
目次
1.ポーランドへ=1 2 3 4
2.アンナ=5 6
3.キジ猫=7
4.いたずらな子供たち(工事中)
キジ猫
昨晩お腹いっぱい食べたので、それほど空腹は感じません。しかし、このまま木の下に座り込んでいたのではどうしようもありません。ぼくは立ち上が り歩き始めました。どこへ行くとと言う当てはないのですが。
ーー犬も歩けば棒に当たる
そう思って、人間の匂いのもっと強くする方へ向かって歩き始めたのです。
林を抜けて、しばらく行くと、人家が次第に増えてきました。道に沿って歩いて行くと石畳の大きな通りに出ました。驚いたことに馬が荷馬車 を引っ張って走っているのです。シャンシャンと鈴が鳴っています。馬の吐く息が白く見えます。御者が 「ビジョービジョー」 と大声で掛け声をかけています。荷車にはぼくの毛並みのように真っ黒な石炭がいっぱい積んであります。ご主人が西部劇映画が好きで、ぼくもいつのまにか ファンになって、テレビで何度か馬車にはお目にかかったことがありましたが、本物の馬車を見るのは生まれて初めてです。ぼくはすっかり気に入って、馬車の 後ろから馬の歩くまねをしながら、ついて行きました。
幾つもの角を曲がり、やがて石造りの大きな屋敷が、両側に立ち並んでいる大きな通りに出ました。一つ一つの屋敷は、緑色のペンキを塗った 金網の塀に囲まれています。馬車は、そのなかの一つの建物の前で止りました。御者は、御者台から降りて、大きなスコップで石炭を下ろしにかかりました。ぼ くは初めて見る光景なので感心して見ていました。
「ソコノオ若ケーノ」
いきなり後ろから声を掛けられました。驚いて振り返ると、丸々と太った大きなキジ猫が、緑の金網の塀の上からぼくを見下ろしているので す。
「この辺りではあまり見掛けない顔だが、いったいどこからおいでなさった」
犬に向かって、こんなふうに声を掛ける猫など日本ではこれまでおめにかかったことがありません。日本の猫と来たら、犬の姿さえ見れば、す ぐこそこそと物陰に隠れてしまうのです。 ぼくはちょっとむっとして、
「どこから来ようとぼくの勝手じゃないか。第一、ぼくが日本から来たと言ったって、君には日本がどこにあるか知っちゃあいないでしょ」
と言い返しました。
「なに、日本だと。そいつはこのワルシャワの中にあるのかね」
ほれ見ろと思いました。ワルシャワはポーランドの首都です。それくらいのことはこのぼくでも知っています(と言っても、これはご主人から つい最近聞きかじったことなのですが)。ところがこのキジ猫ときたら日本がワルシャワの中にあるのかと聞く始末です。日本はポーランドの中にだってありは しないのに。
「君が物を知らないのには呆れちゃうね。日本はワルシャワどころか、ポーランドの中にさえないんだよ。ずうっとずうっと遠いところにある別 の国なんだよ」
「お若けーの、日本がワルシャワにないってことはわかったよ。それだけわかりゃ沢山だ。お前さんの口のききかたから察するに、日本っての は、あまり礼儀作法のうるさくない国みたいだね。わっしは、お前さんが、なんとなくお困りのようだと思って、ちょっと声を掛けただけのことで、別に、日本 のことが知りたくって声を掛けたわけじゃござんせん」
これには、ぼくも参りました。ぽいでは、どうも猫も犬も対等に口をきくらしいのです。
ーー郷に入らば郷に従え
そう思ってぼくはあっさり兜を脱ぎました。
「失礼な口をきいて悪かった。謝ります。お察しのように、ぼくはこの辺りはもちろんのこと、ワルシャワのことはまったくなにも知らないんで す。良かったら少しばかり教えてくれませんか」
「そうくりゃ一肌脱ぎやしょう。わっしの住処はこの奥でござんす。遠慮せずに、ちょっと寄っていきやせんか」
キジ猫が案内してくれたのは、石造りの屋敷の裏庭にある、樅の木の下の小さいレンガ積みの小屋でした。見掛けは、今にも崩れ落ちそうな感 じなのですが、レンガがうまく積まれていて、びくともしません。中は結構広くて、ボロ布がびっしり敷き詰められており、温かくて快適です。
「こんなものしかありゃしませんが、口にあったら噛ってみて下さい。隣の家からちょいと失敬して来たソーセージの切れ端でござんす。少々古 くなってはおりやすが」
朝からなにも食べていないので言われてみると、お腹が空いていました。ぼくは遠慮なくご馳走になることにしました。固いことは固いのです が、よく噛むとおいしさが口中に広がってくるようなソーセージです。昨日の肉といい、今日のソーセージといい、日本で食べたものより、おいしいのです。こ れは空腹なせいだけではありません。噛り終わっても腹いっぱいというわけにはいきませんでしたが、なんとなくお腹が落ち着いた感じになりました。
「すっかりご馳走になりました。ところでキジ猫さん、こんなことを聞いてはなんですが、お察しするにあなたは、いわばノラ猫暮らしをしてい るようですね。こんな寒い時季にノラ猫暮らしは大変じゃありませんか」
「なーに、別にてーしたこたぁありゃしねえよ。まぁ、飼猫に比べりゃ食うのに少々不自由もするけれど、なにをやるにも自由だし、飼い主の機 嫌を取る必要もないし、要するにわっしの性分にあってるんでさぁ。それに食い物だってこの近所を一回りすりゃ、まあまあの物が手に入るし、この家のおかみ さんは親切なお人で、時々テラスに肉の切れ端とか、魚の尻尾を置いて下さるし、それにいよいよ食うに困りゃ、鳩でも雀でもこの近くにゃわんさといるんで、 ちょいとひっつかまえればいいわけだし、まあそれほど心配するこたぁねぇんだよ。飼主のご機嫌とりをしなきゃならない飼い猫に比べれば、ここじゃノラ猫の ほうがよっぽど高級な身分ってところでさぁ」
確かに毛の色も悪くありませんし、丸々と太っていますし、キジ猫の言う通り食生活はそれほど悪くなさそうです。今やノラ猫同然のぼくとし ては、この話を聞いて、少し安心しました。 と、キジ猫はギョロリとぼくの顔を見て、
「お若けーの、安心なすっちゃいけませんよ。ノラ猫に比べりゃ、ノラ犬は、よっぽど歩が悪いのですぞ。ご覧のとおりワルシャワの屋敷や家は ほとんどどの家も金網の高いフェンスで囲まれている。猫なら、その上によじ登るのはお茶の子さいさいだが、犬にはそんな芸当は死んでもできやしねぇ。それ にワルシャワの人間は、ノラ猫にはやさしいがノラ犬には冷てぇと来ている。肉を恵んでくれる人など、太鼓を叩いて捜したっていやしねぇ。その上、犬と来た 日にゃ、動作がのろいので鳩や雀を捕えるなんてことなんぞ金輪際できゃしねぇ。たいていのノラ犬は、のたれ死にするか、保健所の犬殺しにひっつかまって注 射で殺されるか、二つに一つってとこだね。お前さんも、石炭を下ろすところなんぞ、のんびり見物なんかしているとすぐ犬殺しに捕まちまって、注射プスッで はい一巻のお終わりってことになりかねませんぜ。そう思ってさっきはちょっと声をお掛けしたって訳でがすよ」
「そうでしたか。そうとも知らず、生意気な口をきいてすみませんでした。ご親切には心から、お礼を言います。ところでぼくはさっきも言った ように遠いところから来たものですから、ここの人間の話している言葉がなにひとつわからないのです。よかったらぼくにここの言葉を少し手ほどきしていただ けませんか」
「人間の言葉なんぞ覚えたって何の役にもたちゃしねぇよ。人間って奴はどいつも偉そうな顔をしてのべつまくなく喋りまくっているがその内容 ときた日にゃ、どうでもいいくだらねぇことばかし。役にたつことなんぞ、これっぽっちも言っちゃいねぇ。まぁ、強いて役に立つことといやぁ、こっちはおい でとか、あっちへ行けとか、食事ですよ、といった程度。これしきのことなら別段教えてもらわなくったって、人間の顔付をよく見てさえおれば、すぐ飲み込め るってもんさ」
「キジ猫さん、実を言うとぼくはご主人を捜しているのです。日本から追いかけて来て、はぐれてしまったんです。見つけるためには、少しは人 間の言葉がわからないと・・」
「犬というやつはこれだから始末に終えない。朝から晩までご主人、ご主人で、頭がいっぱいなんだから。お前さんみてぇに、半ばノラ犬同然の 身でありながら、なおかつご主人のことばかり考えている。その点、ノラ猫とは考え方がまるっきり反対ですぜ。わっしの辞書にはご主人という言葉は金輪際あ りゃしませんぜ。まあ、しかし、犬の悲しい習性とお前さんの悲しそうな顔を前にして、なにも教えないというのも、こくというものだろうから、少々実物教授 をして差し上げやしょう。ここの家のおあかみさんと娘さんは、揃いも揃っておしゃべりときている。さきほど、娘さんが買い物から帰ってきたところだから、 おそらく今ごろは台所のテーブルあたりに座り込んでふたりして夢中になっておしゃべりをしている最中のはず。このふたりの話しを聞いていれば、ワルシャワ で暮らす上で必要な言葉は全部出てくること請け合いときたものだ。それじゃ、さっそく台所の窓の下まで行って、ちょっくら様子をうかがってみやしょう」
キジ猫に促されて、一緒に窓の下に行くと、幸い窓が少し開いていて、女の人の話し声が聞こえて来ます。
「あの低いかすれた声がおあかみさんの声で、高くて滑らかなほうが娘さんの声だ。どれどれ、わっしが、同時通訳してあげやしょう。
「今娘さんが言ったのは、今日も肉屋に行ったけれど、とても長い行列だったの。この寒空の下で二時間も待たされたのよ。その挙句、豚肉も牛 肉も売り切れてしまっていて、一切れもないの。買えたのはソーセージだけ。まったく頭にきちゃうわ、という意味だ。この中で重要な単語を拾うと、今日、肉 屋、豚肉、牛肉、買い物に行く、長い行列、無い、ソーセージ、二時間、売り切れってとこかな。今日がジシャイ、肉屋がメンソー、豚肉がスハブ、牛肉がフィ レ、買い物に行くがクーピッチ、長い行列がドゥジョ・コレイカ、無いはニエマ、ソーセージはクバーサ・・・」
「今おかみさんは何と言ったのです」
「本当にこの頃は買いたいものは品切れ、あると思えば長い行列、その上なにもかも値上がりしてしまって、買うに買えない。ああ、大変な世の 中になったものだねぇ、と言ったんだよ。ここで重要な単語は、この頃、品切れ、思う、何もかも、値上がり、大変、世の中・・・」
こうして絶好の教材に恵まれた上に、なかなか教えるこつを心得たキジ猫の特訓を受けたおかげで、ニ時間もすると、ふたりの話しの内容がおぼ ろげながらわかるようになってきました。
「キジ猫さん、今おかみさんが言ったのは『ところで今夜のおかずは何にしようかねぇ、毎日、ソーセージをゆでたのにポテトばかりじゃあき ちゃうし』ってことじゃありませんか?」
「おや、これは驚いたね。お前さんはなかなか飲み込みが早いねぇ。それだけわかりゃてーしたものだ。この近所に、半年ほど前にどこかの外国 から引っ越してきた人間一家があるんだが、揃いも揃って飲み込みが悪くて、今もってチンプンカンプンときている。人間ってのは語学の才が乏しいのかねぇ。 それに比べりゃ、お前さんは大天才ってところだ。いやおみそれしやした」
キジ猫に褒められて、ぼくは少し照れ臭くなりましたが、これからポーランドで生きていくとすれば、ポーランド語を知らないではおられない と思い、必死になって覚えようとした結果なのです。嬉しさもひとしおです。言葉さえわかれば、なんとかポーランドでもやって行けそうです。
その夜は、キジ猫の住処に泊めて貰うことなり、夕食はキジ猫が近所から仕入れて来た肉の切れ端を分けて貰いました。夕食の後もポーランド 語の特訓のおさらいをしてもらいました。
夜更けになるとまた、白い雪が降って来ました。明日の朝も、そこらは真っ白になっているに違いないと思いながら眠りにつきました。
翌朝、安心して眠ったせいかすっかり寝坊してしまいました。
起き上がると、キジ猫は、朝飯前に一稼ぎしてきたよと、目の前に、一羽の雀の死体を並べ、朝飯にと勧めてくれました。雀を食べたことなど ありませんでしたが、贅沢は言っておれません。食べてみると、羽が邪魔になりましたが、結構いけました。
キジ猫にはすっかりお世話になってしまいましたが、いつまでも、居候を決め込むわけにもいきません。朝飯が済むと、ぼくはキジ猫にお礼を 言ってまた独りポッチの、ご主人捜しの旅に出ることにしました。別れ際に、キジ猫が、
「お若けーの、くれぐれも気をつけてな。なにか困ったことが起こったら、いつでも遠慮せずにわっしの所へ引っ返して来るんだぜ」
と言ってくれたのが、ぼくにとっては、なによりも心強く思われました。