タイトル  僕の生い立ち
 解説  
この小文を、2010年9月3日、とあるファイルから発見した。

結婚式の仲人に頼んだW夫妻から、依頼されて書いたメモなのであろう。従って執筆したのは、1966年の中頃のことと思われる。

私がすでに忘れてしまったようなことも、書いてあるので、備忘のために、収録することにした。



 掲載日   2010/11/30
 目次
 誕生 小学生時代    中学生時代   高校生時代
  浪人時代   大学生時代   彼女とのなれそめ   
 本文  

<誕生>

 昭和15年1月5日熊本県の熊本市、水前寺公園の近くで生まれた。女の子が2人続いた後の初めての男の子とあって、ずいぶん歓迎されたらしい。父31歳、母28歳のときである。

 名前は毅一郎(きいちろう)と付けられた。当時、島原市で健在であった祖父からは“毅(たけし)”ではどうだという意見が出た。父親は「オレにも何か言わせてくれ」と“一郎”をくっつけた。そんな経緯で、毅一郎という名に落ち着いた。

 その頃は、兵隊さん華やかなりし頃で、日曜ともなると兵隊さんがやって来て、僕を水前寺公園等に連れて行ってくれた。ヒョイと抱え上げられた窓のスグ下でカバが大きな口を開けていた情景を今でも覚えている。

 4つの時、島原に移った。もともと島原が故郷で、僕の生家は、島原7万石の藩士の家である。

 父は、島原では雲仙造船株式会社に勤めに出た。父が会社に手を引いて連れて行ってくれたことなどをおぼろげながら覚えている。でも戦争が激しくなって、庭にあった築山も崩されて、防空壕になり、敵機が上空を通過するたびに狭い穴の中に入らなければならなかった。

 父は終戦一年前ぐらいに佐世保の海軍に招集された。東京やいろんなところで戦災にあった父方の親戚の人が僕のうちを頼って帰ってき、一時は17人も同居することになった。父は戦争にとられ、ただ一人よそ者の母が、4人の子どもを抱え、毎日難儀な日々を送った頃である。僕も幼くして、世の中の裏を知った。

 やがて敗戦、ラジオの前に座らされて玉音放送を聞いた覚えはある。しかし、それが意味を持つものとしては僕の幼い頭にはわからなかった。しかし、ラジオは理解できなくても、その日を境にして、周りがすっかり変わってしまったことはよく分かった。僕がいつも防空壕の中にまで、小さな肩掛けのバッグに入れて持ち込んでいた研究社発行の小中学生向きの理科シリーズ<<自動車>>の中から、まず戦車を墨で塗りつぶさなければならなかった。





<小学校時代>

 昭和21年敗戦後の翌年小学校にはいった。本当に何もない頃であった。ピラピラの教科書、ズックの靴さえめったに当たらぬクジで配給された。

 父もその頃、復員したはずである。極度の住宅難から、その当時も狭い家にまだ数家族が同居した。父は勤めていた会社が戦争のあおりで倒産し、失業した。それを気に病んで父は少々ノイローゼ気味になり入院。兄弟5人と病気の父。それに父の両親の生活費の一切を支えたのは母である。

 母は毎朝5時に起き、自ら作った佃煮や、朝食のおかずなどを持って、街まで売りに行った。そのかぼそい収入で一家8人が持ちこたえたのである。

 父もようやく島原市立第3中学校に職が決まって、定時的な収入が入るようになったものの、にわか仕込みの教員の給料ではたかが知れていて、母は働き続けなければならなかった。

 僕は小さな頃から、本が好きで小学校一年の時には、ローマ字が書けた。毎月当時研究社が発行していたRoma字という雑誌を買って読んでいた。本代5円をやっとこさ貰って遠い本屋まで買いに行って一気に読んでしまう。

 小学高学年から中学生向きの本に「少国民之友」というのがあったが、小学2年生の時に、それを買って懸賞に応募したら見事当選してメダルを貰った。問題は、日本で初めて郵便切手を発行した人は誰ですかというものだった。前島密という名が、学校の教科書に現れたのは、ずいぶん後だったような気がする。

 小学4年の時には、鶴見祐輔の「新英雄待望論」を読んで感激した。(同じ著者の伝記物「バイロン」「ビスマルク」「ディズレディ」も、同じ時期に読んで感激した。)とにかくご飯より本が好きといわれるほどで、玉川大百科の理科編を始めの頁から一番最後の頁まで読み通したこともある。

 本も好きだったけれど、運動も大好きで、ケンカもよくした。体は小さいながら、正義感に燃えていて、相手が先生だろうと自分が正しいと思ったことは決して曲げなかった。

 小学校の5年か6年の時に、相撲で25人抜きをやったこともある。お陰で<<金太郎>>とか<<豆タンク>>とか渾名が付いた。

 図画も大好きで、よくスケッチ大会に参加して賞状を貰った。ある日、交通安全のポスターを描くために、教室にみんなと一緒に残っていたら、担任の先生が、交通安全の詩も募集されているという話をされた。もともと小さな頃から自分で詩のノートを持っていたくらいだったから、その場で三節の詩を書き上げて先生に渡した。

 それが長崎県代表で九州大会まで出たりして。当時としては珍しい万年筆とかシャープペンシル等の賞品を。学校の朝礼の時、校長先生から貰った。




<中学生時代>

 中学校の3年間は、軟式テニスに打ち込み郡市の対抗戦で中学2年、3年と、団体戦で団体優勝を飾った。演劇部にも属していて木下順二の「夕鶴」の与ひょうをやり、見る人の涙を誘った。

 また、2年生の時、卒業する3年生の歓送演芸会の責任者となり、自ら喜劇の演出を行うと共に、「勉強」という落語を「え〜お笑いを一席」と壇上で独演し万雷の拍手を浴びたこともある。

 中学3年の時には、生徒会会長になって、朝礼の時によく演説をしたのであるが、英語の時間になるとついついおしゃべりに夢中になり、英語の先生から「生徒会長のくせに」と何度もしかられたものだ。




<高校生時代>

受験時代灰色の時代といわれるこの時代に反発して、できるだけ意義のある日々にしようと図書館で色んな本を漁り読んだ。

高2の時、上京して東大のサマースクールに入学、そこで知り合った白百合学園の女の子とは1年間のわたって文通。その頃は本当に一生懸命に手紙を書いた。




<浪人時代>

最初の受験に失敗。一年間駿台予備校に通う。しかし私の本来の性質からして、この時代は、それほどじめじめしたものではない。確かに落ちることの厳しさと、将来の不安で胸がうずくこともあったが、今から思い返しても、ずいぶん余裕があったように思う。この初めての手ひどい負けに、これまで勝ってばかりいた自分というものを反省することができて、勝つことの難しさと勝ったときのあるべき心構えというものがわかりかけたように思う。


<大学生時代>

一年間の浪人生活を終えて大学生となった。

中学時代からしばらく遠ざかっていた軟式テニスを始めたり、ダンスを覚えたり、アルバイトで家庭教師に行ったり、自由で愉しい大学時代が始まった。駒場寮の薄汚い部屋の中での青春。寮歌を歌い、たまには酒を飲み、駒場祭の時には、少々エロティックな“寮デコ”を徹夜で作って、授業中は熟睡し、三日酔いするほど深酒して、もう2度と酒は飲まぬと心に誓ったり…


<彼女とのなれそめ>

彼女とのなれそめを語るには、先ず、僕の音楽歴から始める必要がある。

(1) 幼少の頃からすごい低音で、母のすぐ下の叔父の結婚式のとき蛮声を張り上げて歌う。

(2) 小学一年のとき、音楽の授業の時に、歌のうまい人を大声を揚げて推薦していたら、お前が歌えと先生に指名されて、全く歌えない歌だったので、泣きべそをかいて、黙秘権を行使、これを契機として歌うことに対する根強い劣等感を抱くに至る。

(3) かくして、人前で歌えば必ず音程が狂い、小学生時代、私のオンチは全校に鳴り響く。音楽の時間は実に憂鬱で先生が近くに回った来ると口だけパクパク開けて歌わなかったり、蚊の鳴くような細い声で歌ったたり。試験の時には壇上に立たされて歌わされる。これが一番苦痛で、途中まではだいたいうまく行くのだけれど、このままうまく歌い終わろうとあせるところが災いしてか、突然音程が狂い始め、自分でもそれを意識しながらもどうにもならず、みんなの笑い顔を見ては、脂汗をたらりたらり。

(4) しかし、小六のとき 発奮して、音楽の理論に関する限り誰にも負けないほど勉強して、それ以来、音楽の時間もやや気分的に楽となり、歌い方も少しずつ快方へ向かう。

(5) 中学三年間、音楽理論に関する限り、優なるも、歌う方はいかんせん良止まり。高校時代音楽のクラスなくやっと音楽の苦しみから解放される。

(6) 大学に入って、たまには、コーラス等、クラスの連中と試みるのだけれどうまく行かず、やっぱり俺には才能はないなと悲観す。

(7) ルーテル協会派の学生センターで、賛美歌などを外国人の女性に教えられ、そこに来ていた女性に、阿部さんも歌えるわと、励まされ、彼女の属するサークルに入れとしきりに勧められ、音楽のサークルとはいったい如何なるものぞと関心を抱くに至る。その頃たまたま緑会合唱団団員募集のポスターを見つけ、好奇心に誘われてちょっとのつもりで覗いてみる。そこで入会金をばっしり払わされたのが、しゃくで、顔だけ出すことと相成る。その会でたまたま彼女と知り合いになる。彼女は小学校時代から音楽の優等生。

(8) 緑会合唱団に入ったのが大学四年の時、当時彼女は短大の一年生。最初の一年間はだいたい電話で話したぐらいでデートは一回きり。

(9) 僕が卒業して、彼女はまだ学生ということでしばらく疎遠になる。

(10)     役所に入って二年目の夏(1964年)久し振りに電話して、そこから本格的につきあい出す。

(11)      その夏には彼女の妹ともども岩井へ海水浴に行ったりして親しみを増す。

(12)      その年の暮れから翌年の初めにかけて、恋愛状況にあることを意識しつつ一進一退。

(13)        やっと決心して、1965年4月4日“結婚しよう”ということになる。

(14)       その後も紆余曲折を経て、ともに島原に飛び、両親の承諾を得、5月8日の彼女の誕生日に婚約指輪を渡す。

(15)         音楽に関する限り現在も彼女が完全に僕の先生で、時には合唱することもあるが、まだまだダメなそうで、人前では歌わない方がいいわよ、と勧告を受けている始末。そのうち彼女の内助の功ですばらしいハーモニーを作り出したいものである。   

      

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