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文化としての日本的経営 第13章


 十 三   

ど こ へ 行 く 日 本 的 経 営                        

 これまで述べてきたように、我が国の企業は従業員をコントロ―ルする世界に冠たる絶妙なシステムを有している。日本的経営の極意は、企業による従業員の完全掌握にあると言ってよく、これが日本経済の強さの秘密でもある。したがって、今後の我が国経済は、こうした組織やそれを支える日本的経営が崩壊しないかぎり、まったく心配ないようにみえる。しかし、果してそうだろうか。本章では、現在日本社会の画一化が急速に進みつつあり、これが、今後の我が国の国際化の進展、高齢化社会の到来などの経済社会の変容とあいまって、一見強靭とみえる日本的な企業と個人との結付きにも変革を迫っており、これに対し、的確な対応を誤るならば、日本経済の前途に決して楽観を許さないものがあることを指摘し、今後の企業と個人の望ましい関係について考える。


第13章目次

1 画一化進む日本社会の前途  

2 国際化への対応の必要  

3 国際的に通用する日本的経営へ  

4 高齢化社会への対応  

5 今後企業に望まれること     自由時間の確保  

6 低い労働生産性の自覚を  

7 異質な人材の許容  

8 強い会社から良い会社へ


 1   画 一 化 進 む 日 本 社 会 の 前 途

 我が国の現状をみると[いい学校、いい企業、いいポスト(肩書)=幸福]という全国民的規模で単純化された価値体系を軸として、子供の生活にしても大人の生活にしても驚くほど画一化が進んでいる。

 小学生になれば、多くの子供たちは学校ー家庭ー塾という狭い枠の中で生活することになる。そしてどの子供もほとんど例外なくいい大学、いい企業を目指して、いい成績を上げるべく、いわば学業専一の生活を始める(始めさせられる)。家庭では、子供がいい上級校へ進むという目的に対して全面的にサポ―トする態勢がしかれ、子供の勉強中は親同士は声をひそめ、見たいテレビも見ないで協力する。父親の書斎より、子供の勉強部屋が優先される。子供は勉強さえすれば、たいていのわがままは許される。昔に比べると家事を手伝う子供は少なくなった。

 一方学校では、全国共通の厳格なカリキュラムの下ですべての生徒に記憶中心の画一的かつ総花的な詰込み教育が行なわれ、判断力や創造力の涵養、社会性の修得はさほど重視されない。個性や創造力の乏しい平均的な優等生をつくることが教育の目標となっている。他の先進工業諸国では、おしなべて教育の多様性や地域性、各校や先生の自主性が尊重されており、オランダのように、学校が一〇〇あれば、一〇〇の教育があるといわれるなかにあって、我が国では依然として、文部省の規制色が強く、教科書の検定が厳格に行なわれ、各地域の特性や、各校・各先生の自主性はほとんど尊重されない。子供の評価も学業中心で、ペ―パ―テストでいい成績をとることが、オ―ルマイティに近い権威を持つ。  こうして試験で一点でも良い点をとり、いい学校、いい企業へ行くという目標に向かって、気ままに遊びたいといったような子供らしい欲望を抑制しつつ(抑制させられて、あるいは抑制させられ続けているうちにそういう欲望も持たなくなって)、学校―家庭―塾という枠外の世界をほとんど知らないまま学業を終える。小学校入学から大学卒業までの十六年間はいい企業へ就職するための万年受験生時代といってよく、修道僧と呼ぶにふさわしい生活を送る。

 かくして、雑多な断片的知識だけは頭いっぱい詰っているが、専門的知識には欠け、判断力や創造力には乏しい大勢順応的で欲望抑制型の働きバチ予備群が大勢世の中に生みだされ、いい企業への就職を目指して、最後の関門である入社試験に挑戦する。  入社試験も、その個性や独創性、専門的知識等によってではなく、どの程度[いい学校]を卒業しているかという画一的な学歴、優の数で表される[いい成績]、一般的な社会常識の有無、気を合せることができるかという人柄などによって評価される。一定の基準に達した者は、特定の仕事のために採用されるというより、丸抱え的に採用される。

 さて、その結果願いどおりのいい企業に入れるかどうかは別として(おそらく第一志望のいい企業にすんなり入れるのは、それこそいい大学をいい成績で出た小数のものに限られ、その他大勢は、様々な苦労の末就職する。このときの挫折感が、将来、自分の子供を教育するにあたって、闇雲にいい学校を狙わせる原動力になる)、成人して企業へ就職すると、前述の通り、単一の組織へ生涯専属し、企業―家庭というはなはだ狭い枠の中で今度はいいポスト(=肩書=出世)を目指して、仕事専一(というより会社専一)の生活を始める。そこでは、いかに回りとうまく気を合せて仕事をできるようにするかという観点から、定型的な画一的な訓練が施され、すこしでも「異質性」があると回りから寄ってたかって削りとられ、ますます個性や自主創造の精神や能力を失い、協調的で円満で業務についても優等生的に有能な会社人間化する。つまり、ウズ社会の渦の中にすっぽりと取込まれてしまうのである。

 家庭では、夫なり父親なり息子なりが仕事に打込めるように全面的にサポ―トする態勢がとられ、仕事のためなら帰宅がどんなに遅くなろうと、日曜出勤があろうと、結婚記念日のパ―ティがすっぽかされようと、家族はじっと我慢する。公用(仕事で表される会社=ウズ社会の利益につながること)のためには、たいていの私用は従の位置に置かれる。成人男子は、仕事さえよくすれば(良くできれば)、会社でも家庭でもたいていのわがままは許される。そしてそれを許す家族あるいは妻が理想的とされ、内助の功があるとして賞賛される。

 ここには、会社および従業員のためにいいことは家族や妻にとってもいいことだという、ウズ社会特有の自己中心的な発想が見られる。日本的経営の持つこうした子供じみた独善性は、ウズ社会が共同体であると観念され、従業員の家族や妻もその中に当然取込んでいると意識していることを示している。例えば給与体系の中に配偶者手当、扶養手当、結婚手当てなどがあり、従業員の能力や仕事の中身とは関係なしに、配偶者がいるかどうかによって配偶者手当が支払われ、子供の人数に応じて扶養手当が出されるのはそのことを裏付けている。これが丸抱え的雇用といわれる所以である。だが、それゆえに、家族は、毎晩夫の帰りが午前零時を過ぎ、母子家庭同然の生活を余儀無くされてもこれを当然のこととして容認し、男の方でもそのことに対して反省する必要がないとされるのは、行きすぎというものであろう。こうした独善性に対する女性側からの反撃が、定年退職後の夫に離婚を突付けるような形で現れ始めている。

 さて、定年となり「毎日が日曜日」で自由時間のたっぷりある生活こそ人間らしい充実した暮しのできる絶好の時にみえて、実は唯一の生きがいであった仕事(あるいは会社生活、肩書)を奪われた上、長年その生活の安定を願えばこそ一生懸命働きもし、堪難いほどの辛抱もしたはずの妻子にも、大して感謝されるわけでもなく、妻子との長い間の会話不足、コミニュケ―ション不足から、意思の疎通の難しい単なる同居人にすぎないことを気付かされ、粗大ゴミ、濡れ落ち葉扱いされるばかりか、離婚状まで突付けかねない有様。これには、呆然自失、おそまきながら妻子との会話を復活しようにも、知らぬうちに妻子には別の生活空間・人的ネットワ―クが確立しておりまったく入込む余地がなく、仕事以外の生きがいを求めていろいろなものに手を出してみるものの、定年過ぎてのにわか勉強ではなかなか身につくまでには至らず、精神的に充足されない余生を送る。中にはたちまちボケてしまい、いわばすべてを会社に吸取られた挙句、抜け殻同然で廃棄されたも同様となる。

 以上はあまりに日本人の一生を戯画化しすぎたかもしれない。しかし、放置しておけば、日本人の大半がそこまで画一化されかねない。受験一本やりの学校生活が、働きバチを生みだす精神的土壌を形成し、単一組織専属型の生活がそれを完成品の域まで磨きあげる。こうした現在のシステムが続く限り、決して安閑としていていいほど事態は楽観的ではない。

 そして、このシステムの背後には、[いい学校・いい企業・いいポスト(肩書)=幸福]という全国民的規模の単純化された人生観あるいは幸福観の体系があるといってよい。日本のように単一組織専属型のウズ社会においては、労働者=国民の自己実現の場は、企業にしかなく、その企業における成功のメルクマ―ルは肩書以外にない。肩書こそ、全社会的・全人間的評価の最終的な象徴にはかならない。厳格な序列社会である日本においては、肩書の差は、全人格的な序列、人間としての身分的な目上目下と考えられやすい。

 それゆえにこそこの単純化された価値体系の回りに全国民が蝟集し、非常時さながら子供から大人まで「撃ちてし止まむ」の精神で受験戦争や経済戦争に掛り合い、一兵卒としてこの勲章(=肩書)を求めて戦い続ける。家庭=銃後は「欲しがりません勝つまでは」の精神で陰ながら戦士を支えつつ、じっと耐乏生活に耐えているのである。要するに日本的経営はこの様な価値体系をバックボ―ンとして存立しているのであり、逆にこの様な価値体系の成立と定着化を日本的経営が推進してきたとも言えるわけである。

 2   国 際 化 へ の 対 応 の 必 要

 日本においては家庭関係が薄いといわれ、あるいは今や、家庭は各成員の所属する組織への従属する形でしか存在しえなくなってしまったといわれている。父親は、ひたすら企業の原理で行動し、一方子供は学校の原理で行動する。家庭に残った主婦は、夫や子供が、そうした原理で行動しやすいようにサポ―トすることに専念する。これは主婦自身が、企業(あるいは学校)の原理に従属していることを示すものだ。こうして、主婦は、自らの生きがいを持たず、子供の[いい学校、いい成績]の実現を支援する教育ママと化し、内助の功を発揮するためだけの存在と化す。

 私生活の貧弱化は、成人男子の視野を狭くし、真の「遊び」の精神や自主性を喪失させ、知的生活、創造的生活を没却させ、地域コミュニティの崩壊をもたらす。成人男子に追随する妻にしても、夫なき母子家庭という味気無い世界に閉じこめられ、子供の教育にやり場のない不満のエネルギ―を注ぎこむ。

 本来一国の文化水準とは、国民一人一人の知的創造的活動の総和であり、それが次世代の文化の基盤となる。今日われわれが享受している文化は(したがって、今日の日本企業が享受し世界中に日本製品という形で輸出している文化も)、これまでの幾世代かの知的、創造的活動の所産なのであるが、現代の成人男子層には自由時間が少なくその様な活動が充分出来ないということになれば、これまでの文化を食潰すだけとなり、次世代に残すべき文化遺産はおのずと減少せざるをえない。

 日本人は話題に乏しく、酒を飲むときも仕事(=職場)の話しかしないといわれる。これはウズ社会に取込まれ、単一組織(=企業)専属型の生き方をしていれば、むしろ当然の帰結でありなんの不思議もない。自由時間ですら拘束されており(夜の付合いや接待、休日の接待ゴルフ、仕事の疲労回復のためのテレビの前でのゴロ寝)、仕事に関連する社会以外の社会についてはほとんど知らないのだから、仕事ないし職場の話以外に話題にしようがないのである。また同質性を旨とするウズ社会にあっては共通の話題以外に自ら進んで話題を求めることはそれだけで異質性の烙印をおされかねず、それゆえ益々共通の話題たりうる仕事と職場に話題を限定するか、公認された(=異質性を帯びることのない安心な)趣味であるプロ野球、ゴルフなどでお茶を濁すか、カラオケに専念して喋らずにすますしかない。

 したがって、外国人と話合おうにも、彼等とはこのようにまったく生活体験が異なり、関心のありかが違っているので、なかなか共通の話題が見付けにくい。やはり、本当に身のある会話をするためには、なんらかの共通した生活体験、あるいはなんらかの共通する価値観が必要なのであって、そうして初めて他の国の人々の生きざまやものの見方が理解でき、共感を持って話しあえるのである。

 今後我が国は、自由主義国家第二の経済大国として、国際社会で様々なイニチアチブをとり、自ら率先して国際社会を支えるために必要なコストを支払いつつ自由貿易体制を維持してゆく役割を果さなければならない立場におかれている。その意味で、通商摩擦問題一つにしても国際的対応を誤れば直ちに国家的危機に直結するような危険性を抱えている。したがってこれからは、外国人と単に商売の話が出来るだけでなく、一個の全的人間として、対等に共感を持って付合える人材の養成が急務であり、そのことが我が国の総合的安全保証にとっても不可欠である。確かに語学の出来る人材の養成も重要だが、それだけで国際人を育てうるものではない。筆者の経験では、一番語学の出来る日本人が、外国人とのパ―ティでポツンと孤立しているのを見たことがある。

 現在は多様な価値観の存在を理解し、人間の多面的な生き方に真に共感し、その様な生き方を自らも実践しうる人材、つまりかかる外国人と価値観を共有しうる視野の広い柔軟性に富む人材の育成・養成こそが重要なのだ。したがって企業は、平均的な会社人間の育成に専念したり、自企業のことしか考えない立場から労働者を過剰に締付けたりすることはやめ、この様な国際的に通用する人材の育ちうるような環境を作ることに務め、その様な人材の養成に務めなければならない。

 今後、若者が海外に出て大いに活躍するのでなくては我が国の前途は暗い。若者が皆市役所でのんびり働くことばかり考えては困るし、考えるような社会であっても困る。

 3   国 際 的 に 通 用 す る 日 本 的 経 営 へ

 また、日本的経営そのものも、国際的に通用するものへと改革していく必要がある。これまで、繰返し述べたように、日本的経営はウズ社会を前提とし、全員を気の渦のなかに巻込み、成員のすべてを同質化するとともに、同質化をがえんぜず、異質性を残すものを排除し、気のあった者同志が、一丸となって自己の属するウズ社会自体の利益のために邁進するシステムである。このため、異質性を持つ人をうまく取りこめないばかりか、成員の一人一人に絶えず同質性の証明を過剰なほど求めざるを得ないため、多くの才能ある人々の精力と自由時間とを回りと気を合せることに消耗・浪費させている。このため、仕事自体の能率も悪くしているだけでなく、家庭とか地域社会とか文化とか国際問題・政治などへ関心を向ける時間的・精神的余裕をなくしている。

 このように、時間効率の極めて悪いシステムとなっているばかりでなく、このことが結局従業員の個人的人権やその家族の人権を尊重することを難しくしている。その結果、日本社会においては、自由とか平等といった普遍的価値が実現され難い。普遍的価値の尊重などと会社の中で言出すとそれだけで異質性ありとして排除の対象にされかねない。国際性のある日本的経営とするためには、普遍的価値の尊重とともに、真の人間尊重の精神を持つ日本的経営への転換が必要である。現在の身内偏重の日本的経営では国際的な通用性は低い。 

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 4  高 齢 化 社 会 へ の 対 応

 我が国では老後が保障されていないことが、従業員を企業にのめり込ませる原動力になっている面がある。役員に出世すれば定年の適用を受けずに済み、勤務年数が長くなるわけだし、企業に気に入って貰っておけば、たとえ定年で退職せざるを得ないにしても、再就職の世話もしてもらえる。だが、終身雇用制の下、定年までの長い年月、会社の不興を一度も買うことなく勤め上げるのは並大抵のことではない。それゆえ、社風に追随するような生き方を強いられることになる。

 しかし、いずれにしても、今後我が国社会の高齢化が急速に進むことを考えれば、定年後や退職後の長い余生が待っているのであり、この期間を楽しく有意義に過ごせるような社会をいかにして形成するかが、労働者にとっても企業にとっても重要な課題となる。

 現在日本は史上例を見ないスピ―ドで高齢化社会に突入しつつある。一九九〇年現在一二%の六五歳以上人口が二〇〇〇年には全人口の一五%を占める。二〇二〇年には全人口の二四%、実に四人に一人が六五歳以上になると予想されている。諸外国が数百年もかけてゆっくり高齢化したのに引きくらべ、日本ではわずか数十年のうちに同じ現象が、ビデオの早送りのように起こるのである。

 平均寿命も高くなっており、一九八七年現在女子が八一・三九才、男子が七五・六一才と世界最高の水準に達している。現在まだ六〇歳定年を実施していない企業も多く、その意味では、退職後の時間も余生というには長すぎるほどたっぷりある。既にこの長い退職後の生活に適応できず問題となっているケ―スが見られる。

 例えば定年後急速にボケたり、肩書を奪われてポックリ行ったりするケ―スがこれである。そういう人は現役時代は仕事専一で、仕事だけを生きがいとし、仕事を趣味と考え、会社以外の社会を知らなかった人が多いことに注意すべきである。私生活がなく、家族との心の通った会話もなく、職場における人間関係以外にさしたる人間関係もなく、打込めるような趣味、知的活動、ライフワ―クとてなく、定年により突如唯一の生きがいである仕事や肩書を奪われた労働者は悲劇である。情緒不安定化し、あるいはたちまちボケてしまい、社会的に適応できぬ老人が、今後の労働者の高齢化にともないますます大量に生みだされてくることが予想されるが、その対策に要する社会的コストは馬鹿にならぬであろうし、その負担は社会全体で支払わねばならない。また、会社の要職を占める経営者にせよ、仕事以外にさしたる生きがいもなく、そのため、高齢になっても肩書に恋恋として、いわゆる老害をまきちらすものも少なくない。この様な事態を回避するためにも、社会保障の充実だけでなく、老後の生きがいづくりに、労働者も企業も真剣に取組む必要がある。

 最近の調査では、健康な人の比率は低下傾向を示しており、四人に一人しかいない。十人に一人は、心身症、うつ病といわれる。長すぎる労働時間、ストレスの多い頭脳労働の増加などのせいであるが、今後高齢化が進めば、これが寝たきり老人やボケ老人の増加となって現れかねない。なお、東京大学名誉教授の細谷憲政らの研究によると、男にも「更年期」(男女を問わずやってくる壮年期から老年期への「ふし目」)があり、更年期症状といわれる、老眼鏡の使用、目の疲れ、睡眠減少、酔いやすくなった、腰痛、聴力低下、入れ歯の使用、少食になった、物忘れしやすい、懐古的になった…などについて調べたところ、四十五歳前後の早期認知群と、五十歳前後の通常認知群の二つに大別できた。帰宅時間が遅かったり、食事が不規則な人ほど、老年期に入る時期が早くなる傾向がくっきりと浮び上った。また、管理的職業についている人の更年期も早い(1)。

5  今 後 企 業 へ 望 ま れ る こ と

   自由時間の確保

 社会の画一化に歯止めをかけ、今後の我が国の国際化、高齢化に適応するために企業が行なうべき第一歩は従業員の自由時間の確保にもっと関心を持ち、その確保に助力を惜しまないことである。ただ、大手の銀行の経常利益の相当部分が実際の超過勤務にたいして支払われない超過勤務手当で賄われているとの調査もある。使い残された有給休暇も、企業は黙ってポケットに収めるだけで、全部消化できるように自ら進んで手を打つ企業はほとんどない。一〇〇%の消化を前提として、夏休み時期には操業停止をしたり、アルバイトで人員の手当をするなど計画的に対処している欧米諸国とは落差が大きい。従業員が接待にさく時間は、無給なのが普通である。いわばただ働きさせて稼ぐというあこぎな商売が今もって大企業でさえ行なわれている。その意味でも、経営者側からの労働時間短縮への風当たりは強く、その改善には多くの困難をともなおう。ちなみに、東京商工会議所の調査によると社長の五七%は休日でもなんらかの形で社業にかかわっているという。休日は「接待ゴルフかゴロ寝」というのが平均的社長像らしい(2)。こうした社長の下では、せっかくの休みといえど社用につぶされるのも無理もない。

 自由時間あるいは余暇が直ちに人間を駄目にしアイドルな労働者を作りあげるとする経営者も見られるが、これは正しくない。労働時間の短縮は「怠けること」ではない。自由時間の不足は、長期的には労働者の質的レベルを落し(肉体的疲労ともども)、企業にとってマイナスとなって跳返って来る。企業はまず従業員を信頼することである。日本人は本来活動的で勤勉な民族であるから。むしろこの自由時間を利用してより豊かな社会を作りあげるように努力するに違いないのである。また自由時間を多く与えれば直ちに労働生産性が落ちるものでもない。

 J.クライナー博士(ドイツ日本研究所所長)は言う。「日本人は仕事を生きがいと言う人が多いということですが、私は疑問に思っているんです。若い世代は大きく変化してきていますでしょう。だからたまたま戦前戦後の経済発展にともなうひとつの段階に過ぎないのではないでしょうか。昭和三十年代のドイツでもそうでした。みんな夜遅くまで会社に残って残業したりして、マイスター達は一生休暇を取ったことがないとか、徹夜も平気でしたし、それを自慢としていた。ところが三〇年たった今は残業する人は仕事がろくにできないと見られます。三週間休暇を取らないとダメな人とかね。日本も若い人はだんだんそうなりつつありますね。」

 そもそも、心身とも充分リフレッシュして働けば、能率が上がる面があるだけではなく、第一次石油危機後の不況期には労働面の減量を行ないながら生産性を引上げ、石油不足に対しては石油の使用原単位を引下げながら労働生産性を引上げた実績を持っている我が国経済のことである。本来まず最初に使用原単位の引下げを計るべきものがマンパワ―だったはずである。その気になれば省マンパワ―をしながら労働生産性を引上げることもさして難しくないに違いない。

 6   低 い 労 働 生 産 性 の 自 覚 を

 それになによりも、我が国の労働生産性が他の先進工業諸国に比べて低いという事実をはっきり認識し、労働時間の短縮へ取組む必要がある。英国大蔵省の調査によれば、購買力平価で修正した先進各国の実質生産性比較によると、日本は七カ国蔵相会議(G7)参加国中最も低い。一九八六年時点の労働者一人当たりの生産性が米国より、三三%低く、時間当たりではほぼ半分にとどまっている。英国大蔵省は、農業などの生産性の低さが日本全体の生産性水準を下げていると指摘する一方、休暇の少なさと、長時間労働が日本経済を支えていると結論づけている。国民一人当たりの生産性は英国を一〇〇として米国が一番高い一五〇、日本は一〇六。ところが、労働者一人当たりでみると、日本は欧米諸国の中で最も低い英国より下回り、さらに、各労働者の時間当たり生産性では英国の一〇〇に対して六七と、ひときわ低い。調査年の労働者一人当たりの年間平均労働時間は、日本が二一二九時間と頭抜けて多く、他の国はいずれも千七百〜千五百時間の間。また人口に占める労働者の比率も日本は四八・二%で一番高い(3)。

 いずれにせよ、合理的な残業管理、有給休暇や夏休みなどの長期休暇の計画的取得、接待至上主義からの脱却、職場、企業、さらに企業間での休暇調整、使い残し休暇の繰越制、長期育児休暇、永年勤続者への特別休暇制の導入などにより、個々人の自由時間を最大限確保する方策を真剣に検討する必要があろう。

 次ぎに、増えた自由時間に個人がなにをしようとまったく自由であるとの原則を確立することだ。退社後はもはや従業員ではなく、一個の独立した人格であることを認めることである。これまでの「会社のため」「仕事のため」という呪文から従業員を解放することである。

 かくして自由時間が個人の生活の中で欧米のように勤務時間と対等の位置付けを与えられるようになれば、個人はその自由時間を計画的に使うことができるようになり、知的・創造的活動に充てるようになるだろう。父親たちは家庭や地域社会へ帰って行くことができるようになる。単なる仕事関係だけでない様々な人間関係の形成や、ボランティア活動や公共的活動への参加も進むだろう。妻子との対話が復活し、夫婦関係の円満化がもたらされ、青少年の非行も減少するだろう。日本では、都市や住宅地・コミュニティの美観・環境が諸外国に比べて劣っており、個性に欠け、なにか幸福な気分にさせてくれるゆとりが不足しているといわれるが、その改善にしても、そこに実際に住み、そのコミュニティの常住者になってみて初めて力を入れようという気にもなる。主要な住民たる成人男子がその自由時間のほとんどを会社のためにのみさいていたのでは、その改善に力が入らなくても当然である。

 かくして、現在のあまりに単純化された[いい大学・いい企業・いいポスト(肩書)=幸福]という一元的価値体系から解放され、多様な価値の存在に目覚め、これまでの借物的幸福観から各個人が独自の幸福観を持つに至り、現今の物的豊かさの中の質的・文化的貧困や、異常な受験地獄からの脱却が徐々に進むようになるだろう。内外の友人との心の交流を楽しみ、他人の痛や苦しみを思いやるゆとりを持つようになり、経済的「豊かさ」に相応しい人間性を回復し、国際的な孤立から連帯への道が開けてくるであろう。

 7   異 質 な 人 材 の 許 容

 このような変化は、当然のことながら、単一組織専属型の社会の変容を促し、日本的経営にも対応を迫ることとなろう。

 企業はその様な時代の到来に備え、これからはあまりに同質的な人物の採用や養成にばかり力をいれようとしないで、もっと異質の人材の育成につとめる必要がある。

 例えば、ウズ社会の特性として、日本のあらゆる組織で人と気を合せるのが巧みで、上司への全人格的従属も否まず、ウズ社会の中に気の合った仲間のネットワ―ク(=人脈)を作り、またそれを巧みに利用する根回しの旨い人材が重用されている。またそのため多くの人が、そうした人脈作りや根回しに熱心になるあまり、本来の仕事がおろそかにさえなっている。人付合いや根回しの為にこそ、残業も増え、接待時間も増える。

 ちなみに、日本の交際費は四兆三千億円、これは防衛費より多く、実にアメリカの三倍、イギリスの十四倍に達している(出張費と合せた合計額は一一兆を越え、国家予算の五分の一に相当する)。この接待至上主義ともいわれる現象が長い労働時間とあいまって、労働時間後も労働者を企業に縛り付け、会社イクオ―ル社会とし、企業社会以外の場での労働者の活動を大幅に制約する。会社人間と家庭や地域社会との交流の時間的余裕はごく限られており、いわば男女棲み分け、母子家庭化、地域社会からの遊離などの現象を生みだしている。これが、日本全体としての文化の向上を阻害している。また、人付合いのへたな才能の多くを潰している。人脈優先タイプの社員は、大切な休みを社用でつぶされても鈍感で、時間の観念に乏しくその多くがいわゆるモ―レツ型の人材であり、このタイプが重用され、企業の主流を占め、それへの同質化を求め、他を排除することが、多彩な人材の登用を困難にし、多様な生き方を許容しない要因となっている。

 口では個性ある社員たれと説く経営者も、面と向かって異見をいう部下や誘っても一緒に飲みに行かない部下を心良く思う人は少ない。全人格的従属をしない部下を気に食わない、生意気な奴だと敬遠し、排除する。その結果、ビジネス街を歩いているサラリーマンは、相変らず、みな同じような服装をし、同じように行動する。せざるをえない。サラリーマンに許される「個性」の幅は相変らず狭く、その幅をいささかでも逸脱するとただちに昇進に響いたり、悪くすると巧妙に放り出されてしまったりする。

 ともあれ、今後は勇気ある発言をする者には耳を傾け小数意見を尊重しなければならない。現在「二足のわらじ」型作家や「クロスオ―バ―」型の生き方をする人物が企業から生まれつつあるが、彼等はこれまでの単一組織専属型の従業員とは異質の、いわば脱単一組織専属型のはしりともいうべき存在である。企業側でもこうした人物を排除することなく、むしろ積極的に評価し養成するほどの度量がなければならない。この様な多彩な異質の才能があってこそ企業は活性化し、非常時に強い組織になるのである。

 およそ、一国の産業レベルは、その国の国民の文化水準と極めて深く関わりあっている。日本人は非常に勤勉で自助努力の精神に富む民族であるので、現在の少ない自由時間を利用して精一杯努力しているのだが、その様な努力にもおのずと限界がある。完全週休二日制がとられ長期休暇が普通の国と、週休二日制も完全には実施されておらず、夏休みも大企業においてすら四〜五日という国における私生活とでは正しく雲泥の差、質的な差があり、個人の努力だけではいかんともしがたいのである。

 日本経済が自由世界第二になったことを経済効率の良さに短絡させ、日本的経営が効率的な経営方法であるかのような錯覚が行きわたっており、これを非効率的なものとはっきり認識し、改めようとする機運がいっこうに生じていない。西ドイツの労働者は日本人に比べて一人当たり年間で五百時間労働時間がすくないにもかかわらず、アウトップットは日本の一・五倍である。先に見たように、日本の一人当たりの労働生産性は、G7のなかで最低なのである。

 この事実を冷静に認識することがなにより先決である。これまで述べてきたように、ウズ社会のもとで、時間コストには盲目同然で(いや、同然の振りをして)、どれほど長い時間かかろうとも従業員の気を合せることを優先して経営を行なっている。こうした日本的経営のままで時間短縮だけすれば日本のアウトップットはたちまち減少し、危険である。これが経営者側が時間短縮の要求に対し、危機感を抱き、世界から働き過ぎと非難されてもほほかむりを決込む所以であるが、国際的な共通の土俵での公正な競争を行なう上からも、労働者の福祉の向上を図る上からも、またより有能な人々を企業に引付け、より効率的な人と資本との活用を図る上からも、時間短縮については真剣に取組む必要がある。なぜ日本的経営がこれほど非効率なのかについて、真剣な検討を加えその改善に乗出さなければならない。これは繰返し、指摘したようにウズ社会の構成原理そのものにメスをいれる作業であるだけに、多くの困難を伴うものではあるが、日本が国際社会の一員として認知されるためには避けて通ることのできない課題である。

 今後我が国が科学技術立国を目指し、高付加価値の多彩な文化商品・サービス・ソフトウエアを創造し世界に輸出していく以外に生残る道がないとすれば、それを生みだす創造性の豊かな多才な人材が多数必要なのである。その様な多彩な文化商品・サービス・ソフトウエアを享受しうる資質を持った国民がいなければならないのである。また、企業の国際化の一環として、文化的活動・社会的貢献活動(フィランスロピー活動)が求められるようになったが、それを支える文化性豊かな従業員が育っていなければ、そうした要請に適切に応えることはおよそ不可能だろう。緊急な対応が迫られている地球環境問題に対処するにせよ、グローバルな視野を持つ従業員がいなければ、積極的な貢献は難しかろう。

 ギャラップ調査などが日本で無作為抽出による世論調査を行なうと日本の北から南まで似たり寄ったりの答が出てくるという。金太郎飴のようにどこを切っても、同じ意見が出てくるのは、すでにかなりの程度に日本人の画一化が進んでいることを裏付けている。

 こうした事態からの脱却のためにも、単に自由時間の確保に意を用いるだけでなく日本的経営全般についてこの際総点検を行い、よい面は大いに伸ばす一方でいき過ぎと思われる点については率直に反省し、今後の企業と個人との関係をもっと実りのあるものとするため努力していかなければならないのである。

 8   強 い 会 社 か ら 良 い 会 社 へ

 『日経ビジネス』(4)に、「良い会社」度を測る十項目というのがある。項目別にそれを挙げてみよう。

[専門能力] プロとして通用する能力が開発できる。

[自発性尊重] 社員の希望をかなえ、納得ずくで仕事をさせる。

[評価内容の公開] 社内での自分の実績が分かる。

[サービス残業] 時間外労働には対価が支払われる。

[休日] 大切な休みを社用でつぶされない。

[社会活動] 市民として積極的な参加を奨励する。

[企業目的] どんな会社を目ざすのかが明確。

[雇用契約] 社員を人間として尊重する。

[上下関係] 上司への全人格的従属をせずに済む。

[意思疎通] 自由闊達な社内コミニュケ―ション。

以上だが、ここに挙げられている項目は、あまりに当り前すぎて唖然とするものばかりである。だが、これまで述べてきた日本的経営の下での日本企業の実態を知るものにとっては、これらの基準をすべてクリアできる会社が日本では例外的に少ないことを知っている。これまで日本企業は、あまりにも「強い会社」を目指すあまり、「良い会社」にはなりえなかった。つまり、会社の業績は良く、どんな事態にも対処できる体制と能力とを備えていても、その会社で働く労働者一人一人の幸福は二の次三の次とされていた。強い企業はいわば巧みに残業を強制し、それに充分な対価を支払わぬというこそくな手段で儲けてきた。国際競争に勝ってきた。

 しかし、今後は強い会社であると同時に良い会社にならなければやっていけない時代なのである。その際、良い会社でありつつ、なおかつ我が国より生産性を上げている欧米先進工業諸国の会社が多くの良き先例を提供してくれるだろう。

 国民の一人一人が個人として生きがいのある一生、人間らしい生涯を送れるか否かは、決して個人レベルの問題なのではなく、その実現を保証しうるかどうかによって、企業ならびに国家のありようが問われなければならない重大問題なのである。

 これまでの日本的経営は、あまりにも物的繁栄にとらわれ過ぎ、理念を没却してきたが、今後は人間らしい生き方という普遍性のある価値を実現する経営法、理念のある経営法に変質しない限り、早晩行詰まらざるを得ないであろう。経済発展の成果を、人々の心の豊かさに結実できてこそ、日本的経営は、国際的にも日本の文化財として誇りうるものとなり、初めて海外へも輸出可能になるのではないか。はたして日本的経営はその課題に応えることができるかどうか。今、その真価が試される重大な歴史的過渡期を迎えているといえよう。


注

(1)『毎日新聞』一九八九年四月二七日参照

(2)上場企業を含む都内の八一八社の社長を対象に一九八八年年一二月実施

(3)『日本経済新聞』一九八九年四月二七日

(4)『日経ビジネス』一九八八年五月九日号 日経BP社


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(リード文)これまで十七回にわたって文化としての日本的経営について論じてきたが、この連載を終わるに当たって、締括りとして文化としての日本的経営について再び考えてみよう。この日本的経営が、日本経済の強さの核心をなすものであることはこれまで繰返し、論じてきた通りであるが、これから先日本経済が高度情報化、国際化、高齢化し、更にソフト化、サ―ビス化していくなかで、なお強い経済を支えるソフトウエアとして機能し続けることが出来るのか。出来るようにするためにはどのような改革が求められているのか。また、今後のより人間性の豊かさの求められる社会の中でこれまでの日本的経営は当然様々な自己革新を迫られてもいる。その様な要請に的確に応えることが出来るのか。こうした要請に応えられなければ、日本経済のこれ以上の発展は難しくなろう。

 例えば、国際化の要請に応えられなければ、これまで以上に、国際関係を密にすることなしにはこれ以上の拡大発展は難しい局面に達している我が国経済の発展はおよそ不可能である。また経済力だけは増大したところで、国民の人権擁護や人間性豊かな生活への欲求に応えられなければ、今後は経済そのものの発展も益々難しくなろう。一面で国際化や情報化の波は国民の多くにより人権の尊重された他の国の事例を教え、国民の働く意欲を阻害する要因になると思われるからである。

 なぜ、ウズ社会というネ―ミングをしたのか 以下、箇条書きに示す。

(1) 渦のように、一度その中に取りこむとその中に引摺りこみはなざない。少なくともその中で長く生きることを前提として生きざるを得ない。同時に二つのウズ社会には属せない。瞬間的には今属している社会がその人にとって全世界となる。全世界でない生き方をしようとすると異質性を帯びて排除される。ちょうど二つのウズ社会が共存できないように。合併、企業合同が難しい。

(2)その意味で閉鎖性が強い。中に取りこまれた人は渦の外をみるより、中心だけをみる。関心はウズ社会内部に限定されがち。他の社会を知らない人になりやすい。

(3)ウズ社会の中の強い気の流れに合せて、生きなければ浮上ってしまい、ウズ社会の外に放り出される。

(4)他のウズ社会には近寄らない。近寄りすぎると渦が壊れてしまう。

(5)渦毎に独立性が強い。

(6)すべての機能、権力が中央に集まりやすい。権限委譲、や権限の分散がしにくい。渦が中心にすべてを集めるのと同じ。中心と周辺とは大きな力の差がある。いわば序列化が進みやすい構造。

(7)渦の中心に大きな力の源泉が在りそれが渦を巻くモメントを生出すが、なんらかの原因でそれが力を失うと、たちまちにして、渦は消えてしまい、また別の中心人物(単数あるいは複数)の気によって新しい渦が巻き始める。

(8)渦の中に小さな渦が出来るように、大きなウズ社会ではその中に小さなウズ社会ができやすい。これが派閥。傍流。主流が中心部を占める。時にはこの傍流が、主流がその中心人物の力を失うことによって、取って代ることもある。


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