| 島原市の鉄
砲町について |
| 出展 | 司馬遼太郎「街道をゆく17」島原・天草の諸
道 朝日新聞社 2005.6.30 から抜粋(頁75〜82) |
| 解説 | 私が、高卒まで育った町、島原市の鉄砲町(文 中にもある「新 建」(しんだち))についての、司馬遼太郎の記述を「街道をゆく17 島原・天草の諸道」から抜粋しました。 |
| 本文 | 日本中が、ゴミ箱をひっくりかえしたような無秩序な景色になってしまったために、他家の座敷へ押しかけて行って感心するのが、ここ十数年来の海外観光旅 行の一つの型になっている。 この点、国内でもかわらない。 京都、津和野、萩などといった自然と人工とを丹念に秩序づけた町やその郊外へ出かけてゆく。若い女性のファッショナブルな写真雑誌は、京格子と紅殻(べ んがら)の壁の前にモデルを立たせたり、竹の栽培林としては世界一うつくしい嵯峨野の藪の小みちを歩かせたりするが、同じレベルでヨーロッパの中世のにお いをもつ田園都市を舞台にする。 べつに懐古趣味ではない。 むしろ若い女性から先端的な景観としてとらえられている。というより、彼女たちの意識の底には、はんとうの文明のなかに自分を置いてみたいというねがい があるのかと思われる。どこかに、たとえそのかけらでも残されていないかと思い、北欧の町へ行ったり、京都の上賀茂神社の古い社家の町を小川ぞいに歩いた りする。 むろん、それらは偶然残っているのではなく、文明とは秩序美であるということを頭と体で知っている住民たちの意思と犠牲によって懸命に残されていると いっていい。 島原の町にも、そういう一郭がある。 鉄砲町である。夕闇のなかを西へ歩いてその町へ行ってみた。 旧城下町の西端にあり、屏風を立てたような眉山を背にして、緩傾斜の上にある。旧藩のころ徒士の居住区であった。 徒士というのは下士で、戦場では騎乗せず、家来をつれず、ただひとり徒歩で歩く。おなじ徒歩者でも足軽より上で、卒ではない。 士分(上士)と決定的にちがうのは、知行(領地)をもたないことである。従ってその俸給の高は石高ではかられず、扶持米ではかられる。扶持米とは藩主の米 蔵から給されるもので、こんにちの給料に近い。 士分は、建前として藩主の領地の一郎を分けられているから、藩主に御目見得する資格があるが、給料制の徒士にはない。 徒士は、かたまって住んでいる。江戸でいえば府外の八王子に集団的に住んでいたのが八王子千人同心、府内の青山では徒士の住む区域を百人町とよび、大久 保にも百人町というのがあった。徳川家では古くから徒士のことを、 「御小人(おこびと)」 ともよんでいた。べつに、御家人ともいう。 こんにち、萩などでも比較的上級の藩士の屋敷はのこっているが、城下の徒士階級の屋敷が、区劃ごとのこっているのは、島原の鉄砲町ぐらいのものではない か。 徒士の屋敷地は藩によってちがうが、均して七、八十坪、百坪といったところであろう。屋敷地は拝領地である。屋敷には、士分同様、門が付いてる。当然、 玄関がある。足軽の場合は平百姓同様、門や玄関はない。 二十数年前、この鉄砲町にきたときは真夏の昼の太陽が街衝(まち)ぜんたいを美しい茶色の色調に仕上げていて、通りの中央をながれる溝の清水だけが、白 銀色に光っていた。 いまは、銭苔のはえた石垣と石垣とのあいだから蝙蝠でもとびだしてきそうな刻限で、黄色い夕闇が、通りも溝も屋根も門もいっそううつくしいものにしてい る。 鉄砲町の街衛は、京都の町のように碁盤の目に区劃されている。また北近江の柳ケ瀬の町のように、通りの中央に溝が石組でもって堅牢につくられていて、山 清水がいきおいよく流されているのである。この水は眉山から滲み出してくるもので、むろん飲み水としで堪えうる。が、飲み水としては使われておらず、両側 の家々の米とぎ、野菜汰い、食器洗いなどにつかわれる。この翌日、たまたまこの鉄砲町出身の洗保雄氏が宿の帳場に見えた。洗さんは市の助役さんで、大正七 年うまれである。 「町では、あの溝のことを川とよんでいました」 と、いわれた。厳密には川ではなく、堂々たる上水道である。 水は上のほうの熊野神社の境内の湧水だという。夏は田へひくために、日中、断水する。夕方になると、いっせいに流される。いずれも、江戸期以来のことで ある。夏は砂ぼこりが立つために家々で打水をする。夕刻、水が流れてくると、家々から人がひしゃくを持ってそとに出るのである。 「町並の上のほうから順次人が出てきて水を打つのです」 一軒でも打水しない家があると、そこだけが白く砂ぼこりが立つため、打たざるをえない。不文律の秩序が強制する義務ではあるが、しかし義務感というほど 鋭角的な感じではなく、夏の一日のくらしのリズムのなかに組み入れられてしまっていて、風鈴の音やすだれごしの風と同様、真夏の景色になっていた。 「懐しい景色です」 と、洗さんはいった。 飲み水としては、井戸がつかわれていた。 「いい家にだけ井戸があるんです」 と、洗さんはいう。 よくきくと、鉄砲町は徒士ばかりではなく、石取りの士分の家もまじっていた。ざっと七十石以下の家だという。七十石でも石取りである以上、高等官であ る。おそらくそういう家に井戸があるのであろう。 町筋が七つあり、上から上新丁、下新丁、古丁、中ノ丁、下ノ丁、江戸丁、新建の七つで、これに鉄砲町の北西角の柏町の新屋敷を加え、六百九十戸あった。 「私の家は、中ノ丁でした。井戸がありませんので、男の子は朝起きるとバケツを天秤棒で荷なって井戸のある家へ水をもらいにゆき、水瓶に溜めるのが仕事 でした。一度に三回ほど往復しました。それがおわってから朝食を食べ、学校へゆくのです」 「鉄砲町の言葉は、町方とはすこしちがっていましたか」 「すこしちがいました。家中言葉と言いますか」 と、洗さんがいった。 鉄砲町の東西の通りを西へのぼって、古丁の角屋敷の角までくると、石垣の角にくぼみがつくられているのを見た。石を棚にして水仙の花が一束活けられてい る。 近づくと、水神に捧げる花らしく。花の横に香水を入れる茶碗も置かれている。この石垣の基部が溝になっていて清水が湧いているのである。 「飲料水」 と書かれた小さな札が石垣にぶらさがっていて、アルマイト製のひしゃくが、石垣のすきまにさしこまれていた。通行人のために、古丁の町内会が、この泉を提 供してくれているの だが、水神の石の古さからみて、江戸期以来の習慣であることがわかる。ひしゃくをとって、溝のなかの湧水を汲んで飲んでみると、味にまるみがあってじつ にうまかった。 「山本家」 という屋敷がある。 この家の当主の好意により島原市が借りうけて一般の見学に供している。 山本家はこんにちまで十一代つづいている。松平家三河吉田城主だったころから仕え、歴代のなかには砲術師範だった人もあり、藩の重職についた人もいた、 と立札に書かれている。石高は十七石二人扶持で、小藩だからこのくらいの石高でも当主の能力次第では重い職につくことができるのである。 道をゆくと、門内の縦覧をゆるされている家に、篠塚家というのがあった。 「屋敷由来」 という立札か出ている。 この屋敷に住んでいた人は、姓を篠塚と言い、代々順右衛門と称し、祖先は三河(愛知県)深溝である が、寛文九年(1669年)松平主殿頭松平忠房が丹波福知山五万石から七万石島原城主として移された時に従って来て、明治初期まで十一代、八石から十三石 二人扶持を給され、主として、郡方祐筆(書記)や代官などを勤めた。 屋敷坪数はこのあたりすべて三畝(九十坪)である。 |