(1998/12/20〜21掲載)

インドネシア紀行


 






1972年2月、インドネシアへ10日ばかりの旅に出かけた。生まれて初めての海外旅行であった。これは、そのときの紀行記である。
 




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(月刊工業加熱1972年11月号〜1973年1月号掲載)


 








 日本人は、数字に弱い民族である。あらゆることを計数化し、あらゆることを数字で判断し、比較しようとする。毎日の新聞には、GNP世界第3位、一人当り国民所得世界第19位というような記事があふれており、いつも世界の中での兵隊の位が話題にされている。近いうちに国民の“幸福度”まで計数化されて、日本人は、今世界最下位なんてことにならぬとも限らない。兵隊の位が上下するに伴ない、日本人は一喜一憂し、自尊心をくすぐられたり、さかなでにされたりしている。自国より位が上と思う国へ行くのは肩がこるが、自国より下位にあると思う国へ行くのは気安い。そう思っている。そう思って後進国へ行くと大いに羽をのばしたがる。あらゆる面で先進国気取りを発揮する。

ここに日本人の自尊心をくすぐる二つの数字がある。

日本:GNP732,137億円、一人当国民所得638千円、人口約1億人

インドネシア:GNP51,739億円、一人当国民所得18千円、人口約1億2千万人
(1970年度〕

 この数字から、おそらく多くの日本人は、自分が日本に住んでいるしあわせを思うに違いない。インドネシアは、おそらく、世界で最も所得の少ない国の一つなのである。この数字で見るかぎり、インドネシアは、極めて後進国であリ、国民は、ずいぶんと貧しい生活をしているということになる。この雑文は、その「後進国で、まずしい」インドネシアヘの紀行記である。一体“数字”というものが、具体的に何を伝えうるかということを考えてみたいものと思う。思いつくままにつづる雑文なので氣軽に読み捨てていただきたい。
 
 


1


 


インドネシアには、自殺者と餓死する者がいないといわれる。これは極めて象徴的な言葉である。日本のように、あまりにも近代化が進みすぎ。どっちを向いてもうるおいのない機能第一主義の社会では、国民のフラストレーションは欝積する。したがって、大学受験に失敗しては自殺し、求愛を断わられては自殺する。自動車を月賦で買ったが払う金に窮したといっては親子心中をする。

 その点インドネシア人はのんびり者のせいか自殺はあまりしないようである。たしかにインドネシアに行ってまず気づくことは、国全体がのんびりしているということである。日本人ならさしずめ、そんなにのんぴりしているから、いつまでたっても貧乏なんだ。働け働けとハッパをかけたくなるところであろう。

 役所は、月山木は正午まで。金曜日は午前1時、土曜目は正午までである。一般の商店も、午後2時から午後6蒔まで一端閉店する。とにかく、「勤勉であること」が、国民的特質とされている日本人とは大いに異なっている。勤勉で、生真面目で、すぐ思いつめる日本人には、真似のできないところがいっぱいある。

 日本の朝夕のラッシュアワー時に、電車のつり環にブラ下がっている日本人の悲愴な顔付きを見れば、GNP世界第3位も宜なるかなと思うのと同時に、これでは自殺したくなる者が多くあらわれても不思議ではないという気もするのである。

 何といってもインドネシアは南国で、庭にバナナとパパイヤ等の二本の果物の木を植えておけば餓死する心配はいらないお国柄である。一年中暖かいから、裸で寝ても凍死するおそれもない。したがって、まあ、ほどほどに働いて、世の中のんびり暮そうや、というのが、インネシア人の考え方のド基礎にはあるらしい。街中どこへ行ってもしたたるような緑がある。花が咲いている。ヤシの木陰がある。食いっぱぐれる心配もないのに、こんなすばらしい自然をさしおいてなんであくせく働くのか、と彼らは考えているようにさえ見える。インドネシアにもテレビはあるけれ度、だれもが受信器を買いたいななどとは思ったりしないようである。

 日本人は、こうしたインドネシア人の生き方から学ぷところがあるように思える。インドネシアを近代化するのは、確かに結構なこととは思うけれど、今の日本のようには近代化すべきではないというのが、私の率直な感想である。日本人は、金持になったらうるおいのある生活をしようとしてあくせくと働く。ところがインドネシア人は、うるおいのある生活をするためには、別に金持になる必要はないと考え、うるおいのある生活のためには貧乏するのもやむをえないと考えているかのようである。日本人には、おそらくうるおいのある生活態度というものは決して身につかないように思える。もし、日本人が、体質的にうるおいを必要としているのなら、それは金の多寡とは、全く関係のないことだからである。GNPが世界第3位にならなくとも、うるおいのある生活は可能であるからである。

 インドネシアには、まだ自然があり。それが生活ととけあっている。近代化することによって、その自然を破壊するとしたら、どんなに大きな損失になることだろう。どんなに貧しくとも、インドネシアには、毎日ゆるぎない生活があるということを、われわれは胆に銘じておく必要があるであろう。彼らの幸程度が、われわれ日本人以下であるなどとは私には考えられなかった。どだい幸福などというものは、文明の進歩とは直接関係しているわけではないし、金の有無のみで、計りうるものではないもののように、私には思えるのだ。
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2


 


日本人は、美的感覚のすぐれた民族であると言われている。また自らもそう思っている。日本の自然は美しい。日本人の生活と自然とは調和している。等々……日本人の美的感覚を自ら賞賛する言葉を、我々の先人は、いくつも遺している。日本人は、我国を“美しい日本”と一様に思いこんでいる。

 しかし、今日、我国国民の70%以上を占める都市生活者にとって、美しい日本はどこへ行けばあるのだろうか。たまさか、新幹線の車窓から、雪をかぶった富士山の婆を見て、ああ、美しい日本の姿がここにある、と我々日本人はあまりにも簡簡単に感激してしまうのではないか。

 観光地へ行く。どこも、魅力のない形をしたホテルが乱立している。そこから少し離れたところに、山なり湖なりがある。湖にうつる紅葉した山々、ああ、ここにも美しい日本があると日本人は感激する。そして何の変哲もないホテルの一室にもどっては、酒を欽み、室内遊戯に打ち興ずる。ホテルの窓から見えるのは、同じような形をしたホテルの裏庭であったり、こじんまりと造られた日本庭園の一部であったりする。これらは、美しい日本という評言には、どうもなじみにくい。

 今日、我国では、美しい日本を探し回らなけれぱならなくなった。都市という都市が、全て一様に小型東京化して、地方的な特色を失い、まるでスラム的な形状を呈しつつある。東京の街並を見て、そこに美しい日本を感得するためには、よほどの神経が必要であろう。およそ都市を秩序あらしめ、美的観点から、ブランニングしようという発想ないしは美的感覚が、日本には本来的に欠如している。都市とは、人口が流入するにまかせて無秩序に膨張するものと考えられている。都市計画もへったくれもないのである。土水道も下水道もないところに、たちまち安っぽいちゃちな住宅が密集する。そうした建物に起き伏し、汲み取り便所の異臭のたちこめる狭い部屋で、一生を送れる日本人が、美的感覚にすぐれていると自賛してみても、はじまらないという気がする。そんな室内に、たとえどれほど美的感覚に溢れた生花がいけてあろうと花鳥風月の掛軸が掛けてあろうと、庭に、箱庭的な日本座園がしつらえてあろうと、それが何であろう。

 その点というつもりはないが、インドネシアのスラバヤやメダンのメインストリートは、日本の都市計画担当者が一見すべき、美しさをもっている。政治経済の中心都市の背地には、美しい避暑地がかならずある。ジャカルタのボゴール、バンドン、スラバヤのトレタス、メダンのベラスタジやプラバット。そこには、美しい建物、美しい街並、美しい自然が渾然と調和している。

 ホテルは、それぞれに異なっており、部屋もゆったりしている。便所は、まがりなりにもみな水洗(多くは手動であるが)である。日本の住居が一様に小さいのに引きかえ、かなり大きい。私がたまたま招待されたある中央官庁の役人の家にしても、国営農園の幹部の家にしても、通された応接間は、オフィスの一室分あるいはそれ以上のスペースがあり、バチックの壁絵、民族画家の絵、獲物の剥製、美しい草花で優雅に飾られていた。

 かえりみて我家の、布団をひくにも不自由するような住居が、人間の住居からいかにほど遠いか、思い知らされたものである。

 たしかに、これらの多くのものは、オランダゆ文化遺産なのかもしれない。しかし、いずれにしろ、それらを包含する文化あるいは美的感覚というべきものをインドネシアが有しているという現実には変りはない。新興のインドネシア政府もまたそうしたものを尊重する姿勢を示しているようである。“美しい日本”を信じて旅に出た日本人が、“後進国”のはずのインドネシアに行っても“自然”はともかく、都市美においても学ぼねぱならぬものがあることを痛感させられて帰ってくるというのが現実なのである。

 我国も遅ればせながら、自覚的に、ほんとうに国民にとって美しい日本を取り戻さねばならないときがきているように思う。そのためには、日本人は、もう少し気軽に外国へ出かけて行き、様々な人間の生活のあり方というものを広く見聞してくる必要があるだろう。井の中の蛙大海を知らずで、数字の上で、自らの兵隊の位を決め込んでいるだけでは、ほんとうの世界の現実というものはわからない。

 我国においては、外国へ出掛けるということが、いまでもあまりに特別のことと考えられすぎている。気軽に外国へ出掛けるということが日本人にはまだなかなかできない。たしかに昔よりは、良くなりつつあるものの、一生に一度の外国旅行ということで、あれも見たいこれも見たいと、観光案内書に載っている名所旧跡をハードスケジュールでぐるぐる回って帰ってき、パリのエッフエル塔を、観光絵ハガキと同じ角度から写真にとってきたということだけで悦に入る。

 あまりにもあわただしく、他国の国民の生活そのもの、あるいは文化のありようとでもいうべきものを見て帰ってくる余裕がないというのが日本人の外国旅行の現状ではないだろうか。たしかに、航空運賃が高いということにも間題はあろうが、必要以上に外国旅行をものものしく考えること、あるいは考えざるをえない歴史的風土の方にも問題があるように思える。おそらく国際性という点では、日本は、世界でもめずらしいほど立遅れた国のひとつなのではないかという気がしてならない。要するに、美的感覚ひとつにしても、独善であってはならないのではないか。広く人間の生き方そのものに根ざした、より普遍性のあるものを、われわれは、追求すべきなのではないだろうか。そうした際に、自国の文化のあり方の欠陥あるいは異常性というものを、骨身にしみて思い知らされるのでなけれぱ、現状を変ようとする意欲も生れてこないのではないだろうか。インドネシアの旅をつづけながら私はつくづくそう思ったのである。
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3


 


インドネシアに着いた当初、私ぱ、店頭に氾濫している、おびただしい消費物質の山をながめて、一驚を禁じえなかった。旅行に出る前に、インドネシアの現状は、

20年前の日本と同じようなものだという話を人からきいていた。20年前の戦後日の浅い日本と同じならぱ、これほどおびただしい消費物質が店頭に氾濫しているはずはないと私は単純に思いこんでいたのである。

 電器店、時計店をのぞけば、日本製品をはじめ、世界各国の製品が所狭しと並べてある。パン屋に行くと、多種多様のパンの山である。薬屋も、日本の薬屋と少しも変らぬ種類の薬がある。スイス製あり、ドイツ製ありである。いわゆる文明のスタンダードを象徴するような種類のあらゆる消費物質が、ほとんど日本と同じレベルで店頭にあふれている。タバコ、清涼飲料水、酒、等々にしてもおなじみの国際ブランド製品があふれている。

 コカコーラを法文すれば、例の商標入りの同じサイズのビンが、すぐさま目の前に並べられる。日本人なら随喜の涙を流しかねないジョニ黒も、1本2、O00円程度で買うことができる。タバコにしても、色取り鮮やかな洋モクのパックが店頭を飾っている。おそらく、日本人がインドネシアに在住しても、消費物質に関する限り、不自由するようなことは、まずありえないと思えるほどである。(事実、ホテルにそなえつけられた石けんにしても、チリ紙にしても、わざわざ日本から持っていった自分の不明を恥じねばならぬほどの高品質のものでありた。)

 このように、世界各国からの商品を店頭にあふれさせているのは、いわゆる資本主義社会の資本の力というものなのであろうが、その功罪は別にして、その強大な力には驚かされざるをえないのである。とにかく、現在、インドネシアには、世界各国から資本が流れ込んでいる。日本資本も決して例外ではない。例外でないとどころか、最も強力なもののひとつのようである。ひところ、日本人を指して、アジノモトとか、ホンダとかいったとかいわれているのもその辺の事情を物語っている。

 私にはなぜか、インドネシアのこのような有様が、アリにまとわりつかれて、自ら飛ぶ力を失いハネをバタつかせている大きな美しいチョウのように思えてならない。アリは自分の論理でしか動かない。チョウの体中に、アリと通じてチョウを食い物にしている寄生虫がいれば、ますますチョウを救うことはむずかしくなる。店頭にあふれた多くの消費物資が、チョウにとって、そもそも必要なのかどうかということにはおかまいなく、一部の寄生虫やアリのためにならべられているとすれば間題は深刻である。

 こうした消費物質は、いわゆる一般大衆にとっては、ほとんど手の届かぬほど高い。スラバヤでは、女中さんの月給は1,OOOルビー(約750円)程度であり、女工さんの日給は、4〜50ルビーなのである。1日働いても、洋モクの1箱、コカコーラI本も買えない低賃金なのである。店頭に氾濫する高級な消費物資と、それを買うだけの金を持たぬおぴただしい大衆の存在。ここに、今、インドネシアがかかえている大きな矛盾があると言えるだろう。
 

 日本の商社は、狭いインドネシアの市場でも、国内同様の過当競争を演じており、心ある人々の顰蹙をかっている。たとえ、それが資本の論理だとしても、美しいチョウの飛翔力を増すような方向で、何とかできぬものであろうかという気がしてならない。

 インドネシアには、物には固有の値段があるのではなく。買う人の財力によって、物の値段が決まるとする思想がある。その意味からすれば、大衆以外の金持の買う高級消費物資がいくら店頭にあふれていても、またそれがいくら高くても、少しもおかしくないのかもしれないのであるが、逆にこのことが、社会そのものの断層化を一段と進め、上と下との相互連携をますます困難としているのではないかと思える。日本人が現在の日本の賃金レベルで生活すれば、インドネシアは、たしかに住みやすいところではあるが、月給1,OOOルビ−で働く女中さんや、日給50ルビ−の女工さんがいるということを忘れ、そうした人々にも住みやすい状況を作りだすような努力と無縁の生活を送ることになれば、日本人は、インドネシアの真の友好を獲ち取ることはできまい。

 インドネシアに住む日本人の多くは、内地では思いも及ぱないような豊かな生活をしてい。大きな屋敷、美しい庭、大勢の召し使いにかこまれての生活。ある商社員の奥さんは、午前と午後に1回ずつ計2回もゴルフをやるという。

 こうした豊かさに慣れてしまい、日本人がインドネシアの大衆から遊離してしまったらとうなるだろう。遊離してしまった日本人同士が、みにくい過当競争を演じてみれば、現地人はそれをどう思うだろう。現地の日本人商社員から、インドネシア人は、日本人をオランダ人の下においているというようなグチを何度かきいだ。しかし、こうしたグチをいう前に、何かやること、自ら反省すべきことではないだろうか。東南アジアでは、最も親日的であるといわれるインドネシア人の信頼を裏切らぬためにも、日本商品を店頭に氾濫させるだけではない、知恵のある国際協力をわれわれは考えていかなければならないのではないかとつくづく思うのである。
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4


 


 うらみの中でも、食い物にまつわるうらみが、一番こわいといわれる。それだけ、食い物が人間の生命と密着しているせいであろう。食い物が喉を通らなければ(あるいは、喉を通す食い物がなければ)、人間はたちまち死んでしまう生物にすぎないのだから無理もない。

 とにかく、一食抜いただけでも相当にこたえる。わずか1日の絶食で、万物の霊長たる人間ですら(むしろ、人間ゆえに?)、人間らしさを喪失しかねないのである。したがって、外国へ行くとき、一番心配になるのが食べ物のことである。もし、自分の口に合うような食べ物がまったくなかったら……欲しがりません、帰るまではというわけにはいかないのである。したがって、誰しも、一抹の不安を胸に秘めながら外国へ出掛ける。私とて例外ではなかった。

 ところが、それは、まったくの杞憂にすぎなかった。

 もちろん、私が食えたからとて、読者諸氏の口に合うとは限らないが、とにかく、私の場合、インドネシアについた日から、たちまち一抹の不安をふきとばすと同時に、持前の何でも食ってやろうという精神を取戻して、いろんな初物に果敢な挑戦を開始することとなった。

 そして、人間が食っている物である以上、食って食えぬ物はないという結論に達するとともに、人間というものは、とにかく、いろんなものを食うものだと半ばあきれ、およそ人間が生きていくところ、うまい食い物のないところはないのではあるまいかと半ば感歎したのであった。

 インドネシアの食い物の話をする手始めに、中華料理の話をするのもおかしなものだが、とにかく、食った順序で話をすすめることにしよう。インドネシアには華僑が多いせいもあって、中華料理店が多く、なかなかうまい料理を食わせてくれる。日本では、目玉の飛びでるほど高い。フカのヒレのスーブや、ツバメの巣のスープも、原産地であるだけに手頃な値段で食べることができる。

 それにカエルやハトの空揚げもなかなかうまい。カエルのそれは、口に入れれば、とけそうなほどやわらかいし、空揚げしたハトの頭をガリガリかじると、口中に脳ミソがチュッとはじけるのも悪くない。カニ、エビ、魚、牛、豚、鶏、野菜と材料も豊富で、料理の種類も多く、日本人の舌にも合うので、インドネシアについた日本人は、まず中華料理店につれこまれ、食い物の心配が不要なことを知らされる段取りになっているらしい。

 インドネシアは常夏の国でもあり、果物がまた豊富である。パパイア、ドリアン、サオ、サチ、ママンゴ、バイナップル、バナナ、オレンジと並べていけばきりがないほどである。

 “果物の王”といわれるドリアンには、一種特有の強烈な臭いがある。したがって、食える入と食えぬ人がいる。私は何でも食ってやろう派だから、果物の王様を見逃すわはにはいかない、もちろん食べてみることにした。臭いが気になりはしたが、口に入れるとさすがにうまい。ちょっと果物ばなれした味だ。サオは、柿とイチジクをまぜ合わせたような味がする。パパイアは、ウリ科らしく、嫌味のない甘味がある。サチには、乙女を思わせる酸味がある。どれも、それぞれにうまく、私は毎朝欠かさず、果物を食べることにしていた。

 メダンで会議のあと、みんな一諸に昼食をとることになった。総勢15人の中で、日本人は私一人で、ほかは金部インドネシア人である。結局、インドネシア料理店に行くことになった。テーブルにつくと、小皿が次々に運ばれてくる。そのひとつひとつに、いろんな料理がのっている、エビのからし揚げ、ニラ、ニンニクともやしを
いためたもの。これは、日本のやさいいために似ている。ゆでタマゴのまわりに赤いとうがらしをまぷしたもの。魚の揚物。チキンのからし煮。牛のレバー。タマゴのあつ焼き。チキンのもつやスープ。ヤキトリ等々種類はまことに豊富である。

 「これはうまいですよ」
と一見、白い肉状のものを推められる。食べてみると豆腐のようにやわらかい。味も悪くない。

「何ですか」
ときくと、
「牛の脳みそです」
とこともなげにいう。料理は、からしやこしょうがよくきいていて、どれもこれも猛烈にからい。青い小さなとうがらしを食べて、脳天までしびれてしまったことがある。しかし、暑い国では、辛いものがうまいことは確かである。

 こうした小皿に盛られた料理を、めいめいが自分の血にとって、日本米に比べれば粘りのないパサパサした白飯にまぜて食べる。現地人は、直接、右手でつかんで食べる。慣れたもので、相当のスピードがでる。私も、郷に入れば郷にしたがえで、右手でつかんで食べることにした。結構うまかった。日本人も、にぎりめしやおすしは、手でつかんで食べるのである。それほど異にするにあたらない。

 ところが、手でつかんで食べる日本人はあまりいないらしい。いや、そもそも、私が行ったインドネシア料理店に、現地の日本領書館の人も、日本の商社員も行ったことがないというのである。私が手でつかんで食べた話をすると、目を丸くして驚くしまつである。郷に入っても、郷にしたがうのはなかなかむずかしいことのようである。

 変っているのは、こうして並べられた料理に手を付けなければ料金は取られないということである。したがって、料理は、前の人にだされたものであっても、また繰り返えし、人の前に並べられることになる。これは、日本に帰ってみれば若干気になるところであるが、インドネシアにいるときは、少しも気にならなかった。それ以来、ちょいちょいインドネシア料理店に行くことになったが、とにかく安くてうまい。15−6人でたらふく食っても、2,000円台で足りる。その程度の金で、種類もいろんなものを食べられる。日本の、一組のおかずがついたいわゆる定食ものより、よっぽど内容が充実している。

 インドネシア料理店で、インドネシア料理を食いながら、また、すさまじいまでのパイタリティにあふれたバリ島の夜店の食物屋の放列を眺めながら、入間の文化というものは決して、食い物と無縁ではないことをつくづく感じたのである。いってみれば、人間が生物である以上食い物は、何よりも基本である。そうした基本が、どれだけ大切にされているかによって、一国の文化というものを計る尺度にしうるのではないかと思ったわけである。その基本を見失って枝葉末節のみの文化が盛えても、その文化にはどこか脆弱さ一あるいはかたよりがあるのではないか。

 思うに、日本文化は、それほど食い物を重視した文化ではないのではないか。日本人は、世界有数の粗食に耐えうる民族なのではないか。日本文化には、禁欲的な側面があり、人間の二大欲望である食欲や性欲ですらむしろ抑制し、精神主義に走る傾向が強いのではないか。

 たとえば、戦時中、後方支援を忘れて、南方諸島に多くの兵隊を送りこみ、おびただしい餓死者をだしたような戦術にも、一億総餓え死のぎりぎりまで戦争を続けたような思想にも、日本人の禁欲的な精神主義のあらわれがあるのではないか。

「武士は食わねど高揚枝」とか「欲しがりません勝つまでは」的発想の土壌と、人間の生物としての基本を忘れやすい精神構造は、どこかでつながっているのではないかと思ったわけである。

 紙面のつごうで若干論旨を飛躍させるが、要するに、うまいものを食い、いい女と遊び、したいことを大いにやるために金をかせぐ、金をかせぐために働く、人生をエンジョイするのが主で、仕事は従である。だから必要以上には働かないという民族がいるのにたいし、日本人は、仕事のために仕事をする。仕事に生きがいを求め、仕事のみに生きがいを求める人さえいる。

 日本人は、そういう意味ではまさしく非エコノミックな人種である。経済外的な動機で働き、経済外的な代価で満足する。経済外的な要因で働けるがゆえに、エコノミックな戦いで破れることがない。とどまることがないからである。金もうけをしてもその使い方を知らないからである。したがって、逆にエコノミック、アニマル化することにもなる。

 日本人は、本質的に非エコノミックであるがために逆にエコノミック化するというのは、いかにも皮肉な逆説である。しかし、笑ってばかりもいられない。それがあまりに人間ばなれしているために、諸外国から非難されることにもなっているわけである。

 インドネシア人は、ほとんどアルコールを飲まない。飲むにしても日本人のようにカプ飲みし、むやみとさわぎたてることはまずない。これは、宗教的戒律の影響なのでもあろうが、日本人が、酒をガブ飲みし、むやみとさわぎ立てるところにも、日頃の禁欲生活の反動という先祖代々の悲しい習性がしみついているような気がしてならない。

 われわれとしても、“後進国”のインドネシア人に負けぬように、これからは大いにうまいものを食うことを始めなければならないのではないか。(完)

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