| 論文(講演)の部屋 |
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これからの住宅 ー我が家の経験を通して考えるー
(1983.4.29執筆/2007.3.2掲載) |
(解説) 私は、1979年〜80年に自宅を新築したのだが、このエッセイは、その3年後の1983年4月29日に、新築にあたって考察・考慮したことについてと りまとめたものです。400字詰めの原稿用紙10枚にぴったり収まっているところを見ると、おそらく、懸賞論文にでも応募するつもりで書いたのだろう。最 近発見したので、ここに収録することにした。 その家に、24年たった今も満足して住んでいることから、建設当時に考察・考慮したことの正当性が、証明されているように思う。 |
(本文) 私どもが、私たち家族にとっての「これからの住宅」について、あれこれと話し合ったり、あちこち住宅展示場を見て回ったり、色んな住宅関係の書物を読み あさったりした時からもう4年もたちました。あの頃は良くあれだけ新居造りに熱中したものだと、今になってみると懐かしく思い出されますが、その努力の成 果でもある新居に移り住んで3年、100%満足とは言わないまでも、家族ともども大いに満足して住んでおりますので、努力のし甲斐もあったというもので す。新居を建てるにあたって、私ども家族がいろいろと考えたことが、それなりに正しかったという結論が出たようにも思えますので、その体験を踏まえて、こ こではできるだけ具体的に「これからの住宅」について考えてみたいと思います。 それに、私たち家族の構成が、日本においては、ほぼ標準的な構成であることも、大方のご参考になろうかと思います。私ども夫婦が昭和10年代の生まれ、 子どもが二人で、娘が中三、息子が中一、それに妻の両親が大正生まれという6人構成のいわゆる三世代同居の家族です。 世代が異なれば、価値観や生き方も異なり、住宅に対するイメージ、欲求も違います。その意味で、新居の建設にあたって、家族全員参加で徹底的に話し合っ たことが、結果として誰もがほぼ満足しうる住宅に仕上がった最も大きな要因と言えるかも知れません。例えば、老夫婦の部屋は日本間とし、台所は、私ども家 族4人のそれとは完全に別にしました。水臭いと思われるかも知れませんが、考えてみますと、これは重要なことです。世代が違えば食べ物の好みが違うのは当 然なのですから、一日三度の食事を少しでも遠慮して好みに合わぬものを食べるようなことになれば、お互いに感情的に面白くなくなる可能性があります。 また、老夫婦が自分で食事を作らなくなると、精神的な独立性が失せ、他人に依存するようになり、早く老け込む原因ともなりかねません。台所が分かれてい ても、時には一緒に食事をすることも可能なのですから、一緒に料理してもよし、別々に料理してもよし、その時その時に応じて多様に対応できるようにしたの は、成功だったと思います。 この多様な生活の仕方に対応できるように、という考え方は、設計にあたって、私どもが最も重視した哲学のひとつです。 住宅は、かつては一代限りのものとして考えられてきましたが、現在では技術的な進歩もあって、従来の住み捨て型から、何世代にもわたって住み続ける型へ と変わってきております。その意味からも、多様な住み方が可能な住宅を考える必要があります。私どもの新居は一応60年もの耐久性があるとして考えたので すが、60年もの間には、家族構成も変わり、住む人のライフステージも、ライフスタイルも変わり、その組み合わせもいろいろ変わります。また、時代の変化 によって住宅に求められる機能もいろいろと変わってくることも考えられます。 例えば、エレクトロニクスの進歩によって「自宅勤務」やホームバンキングなどが普通の時代が到来することが十分予測されます。そうした様々なライフスタ イルの組み合わせや時代の変化にも対応できる、いわば汎用性のある住宅を作ることが、私どものひとつの狙いだったわけです。 ここでちょっと住宅の果たす機能について考えてみますと、その多彩さに驚かされます。 住宅は、生命を持つ生き物としての人間の再生産の場であり、住み処であると同時に、知能を持つ人間の知的生活の場でもあります。住宅は、何よりも、この ような多様性、多面性、複雑生、可塑性を持つ人間の存在を許容し、その自己実現を可能とするものでなければなりません。それぞれに全く個性の異なる複数の 人間が生まれ、育ち、生活し、時には病み、そして、死ぬまでの生活を共にする場として、そのいかなるライフステージにも、いかなるライフサイクルの組み合 わせにも適応できるものであることが必要なわけです。住宅は、人間再生の場、生活の場、安らぎの場、人間交流の場、コミュニケーションの場、教育の場、レ ジャーの場、遊びの場、知的生産の場、労働の場など様々な機能を果たしています。その一部の機能にでも欠陥のある住宅に長年にわたって住まざるをえない場 合、人々は住みづらさを覚え、ストレスを感じ、フラストレーションのあまり、病気にさえなりかねません。 確かに、住宅には、金をかければそれだけ良くなる面があることは否定できませんが、しかし、それだけで住み良い住宅ができるものではないのは、結局、そ こに住む人間について、いかに的確なコンセプトを持つかにかかっているからに他なりません.人間に対する正しいコンセプトがあってはじめて、住宅そのもの に対する正しいコンセプトも生まれてくるわけです。 住宅も、今や質の時代であるといわれるのは、単に夜露がしのげ、住めれば良いという時代から、多面性を持つ人間の住む居住空間として住宅をとらえなけれ ばならない時代へと移りつつあるからに他なりません.例えば、私どもが、独立した寝室や個室を設けて、夫婦や子供一人一人のプライバシーが完全に保たれる ように設計すると同時に、家族のコミュニケーションをも重視して、一家団欒の場として、14畳の洋風の居間と6畳の食堂を中仕切り壁で一続きとし、台所 も、セミ・オープンにしたのもそのためです。独りきりになりたければ個室に入り、家族全員が集まりたければ、20畳を越える空間があります。ここでは、も ちろん親戚や友人知人を招いてパーティも可能ですし、独りで静かにレコードに耳を傾けることもできます。限られた予算の許す範囲でできるだけ広い空間を 作っておけば、その利用法はアイデア次第でいくらでも多彩にすることが可能です。 ところで、住宅における間取りの重要性は誰しも強調することではありますが、これは住宅に求められる様々の機能をいかに的確に結びつけるかという観点か ら、慎重に考慮すべき問題です。住宅に求められる機能が全て備わっているにもかかわらず、住みづらい住宅があるのは、住む人の動線を十分考慮に入れずに設 計されたからに他なりません.例えば、風呂場や便所に行くのに、別の部屋を通り抜けなければならない家がその典型です。我が家の場合、玄関から廊下伝いに 全ての部屋に出入りできるようにしたのも、各人の動線を重視しつつ、各部屋の汎用性を高め、各人のプアイバシーを尊重したからに他なりません. 住宅というものは、一種の「空間」のデザインとしての側面を持っております.私どもが、「狭くて息が詰まりそう」というとき、それは必ずしも物理的に息 が詰まるというより、精神的、感覚的に息が詰まることが多いものです。その意味で、生き物として生理的にいらだたない広さとともに、知的な生き物としての 知的活動を妨げない広さが必要なのです。 物理的な広さと演出された広さとは決して同じではありません。通気、温度、湿度、採光、照明、部屋の形状、色彩、天井の高さ、家具、調度品、敷物、その 配置等々によって、同じ広さの部屋も、息が詰まったり、のんびりできるものにもなり得ます。 空間をどう演出するかこそ住宅設計の使命です。「ゆとり」ある生活を送れるかどうかは、まさしくそうした、住宅自体の「ゆとり」ある空間の演出如何にか かっていると申せましょう。納戸をもうけ、クローゼットを作り付けにし、収納家具をできるだけおかず、部屋のラインや色彩は、シンプルですっきりさせる、 これが、私どもが心がけたことでしたが、先日我が家を訪れた外国人が、この家にはゆったりした空間があるので、日本の家屋では初めてゆっくりできたと言っ てくれたとき、我が意を得たりと思ったことでした。 住宅を考えるとき、もう一つ忘れてならないのは、住み易さや使いやすさと同時に、それを維持、管理、修理し易いものであることが重要です。例えば、住宅 は毎日掃除するものです。その意味では、掃除し易いということは、主婦にとってはきわめて大切なことです。私の家の場合、トイレは洋風にし、洗面所と一緒 にしました。別々にすれば、それぞれが狭くなり、掃除もし難く使い勝手も悪かったことでしょう。また、洗濯も台所仕事をしながらできるように設計しまし た。 私どもの新居は、都心に近いところに建てたこともあり、耐火、耐震、保安を重視し、それに優れた材質を選んだことは申すまでもありません。それに、緑の 少ない都心でもあること故、できるだけ庭の面積を広く取り、その庭も通りから眺められるように配慮するとともに、通りに面した塀には花壇を設けて、少しで も通る人の慰めになるようにと心がけました。 つまり、住宅は地域コミュニティに開かれたものであることが必要と考えてのことです。日本の住宅ー特に都会のそれはコンクリートブロック塀で囲い込ま れ、あまりにコミュニティに背を向けた住宅が多すぎます。小さな庭と花壇ですが、これはささやかながらコミュニティに開かれた住宅に対する私ども一家の主 張です。 もとより、これからの住宅を論ずるにあたっては、もっと人間性を重視した都市空間、住居環境の整備が必要と主張することもできますし、確かにどんなに立 派な住宅を建ててもその環境が悪くては台無しではありますが、各人がささやかであるにしろ、人間性を尊重した住居環境の演出のために実践することも重要と 思うのです.そういう努力が積もり積もらない限り、たとえどんなに都市の社会資本が整備されようとも、人間性の尊重された住宅環境が、ある日こつ然と形成 されるということは決してあり得ないのですから。 (1983年4月29日記す) |