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1960.6.28
バリケードの中にある間、二人は前と後ろの視野を完全にふさがれて、一体彼らの周りの状況がどんなになっているか全然見当がつかず、言い得ない不安に駆られていた。彼らもまた、バリケードの中で実況放送をしていたアナウンサーと同じ過ちを犯していたのだ。少しいい気になっていたのかも知れない。アナウンサーは装甲車と輸送車の狭い谷間で、小さな青天井を見上げながら、
「まったく今日の警官は哀れと言うより他に言いようがありません。」
とマイクに叫び込んでいた。その言葉一つでさえもが彼の行動に、一種の勝利感とこみ上げてくるような感情をない交ぜるに十分だった。
「そうだ」
彼はいたずらっぽくマイクに怒鳴り込んで最後尾に飛び出して行ったのだった。
だが、あまりに哀れだったのは、学生の側だった。警察の巧妙な作戦に乗せられていたのだった。
今やバリケードは一方交通の道と化し、狭い空と狭い谷間の間から見境もなく学生達は飛び出してきた。その完全に隊列が崩れ分散した力と、退路を逆にバリケードに断たれて陣形とに警官は容赦なく襲いかかってきたのだった。わずか七、八人のスクラム。彼ら二人が飛び出した時には前方八メートルくらいのところに警官の黒い制服がビッシリと立ち込み、スクラムの先頭と激しいもみ合いを続けていた。
彼はあまりにも警官と接近しすぎたと思った。彼にはもちろん最前列に出て闘う意志はなかった。だけど今となって一体何ができる。後には退けず、前にも進めないとき、辺りの学生にも自分たちの非勢がはっきりと判っていた。だから銘々が切羽詰まった気持から、スクラムを組み始めた。そして一列一列わずか二、三十列しかないそのスクラムの最後尾にくっついていった。彼と彼女も鋼鉄の鎖のように固く腕と腕とを組み合わせ、猛り狂う嵐の海のまっただ中に身を委ねるかの如く、デモ隊の渦中に吸い込まれていった。
これもまた人生か。殺されると彼らは何度思ったことか。すごい圧力。少しでも力を抜けば、首にかけられた手にみすみす力を抜いたように簡単にこのデモ隊の圧力で圧死するだろう。一切の体の自由は奪われながら、それでも全力を出さねばならず、一寸の余地もないのに、彼らは激しく動いた。デモ隊の叫び。ヘリコプターの爆音。悲鳴。修羅地獄の喧噪。
だが彼の目に何が見えたろう。見えねばならぬ一切のものがもはや、激しいその渦の中では見えないのだ。一体人生はいつ終わるのだ。この厳しい、あまりも緊迫したこの人生は、如何なる方法で。まるで底なしの泥沼に足を取られた哀れな子羊のように、もがけばもがくほど、自らの余命を縮め、絶叫を虚しく残しながら泥沼の藻くずと消える哀れな子羊のように、自分自身も、永久に抜け出せ得ない人生の泥沼に足を取られたのだろうか。
人生、まさしく彼ら自身がその場で経験していることこそ人生そのものであった。人生とは所詮無意志的に投げ込まれ、その狭い坩堝の中であらん限りの力を出して、のたくり回り、しかも、何らの効果
もないまま避け得られない死の手によってみすみすと引き抜かれねばならないものであるなら彼が今感じているのは人生そのものであり、かつ人生の縮図でもあった。
警官の鉄兜がもう、間近に迫っていた。警棒の影が、激しく揺れ、悲鳴と鈍い肉の砕けるような音さえもが彼の耳に飛び込んできた。
--ああ逃げたい と彼は願った。 --どうにかして 不可能だ。それこそまるで微塵の疑いのない現実だった。まるで死の手のように確実に彼らに襲いかかるだろう。それでも彼は喘ぎながら、鋼鉄の壁のように固いスクラムの中に潜り込もうとしていた。
時計の針の正確な歩みは、現実の正確な歩みによって保証されているのだ。彼が、最前列に曝される番はもはや、時計の針が間違いなく用意してくれている。
彼が恐れているのは警棒ではなかった。警棒は確実に、もう数秒後には彼もうち倒すだろう。恐れても始まらないではないか。それは免れ得ない運命なのだ。だけど、一体、”オレは逮捕されるのだろうか””逮捕”今となっては、何という苦痛だったろう。
彼は所詮、デモ隊の指揮者ではない。彼らのように、逮捕も恐れず、自らの人生の方針を決定してしまった者ではないのだ。彼には田舎に人生の行く末を、彼の肩に幾分なりと期待している年老いた両親もある。彼が逮捕されたと聞いたときの両親の驚きは推測の外にあった。
一つの要素はこれから彼の人生を激しく変えていくことになるだろう。それほどに自分は今日のこの動きに賭けていたのではなかった。自分のあいまいな意志の結果
として自分の豊かな人生に、決定的な翳りを落としてしまうことになるとしたら・・
それはもう耐えられることではなかった。
ああ、厭だ!!
現実の非情さに彼は絶望的な目の中に彼女の顔を見た。二人の腕はまるで食い込むほど固く組まれていて、今まで離れずにいられたのだった。彼は今彼女に対する押さえがたい尊敬の念にも包まれていた。自分にしてもが、ものすごい圧力と苦痛の激しさに喘ぎ、あと一歩でその苦しみの中に身を委ねてしまいたい虚脱に陥りかかっているのだった。か弱い女の子がそれに何とよく耐えていることか。そう思うと、たまらなく、彼女のことが愛おしかった。不憫に思われた。彼女をこんな目に遭わせているのは自分にも責任がありはしないか。頑張るのだ。と彼女に言ってやりたかった。
その瞬間、暗転。閃光。激痛。右手は思わず頭を押さえていた。続いて肩に。小鼻に。みぞおちに。彼がかがみ込もうとした途端、一本の延びた腕は、後頭部の頭髪をむんずとつかみ、警官の隊列の中に彼の身体を引きずり込んでいた。
容赦ない警棒と罵倒の雨が、彼の全身に浴びせられた。足を蹴飛ばされ、こづかれながら警官の厚い層の中をフラフラと歩いていた。やっと警官もまばらになって、立ち止まろうとする途端、どすんとばかりに突き飛ばし、丁寧にも、足を掛けてくれる。ヨロヨロと他の警官にブツかる。
「バカヤロー」 と突き飛ばされる。足掛け。どすん。「バカヤロー」顔を押さえた彼の両手にヌルヌルとした血が。
激しい痛みよりも敵に対する憎悪よりも何よりも早く彼を襲ったのは、救われたという感情だった。ここまで来ても手錠をはめないところを見ると逮捕しないのだな。それとも、この道はどこか特定の場所に逮捕した者を導くための道なのか。依然として消えぬ
不安。彼に私服や報道陣のカメラの目が浴びせかけられる。あたりに学生の数が多くなった。もうここまで来ればと思ったとき、彼の耳に背後から
「大丈夫?」 優しい、息を切らした女の声。彼女の声だった。
警棒が彼の頭に打ち下ろされ、更に数発食らって彼が、叫び声を挙げてかがみ込もうとしたとき彼と彼女の腕は離れたのだった。頭髪をつかまれて警官の輪の中に彼が引きずり込まれたとき、彼女は我知らず、スクラムから離れ、前の人を懸命にかき分け、警官の前に自ら躍り出ていたのだった。
女の子と見てか、警棒で打ちかかっても来なかった。それでも、汚い雑言が警官の網を抜け出る間、彼女の全身に降ってきた。二、三度こづかれもした。だけど、彼女の目はせわしく彼を追い求めていたし、ののしられても、こづかれてもほとんど何とも感じなかった。彼が仰向いて、両手で顔を押さえながら、ヨロヨロと歩いているのを見つけたときには、本当にほっとした。と同時に、息苦しいほどに、可哀相にと思った。
”大丈夫?”と訊かれ、彼は、何はともあれ、彼女に安心して貰いたくて、こっくりとうなずいてみせた。だけどそのちょっとした首の動きでさえも、脳髄に突き抜けるような痛みの代償を必要とした。彼女は、彼が決して大丈夫でないと思った。どうしてこの血まみれの彼が大丈夫なことがあろう。
--何とかしてやらなければ
スラックスのポケットにはちり紙とハンカチしかなかった。一応それで彼に鼻の穴に栓をし、前頭部の少し血のにじんだ部分を彼女の唾液で湿らせてハンカチで拭き、彼のハンカチと結び合わせて、包帯のように彼の頭の周りに巻いた。
その時、大粒の水滴が一滴彼女の腕に落ちてきた。辺りの街路樹の木の葉がパラパラと鳴った。と見る間に水滴は勢いを増して、瞬く間に土砂降りとなった。しばらく前まで晴れ渡っていた空はいつもまにか雲で覆われていた。空さえ、下界のあまりに暗い現実に涙しているのであろうか。
「歩ける?」
「うん」
「それじゃ、とにかく、タクシーの拾えるところまで歩きましょうよ。ここいらには休むところもないし」
恩給局前の道路は、にわか雨で、今までバリケードを突破したり、チャペルセンター内を抜けてきたりして、そこに座り込んでいた一隊も街路樹の陰に雨宿りをしたり、一部帰りだしたりして、混乱していた。彼ら二人は、その間を縫ってその坂を地下鉄の霞ヶ関駅の方へ下りていった。ビッコを引きながら・・・ずぶ濡れになって。
雨は坂を下りきった頃にはすっかり上がっていた。やや暮れかかった建物も木も、道も、しっとりと濡れて、ビルの灯と、自動車のヘッドライトに美しく輝いていた。二人のびしょ濡れのお客さんは、タクシーの方から敬遠される。やっと五台目の車が彼らの前に停まった。
「どこまで」
運転手が訊いた。 彼女が四谷の二丁目とか、三丁目とか言っているのが彼には聞こえた。
車が走り出すと彼女は彼の方を向いていった。
「私の下宿を言ったのよ。あなたのところは何処?この近く?近くだったら、行き先変えてもいいわよ」
行き先は変更する必要はなかった。彼の下宿は荻窪だったし、この苦痛と血跡のこびりついた顔とびしょ濡れの着物を抱えて下宿に帰ったところで仕方がなかったし帰る気にもならなかった。タクシーで帰るとしたら彼の財布はピンチに追い込まれるだろうし、それかと言って国電や地下鉄に平気で乗り込めるはずはなかった。
タクシーは瞬くうちに目的地まで来てしまっていた。
彼女が彼を導いたのはかなり立派なモルタル造りの二階のアパートだった。
花壇の側を抜け、建物の外についた直接二階に上れるようになっている非常用の階段を上って、右に曲がった一番奥が彼女の部屋だった。彼女は財布の中から鍵を出してドアを開け中に滑り込むと明かりを点けた。
「入って頂戴」
彼女はドアの陰から顔を半分出してすぐ引っ込めた。彼は敷居をまたぎながら、初めて自分の立場を意識して、半ば途方に暮れたように入り口に立ちすくんだ。部屋の広さは六畳ほどで、上がり口のところが一畳ばかり板張りの他は、四・五畳分は畳敷きになっていた。しかし、そこには彼女の姿は見あたらず、ガラス戸で仕切られた向こうに人の影が影絵のように動いていた。
びっしょり濡れた服を持てあまして彼が上がりかねていると、ガラス戸が開き、こざっぱりとブラウスとスカートに着替えをすませた彼女が戸の後ろから現れて、まだ入り口に佇んでいる彼を見出すと、
「あらまあ、まだ、靴も脱がないで」
彼のところに飛んできた。
彼女自身今日のことでは、すっかり疲れ切っていたけれど、まるで疲れていることさえも忘れてしまったように、にっこりと笑いながらせわしなさそうに彼を板間に引きずり上げた。
彼の右手は小鼻を叩かれたときに同時にやられて指が思うように動かなくなっていた。彼女はそれを見ると、彼の上着のボタンを彼と向き合って外し始めた。
「ワイシャツは濡れてないようだけど、脱いだほうがいいわね。そしてしばらく横になって休めばいいわ」
彼女は彼のズボンさえ脱ぐのを手伝ってくれた。もはや、彼が意識して断ったりする方がかえって不自然に思われるような、何一つ気に掛けていないような彼女の振るまいだった。そうした振るまいを彼がいかに大胆に思っているかさえも気づかない様子だった。彼女の濡れた髪の匂いが彼の鼻のあたりにゆらゆらと揺らめいた。
彼女はお茶を入れ、彼が彼女の机でそれをすすっている間に布団を敷いた。
「さあ、少し横になって」
彼の背後から両肩の上に手を置きながら彼女は言った。それは姉が弟にするような自然な気取りのない優しさに溢れた態度だった。枕元には、大きな洗面
器と小さな金盥に水と湯がそれぞれすでに準備されているのだった。
言われるままに彼は布団の上に横になった。布団にしみこんだ女の体臭がさっと彼を包み込み彼を一瞬恥じらわせた。
彼女から優しく顔を拭いて貰い、頭を冷やして貰っているうちに、彼は睡魔の誘惑に易々と乗ってしまっていた。
軽い寝息を立てて眠っている彼を見下ろしながら、彼女自身は、何とも言えない幸福な気持に浸っていた。彼の小鼻のところにはどす黒いアザが出来ていた。いつも左右にきつく引きつけられている彼の口元が弛んで、普段の激しい意志力の代わりにあどけなさを感じさせた。彼女は「いい寝顔だな」と思った。と彼女自身もたまらなく眠くなってきた。
彼女自身疲れがどっと出てきたことを感じていた。何という激しい一日だったろう。まるで今日という一日が普段の日の五日分も六日分もあるように感じられた。目の前に眠っている彼の存在でさえもが、もうずっと以前からよく知り合っていたような気がした。とてつもなく厳しい経験を共に分かち合ったという連帯感と言ったものが彼女にこういう気持を抱かせたのかも知れない。
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