音楽・ドラ マ・映画の部屋

iPodのある生活

(2003.8.8掲載)

 

 私の音楽生活は、iPod前とiPod後に大きく分けられる。 前に比べれば、後は大いに充実した。音楽との距離がぐっと狭まり、感覚的には 、いつでもどこでも音楽ありの 生活を送っているという感じさえするのだ。

  iPodになじみの無い人のために、ごく簡単にご紹介しておこう。 ポータブルの小型音楽プレーヤーで、昔のウォークマン、近年のCDプレイヤー、MDプレイヤーなどの系列の最先端を行くも のとお考えいただきたい。 ポータブルのCD・MDプレーヤーの類は、光録音方式のコンパクトディスクとい うメディアを使っている。この ディスク一枚は、640MB程度の容量で、70分程度の曲しか収録でき ない。それに引き換え、パソコンメーカーのアップルが売り出したiPodは、記録媒体にHDD(ハードディスク)を使っているので、容量がギガバイト単位 なのだ。HDDは、近年のパソコンの大容量化を支えたデジタル記録用の機器で、アクセスが速く、エラーが少ないので、音楽の長時間収録に向いている。

  私は、昨年11月に20ギガのiPodを購入した。当時最大容量モデルで、宣伝文句では、4000曲収録可能ということになっていた。これなら、私のCD から全曲収録できるかも知れないと思ったのだ。今年に なって30ギガ、7000曲収録可能というのも売り出され た。その他に、発売当初からの5ギガ、10ギガというモデルもあったが、現在の布陣は、10,15,30ギガということになっている。

 購入後、寸暇を見つけてはせっせと、私の持っているCDから、このiPodに、曲を移し始め た。ところが、3482曲収録したところで、満杯になってしまった。持っているCDの全てを収録し ようと言うもくろみは残念ながら 達成できなかったが、自分が買い集めた、好きな作曲者の、好きな演奏家の、好きな曲の収録されているCDの相 当部分を収録することが出来 た。収録後、 毎日のように持ち歩いて聞いているが、自分の聞きたい曲のほとんどを携行しているわけだから、こたえられない。ただ、半年たった今でも、まだ、全曲聞き終 わ っていない。一口に3482曲と言うが、半端な数ではないのだ。

  このiPodは、61.8mm×103.5mm×20.0mmで、 240グラムの筐体(新シリーズはもっと軽く、158〜176グラム)だが、その胸ポケットにも入る小さな容積に、最先端の技術とアイデアが詰め込まれて おり、驚くほど多く の楽曲を収納 できるのだ。個人用のテープレコーダーの登場にも驚いた世代としては、隔世の感がある。

 私は、生来音楽 好きで、勉強しながらも音楽を聴いた典型的なながら族だから、携帯できるプレイヤーの類はすべてこれまで試してきた。

 20代には、ソニーの開発した小型テープレコー ダーを肩から下げて聞いた。テープはまだオ ープンリールだったので、A5版のノートパソコンより大きかった。やがて、カセットテープ時代に移り、プレイヤーもぐっと小型化する。1979年には、あ のウォークマンが登場する。

 ウォークマンを初めて聞いたときの驚きを今も覚えている。音楽が鳴り出したとき、本当になん だこれは 、と叫ばすにはおられなかっ た。それほど音質の良い、画期的なメディアの登場だった。もちろん、早速購入した 。ウォークマン用にFM放送を録音したカセットテープの一大コレクションが今も残っている。

 その後、CDが登場したので 、携帯用のCDプレーヤーも買った。MDのレコーダーも買った。しかし、CDやMD一 枚では、70分程度しか演奏で きないので、プレーヤーと一緒に、ディスクも持ち歩かなければならず、聞き終わるとディスクを入れ直さなければならない。そのうち面倒臭くなって、次第に ポータブル機器から遠ざかってしまっていた。そこへiPodが登場したのである。

 調べてみると、ぐっと小型で軽く携帯性に優れているうえに、収録能力がこれまでのものと比較 にならないほどすごい。試聴し てみると、音もいい。とにかく、イヤホーンが良くなっているのだ。下手なステレオは敵わない。このイヤホーンの音のよさに気づかせてくれたのは、「音をた のしむ」(岩波アクティブ新書)だが、購入後自分で、コンサートホール(紀尾井ホール)にiPodを持ち込み、生の音と聴き比べ、それほど遜色がないこと を確かめてみた。フルオーケストラを目の前に聴くような大音量で聴いても音が割れない。

  操作もしやすい。しかも、20ギガの大容量だ。こんな優れものを見逃すわけにはいかない、またプレイヤーの携帯を再開しようと思い、買い込んだというわけ だ。

 iPodに曲を収録するには、まずCDからパソコンに移し、それをMP3という規格で iPodに移すのだが、それを管理するiTunesという ソフトが優れている。CDからパソコンに楽曲を移すのも簡単だが、移した後、iPodをパソコンにつなぐだけで、自動的に iPodの楽曲とプレイリストを常に最近の状態に保つことができる。しかも、同時に、プレイリスト、ブラウズ(アーティスト、アルバム、曲、ジャンル、 作曲者別)のリストを作ってくれるので、タッチセンサー方式のスクロールホイルで、容易に選曲ができる。ただ、3482曲も収録していると、狙いの曲に到 達 するためには、少々の時間と馴れとこつとを要する。ただ、毎日のように持ち歩いて聞いているうち、どの曲にはどうアプローチしたが良いか、次第に分かって くる。

 3482の曲は、ナンバリングされて収まっている。どういうメカニズムでナンバリングされた のかは不明だが、その最初に出てくる曲は、アンネ=ゾフィー・ムターの演奏する ベートーベンのバイオリン・ソナタNo.9クロイツェルである。だから、選曲せずにプレイボタンを押すとこの 曲が鳴り響き出す。大好きな曲だし、好きな演奏家の曲なのでもう何度も聞いた。聞く度に名曲・名演だなあと思う。ナンバー10位までは、ベートーベンのバ イオリン・ソナタで、しかも、第1楽章だけずっと並んでいる。11番目にドボルザークのチェロ協奏曲が顔を出す。

 IPodは、小さく携帯に便利だからどこへでも持って行ける。聞く場所と時を選ばない。だか ら、新しい音楽の愉しみ方を開発した。出勤の行 き帰りはいうに及ばす、散歩、ドライブ、旅行、出張、テニスコート、スキー場。早朝であれ深夜であれ、機上であれ船上であれ、ベッドの中であれトイレの中 であれ、一向に構わない。ボタンを押すだけで、自分だけ の、音楽空間にとっぷりと浸れるのだ。もちろん、他の聞き手と共感はできない欠点はあるが、本当に音楽と個人的に付き合っているという感じこそ捨て難い。 作 曲者、演奏家とインティメートな感覚を共有しているというか、自分だけが作曲者、演奏家が言わんとしているその曲の神髄を個人的に伝授されているような感 じさえしてくる。場所と時間と自由に組み合わせ、他の誰もがしたことのない聴き方をして、その曲の、知られざる良さを発見しているような感覚を味わうこと もある。

 ついでながら、室内では、ステレオプレイヤーにつなぎなおせば、スピーカーで聴くこともでき る。デジタル録音なので、オリジナルのCDの音と変わ らないうえ、ディスクを入れ替える手間がかからない。

 映画と音楽の相性は抜群で、「第三の男」の最後のシーンのように名場面は、うつくしい音楽と 共に記憶に残っているものだが、訪れた名所旧跡と相性 のいい音楽を選ぶと、それと同じような効果が出てくる。名跡が、その時聴いた楽曲と共によみがえってくるのだ。

 今年2月の中国旅行の際、桂林で墨絵の世 界そのもののり江下りを楽しみながら、ショパンのノクターンを聴いた。景色と重ね合わせて是非とも聴いてみたいと思い携行して、夢が叶ったのだ。 実に 良かった。ショパンのノクターンは、蓼科のイングリッシュ・ガーデンにも良く似合った。

墨絵の世界そのもののり江(2003・2・20撮影)

 ショパンのピアノ曲は、どんな風景の場所で聴いても、その美しさを引き出すように思える。名 曲とは、多くのシチュエーションによく合う曲と言うこともできる。どんなシチュエーションで聴いても心に染みる曲と定義しても良い。いい音楽には、美しい ものをさらに美しく見させる力が、潜んでいる。心が豊かに新鮮にさせられるせいかも知れない。

  支笏湖の畔で樽前山を仰ぎながら、ニッコウキスゲの咲き乱れる車山高原を歩きながら、上五島の北 のは ずれの灯台から東支那海を眺めながら、蓼科の林の中の落ち葉を踏みしめながら、ふるさとを走る列車の窓から、有明海の上を流れる大きな雲に差し込む夕日の 刻一刻の変化 を眺めながら、石打の長いスロープを滑り降りながら、外苑のテニスコートで次の番を待ちながら、iPodを聴いたが、実際、風景が違って見えてきた。通勤 で通い慣れた町並みも、別の風貌を帯びて見え出す。

ニッコウキスゲの咲く車山高原(2003.7.27撮影)

 3482曲も入っていると、自分で聴いた覚えのない思いがけない曲と出くわす。CDを買って も、その中のお目当ての曲は聴いたにしても、全曲聴き 尽くしたわけでもなく、またその時いい加減に聞いたりして、まったく記憶に残らなかった曲が相当ある。そんな曲の中に思いがけず、こんな素敵な 曲があったのかとため息の出るような曲がまじっているのである。先代から残された古い土蔵のなかに紛れ込んだような未知の領域があるということは、人生を 豊かにすると常々思ってい る。本でもCDでも数が一定の限度を越すと、そんな未知のものとの出逢いの楽しみが生まれる。だから、7000曲を収録できるという30ギガの新型 iPodに食指が動かぬわけがない。

 とにかく、この半年ほどたっぷりと、音楽に親しんだ時はない。ますます音楽が好きになり、色 んな聴き方ができるようになった。音楽は音楽ホールで聞き、室内 でステレオ装置で聴くだけのものではないことを実感した。生活しながら、さまざまな状況下でも楽しめるものなのだ。iPodを携行していると言うことは、 まるでお気に入りのお抱えアーティスト(しかも世界一流の)をいつも同行しているようなものだ。さあ、あの曲を弾いてくださいとリクエストすると、すぐに 素敵な演奏が始まる。そしていかなる場所もたちまち、自分専用の音楽ホールに一変してしまう。私自身だけの新しい空間が突如そこに現れる。iPodが私の 音楽のホームグランドになった。いや、この歳で音楽のホームグランドと言えるものをようやく手に入れたのだ。人に待たされてもiPodがあれば、苦になら ない。

 以上で、音楽好きな人に会うと、実際に聴かせてみて、口を酸っぱくしてiPodを勧める私の 気持ちがよくおわかりいただけたことと思う。

 いずれにしても、私の愉しみが、また一つ増えました。

 

(完)

 

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