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日本の組織は「気」の渦巻くウズ社会である。組織の成員は様々な側面でこの「気」の渦に拘束されている。前章までこのように「気」に支配されているウズ社会の実態を分析してきたが、本章では日本的経営と労働時間との関連に付いて考察し、労働時間の短縮がなぜなかなか進まないかについて考えてみよう。
1 進まぬ労働時間の短縮 若い社長の急死/社長の夏休みの実態
経済的に日本は豊かになったが、労働時間でみるかぎり、ほかの先進工業諸国に比べ格段に長い。法定労働時間が長いだけでなく、残業が多く、週休二日制や長期休暇の実施率も低く、有給休暇でさえまだ半分しか消化されていない。それだけではない、労働時間としてカウントされないTQC活動、申告されない残業、夜の付きあい、休日返上の接待ゴルフ等などを加算すれば会社による実質的な拘束時間は統計に現れた実労働時間よりはるかに長い(1)。
自らの恥部を隠そうという意識が働いてか、各国の労働時間との比較は事務系の労働者の労働時間の比較はしようとせず、日本ではもっぱら製造業の工場労働者の労働時間での比較をやっているが(2)、事務系でやればその格差はもっと開くことだろう。これが父無き母子家庭を生出し、父親の粗大ゴミ化(つまり家族とのディスコミュニケ―ション化)を促し、定年退職後の「濡れ落ち葉」化や惚けの原因を作り出し、文化の質的な低下をもたらしている。
これは、日本的経営の一つの影の部分と見ることができる。これだけ経済大国となり、経済的繁栄を続けながら、労働時間の短縮化が進まず、労働者の自由時間が増えるどころか、せいぜい現状維持かむしろ減りぎみに推移していることが、労働者に豊かになったという意識を与えていない一つの大きな理由であろう。
これは一つには、仕事が複雑化し、より高い効率を求められるようになればなるだけ、より良いコミュニケ―ションが必要になり、気を合せる必要がもっと高まり、そのために余計時間が掛かるようになる日本的経営に特有な構造的な要因に起因している。また他方でこのように「気」を合せることを基本とする日本的経営には、個々の仕事のマニュアル化を行い、それによって各人のduty(=任務)を明確にし憎い体質が本質的に存在していることにも起因している。自分のdutyさえ果せば、残業をしている同僚をさし置いてそのまま「サイナラ」と帰りにくい体質に日本的経営自体が依存しているのである。
若い社長の急死が相次いでいる。一九八七年だけでも現職で死亡した大企業の社長は十五人を数える。これも上述の日本的経営の構造的要因と無関係ではない。 新しく設立された会社に、手腕を買われて迎えられたある社長は、週日は午前七時に家を出、真夜中近くまで都心にいた。週末は必ず仕事絡みのゴルフという生活を続けていたが、本人は、それを苦にするどころか、むしろ楽しんでいたという。しかし、六一歳で急死した。週に一度は、社長室を若手社員に開放して水割りのグラスを片手に意見を聞くような配慮もした。隅々まで気配りのいきとどいた人であった。
社長はウズ社会の渦の最深部・中枢部におり、社内の「気」の統一を図るべき立場にいる。つまり、社内の人心を収攬するとともに、社の関係先の「気」を合せるためそれこそきめ細かな気配りをして行動せざるをえない。本来の仕事の他に、冠婚葬祭、社の内外の各種の行事、儀礼的な挨拶を始めとして様々な会合、宴席、付きあい、接待ゴルフ等など、マメに付きあわざるをえない。与えられたduty(=任務)を果すことよりも(もっとも、多くの場合dutyが明確に示されることはないが)、むしろ、「気」を合せることを旨とする日本的経営のもとでは、いわばそれらが社長としての仕事=マスト=必須要件になる。企業が大きくなり業務が複雑化し、関係先が多くなればなるほどこうしたマストが必然的に増える。それらに従来と同様にまんべんなく気配りをしようとすれば何時か当然、人間としての限界を一歩踏越えることになる。つまり単に定められた労働時間内にできる仕事量というより精神的・物理的にも一人の人間としてこなしうる範囲を逸脱する。社長の死は戦死にたとえられているが、「気」を合せるためのいわば人身御供として自らの生命を投出したのである。正しく「死にたくなければ社長にならないことだ」(3)。
社長がこれ程身を呈して頑張っているとき、その部下たるものぼんやりしてはおれない。それこそ気の利かない奴としてウズ社会から追放される。その結果、幹部職員を初めとして新入社員まで皆頑張る。四三歳の若さで日本のトップ企業の一つで取締役に抜擢された人の生活振りも先の社長とほとんど変らないモ―レツさである。その後ろに家族と一緒にほとんど夕食をとったことのない中間管理職、残業でデ―トをする暇もない若手職員らが列をなして続いている。
男だけではない。初めからウズ社会の中枢部への接近を諦め結婚したら退職しようと考えている、いわゆる「腰掛け」の女子職員を除けば、女子職員も男並を目指す限り負けてはおれない。システムエンジニアや研究・開発部門などで働く専門職の女性(キャリアウ―マン)の場合、時間外労働時間は月平均二四時間で、大手組合が会社と結んでいる協定で上限とされる四〇時間を越える人も約一三%いる。三人に二人は家庭に仕事を持ち帰った経験があり、子供がいる場合、自由に使える時間は一日わずか二三分だけ、一カ月の休日出勤は平均〇・八日という。これは、電機労連(六五万人)が大手電機メ―カ―で男性と肩を並べて働く女性を対象にアンケ―ト調査をした結果である。実施時期は一九八七年四月。ちなみに同労連の一般女子組合員の平均時間外労働時間は一〇時間。男性の休日出勤は月平均一・二日(前年調査)。調査結果について同労連は「男女雇用機会均等法によって男女平等が進められているが、男子の長時間残業を前提にした男女平等が横行している」と指摘している(4)。
この調査結果が示すように、ウズ社会の中で一人前の仕事をしていくためには、つまりなんらかの形で出世を目指す以上、女性といえども男性並に回りに合せて働かざるをえない。男子並に残業もし、休日出勤もやらなければならない。でなければ渦の外に浮かび上がってしまう。多勢に無勢、ウズ社会における通例として常に長いものに巻かれる方式で、乱れた渦の流れは正常化・平準化する。
ある大手商社の社長は、「私の夏休み」のインタビュ―で、今夏は正味二日とり、女房と二人づれで地方都市の旅館に宿をとり、そこにべったり張り付いて小説でも読み、頭を空っぽにして、仕事を忘れるつもりだと答えている(5)。「社員には一週間はとれといっている。そのためには、社長の僕が率先して休まねば、社員がとりにくかろうと思った。実は、ことしは休みなしで済そうかと考えたこともあったが、やはり、そんな事情も考慮した面も多分にある」。
休み観を問われて「リフレッシュのためには、休みが、大事だ。本来なら、個人がそれぞれ自由に、年間四十日ぐらい休日をとるのが望ましい。しかし、現実はそうもいかない。日本人の休日に対する考えが、まだ貧弱なためだろう。日本は数字の上ではリッチだが、まだその感覚が十分にない」と答えている(6) 。
この社長も休みの必要性は良く分かっているらしい。日本人の休みに対する考えが、まだ貧弱と言っているが、自ら休みは年間四〇日必要と言いながら、ことしは夏休み無しで済そうかとも考え、正味二日で我慢できる(それで頭を空っぽにし仕事をすっかり忘れられるという)神経は基本的に休みを必要としない体質を示すものであり、むしろ自らの休みに対する考えの貧弱さを露呈するものであろう。これらの言葉の裏には、休まない、あるいは休みを余りとらずに働く社長が偉い、立派だという意識が透けて見える。
社長が正味二日の夏休みしかとらなければ、社員も長い休みはとりにくい。ちなみに一九八七年の企業の夏休みは平均六・三四日(前年六・三八日)(日経連調べ)である。夏休みの実施率は七九・八%で前年より二・四ポイント上昇しているが、日数はかなり短い。
これほど働きすぎといわれ余暇の充実が叫ばれても一向に労働時間の短縮や余暇時間の延長がはかばかしく進まないのは、端的に言えば「年功」のうちの勤務年数を意味する「年」とは別の「功」の評価として休み返上で働くモ―レツ振りを高く評価することになっているからだ。その評価で本人のボ―ナスが決まるだけでなく、なにより重要な昇格・出世が決まる。出世に序列社会における自らのステイタスシンボルの全てを掛けている会社人間に、有給休暇を全部消化しなさいと勧めてもその直ぐ陰でそれで「功」の評価をするよと言うのでは休めたものではない。休むなら皆一斉に休むことにしようと言うのは目に見えている。一斉休暇は一種の停戦協定のようなもので、いわば休むことが公認された盆暮れに休みが集中し、夏休みも各社一斉にとる原因である(7)。
身の回りで休み返上で働くモ―レツ社員が偉くなっていくのを見れば皆それを見習うのは当然だ。結局正味二日しか休みをとらない社長はそれまでのモ―レツさを買われて社長になったに違いないのだ。窓際族や万年平社員のように、会社の言わばお荷物として扱われ、老後も恵まれた生活を送っていない先輩同僚を見れば、会社員たるもの誰しも中枢から離れることがどういうことか、上司に気に入らぬ気に食わないと思われることがどういうことか良く理解できるし、管理職の末端にでも運良く到着すれば、権力を持つことがどういうことかを直接体験を通して知ることができる。それゆえ、益々ウズ社会の成員は中枢部に近付くことを夢見、会社への忠誠に励みながら、「過当」とも思われる競争を繰り広げるのだ。
それにしてもボ―ナスにせよ残業手当にせよ、日本の給与体系が制度的にいかに労働時間の短縮を妨げるようにできあがっているか、驚くべきものがあり、これも日本的経営の一つの特徴として注目すべきであろう。また、終身雇用制のもとでは、会社内には常に潜在的な余剰労働力が存在している。とくに安定成長期に入り、会社の成長も伸悩み管理職のポストは絶対的に不足している。このためちょっと多めに休みを取ろうものなら、すぐその地位を他の人に取って代られかねない。昇格のチャンスを失いかねない。そう考えれば、おちおち休めたものではない。ちなみに有給休暇を完全に使い切ろうという人は、サラリ―マンの十四%にすぎず、中でも四十歳代男性は十%と二十歳代男性の半分しかなく、管理職も六・二%に過ぎない。また、五二・二%の人が有給休暇を使うことになんらかの抵抗を感じている(8)。
しかも、duty(=任務)という考え方(つまり、それさえ果せば無罪放免されるという仕事の限界を明確に示すという考え方)がなく、限界なき無定量の貢献をよしとする日本の文化的風土の中では、多々益々弁ずの原則があり、不眠不休の努力、寝食を忘れた奮闘、休みを返上しての勤務、出張につぐ出張、有給休暇を返上しての精励恪勤等など、常軌を逸した努力、人間技とも思えぬ努力でさえ常に高く評価し、「功」の大きな基礎票にする。急死した先の社長もやり手で気配りの人という高い評価を社の内外から得ていた。dutyという思想がなく、原則無き本気主義の世界は、歯止めが利きにくい。「命懸け」「一所懸命」は単なる比喩に止どまらない。会社繁栄の中で「過労死」が増えており、「カローシ」(karoshi) が今や「英語」になりつつある(9)。「気」の支配を無制限に許せば、「気」は、人命まで要求しかねない怪物、妖怪に変化する(10)。
経済同友会は、「個性主義による戦略的人事システム」と題する六二年度企業白書の中で、企業の人事システムについて、今までの年功序列型に見られる平等主義では国際化時代に遅れてしまうとして、個性の強い人を登用する個性主義に変えなくてはならないとしている。これが、有給休暇を完全消化し、残業を拒否するような個性の強い人まで容認しようというのなら立派だが、単に新たなモ―レツ型社員を個性的としてとらえ、高齢者への平等な賃金の上昇を見直そうと言うのであれば、むしろ時代に逆行するものだ。 先にも少し触れたように、業務が多様化し社員が増え業績が上がれば上がるほど忙しくなる宿命を日本的経営は持っている。つまり仕事の上で極めて効率的にことを運ぶためには、それこそ打てば響くような良好なコミュニケ―ションを維持しておかなければならない。そのためには成員の「気」が合い、全員が一体感を持ち一丸となって突進まなければならない。最高に気のあった状態に保つためには、同じ釜の飯を食い、酒を一緒に飲み、カラオケやマ―ジャン等の遊びに打ち興じなければならない。残業や休日出勤に付きあい、勝手に有給休暇を人より多くとるようなことは避けるとともに、仕事場以外でも付きあわなければならない。つまり夜の付きあいが不可欠なのだ。効率の良い仕事をするには多少ともぎすぎすする。そうした仕事が増えれば増えるだけその代償としての夜の付きあい、個人的な付きあいがなければならないのである。そこでバランスを回復するのだ。
こうして、会社による拘束時間は仕事の方が能率的かつ効率的に進めば進むほどむしろ増大せざるをえない。仕事を離れた付合いが、その実仕事のために必要なのだ。仕事による個人の自由時間の浸蝕、時間の浪費は、気の合一に寄掛かる日本的経営の宿命なのだ。
およそ労働者に労働意欲を待たせ、仕事にやる気を催させるためには労働者に対してなんらかのインセンティブを与える必要がある。兵士へのインセンティブは長谷川慶太郎によれば、 (一)休暇を与え、 (二)勲章を与え、 (三)昇進させ、 (四)賞金を与える、 ことであったという(11)。死地となるかも知れない戦場へ喜んで赴かせるために以上の四つが必須だったというのであるが、現在の企業兵士にもこれはほぼ当はめて考えてよかろう。
日本的経営の年功序列制は、昇進の保証である。勲章に代るのが肩書きだ。賞金に代るのが年功序列制による定期昇給、ボ―ナスや各種手当、ベ―ス・アップである。年功序列制賃金は、勤めているかぎり上がり続けるという保証であり、大きなインセンティブになる。ボ―ナスはいわずもがなであるが、各種の手当、なかんずく残業手当は、一部生活給になるほど高いインセンティブになっている。これと残業時間が長くなることは密接に関連している。幸いにして日本経済が戦後ほぼ順調な成長を遂げたので給与は毎年上がるもの(=ベ―ス・アップ)との認識が常識とまでなっている。これを保証するため各企業は必死の成長努力を傾注することになり、これが一面では労働時間の短縮化を妨げている。 ところでここで考えていいのは、いわゆる交際費が、賞金と勲章に見合う大きなインセンティブとして利用されているということである。これに付いてはすぐ後でふれることにしよう。ここでは、各国で勲章よりも高いインセンティブとして考えられ、それを与える権限も高級の指揮官に限定されていた休暇が日本では第二次世界大戦まで極めて低い地位しか与えられていなかったことを強調したい。それは何故だろうか。
休暇は、アメリカ、ソ連、イギリスなどでは、兵士に対する大きなインセンティブと考えられ、戦局の激しいときにも与えられていた。ドイツでも敗色濃厚な時期にも確実に与えられていた。「近代的」な「組織立った」軍隊では日本を除く他の国には、ほとんど休暇があった(12)。ところが、日本の場合は休暇制度が他の国に比べ、かなりイ―ジ―に崩れてしまったという(13)。
また日本以外の国には、通常の休暇の他に特別休暇という制度があった。これは第一線で戦っていて非常に大きな手柄をたてると貰えるもので、それを与える権限は、勲章より上で高級な指揮官に限られていた。ドイツも第二次世界大戦で負ける直前までこの制度の原則を崩さなかった。休暇というものは「それを外してまで勝とうとは思わない」基本的な原則で「休暇が取れない」ということはイクオ―ル敗北ということであったという(14)。 このように各国で極めて高いインセンティブと考えられていたものが、日本ではその地位が低く、しかも、どうしてイ―ジ―に崩れさってしまったのだろう。 基本的には人間尊重の思想の定着の度合が低かったということができよう。しかも各国が軍隊ですらも機能をそのときに限り調達しているという意識が強く、休暇を与えた場合は、その兵士を代替する兵士を配置することで何等支障なく対応できるのである。一人一人の兵士のdutyはマニュアル化されているのでその範囲で兵士は任務を果せば良い。これに対して、日本の場合は軍隊そのものが一つのウズ社会=共同体であり、そこに全身全霊的にとけこむことを要求され、定められたdutyを単にはたすものとしてではなく、代替不可能な一員と位置付けられ、休暇はそこからの離脱としてマイナスに評価されやすいものであったためであろう。去るもの日々に疎しのウズ社会では、休暇が必ずしもインセンティブになりえないことを物語っている。休暇で長く持場を離れればそれだけ回りから疎まれ地位の実態的な低下をまぬがれない。持場を離れられればその分確実に戦力が低下する。明確なduty(=任務)が定められておらず、機能は属人的機能の提供に頼っているので、代替するものがその穴を旨く塞ぐことは期待しがたい。
この旧日本軍の伝統は今日の日本企業にも受継がれている。先に見たように、現在においてすら、各人のduty(=任務)が明確に定められておらず、無定量に働くことがよしとされ、今もって「それを外してまで勝とうと思わない」基本的な原則がなく、社長が現職のまま文字通り「戦死」するまで働かざるをえない仕組みが続いている。「休暇がとれない」ことが、イクオ―ル敗北であると考える国と、休暇がとれないことを、勤勉とみてむしろ高く評価し、死者が出ても名誉の戦死として敬意を表する国との間には越すことのできないほどの大きな隔たりがある。しかし、それが本当に名誉ある戦死と言えるのであろうか。
先にもふれたように交際費は企業戦士のインセンティブとして恐らく今日ではかなりの高い位置を占めている。これは勲章でもあり賞金でもある。既に交際費は気を合せる仕掛けとしてウズ社会の中ではも制度化されており、日本的経営といわれる経営法の中で重要な一翼を担っている。仕事が増大し複雑化すればするだけ気を合せる必要が生じそれに伴って交際費が増大する。社長は一席設けて諸々の関係先や部下とも膝を交えて懇談しコミュニケ―ションを図らなければならない。現在の関係先だけでなく、先行投資の意味で他分野にも関係を広げようとすれば、その分、交際範囲は広がり交際費は脹らむ。政財官界ともそれなりの交際が必要だ。部下は部下でそのレベルに応じて関係先、その部下と付きあう。また、逆に関係先からお座敷がその地位・ポストに応じて掛かってくる。それにも応分の付合いをしなければならない。
ところで、交際費を切る権限はちょうど勲章を与えたり、特別休暇を与える権限と見合うものであろう。その権限自体に大きなインセンティブがある。そういう権限やそれに伴う役得を得たいがために無定量の仕事にも精を出し、出世を目指すのだ。賃金は平等主義の建前がある以上それほど差がつけられないとした場合、差をボ―ナスや交際費でつけざるを得ない。
交際費は本来の目的は、企業の関係先の接待のために使われるものであるが、接待により、同じ釜の飯を食い、酒を飲み、カラオケを歌いあい、ゴルフを共に楽しむことを通じて、他企業のものと気を合せ、気を通じようとするものであり、ここにもウズ社会の原理が働いている。お歳暮お中元にももちろんその目的で使われる。
交際費は、他企業の接待にのみ使われているわけではない。そこで接待する側にも反射的な利益が生ずるだけでなく、自社社員を対象にした交際費の出費もある。
従って日本的経営がうまくいき経済活動が盛んになればなるほど交際費ば増大する。八七年には十五人の若い現役の社長が死んだことと、交際費の増大の間にも相関関係がある。増大する交際費を消化するためにも、個人の自由時間は益々浸蝕される。自宅にいる時間が減る。自腹を切ってものを食い、ゴルフをすることが、偉くなればなるほど少なくなる。自分の体や胃袋でそれを消化せざるをえない。それが死亡にも繋がる。寝る時間以外の時間はすべて公用費で賄われる世界に足を踏込む。社長の戦死の場所が、宴会場であったりゴルフ場であったりすることがそのことを裏付けている。つまり、日本的経営のもとでは偉くなれば偉くなるほど会社がその人の全生活を支配するようになり、自分の自由時間はほとんどもてなくなり、会社まるがかえの生活になっていく。
かつてTIMEは、日本の交際費が防衛費を上回るとして、scandalous(みっともない)と評した(14)が、その背景には、気を合せることを持ってコミュニケ―ションの要諦とする日本的経営の体質があり、しかも交際費がそれを切る権限を持つことを含めて大きなインセンティブになっている現実がある。
注
(1)地価の高騰も手伝って、通勤時間も次第に長くなる傾向があるが、片道三〇分長くなれば年間二〇〇時間拘束時間が増えるのである。
(2)製造業の工場労働者の年間労働時間で比較しても、日本が二一六八時間に対し、米国・英国が一九五〇時間で、八時間労働として二七・五日分少ない。西ドイツ・フランスは一六五〇時間で、実に六五日分少ない。
(3)岩田弐夫東芝相談役談(『朝日新聞』一九八七年六月二八日)
(4)『朝日新聞』一九八八年一月五日
(5)『日経産業新聞』一九八七年七月二九日
(6)東京商工会議所『余暇活用とゆとりに関するアンケート調査』(一九八九年十二月〜九〇年一月、会員会社対象に実施)によると、経営者の五割以上(五二・三%)は、余暇やゆとりは、必要だが、「業務上の都合があり休暇を多く与えるのは困難」と答えている。
(7)一斉に休めばその間組織の渦も消滅する。誰しも、自分だけ休みを取って、渦(=かや)の外に自ら置くような愚は避けたいのである。しかし、好きなときに気ままに休みが取れるのが本当の休みというものであろう。みんなが一斉に休みを取らざるを得ないため、ゴルフ場も遊園地もレストランも満員、ゴールデンウイークや盆暮れには、道路は大渋滞し、行楽地は超満員。めったにない大型休暇、家族サービスのチャンスということでその中に飛び込んでいかざるを得ないサラリーマンは、くたくたになって職場に舞い戻る。これでは休みの意味はない。
(8)総理府『勤労と生活に関する世論調査』一九八七年七月実施。なお、労働省『労働時間短縮に関する意識調査』(一九八九年実施)によると年次有給休暇を約六割の人が半分も消化していない。その理由は、「周囲に迷惑がかかる」三二%、「病気のときなどに残したい」二八%、「休むと仕事がたまる」二七%(『朝日新聞』一九九〇年三月一七日)
(9)『週刊東洋経済』一九九〇年二月三日号
(10)『人口動態統計』をみると、一九八三年以降、自殺者は増加の一途をたどっており、この二〇年間で総数で約一・五倍、四〇歳台に限ると二・五倍にもなっている。一九八八年の自殺者は二万三七四二人(平成元年警察白書)、その動機の中で、会社でのストレスを理由に命を断った人が一一六六人もいる。富国生命が一九八九年八月二実施した、東京都内のサラリーマン五〇〇人へのアンケート調査によると、四人に三人は仕事のために体を犠牲にしていると思っている。風邪をひいても三七度台の熱ならば、会社を休まないという人が約半数。五割近くのサラリーマンが自分は過労死の可能性があると思っている。部長以上では、三人に二人以上が過労死の可能性があると思っている。
(11)長谷川慶太郎『組織の自己改革法』二〇四頁
(12)長谷川慶太郎前掲書二〇四頁
(13)長谷川慶太郎前掲書二〇七頁
(14)『TIME』一九八一年一月一二日号。なお、ちなみに米国では、民間の寄付が一九八七年で、国民総生産の約二%(九五〇億ドル)に及び、八八年には一千億ドル(約十四兆五千億円)を越えたと推定されている。しかも、その九〇%までが個人によるものという。これに対し、日本の一九八八年度の法人企業百八十万社の寄付金総額は千三六〇億円である。交際費が、世界の物価水準から遊離した物価体系を作り出し、その中では、社員が個人として自腹を切って、ゴルフを楽しみ、料亭や銀座などの「高級バー」で遊ぶことを極めて難しくしている。このため、社員は交際費に依存せざるを得なくなり、いわゆる社用族化する。この悪循環が、個人の自由時間を構造的に少なくする要因ともなっている。