漱石が百年前「草枕」で書いた「汽車」を「通勤電車」に置き換えてみ ると漱石のすごさと、現在における、個性と自由のあぶなさがよくわかる。 | |
今朝も通勤電車のラッシュにもみくちゃになりながら事務所までたどり着いた。漱石が、1906年に執筆した「草枕」で「汽車程二十世紀の文明を代表する
ものはあるまい」として「汽車」について述べていることが、ちょうど100年後の通勤電車にぴったり当てはまるのだ。ちょっと、文中の「汽
車」を「二十一世紀の
通勤電車」に置き換えてみたがまったく違和感がない。
つい、最近も、「サービス残業」で指摘された会社の数が過去最高というニュースが報じられた。個
人の自由が定着するどころか、ますます踏み付けられるようになっていることを、このニュースが象徴している。 (漱石「草枕」から引用し、一部言葉を置き換え) 「愈(い
よいよ)現実世界へ引きずり出された。通勤電車(←汽車)の見えるところを現実社会と云ふ。通勤電車程二十一(←二十)世紀の文明を代表するものはあるま
い。何
百と云ふ人間を同じ箱へ詰めて轟と通る。情け容赦はない。詰め込まれた人間は皆同程度の速力で、同一の停車場(ステーション)へとまって、さうして同様に
電気(←
蒸気)の恩沢に浴さねばならぬ。人は通勤電車へ乗ると云ふ。余は積み込まれると云ふ。人は通勤電車で行くと云ふ。余は運搬されると云ふ。通勤電車程
個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によって此個性を踏み付け様とする。一人前
何坪何合かの地面を与へて、此地面のうちでは寝るとも起きるとも勝手にせよと云ふのが現今の文明である。同時に此何坪何合の周囲に鉄柵を設けて、これより
さきへは一歩も出てはならぬぞと威嚇(おど)かすのが現今の文明である。何坪何号のうちで自由を擅(ほしいまま)にしたものが、此鉄柵に噛み付いて咆哮し
て居る。文明は個人に自由を与へて虎の如く猛からしめたる後、之を檻穿の内に投げ込んで、天下の平和を維持しつつある。此平和は真の平和ではない。動物園
の虎が見物人を睨めて、寝転んで居ると同様な平和である。檻の鉄棒が一本でも抜けたらーー世は滅茶々々になる。第二の仏蘭西革命は此時に起こるであろう。
個人の革命は今既に日夜起こりつつある。北欧の偉人イプセンは此革命の起こるべき状態に就て具さに其例証を吾人に与へた。余は通勤電車の猛烈に、見界(み
さかひ)なく、凡ての人を貨物同様に心得て走る様を見る度に、客車のうちに閉じ籠められたる個人と、個人の個性に寸毫の注意をだに払わざる此鉄車とを比較
してーーー”あぶない、あぶない。気を付けなければあぶないと思ふ。現代の文明は此あぶないで鼻を衝かれる位充満している。おさき真闇(まっくら)に盲動
する通勤電車はあぶない標本の一つである。」
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