
目次
1.ポーランドへ=1 2 3 4
2.アンナ=5 6
3.キジ猫=7
4.いたずらな子供たち 8
5.ボイテック一家 9(工事中)
雪に白く覆われた裏庭から表通りに出ると、屋敷の前の歩道の雪はすっかり片付けられています。雪が降り止むと、それぞれ自分の家の前の歩道の雪か
きをすることになっているらしいのです。
キジ猫が、保健所の犬殺しに気をつけろと注意してくれたので、ぼくは道路を歩きながらすれちがう人間の一人一人の匂いを二十メートルも前から注
意深く嗅ぎ分けました。犬殺しには犬の匂いが染み着いているものです。日本で犬殺しの匂いを嗅いだことが一度あるので、よく覚えています。
ところが、すれちがう人がみんな犬殺しみたいな匂いがするのです。どうも日本人のあっさりした匂いと違っています。まさか、すれちがう人がみん
な犬殺しとは思えませんが、用心するにこしたことはないと思い、ぼくは歩道のはしっこを通ってすれちがう人をやり過ごしました。歩道は広く車道より広いと
ころさえあります。だから、歩道の端に身を寄せておきさえすれば心配ありません。
ところで歩道の端を通りながら気付いたことは、かなりあちこちに、ほっかほかの犬のフンが落ちているということです。それに歩道にそびえたって
いる葉の落ちた街路樹の根元から、それぞれ違った犬のオシッコの匂いが、ここはおれの縄張りだと言っているのです。ぼくは緊張しました。他の犬の縄張りの
なかを、挨拶もしないで通り抜けたりすると、吠えたてられても噛みつかれても、仕方がありません。オシッコのかかっている幹の高さがいろいろと違います。
これは犬の大きさが違っていることを示しています。この様子だと、この通りには、ずいぶん沢山犬がいるようです。このことと、人間から犬殺しみたいな匂い
がすることと関係があるのかもしれません。
いずれにしても、あまり怖じけづいて歩くと、かえって馬鹿にされて、脅かされなくてもいいのに、脅かされかねません。ぼくはできるだけ胸
を張って尻尾を高く立てたまま歩くことにしました。と、目の前にいきなりブルドックの顔がぬうっと現われたではありませんか。毛皮の厚いオーバーコートを
着た若い女の人に連れられて、とある家から出てきたのでした。ぼくは、てっきり、このブルドックに吠え立てられるものと思い、あわてて両耳を後ろへ倒し肩
をすぼめました。ところが、ブルドックは、ぼくのほうをちらりと見ると、
「やあ、お初にお目にかかるね。君も散歩かい」
と言って、そのままさっさと通りを過ぎて行くではありませんか。
ぼくはちょっと拍子抜けしました。日本でなら、犬と犬とが出くわしたら、ワンワンキャンキャンと決まって喧嘩です。強い犬と出会ったら尻尾を巻
いてすごすご退散するよりありません。
しばらく行くと、歳をとったおばあさんに連れられた、ぼくの四倍もありそうなボクサー犬がやってきました。今度こそ吠え立てられるかも知れな
い。ぼくはいつもの癖で、さっと身構え、尻尾を高く立てました。ところが、このボクサー犬も
「やあ、お初にお目にかかるね」
と言って、そのまま通り過ぎて行くではありませんか。
ーーーところ変われば犬変わる
同じ犬語を話していても、日本とポーランドとではこんなに違うのです。ぼくは、これまで、他の犬に会うたび、肩をすぼめたり、きっと身構えた
り、キャンキャンとところ構わず吠合っていた自分のことが、なんだかとても情けなく感じられて、しばらく、その場にぼうっとしたまま立ち止まり、悠々と通
りすぎて行くボクサー犬の後を見送っていました。やがてボクサー犬の姿も通りの角の向こうに見えなくなったので、ぼくは、また歩き始めました。
他の犬におどかされる恐れもないということがわかったせいか、何だか少し落ちついて回りの町並を観察出来るようになりました。
東京の町並と違って、一軒一軒の家の造りも大きく、建物と建物の間隔がかなり広く取ってあります。道幅も広く、人影も少なく、自動車の数 もそんなに多くないので、何となくのんびりしています。東京の道を歩くときは、何となく身構えて、人に蹴飛されたり車にはねとばされたりしないように、い つも肩肘張って歩いていたものですが、そんな必要はまずないようです。とくに東京では道路を横断するときは、それこそ命がけで渡ったものですが、ここなら 歩道を歩くような気安さで渡れます。いつかご主人に連れていってもらった、信州の片田舎のようにのんびりしています。そういえばあの田舎の道を、ミコちゃ んやひろしくんと、前になり後になり鬼ごっこをして遊んだものです。それにしても、ご主人一家は今どうしているのでしょう。無事に探し出すことが出来るで しょうか。
こんなことを思ったので、ついつい気がゆるんだのでしょうか。僕は危うくとんでもない目にあうところでした。
ふと気がつくと、僕の前の方から、十二、三歳になる男の子が三人、道路の幅一杯に広がって歩いて来るのです。三人とも手を後ろに回してい ます。何かを隠し持っているようです。何となく嫌な空気が漂っています。そのまま歩いて行ってやり過ごそうかとも思ったのですが、危ない橋を渡ることもな いと、引き返すつもりで後を振り返って見ますと、同じ年格好の男の子が三人、後ろからも僕の方へ近づいて来ているのです。皆んな僕をじっと見詰めていま す。知らぬ間に狭い路地に入り込んでいたようで、道幅は十メ―トルもなく、おまけに両側には緑色のペンキを塗った、人の背丈よりも高い金網のフェンスがあ り、脇へそれるわけにもいきません。
とにかく、ちょっと様子が変です。僕は前へ行こうか、後ろへ行こうかと少しためらいました。しかし、ままよとそのまま前へ歩き続けまし た。三人の男の子が側へ来たら、いきなりその間を走り抜けようと思ったのです。僕と男の子たちの間隔が五メ―トルになり、三メ―トルになり、二メ―トルに なったとき、僕はいきなり、一番右端の男の子と二番目の男の子の間めがけて、突っ込みました。一人の男の子は、後ろに隠し持っていた長い棒を、いきなり僕 の行く手に振かざし、もう一人の男の子は、大きな網を僕の頭上から振り下しました。僕は、きわどく身をかわし、今度は後ろの方へ走りました。後ろでも、三 人の男の子がめいめい長い棒切れを道路一杯に広げてたちはだかっています。しかし、ひるんではおれません。僕は、棒の上を飛越えるつもりで突っ込んで行き ました。
―ビュ―ン
いきなり、僕の足を払うように長い棒が襲って来ました。その上をなんとか飛越えると、その後ろに回った男の子が棒を振かざしています。僕 は右に走り、左に走り、必死に逃げ回りました。ビュ―ン、ビュ―ン。耳元をうなりを立てて、棒が通り過ぎます。何度、ぶたれそうになったことでしょう。男 の子たちは、声も立てず、目を光らせながら、僕をめがけて棒を振り回し、一歩一歩僕を道路の片隅に追いつめるのです。男の子たちが作った棒の囲いを破るの は絶望的に見えます。息が切れてきました。棒がかすったのか肩の辺りがズキズキします。
もうこうなったら一か八かやってみるれより仕方がありません。
僕は網を持った男の子めがけて真直ぐに走りました。男の子が網をかけようと振り上げた瞬間、僕は思い切って、その子の顔めがけて飛びかか りました。
「キャ―ッ」
男の子が叫び、僕を避けようとのけぞり、その拍子にストンと尻餅をつきました。僕はその子の上を飛び越えて一目散に走りました。男の子た ちはあっけにとられたのか、だれも追いかけて来ません。僕はそれでも息の続く限り走り続けました。
どれだけ走ったのでしょうか。どこをどう走ったのかも全然覚えていません。僕は目が回って倒れそうになりました。どこか安全な隠れ場所は
ないでしょうか。このまま道路にしゃがみ込んだりしたら、またいたずらな子供たちに捕えられかねません。フラつく足でしばらく走っていると、やっとのこと
で道路脇に樅の木の繁みが見つかりました。ここなら誰にも見つかる心配はなさそうです。僕は、最後の気力を振りしぼって、その下にもぐりこみ、その途端そ
の場にのびてしまいました。