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手紙 2 女将 3 悪妻 4 自供 5 新聞 6 聴取 7 友人 8 死体 9 会議 10 窮地 11 人情 12 手紙(完) 1999/2/8掲載完了 |
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六月十日のことである。
K市のN県警K警察署に一通の手紙が舞い込んできた。
「市役所建設行政課勤務の園田安治庶務係長は、汚職をしております。五月
二十五日及び三十日の夜、市内の某料理店で、加藤建築株式会社の専務と会い、市営高層住宅建築工事請負契約の落札予定価格を教えて現金を受け取った疑いが
あります。一市民として看過できません。迅速なるお取り調べをお願いいたします。」
手紙は、縦書きの便箋用紙に筆跡を隠すためか新聞紙の活字を切り張りしたものであった。活字が摩耗して、インクが滲ん
でいることや、黄色っぽい紙質から推してK市にある唯一の地元新聞であるK新報を用いたことが、一目で分かるような代物であった。
K市は、九州N県の中央部に位置する古い城下町で、人口五万にも満たない風光明媚な小都市である。
手紙を届けられた署長の宮崎が、胡散臭そうな顔をしたのも、K市のような小都市には、汚職事件は似つかわしくないと考
えていたからで、捜査にはあまり乗り気になれなかったが、放っておいて警察の怠慢というようなそしりを受けてもまずいと思い、とりあえず、ちょうど手の空
いていた捜査課の荒木作蔵巡査部長を捜査主任に当て、この投書の真偽を確かめてみることにした。
荒木巡査部長は、県警の中でも有能で馬力のある人物として知られていたが、体はむしろ小柄で、丸い顔の真ん中に団子鼻
が胡座をかいており、笑い顔には何とも言えない人なつっこさがあって、制服を脱いでしまえば彼の職業を当てられる人はまずいないという人物だった。
荒木は、宮崎署長から指示を受けるとすぐに若手の刑事の中で日頃から目をかけている松野大助巡査を呼び寄せた。
「松ちゃんよ。すまんが、この園田安治ちゅう男を洗ってくれんかい。こいつは何となく面白か事件になるごたっぞ」
そういいながら、荒木は顔の真ん中の大きな団子鼻をひくひくと動かした。荒木の嗅覚は、警察犬も顔負けだ、とくにあの
太か団子鼻んひくひくと動き出しよったときにゃ、というもっぱらの評判だったので、松野は持ち前のドングリ眼を荒木の顔の真ん中にじっと注ぎながら快い旋
律が背筋を走るのを感じていた。
と次の瞬間荒木は
「ハックショーン」
と署内に響きわたるような大きなくしゃみをした。松野には、荒木の鼻のひくひくが、はたして事件に対する嗅覚から生じた
ものか、くしゃみのためなのか分からなくなった。
松野大助は、K市の南隣にある、流しそうめんで名高いY村の農家の次男坊で五年前K市の県立商高を卒業と同時にこのK
署に就職したのだった。県警の松野といえば、N県の剣道界では知れ渡った名前で、中二のときに始めた剣道は、今では五段の腕前で、署内一であることはもと
より、県体では、ここ三年連続優勝しているほどの猛者だった。しかし、猛者とはいうものの根は優しく
「松ちゃんよ、お前も竹刀ばかり振り回しておらんと、時にはおなごの子の尻でも追いかけんことには、嫁御ん来てはなか
ど」
などと宴席で荒木にからかわれても
「わしゃまだおなごん子はこわかとです」
とその大きな体を小さく丸めてみせて、皆の爆笑を誘うなど、人気者でもあった。
松野は、荒木から手紙の写しを受け取ると早速園田安治の捜査に着手しようと、私服に着替えてK署を飛び出して行った。
警察署と市役所とは、K市の中央大広場を挟んで向かい合っているので、歩いても五分とかからない。五階もある市役所の
庁舎はつい一年前に新築されたばかりで、設計をK市出身で、前衛建築家に与えられるH氏賞を受賞した新進建築家に依頼したせいか、古い城下町には珍しい斬
新なデザインで、市民から
「城下町に、あげなはでなもんば建ててんどうもしっくり来んごたるばい」
と批判する声が絶えない。
松野は、市役所に行く道すがら、園田なる人物は、かなり悪人面をした男に違いあるまいと考えていた。ところが、エレ
ベーターで四階に上がり、建築業者らしい人物が足繁く出入りしていて、なんとなく雑然とした建築行政課に業者を装って顔を出し、総勢二十人近い課員の顔を
眺め回しながら、
「園田庶務係長さんは、どん人ですか」
と近くの業者用の待合いベンチでたばこをくゆらせている真っ黒に日焼けした角刈りの若い男に尋ねると
「園田さん?ああ、あの隅に座っとらす方ですばい」
「あん人ですか?」
松野は、少し肩すかしを喰ったような思いだった。
事務机に一人の貧相な男がちょこんと腰を下ろして、一生懸命に鉛筆を動かしていた。短く刈り込んだ頭は、少し薄汚れた
感じのするゴマ塩頭で、歳はもう五十を越しているようにみえる。紺の背広は、かなり着古したものと見えて、遠目にもテカテカ光っている。
園田は、何やら書き終わるとひょこひょこと「相良建築行政課長」と書いた黒い木札の置かれて机の前に行き、椅子に寝そ
べるような格好で新聞を読んでいる男に前にその書類を差し出した。
新聞の陰から顔を出した男は園田係長より十以上若く見える。太い眉毛の下の目は小さいが、机の前で最敬礼した園田係長
を見る目つきは鋭い。唇は厚く肉欲的だ。この男が相良課長に間違いない。
松野が園田の様子をうかがっていると、課長の厚い唇が動くたびに園田係長はぺこぺことさかんに頭を下げている。
課長の声がかなり高くなったとみえ、園田の耳にも「けしからん」とか「君は何年役人の飯を食っとるのかね」といったよ
うな言葉が聞こえてくる。出入りの業者でざわめいていた室内が急に静まり返り、課員はもとより業者までも、課長の方を息を呑んでうかがっている。
その気配を察したのか課長は、
「君、もう一度書き直してきたまえ」
と厳しい口調で早口に言うと、書類を園田の前にポンと放り投げた。その拍子にどうした弾みか書類はヒラヒラと空中に舞い
上がり、園田のゴマ塩頭の上からパラパラと降り注いだ。
園田は、あわてて床に散らかった書類をかき集めると、課長にもう一度最敬礼して背中を丸めながら自分の机に戻った。
「ふーん」
松野はため息をついた。
剣道にしても、相手が強ければ強いほどファイトの出る性分なのだ。相手が、何事もなかったように椅子にふんぞり返って
新聞を読み始めた相良課長だったらファイトが湧いたろうに。ところが、当面の相手は、しなびたキュウリのような園田係長なのだ。トーナメントの一回戦で段
違いの弱敵に当たったようなものだった。こんな相手に勝ってみたところで一向に面白くない。松野はもう一度園田係長の方を盗み見た。園田は相変わらず、目
をしょぼつかせながら、右肩を心持ち高く持ち上げるような格好で鉛筆を動かしている。気のせいか、その頬のこけた顔に死神がとりついたような暗い影がさし
ているように思えてならなかった。
おあつらえ向きとはこのことだった。
松野巡査が尾行を開始した翌日、園田は、午後六時過ぎに市役所を出るとその足で「おたふく」という小料理店に足を運ん
だのである。辺りはまだ、充分明るい。
「おたふく」は、市役所のある大広場から、南へ約二百メートル、市内一の目抜き通りを抜け、右手に少し入った横丁にあっ
た。玄関先には、柴竹の植え込みがありその陰の小さな池では、数匹の錦鯉が、その大きなずうたいを持て余すかのようにのんびり泳いでいた。家の造りは切妻
風の二階屋で、隅々までたっぷり水を打った玄関口からのぞき込むと、赤い絨毯の敷き詰められた廊下を和服姿の女性があわただしく行き来している。
松野は、表玄関から入り込むのはまずいと思い裏口に回った。折良く勝手口から、紫色の和服を着た仲居らしい中年の小柄
な女が出てきた。後ろから呼び止めると
「えっ」
何を驚いたか、すっとんきょうな声を出して振り向いた女の顔は、こっちが驚くほど平べったく、えらが張っている。松野
が、警察手帳を示すと、それだけで顔色がみるみる青くなった。今、表玄関から入った客について少し聞きたいことがあるのだがというと、小さい目をいっぱい
見開き、
「ワ、ワタシは何もぞんじましぇん。女将さんに聞いてくだしゃい」
とバッタのように腰を深く折り曲げながら松野の先に立って歩き出した。
通された二畳ばかりの小部屋に腰を下ろして、ところ狭しとぶら下がっている女物の和服を物珍しげに眺め回していると
「お待たせいたしました」
艶のある声から先に、鮮やかな青地に白の花模様の和服を着た中肉中背の女が入ってきた。松野の前にきちんと膝をそろえ
て座ると両手をあわせて深々と頭を下げた。その拍子になんともくすぐったい香水のにおいが松野の鼻腔を刺激した。
「店の方が立て込んでおりますのでこんなむさ苦しいところへお通しいたしまして申し訳ございません」
松野は、女将の丁寧な挨拶に戸惑いながら
「はあ、突然にお邪魔しまして」
「それで、どんなご用件なのでしょうか」
頭を上げた女将の顔を見ると、小さな鼻ながらすっと鼻筋が通り、二重瞼の目は黒く光っている。唇はふっくらとして口許
から自ずと微笑がこぼれるかのよう。女将というより若い芸者の感じがする。松野はいっそう気後れして
「あっ、あのぅ」
と口ごもった。ワシは取り調べに来た警官じゃなかか、しっかりせにゃと自分自身に言い聞かせて、
「あ、あのぅ、先ほど客があったでしょが、あの客の名前は知っとらすとでしょな」
「ええ、よく存じ上げてますよ。それで何か」
女将は、ちょっと小首をかしげた。その拍子に襟足の白さが松野の目に飛び込んでくる。
「あ、あの客は、市役所の園田という係長に間違いなかですな」
「ええ、園田さんですが・・・」
「今、何ばしとらすとですか」
「お酒を飲んでおられますよ」
「一人でですか」
「いいえ、もう一人の人と」
「そ、そのもう一人の人ちゅうのは誰ですか」
「わたしです」
「あんたと?」
「ええ、わたしとでは悪かですか」
「いや、悪かことはなかばってん、園田はここではいつもあなたと飲むとですか」
「いいえ、そんなことはありませんよ。二人で飲むのは今夜で四度目だったかしら。三月ほど前に園田さんがお一人でお見え
になって、急にわたしと二人きりで飲みたいと言い出されて・・」
「女将さんは、園田と何か個人的に親しかとですか」
「別に・・・でも園田さんは市役所の庶務係長さんでしょ。庶務係長さんと言えば、宴会のときは決まって裏方さんでしょ。
あの方にはいつもご贔屓にあずかっていますからねぇ。もう十何年来、おつき合いさせて貰ってます」
「それで、先月の末頃、園田係長がここで加藤建築株式会社の専務と酒を飲んだちゅう話があるとですが、ホントですか」
「そうですわねぇ・・・」
思い当たる節を捜しているのか、それとも言い淀んでいるのか女将は左手で畳の縁をなでるような仕草をしながら、指先に
目を落としている。その中指に真っ赤なルビーの指輪が輝いている。
やや落ち着きを取り戻した松野が、女将の横顔にじっと目を注ぎながら
「正直に言ってもらわんと困りますよ」
やっと警官らしいことを言った。
「ええ」
何かを決心したかのように女将は目を上げ、まともに松野を見た。松野は、その女臭いきらきらした目が眩しくて思わず目を
伏せた。剣道で言えば気合い負けもいいところである。
「確かに園田さんは加藤建築の松平専務とつい二週間ほど前、ここに来て二度ほどお酒をお飲みになりました」
「それは先月の二十五日と三十日のことじゃなかですか」
「はっきりとは覚えてませんが、そのあたりだったんじゃないかと思います」
「そのとき、どんな話ばしたか、わからんですか」
「わたしも時々顔を出しましたが、ありきたりの話ばかりのようでした。そうですね、園田さんのお好きな碁の話とか盆栽の
話とか」
「園田は、碁とか盆栽ばやるとですか」
「ええ、碁は五段か六段の腕前ですよ。市役所じゃ一番強いらしいですよ。盆栽もお宅に五百鉢もあるということですよ。と
にかく、凝り性なお方ですからねぇ、園田さんというお人は」
女将の声音には、尊敬の念がこもっている。
「それで飲み代の支払いはどうなっとるんですか」
「ちゃんと支払ってもらってますよ」
「園田が支払うとですか、それとも・・・」
「ええ、園田さんがきちんと支払って下さいます」
「でもこんなところで飲めば、随分高かとじゃなかですか」
「いいえ、そんなことはありませんよ。わたしどもみたいな小料理店じゃ高が知れてますよ。それに、園田さんのようなおな
じみの方には、ぐんとお安くしておりますし」
「一回飲めばどのくらいになるとですか」
「お人によって違いますけれど、せいぜい三千円止まりですよ」
「松平専務と一緒のときは、どっちが支払うとですか」
「さあ・・」
「松平が支払うとでしょ」
「そんなことまで覚えておりませんが」
「いつも現金ですか」
「・・ええ、でもおなじみの方ですから、ツケのときも・・」
「それじゃ帳簿ば見せてくれんですか」
女将の顔にチラッと警戒の色がさした。相手は宴席の客ではなく警官なのだ。
「いちいち、どなたさんに支払ってもらったのか、そこまできちんと帳簿につけておりませんので、帳簿をお見せしても、
はっきりしたことはわかりかねると思いますが・・」
そのとき、後ろのふすまが三寸ばかり開いて、さきほどの平べったい顔の仲居が顔を出した。
「女将さん、ちょっと」
「ちょっと失礼させてもらってもよかでしょか」
女将は、いい潮時に援軍が現われたと言わんばかりに半分腰を上げた。
「それじゃ、ワシもこの辺で失礼します。ワシが来たことは、誰にも内密にしといてくれんですか。そっちの人もよかです
な」
松野はそう言うと、やや意外な顔で自分の方を見ている女将に、ぴょこんと頭を下げて表へ出た。
ほてった顔に冷たい夜風が気持ちがいい。人通りのない裏道を署へ戻る道すがら、
「よか女じゃなぁ」
松野はため息をついた。あんな別嬪と一度でいいから差しつ差されつ飲んでみたいものだ。それにしても、あの園田という
男、役所ではまったく風采が上がらなかったが、あの料理店では相当な顔と見えて、あんな別嬪の女将と差しで飲んだりしている。その上碁は五段とも六段とも
言うし、盆栽は五百鉢も持っているという。こいつは少々骨のある人物かも知れないな。
松野は左手で、知らず知らずのうちにあごをさすっていた。これは強敵に出くわしたとき、松野がよくやるポーズなのであ
る。
「あげな女房じゃ、園田さんが気の毒でならんですたい」
松野が聞き込みに言った酒屋の親父は、みごとにハゲ上がった頭を大袈裟にのけぞらせながら言下に言った。
松野は園田の妻の信枝が、もう二年あまり県立病院で入院加療中という情報を掴んで「入院→物要り→汚職」という図式を
描いて、園田の家のある城東町の角の酒屋に聞き込みに来たのだった。
「そりゃもう、ひどかもんだったですばい。あの奥さんな、市役所の忘年会にまでずかずか上がり込んで行って、お父ちゃ
ん、暮れのこん忙しかときに、こげん遅くまで飲むことはなか、もういい加減に帰りなさい言うて、園田さんが引きずり出したちゅう武勇伝もあるぐらいでして
な。園田さんの実の母親の生きとらしたときには、家事から子供の世話まで全部押しつけち、自分はしょっちゅう出歩いておらしたし、しかも、はでな着物ば羽
織ってからに。母親の早死にされたのもあの奥さんのせいちゅう評判でしたよ。子供はとにかく産みっぱなしでしょが、あげん風に放り出しにしとれば、子供の
ぐれるとは、もう当たり前ですたい。二番目の娘が高二のときすっかりぐれて、家出したとですたい。なんでも大阪から流れてきたチンピラやくざにひっかかっ
たちゅうことですばい。娘ん家出したと分かったとたん、あの奥さんは、気違いのごとなって、高校の担任の先生のところへ押し掛け、「娘ば返せ」言うち、そ
こらじゅうにあるものば手当たり放題投げつけたちゅうことですよ。以来ばったり床に就いてしもうて、今も、入院しとらすわけですたい。あそこん痛か、ここ
ん痛かと言わすけれど、今もって原因ははっきりせんそうで、県立病院のお医者さんも今じゃ匙ば投げとらすと。ひょっとしたら、仮病じゃなかかと、わしらは
思うとります。娘さえ帰っちくれば、すぐ直るとじゃなかですか。それに、寝込んでおきながら、園田さんば馬鹿呼ばわりして、何ばぐずぐずしとっとね、早よ
汗ば拭け背中ばさすれの、そりゃまるで召使いのごとこき使うてみたり、冬の最中にスイカば食わしてくれの、役所には行かんで看病してくれの、無理難題ば吹
きかけち、わしらもそげな話ば聞くたびに腹の立って仕方のなかとですたい。園田さんも人の良かもんじゃから、ハイハイ言うていっちょん逆らわずにおんなさ
る。園田さんのごと出来た人でなきゃあすこまでは出来んと感心しとるわけですたい。
それでも一年ほど前だったでしょか、奥さんの「あんた今晩は宴会には出んと、役所の引けたら、まっすぐ病院に来て下さ
い」ちゅうのを「そぎゃんこつは出来ん」と蹴っ飛ばしたちゅうことで、それからは奥さんも少しは良うならしたということですばい。ばってん根性の腐っとら
すお人じゃけん、園田さんの苦労はなかなかなくならんでしょたい」
「銀行に勤める娘さんがあるという話ですが・・」
「ああ、理恵子さんのことでしょ。あん娘はどうも母親の血ば濃ゆう受け取るらしくて、母親の看病に全く行かんで好き勝手
なこつばかりしとるちゅう話ですたい。もっとも、生まれたときから母親にゃ世話らしい世話もして貰わんじゃったとですけん仕方んなかことかも知れません
が・・・高校ば出てから市内の十九銀行に勤めとらすけれど、家には一銭も入れず、せっせと嫁入り資金に貯めとらすちゅう話ですたい。ばってん、あの母親似
ということじゃ、男の方が敬遠してなかなか嫁に行く先もなかでしょたい。器量は悪うなかとですが・・・」
「次女はまだ、行方不明なわけですね」
「一度だけ、三十万円金ば送ってくれちゅう手紙の来たとき、園田さんが大阪まで手紙の住所を尋ねて行かれたという話です
が、訪ね当てたたところが、何とかプロダクションとかいうところでおまけに出てきたのがやくざのごたる男で、金を渡さんと娘には会わせんと言い張って、結
局娘さんには会えずじまい、それっきり娘の方からは音沙汰無しということらしかですな」
「あと一人、今年大学に入学した長男のいるということだったですが・・」
「ああ、達夫さんのことでしょ。あの子は良か息子ですばい。この四月に九大の工学部にストレートで入りましてな、一つ上
の姉は家出する、母親は入院中といった悪条件にも負けんで、よう頑張ったと近所でも評判になりましてね。父親に似たんですな。受験勉強で忙しかときにも、
良く父親の手伝いばしとりましてな。わしの店にも、ときどき園田さんの晩酌用の酒やおつまみを買いに来とりました。近頃珍しか親孝行者ですたい」
「園田さんは、晩酌ばやるとですか」
「それがまたどげん風の吹き回しか、一年ほど前から急にたしなむようになりましてね。もともと酒は弱か方で、宴席でもお
銚子一本がやっとということだったらしかですよ。そげん人ですから、自宅では一滴も飲まれんだったとですがね。もっともあの奥さんの目の前に坐っておらし
たんじゃ飲む気にもなれんだったとでしょがね・・」
「食事の世話は、その理恵子さんがやっとるとですか」
「そういうことらしかですね。でも、酒の肴までは世話してくれんようで、園田さんが、ご自分でときどき、役所の帰りにう
ちに寄って、酒やおつまみを買って行かるっとですよ。なんとなくかわいそか気のしましてなぁ」
「署までご一緒願えませんか」
「おたふく」から出てきた園田の背後から松野がポンと肩をたたくと、園田はぎくりと足を止めた。
六月二十二日、松野が園田の尾行を始めてから三度目の「おたふく」通いの夜のことである。しかも、この夜は加藤建築の
松平専務と会っている。専務の方は、一足先に「おたふく」を出た。これも二人一緒のところを目撃されないための配慮なのだろう。
傍証はかなり上がっていた。
六月上旬に行われた市営住宅建設工事の指名競争入札を、加藤建築が二回にわたって落としている。二つとも一番札で落札
予定価格すれすれの線での落札である。二件の請負総額は一億五千万円を少し下回る程度。市営住宅の年間予算が約三億円だからほぼその半額に当たる。加藤建
築は、もともと、県庁のあるN市が本拠で、K市では新顔に近いが、ここ二、三年のうちにK市でも官庁工事を中心にかなり急速に伸びてきた企業である。
庶務係長の園田は職掌柄落札予定価格を知りうる立場にあることもわかっている。
ただ、汚職事件は物的証拠を挙げることがなかなか難しい。とくに現金の授受となるとその現場を押さえない限り不可能に
近い。したがって傍証を充分固めて、本人の自白を待つよりないところがある。
任意同行を求められた園田は、別に抗議するでもなく素直に付いてきた。園田を取調室に待たして、松野が荒木部長を呼び
に行くと荒木はK新報の井上記者と雑談をしていた。K署によくやって来る記者といえば、この井上ぐらいなものだが、歳が若いせいか少々強引なところがあっ
て、松野も荒木から、あの男には注意するように言われている。そこで松野は、衝立のかげから手真似で
「部長、ちょっと」
と合図した。
「なんか面白か事件でもあったとですか」
井上記者は松野の合図に気づいたと見えて身を乗り出して来た。時計は夜の十時を回りかけている。荒木が今頃まで残って
いるのがおかしいという新聞記者(ぶんや)の勘で粘っていたに違いない。
「なあに大したことはなか。松ちゃん、あの件なら、明日でよか。今夜はこれで失敬するよ」
松野の合図を全く無視するかのように
「井上さん、一緒に帰りまっしょ」
荒木は記者の腕を取るようにして出ていってしまった。
一体部長は、どういうつもりだろう。園田を引っ張って来いと言っておきながら、先に帰ってしまうなんて。
松野が腹を立てて取調室の前を行ったり来たりしていると、
「松ちゃん、スマンスマン、ずいぶん待たせたな」
荒木が、あぐらをかいた鼻の頭に大粒の汗の玉を浮かべながら戻ってきた。新聞記者をなんとかまいてきたというのであ
る。
「あげなさかりの付いたスッポンのごたっとに喰いつかれたら、なんでもなか事件まで大事件にされかねんからな」
松野が荒木と一緒に取調室に入ると、いつか市役所で見たときとおなじようにしょぼくれた格好で、園田がちょこんと机の端
に坐っていた。
「実は園田さん、こげなものが、わが署に舞い込んで来よりましてな」
荒木は、園田の前に、例の手紙を拡げて見せた。
「・・・はぁ」
園田は、手紙をチラッと見ると、両肩をすぼめて頭をたれた。
「火のなかところに煙はたたんとか言いますな。心当たりはなかですか」
「・・・はぁ」
「はぁ、はぁと言うだけじゃ、何にもわからんじゃなかですか。ここに書いてあることは事実なのか、それとも事実無根なの
か」
荒木が語気を強めた。
たとえ否定したところで、証拠はちゃんと挙がっているんだぞ。先月の二十五日と三十日の両日、加藤建築の松平専務と会っ
たことは、「おたふく」の女将が証言している。しかも、今夜だって、松野が尾行しているとも知らず、松平と会ったばかりではないか。加藤建築が、落札予定
価格すれすれで落札した事実もわかっている。妻が入院中、長男が大学合格、あまけに五十過ぎて酒の味を覚え、このところ四、五回も「おたふく」の女将と酒
を飲んでいる。さぞ、金が要ることだろうな。
荒木は、次に言うべきことを心の中で用意していた。
ところが、園田は机の上に額が付くほど低く下げると、瞼をパチパチ瞬きながら、蚊の鳴くような声で、
「この手紙にありますことは、間違いございませんです」
あっさり事実と認めてしまったのである。
拍子抜けしたのは、荒木と松野の方だった。
荒木が追求するまでもなく、園田はすらすらと、五月二十五日と三十日の両日、加藤建築の松平専務と「おたふく」で会
い、市営住宅建築工事の落札予定価格を教えて、そのお礼に現金三万円を受け取ったと陳述した。
余罪はないかとの追求には、先にも後にも、これっきりです、と言って口をつぐむ。
「この手紙の差出人には心当たりはないのか」と聞いても、まるっきりありませんと荒木の目をまともに見返す。荒木もその
澄んだ目を見ていると嘘を言っているようにも思えず、その夜の取り調べを一応その程度でうち切ることにした。
加藤建築が、一昨年来急速に、市役所から受注契約に食い込んできたのには、きっと裏があるに違いない。松野が集めてき
た情報を見て、荒木は、そう直感したのだ。園田はそのうち二件の受注についてだけ収賄の事実を認めたわけだが、これは、誰かに情報を握られたと言うことで
観念したからに違いない。余罪はきっとあるはずだ。ことによったら、もっと大物が背後に潜んでいるかも知れない。しかし、ここで攻め急ぎすぎると事件の全
貌を見失うことにもなりかねない。今夜のところは、園田に汚職の事実を認めさせただけで一応成果があったというべきであろう。
「今夜はひとまずこの程度にして、園田さんには、一晩ゆっくりお泊まり願うことにしようか。なぁ、松ちゃん」
荒木は、何となく嬉しそうな声で、松野にそう言うと取調室を出ていった。署長宅に電話を入れて、一応今夜の成果を報告が
てら、家宅捜索の了承を取ることにしようと思いながら。
”市役所で汚職発覚
市営住宅の工事受注に便宜
園田建築行政課係長を逮捕”
翌朝のK新報の一面トップに二段抜きの活字が踊っていた。
自宅でK新報を手にした荒木は一瞬狐につままれた思いがした。記事の内容は昨夜までの段階で警察がつかんでいる事実と
ほぼ正確に付合している。一体どこからネタが割れたのだろう。松ちゃんが漏らしたのだろうか。まさか?!それでは?
荒木は、朝飯もそこそこに、警察署に飛んでいった。定刻に現れた署長について、ずかずか署長室の中に入り込み、
「署長、まさか署長がこの記事のネタば漏らしたとじゃかなでしょな」
「荒木君、そう興奮するなよ。これは、わしと君とが半分ずつ責任があるようなものじゃよ」
「わたしに半分責任があるってのはどぎゃんこつですか」
荒木が詰め寄ると、署長はその気勢を逸らすかのように、机の上の湯飲み茶碗からお茶をごくりと一口飲んで、
「君からていよく追っ払われたとか言うて、あの井上記者が、昨夜遅くわしのところに来よってな」
「あの野郎、あれから署長のところに押し掛けましたか」
「そう言うことたい。仕方のなかけん、一緒に酒を飲んじょったら、君からの電話があったちゅうわけだよ。今ここに記者が
おるので後にしてくれというわけにもいかんじゃろが。わしも、かなりうまく受け答えしたつもりじゃったが、さすが相手はプロだけあって、すぐピンをきたら
しく、電話の内容ば教えてくれ、教えんことには、わたしゃここば一歩も動きませんちゅうて座り込んだわけじゃよ」
「座り込みましたか」
「女房から早よう帰って貰ってくれとせっつかれるし、井上はテコでも動かん面ばして構えとるし、わしもほとほと弱りはて
て、まだ新聞に書いちゃいかんぞと口の酢っぱくなるほど言い聞かせて話したんじゃ。まあ、君の報告によれば、三万円ばかりの大した汚職じゃなかということ
だったし、ホントにちょっとばかりしゃべったんだがなぁ、まさかそれがK新報のトップ記事になろうとはねぇ・・・」
「署長は、当市に赴任してまだ日が浅いので存じられんかも知れませんが、こんな小さか田舎町では、この程度のことがトッ
プ記事になってしまうとですよ。それに、あの井上記者には、オフ・レコはまず通用せんと思っておられんと」
「まったく口は災いの元だな。以後気をつけるけん、今日のところは君、勘弁してくれよ。な、荒木君」
署長に頭を下げられると、荒木もそれ以上、問いつめる訳にもいかなかった。三万円程度の汚職なら、起訴猶予にして、穏
便に済ますこともできたけれど、新聞に書き立てられた以上、それも難しくなった。これで園田係長の経歴には、拭い去りがたい汚点が付いたわけだ。園田の免
職はまず間違いなかろう。しかしたとえ三万円にせよ、汚職した以上、園田がそう言う目にあっても、仕方がないといえば、仕方がないことだ。
「しかし」
荒木は、下唇を噛んだ。この記事のためにこれからの捜査が極めて難しくなったことがより以上に重大事なのだ。園田の汚職
事件は、大きな汚職事件のほんの一端かもしれないのだ。やっとその一端を嗅ぎつけたところで、こんな記事を書かれたのでは、猫がわざわざ鈴を鳴らしてから
ネズミに襲いかかるようなものではないか。
今頃鈴の音に驚いたネズミどもは、証拠をこそこそと穴の奥に隠し込んだり、みんなで示し合わせて、穴の中に身を潜める
準備を始めているの違いあるまい。
荒木は、団子鼻が真っ赤になるにも厭わずごしごしとこすった。こうなった以上ぐずぐずしているわけにはいくまい。さっ
そく捜査官を総動員して、松平専務の身柄を拘束するとともに、市役所の建築行政課、加藤建築株式会社のK市支店、それに園田係長と松平専務の自宅の家宅捜
索に急行させる必要があった。
荒木が、K新報を片手に苦虫を噛みつぶしていた頃、同じく苦虫を噛みつぶしたような顔でK新報を見ていた人物が
いた。
「直子、今日は朝食を食っている暇がないよ」
いつものように眠そうな顔で朝食の準備に取りかかろうとしている妻の直子を制すると、相良課長は、そのまま玄関を飛び出
していった。
「あの大馬鹿野郎、へまをやりあがって」
役所へ急ぐ道すがら、相良は、園田に悪罵を浴びせ続けた。相良の目には、すれ違う人の顔も、右手前方に広がる松岳城址の
樹木の緑もまったく目に入らなかった。
二年前、相良は県庁から出向してきて、今のポストに就いた。市役所の課長の中では、一番歳が若いにもかかわらず、建築
行政課という利権の多い有力なポストを占めているのも、県庁出向組のエリートなればこそだった。将来、県会議員に打って出ることを目論んでいる相良にとっ
ては、将来の地盤になるK市のこのポストは垂涎の的で、ポスト獲得のためにかなりの運動もしたのである。このポストならば、地元の有力者連と接触し、相良
と言う人物を売り込むには打ってつけだった。事実、この二年間というもの自分の売り込みのため相当な精力をそそぎ込み、かなりの成果を上げた。そのため、
少々派手なこともやった。もちろん多少危険なことも。
「まさかあいつはしゃべりはすまい」
と思うけれど、相良は気が気ではなかった。新聞記事には、園田以外の人物の汚職のことは触れられていない。ただ、記事の
末尾に、事件は今後上層部にも及ぶ可能性があると書かれてあった。あれは、新聞記者の単なる常套句、あるいは、憶測記事に過ぎないのか。それとも、警察の
しかるべき筋から漏れた信頼性の高い情報なのだろうか。それとも、あの園田は全部しゃべってしまったのだろうか。
市役所に着くと、課内は、警察の家宅捜索を受けている最中だった。課員も仕事に手が着かぬとみえて、係官が園田の机の
引き出しやロッカーを引っかき回しているのを、呆然と見つめている。
相良が、机に坐るとそれを待ちかねていたように、
「相良課長さんですか、わたしはこういうものです」
机の前に現れた団子っ鼻の小柄な警官が名詞を差し出した。
K警察署捜査課巡査部長 荒木作蔵
となっている。その顔は、人なつっこくにこにこ笑っていて、相良の現在の心境にはどうもしっくりこない。胡散臭い奴だな
と思いながら相良が自分の名刺を返すと
「課長さん、何かご気分でも悪かとですか、えらい顔色の悪かですな」
「いやーこうむしむしと暑くちゃねー」
放っといてくれといいたいところを我慢して、相良は精一杯丁寧に答えた。
「課長さん、ちょっと二つ三つ教えてくれんですか」
荒木は、団子鼻をひくひく動かしながら、相良課長の前の椅子にどかっと腰を下ろすと、ポケットからたばこを取り出して
口の端に銜えた。
「課長さん、マッチは持っとらんですか」
この田舎警官め、俺にホステスの真似までさせるつもりかと腹の中では毒づきながらも、相良はつとめて冷静に、ズボンの
ポケットから金バリのライターを取り出して火をつけてやった。
「これはこれはどうもすみませんねぇ」
荒木はうまそうにタバコを二三度くゆらせると
「ところで課長さんは、園田係長が汚職していたことにこれまで全く気づいておられんだったとですか」
「そんなことに気づくはずがないじゃないですか」
「そいつは、部下の監督不行き届きですな」
「えっ」
いささか意表をつかれて、相良が、荒木の顔を見ると、
「いや、まあ、部下が汚職するかどうか、課長さんでも分かるもんじゃなかでしょな。ところで、園田係長の日頃の勤務ぶり
はどうだっとですか。なにかこう汚職するごたる様子のあったとか・・・」
「わたしの課には総勢20人おりますが、その中でも汚職と一番縁のない人物といえば、園田君じゃないかと思っとりまし
た。と言って他の部下が汚職に縁があるという意味じゃないですがね。ただ、わたしが、誰よりも彼を信頼していた。信頼して重用していた。それなの
に・・・」
「それなのに?」
「いや、信頼を裏切られたような思いがするということです」
「ほう、課長さんにそこまで信用されれば園田係長も悪か気はせんでしょな。この課は、何かと利権にからむ仕事が多かで
しょから、課長さんも、ずいぶんと神経ば使われるとでしょな」
「そりゃもう大変ですよ。相手は土建屋で気が荒い連中ばかりですからね」
「課長さんは、加藤建築の松平専務とは当然面識はあるとでしょな」
「ええ、一二度仕事のことであったことはありますがね」
「一緒に酒が飲んだことはなかですか」
「いや、そんなことは全くないですな」
「ほんとですか」
にっこり笑いながら真正面から聞き返されて
「ないと言ったらないですよ。嘘を言う必要がどこにありますか」
さすがの相良もむっとして思わずいつもの厳しい口調になった。
「まあまあ、そう口ば尖らせんで下さいよ。今のはほんの冗談ですよ。ちょっと人から聞いたとですが、課長さんは、なかな
かゴルフのうまかちゅうことですな」
「いやぁ、ヘタの横好きでしてね。からっきしダメですよ」
「コースにはよく出らるっとですか」
「公務員の安月給じゃ、せいぜい月に二回も行ければいいとこですよ」
「お宅には、奥さんとお子さんがお一人でしたね」
「ええ、女房と高二の息子が一人。でも息子とは別居してましてね。わたしが県庁からこちらに出向して来るとき、ちょうど
高校の入試の時期と重なって、N市でも進学率の高い高校にさいわい受かったものですから、そのまま残して来たというわけですよ。N市まで、急行なら、一時
間足らずの距離だし、N市にある女房の実家で預かってくれると言うことだったもんですから」
「奥さんと二人切りじゃ何かとさびしかことでしょな。わたしも子供が四人おるとですが、一番上の息子が二年前に東京に出
ましてね、一人減っただけだとですが何かもう歯の一本抜けたごつ寂しかもんです」
「確かに寂しいものですよ。女房も子供が恋しいとみえて、週末になると実家に帰りたがりましてね。そんなわけで、このと
ころ土日になるとわたしは独身同然でしてね・・・」
「土日独身とは、そりゃまた最高のご身分じゃかなですか。わたしも一遍でもよかそんな身分になりたかもんですよ。それ
で、奥さんは、県会議長の西岡武虎さんの娘さんでしたな」
「・・・ええ」
「富永君」
K新報に、園田逮捕の記事が出た日から三日目の夕刻のことである。相良課長は、総括課長補佐の富永博史を呼び寄せた。相
良が富永を呼んだのには訳があった。富永が、筆頭課長補佐であることはもとよりであったが、富永と園田は、旧制K中学の同級生で、住まいも近く、家族ぐる
みでつき合うほど仲がよいということを知っていたからである。
「富永君、先ほど警察からの連絡で、園田君の取り調べが一応終わったので保釈したということだ。おそらく園田君は、自宅
に帰っていることだろうから、君は今から早速、彼のところへ行って慰めてやってくれたまえ。まあ、ああいう記事が新聞に出た以上は、たとえ起訴にならなく
てもおいそれと役所に出て来るわけにもいかんだろうから、わたしからの指示があるまで自宅で待機しておくように伝えてくれたまえ。それから、この封筒を園
田君に手渡しといてくれ」
そう言うと相良は、富永に一つの封書を手渡した。
富永は、梅雨には珍しく晴れ上がった空から、西日がまともに照りつける松岳城址の堀に沿った道を園田の家へ急いだ。
この道を園田と一緒に中学校へ通ったのはもう三十五年以上も前のことである。あの頃と同じように左手に見える松岳城址
にはうっそうと樹木が生い茂っている。松、楠、椎、椿。学校の帰り道、園田とあの樹木の陰に寝転がって、ぼんやり流れていく雲を眺めたり、女学生の噂話や
教師の悪口などをよく話し合ったりしたものだった。
あの樹木を伐採して、観光用に天守閣を復元する話が市役所内で一時持ち上がったが、俺も園田も反対の先頭にたった。お
そらく園田にしても、青春の思い出の残っているあの森がなくなってしまうのが耐え難かったからに違いない。
今になって考えて見ると、俺たちにとってあのころが一番幸せな時代だったのかも知れない。就職難の時代に運良く市役所
に就職できてほっとしたのも束の間、相前後して軍隊に取られ、各地を転戦したあげく、あいつがフィリピンで、俺が南支で敗戦を迎え、さんざん苦労して復員
した。幸い市役所に復職できたものの、終戦後の約五年間というものは、東京で罹災して転がり込んできた姉一家や、両親、弟三人を抱えて、それこそその日暮
らしの連続だった。そのせいで結婚が遅れ、そろそろ定年を心配しなければならない歳だというのに、長女が高二、次女が中三、まだまだ手が掛かる。
三十年も勤めて二年前にやっと課長補佐に昇進した。園田よりは一足昇進が早かったというものの、おそらく俺にしても出
世はこれまで止まりだろう。役所では、大学出の十も歳の若い課長にあごで使われ、家に帰れば帰ったで、女房と二人の娘に、公務員の給料が安くて満足にお
しゃれもできないと愚痴られる。園田ほどに女房運は悪くなかったが、この頃、これが本当に俺が望んだ人生だったのだろうか、と考え込むことがよくある。何
となく空しくてしょうがない。これも俺が人生の盛りを過ぎたせいだろうか。それにしても人生の盛りなんて、なんとあっけなく通り過ぎてしまうのだろう。俺
が課長補佐に昇進して以来園田の家からすっかり足が遠のいてしまった。
十分も歩かないうちに城東町にある園田の家に着いた。玄関先に並べられた盆栽は、いつ来ても、手入れがよく行き届き、
青々としていたものだったが、今見るとなんとなく生気がないばかりか、中には葉の先が黄色く変色しているのさえある。園田が警察に拘置されていた間、誰も
手入れする者がいなかったせいなのだろう。
「園田、いるか」
ひっそりと静まり返っている家の中に声をかけると、玄関口に園田が音もなく現れた。その姿には、盆栽以上に生気がな
かった。頭の毛も、ごま塩を通り越して真っ白である。もともと痩せて見えるタイプなのに、頬の肉もごっそりこけて、体中の削れるところは全部削り取られた
かのようだ。
「たった三日見ぬうちに園田、お前すっかり爺むさくなったな」と思わず口にしかかって、富永はあわてて呑み込み、
「取り調べはきつかったんか」
「うん、まあな」
「課長も心配しとったぞ」
「そうか、ありがとうと言っといてくれ」
「課長の話では、しばらく自宅で待機しといてくれと言うことだった」
「今更、役所には顔を出せまいしな」
「あんまり悲観するな。俺も何とか力になるつもりじゃけん」
「うん。ありがとうよ。まあ、しかし、落ちぶれたとはいえ、自分の始末ぐらいは自分でつけらるっさ」
「課長が、こいつば、渡しといてくれということだったけん、置いていくよ」
富永は、元気を出せよと園田を励まして園田の家を辞した。門を出たところで、買い物篭を下げた理恵子にばったり出くわ
した。しばらく会わないうちに、ずっと女っぽくなった感じがするが、見るからに元気がない。つっと顔を伏せて富永の傍らを通り抜けようとする理恵子を呼び
止め、
「理恵ちゃん、今度は大変だったね」
と声をかけると、理恵子は、もう両目にいっぱい涙をためている。今頃、普段着で買い物篭を下げているところを見ると「理
恵子さんは、あれ以来銀行には行っていないそうよ」という娘たちの話は本当らしい。
「お父さんは、随分弱っておるようだね」
「ええ、すっかり老け込んでしまって、食欲が全然ないみたいで・・」
「体には、気を付けて挙げて下さいよ。何か相談事があったら、わしのところに最初に来て下さいよ。いいね」
富永が念を押すと、理恵子は顔を伏せたまま、小さくうなずいた。
七月四日の夜十一時過ぎのことである。
富永の家の玄関のガラス戸を激しく叩く音がした。すでに寝床に入っていた富永が起き出して行って鍵を開けると、髪を振り
乱した理恵子が青ざめた顔で立っていた。
「お父さんが、お父さんがいないんです」
「園田がいなくなった?それでもう誰かに連絡したと?」
「いいえ、この前、一番に相談に来るようにということでしたので、富永さんのところに最初に来ました」
「そうか、それじゃ、わしが一緒に捜しに行ってあげよう。ちょっとそこで待っとんなさい。今、用意してくるから」
奥に引き込んだ富永は、ものの三分もしないうちに白い半袖の開襟シャツに着替えて飛び出してきた。片手に懐中電灯を
握っている。
理恵子の話によると、園田は、その日は日曜日で警察からの呼び出しもなく一日中自宅にいたが、夕食が済むと、今日は早
く寝ると言って、八時前に自室に引きこもった。理恵子は、十時半まで居間でテレビを見ていたが、そろそろ寝ようと思って父の部屋の前を通ると、普段聞こえ
る父のいびきが少しも聞こえず、ひっそりと静まり返っている。どうしたのかしらと思って覗いてみた。と、部屋の中には、布団が敷いてあるだけで、誰もいな
い。手洗いかと思って確かめてみたがそこにも父の姿はなかった。しばらく様子を見たが帰ってくる気配もない。誰もいない家の中に一人きりでいると思うとな
んだか怖くなってきたので、相談に来てくれと言う富永さんの言葉を思い出してやってきたというのだった。
「お父さんがどこへ行ったか、心当たりはなかですか」
「いいえ、全然」
「お母さんの病院には・・・」
「面会時間は、八時までですし、まさか、こんな時間まで、それに・・・」
「それじゃ、ひょっとすると・・・」
「ひょっとすると・・・?」
「いや、何でもなか。ひょっとすると、あそこに行っとるかも知れん思うて。理恵ちゃん、一緒に行ってみますか」
富永は、先に立って大股で歩き出した。サンダルをつっかけてきただけの理恵子は、必死になって富永の後を追った。
五分も歩くと森岳城址の森の入り口に着いた。
「お父さんは、ここに来とるとじゃなかかな」
「こんなところに?何しに?」
富永には、ある確信があった。中学時代のことである。
「俺が死ぬときにゃ、こげん森の中で、樹木のふところに抱かれち死にたか」
ふと、園田が漏らしたことがある。体は小さいくせに一本気のところのある園田にしては、神妙なことを言うものだと今もっ
て富永の脳裏にこびりついている。
富永は、理恵子の手を取りながら、森の一番奥の泉の湧きだしているところまで来た。
「園田!園田!」
「お父さーん、お父さーん」
二人して、大声で呼んでみたが何の返事もなかった。夜の森が蕭々と鳴る音が二人を包みこんでいる。
「何か黒いものが、あっちへ動いたような気がしたが」
「わたしには、何も見えなかったわ」
暗い森の中を、一本の懐中電灯だけを頼りに探し回るのには限界があった。
「お父さんは、こんなところには来なかったのじゃないかしら」
理恵子が言い出した。富永の確信も揺らいで、それじゃ別のところに当たってみようかと言いかけたときだった。懐中電灯
の光芒の中に、白い塊が浮かび上がった。
「あっ」
二人は息を呑んだ。
草むらの中に、人間の形をしたものが転がっていた。懐中電灯を近づけて確かめると、園田の死体だった。脈拍を確かめる
までもなく、園田が完全に事切れているのは、まぶたを指で開いても懐中電灯の光を瞬きもせず見返している瞳から知れた。
「お、お父さん!」
理恵子は、泣きじゃくりながら、父親の遺体に取りすがった。
「理恵ちゃん、わたしがここで見張っているから、警察に知らせに行って来てくれんですか」
理恵子の肩を後ろからやさしく抱きながら、富永が言った。
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9 会議
”汚職官吏園田の変死体発見
ー汚職発覚を苦にしての自殺か、それとも他殺かー”
園田の事故死が、翌日のK新報のトップを飾った。今度も、二段抜きの大きな活字が踊っていた。
K署では、その日の午前十一時過ぎから緊急の捜査会議が開かれていた。
昨夜から一睡もしていない眼をしょぼつかせながら、荒木巡査部長が首をひねっていた。
「こりゃ、なかなか難しか事件のごたるな。自殺か、他殺か、それが問題だちゅうわけか」
ちょっとキザな言い方をして、自ら照れたのか団子鼻をこすっていると、早速横合いから、松野巡査が噛みついた。
「部長、そがんことはなかでしょ、これは間違いなく他殺ですよ。他殺でなかったら、どうして、園田の手首足首に、紐で
縛った痕があったとですか。誰かに手足ば縛られて無理矢理、睡眠薬ば飲まされたに違いなかですよ」
「松ちゃんよ。他殺だったとしたら、どうして遺書が現場近くにあったとか、説明できんとじゃなかかな。遺書には、「もう生きる力をなくしました。今回の事件でご迷惑をおかけした方々に心からお詫び申し上げます」となっ
ちょる。覚悟の自殺のように見える」
「この遺書の文字ば見て下さいよ。筆跡は、園田のに間違いなかということですが、こげん乱雑で、乱れに乱れとるじゃなか
ですか。ここに、園田の付けた役所の現金出納簿のありますが、こっちはまるで活字で印刷したるごつ一点一画きちんとしとるでしょが。決心して自殺する気に
なった者が、どげん訳で遺書だけ、こげん見苦しか書き方はすっとでしょか。死に際ば飾るとが人間のたしなみじゃなかですか。こいつはきっと誰かに脅迫され
てしぶしぶ書いたとに違いなかです」
「しかし、ワシがもし脅迫して書かすんなら、日頃と少しも違わんごつ、綺麗か字で書かせるがな」
「それじゃ部長は、園田がわざと乱暴な字ば書いたとでも言うとですか」
「まあまあ、松ちゃんよ、この段階で結論ば急ぐことはなか。おい、吉田よ。園田の服に付着しとったドロと毛髪の分析はも
うできたのかね」
「結果の出るのは昼過ぎになるということです」
鑑識担当の吉田巡査が答えた。
「現場近くにあったタバコの吸い殻はどうした」
「ええ、発見したとは二本ですが、銘柄は両方ともセブンスター。吸い口についた唾液の分析はまだ出てきとりません」
「松ちゃん、園田の好きなタバコは、スリーAじゃなかったかね」
「そうです。ワシらが取り調べたときも、ときどきYシャツのポケットから、スリーAの赤か箱ば半分ほど取り出して、吸っ
てよかですかちゅう顔ばしてワシらの顔ば伺っておったですからね。ワシらがよかというと、いかにもうまかごつ、指に火のつくまで吸っちょったです」
ちょっぴりセンチになったのか松野が目をしょぼつかせた。
「セブンスターの吸い殻は、どの程度残っとったのかね」
「ええ、ほんの1センチ程度しか吸っとらんです、ちょっとふかしたという感じです」
「死因は、もうはっきりしたのかね」
「ええ、つい先ほど検死医から連絡のありまして、予想通り、睡眠薬の過量服飲ということでした。胃の中の状況から清酒と
一緒に飲んだように思われるとのことでした」
「死亡推定時間は?」
「午後十時前後ということです」
「外傷は?」
「手首と足首に、麻紐で縛ったと思われる痕跡がある以外は他にありません」
「どの程度縛られとったのか見当はついかのかね」
「せいぜい一時間かそこらだろうということです」
「ところで手足を縛った麻紐は見つかったのかね」
「いや、まだです」
「それじゃ、現場付近をもっとよく捜すように連絡してくれ。吸い殻や園田の服に付着していたドロの分析結果の出るまでワ
シは一眠りするけん、捜査会議はひとまずこれで解散だ」
そういうと、荒木は、居間まで坐っていた、時代がかった布張りのソファの上にゴロリと横になった。
が、荒木が横になるかならぬうちに、一人の若い警官が飛び込んできた。
「部長!」
「なんじゃ、少し眠らせてくれい」
「現場付近から手足を縛ったと思われる紐が出てきました。それに、このライターが」
「こりゃ、寝ておれんわい」
荒木の充血した眼にもう輝きがもどっている。若い警官が差し出したのは、一メートルほどの麻紐二本と、金色に眩しく輝
いているライターだった。
「おや、このライターはどこかで見たことがあっぞ」荒木は腹の中で一人ごちた。「しかし・・・それじゃあまりに辻褄が合
いすぎる」
「この麻紐はどこから出てきた」
「死体のあったところから20メートルほど先の、お堀になったあたりに、雑草の茂った崩れかけた石垣があっとですが、そ
の隙間に押し込んでありました。足元より低かところにあるものでなかなか気づかなかったとですが、腹這いになって、石垣の隙間ば一つ一つ見とりましたら、
ようやっと手の届くところにあったとです」
「ライターは、どこにあった」
「死体から約30メートル離れた草むらの中に落ちとりました。雑草のようけ繁っとるもんで、今まで見つからんだったのと
思います」
「こりゃロンソンのライターじゃなかか。こげんよかライターはうちの署長も持っとらん。おや、蓋の後ろのところに何か頭
文字のごたっとの小そう書いてあるな。ちょっと虫眼鏡ば持って来い。どりゃどりゃ。M→Y。これは何の意味かね」
「部長、Mというイニシアルの人のYというイニシアルの人に、このライターばプレゼントしたちゅう意味じゃなかですか。
ワシのこの結婚指輪にも、R→Kと彫ってあるとですが、これは律子が邦彦へ贈るという意味ですけん」
つい最近結婚したばかりの吉田邦彦巡査が左手に輝いている結婚指輪をかざしながら言ったので、みんながニヤリと口許をゆ
がめた。
「なるほど、そうすっと、このライターの持ち主は、名前がYという頭文字の人物ちゅうわけだな」
「Yというと、園田の名前も安治だから当てはまりますね」
「ワシは、どうもこのライターばどこかで見たごたる気のさっきからしとると。ひょっとすっと相良課長のとこじゃなかった
かと思うんじゃが・・・相良課長の名前は何だ」
「ちょっと待って下さい。今調べます。相良、相良と。善夫。アッ、これもYですね」
「す、すると、犯人は相良課長ですか」
「松ちゃん、あわてるな。今、吉田が言うたろうが。M→Yというのは、Mちゅう人物がYちゅう人物に贈るときに使うもん
じゃって。Mとは誰か。そればまずあたらにゃならん」
「なるほど。園田の奥さんの名前は、信枝。長女は、理恵子。次女は、幸子。長男は、達夫」
「相良の奥さんは直子。長男、健一。Mという人物は、二人の家族の中にゃ、おらんようじゃな」
「部長、「あたふく」の女将の名前は確か美穂と言うてましたが」
「それじゃ、女将が園田へ贈った?いや、相手が相良ということも考えられます」
「ふむ、だが、園田がタバコば吸うときゃ、いつもマッチば使っとったな。まあ、早よう鑑識に回して指紋ば調べさせてく
れ」
「部長、タバコの吸い殻と園田の服に着いていたドロの分析結果の出ました」
「そうか、結論ば言うてみてくれ」
「吸い殻を分析した結果、付着していた唾液から、このタバコを吸った人物の血液型は、A型ということが判明しました。園
田のズボンに付着しとったドロは、現場付近のドロじゃなかということです」
「よし、わかった。それじゃ、誰か市役所までひとっ走りして、相良課長にご足労願うて来てくれ。その間、ワシは一寝入り
するけん」
そう言うと、荒木は、ソファの上に仰向けにひっくり返り、大きな団子鼻をひくひくさせ、たちまち威勢のいい鼾をかきは
じめた。
「相良課長、このライターに見覚えはなかですか」
「ど、どうしてこのライターがこんなところにあるのです」
「それじゃ、このライターはあんたのものですか」
「ええ、確か先週の土曜日、役所でなくしましてね」
「役所でなくした?」
「そう、昼過ぎに役所を出ようとして、いつもズボンのポケットに入れてあるこのライターがないので、役所の連中にも随分
捜させたのですが、とうとう見つからずじまい。自宅に帰ってからも、念のため、女房に聞いてみたんですが、見なかったということで、もう、すっかり諦めて
ましたよ。いったいどこにあったのですか」
「園田の死体のすぐ近くに」
「えっ、園田の死体のすぐ近くに?」
「そうです。あんたはまさか園田ば、殺したとじゃなかでしょな」
「め、めっそうもない。冗談はよして下さいよ、こんなことで。私には全く関係のないことです」
「ライターにはM→Yと彫ってあるとですが、このYというのは、あんたの頭文字ですな」
「・・・ええ、まあ」
「それじゃ、Mというのは誰の頭文字ですか」
「そ、それは・・・」課長の顔が急に真っ赤になった。「そんなことは、事件には何の関わりもないことじゃないですか」
「それじゃ、課長さん、この封筒に見覚えはなかですか」
「これは、市役所の官用の封筒じゃないですか」
「中を読んでみて下さい」
「中を?」
相良が封筒を開けると市役所の起案用紙のロゴの入った便箋大の紙が一枚出てきた。文面に眼を通した相良課長の顔色がみる
みる青くなった。
<園田君、
今晩、善後策を話し合いたいので、午後八時過ぎ、自宅まで来て下さい。人
に姿を見られないようにくれぐれも注意するように。この手紙は、読んだらすぐ焼き捨てて下さい。
相良善夫>
「こ、これは・・・」
「園田の自宅の机の引き出しから今朝発見されたんですよ。この前、家宅捜索したときにゃ無かったんで、その後受け取った
ということになりますな。これは、あんたが書いたのに間違いなかですな」
「えっ、ええ、し、しかし・・」
「しかし?」
「これを書いたのは、一週間以上も前のことです。そうそう、園田係長が保釈された日に書いたんです。そうだ。富永君なら
知っている。我が課の富永君のところへ電話して確かめて下さい。彼に頼んで園田君のところへ持って行ってもらったのです」
「その点は、富永さんに確かめましょう。しかし、善後策と言うて、一体何ば話し合うたとですか」
「園田君の今後の身の振り方です」
「そんなことなら、人に姿を見られんようにすることも、手紙ばわざわざ焼き捨てさせることもなかじゃなかですか」
「保釈直後の人物が課長宅に出入りするところを見られれば、痛くもない腹を探られたり、根も葉もない噂を立てられかねま
せんからね」
「課長ともなると、いろいろと気ば使うもんですね。その点は、そのくらいにして、昨日の課長さんの行動ば、全部話してお
いて貰いましょうか、捜査の参考にしますけん。とくに、園田が、自宅を抜け出したとみられる八時以降のことば詳しう話して下さい」
「・・・・・」
相良は、顔を紅潮させたまま、貝のように口を閉ざしている。
「課長さん、黙っちょれば黙っちょるだけ、不利になるとですよ。よかですか。アリバイのなければ、このライターひとつだ
けでも、あんたば殺人犯に仕立てあぐっぐらい簡単かとですよ」
相良は、観念したかのように眼を閉じた。
ーー園田の大馬鹿野郎、何という日に死んでくれたんだ。
心の中で毒づいたとたん、相良は、全身から、すぅと血の気が引いていくのが分かった。死んだだって、あいつは、この日
を選んで自ら死んだのだ。俺は、あのキュウリのしなびたような男に、まんまと罠にはめられたのだ。それに間違いない。あの男は、わざわざ七月四日という日
を選んで自殺したのだ。
保釈された夜自宅へ呼び寄せて、汚職の罪は全てお前一人で引きかぶれ、いいな。もし、俺の名前を少しでも出そうものな
ら、お前自身の将来も、お前の家族の将来も、もうそれっきりと思え。起訴されないうちに依頼退職という形で退職させてやろう。そうすれば、退職金だって貰
える。免職にでもなった日には、三十年勤め上げたあげく退職金も恩給も吹っ飛んでしまうぞ。
退職後の就職の世話もしてやろう。お前がつまらぬことを少しでも警察に話してみろ。自分ばかりか妻子を路頭に迷わせる
ことになるんだぞ。いいな、何もしゃべるなよ。
俺が、こう言ったとき、あいつはいつも役所でやるようにさかんにペコペコと頭を下げ、そんなにまでご配慮いただいてと
涙を流さんばかりだった。ところが、あれはあいつの見せかけだったのだ。
七月四日、俺が加藤建築の松平と大浜温泉で落ち合い、近くのゴルフ場で、一緒にゴルフを楽しんだ後、小室美津子のとこ
ろへ立ち寄ることも、全て計算に入っていたに違いない。なにしろ、松平と俺の間に立って、ゴルフの配車の手はずを整えたのはあいつなのだ。八時から十一時
までの俺のアリバイだって。こんな完全無欠なアリバイがあるだろうか。あの晩、妻が実家に泊まってくることになっていたのをいいことに、俺は、美津子と二
人きりで、ちょうどベッドの上を転がり回っていたときじゃないか。
相手を、田舎警察だと思って馬鹿にしていたのがいけなかった。園田が逮捕されたすぐ後のことでもあり、せめて、七月四
日ぐらいは自粛すれば良かった。俺としたことが・・・
相良は泣き出したくなるのを堪えながら、黙然と眼を閉じていた。
いざとなったら、義父の権勢に物を言わせてと安易に考えていたが、事態がここまで進んでしまった以上、もう自分自身で
始末をつけるより途は残っていなかった。
「部長、相良が殺人犯人でないとなると一体誰が犯人なんですか」
松野が、荒木に食い下がっていた。相良が、全面的に汚職の事実を自供した翌朝のことである。
「松ちゃん、お前もよほど血の巡りの悪か男じゃな。あんまり竹刀で頭ば叩かれ過ぎたんじゃろう」
相も変わらぬ荒木の毒舌を浴びながらも、松野はけろりとした顔で、
「本当は、部長もわからんとじゃなかですか」
「まあ、松ちゃん聞けよ。ワシがまず考えたとは、この事件は、あまりに相良を差す証拠が多すぎっということだった。とに
かく、うんざりすっぐらい証拠の出て来よった。まずタバコ。銘柄が相良の好きなセブンスターなら、それに付着しとった唾液の血液型までが相良の血液型と同
じA型だった。それに例のロンソンのライター。園田の着物に付着しとった毛髪までが、これまた相良のものじゃった。ついとったドロも相良の家の物置のドロ
と一緒なら、現場近くで見つかった麻紐の切れ端が、物置のあった紐と切断の跡もピッタリと一致する。これじゃ、あまりにもくどすぎっというもんじゃよ」
「確かにくどかって感じですね」
「それに、紐や服に着いとったドロの類は、園田が、どこかで殺されて現場まで運ばれて来たちゅうことを物語っとるのに、
二本のタバコの吸い殻は、真犯人がそこに長いこと留まっていたことを言わんとしとる。証拠が多すぎるばかりか、互いに矛盾しとる。麻紐にしたところが、ま
ともな犯人なら、現場近くに隠したりせんで、持ち帰えりそうなもんじゃなかかね。紐が近くにあったちゅうことは、真犯人は、あん紐ば、遠くに持ち去ること
のできん事情のあったことば物語っとる。相良ほどの男が、真犯人なら、こんな間の抜けた証拠ば、金魚のうんこのごつ現場のまわりに長々と引きずり回すごた
るこつは、ようせんじゃろ。それにアリバイ工作にしたって、まさか愛人に証言させて、奥さんから離婚話ば持ち出されるごたるへまはせんじゃったろうに」
「そうすっと、この事件は、だれかが相良に罪ばなすりつけようとしてやった。そん人物が、真犯人だというわけですか」
「そう。しかし、真犯人の狙いは、相良に罪ばなすりつけると言うことより、相良に警察の注意ば向けさすっとことにあった
とじゃなかかな」
「それは、またどがんことですか」
「相良が、あの日、どげんことばやったかをみんなの前で白状せざるをえん立場に追い込むことに真犯人の狙いはあったと
じゃなかかと思うんじゃ。真犯人の狙いは見事に成功して、相良は、園田殺しのアリバイは証明するために、逆に、汚職の事実ば、証明せざるをえなく
なった。相良が、愛人の小室美津子住まわせとった住宅は、加藤建築が相良から受けた便宜のお礼に、相良にほとんど只同然でやったものだった。それ
にゴルフの招待だけでも、この三年間で四十回にも及んでいる」
「しかし、部長、真犯人は、なんでまた園田を殺してまで、そがんこつばせにゃならんだったとでしょか。それに、一応疑わ
しか人物については全て取り調べてみたけれど、全員アリバイのあったじゃなかですか。現場に最初に駆けつけた、あの、富永にしても。いったい真犯人はどこ
におっとですか」
「松ちゃん、ようく考えて見、ただ一人アリバイの成立せん人物のおろうが」
そう言いながら、荒木はにやりとした。
「ただ一人アリバイの成立せん人物?」
松野はさかんに、頭をひねっている。
「富永でもなかし、理恵子さんでもなかし・・ぶ、部長、ま、まさか」
何か思い当たったか、松野はドングリ眼をますます大きくして荒木部長の顔をまじまじと見つめた。
「松ちゃんよ。そのまさかと思われる人物がこの事件のシナリオライター兼演出家であり、そのうえ、主演俳優も務めとると
考えざるをえんごたるな」
「あのキュウリの萎びたような園田が・・・すると、やっぱり自殺だったとですか」
「そう考えざるをえんようだな。おそらく、園田は、役所のこととか奥さんのことで、死ぬ気になっとたんじゃろう。どうせ
死ぬなら、日頃からうらみば持っとった相良課長は巻き添えにしてやれと、いろいろ思案ば巡らして、相良がゴルフをやり愛人のところに出かける日に自殺ば企
てたとじゃなかろうかね。園田の死が自殺だという証拠はもう一つある。一年前に、二千万円の生命保険に入っていたということじゃ」
「ああ、そん話なら聞きました。なんでも、入院した奥さんの病気は、園田が死んで二千万円の保険が掛けてあったと聞いた
とたん全快したとか」
「いや、その話は落ちのあって、皮肉なことには、保険の受取人が長男の達夫君になっているちゅうことのわかると、そのと
たんまた寝込んでしもうたという話じゃ。おそらく園田にとってみれば、長男の達夫君の将来だけが気がかりだったとじゃろ。首尾良く大学にも入ったし、学費
には、保険金の二千万円があるということで、何にも、思い残すことはなかと思うて自殺したとじゃなかかな」
「一年も前から、自殺する準備をしていたとはねえ。でも、部長、どうも腑に落ちんとは、土曜日になくしたライターや、比
較的新しい毛髪とか、タバコの吸い殻のどうして現場に落ちとったとでしょうか。園田は事件以来一回も役所に顔を出しておらんとですよ」
「松ちゃんよ、園田の死因は自殺ということで事件は一件落着したとだから、もうそげん詮索はよかじゃなかか。相良という
男は、それだけ、多くの人物から憎まれちょったということたい」
「そうか。部長やっとわかりました。ライターやタバコの吸い殻ば現場に置いたとは、死体のところへ最初に駆けつけた富永
課長補佐だったとですね。なるほどそれで証拠の多すぎるうえにお互いに矛盾しとったわけん初めてわかりました。それじゃ、富永ば引っ張って来ましょか」
「松ちゃん、お前も少しは頭ん回るようになって来たけど、まだ人情ちゅうもんば解しとらんようじゃな。今夜は一杯酒でも
飲ませち、もうすこし血の巡りばようしてやらにゃならんごたるな」
「それじゃ、部長、今晩は、「おたふく」に是非連れて行って下さい」
「ほう、松ちゃんもとうとう色気づいて来たか」
園田の初七日のお参りを済ませて、富永が家に帰ると、絽の喪服の女性が座敷で待っていた。「おたふく」の女将
だった。
「富永さん、お久しぶりですね。このところ少しもお見えになりませんわね。今日伺いましたのは、これ。生前、園田さんか
らこれを富永さんに渡してくれと頼まれまして」
女将が差し出したのは、白い封筒に入った一通の手紙だった。
<富永君、
おたふくの女将に、七月十日にこの手紙を手渡してくれるように頼んでおい
たので、おそらく、その日がぼくの初七日になっていることだろう。僕は、七月四日に自殺するつもりでいる。
僕はもう一年も前からすっかり生きる気力をなくしてしまった。思えばよ
く今日まで生き延びてきたものだ。フィリピンでの戦闘で、僕は何度死んだと思ったかしれやしない。しかし、不思議と運があって今日まで生き延びてきた。も
う、充分生き延びたという気がしてきた。戦友たちが、もう俺たちのところへそろそろ来てもよいころだと手招きしているような気がする。
戦友たちより三十年も長く生き延びたけれど、やはりどうってことはな
かったというのが僕の率直な感想だ。戦前も戦後も世の中は少しも変わっていないよ。誰も彼も目先の損得ばかり考えてあくせくあくせくと生きている。僕にし
ても、軍服を背広に着替えただけで、やっていることといえば軍隊時代と少しも変わりないような気がする。万事員数主義で、要領第一。
もう、僕は、世の中に愛想がつきた。しかし、自分だけ死ぬのは面白くな
いと考え、少々いたずらを思いついた。うまく行くかどうかは僕にはわからん。
僕は、相良という男を見るとフィリピンで、僕らの部隊の指揮官だった中
里という少尉を思い出してしまうのだ。部下が死線をさまよっている最中ですら、自分独り酒色に溺れていた。あの青二才の独りよがりの作戦のために、どれほ
ど多くの戦友がむざむざ犬死にさせられたことだろう。それにもっと耐えられなかったことは、捕まえた現地人を、肝試しと称して、われわれ、新兵に試し切り
させたことだ。部隊の連中の中にも、蔭に隠れれば、「あの野郎ブッ殺してやる」などと勇ましいことを言う奴がいたけれど、そういう奴に限って中里の前に出
るとおべんちゃらを言って星の一つも増やして貰おうとする腰抜けだった。
こんなことを今更君に告白しても始まるまいが、戦闘に紛れて中里少尉を
背後から射殺したのは、この僕なのだ。このことは、ほんの少数の戦友しか知っていないし、彼らもみんなあとの戦闘で死んでしまった。
とにかく、僕という男は、どんな時代に生きるにしても貧乏くじを引くよ
うにできているんだろう。
ただ、口先では何と言おうと、人一人を故なく殺したことのある男が生き
延びるにしては三十年は長すぎたよ。つい二年前だったが、中里少尉の遺族が今も苦労しているということを知ったときには、なおのこと身にこたえた。
僕は、今朝、K警察署長宛に自らの汚職を告発する手紙を投函した。もっ
とも、これっぽっちも、汚職なんかやっちゃいないがね。そして同じ日の夜にこの手紙を認めている。明日にでも、「おたふく」に行って、女将の美穂さんに、
一月後の七月十日に君に手渡してくれるように依頼することにする。
いたずらの度が過ぎて、相良が僕を殺したことになりかけたときの用心の
ために、この手紙を書いたわけだから、よろしく取りはからってくれたまえ。
達夫のことだけが心残りだが、力になって貰いたい。よろしくお願いす
る。
それでは、お元気で
六月十日夜
読み終えた手紙を女将に差し出すと、富永は、一人物思いに落ち込んだ。
・・・俺は何という馬鹿な男だろう。課長の手紙を届けに行ったとき、「自分の始末ぐらい自分でつけらるっさ」という言葉
を聞いて、お前が死ぬつもりになっていると俺は直感した。まさか一年も前から死ぬ覚悟だったとは思いも及ばず、汚職が発覚したのを、気に病んで死ぬつもり
になったのだとばかり思っていた。そう思いながら、俺は、本当に親身になってやろうとさえしなかった。俺自身、加藤建築から盆暮れにわずか一万円ばかりの
洋酒を二三度貰ったり、ゴルフに数回招待された弱みがあったので、心の底のどこかで、お前が責任を全部引きかぶって死んでくれれば万事好都合だと思わない
でもなかったのだ。
俺としても、いつだったかお前に話したように、あの人を人と思わぬ相良にはかねがね恨みを持っていた。そこでもしお前
が自殺したら、それを相良が殺したように見せかけてやろうと思いつき、毎日相良の吸い殻や抜け毛を拾ったりして用意していたのだ。土曜日に課長がライター
を会議室の机の上に置き忘れたときも、こっそり失敬しておいたというわけなんだ。
あの夜、理恵子が父の姿が見えなくなったと、俺を呼びに来たとき、俺はお前が自殺したと直感して、自分の部屋にとって
返し、用意の品を持って現場に駆けつけたという訳だ。ところが、俺は、お前という男にすっかり出し抜かれていたわけだ。俺の出世がお前より一足早かったの
も、俺がお前の言うおべんちゃらだったせいかもしれぬな・・・
「園田さんは、一年も前から死ぬ覚悟をしておられたとですね。この手紙を頼まれたとき、何かあるとは、思っておりました
が・・・」
手紙を、読み終えた女将の一言が、富永の長い物思いを破った。
女将は、そう言いながらそっと左手の中指にはめたルビーの指輪を右手で握りしめた。その指輪には、小さくY→Mと彫り
込まれていた。(完)