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■ 宮部みゆき「模倣犯」下巻 小学館2001.4.20発行、読書中(p.366)。
上下巻とも70ページを越える大冊。独特の宮部ワールドが展開されるが、やや設定に無理がある気がする。二人組の犯人の一人として、にわかにクローズアップしてくる高井和明だが、物的証拠も逆アリバイもあいまいな彼を、この時点まで、本当の犯人か、警察もさほど疑っていないふしが見えるのが甘いように思えるのだ。読了してみなければわからないが。
■ 昨日、小浜逸郎+佐藤幹夫「中年男に恋はできるか」洋泉社2000.3.22読了。
以下小浜逸郎の発言でアンダーラインを引いた部分を抜き書きする。
「おそらく「中高年」というのは、年齢にふさわしく成熟することではなく、もう変わりようもない部分に対して開き直った自己承諾を与えたうえで、さらにそれに基づいて残りの生を生きざるを得ないと構える境地のことである。」(p.4)
「この本は、「中年のエロス」の問題を主旋律としている。・・・私たちは、「中年のエロス」について、現代状況にしっかり目を据えながら、できる限り思想的に突っ込んで話し合うことにした。・・・話題は・・・まことに多岐にわたるが、「なぜ人はかくも懲りずに性愛にゆさぶられるのか?」という愚直な問いのくり返しが、この本の通奏低音となっている。」(p.4~5)
「性という奥行きの深い世界を、学校の教育システムのなかに組み入れて、明るく話すというフィーリングがぼくにはたまらないんですね。」(p.15)
「性というものは、深く人格とかかわっているでしょう。そして、秘め事、恥ずかしいという感覚が伴うことと、この世界の奥深さとは表裏一体のところがあるわけです。公式の教育などというものは、もともとそんなところに踏み込む権利をもっていないのです。」(p.17)
「そもそもこういう領域のことを、「公教育」というしかつめらしい視野のなかに収めてしまおうとすること自体が、「近代の悲哀」を物語っているんですね。たぶん、「教育」という概念が公式的なところは全部行っちゃっているので、何かそこで処理すれば何とかなるだみたいな幻想をもう一回壊して、人間というのは、秘められたところで育つものだという感覚を復権させなくてはいけないと思います。」(p.18)
「(話し言葉よりも)書き言葉のほうが、深く届きませんか。書き言葉でしか届かないこと、妄想の強さというのは、やっぱりあるのです」(p.44)
「・・たとえ観念的ではあるにしても、いったんは「終わりなき日常」ではない状況に身を置かなければ、根源的な渇きの問題に内側からぶつかってしまうという経験そのものが訪れてこないという側面があるように思うんですね。」(p.68)
「いろいろな観点から見て、いまは女性のほうがどうみても得をしている時代だという感じが強いでしょう。」(p.73)
「・・ぼくが一貫して言っているのは、家とかあるいは社会とか、そういうある観念から提供されている家庭の枠って言いますかかね、そういうもにはもう一切期待できないんだって腹を決めたほうがいいって気がしますね。五十代くらいになれば、もしかすると空気になるかもしれないけれども、それまでの途中過程というのは、やはり闘いなんですよ(笑)。仕方ないんですよ、これは(笑)。」(p.88)
「専業主婦が労働者として楽だとはけっして言わないけれど、責任とか気分とかで言ったら、やっぱり楽だっていうところがあると思うんですよ。」(p.89)
「仕事というものは退屈もしちゃうし、とてもいやな目にもあうし、ちっとも生きがいでもないし、五年間生きがいを感じられる仕事があったらお目にかかりたいみたいなところってありますね。」(p.92)
「男と女の磁場というのは、それが強い磁力(またその反動としての反発力)をもったときには、心とも言いきれなければ身体とも言いきれない、あえて言えばその両方が開いたり閉じたりするとしか言いようがないし、要するに感覚レベルから情緒性を中心として理性レベルにまで至る全実存の相互交渉なわけです。」(p.108)
「(渡辺淳一流の)「女をいかせることこそ男の本懐」みたいな考え方は、いわば性愛教の一宗派の念仏みたいなもので、それを信じてやっていける人は、それでやればと言うしかないですよね。だけど、ほんとはそれでやりきれるはずはないですよ。」(p.108)
「・・・異性経験の数の問題ですね。その人間のエロス的価値観のようなものを、数が決定づけるのかどうかということですね。ぼくの考えを先に言っておくと、たぶんいいのは中間ではないかという気がするんですね。それこそ千人斬りみたいな人間がいて、女子高生でも早い時期にウリまくったりする子がいるでしょ。あれは世界をつまらなくさせてしまうんじゃないでしょうか。」(p.109)
「思い切って数字的に言ってしまうとね、やっぱり18歳くらいに経験をして、十年ぐらい恋愛の彷徨をして、三十代くらいで結婚する。結婚生活が二十五年くらいとして、五十五から六十くらいまで、というのが理想型というか(笑)。」(p.112)
「(渡辺淳一の)『失楽園』は、自意識が足りなさ過ぎて、お笑いになってしまうわけですよ、やっぱり。語弊がある言い方かもしれないけれど、知的じゃないんですよ。」(p.123)
「一般に女は自分の身体のエロチシズムが、男の欲望をどれくらい刺激しているかということに無自覚ですね。」(p.138)
「どうも男と女の思惑のずれというものは、永遠に未解決の課題のようですね。それこそ自信のある男は、そういうずれをこそ関係のかけひきの材料として楽しむことができるんだろうけれど、モテない男にしてみれば、まさに「いったいどうしたらいいんだ!」という不安をかき立てる要因なわけですね。」(p.140)
「・・・でも、本音を言えば後世に名を残すとか、書物を書いて人に言葉を届かせるというのはやはり二の次三の次なんですよ。言い方を換えれば、考えるということを人は貴重なことのように思っているけれど、必要に迫られてすることですね。何かの欠如を無意識の条件として抱え込むところから、必然的に考えるという必要性が立ち上がるわけです。だからぼくのなかには、学問それ自体の価値とか、考えるそれ自体の大切さといったものに対する懐疑とか虚しさとかの感覚が抜きがたくあるわけで、必要性がないならば、ぼくはうまいものを食って、ぼーっとしたり、好きな相手と仲良く生きることのほうがいいんだという感じがどうしてもあるんですね。」(p.144)
「社会的な営みが虚しく思えてしまったり、なんのためにこんなことをやっているんだと懐疑的になったりしたときに、エロス的な関係の支え(これは幻想とか、まだ実現していない夢とかでも構わないのですが)がある場合には、それ十分だと思えるところがあると思うんですが、エロスが荒んでいるときに、社会的な存在として生きていれば十分だという考えには、どこか無理があるような気がしてしょうがない。」(p.146)
「感情や情緒ということを、なにか理性よりもワンランク落ちるものであるかのように扱うことは、根本的にまちがっているとぼくは思っているわけです。」(p150)
「人間がいかに感情に翻弄されているかということをそのまま、ありのままに見たいという気持ちのほうが強いですね。」(p.151)
「大人の恋という概念がぼくにはわからない。どういうことを言っているの?」(p.189)
「男が年齢を重ねていって社会的に成熟していったとしてもそのことは、エロスの成熟とはほとんど無関係ではないかと思うんです。また恋愛関係を積み重ねれば成熟するかというと、どうもそうでもないような気がする。そもそも女はいざ知らず、男はあんまりエロス的には成熟なんてしないんじゃないか。」(p.188)
「・・・デリカシーの残滓みたいなものを相手の心に残せるかどうか、性愛関係の試金石なんだと思う。だから、男にとってキツイ時代になっているというのはそのとおりなんだけれども、やる以上はやっぱり、そのキツさを引き受けたうえで、対幻想の世界をちゃんと植え込むことをしなくちゃならない。・・・ぼくが言いたいのは、大人の恋をしてうまくやれ、というのとはまったく違うんです。悲劇にならないように対処するというのとも違います。むしろまじめにやればやるほど悲劇になってしまうかかもしれない。でもそれでもそのほうがマシだくらいにぼくは思っているんですね」(p.196)
「・・・男と女の磁場は、非常に無意識的ですから、その相互感応のあり方のうちには、いぜんとして母性的なものが媒介として入りこんでいると考えられる部分はあると思うんですね。」(p.207)
「そういう無意識的やりとりの場面というのはけっこうあると思うんですよ。だからぼくらは、そこは相手を傷つけるようなちょっかいの出し方だけは気をつけて、あとはむしろやるべきことにぼーっと熱中して、エロスに関しては自らの無意識性に信頼を寄せておく他はないんじゃなかろうか、と(笑)。」(p.209)
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