウズ」は強制力を伴うという点で異なる くうきとうず 阿部毅一郎記   「空気」や「雰囲気」「ムード」として、そこはかとなく漂っているものではなく、ウズをなして組織への束縛する力のあるものとして気のウズをとらえるところに私の新機軸を出した。 
 組織の成員としての同質化を激しく迫るもの、ウズの持つ強い求心力で中へ引き寄せる力を持つものとして、とらえる。 
 「空気の支配」というより、「気のウズの支配」があるのだ。社会の空気を読んで、多数派当てや、有利な就職先をさがす段階では、従来の気楽さがあるが、一旦、組織の中に入ってしまうと、その組織の持つウズの中に取り込まれることであり、「空気を読む」などののんきなことではすまされず、気の流れに合わせ、逆らわぬように努め、必死に浮き上がらないように努めなければ、ウズの外に出されてしまうのだ。ここに私の言う「ウズ」と「空気」の根本的な差があることをまず指摘しておきたい。 

7 9/16/2007 「空気を乱す くうきをみだす 「忘れられた日本人」宮本常一 岩波文庫 p.40)   さて私がそうしたお堂の寄りあいに出あった数はそれほど多くはない。通りあわせてみても他所者である私が、そこに加わる事は空気を乱すような気がして差控えた場合がすくなくない。」
8 9/16/2007 「空気を読む」 くうきをよむ 香山リカ「若者」 週刊ダイヤモンド 2006.12.30 p.133   「最近の若者たちの流行語に、「空気を読む」というのがある。これもまた、大切なのは思っていることをはっきり言うことではなく、場の雰囲気をつかみ、それに合わせて発言することだという彼らの信念の表れである。 
 多数派当てや空気を読むゲームは失敗したらどうなるのだろう。そこで少数派となった途端、「あいつはダメだ」「浮いている」というレッテルを貼られ、集団から排除されるという道が待っている。」 

9 10/7/2007 手締め てじめ 阿部毅一郎記   私が、自分が最も日本人だなと思うのは、「手締め」の時である。場のリーダーが、「お手を拝借」といいながら、両手を左右に開く。私も周りの人も同様に左右にさっと手を開く。リーダーは、「ヨーイ」とかけ声もろとも思い切り手を叩く。私も周りの人もリーダーに合わせて思い切り手を叩く。 
「パシッ!」 
これは、もちろん全員の手を叩いた音だ。まるで一人の人が叩いたように、一瞬の乱れも無く、物の見事に決まる。そこに、何人いようと、関係ない。いつも、一糸の乱れもなくピシッと決まる。決まるとすきっとする。周りの人もすっきりした顔をする。 
こんな風習が他国にもあるか知らないが、日本人ほど、うまく決められる民族はそれほど多くないように思う。というのも、日本人は、生まれたときから、お互いに気を合わせて物事を一緒にやる訓練を受け続け、大人になるときには、こうした文化を十分身につけているからである。 
いや、逆に言えば、こうした文化を十分身に付けていないと、日本人としての適格性を疑われることになる。手締めで、ワンテンポ遅れるようだと、周りの人の、厳しい非難の視線を浴びることになる。 
私には、周りの人と気を合わせるということが、日本人の基本気質を形成しているように思える。その意味で、日本文化を「気の文化」と名付けてもいいだろう。「木の国」というが、日本は「気の国」でもある。 

10 5/16/2007 フェイス・ツー・フェイスのコミュニケーション ふぇいすつー 阿部毅一郎記   「フューチャリスト宣言」の中で(p.60^)著者の梅田望夫田はメールで代行できないか実験している。 

阿部毅一郎記(2007/5/16)  
フェイス・ツー・フェイスのコミュニケーションが重視され、出張してコミュニケーションを図り、電話やメールで代行するさえしない。それは、同じ”気”のウズの中に入らなければ本当のコミュニケーションはできない(と考えている)からである。 

ウズ社会については、秋光翔著「文化としての日本的経営」中央経済社 1990 参照 
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