その九
その八
その七
その六
その五
その四
その三
その二
その一
初孫は、この7月14日で、丸一年半になった。一年過ぎてからの六ヶ月で、成長に加速度がついたようで、すっかり、存在感のある子どもになった。顔つきも、赤ん坊の顔から子どもらしく、個性のある顔になってきた。成長は順調で、身長体重(12キログラム)も平均値以上に増加し続けているし、知能・情感の面でも、著しい発達が見られる。情緒的には安定していて、基本的には、機嫌のいい子である。先日も、曾お祖母ちゃんの入院している病院に妻や母親と一緒に見舞いにいったが、周りの人に笑顔を振りまき、患者の笑顔を誘いだして来たらしい。それにしても、子どもの顔を見ると、老人の顔に一様に笑いが浮かび、目が生き生きとしてくるのはどうしてだろうか。曾お祖母ちゃんが衰える分、この曾孫がたくましく成長していて、世代交代の姿をまざまざと見る思いである。
歩行能力:歩き出すのが遅くて心配したが、もうすっかり安定した歩行ができる。
歩き出すまでが大変で、親の指一本に掴まるだけで、結構安定して歩けるようになっても、その指をなかなか離そうとしなかったが、ある日、私と妻の間を独りで行ったり来たりし始め、われわれがその間の距離を少しずつ伸ばしても、周りの障害物にぶつからないように気を配りながら、何度も往復し、それ以来、独り歩きができるようになった。しかも、さんざん掴まり歩きをしていたので、最初からかなり安定して歩く。根が用心深い質なのである。このごろでは、急ぐときは、かなりスピードが出せる。
階段は、まだ独りでは最初の一段だけしか上がらない。これも用心深い質の現れのようだ。手を取ってやると、大股でひっくり返りそうになりながら、何段でも登る。
言語能力:自分ではママ、パパ、バイバイ、など片言しかしゃべれないが、言われることは驚くほど、よく分かっている。例えば、「この足拭きマットをお風呂に持っていって」と居間にいた妻がいうと、廊下を両手で引きずってお風呂まで持って行った。お風呂に曾お祖父ちゃんが入っていたら、開き戸にノックして、持ってきたとマットを示して戻ってきた。お風呂という言葉を教えたわけではないのに、それがどこであるかをちゃんと理解している。
「さあ、散歩に行こうね」というと玄関に行って自分の靴の前で待っている。
「さあ、ご飯よ」というとプラスティック製の前掛けをもって、早くしてくれと、テーブルのそばの椅子のところへいく。
「おじいちゃんにバイバイしておいで」と言われて、居間にいる私のところに顔を出し、ニッコリして、バイバイと手を振って、帰る。
「二階のおじいちゃんのこれを届けて」というと、届けに行く。
たかだか、一年半で、日本語のヒアリング能力がこれほどついているのだ。いったいこうした能力はどこから来るのだろうか。不思議でならない。
自我:自分の意志を主張し通そうとする。つい二三日前から、食事の時にするプラスティック製の前掛けを嫌がるようになり、断固拒否する。その理由が分からないが、どうしても嫌と言って、身体を仰け反らせ、前掛けを掴んでおしやり、やらせない。目の前に出した、食べ物を引っ込めても、怒ってにらみつけるだけで、やらせない。今までは食事となると、自分の方から、これをつけてくれと、言っていたのに、どうした心境の変化であろうか。
憶測するしかないが、大人のことを、実に良く見ているので、自分以外に食事の時前掛けをしていないことに気づき、大人並の扱いを要求しているのかも知れない。プラスティック製でない、普通のガーゼの前掛けも嫌がるのだ(今日は、ガーゼのをつけさせた、日によって気は変わるのだ)。
また、これまで右手で振り払う仕草でノーという意思表示をしていたのが、首を左右に振るようになった。断固拒否の時は、首がちぎれそうなくらい激しく左右に振る。
自分の気に入らないことがあると口をとがらせてぷっとふくれる。
テレビのスイッチなどを押そうとして、「ダメ」と大声で制せられると、振り返り、不服そうな顔をし、相手が本気なことがわかると仕方ないという顔をする。
こうした自我はどこから出てくるのだろうか。
写真:娘夫婦が、中野の写真館で親子三人の記念撮影をした。カジュアルな服装で、子どもを真ん中に撮影したものだが、全員楽しそうに笑っており、実によく撮れている。子どもの目のところが父親そっくりなので、写真を見た人は、決まって、これ以上この子の父親に間違いないことをしめすものはないと言う。
この写真を、孫に見せると「パパ、ママ」と指さし、いかにも楽しそうに笑顔を作る。
食事:食欲は相変わらず旺盛で、何でもよく食べる。しかし、これまでのように止めどもなく食べることはなくなり、自分でストップできるようになった。
右手に持ったスプーンをうまく操って、結構器用に食べる。スプーンに一杯掬うので、口まで運ぶ前にこぼしはしないかと、見ている方がはらはらするが、これがあまりこぼさず、口に運び、スプーンをくるりと裏返して、上手く口の中に食べ物を落とし込むのだ。カップに入った納豆など、「左手をそえて食べなさい」と言うと、ちゃんと左手でカップを掴んで食べる。納豆をそのままかき回さずに食べるのだ。
もっと欲しいときは、「うーうー」と言って促したり、空になったどんぶりを、前に押す。
食べ物に対する嗅覚は発達していて、テーブルの上に、食べ物が出されると、背伸びして覗き込み、「うーうー」と、声を出して催促する。好きなアイスクリームを見つけると大変である。冷たいものは何でもが好きで、大きな氷の塊も口の中に含んで食べてしまう。
おいしいものを食べたときは目を細めていかにも嬉しそうに笑う。
とにかく、食べていれば満足げで、機嫌が悪いのは、お腹がすいているか、眠いときである。
ボタン・スイッチ:ボタン・スイッチの類が大好きで、家中のボタン・スイッチを押して回る。電灯が点いたり消えたり、受話器のホーンが鳴ったり「ただいま留守にしております」の音声がなったりするのを、楽しむのである。時々テレビのリモコンのスイッチも押されていて、リモコンが効かなくなっていたりする。自分の家では、すでに子供用のビデオカセットをビデオにセットしてもらい、ちゃんとスタートのボタンを押して、映像が始まるのを待ちかまえているらしい。
遊び:三次元の空間処理が面白いらしく、大小の筒を、器用に中をくぐらせたあったり、かなり細長い筒を器用に床に立て、それに小さな筒をくぐらせたりして遊ぶ。星形の穴に星形のものを差し込む。これが一番難しいが、できると大喜びする。難しさの程度が分かっている。
車が大好きで、妻に早稲田通りに連れて行けとせがみ、車道すれすれに座り込んで、通る車を、いつまでも、飽きずに見ている。これは、「話を聞かない男、地図の読めない女」の言うとおりである。男の子は、こんな小さな時から車が好きなのだ。
猫が大好きで、道でも、家でも猫を見つけると「にゃーにゃー」と言って、立ち止まって見る。ときどき、猫がいないのに、「にゃーにゃー」といって、妻が振り向かせ、ごまかしてやったといわんばかりににやりとする。押してはいけないと言われているスイッチを、押すふりをして、大人の顔をじっとうかがう。
高い高いと身体を高く持ち上げてやると、大喜びで、うーうーと言って何度もやらせる。
砂遊びや水遊びが大好きで、かなり長い時間、独りで遊ぶ。
自分の存在にいつも注目を集めていたいらしく、関心が他に移ったと気づくと、大きな声を出す。やや、内弁慶のところがあって、他の子の間に入るとおとなしくなる。
母親:母親が出かけるとき、妻がいつも預かる。しかし、母親が、あまり長く帰ってこないと、しきりに玄関のほうを気にする。玄関の方で音がすると、飛んでいく。母親でないことがわかると、いかにも悲しそうな顔で泣き出す。
泣きやんで暫くして、また玄関で音がする。また、飛んでいく。ドアが開いて、母親が顔を出す。破顔一笑。「ママ、ママ」と大声を出して喜ぶ。もう母親の存在が、しっかりとビルトインされている。
父親:父親もよく遊んであげ、お風呂にも一緒に入るので、母親が外出するときも、父親と二人で平気で残る。以前にも、母親が旅行の直前に風邪でいけなくなったとき、二泊三日の旅に父親と出かけたことがある。
長女の産んだ長男、われわれにとっての初孫は、後三日で、一年三ヶ月、体重は10キロ、身長は80センチを越えた。成長は順調のようだ。近くに住んでいるので、よく遊びに来る。家内には、それこそ、目に入れてもいたくないほど可愛いらしい。帰宅すると、今日はどうしたこうしたという報告が決まってある。わたしが帰宅する時間にもまだ、娘と孫がいるときもある。そんなときは、孫の相手をする。もう、顔を覚えているらしく、にこっとする。日に日に知恵が付いてきており、やはり、可愛いものだ。
前回、生後ちょうど丸一年の時点で、この<赤ん坊のこと>を書いた直後から、ハイハイがうまくなり、かなりのスピードで動き回れるようになった。つまり、いざるようなハイハイだったのが、両足がそろった本格的な(?)ハイハイに変わったのだ。が、もうこのごろでは、掴まり歩きが出来、相当長く歩けるようになった。自分でも歩くのが好きなようで、掴まってくれとせがむ。両手の人さし指を差し出すとそれに掴まって立ち上がり、あちこちへ歩く。行きたくない方向には、足を動かさず、体をよじってさけ、自分の行きたい方向へ誘導する。伝い歩きも少しだけならやるが、自分からはなかなかしない。一人ではまだ少しも歩こうとしない。支えてやれば、たとえ片手で支えるだけでも、かなりのスピードで歩くので、思い切ってやれば独りで歩けるのだと思うが、なかなか、その一歩を踏み出そうとしない。相当用心深い質のようだ。そのせいで、あまり変なところへいったり、変なものに掴まったりしないので、いままでのところ、それほど部屋を汚さない。
我が家の中には、自分のお気に入りの場所があり、そこへ行きたがる。例えば台所と廊下の間の引き戸のところだ。片手で、引き戸を開けたり閉めたり何度でもやる。うまく開けたねと誉めてやると、顔をくしゃくしゃにして喜ぶ。両手が空いていると自分で拍手もする。
電灯や電話のボタンも好きで、見つけると押したがる。とくに電話のボタンはお気に入りである。モニターのボタンを押すとプーとなるので、ことのほか好きだ。ハイハイしてすぐそこへ行くし、掴まり歩きのときは、そこへ連れて行けとねだる。
一人で歩き出す時機は、生後丸一年か、それを過ぎると一年三ヶ月と言われているが、もう後三日で一年三ヶ月になる。でも、あわてる必要は何もない。おくてだが、すこしずつ遅れて出来るようななってきており、そのほかの点では、順調に成長しているからだ。早く歩ければいいとしたものでもない。
意思表示をはっきりとするようになった。
だっこしてやろうかと、手を差し出しても嫌なときは、片手を出してその差し出した手を払いのける。この片手で払いのけるしぐさが、ノーの意思表示で、食べたくないものを、口の前に差し出しても断固手で払いのける。
感情表現も、ますます豊かになってきた。
嬉しいときは、目を細めてにっこりする。いま、顔が麗子像のように横長で、目が亡くなるようになるまで、目を細めるので、なんとも言えないくらい愉快な顔になる。
食べ物を椅子の下に捨てたりして、怒られると、怒られたと言うことがわかるので、いかにも無念そうな顔をする。口をへの字に曲げ、恨めしそうな目でじっとにらむ。
また、相当に意地っ張りである。泣くので、うるさいと、家内が隣の暗い部屋に連れて行き、寝かせてきたら、いつまでたっても、泣きやまない。暗いところなので、すぐにでも、ハイハイしてあかるい部屋へ戻ってくるかと思ったら、結局ママ(娘)のほうがしびれを切らして、連れに行くまで、泣きやまないのだ。
言葉がかなり分かるようになってきた。
ご飯などを上げているときなど、次のが食べたくなると、おーおーと声を出して催促するのだ。なんだか人に指示するような偉そうな言い方で。
手は器用である。ご飯をつまんで食べるが、結構上手につまみ、うまく口の中に入れられ。唇や、小指の先にご飯粒がつくと、たとえ一粒であっても、うまく口の中に入れられる。スプーンはまだ上手に使えないが、使いたがり、時折うまく食べるときがある。そういうときは、満足そうな顔をする。
ストローを使って、結構うまく飲む。箱形の容器からジューズを飲むときも、ストローを箱の一番底当たるように調節して飲める。
言葉もかなり理解していることがわかる。
これをぽいしてとゴミをわたすと、ゴミ入れまで持っていって捨てる。そのボールをここまで持ってきてちょうだいというと、持ってくる。何度も手を精一杯伸ばしてみて、届かないとまたハイハイして。
どこがおいしい?と聞くと、唇のあたりを指す。
いい顔は?というと、得意の顔、いいーっと、顎に力を入れたひょうきんな顔をする。
声の音色もかなり増えてきた。いろんな音色を出す。自分でもそのためか、日頃いろんな音を出している。声量もかなりあって、大きな声が出せる。
食事の時など、わたしの大きな回転椅子にかなり長い間座っておける。というのは、一度ふんぞり返ってしこたま肘掛けに頭をぶつけた経験があるので、用心して座っており、その後失敗を繰り返していないということだ。
音楽類は好きなようで、自分でピアノの鍵盤をたたくし、妻に弾いて貰いたくて、妻の手を握って鍵盤に載せようとする。
性格は、さっきも書いたように、明るいが、相当慎重派のようだ。確実に前に進んでいるのだが、何ごとも自分でかなり慎重に確かめた上でないと前には一歩も進まないところがある。そのぶん、頭がよく回るのだろう。顔には愛嬌があり、ひょうきんな面もある。こんな幼いころから、こうして個性といえるものが芽生えているのだ。
食欲はいつも旺盛で、かなりの量を食べる。好き嫌いはあまりないようだ。
日に日に、知恵が付いてきて、親に甘えるこつも習得しつつある。泣いたり、笑ったり、すねたりして。とにかく、自分に感心を集めたくて、声を上げたり、笑ったり、いい顔をしたりするのだ。
砂場でもかなり長い時間独りで遊べるようになったという。これは、知恵が付いた何よりの証拠だ。父親との関係もいいようで、帰宅すると手をたたいて喜ぶ。先日は、母親が風邪で寝込んでしまったので、田舎の法事に父親と二人だけの二泊三日の旅をこなしてきた。その間、田舎でも元気で人気者だったようだ。
妻は、弱った実母の面倒を見るという重荷も背負っているが、孫がこんなに急角度で成長しているんだから、お母さんが急速に弱っていくのもしょうがないわね、お母さんが弱りだしたときにちょうど孫が生まれるというのも不思議な符合ね、と妻は言う。むかしから、こうして、世代交代を繰り返してきたのだ。
大半は、妻から聞いた話だ。
シマジロウ(人形)と遊んでいた孫(H)に、娘(Hの母親)が、これからいつものエンコッコクラブ(乳幼児の会)へ行くので持っていきましょうねと声をかけたら、「はい」といわんばかりに、その人形を差しだしたと言うのだ。娘は、これは、絶対にHが言葉が分かってやったのだというのだそうだ。
Hがかなり言葉を理解していることは確かだ。「いい顔してごらん」、「かいくりかいくりぱーは?」、「ばいばいは?」と声をかけられると、いい顔をし、かいくりかいくりばーの動作をし、ばいばいと手を振る。しかし、どのくらいわかっているかとなると、見当がつかない。
言葉は分かっているらしいのだが、自分で言葉はまだしゃべれない。口から、「まーまー」とか「ばーばー」とか発音はするが、これが、わかっていっているのか、わからずに言っているのかわからない。ただ、前に、あーあー泣くだけだったときに比べ、音色の種類が増えていることは確かだ。自分でも、人の真似をしていろんな音を出そうとしていることも確かだ。
お茶を飲み終えると決まって「あーあ」とやる。自分が、飲み終わった時だけでなく、人が飲み終わるのを見ていて、「あーあ」とやる。
妻は、お茶を飲み終わると自分が「あーあ」とやっていることに、つい最近になって、気づいたのだそうだ。幼児とは言え、実に細かなところまで見ており、人のふりを真似、学んでいるのだ。
おいでと手を差し出すと、その人の顔を見て、手を出して身を乗り出してきたり、そのまま、じっとしていたりする。行きたくない人には行かない。ちゃんと判断しているのだ。
久しぶりに会うと、緊張した面もちになり、その人を確かめるようにじっと見据える。しばらく確かめて、知った人だとわかるとさも安心したかのようににこっとする。
自分が好きなことだと何度でも飽きずにやる。高い高いをしてやり、テーブルに下ろすと、また、やれと言わんばかりに、身を乗り出してくる。何度も何度も。
音楽を聴かせると、にこにこする。しかも、どこから音が出ているのか不思議でならないようすで、スピーカーの方をしげしげと見る。
歌ってやると喜ぶ。
目の前で、何でもいいから、踊って見せると喜んで手をたたく。
食事しながら、自分に姿がガラス戸に映っているのに気づくと「万歳」をした。しばらくして、また、ガラス戸の中の自分に「万歳」をした。
「だめ」と言わせようとして、だめなことをしそうなふりをし、周りの反応をうかがい、にこっとする。たとえば椅子の高さを調節するバーを嘗めるふりをする。相変わらず、何でも口に入れて確かめる。
言葉は、よく理解し、コミュニケーションの方では格段の進歩が見えるのにたいし、身体能力の方では、少し、平均より見劣りがする。確かに足が丈夫になって、ものに掴まって長いこと立ってはおけるが、まだ、自分では寝返りもしない。ハイハイもしない。ハイハイさせようと、床にうつぶせにすると、最初は手で突っ張って、頭を持ち上げているが、手が疲れてくると頭を床にがくっと落とし、最後には泣き始める。手を引っ張って立ち上がらせようとしても、腕の力が弱くて、体重を支えきれないのか、まだ出来ない。
いや、誕生日の一日前である今日(1/13)、自分の手で身体を引っ張って立ち上がったとの報が届いた。
ただ、足を伸ばして座ることは、ずいぶん前から出来たし、このごろでは、かなり長い時間でも出来る。その姿勢で、方向転換や、前後にいざることはできる。首もしっかりしており、実によく回る。後ろから声をかけられると、その方向にぐるっと回すのだ。
身体能力の成長は、個人差が、相当大きいようだ。ゴルファーのウッズは、一歳になる前に一人歩きし、プラステックのゴルフクラブで遊んでいたのだ。その写真を見た。
とはいえ、自分で、プラスチック製の水呑をあてがわれると、そのストロー口から湯水を自由に飲める。貰った芋きりを自分で20分もかけて何とか全部食べてしまう。小さな芋やミカンを指でつまんで食べる。
スプーンを持ち、そこらのカップや皿をたたく。
ものを持ち、左右の手の間で持ち替える。
おもちゃのボタンを押して遊べる。
かまって貰うのが大好き。かまって貰えないと声を出して存在をアピールする。
かまってくれる人が見えなくなると、心配で泣き出す。隣の部屋とのドアの陰でも、そこにいると分からせてやると安心して、一人で遊ぶ。
そこらにあるいろんなものをつかって、遊びを発見し、実によく遊ぶ。椅子の高さ調節のレバーでも最初は、それを掴むだけだったが、それで椅子をくるくる回す遊びを発見し、いつまでも遊ぶ。
明日で、一年経つが、表情は生き生きとして、動きも素早くなり、何にでも好奇心を示す。人を見分け、人見知りもする。機嫌はおしなべていい方で、食欲は大変旺盛。すこしいたずらっぽいところがあって、いかにも子供らしくなってきた。
これからも順調な成長を祈るばかりである。
子どもは、妊娠後十月十日で生まれると言うが、孫は、生まれてちょうど十月十日たった。
受精卵(単細胞)から人間の形をした新生児に成長するまで、十月十日かかるとすれば、生まれたての、目も見えず、耳も聞こえず、首も据わらない新生児から、十月十日で、すっかり、人間らしく、子どもらしく、なってきた。
五体満足で、目もよく見え、耳も良く聞こえる。手足も良く動く。病気もあまりしないし、機嫌もいい方だ。成長ぶりも順調である。有り難い。
背後からでも、名前を呼ばれると、首をぐるりと回して、振り替える。しばらく顔を見つめ、知っている人とわかると、にこっとする。それがいかにも可愛い。その笑いには、他意がまったくないので、こちらの心が洗われる思いがする。おいで、と手を出すと、両手を前に出し、大胆に、身を乗り出して飛び込んでくる。
手の指がよく動く。あの小さな手で、結構大きなものを持つ。小さく切ってあげたバナナを器用につまんで食べる。マグカップを持って、ストロー口から、ジュースやミルクを上手に飲む。
およそ、手の届くものには、手を出し掴もうとする。掴むとどんなものでも、口に入れて確かめる。われわれも、見ただけでその物体がどれほど固いかすぐわかるが、生後10月前後期、何でも口に入れて舐めた成果なのかも知れないと思う。とにかく好奇心旺盛で、珍しいものにはすぐ手を出す。抱いていると知らないうちに近くのものを掴まえ、手に持っていたりする。
まだ、歯は生えていないが、食べ物も大抵のものは食べる。もぐもぐと歯茎で食べているように見える。鮭の切り身を一枚ぺろりと食べるように、いつも食欲旺盛だ。旺盛すぎるほどだ。なっとうも好きだという。お腹がいっぱいならば機嫌がいいが、少しでもお腹が空いてくると、むずかるようになる。まだ、機嫌の善し悪しを決定する天では、お腹の具合が最優先のようだ。しかし、これも生き残るためには、やむを得ないことなのだ。
言葉も相当理解しているようだ。ティッシューを口にいれそうにするので、ダメというと止めるが、相手の様子をうかがい、ちょっと口に入れるふりをして「ダメ」と言わせ、いたずらっぽく、にこっと笑う。
何よりも、相手とコミュニケーションできるようになってきた。たとえば、私が孫を前向きに膝に抱いていたとき、急にのけぞって、頭を私の胸にどすんとぶつけてきたので、わざと大げさに
「イターイ」
と叫んでみた。
すると、同じ動作を繰り返すのだ。その度に
「イターイ」
叫んだ。と、4度目からは、イターイと叫ぶ度に嬉しそうに、
「ケ、ケ、ケ」
と笑うではないか。そして、飽きずに何度も何度も、頭をのけぞらせてぶつけてくるのである。私を困らせている、それが楽しいと言わんばかりなのだ。
抱いたり、高い高いをして上げたりすると、声を立てて笑う。少し乱暴なぐらいに扱われても平気である。しかし、少し、怖いということもわかってきたようだ。おいでと言われて、とっさに身を投げ出し、落っこちそうになったときの顔つきがそれを証明している。
住んでいる家のスペースが狭いせいか、まだはいはいはしない。しかし、坐らせると足を投げ出して坐り、もう、自由に方向を変えることが出来る。自分の関心のあるものの方へ身体を回すことが出来るのだ。立たせると、脚をまっすぐに伸ばして、かなり、しっかり立てるようななった。
知恵がついたせいか、回りの人の関心を自分に引きつけることに、ものすごく、こだわるようになってきた。関心を示さないと、たとえば、今まできちんと食べていた、バナナを机の下にわざと落としたりする。近くにいる人が、まあだめねーと言いながら、寄って来て世話を焼いて貰いたいのである。そういう意味の知恵が日一日と付いてきた。母親が自分の側を離れると、悲しそうな顔をしたり、泣き出したりする。夜泣きも少しするようになってきた。知恵がついた分、世話がかかるようにもなるのだ。
人の真似を、良くする。口をぱくぱくしてみせると、口をぱくぱく動かす。話しかけると、同じように声を上げる。色んな声音を出す。機嫌のいいときは、いつまでも、色んな声を出し続ける。
体重はもう9キロ近い。生まれたときの3倍にもなった。抱くと重い。高い高いも骨が折れる。
生まれたときにはなにもなかったところに、明らかに「私」と呼ぶべき、核が出来てて来ており、関心を払わないとちょっとすねて見せたり、ダメと言わせて、いたずらっぽく笑ったり、知らない人だと、緊張した顔つきになったりするのだ。言葉をすこしは理解し、言葉を話す準備をするかのように発声練習らしきことを繰り返すのだ。そこに既に個性らしきものの前触れとでもいうべきもがあるのだ。
こういうプロセスを見ていると、本当に不思議だし、いつまで見ていても飽きることがない。
子どもは宝だとはよく言ったものだ。こちらがいろいろと教えられる。(完)
(1999/7/1掲載)
気分にはあまりむらがなく、総じて安定している。朝は、機嫌がいい。性格はおっとり型で、めそめそしたり、意味なくむずがったりするようなことは少ない。しかし、抱いて貰いたいときは、甘えて泣く知恵もついてきた。抱いていても、ときどき、意味もなく泣き出し、てこずらせられることもある。夕食の時間になると、隣の部屋に寝かせておいても、必ずと言っていいほど泣き出す。どうした按配か、自分に対する関心が他(食事)に移ったらしいことを、敏感に感じるようなのだ。食事中は、テーブルのしたや、乳母車のなかなど、傍においてやっていると、大体が上機嫌だが、完全に無視されていると感じると、むずかる。それで、大人の関心を呼び戻すと、またご機嫌になる。
動きもますます活発になってきて、素早く手足を動かせるし、もうすこしで寝返りが打てそうなほど身体を動かせる。脚で蹴る力も相当なものだ。布団でもすぐ蹴飛ばしてしまう。
両手で支えて、立たせると、少しの間なら足をまっすぐ伸ばして、踏ん張るが、長続きはしない。
首は完全に坐り、自分の見たい方向にすばやく、首を回すことが出来る。声がかかるとそちらのほうへ向き直る。後の方向へのけ反りながら、動くものを追う事が出来る。指を実によく吸う。自分の両足を両手でつかんで、口に入れそうになる。近くにあるものを、手で掴む。掴んで口に入れる。足を載せられるものがあると、片足か両足かをすぐ載せる。坐らせるとしばらくは坐っておけるが、長続きはしない。
人見知りをする。知っている人だと、にこっと笑う。すこし、やんちゃ坊主のようなひょうきんな表情を浮かべる。声をたてて笑うこともある。その笑い顔、笑い声が、いかにも天真爛漫で、われわれの心をこよなく和ませる。
こちょこちょと身体のあちこちをくすぐってやると、身をよじらせてくっくっくと笑う。実際にくすぐらなくても、こちょこちょと言いながら、、人さし指で、くすぐるまねをするだけで、くすぐったそうな顔をする。乱暴に身体をゆすったり、高い高いをしてやったり、足をほっぺたに足先がつくほどまげてやったりすると、うれしがる。身体を逆さにしても平気である。
ところが、この数日風邪気味だ。母親が引いたので二人して引いている。誕生の際に母体から授かった免疫が利かなくなってきたのだろう。風邪を引くとさすがに日頃の元気はないが、もう、ほとんど回復したらしい。しかし、風邪ぐらいなら適当に引いて、後天性の免疫を身につけなければ、後が大変なのだ。無菌の環境で生きていくわけにはいかないのだから。
ミルクもよく飲むが、離乳食もいろいろ食べるようになった。バナナ、ビワ、ジュース。お気に入りはバナナのようだ。さすがに甘いものには、目がない。食欲も十分旺盛で、健康そうに、まるまる太っており、身長も70センチは超えたろう。
母親は、可愛くてしかたがないらしく、実によく写真を撮る。また、デジタルビデオで撮ったものから、カラープリンターでプリントアウトしたりして、我が家にも配給してくれる。右手の人差し指を吸いながら、乳母車の上で、野球帽を横かぶりしている姿、真正面から小さな口を引き締め、まともに見つめている顔のクローズアップ。今、家内がテレビの上に二枚並べて飾っている。
おばあちゃんは、近くに住む、この孫が訪ねてくれることが、毎日の大きな楽しみで、生きがいになっている。身体の弱った曾祖母も、曾孫の顔を見るだけで、元気がでるらしく、めったに見せない笑顔を見せる。赤ん坊には実に不思議な力を潜めている。
わたしも同じ一月生まれなので、こういう時節に、このくらいの成長振りであったかと、つい引き比べて見ている。そろそろ免疫もなくなるこのころ、気温は高く、半袖半ズボンでもいいので、一月生まれは比較的育て易い時期だと思ったりしている。
目次へ戻る
生まれてから、3ヶ月と20日間、我が家で成長した初孫がいよいよ今日の子供の日に、自宅に引き上げることになった。引き上げるといっても、歩いて5分そこらのところだから、大したことはない。これからも、しょっちゅう顔を見せることだろう。
一日から昨日までは、宮城県の実家に、顔を見せに行き、元気に帰って来たのだ。
体重が7キログラムを越え、身長も70センチメートル近くになった。生まれて直ぐのときの顔のおおきさに比べれば優に二倍以上あるだろう。顔は、まん丸。髪の毛はぼうぼう。全身まるまる太っている。脚も大きい。足の指が長く、特に小指が長い。
夜もぶっとおし朝方までよく眠るようになり、夜中に起きてミルクをやる手間がかからなくなった。昼間も起きている時間がずいぶん長くなった。
手足の動きが活発になって来て、両手両足を、大変なスピードで動かす。布団でも、タオルケットでも、簡単に蹴飛ばしてしまう。
手の指も開けるようになったし、口まで持っていって自分でしゃぶれるようになった。その手の指の爪が伸び、それで顔を引っ掻くので、傷ができる。今もかなり大きな傷が左頬にある。
首も据わってきて、右左、上下、首を回し、目で追えるようになった。
「おーおーおー」とかなり大きな声を出し、一人で、声を出しながら、遊ぶ。話しかけると、話をするように、「おーおー」と応えることもある。お腹が空くと、ずいぶんと大きな声で泣く。それでも、放って置かれると、火が付いたように泣く。ミルクが貰えるまで、諦めない。
呼びかけるとそっちの方を振り向く。眠っていても、くしゃみなど大きな音を聞くと、ぴくりとし、泣き出したりする。
何よりもいいのは、、人の顔を見ると、にっこりと笑うのだ。脚を曲げて貰うのが大好きで、曲げてやると大きく口を開けて、にこにこする。時には、声を立てて笑う。その笑顔が何とも言えず、可愛くて、ついつい話しかけたり、抱いてやったり、脚を折り曲げてやったりする。放って置かれるよりは、やはり、相手をしてもらうのが、好きだ。抱いてくれと、泣くこともある。
顔を見ていると、いつまでも飽きない。いつも、まったく自分に忠実に自由奔放に振る舞っているから、逆に邪心やおもねりが全く感じられず、それが、人を引きつけるのである。目もじっと見て自分の方から逸らすことは絶対ない。
お風呂が大好きで、流しにベビーバスを置いて、ずいぶん入れてあげたが、十日ほど前から、娘が、ふつうの風呂に入れるようになった。
基本的に、健康で機嫌のいい子だ。朝の起き立ても、むずからず、ベッドの上で、一人でにこにこしている。お腹が空いていない限り、ぐずぐずしないので、あまり手が掛からない。
この4ヶ月足らずの間に、かなり大勢の人にあった。国も、日本のみならず、アメリカ、スペインからの客。長崎、千葉、島原からの客。曾祖父母、祖父母、大叔父、大伯母、叔母、叔父、などなど、この短期間の間に、色んな地域の人、色んな年齢層の人、ずいぶんと多彩な人とあったものだ。多くの人と会うことが、脳を刺激して、発達を促すような、気がする。これが、昼間、母親一人、子一人では、かなり刺激が少ないように思える。
この時期、シナプスが盛んに発達して、言語能力が形成されるのだ。刺激は多い方がいい。
ところで、昨日NHKの衛星放送で市民歌会を催していた。兼題は、光と響、そこで、即席の和歌を、ファックスで送った。
(兼題:光)三ヶ月の孫はまともに見つめおるその瞳(め)に揺るがぬ命の光
(兼題:響)シナプスは音と響きて絡み合う嬰児(やや)の瞳の見えざる奥で
お風呂が大好きで、実に気持ちよさそうな顔で入る。頭をマッサージしながら洗ってやるとわれわれが恍惚の表情という、口をすぼめ、目を細くして、いかにも気持ちいいという顔つきをする。風呂から出すともっと入っていたいと泣き出すしまつだ。ベビー用の風呂タブが、もう、狭いぐらいで、足を活発に動かし、いきなり、湯舟を蹴ったりするので、入れる時はよほど注意していないと、頭をぶつけさせたり、取り落としたりしかねないほどだ。パパの帰りが遅いので、週日には、いつもわたしが入れているのだ。
お腹が空いた時、おむつを替えて欲しい時、泣いて知らせる。放っておくと、それこそ、火が付いたように激しくなく。生まれたてのときに比べると一段と力強さを増してきた。しかし、抱き上げてやると、ミルクをもらえると合点し、とたんに泣き止む。おしめを替えてやる時も、その気配を感じると、泣き止む。無駄には泣かない。もう、一種のプログラムをビルドインしたものらしい。
体も、最初の一月は、ほっそりしていて、いかにも生まれたてという感じがしていたが、今では、全身まるまるとしてきて、赤ん坊らしくなってきた。頬は、ふっくらと大きくなり、顎も二重顎で、髪毛もふさふさと長くなった。胸が厚く、手足にもたっぷり肉がついている。
表情が実に豊かで、見ているとまさに百面相、いつまで見ていても飽きない。眉間にしわを寄せたり、口をすぼめたり、大きく口を空け、あくびを堂々とやったり、あくびが出ないときなど、顔を真っ赤にして、唸ったり、うんちが出そうな時は、急に真面目そうな顔でじーっとしたり、次々と違う表情をするのだ。
今日は、声をたてて笑った(ようだ)。おそらく、近い内に、人を認知して、笑うようになるのだろう。子供の成長を見つめるのは、実に楽しい。日一日と物心が付いていくのを見ていると、人間が生み出されていく現場に立ち合っているようで、滅多にない貴重な経験をさせてもらっているような、気になってくるのである。
目次へ戻る
今日で、1月14日に生まれた初孫はちょうど丸一月だ。たったの一月で、見違えるようになった。最初に我が家にやってきた生後一週間のときは、本当に生まれたての赤ん坊然だったのに、今では、顔の輪郭もしっかりしてきて、ほっそりと小さかった頬にも丸みがつき、産毛で覆われてほとんど見えなかった眉のあたりに、眉らしきものが、はっきり見えるようになった。つい、最近、気づいてみると手足が、産着からもうにょっきりとはみ出しており、あわてて、もう一つサイズの大きな衣類に着替えさせたことだ。泣き声も、最初の頃の弱々しく、あまり遠方まで届きそうもなかったものから、火のついたような、激しいものになり、もう二階までも届きそうで、お腹が空いた、おしめが濡れたと、きちんと知らせるのだ。光のある方を見る。抱く人の顔をじっと見つめる。大きな音にどきっとしたしぐさをする。
人間の赤ん坊というものは本当に不思議な存在である。まったく生存能力ゼロで、この世に産み出されるのだ。鹿や馬の子供のように、生まれて数時間のうちに立ち上がり、母鹿や母馬の後ろを追いかけるようなこともできない。サルのように母サルの背中にしがみついて、枝渡りしても、落っこちないでついていく芸当も持ち合わせない。寝返り一つもできず、放り出されたままの姿でそこに転がっているよりない。出来ることと言えば、ただ泣くことだけ。自分の生存の全てを回りの人の善意に依存している。泣きの一芸で、生存を全うしようという仕掛けなのだ。
赤ん坊をみると、自らもこうして育って来たのだという感懐に捉えられる。これほど、か弱き存在ととして生を受け、一人前の人間に育て上げて貰ったのだ。姪が、その有様を見て、お父さんもこういう風に、自分を育ててくれたのねと、感に堪えたように言った。今、一人住まいのその姪は、お父さんに反発して家を出た面もあるのだ。
天衣無縫といえば、これほど天衣無縫の存在はない。それゆえ、人は赤ん坊を放っておけないのだ。赤ん坊を見ると、思わず、にっこりと微笑んでしまう。
義母は、インフルエンザに罹って40度を超す熱を出し、救急車で病院にかつぎ込まれた。そこで、肺炎を併発し、生死の境をさまよったあげく、ようやく回復して、つい最近退院してきた。病院で寝たきりだったせいもあってすっかり体力をなくし、自分でトイレに行くのもおぼつかない。言葉もはっきりしないほどで、表情にはまったく生気がなかった。ところが、その無表情の義母が、曾孫を見たとたん、満面に笑いを浮かべたのだ。
赤ん坊には、接する人にエネルギーを与える不思議な力が備わっているのだ。顔の表情を見ていると、いつまでも飽きない。見とれてしまう。結局構わないでおられなくする。それで自らの生存をあがなっているのだ。
ミルクだけで、赤ん坊は育つ。ミルクと泣くだけの毎日のなかで、その白紙のような頭脳は、静かに着実に、回りの人々の言葉を分析し、音を捉え、単語を聞き分け、文法を抽出し、言葉体系を構築しているのだ。なんとも不思議でならない。