ところで、この小論の目的はこれら諸説の優劣を論ずるところにあるのではない。ここでは、日本式経営が日本経済の成功の有力な要因の一つであり、日本企業の強さのよりどころであることを指摘するだけにとどめ、むしろ、この日本式経営の存立を支えている、特殊日本的な企業と個人の関係に的をしぼって考察し、そこから八O年代における企業と個人の望ましい関係について、いささかなりとも有益な結
論を引き出してみたいのである。
さて、日本式経営の特徴としては、通常、終身雇用制、年功序列制、ボトムアップの意志決定あるいは合意による意志決定、経営者と労働者の.平等主義等があげられる。これらは日本企業の強さの源泉をなすものとされるが、いずれも一つの同じ根に根ざしているといってよい。それは、我が国の社会が単一組織専制ともいうべき成人によって構成されているということだ。一家を支える成人男子のほとんどは、いったん就職すると、そこを定年退職するまで一生涯その一つの組織(ここ で組織とは、生計の糧を提供するものであれば、企業であれ大学であれ官庁であれすべて含む)にのみ所属し、複数の組織へ所属することは極めてまれである。これがいわゆる終身雇用制と、言われるものであるが、就職先を変えることがまれであるだけでなくそれ以外の経済外的組織(例えば教会、ボランタリー活動団体、政党等々)へ参加することも極めて少ないのである。
このような成人で構成される日本型の社会を今かりに単一組織専属型社会(以下A型社会という)と呼ぼう。これに対し転職がしばしば行なわれるのみならず、経済外的組織へも成人が気軽に参加するような欧米型の社会を複数組織所属型社会(以下B型社会という)と呼ぼう。
A型社会では、成人男子は何故生涯にわたり単一の組織(企業に就職した者にとってはその企業)にのみ専属するのであろうか。その場合、成人男子は、自ら望んでそうしているのであろうか。それとも、なんらかの社会的強 制力が働いてそうせざるをえないのであろうか。
以下、まずA型社会における企業と個人との関係について考察を加えることにより、このような疑問に答えていくとともに、日本式経営がA型社会を前提とした経営方式であり、A型社会そのものの存立を支える強い機能をも果
たしていることを明らかにしてゆこう。
宗教的機能に類似する企業意識
日本における企業と個人との関係の現象面をみると、両者の結びつきが非常に強いことに気づく。単に経済的動機に基づく関係を越えて、個人の私生活あるいは内面
生活にまで両者の結びつきが及んでいる。これはB型社会には見られぬ特徴で、B型社会においては、むしろ宗教と個人の結びつきがこの関係と類似している。そこでここでは、日本における企業と個人の結びつきを、宗教における宗派と個人との関係に見たてて、両者の類似性を明らかにすることにより、日本社会においては、企業がある種の宗教的機能を果
たしており、このため、企業と個人とが宗教的共同体と呼ぶにふさわしいほど 強く結びついていることを明らかにしよう。
〔終身雇用制]まず終身雇用制であるが、この制度の下では、一つの企業へ入社するという行為は、B型社会における入信のように生涯にわたってその宗教を選ぷのと同等の決意の下になされる。生涯にわたって選ぶチャンスはただ一回しかなく、選んだ以上中途で安易に抜け出すことはできず、企業側でも全くそれを予期しない。転職は、後述するように改宗と同等の困難さを伴うばかりか社会的にも様々な非難の対象とされる。
〔行動規範〕宗教は個人の道徳律の源泉となり、行動規範を与えるもの であるが、日本社会においては宗教の果
たす機能が弱いため、それに代わって企業が従業員に対し生計の糧のみならず行動規範をも提供する機能を果
たしている。もとより、集団が形成されれば集団自身が人間の行動を規定するようになるものであるが、日本においてはB型社会に比べ、個人に占める企業の比重が格段に大きいため、従業員は、人生いかに生くべきかというような面
まで企業によって教えられることが多いのである。作業には教義=戒律に比すべき様々の行動規範があってそれは生活の万般
に及んでいる。コーランや聖書のように成文化されていないものがほとんどで、それは空気や雰囲気としてそこらに漂っており、従業員は先輩の、言動や日常業務を通
してそれを感得せねばならない。
例えば、身なりや髪型一つにしても、その企業にふさわしいスタイルの範囲がおのずとあるのであって、それを逸脱すると上司に注意されたり同僚にたしなめられたりすることになる。企業の教義教育は新入社員研修から始まり、日常的な社員同士の接触、つきあい、上司の指導監督等様々な形で繰り返し行なわれるが、入社後少なくとも一〇年はかけないとその企糞の社員らしい一人前の企業内人間となるのは難
しいほどである。この教義教育は宗教教育にも比すべき厳格なものであって、その企業の教義の有権的解釈に反する解釈を従業員が勝手に行なうことは許されず、勝手に解釈するような従業員に対しては様々の手段で徹底的な再教育が施される。
こうして一〇年近い教義教育によって純粋培養され、その企業タイプの企業内人間が誕生するのである。この教育を通
して多くの場合、従業員は「角がとれ」、企業に対する反発心を火い、異彩や個性を喪失し、同質化する。いわば「会社そのもの」となるのである。
〔教義〕企業における教義は、慣習法的に形成されるものが多いが、その源流は教祖にも比すべき創業者や、教主にも比すべき歴代の社長から示されることも多い。創業者の履.歴書や遺訓は経巻と同等に扱われる。創業者や教主がゴルフやギャンブルを好まぬ
企業では、ゴルフやギャンブルをやる従業員は少ない。社.長の後継者としては、入社以来長期間にわたり、教義への恭順度という尺度で篩にかけられ、最後まで残った人物が選ばれる。
従って歴代の経営者は、企業の教義を一身に体得した使徒的人物なのであって、こうした使徒的人物が中心となって次々と同質の人物を再生産し、これによって企業の良き伝統、良き社風が守られていくのである。企業における勤務評価は、実績よりやっている態度で評価される面
が強く、同じ仕事をやるにしても企業の好むやり方でやるかどうか(例えば、協調的にやるか一匹狼的にやるか)によって差がつくのである。従って勤務評価は、従業員を各企業の教義へ恭順させる有力な武器となるのである。
このように各企業は独自の教義を持っているので、我が国には企業の数と同数の宗派があると考えてよいほどである。これがセクショナリズムの源泉でもあり、過当競争の原因でもある。異なった企業に属する人と人とは、相互に異教徒に等しいのであるからその間の交流は難しく、また合併企業がうまくいかないのも、全く教義の異なる宗派間の合併のようなものであるからむしろ当然のことと言うわなければならない
[合意形成〕企業における各種の決定が、参加者全員の合意の下に行なわれるのも(時にはそうした擬制がとられるのも)宗教が教条に対する全信徒の絶対的恭順を求め、教義に対して常に全員の合意を取りつけるのとなんら変わらない。企業における全員一致の合意形成プロセスあるいはボトムアップの意志決定プロセスは一種の祭礼に近い宗教的儀式に比すべきものであり、これこそ企業の宗教的団結の核心をなすものなのである。合意は、企業の教義の全体から自然に流露してくるものであって、それを体した部下の起案や発言であれば、上司であろうとあえて異議を唱えるのは難しいのである。
また上司にしても、純粋培養された同質の企業内人間であり、日常的に私生活の面 をも含めてつきあいがあるので、部下の方でも上司の意向について、ほとんど誤ることなく推測できるのである。すなわち、このような意志決定方式は、日本企業のように上から下まで極めて同質の成員で構成されている組織で初めて存在可能な方式なのである。
〔平等主義〕また、給与面や待遇面における経営者と従業員の平等主義と言われるものも、このように両者が全く同質で同じ企業内訓練で養成されており、欧米のように経営管理能力を買われて最初から経営者として雇用されるものはでなく、両者を分かつのが単に年功のみであることに由来する。また平等主義の教義の発生のゆえんは、実績より姿勢や精神のあり方を重んずる風土とも無縁ではない。一緒にナッパ服を着て働く上司や大して給与の差もないのに粉骨酔心する上司のイメージは常にプラスイメージとして定着している。そのような上司にならついて行きたいというのが日本人の心情でもある。
日本人にとって理想的な課長像は、時には無理な仕事も押しつけるが仕事以外で人の面
倒をよくみる課長に定着しており、無理な仕事はさせないが仕事以外では人の面倒をみない課長ははなはだ不人気らしい。このことが示すように、管理者は仕事の管理をするだけでなく、従業員と同じレベルにあって同じ釜の飯を食い、日常的に接触し私的な悩みごとの相談にも応ずるなど、従業員の私生活の面
でも面倒をみることが期待されているのである。
[年功序列制〕日本の企業に年功序列制が存するのも、企業が覚に経済的活動体にとどまらず、前述のように様々の教義をマスターする、いわば企業道とも言うべき道の修練の場所でもあることと関連しており、宗教的ヒエラルキー同様、企業に対する帰属度、教義の修得度、教義に対する帰依度等によって給料体系にも等級格差がつけられるのである。企業とはいいながら単に仕事ができるという経済的実力より、むしろいわぱ企業の教義に村する理解、その実践ともいうべき信教的実力が尊ばれ、一人前の企業内人間となるまではたとえどれほど経済的貢献をしようと、それだけで直ちに給料が上がることもないのである。
〔殉教〕企業がスキャンダルに巻き込まれると、いざ鎌倉とばかり従業員が一致団結して集団企業防衛を行なう。中には責任を一身にかぶって企業の不利益となることは一切黙したまま「企業は永遠なり」と遺書を残して自殺するような人物が登場するが、こうした行為はまさしく殉教そのものと言ってよく、企業がいわば信仰の対象となっていることを示している。企業の行動規範が、社会的行動規範より優先するのである。また海外や地方支局の駐在員も、同様の精神構造からいわぱ企業の宣教師として瘴癘の地にあっても自企業のため殉教覚悟で情熱的活動を行なうのである。
〔異端審判〕上述のような様々なメカニズムに支えられ、企業の結束の強さはまさに十字軍的であり、従業員の企業に対する忠誠心や愛社心には、信仰心と同等の強靱さがある。しかし、恭順しない者への強制力も宗教同様強力である。会業には様々の異端審判制度が設けられており、日常的な会議、同僚の歓送迎会への参加、残業、休暇のとり方等でさえ、その機能を果
たすことがまれではない。
このような踏み絵は実に様々なところに仕掛けられているので従業員は常に細心の注意を払ってそれを習得し対応せねばならない。それは教理問答に備える聖職者のようなものである。従業員は四六時中企業の従業員であることが求められており、退社後といえども企業の教義から自由になるわけにはいかない。これは教会にいる間だけ信徒であるわけにはいかないのと同様であって、企業の教義は従業員の内面
をも規制し、従業員は退社後も、自らその企業の社員らしくふるまおうと意識するのみならず、同僚、上司の目を絶えず意識して行動する。
日本人が集団行動するのは、一説には日本人の自我の形成が弱いため集団で行動する傾向を持つとされるが、むしろ日本では企業=集団の規制力が強く、このように内面
まで企業内人間であることが要求され、厳しい相互監視が行なわれているので、たとえ退社後といえども一人歩きには危険や不安が伴うからだといえよう。少なくとも会社の上司や同僚と行動し、相手のすることと同じことをしているかぎりは企業の教義に反するおそれはなく安心感がある。一人で勝手に妙なことをやったり、企業外の組織へ加わったりして、教義にもとるとされ、異端視されては困るのである。集団行動は、一種の相互安全保障条約を結んでいるようなものなのであって、相互に教義にそむいていないことを確認しながら行動しうる最も安直かつ精神衛生上も好ましい行動形態なのである。
以上述べたように、日本式経営は同質的成員を前提とした経営方式なのであって、そのため従業員を同質化し企業内の結束を強める強い力を持つが、このことが逆に企業を社会から閉ざされた組織にし、従業員の目をもっぱら企業内にのみ向けさせ、他の社会や組織に対して無関心な島国的、井の中の蛙的人物を生み出し、宗教の排他性にも通
ずる同質でない者を排除するメカニズムの温床となり、いわゆる〃外人"に対する差別
意識や自己本位の精神構造を醸成する土壌ともなっている。
これまで、我が国においては企業が宗教の代替的機能を果
たし、企業と個人の関係が宗派と個人の関係に類似した側面を多く持っていることを明らかにしてきたが、それは前述のように我が国の社会が単一組織に終身専属する形で一生を送る成人男子によって構成されていること、裏返して言えば単一の組織が成人男子を一生涯にわたりその組織にほとんど一〇〇%帰属させ、それ以外の組織へは所属させぬ
強い規制力を持っていることに起因している。一方、欧米諸国においては、転職が普通
であるばかりでなく、各成人は、宗教活動、ボランタリー活動、地域のクラブヘの参画等他の組織への加入も日常的に行なっている(企業自身も自治会へ入るなど地域社会へ貢献する)。
日本型企業がもたらすもの
日本において転職がまれなのは、前述のようにこれが改宗と同じ意味を持つからである。諸外国においても改宗となるとなかなか難しく、事実上禁止されているに等しい。転職した従業員は、それまで身に付けた教義を払拭した上で転職先の教義を全く一から学び直す必要があるが、一度他宗に染まった転職者が純粋に転職先の信徒となりきるのは至難とみなされる(日本企業が新卒者を好むのも一度他社の垢がつくと純粋培養が困難と考えるからで、このため新卒者は商品価値の減じない生涯一度のチャンスを生かすべく激しい就職戦争を繰り広げることになる。また就職に失敗した学生は留年という形で自衛策を講ずるのである)。
こうして日本のようなシステムの社会では、事実上転職は不可能となる。もちろん職業選択の自由はあるので転職できないわけではないが、就職後日の浅い転職や、極めて専門性の商い職種の転職でもないかぎり、転職者にとって転職がプラスになることはまれである。年功序列制の下での転職は文字通
りこれまでの年功を零にするに等しい行為なのであり、経済的にもかなりマイナスとなる(年功序列式の給与はいわば生涯賃金システムなのであるから、一ヵ所で長く勤めず次々と転職すれば生涯賃金は終身雇用者に比べ相当格差が生ずる)。のみならず、辞めた企業からは恩知らずの裏切り者と非難され、転職先ではよそ者扱いされ順調に出世することはまず難しくなる。
こうして終身雇用制、年功序列制の下では、労働者は一度就職したが最後、その企業や自分の仕事を好むと好まざるとにかかわらず、生涯そこで働くことが運命づけられる。再就職が極めて難しく不利なため、現在の職を失わないように従業員は企業に対し、前述のような信徒にも近い忠誠を尽くさざるをえないのである(最近のアンケート調査によると、エリートサラリーマンの約四〇%は転職を考えいるという。.このことは潜在的転職希望者が意外と多いことを示している。しかしこのうち実際に転職に踏み切れる人はごくわずかである)。
また、ある企業内で一度異端視されるとその企業内での信頼を回復することは極めて難しく、栄達の道が閉ざされるばかりか、正常な会社社会全体から異端とされ落後するに等しいのであるから、従業員は常に細心の注意を払って各種の異端審判に耐えようと努めるのである。
このようにして、個人が一企業に専属し、その他の組織には全く属さないまま定年を迎える制度が確立していくと、従業員にとっては企業のみが自分の全社会となり、企業は逆に、B型社会においては様々の組織が分担している機能を一身に備えた擬似社会化の傾向を帯びる(先に述べた宗教的機能をも含めて)。
例えば海外から日本企業の視察に来た人が驚くことの中に、各企業が極めて多方面
にわたって各種の施設や制度を整備していることがある。社宅、診療所、保養所、売店等の福利厚生施設、各種のレクリエーション・趣味・スポーツ施設、諸種のお稽古事のクラブ、持ち家のための融資制度、結婚・育児手当、朝礼での社歌の斉唱、社員ぐるみの旅行等々、まさに百花綾乱、そのアイデアの豊富さに驚くほどで各企業がそれぞれ趣好をこらした各種の企画を実施している。いわば企業は入社から定年までの生活上の物心両面
の必要物と機能とを提供する総合システム化する傾向を有している。
このいわば大家族主義的な総合機能を有する企業にすべてを委ねて依存しているかぎり、従業員の一生は安泰で保障されることになるのである。この安心感が従業員の愛社精神の源泉となり、いわば己れを捨てて企業に奉仕する精神を醸成する土壌となっていることは否定できない。もちろん企業の持つこのような各種の機能の総合化は、企業の利益の最大化の動機の下になされるのであるから、単に従業員にメリットを与えるという目的だけでなされるわけでなく、先述の企業の有する様々な強制力と相まって、従業員管理のアメと鞭として機能することはいうまでもない。
かくして各個人は、いわば私生活の.面まで企業に取り込まれる。我が国においては勤務時間外においても従業員意識が抜けないのみならず(むしろ、抜くわけにもいかないのみならず)、残業や退職後のつきあい(「縄のれんも仕事のうち」)等の時間が、個人の自由時間に土足で上がり込んでくる。個人の自由時間が企業の論理で自由に制約される。しかも、企業も個人もそのことをあまり意識しない。これは欧米において勤務時間(企業の拘束時間)と個人の自由時間とが対等の位
置におかれ、企業側の一方的意志でそれを制約できないのと対照的である。
日本においては、公的生活と私的生活の境があいまいで、前者が後者に安易に入り込む傾向が強い。しかもそれを非難しない風土がある。このことが逆に私的なことが公的なことに入り込みやすい風土の土壌ともなり、前述のように私的生活面
でさえ公的な面で面倒をみてもらう、公私が渾然一体化した日本独自の企業と個人の関係を作り出すこととなる。こうした土壌からまた企業が私物化されやすい傾向も生ずるのである。
これに対し欧米では、公的生活と私的生活が截然と分立しており、相互に入り込まない構造となっている。
こうして我が国においては、有能な従業員になればなるほど、私的生活が貧弱にならざるを得ないのである。中堅の有能な課長が、毎晩の残業のため子供と会えるのが日曜日だけであったり、ある電力会社の老社長の「(社長を)辞めたら何をするか考える余裕がない。考えるのは墓のことだけだよ。結局、自分の人生を振り返ってみると、仕事、仕事にかまけて私生活があまりに貧困だったんだな。仕事をとったらせいぜいゴルフしか残らん」とかいう述懐がその間の事情を物語っている。そしてこのような話は枚挙にいとまがないほどそこらに転がっている。
近年の我が円は経済的成功を第一の国家目標に掲げ、がむしゃらに突進してきたため、公的生活のみが肥大化し従業員の私生活はかなり貧弱化している。このため家族との人間関係や企業以外の場における社会的活動や、本人の知的生活が犠牲にされ、市民生活が危殆に瀕するに至っている。
画一化進む日本社会の前途
これまで述べてきたように、我が国の企業は従業員をコントロールする世界に冠たる絶妙なシステムを有している。日本式経営の極意は、企業による従業員の完全掌握にあるといってよく、これが日本経済の強さを支えてきた秘密でもある。従って今後の我が国経済は、かかる組織が崩壊しない限り、全く心配ないように思われる。しかし、果
たしてそうであろうか。ここでは、現在日本社会の画一化が急速に進みつつあり、これが、八○年代における我が国の国際化の進展、高年齢化社会の到来等の経済社会の変容と相まって、一見強靱とみえる日本的な企業と個人の結び付きにも変革を迫っており、これに対し的確な対応を誤るならば、日本経済の前途に決して楽観を許さないものがあることを指摘し、八○年代における望ましい会業と個人の関係について考察を進めよう。
我が国の現状を見るとくいい学校、いい企業、いいポスト(肩書)=幸福〉という全国民的規模の単純化された価値体系を軸として、子供の生活にしても大人の生活にしても驚くほど画一化が進んでいることがわかる。
小学生になれば、多くの子供たちは学校-家庭-塾という狭い枠の中で生活することとなる。そしてどの子供もほとんど例外なくいい大学、いい企業を目指して、いい成績を上げるべく、いわば学業専一の生活を始める(始めさせられる)。家庭では、子供がいい上級校へ進むという目的に対して全面
的にサポートする態勢がしかれ、子供の勉強中は親同士は声をひそめ、見たいテレビも見ないで協力する。子供は勉強しさえすれば、たいていのわがままは許される。一方学校では、全国共通
の厳格なカリキュラムの下で記憶中心の画一的な詰め込み教育が行なわれ、判断力や想像力の涵養、社会性の修得はさほど重視されない。
こうして試験で一点でも良い点を取り、いい学校、いい企業へ行くという目標へ向かって、気ままに遊ぴたいといったような子供らしい欲望を抑制しつつ(抑制させられて、あるいは抑制させられ続けているうちにそういう欲望も持たなくなって)学校-家庭-塾という枠外の世界をほとんど知らないまま学業を終える。小学校入学から大学卒業までの一六年間はいい企業へ就職するための万年受験生時代といってよく、まるで修道僧と呼ぶにふさわしい生活を送るのである。
かくして、雑多な知識だけは頭いっぱい詰まっているが、専門的知識には欠け、判断力や創造力には乏しい大勢順応的で欲望抑制型の働きバチ予備軍が多数世の中に生み出され、いい企業への就職を目指して、最後の関門である入社試験に挑戦するのであ6る。
さて、その結果願い通りのいい企業へ入れるかどうかは別
として、成人して企業へ就職すると、前述の通り単一組織へ生涯専属し、企業-家庭というはなはだ狭い枠の中で今度はいいポスト(=肩書=出世)を目指して、仕事専一(というより会社専一)の生活を始める。家庭では、夫なり父親なり息子なりが仕事に打ち込めるように全面
的にサポートする態勢がとられ、仕事のためなら帰宅がどんなに遅くなろうと、日曜出勤があろうと、結婚記念日や子供の誕生日のパーティがすっぼかされようと、家族はじっとがまんする。先にも見たとおり公用(仕事で表わされる会社)のためには、たいていの私用は従の位
置におかれる。成人男子は、仕事さえよくすればたいていのわがままや許される。そしてそれを許す家族あるいは妻が理想的とされ、内助の功があるとして賞賛される。
さて、定年となり「毎日が日曜日」で自由時間のたっぷりある生活こそ人間らしい充実した暮らしのできる絶好の時に見えて、実は唯一の生きがいであった仕事(あるいは会社生活、肩書)を奪われて呆然自失、遅まきながら仕事以外の生きがいを求めていろいろなものに手を出してみるものの、なかなか身につくまでには至らず精神的に充足されない余生を送る。
以上はあまりに日本人の一生を戯画化しすぎたかもしれない。しかし、放っておけば、日本人の大半がそこまで画一化されかねないのである。受験一本槍の学校生活が、働きバチを生み出す精神的土壌を形成し、単一組織専属型の生活がそれを完成品の域まで磨き上げる.。こうした現在のシステムが続くかぎり、決して安閑としていていいほど事態は楽観的ではないように思われるのである。そして、このシステムの背後には、〈いい学校・いい企業・いいホスト〔.肩書)=幸福〉という全国民的規模の単純化された人生観あるいは幸福観の体系があるといっていい。A型社会においては、労働者-国民の自己実現の場は、企業の場しかなく、その企業における成功のメルクマールは肩書以外にないのである。肩書こそ、全社会的かつ全人間的評価の最終的な象徴に他ならないのである。それ故にこそこの単純化された価値体系の回りに全国民が蛸集し、非常時さながら子供から大人まで「撃ちてし止まむ」の精神で受験戦争や経済戦争の一兵卒としてこの勲章(肩書)を求めて戦い続け、家庭=銃後は「欲しがりません勝つまでは」の精神で陰ながら戦士を支えつつじっと耐乏生活に耐えているのである。要するに先に述べた日本式経営はこのような価値体系をバックボーンとして存立しているのであり、逆にこのような価値体系の成立と定着化を日本式経営が推進してきたともいえるわけである。
国際化と高齢化への対応
日本においては家族関係が薄いと言われ、家庭は今や、各成員の所属する組織へ従属する形でしか存在しえなくなってしまっている。父親は、ひたすら企業の.原理で行動し、一方子供は学校の原理で行動する。家庭に残った主婦は、夫や子供が、そうした原理で行動しやすいようにサポートすることに専念する。これは主婦自身が、企業(あるいは学校)の原理に従属していることを示すものである。こうして主婦は、自らの生きがいを持たず、教育ママ化し、内助の功を発揮するためだけの存在と化すのである。
私生活の貧弱化は、成人男子の視野を狭くし、真の「遊び」の精神を喪失させ、知的生活、創造的生活を没却させ、地域コミュニティの崩壊をもたらすこととなった。本来一国の文化水準とは、国民一人一人の知的創造的活動の総和なのであって、それが次世代の文化の基盤となるのである。今日我々が享受している文化は(従って、今日の日本企業が享受し世界中に日本製品という形で輸出している文化も)、これまでの幾世代かの知的、創造的活動の所産なのであるが、現代の成人男子層には自由時間が少なくそのような活動が十分できないということになれば、これまでの文化を食い潰すだけとなり、次世代に残すべき文化遺産はおのずと減少せざるをえないことになる。
日本人は話題に乏しく、酒を飲む時も仕事(=職場)の話しかしないと言われる。これは前述したように単一組織(=企業)専属型の生き方をしていれば、むしろ当然の帰結なのであって何の不思議もない。自由時間ですら拘束されており、仕事に関連する社会以外の社会についてはほとんど知らないのだから、仕事ないし職場の話以外に話題にしようがないのである。
従って、外国人と話し合おうにも、彼らとはこのように全く生活体験が異なり、関心のありかが違っているので、なかなか共通
の話題が見つけにくいのである。やはり、本当に実のある会話をするためには、なんらかの共通
した生活体験、あるいはなんらかの共通する価値観が必要なのであって、そうして初めて他の国の人々の生きざまや物の見方が理解でき、共感を持って話し合えるのである。
今後我が国は、エネルギー問題一つにしても国際的対応を誤れば、直ちに国家的危機に直結するような危険性を抱えている。従ってこれからは、外国人と単に商売の話ができるだけでなく、一個の全的人間として、対等に共感をもってつき合える人材の養成が急務なのであり、そのことが我が国の総合的安全保障にとっても不可欠なのである。確かに語学のできる人材の養成も重要だが、それだけが国際人を育てるものではない。筆者の経験では、一番語学のできる日本人が、外国人とのパーティでポツンと孤立しているのを見たことがある。現在は、多様な価値観の存在を理解し、人間の多面
的な生き方に真に共感し、そのような生き方を自らも実践する人材、つまりかかる外国人と価値観を共有しうる人材の養成こそが重要なのである。従って企業は、自企業のことしか考えないような労働者の過剰な締めつけはやめ、このような国際的に通
用する人材の育ちうるような環境を作ることに努める必要がある。今後、若者が梅外に出て大いに活躍するのでなくては我が国の前途は暗い。若者がみんな市役所でのんびり働くことぱかり考えては困るし、考えるような社会であっても困る。我が国では老後が保障されていないことが、従業員を企業にのめりこませる原動力となっている面
がある。役員に出世できれば勤務年数が長くなるわけだし、たとえ定年で退職せざるをえないにしても、企業に気に入ってもらっておけば、企業が再就職の世話もしてくれようというものである。
しかし、いずれにしても、今後我が国社会の高年齢化が急速に進むことを考えれば、定年後や退職後に長い余生が待っているのであり、この期間を楽しく有意義に過ごせるような社会をいかにして形成するかが、労働者にとっても企業にとっても重要な課題となるのである。現在既にこの長い退職後の生活に適応できず問題となっているケースが見
られるが(定年後急速にボケたり、肩書を奪われてポックリいったりするようなケースがこれである)、そういう人は、現役時代は仕事専一で会社以外の社会を知ちなかった人が多いことに注意すべきである。.先の電力会社の老社長ではないが、私生活がなく、家族との心の通
った会話もなく、職場における人間関係以外にさしたる人間関係もなく、打ち込めるような趣味、知的活動、ライフワークとてなぐ、定年により突如唯一の生きがいである仕事や肩書を奪われた労働者は悲劇である。情緒不安定化し、あるいはたちまちボケてしまい、社会的に適応できぬ
老人が、今後の労働者の高年齢化に伴いますます大量に生み出されてくることが予想されるが、その対策に要する社会的コストは馬鹿にならぬ
であろうし、その負担は社会全体で支払わねぱなら ないのである。このような事態を回避するためにも、社会保障の充実だけでなく、老後の生きがいづくりに、労働者も企業も真剣に取り組む必要がある。
今後企業に望まれること
社会の画一化に歯止めをかけ、今後の我が国の国際化、高年齢化に適応するために企業が行なうべき第一歩は従業員の自由時間の確保にもっと関心を持ち、その確保ができるように助力を惜しまぬ
ことである。
自由時間あるいは余暇が直ちに人間をダメにしアイドルな労働者を作り上げるとする経営者も見られるが、これは正しくない。自由時間の不足は、長期的には労働者の質的レベルを落とし(肉体的疲労ともども)、企業にとってマイナスとなってはねかえってくる。企業はまず従業員を信頼することである。日本人は本来活動的で勤勉な民族なのであるから、むしろこの自由時間を利用してより豊かな社会を作り上げるように努力するに違いないのである。また自由時間を多く与えれば直ちに労働生産性が落ちることもないであろう。
そもそも、心身ともに十分リフレッシュして働けば、能率が上がる面があるだけでなく、第一次石油危機後の不況期には労働面
の減量を行ないながら生産性を引き上げ、石油不足に対しては、石油の使用原単位を引き下げながら労働生産性を引き上げた実績を持っている我が国経済のことである。本来まず最初に使用原単位
の引き下げを図るべきものがマンパワーだったはずである。その気になれば省マンパワーをしながら労働生産性を引き上げることもさして難しくないに違いないのである。
次に、増えた自由時間に個人が何をしようと全く自由であるとの原則を確立すること。退職後はもはや従業員ではなく、一個の独立した人格であることを認めることである。これまでの「会社のため」「仕事のため」という呪文から従業員を解放することである。かくして自由時間が、個人の生活の中で欧米のように勤務時間と対等の位
置づけを与えられるようになれば、個人はその自由時間を計画的に使うことができるようになり、知的・創造的活動に充てるようになるだろう。父親たちは家庭や地域社会へ帰ってゆくことができるようになるだろう。単なる仕事関係だけでない様々な人間関係の形成や、ボランタリー活動や公共的活動への参加も進むだろうし、妻子との対話が復活し、夫婦関係の円満化がもたらされ、青少年の非行化も減少するであろう。
かくして、現在のあまりに単純化された〈いい大学、いい企業、いいポスト(肩書)=幸福〉という一元的価値体系から解放され、多様な価値の存在に目ざめ、これまでの借り物的幸福観から各個人が独自の幸福観を持つに至り、現今の物的豊かさの中の生活の質的・文化的貧困や、異常な受験地獄からの脱却が徐々に進むことだろう。
このような変化は、当然のことながら単一組織専属型の社会の変容をうながし、日本式経営にも対応を迫ることとなろう。
企業は、そのような時代の到来に備え、これからはあまりに同質的な人物の採用や養成にばかり力を入れようとしないで、もっと異質な人材の育成に努める必要がある。勇気ある発言をする者には耳を傾け、少数意見を尊直.しなければならない。現在「二足のわらじ」型作家や「クロスオーバー型」の生き方をする人物が企業から生まれつつあるが、彼らはこれまでの単一組織専属型の従業員とは全く異質の、いわば脱単一組織専属型従業員のはしりともいうべき存在であるが、企業側でもこうした人物を排除することなく、むしろ積極的に評価し養成するほどの度量
がなければならない。このような多彩な異質の才能があってこそ会業は活性化し、非常時に強い組織となるのである。
およそ、一国の産業のレベルは、その国の国民の文化水準と極めて深くかかわり合っている。日本人は非常に勤勉で自助努力の精神に富む民族であるので、現在の少ない自由時間を利用して精一杯努力しているのだが、そのよ
うな努力にもおのずと限界がある。完全週休二日制がとられ長期休暇が普通の国と、週休二日制も完全には実施されておらず、夏休みも大企業においてすら四〜五日という国における私生活とではまさしく雲泥の差、質的な産があり、個人の努力だけではいかんと広しがたいのである。
今後の我が国が技術立国をめざし、高付加価値の多彩な文化商品を創造L輸出していく以外に生き残る道がないとすれば、それを生み出す創造性の豊かな多才な人材が多数必要なのであるし、またそのような多彩
な文化商品を享受しうる資質を持った国民がいなければならないのである。
そのためにも、単に自由時間の確保に意を用いるだけでなく日本式経営全般についてこの際総点検を行ない、いい面
は大いに伸ばす一方で行き過ぎと思われる点については率直に反省し、八○年代の企業と個人との関係をもっと実りあるものとするため努力していかねばならないのである。国民の一人一人が個人として生きがいのある一生を送れるか否かは、決して個人レベルでの問題なのではなく、その実現を保証しうるかどうかによって、企業ならびに国家のありようが問われなければならない重大問題なのである。
週刊東洋経済1980年12月6日号掲載(65〜74頁)
受賞のことば(阿部毅一郎)
ささやかな実践活動の証
大学を出てから仕事専一の生活を送り、長い問十分な自由時間を持てないでいると、創造的な作業に取り組もうとする意欲がしだいに失われてゆくものだ。私もその一人だが、仕事と直接関係のないテーマで、何かまとまったものを仕上げる作業をやらなくなって久しかった。
ところが一年前、私は東京から地方へ転勤になり、通勤時間がまるでかからない事情もあって、時間的なゆとりが持てるようになった。そこで何か創造的なことに取り組んでみたいと思っていた矢先、たまたま本誌の懸賞論文募集を知った。そのテーマが、かねてから私が関心を持っ
ていた日本の社会構造と関係深いものだったので、できばえは二の次にして、とにかく挑戦してみることにした。
先頃、優秀作入賞の知らせを受け全く入選など期待していなかっただけに、最初はややとまどいを覚えたが、時間がたつにつれて喜びが湧き上がってきた。
八○年代は、日本社会の国際化、高年齢化がいやおうなしに進展する時代である。その中で、日本経済発展の原動力となった日本式経営は、どのような対応を迫られているのだろうか。また企業と個人の望ましい関係はどうあるべきか。これらの点について、日頃私なりに考えていたことをまとめてみた。私はこの小論の中で、自由時間が増え、それを計画 的に使えば、日本人は本来活動的で勤勉な民族なのだから、その時間を創造的な活動に充てるべきだと主張した。
この入賞がささやかではあるにしても、私の実践の証として、また最初の成果として認めてもらえた意味で、いっそう嬉しくもなった。このような立派な賞をいただけたのだから、今後もこうした知的活動を続けていくためのインセンティブを与えられたものと思っている。(阿部毅一郎)
■略歴…昭和一五年長崎県主まれ。三八年東京大学法学部卒。同年通商産業省入省、現在、四国通
商産業局商工部長。趣味はテニス、囲碁。
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選考過程および審査委員長宮崎義一教授のコメント(ここをクリックしてください。)