僕の日記1952年
1952年7月21日月曜日 天気:晴れ
 

1952年7月21日月曜

国立公園雲仙へ

(雲仙に行く目的:毎年行われる講習を聞きに行く)

その1:バスに揺られて雲仙へ

 中学校に入って初めての通信簿をもらいに行った。

 帰ってから雲仙に行く準備をした。12時を少し時計の針が回ったころ榊原君と内田君が呼びに来たので一緒に出掛けた。荷物が大変重かった。一時、二小の生徒と一緒にバスに乗った。1番前に榊原君と座った。運転士は小森乙幸という名前だ。白い手袋はめた力強い手。するどく前方を見てハンドルを右に左に回しながらバスを操っている。ヘビのようにS字型に曲がりくねった道をバスは進む。路傍に青々木が繁る。緑の山緑の谷。はるか山の向こうの海上に天草の島々が浮かんでいる。道のわきに雲仙より何キロメートル島原より何キロメートルと書いてある。

 右手にゴルフ場が見えてきた。どこまでも続く緑の芝生。赤い3角の旗が立っている。人が小さく点々と見える。パスは雲仙の町に入った。道の両側りっぱな旅館や店がずらっと並んで立っている。バスは有明館という旅館の前に止まった。

 それから10分間歩く。この道ほど長く感じた道はない。荷物が重いし、日が照って汗がポロポロ出た。ようやくターザンの家に着いた。

その2:ターザンの家での生活

 僕たちは全員18名だから、6名ずつ3班版に分かれ、AのNo.1,AのNo.2、AのNO.3という家に各班ずつ泊まった。僕の班は一班でAのNo.1という家に泊まった。部屋の広さは3畳ぐらいだ。西と北に窓がある。窓と言ってもガラスのはまったものでなく、ちょうど木の板をドアのように取り付けて、それを上あるいは横に開けるようにしてある。

 このターザンの家を経営している榊屋旅館の人がござを持ってきてくださったので、板場に引いた。荷物は釘にかけるか、ボタンの上に置くかして一応を整理して、講習があるので出かけた。

 原子や地震について雲仙測候所長の北村先生の話があった。

 ターザンの家に帰って弁当を食べた。母の真心のこもった弁当は大変おいしかった。寝るとき自分自分毛布にくるまって寝ていたら、中川先生が「みんな一緒にして寝るように」とおっしゃったので敷き替えて毛布に潜り込んだ。ヒグラシというセミは夜にも「カナカナ」鳴いているので驚いた。

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