音 楽・ドラ マ・映画の部屋/

生 活の中の音楽

(1980年執筆、2004.10.14掲載)


 前書き
 これは、つい最近「アンソロジーIII」というファイルの中から発見した草稿です。おそらく「生活の中の音楽」というテーマでの懸賞エッセイに応募する ためにしたためたものと思われます。

 執筆したのは1980年、ポーランドから帰国して2年目に当たっており、ポーランドでの音楽を巡る濃密な体験が、現在の自分の音楽生活にいかに深い影響 を与えたかについて、興味ある考察を展開しております。現在の「iPodのある生活」につながる前段 階の音楽生活の様子がよく分かります。ご一読願います。

 なお、リンクを「音楽・ドラマ・映画の部屋」の他、エッセイ「落ち穂拾い」、「ポーランドの部屋」にも張りました。(2004/10/15記)

(本文)

 いまでも、生活の中に音楽がないわけではないのです。いえいえ、出勤前に一曲、帰宅後にも暇さえあればまた一曲、レコードを聴いては、いささかあわただ しい日本の生活の中にうるおいを求めて、私なりに音楽を楽しんではいるのです。FM放送を聴いたり、テレビの音楽番組を視聴したりしますし、決して生活の 中に音楽がないわけではありません。まあ、普通の日本人並みには生活の中で音楽を楽しんでいるといってもいいでしょう。

 しかし、私はいささか不満なのです。というのも、どうも私が、ある意味では、いい目をし過ぎたせいかもしれません。これこ そ、生活の中に音楽があったといえるような経験をしてしまったが故に、これほど音楽に溢れているような日本にいながら、まだまだ満足できずにいる始末なの です。まあ、そんなわけですから、私の極め付きの「生活の中の音楽」体験談をまずお聞き下さい。

  私は仕事の関係で1975年の2月末から3年と2ヶ月近く家族(妻と子供2人)ともどもポーランドの首都ワルシャワに滞在したことがありま す。その時の音楽体験がどうも私の「生活の中の音楽」の理想像となってしまったらしいのです。ですから「生活の中の音楽」というテーマを見た瞬間から、こ の時の体験を何とか文章にまとめて、できるだけ多くの人に読んでもらいたいという気になっていたのです。

  もう5年も昔になりますが、突然ポーランド赴任を命ぜられて、初めての海外生活、しかも、行き先が共産圏の国ということで、随分と不安な思 いにかられながら赴いたものでしたが、ワルシャワも「住めば都」で、いろいろと辛いことがなかったわけではないものの、こと音楽に関する限りは、十分満足 して帰ってくることが出来たのでした。

  ポーランドでの生活を今から振り返ってみますと、生活のすみずみに音楽が実に自然な形で溶け込んでいたような気がします。音楽が好きでさえ あれば、音楽の方から生活の中へ入り込んでくる、そんな感じがありました。それには、何といってもポーランド人が根っからの音楽好きであるということがあ ずかっていたといっていいでしょう。

  もともとポーランド人は音楽好きな民族と聞いてはいたのですが、それを肌を通して実感し、ショパンやヴィェニアフスキーを生んだ音楽的土壌 が現在でも国民の一人一人の血の中に脈々と流れていると合点がいったのは、次に述べるような体験を通してです。

  ポーランド生活が始まって三月もたたぬ頃ワルシャワから300キロメートルほど東南にあるジェシェフ地域の工場見学旅行にポーランド商工会 議所に招かれて行った時のことです。ある夕べ、ソ連との国境に近いサン川畔の宿で、招待された一行20人近くが晩餐をとっていると民族衣装をまとった老若 二つのグループが現れて歌と踊りとで我々をもてなしてくれたことがあります。一方は15、6歳の文字通り紅顔の美少年と美少女のグループ、他方は、4、 50歳台の少々しわの目立つ男女のグループでした。ある者はバイオリンを弾き、ある者はアコーデオンを奏で、ある者は歌い、ある者は民族色豊に踊ります。 民謡あり、コミックな男女の掛け合いの歌あり、剣やピッケルを振り回しての踊りありで、我々もすっかり魅了されて、盛大な拍手を送ったことは申すまでもあ りません。

  さて、一通り出し物も終わり、これでお開きになるものと思っておりますと、これから一緒に森へ行こうということになったのです。総勢3、 40人ほどだったでしょうか。うちそろって近くの樅の森へ出かけました。真っ黒な森の中の道をしばらく行くとやや広い空き地があり中央に既に焚き火の用意 がしてあります。早速火がつけられました。たちまち焚き火は勢いよく燃えあがります。その焚き火の回りに輪を作り老若男女が腕を組んで踊るのです。回りで はウオッカの瓶が回されて酒盛りが始まります。私も誘われて踊りの輪の中に入りましたが、これがどうしてなかなかエネルギッシュな踊りなのです。

  足場の悪い森の空き地で、リズムの早い素朴なバイオリンやアコーデオンの音色に合わせて、ぐるぐるぐるぐると焚き火の回りを回るのですから 大変です。汗をかいて輪の外へ出ればウオッカの杯が待っています。みんな実に楽しそうに踊り、歌い、酒を酌み交わしています。私と腕を組んだ50はとうに 越したと思われる小柄なおばさんにしても、実に元気いっぱい、私の腕をぐいぐい引くようにして踊り回ります。私も負けてはおれません。焚き火のはぜる火の 粉を浴びながら一生懸命踊り続けました。

  こうして夜の更けるのも忘れて、黒々とどこまでも続く森の一隅で、老いも若きも踊り戯れるのです。その時の曲目の中に、日本でもよく知られ ているポーランド民謡の”森へ行きましょう娘さん”の曲があったのを覚えています。ポーランドの森は、このように何かにつけ人々に親しまれているのでしょ うか。

  このグループの人から、片言のポーランド語で聞きかじったところによると、この二つのグループは、その森から数十キロメートル離れた村の音 楽愛好のアマチュアグループらしいのです。何でもグループは、少年組、青年組、壮年組に分かれており、グループの中核をなす青年組は、別の所に呼ばれて 行っているので、その日は残念ながら少年組と壮年組しか来れなかったのだそうです。私が、その日参加した一行の中で唯一日本人と分かると、数人のおばさん 連中が寄ってきて、自分たちの村から日本へ行った女性がいるというのです。名前はブランカ。○○という日本男性と結婚したといいうことで、私がポーランド へ来る直前まで日本でポーランド語を習った先生が、そのブランカさんということが分かったのです。何という奇遇でしょう。私が日本で知っているたった一人 のポーランド人の生まれ故郷の人たちと、こんな森の中で知り合いになろうとは。みんなで、手を取り合って歓声を上げたことでした。

  やがて焚き火の火も消え、我々は宿へ、コーラスグループは自分たちの村へ引き返すことになりました。彼らは今から最寄の町まで歩いて帰ると いうのです。森から道路へ出て、そこで腕を組み合って何度もぐるぐる踊り回って名残を惜しみ、我々は別れました。黒い森を背景に白く浮かび上がっている道 を、何度も振り返りながら遠ざかって行き、ついには黒い森の中へ消えていった彼女たちのことを今でもはっきり覚えています。

  音楽と踊りが好きで好きでたまらないという感じが、彼女たちの身体からは溢れていました。組んだ腕からじかに伝わってきました。付け焼刃ではない、本 当に血の中に染み込み、これなくしては生きる甲斐がないといったようなひたむきさがそこにはありました。何かの拍子で、ひょいと捨ててしまったり、忘れて しまったり、ムードとかブームとかですぐ押し流されてしまうことのない、身体に染み付いた安定感がありました。それが彼女たちの気質そのものになっている とでも言ったらいいのでしょうか。生活と音楽とが不可分となっている生きた例として、この時の彼女たちの印象は今でも鮮やかに甦ります。これが、ポーラン ド人は本当に音楽と踊りが好きなんだなぁとつくづく思った最初の、そして最も印象深かった体験の一齣です。

  その後も、同様の印象を色んな時に受けました。たとえば、ちょっとしたレストランへ行っても生バンドが演奏しており、本当におばあさんでもおじいさん でも若い人でも、食事の合間に皆楽しそうに踊るのです。バンドの専属の歌手も声量があって、歌の情感を実に巧みに出します。マイクのボリュームはいつも いっぱいに開いてあるので歌が始まるともう会話どころではないほどです。

  私の一家は、75年と76年の二年続けてクリスマスから正月にかけて、チェコスロバキアとの国境に近いザコパネ地方の小さな村の民宿で過ご しましたが、その民宿の家族は、朴訥な気のいい夫と、小柄ながらしっかり者の妻、それに上は二十歳から下は、五、六歳までの六人兄弟でした。大晦日の夜 は、民宿のお客と家族とが一緒になって盛大なパーティを開きます。その夜だけは全員徹夜で騒ぎまわるのです。レコードに合わせて全員で踊ります。十五歳位 の民宿の女の子にしてもちゃんと社交ダンスのステップが踏めます。民宿の、もうどう見てもおばぁちゃんという感じの女主人もちゃんと踊ります。私もお相手 をして踊りました。小さな子供たちも音楽に合わせて体を動かしています。高校生の長男は、ちゃんと年上の女性をリードして踊っています。踊ることはポーラ ンド人にとってはごくありふれた日常茶飯事のようです。ポーランドでもディスコが大人気を博し、民族舞踊団のマゾフシェが世界を股に掛けて活躍しているの も、このような風土に根ざしていると言っていいでしょう。

  ポーランド人と音楽の結びつきを考えるに当たって、ポーランド人の九割が現在でも非常に敬虔なカトリック教徒であることを忘れるわけには参 りません。ポーランドを車で旅行すると、どこまでも続く平原の向こうに最初に見えてくるのは教会の尖塔です。村の中で一番高い建物は決まって教会なので す。どの教会も古い由緒ある建物で、中に入るとパイプオルガンの荘厳な調べの中で、熱心に祈りを捧げている人々の姿が見られます。老いも若きも毎日曜日ご と、美しく着飾ってミサへ行きますので、日曜日に郊外をドライブしますと、緑の田舎道にミサへ向かう人々の列が美しい彩を添えているのに出会います。

  クリスマスは、宗教上の祭日として全国民が静かに祝います。各家庭はクリスマスツリーを飾り、クリスマスソングを歌って主をたたえます。テ レビでも、クリスマスソングを流しますが、なかなか素敵なものが多く、私もクリスマスソングのレコードを何種類か買って、家族ともども楽しんだものです。

  このように、国民が根っからの音楽好きですから、音楽の催し物は実に様々な形で行われています。人口五、六十万の都市ともなれば交響楽団に オペラ座、オペレッタ劇場ぐらいは持っており、かなりレベルの高い出し物を毎日やっています。そしてどこへ行っても観客がいっぱいなのには感心させられま す。

  ワルシャワでなら昔の宮殿の一室で、昔ながらのかつらをかぶり宮廷楽師の扮装をした奏者が演奏するモーツアルトの小オペラを楽しむこともで きます。夏季には、市の中央にある ワジェンキ公園のショパンの像の下で毎日曜日ごとに野外演奏会が催されます。それこそ老若男女が三々五々集まって来、 ベンチで日光浴をしながら音楽を楽しむのです。

 ワルシャワから五十キロメートルほど離れたところにあるショパンの生家でも日曜日ごとに演奏会があり、生家の前にしつらえられたベンチに腰を掛け、ショ パンの往時をしのびながらショパンの名曲に静かに耳を傾けるファンが多くいます。私たち一家も幾度かそのおすそ分けに預かったことは申すまでもありませ ん。

  こうした野外演奏が無料であることは言うまでもありませんが、通常の演奏会にしても、日本の料金に比べますと、信じられないほど安くて、私のように日 本ではなかなか生の演奏を楽しむ機会に恵まれなかったような者でも、ポーランドではほとんど金の心配をすることもなく、かなりの頻度で生の演奏を楽しむこ とができました。これが、ポーランドで生活の中に音楽があったと思うことの出来た何よりも大きな理由のひとつです。

  さて、私のポーランド滞在中の最大の音楽的イベントといえば何と言ってもショパン・コンクールをじかに見ることができたことでした。このコ ンクールを見ることによって音楽を聴く目が開かれたと言ったらちょっと言い過ぎでしょうか。いずれにしてもその後の私の音楽生活に非常に大きな影響を与え たのは事実です。

  私たち一家が滞在を始めた1975年は、5年に一度開催されるショパン・コンクールの年に当たっており、もともと音楽が嫌いでなかった私 は、第一次予選から最終のステージまで、仕事の合間を見つけては、ショパン・コンクールの行われるワルシャワ・コンサートホールへ足を運んだものでした。 入場料金は邦貨にして第一次予選が二百円少々、最終審査でも千円はしなかったと思います。先にも書いたように日本での料金に比べますとびっくりするくらい 安く、それこそ何度通っても金の心配をする必要なまったくないほどです。もっとも入場券のほうは早手回しに手配しておかなければそう簡単に入手するわけに はいきません。日本からでさえショパン・コンクールを聴くツアーの団体が来ていたほどでしたから。

  その年のショパン・コンクールへエントリーした者は90人ちょっと、そのうち日本が12名を占め、参加国中最多でした。地元のポーランドか らでさえ厳選の上6名に絞られていましたから12名という人数はひときわ目立っていました。おそらく、これは、日本人のショパン好きや、それまでこのコン クールから、中村紘子や内田光子がデビューしたことが影響していたのでしょう。私のみならずワルシャワ在住の日本人の多くも、第二の中村紘子や内田光子の 登場を期待してせっせと会場に足を運んだものだったのです。

  会場はいつも満員でした。それも、通路という通路にさえ、いや、ステージのピアノの周りにさえ、観客が溢れていました。これは音楽学院の生 徒たちが特別の低料金で入場を認められているためです。日本でならさしずめ消防庁のお達しでただちに追い出されるところだったでしょう。世界的に名の知れ 渡ったショパン・コンクールが、このような庶民的とでもいうべき雰囲気の中で行われるとは、私には意外でした。日本でのコンクールを思うにつけ、厳粛に、 厳かに、儀式ばって、ぴりぴりと神経の張り詰めるような雰囲気の中で行われるものと予期していたからでしょうが、どうもこれは私の日本的類推のしすぎだっ たようです。

  課題曲は全てショパンのピアノ曲で、練習曲、前奏曲、ノクターン、マズルカ、スケルツォ、ポロネーズ、ワルツと、ショパンの作曲したほとん ど全種目に及んでおり、第四次の最終審査はベスト6によるピアノ協奏曲ということになっておりました。

  さて、何度も会場に足を運ぶうちに、それほど耳の良くない私にも審査に残る人と落ちる人の見分けが少しずつつくようになってきました。一生 懸命弾いているという印象を与える人、いわば演奏にゆとりのない人は、おしなべて落伍していきました。日本人の演奏者の中にも、なかなかいいテクニックを 持ち、素敵な音色を出す人もいたのですが、なんとなく聴く側で、間違わぬようにとハラハラして聴かなければならないような感じを与える人が多く、もちろん それだけが理由ではなかったのでしょうが、やはり、次々と落ちていきました。

  こうして、日本からの12名は、われわれの声援も空しく誰一人として二次審査の関門を突破できず、結局最終審査に残ったベスト6は、ポーラ ンド2、ソ連2、米国1、アルゼンチン1になっていました。

  最終審査は、ショパンの二つある協奏曲のどちらかを、ワルシャワ交響楽団と協演することになっており、6人を二組に分けて、二夜がかりで行 われました。私はたまたま仕事の関係で、その一方だけしか聴けなかったのですが、それもベスト6に残ったポーランドの女流ピアニストが急病で欠場したた め、ポーランドのツィメルマンとソ連のタチアナ嬢の二人だけが演奏する夜に当たっていました。

  最初に登場したツィメルマンは当時弱冠18歳。しかし、実に堂々としていて、ピアノの前に座るや指揮者とニッコリほほえみを交わし、この態 度だけで、われわれはゆったりと音楽を聴く余裕を与えられたほどです。最終審査だというのに実に落ち着いたものでほとんどスコアを見ることもなく、日ごろ の所作と変わらぬしぐさで、いかにも自ら音楽を楽しみながら悠々とピアノと弾いている感じがあり、われわれもいつの間にか、彼と一緒にショパンの曲に酔い しれてしまっているといった按配だったのです。それは続いて登場したタチアナさんにしても同じでした。

 演奏が終わると観衆は一斉に立ち上がり、足を踏みブラボーを連呼し、拍子をとって拍手をし、演奏者の熱演に応えました。それにニコニコと応える演奏者。 熱気が熱気を呼び拍手はいつまでたっても鳴り止まないほどでした。もっとも、自国のツィメルマンに対する拍手が一段と大きく、より長く続きはしましたが。

  こうしてショパン・コンクールが幕を閉じ、翌日発表された結果によるとツィメルマンが優勝し、タチアナさんは三位に入賞していました。その 後ツィメルマンが順調に成長し、現在では世界を股にかけて活躍しているのを見るにつけ、自分たちがなんだか手塩にかけて育てた子供が世界へ羽ばたいている のを見るような気がして、他人事ではない嬉しさを覚えるのですから不思議なものです。

  さて、ショパン・コンクールを通じての最大の収穫といえば、音楽はまったく演奏家次第だという、単純にして実に厳しい定理が厳然として存在 しているということに気づいたことでした。まったく同一の曲を聴いても、演奏家が違えば、それが同じ曲を演奏していると気づくのに時間がかかることもあっ たほどです。演奏に技術が必要なことは言うまでもないのでしょうが、技術だけを磨いたのではどうしようもない限界が音楽にはあるということ、技術を磨くプ ロセスそのものの中にもどうしてもその演奏者の人間性そのものが反映されることになり、最後に行き着くところは、その演奏者の持っている人間性としか言い ようのないもの自体によって、音楽そのものの良さが決まるということ、演奏者の音楽性と言われるものと人間性とはおよそ不可分の関係にあり、それが豊かな 演奏者に聴衆は結局惹きつけられるということ、こういうことが様々な演奏者の演奏を聴いているうちに自ずとわかってきたのでした。

  それにもうひとつ、音楽という人間活動にとって不可欠なのは、演奏者自身が音楽を楽しんでいることではないかとも気づいたのでした。音楽は そもそも楽しみとして生まれたはずのもの、これが奏者にとって苦痛であっては何にもなりません。ステージの上で自ら音楽を楽しめるというのは、これもひっ きょう人間性に帰するのかもしれませんが、そうしたゆとりがあって初めて、聴衆も本当に音楽を楽しめるのではないかと思ったのでした。

  ポーランドの聴衆も、今言ったような意味で実に音楽を聴く耳が肥えており、いい演奏には拍手を惜しみませんが、反面悪しき演奏に対しては実 に冷ややかな反応を示します。ショパン・コンクールの際にも、プログラム片手に熱心に採点している人も少なくなく、演奏の中休みの時、ロビーで話し合った 老婦人もプログラムの中に採点を細かに書き込んでおり、今夜の日本人の奏者の中では誰それが良かったなどと意見をいうのでした。

 聴衆の耳の良さということで思い出すのは、名ソプラノのシュワルツコフが独唱会を開いたときのことです。もう往年のさえを失なった彼女でしたがそれでも 数々の難しいリートを心を込めて歌い、聴衆の盛大な拍手を浴びておりました。しかし、中には少々音程の崩れるところも出てきます。私などほとんど気づかな いほどのものなのですが、拍手の数はそれに敏感に反応するのです。それは厳しいものでした。

  それに、その厳しさで思い出すのは、日本からある歌劇団が来たときのことです。日本ではかなり高名な歌劇団でしたから、私ども一家も期待し て会場へ出かけたのです。ところが出し物ときたらまるで学芸会に毛が生えた程度のお粗末さで、せいぜい和服と扇子で異国情緒を付け足しただけの代物、これ には私たちもがっかりしましたが、ポーランド人は第二場からさっさと帰ってしまい、会場はガラガラになってしまいました。翌日の公演の時はもっとひどかっ たという話です。日本人として随分と情けない思いをしたものでした。ポーランドでは随分といろんな演奏会に出かけましたが、先にも後にもこれほどひどいも のにお目にかかったことは一度もありませんでした。

  さて、ショパン・コンクールに限らず、どの演奏会場にも耳の肥えた老若男女のファンが溢れるのは、先にも述べたとおり料金が極めて安く、誰 でも気軽に、かなりの頻度で生の演奏に親しめるからに他なりません。

  世界的に著名なバイオリニストのシェリングやイゴール・オイストラフ、ピアニストのポリーニにしても、わずか二百円、スメタナ四重奏団を、 日本とは違い室内楽専用の小ホールで、つい5メートルと離れないところで聴いても百円少々、オペラ座の最高級の席ですら七百円足らず、この程度の料金であ れば低賃金のポーランド人であっても、コンサートやオペラへ足を運ぶことを日常生活の中に組み込むことができるというものでしたし、二万円以上も出して、 訪日した外国のオペラを聴かなければならない日本の聴衆と違って、肩を怒らせて聴く必要もないというものでした。我が家には60を過ぎたお手伝いさんがお りましたが、彼女も夫婦そろって音楽会やオペラへ行くのを楽しみにしておりました。

  このような低料金を維持するために、国が相当な補助金を出しているのも事実ですし、演奏家が給与面でそれほど特別扱いを受けていないのも事 実です。低料金なので老若男女が音楽会へ足を運ぶようになったのでしょうか、老若男女が音楽を必要としているので低料金にせざるを得なかったのでしょう か。やはり、ポーランド人が心から音楽を愛し必需のものと思っているので国としても国庫から補助金まで出して低料金を維持しているというのが本当のところ でしょう。

  ポーランドでは、全国各地でポピュラーからクラシックまで大小様々の各種の音楽祭が開かれており、音楽ファンは嬉しい悲鳴を上げるほどで す。その中でも有名な音楽祭に「ワルシャワの秋」現代音楽祭があります。この音楽祭は1956年から毎年催されており、20年以上も続いている世界でも有 数の現代音楽祭で、実に様々な前衛的試みが行われており、会場を覗くたびに思いもかけなかったような斬新な試みに出くわし、しばしばびっくりさせられてし まうほどでした。数会場に分かれて一週間にわたり、世界各国からの参加者による演奏会が催されますが、どの会場にも熱心な聴衆が詰めかけているのには本当 に驚かされます。なかなか難解な前衛音楽が多いのですが、この音楽祭がこのように長続きし、ポーランドからペンデレッキーを始めとする多くの前衛音楽の泰 斗を生んだのも、このような熱心なファンが数多くいたためなのでしょう。

 音楽祭のフィナーレには、ショパン・コンクールの行われた国立のコンサートホールの大ホールで、ペンデレッキーの大曲がワルシャワ交響楽団の手で演奏さ れました。既にこれほど認知されてしまえば、前衛音楽ではないのかしれませんが、人声を言葉から切り離してまったく器楽同様に取り扱う手法や、ありとあら ゆる音の出る装置を駆使しての演奏は、人間の可能性へのあくなき追求の姿勢を示しており、二階席に顔を見せた作曲家に対して、観衆の感動の拍手がいつまで も送られるのでした。

 また、ポリーニのような世界的なピアニストもこの音楽祭に参加して新しい試みのピアノ曲に果敢に挑戦しているのも、私にとっては、新しい発見で、芸術家 としての彼の姿勢を感じました。日本からも渡辺暁雄氏の率いる都響が、独奏者に石川静を伴って来演し、オーケストラの団員が楽器片手にステージから客席に 下りていくような趣向を披露し、盛んな拍手を受けたのが印象に残っております。

 さて、コンサートもさることながら、ワルシャワで大いに楽しんだことの中にオペラとバレーがあります。

 ワルシャワのオペラ座はヨーロッパでも最大級のもので、大理石造りの素晴らしいものでした。第二次世界大戦によって建物の90%もが破壊されたワルシャ ワのこととて、このオペラ座の前身も例外ではなく、完膚無きまで破壊されたのでしたが、今から十数年ほど前、昔の建物に近い形で復元されたものでした。新 しい設計ですので、ウィーンのオペラ座のように死角になる座席もなく、非常に見やすくできていました。観客はそれこそ思い思いの服装でやって来ており、昔 の貴婦人並みにドレスアップしている女性もおれば、ジーパンにセーターでおへそを出している若い女性もいるといった次第で、オペラ見物と言いながら実に気 さくな感じが漂っておりました。

 出し物は一日ごとに変わる方式ですので、月前に発表される一月分のプログラムを見て、あらかじめ切符を予約しておくこともできます。観客も同じ出し物を もう何度か見たこともある人が多く、実に良くオペラの内容を知っていて、宝塚のファン顔負けの、実に小気味の良いグッドタイミングの声援を送り、拍手を致 します。

 私もポーランドで初めてオペラを見る楽しみを知り、家族ともどもオペラ座に良く通ったのですが、カルメンの胸をえぐるようなアリアや、マダム・バタフラ イの自殺のシーンなど今でも心に残っています。それまで知っていたオペラのいろんな名曲が、意外な場面で奏でられ、こんな場面で歌われたものだったのかと 改めて感心したことが幾度もありました。

 それに美人揃いのバレーも実に楽しいものでした。ポピュラーなバレーはそれなりに、またポーランドで意欲的に取り組まれている前衛的なバレーにも、捨て がたい良さがありました。オペラ座には大ホールの他に小ホールもあって、ショパンのピアノ曲やウェーバーの舞踏への勧誘などへ振り付けしたバレーの小品を やっていましたが、舞台と客席とがほんの数メートルしか離れておりませんので、バレリーナの息づかいさえ手に取るようにわかり、実に親しみやすい心温まる 催しでした。

 夏、ワジェンキ公園の水上劇場で催されたバレーの野外公演も素晴らしいものでした。バレリーナの一人一人が厳しい訓練を経てはじめて到達しうる高度の技 を遺憾なく披露してくれ、観客のため息を誘います。客席と舞台との間に水路があり、上演の最中にそこを悠々と泳いでいた白鳥の姿や、帰りしなに見上げたど こまでも青く透き通るような北国の夏の夜空ともども、いつまでも忘れられないポーランドの思い出のひとつです。

 以上が私のポーランドでの体験談です。つい最近も新聞を賑わせたように、肉不足に端を発したストライキが起こるほどポーランドは貧しい国です。しかし、 こと音楽に関する限りは、限りなく豊かな国です。音楽を愛するポーランド人の心が長い年月をかけてこのような豊かさを築き上げたと言えるでしょう。

 音楽は、人間にとって必需のものといってよいでしょう。人間の社会がある限りどんな未開の社会にも音楽があります。そしてその楽しみ方には、それぞれの 社会固有の方法があります。日本には日本の、ポーランドにはポーランドの楽しみ方があるわけですから一概にどちらがいいというわけには参りません。しか し、私にはどうもポーランドの方が、今の日本よりは、音楽の楽しみ方が少々上手いような気がします。

 ですから、ポーランドから帰国して、私の音楽生活がかなり貧弱化したのもやむを得ません。これに対して冒頭にも書きましたように少々不満を持っているの も事実です。たとえば、日本のように入場料金が高くては、コンサートホールへ気軽に出かる代わりに、レコードやFM放送を聴いて我慢しなければなりません し、オペラ座へ行く代わりにテレビ放送で満足しなければならないのですから。

 しかし、本当を言えば、私は決してそれほど悲観してはいないのです。何と言っても、私の生活の中に音楽がしっかりと根を下ろしているのを実感できるから です。ポーランドへ行く前と違って、たとえ一枚のレコードを聴いても、一冊の音楽に関する書物を読んでもその楽しみの度合いが違うのが分かるからです。私 にとっても、音楽が今やあの樅の木の森で腕を組んで踊ったあばさんたちにとってと同様にいわば気質に近いほど必需のものとなっていることを感ずるからで す。

 楽しいにつけ、苦しいにつけ、私は知らず知らずのうちにレコードを聴いています。私のポーランドへ赴任直後、住居がなかなか見つからず家族ともどもホテ ルに一月以上も滞在するはめになったことがあります。妻や子供は話し相手も遊び友達もない異国のホテルの一室に閉じ込められて、日増しにイライラを高じさ せているのが手に取るように分かります。その時、日本から持っていったカセットテープがあることを思い出し、試しにかけてみたのです。効果は想像以上でし た。子供達は、日本のテレビで毎日聴いていたテレビ漫画の主題歌を何度も何度も繰り返し聴いては、やっと心の落ち着きを取り戻しましたし、私や妻にして も、どれほど心が慰められたかわかりません。

 こうした音楽の持つ偉大な力を知ったればこそ、私は一見気軽そうにレコードをかけながらも、ポーランドで音楽という生涯の友人に巡り会えた喜びをいわば 反芻しているのです。いざというとき、この友人はいつでも駆けつけてくれて私の心の支えとなってくれるに違いないのです。

 これからも末永くこの友人とのつきあいを大切にして行きたいと思っておりますものの、私の当面の願いは、せめて自分だけの部屋に立派なステレオ装置を置 き、隣近所に何の気兼ねをすることもなく、この友人と一晩、夜を徹して語り合いたいということです。

(完)

 

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