僕の日記1955年
1955年12月29日木曜日 天気: 起床:時分 就床:時0分
 

12月29日 「怒りの葡萄」完読(12月24日〜29日)

”怒りの葡萄”について

人間の二つのタイプを農夫的タイプから見た作品である。 30章からなるこの小説は、文の主流を偶数章にゆだねて、とうとうと流れる。奇数章には筋とは独立してその背景をなす社会的自然的地理的条件が描かれ、川の流れを必然づけ、方向を定める。

 偶数章は、多くの会話を含み、それも荒っぽい言葉ばかりである。そのために、ぐいぐいと迫力があり、理知的に書かれた奇数章がなんだか霞んだように感じる。

 まったくその文体は一語に「多彩」といってよいほど変化し、そのためその川の流れに巻き込まれてしまいそうだ。ー書を読め、書に読まれるなーとの戒告がまるで溺れかけたものが「あわてるな、まず、服を脱げ、そして体を柔らかくせよ」という警告を思い出す暇もないのと同じように。絶えず批判的に読もうとしたのにもかかわらず、巻き込まれてしまうほどのすごい渦なのだ。

 しかし、次のような戒告もあるー書中の世界に入ってゆくのには、いつも固く甲をつけてはならない。むしろ、読まれる時には読まれ、参る時には参り、酔う時には酔った方がよい。(少し安心する)

 ところで、作者についてまだ述べていない。自動車事故のジェームス・ジェーンが主演するところの「エデンの東」の原作者と同じジョン・スタインペックだ。アメリカの30年代の作家である。

 さて、小百科をめくってみよう。 [(1902〜)[米]作家。しばしば転職し、社会の現実を観察。無産階級に深い同情を抱く、<二十日鼠と人間>で文名を得、代表作<怒りの葡萄>によってピュリッツアー賞。写 実的描写の中に浪漫的傾向を示す]とある。この小説における無産階級は紛れもなく農民である。

   巻き込まれた私が感想を言えた義理ではないが、巻き込まれながら飲まされた泥水の味について語ろう。

  土地を失ったオクラホマの貧農家ジュード一家が資本主義的な企業形態に追われ、ついに住み慣れた土地を離れ二千哩に及ぶ行程を、山脈を越え、砂漠を横切り、小さな家と狭い土地を得るためにカルフォルニァに行く。ただ毛布と炊事道具だけを中古の自動車に積み込んで。

 しかし、その緑のカルフォルニァも決して彼らの天国ではなかった。そこはオキィキィと蔑称される20万の土地を追われた浮浪者で満ちていた。労働力の過剰に使用者の意のままの賃金で働かねばならない。しかし、それらに対する反感はすべて「赤」とされる。そして、更に強く迫害される。

 一人の大地主はこれら浮浪者を飢えさせる。本文中にあるようにー人々の眠りには失望の色があり、腹をへらした人たちの眠りには湧きあがる怒りがある。人々の魂のなかに怒りの葡萄が実りはじめ、それが次第に大きくなっていくー収穫の時を待ちつつ次第に大きくなっていく。ーというのがこの小説のあらすじである。

 このような悲惨きわまりない農民たちをジュード一家を中心にジュード一家を通 してスタインペックの鋭い眼が、筆致が、激しいアメリカの商業主義への反感を秘めながら淡々と無技巧に追っていくのだ。

 背景は日本文学には絶対見られない広々としたアメリカの大平原である。そこにうごめきひしめき合う小さな人間ー地主、警官、オキイ。すべてが生に渇仰している。しかし、彼らは確かに生きているのだ。そこには生がある。そして生命の起源から一度も絶えたことのない生命が脈打ち、生の維持の本能がある。

 この書に二人の地を踏みしめた農民がいる。小トム・ジュードと母親である。彼らはまったく素朴な憎めない人たちである。彼らの心理は、この書はいっさい触れないのだが、自分の心持ちをすぐさま口で言えるほどの心の持ち主なのだ。口でなくとも行動で表す。我々はその会話から十分に性格をくみ取ることが出来る(そこがスタインペックのうまいところなのかもしれないが)。この二人の男女はまったくどっかりと落ち着いている。

 ジュード一家ー祖父母、ジョン伯父、老トムとその妻、ノア、仮出獄したトム、ローザーシャーン、その夫コニイ、アル、ルーシィ、ウインフィールドおよび同行者である牧師あがりのキャシイ。

前へ           目次へ             次へ