今日(February
13,1999)から、編集のつれづれに、思ったこと、感じたこと、気づいたこと、気になったこと、などなど、要するに、なにか頭に浮かんだことを、それ
こそ、手当たり次第、メモ替わりに、何でも書き込みます。
気軽に立ち寄って、編集者のつぶやきに、耳を傾けて下さい。
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(2005/4/24)NHK「短歌スペシャルで拙作が紹介されました
(2005/4/11)タイガー・ウッズ、ファン待望のメジャー勝利!マスターズ3年ぶり4度目の制覇
(2005/2/4)私のホームページ体験
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(2004/5/7)ゴルフハンディを兵隊の位で言えば
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(2001/7/18)チョコレートとセッ
クスはどちらが勝るか
(2001年4月9日)タイガー・ウッズ、マスターズトーナメントに優勝、 史上初のメジャー4連勝達成
2000年
(2000/12/29)良いお年を、新しい世紀21世紀を、お健やかにお迎えください
(2000/11/9)国際運転免許証の有効期限 の延長について
(2000/11/1) 「パソコン故障でホームページの更新も滞り勝ち、一気にG4cubeを導入」
(2000/9/6)
赤子の手をねじるように易しいことか
(2000/8/29)「恐れ入りました」タイガー・
ウッズ様、全米プロに引き続き世界選手権をも連覇
(2000/7/24)
タイガー・ウッズ、全英オープンで優勝、史上最年少、最短期間で、史上5人目のグランドス
ラム達成
(2000/7/18)
赤ん坊のこと(その九)
(2000/6/19)
タイガー・ウッズ、全米オープンゴルフで記録的ずくめの優勝
(2000/5/26)
加藤一画伯の回顧展
(2000/4/23) 池澤夏樹の「室内旅行」について
(2000/4/11)
赤ん坊のこと(その八)
(2000/3/1)
水彩 画のこと
(2000/2/15) 画家加藤一氏の訃報
(2000/1/13)
赤ん坊のこと(その七)
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(1999/12/5)
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(1999/11/28)
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(1999/11/18)
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(1999/10/26) HPが大きくなりすぎ
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(1999/10/13)
水洗便所について|
(1999/9/9)
赤ん坊のこと(その五)|
(1999/8/11)
東遊西興の日々
(1999/7/11)
「闘魂は」に関する書き込みと返事 |
(1999/7/9)
応援歌「闘魂は」をweb上で発見|
(1999/7/1)
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(1999/7/1)
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(1999/5/15)
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(1999/5/12)
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(1999/3/14)
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(1999/2/18)
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(1999/2/16)
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(1999/2/15)
エンロー(中華風鍋物)のこと|
(1999/2/13)
赤ん坊のこと(その一)|
敬老の日の「バナナ五題」 2009/9/22掲載 |
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今日、敬老の日(20090921)は、何かとバナナに縁のある日だった。 1)読書中の「愚か者、中国をゆく」星野博美著 光文社新書350 2008/5/20発行の p.40に次のような文章があった。 「中でも急速に親しくなったのが華僑の青年たちだった。彼らはアメリカ、カナダ、オーストラリア、ペルー、トリニダート・トバコから来た、華僑二世、三世 たちだった。彼らの祖父母は移民先で必死に生活の基盤を作り、孫である彼らの代にようやく安定した暮らしを送れるようになっていた。その裕福な生活の最大 の代償が、子孫が広東語を話せなくなってしまったことだった。このままでは自分たちの母語である広東語を話せない華僑になってしまう。そんな危機感を抱い た親たちが、彼らを香港に送り込んでいたのだ。 彼らは「バナナ」と呼ばれていた。外見は黄色いが、中身は白いという、あられもない言い方だ。私などは中国人でも西洋人でもない、黙殺された存 在だったから気楽といえば気楽だったが、彼らは精神的には群がられる側の西洋人であり、人種的には群がる側の中国人であるから、どちらの側に自分を置いた らいいのか難しい立場に置かれていた。私とは異なる意味で、東と西の狭間で揺れていた。」 2)NHKTV 「生中継 ふるさと一番!世界のぶどう大集合 山梨県甲州市勝沼町」12:15〜12:38放映 山梨県の名産葡萄を紹介する番組の中で、親子二代で50種もの葡萄を栽培して、一般公開している一家が紹介された。その50種の中に、山梨県で 開発された新種の葡萄で、形状がバナナに似ているということから、「バナナ」と命名された種が写し出された。緑色で、確かにモンキー・バナナを連想される ような形状をしていた。植物の葡萄に、同じ植物名のバナナをつけるとは、大胆なものだ。 3) NHKTVで午後1時から放映されたドラマ「お買い物」**は、「敬老の日」にふさわしい、老夫婦を主人公にした、しみじみと面白い番組であったが、終わ りのテロップで、音楽が「BANANA」によることがわかった。今年の2月14日に放映され、放送文化基金賞を受賞した作品の再放送であった。 4)NHKハイビジョン午後8時放映の「プレミアム8」で、女優の吉本多香美さんが、鳥の写真で有名な動物写真家の嶋田忠に弟子入りし、中米コス タリカで、情熱的な求愛の踊りをみせるオナガセアオマイコドリの撮影に挑戦する。4日間も狭いテントの中で粘るのだが、補給食に、バナナを美味しそうに食 べるシーンがある。一緒に見ていた妻は、バナナ・アレルギーがあり、私にはできないなあと嘆息した。吉本さんは、400mmの望遠レンズで、見事、傑作を ものにし、免許皆伝を受ける。鳥の絵もうまかった。自転車にも一家言を持つ。多彩な人である。 5) 一日のうちに「バナナ」に四度も巡り会って、面白いと思った。ところが、寝る前に本の整理をしていたら、その中に、名著との誉れの高い、鶴見良行の「バナナと日本人」岩波新書(初版1982年、25刷1992年)が混じっていた。 何かとバナナに縁のある一日だった。 |
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| 「狂気と天才」を巡ってーー作曲家池辺晋一郎氏と私の日記 |
2006.5.16 掲載 |
| 作曲家の池辺晋一郎氏が、日経新聞の今日(2006.5.16(火)の
夕刊(「こころの玉手箱」欄)に、民芸「狂気と天才」について次のように書いている。 「ある時観たある芝居が、完全に僕を演劇人間にするのである。 大学一年の九月だった。並んで当日券を買ったのは劇団民芸の『狂気と天才」。今はもうない渋谷のと東横ホール。デパートの最上階だ。「キーン」という原 題のこの芝居をなぜ観たくなったというと、作者がサルトルだったからだろう。あのころの学生は、サルトル、そしてボーヴォワールの思想について何かしら語 れなければ仲間はずれになる感じだった。「存在と無」など実存主義の哲学書のみならず小説「嘔吐」や「出口なし」など戯曲も、サルトルの著作はほとんどバ イブルだった。 (中略) さて、民芸『狂気と天才』は、村山知義演出、主演は滝沢修だった。この名優の、まさに最高の時代だったろう。僕は完全に圧倒される。 芝居とはこんなにすごいものだったか…ただちに僕は、入学から半年の東京芸大の『演劇部』に入部する。」 そこで、油絵科の女子学生で部長兼演出家に、演劇用に音楽を書くように頼まれ、しぶしぶながらも書き始める。 「のちに四百数十本もの演劇の音楽を書くことになる僕にとって、実習になったわけだ。そのモトは、あの「狂気と天才」だったのだ。」 確か、同じ劇を観たことがあると思って、MacOSX Tiger自慢の検索機能を使ってこのHPに掲載してい る日記に当たってみると、これまたあっという間に見つかった(これもすごい)。1963年9月22日の午後と夜の二回ににわたって、次に掲載するように、 詳しくこの劇に触れているのだ。強いインパクトを受けたことがよくわかる。ただ、作曲家の池辺さんのように、「完全な演劇人間」にされ、「のちに四百数十 本もの演劇の音楽を書くことになる」ほどの強烈なインパクトを受けたわけではなかったが。 それにしても、その日から42年もたって、同じ劇を観たということがわかるということも、なかなか面白いことではないだろうか。 |
日本経済新聞 2006.5.16 「こころの玉手箱」 |
「1963.9.22 ◆昨夜東横ホールに滝沢修(注)主演の「狂気と天才」を見に行った。鈴木力衛 先生の訳になるサルトルの戯曲であり、劇団民芸が総力を挙げて取り組んだと言われるものだ。奥さんに入場券をいただいてルネちゃん達と一緒に行った。 劇の導入部は西洋人気取りの大仰な身振りの何とか夫人とデンマーク大使夫人に少々辟易したけれど、滝沢の演ずるキーンが登場するに及んで舞台は一本針金 が通ったようにピンと張りつめ見応えのあるものとなった。 それにしても滝沢とは何という俳優であろう。その歯ごたえのある見事な演技に観客は陶然と酔っているかのようであった。まるで独白のような長いセリフ を、3時間にも及ぶ長い舞台で少しの息切れもせず軽々とこなして見せ、語調、緩急、まさに思うがまま、観客の心を操り人形のように自由自在に揺り動かすの だ。確かに日本における一流の役者と言って良いと思う。 さて、劇を見ながら、サルトルがこの劇で言いたいことは何だろうかといろいろ考えてみた。 キーンのセリフの中にヒントになることが沢山あり、またその警句じみた語句にその場での共感を覚えたりしたけれど、あの劇全体がいわんとすることをつか むことは私には難しすぎるような気がする。まとまりはないかも知れないけれど僕が感じたことを少し書いてみよう。 ぼくにはサルトルが俳優について書きたかったのではなくて、自分が書きたいことを書くのに俳優が必要だったのではないかと思えた。サルトルは確かに俳優 の本質的なものをするどく見抜き、俳優というものを描き出しているが、彼の直接的な関心は人間そのものにあるように思われた。俳優という自分自身とは別に 役どころとしてロメオをやりハムレットをやることを商売としているものでなくても人間そのもの、普通のごく当たり前の人間もいつも何かの演技を行っている のだ。俳優は自ら演技しているということに比較的意識的である。これに反して普通人は自ら演技しているという意識なしに演技し、自らそのものであることと のけじめもなくなってしまう。まさしく我々が劇の終幕近く、虚偽と真実の目まぐるしい転換に、<白と黒>とのけじめを付けかねて混乱するように、演技者で ある我々そのものが常日頃かかる混乱を演じているのだ。 いったいどこまで鮮明に我々は自分自身の真の姿と演技にすぎぬ自分の幻とを区別できるというのか。まさしくこの世には確実であるものはごく僅かしか存在 しないのだ。我々の人間としてのそうした日常的な意識されざる演技ー自分自身を偽った幻の自分を相手に印象づけようとするそうした演技から、自らを解放す ることによって本来的な人間に立ち返ることができると言うことを、サルトルはいわんとしているのではないだろうか。 キーンという性格もまたサルトルの関心ではあったのだろう。そこには自意識過剰の痛々しい近代人がのぞいている。 「これほどのうぬぼれを持ちながら自分自身が尊敬できないとは!」 とキーンは頭を抱え込んで苦しむのだ。ここに自らの姿を見る人も多いのではあるまいか。今日において自分自身が尊敬できると考えることこそ最大のうぬぼれ なのではないだろうか。解決せねばならぬ緊迫した大問題が山積し、しかもその前にあまりにも無力で、かかずらうことを極力排斥して生きている我々という存 在は、よしんば他人からは尊敬されることはあっても、自ら尊敬できる存在ではもはやなくなっているのではないだろうか。 「オレは自分自身の前で自分を演じてしまうのだ」 これこそ現代人の自意識過剰の病の自覚症状である。我々は得てして自分自身にまで自らの偽りの姿を見せつけようとするのだ。そこには様々のジャスティ ファイの口実が使われる。しかし、そうした口実も必要としなくなり、いっさいの自覚症状が消えてしまい、ついには自らに自らを演じて見せているに過ぎぬ自 分というものに気づかなくなってしまう。そこにはもはや持って生まれた天才も、埋もれた才能も開発される機会はない。 我々はそうなる前に立ち直らねばならぬのだ。自らがいかなる人間であるかということをしっかりと知らねばならない。いったん自らの価値に気づくならば、 今までの偽りの生活が愛おしくなろう。そうなったとき我々がキーンのように、プリンス・オブ・ウェルズにステージの上から、 <黙れ、ここではオレが王様なのだ> という言葉を投げつける勇気があるかどうかということに一切がかかってくるのだ。今までのごとき演技でもって君を評価してくれていた人々に対し、天分に目 覚め、自らの人間に開眼した君の立ち居振る舞いはまさに狂気のなさしめるものに見えることだろう。「狂気」とはすなわち「赤」のレッテルと同じく、社会に おいて人間の行動を規制する大きな負の呼称の一つである。自らを解放することにより、自分自身を自分の目で見、自らの価値で評価することより、他人の目で 見て貰い、他人の価値で評価して貰うことに重きをおく人は、まさしく自らを「狂気」の狂おしさの中に解放できず、他人の鎖につながれたまま生涯を終えねば ならないのだ。 (注)滝沢修 2000.6.22、93歳で死去 |
日記1963年9月22日へ |
| 1963.9.22 Sunday ◆今さっきまでテレビの「狂気と天才」を見ていた。芝居が終わってから村山知義が解説していたけれど、僕が昼間感想文で書いたのと同趣旨のこ とを少々話し ていた。僕は僕の感想がまったくいかなる解説書いかなる解説からも影響されていないということをここにはっきり言っておく必要がある。僕は他人が作った チーズを自分が作ったごとく店頭に並べるチーズ商人にはなりたくないからだ。 とにかく最後の方だけは2度見ることにはなったのだが、2度見ても少しも飽きることなく、またしても引きつけられるようにして舞台を見つめることになっ た。そして昨夜は感銘を受けながら忘れてしまっていたいろんなセリフに出くわしてその意味を色々と考えてみる機会を得た。 キーンが言う、シェイクスピアのTo be,or not to be,that is the question. をもじっての「行為か、演技か、それが問題だ」というセリフの重さを僕はもちろん感想文を書きながら感じていたのだけど、この明確な言葉 では捉えていなかった。 主体的な行為であるか、単なる狂言回しの演技であるか。この問いは我々の一挙一動に向けられなければならないのだ。ポーズを取る、と我々はよく言う。演 技をするとはまさにそのことを差しているのだ。一日一日の習慣的な生活の中で我々はまるで役を割り当てられた俳優よろしく、その役を演じることにすべての 意を注いでいるのだ。その中に自分自身というものが生かされているかいないかなどにはお構いなく、そしてむろんそうした無関心のうちに自分を次第に見失い ながら、我々は懸命に演技をし続けるのだ。そこには意志に基づく主体的な行為が存在しないのは言うまでもない。 サルトルはこうして他人のチーズをそのまま売るチーズ商人に対して痛烈な批判と警告を与えているのだ。」 |
日記1963.9.22-2へ |
6日は、囲碁の小川会で、新本因坊の趙善津九段の
就位祝賀パーティに出席した。棋界の横綱にも匹敵する本因坊に就位しても、これまでとかわらぬ、趙善津の初々しい顔と挨拶が印象的だった。同席し
た彼のお師匠さんである安藤六段が、8日に打たれる名人位の挑戦者決定プレイオフは、同門の依田碁聖が小林十段を下して挑戦権を取りそうな予感がすると
言っていたが、その言葉通りになった。名人リーグの最終局といい、今回といい、どちらも半目差、合わせて一目で名人位挑戦の大舞台に躍り出たのだ。ついて
いる。このつきに乗じ、弟弟子の趙善津本因坊に負けじと、依田ががんばって、名人位奪取に成功すれば、その一目の大きさは、天文学的な倍率に膨らむことに
なる。
さて、こうした東遊西興の日々、まだ、掲載していないものも追々収録しますので、ご愛読ください。
1999.7.9に「応援歌『闘魂は』をweb上で発見」というコメントをアップしたが、その後、東京学生歌館の掲示板には、次のよう な書き込みがあった。それに対するわたしの返事をつけてここに掲載します。「闘魂は」が、今も生き生きと生き続けていることが、わかって作詞者冥利という ものを覚えた。
心のふるさとさんから
"闘魂は" といえばこんなことがありました
投稿者:心のふるさと 投稿
日:07月08日(木)21時44分33秒
阿部毅一郎さん、はじめまして。
後輩の皆さんの勇姿をお撮りしつつ、応援自体を楽しんでいる者です。
昨秋、六大学応援団連盟OB会にお邪魔した際、
諸先輩方が往年のテクを披露されている時に私も座を盛り上げようと思い、
リーダー下級の屏風役を買って出ました。
私、あの金属音のする拍手を打てるものですから...
「君は気合いが入っている」
と何人もの方に声をかけていただきましたが、
「私は、"闘魂は"の振り付けを考えた者です」
と名乗られた方がいらっしゃって、
「そ、そんなすごい方が!」 と腰を抜かしました。
私の写真が六旗パンフに使われていたりするとすごく嬉しいですが、
今でも歌い継がれている歌の生みの親ともなると格別でしょうね。
http://cheer.8m.com/HTML/to_dai.html
(阿部のコメント)
「闘魂は」に関する楽しい書き込みありがとうございます
投稿者:阿部 毅一郎 投稿日:07月09日(金)23時18分04秒
心のふるさとさん、はじめまして。
「闘魂は」に関する面白い逸話を早速書き込んでいただいてありがとうござい
ます。
後輩の皆さんの勇姿を撮りながら、応援自体を楽しんいらっしゃるようですね。しかも、
金属音のする拍手を打つ特技をお持ちとか・・・
昨秋には、六大学応援団連盟OB会で、"闘魂は"の振り付けを考えた方にも、
会われたことがあるよし、皆様、応援なるものを通じて、それぞれに精一杯楽
しんでおられるようで、大変うらやましく思いました。
心のふるさとさんの写真が六旗パンフに使われることを祈っております。
どうも、楽しい書き込みありがとうございました。
http://www.linkclub.or.jp/~akybe/
心のふるさとさんから
投稿者:心のふるさと 投稿日:07月10日(土)20時31分32秒
阿部さん、
六旗パンフは3年連続登場しています。
今年は法政・の元呑旗手責任者お写真が私の手による物です。
元呑さんとは妙に馬が合うので、
# 性格も体型も(^^ゞ 似ているんです
他の誰の写真よりも彼の写真に採用されたのが特に嬉しかったです。
(阿部コメント)
心のふるさとさん、
六旗パンフには3年連続登場していらっしゃるのですね。それほど活躍していらっしゃる
とも知らず、失礼しました。しかも、今回は、性格も体型も似ている方の写真が採用され
たとあっては、喜びも倍加したことでしょうね。ますますのご活躍を祈っております。
館長(小田さん)からの書き込み 投稿日:07月10日(土)19時04分54秒
皆さんお久しぶりです。管理人の小田です。
阿部毅一郎さん,ご来館ありがとうございます。ご挨拶が遅れ申し訳ありません。
伝統ある曲の作者の方に来ていただけ,大変光栄に存じます。
管理人冥利に尽きるというものです。
拙いMIDIではありますが,鋭意研鑽していく所存ですので,
今後ともよろしくお願い申し上げます。
(阿部コメント)
館長の小田さんへ
はじめまして、丁重なご挨拶ありがとうございます。
MIDI聴かせて貰いました。「闘魂は」については、ローランドの「ミュージ郎」と
SC−88Pro を買って、自らメロディーだけは、打ち込んだものを聴いており
ますが、この館のが聞きごたえがあります。 この館のますますの発展を祈っております。
Ricoさんからの書き込み
闘魂は
投稿者:Rico 投稿日:07月10日(土)02時40分38秒
阿部毅一郎さん、はじめまして。
私は、東大応援部現役部員のものです。
失礼ながら、いままでこの「闘魂は」の作者の方というのはまさに、
遠い世界の方で、このように掲示板の書き込みなどでその人の声を
聞くことができるようなことを夢にも思わないような存在でした。
ですから、この掲示板で阿部さんの書き込みを見つけたときには正直
言ってある種の興奮を覚えました。
我々東大応援部員にとっては、もう「闘魂は」は、切っても切れない
関係にあると言っても過言ではありません。たとえば、神宮球場でど
うしてもここは点がほしい(最下位脱出がかかった試合の9回の攻撃
時)などには、バッターが出塁するまで延々と「闘魂は」を繰り返し
ます(通称「闘魂エンドレス」)。また、今年の春リーグでは、試験
的に攻守交代時の曲を「闘魂は」のイントロ部を使用してみたり、と
まさに、名実共に東大の第一応援歌です。
このように、「闘魂は」を活用させていただいております。
秋リーグは是非とも神宮球場学生席におこし頂いたら幸いです。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~ricohome
(阿部コメント)
RICOさん、はじめまして、嬉しい書き込みありがとうございます。
遠い世界から、突然舞い戻ってきたような印象を与えたようですが、考えてみますと
「闘魂は」が生まれてからの40年という歳月は、現役の若い方にとっては、まさに、
歴史的と言ってもおかしくない遠い昔なのですね。
しかし、その「闘魂は」が、現役の応援部員の方々に今も愛され、「名実共に
東大の第一応援歌」として、ご活用いただいていることを知り、大変嬉しく思いました。
秋リーグには、是非とも神宮球場に出掛けて、「闘魂エンドレス」とか、攻守交代時の曲
として活用されている現場を見たいものと思っております。
たまたまインターネットをサーフィンしていたら、私が作詞した東大の応援歌「闘魂は」をMIDIで収録している ホームページ「東京学生歌 館」http://plaza24.mbn.or.jp/~univsong/index1.htmlに遭遇した。六大学をはじめ多くの大学の校 歌、応援歌の類が、簡単な紹介文とともにMIDIで収録されているのである。そこで、そのHPの掲示板に次のような伝言を書き込んだ (1999.7.8)。
タイトル:はじめまして、東大応援歌「闘魂は」の作詞者です
本文:はじめまして
先ほど、Lycosの検索のキーワードにたまたま自分の名前を入れてみたら、わたしのホームページのURLのすぐ後に応
援歌「闘魂は」と、この歌館のURLが出てきましたので、一瞬おやと思い、早速アクセスさせてもらいました。こんな素敵な館があったのですね。
しかも、わたしの作詞した「闘魂は」が、東京大学の項の二番目に「『ただひとつ』が校歌のやくわりをはたしている ので実質的には第一応援歌。チャンスにはエンドレスに歌う」と紹介されています。大学二年生のときに、作詞したのでしたが、それから40年たった今まで生 き残り、第一応援歌として、皆様に親しまれ歌っていただいているかと思うと、作詞者として、感無量のものがあります。
東大が200勝した翌日の試合(対立教大学戦)を見に、実に四半世紀ぶりに神宮球場へ行ったのですが、わたしの 作詞したこの応援歌が、なんと第一応援歌に昇格し、東大にチャンスが来る度に歌われており、同行した妻に大いに面目をほどこしたことでした。その時の様子 は、わたしのホームページのエッセイの部屋に「応援歌」として掲載しておりますので、 興味のあるかたは、ご覧になってください。ちなみに、わたしの息子は、館長と同じ早稲田大学の出身で、その当時まだ在学中だったので、早大と東大の試合の ときに神宮球場にでかけ、この「闘魂は」の載った東大側のちらしを貰ってきてくれました。
その時からまた、神宮球場には、でかけておりませんが、このような素敵なホームページを作り、球場に足繁く通う 館長さんもおられることですから、久しぶりに「闘魂は」を聞きに秋のリーグ戦にはでかけてみたいと思います。
わたしのホームページのプロフィール欄でも「闘魂は」を紹介していますが、まさかMIDIで、聞けるとは思っ
てもみませんでした。早速、linkさせてください。
この歌館のますますの充実を祈っております。
(1999/7/8投稿)
するとその日のうちに、同じ掲示板に、次のような伝言が載った。こんな反応があるとうれしいものである。
"闘魂は" といえばこんなことがありました 投稿者:心のふるさと 投稿
日:07月08日(木)21時44分33秒
阿部毅一郎さん、はじめまして。
後輩の皆さんの勇姿をお撮りしつつ、応援自体を楽しんでいる者です。
昨秋、六大学応援団連盟OB会にお邪魔した際、
諸先輩方が往年のテクを披露されている時に私も座を盛り上げようと思い、
リーダー下級の屏風役を買って出ました。
私、あの金属音のする拍手を打てるものですから...
「君は気合いが入っている」
と何人もの方に声をかけていただきましたが、
「私は、"闘魂は"の振り付けを考えた者です」
と名乗られた方がいらっしゃって、
「そ、そんなすごい方が!」 と腰を抜かしました。
私の写真が六旗パンフに使われていたりするとすごく嬉しいですが、
今でも歌い継がれている歌の生みの親ともなると格別でしょうね。
http://cheer.8m.com/HTML/to_dai.html
今年も今日から後半に入った。
今さら、時の経つのが早いの遅いのと言ってみても始まらない。時はこのように過ぎて行くのだ。この素早く過ぎていく時の流れのなかで、どう人間らしく充
実して生きていくかが、勝負なのだ。うかうかしておれば、あるいは、世間の憂さに心を占められておれば、それこそ、何もしない、何も出来ないうちに、とき
は、あっと言う間に流れ過ぎてしまう。後で悔やんでみたところで取り返しはつかぬ。還暦を来年に控える身にとっては、無為に過ごす時の損失の重さは、若い
人にとっての何倍分にもなる。
少しでも、クリエイティブなことをやったか、家族や友人や知人と心のこもった交流を深め、楽しい時間を共有できたか、自分の趣味の世界を少しでも 広げ、掘り下げることができたか、このホームページのコンテンツを今まで以上に豊かなものにできたか。さしあたり、このような課題に応えていくことが、現 在のわたしにとって、人間らしく充実した生活を送るうえでの必須のことのように思える。
最近、職場のポストが変わり、これまでより、少々時間的ゆとりが持てるようになった。そのゆとりを、このような課題にさらに積極的かつクリエイ
ティブに取り組んでいくために使いたいものだ。
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気分にはあまりむらがなく、総じて安定している。朝は、機嫌がいい。性格はおっとり型で、めそめそしたり、意味なくむずがったりするようなことは 少ない。しかし、抱いて貰いたいときは、甘えて泣く知恵もついてきた。抱いていても、ときどき、意味もなく泣き出し、てこずらせられることもある。夕食の 時間になると、隣の部屋に寝かせておいても、必ずと言っていいほど泣き出す。どうした按配か、自分に対する関心が他(食事)に移ったらしいことを、敏感に 感じるようなのだ。食事中は、テーブルのしたや、乳母車のなかなど、傍においてやっていると、大体が上機嫌だが、完全に無視されていると感じると、むずか る。それで、大人の関心を呼び戻すと、またご機嫌になる。
動きもますます活発になってきて、素早く手足を動かせるし、もうすこしで寝返りが打てそうなほど身体を動かせる。脚で蹴る力も相当なものだ。布団
でもすぐ蹴飛ばしてしまう。
両手で支えて、立たせると、少しの間なら足をまっすぐ伸ばして、踏ん張るが、長続きはしない。
首は完全に坐り、自分の見たい方向にすばやく、首を回すことが出来る。声がかかるとそちらのほうへ向き直る。後の方向へのけ反りながら、動くもの を追う事が出来る。指を実によく吸う。自分の両足を両手でつかんで、口に入れそうになる。近くにあるものを、手で掴む。掴んで口に入れる。足を載せられる ものがあると、片足か両足かをすぐ載せる。坐らせるとしばらくは坐っておけるが、長続きはしない。
人見知りをする。知っている人だと、にこっと笑う。すこし、やんちゃ坊主のようなひょうきんな表情を浮かべる。声をたてて笑うこともある。その笑い
顔、笑い声が、いかにも天真爛漫で、われわれの心をこよなく和ませる。
こちょこちょと身体のあちこちをくすぐってやると、身をよじらせてくっくっくと笑う。実際にくすぐらなくても、こちょこちょと言いながら、、人さし指で、
くすぐるまねをするだけで、くすぐったそうな顔をする。乱暴に身体をゆすったり、高い高いをしてやったり、足をほっぺたに足先がつくほどまげてやったりす
ると、うれしがる。身体を逆さにしても平気である。
ところが、この数日風邪気味だ。母親が引いたので二人して引いている。誕生の際に母体から授かった免疫が利かなくなってきたのだろう。風邪を引く とさすがに日頃の元気はないが、もう、ほとんど回復したらしい。しかし、風邪ぐらいなら適当に引いて、後天性の免疫を身につけなければ、後が大変なのだ。 無菌の環境で生きていくわけにはいかないのだから。
ミルクもよく飲むが、離乳食もいろいろ食べるようになった。バナナ、ビワ、ジュース。お気に入りはバナナのようだ。さすがに甘いものには、目がな い。食欲も十分旺盛で、健康そうに、まるまる太っており、身長も70センチは超えたろう。
母親は、可愛くてしかたがないらしく、実によく写真を撮る。また、デジタルビデオで撮ったものから、カラープリンターでプリントアウトしたりし
て、我が家にも配給してくれる。右手の人差し指を吸いながら、乳母車の上で、野球帽を横かぶりしている姿、真正面から小さな口を引き締め、まともに見つめ
ている顔のクローズアップ。今、家内がテレビの上に二枚並べて飾っている。
おばあちゃんは、近くに住む、この孫が訪ねてくれることが、毎日の大きな楽しみで、生きがいになっている。身体の弱った曾祖母も、曾孫の顔を見るだけ
で、元気がでるらしく、めったに見せない笑顔を見せる。赤ん坊には実に不思議な力を潜めている。
わたしも同じ一月生まれなので、こういう時節に、このくらいの成長振りであったかと、つい引き比べて見ている。そろそろ免疫もなくなるこのころ、気温は
高く、半袖半ズボンでもいいので、一月生まれは比較的育て易い時期だと思ったりしている。
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パルミラとワルシャワ
ワルシャワの中央に大きな公園があり、日曜日にはその公園にあるショパンの銅像の傍らで野外コンサートが催されたので、有名だった。家にも、近 かったので、ポーランド滞在中、四季折々、散歩に出かけたものだ。その公園の名前をワジェンキ公園という。ポーランドの最後の国王スタニスワフ・ワジェン キが18世紀末に造宮した宮殿一帯を、市民の公園にしたのである。この宮殿について、思いがけなくも、ジュリアン・ハクスリーが、中東紀行記である「時の 回廊」の中で触れているのに出くわした。九章「隊商帝国、パルミラ」の冒頭は、こんな風に始まるのだ。
「1948年の初夏の頃、ワルシャワに滞在していた私は、どことなくヴェルサイユの両トリアノン宮を思わせる「夏の浴場」という十八世紀の美しい宮 殿が、市街の大部分は壊滅してしまった中でほとんど無償で残っているのいるのを見て心が和んだものだ。池のほとりに小さな野外劇場があって、石造りの座席 が列をつくり著名な劇作家の胸像が並んでいる。変わっていると思ったのは、ステージが設けられているのが小さな島で、観客からは数ヤードの水で隔たってい ることだった。そこには造りつけの舞台装置があったが戦火による損傷の跡がいくらか残っている。木の足場を通して古典的な舞台面が見えたので案内してくれ た人に尋ねてみると「パルミラの廃墟をあらわしている」との答えだった。」(九章「隊商帝国、パルミラ」p.258)
パルミラとは、シリアの砂漠の中にある、ギリシャ・ローマ時代の隊商帝国であり、その遺跡が、「広大な砂漠の中に、巨大な神殿と信じられないよう なコリント式の列柱」としが残っており、ベアルバックとともに「現在われわれに残されている古代の壮麗さを今に伝える遺構のうち、おそらく最もすばらしい 二つ」であり、ポーランドにこのような記念物があるということが、この宮殿が建てられた当時のヨーロッパ中にひきおこされた、パルミラへの関心の度合の程 を物語っているという。
このワジェンキ公園小劇場がパルミラを模して作られたとは、初めて知ったのだが、ワルシャワ滞在中、この小劇場で催されたバレーを見に行ったこと がある。夏の夜で、さわやかな風に吹かれながら、バレーを楽しんだ。踊り手が、その場に留まりながら、脚を巧みに踏み代えることで長い距離を、かなりのス ピードで追いかけていくようなバレーの振り付けを、感心して見たことを思い出す。観客席と舞台を隔てる数ヤードの水路には、白鳥が優雅に泳いでいた。
バレーが終わって、帰り道に見上げた空は、もう深夜に近かったにもかかわらず、黒い闇というより、緯度の高い地域特有の、どこか透明感のある濃い 藍色であった。このときの空の色を、今も、ワルシャワの夏の深夜の色として、思い出すのだ。
沢木耕太郎の「深夜特急第2便ペルシアの風」(新潮社1986/7/10)を1999/5/10に読み終えた。これは、今読み進めているジュリアン・ハク
スリーの「時の回廊」(平凡社1992/6/20)(571ページ)に触発され、この本が中東を主題にしているので、古本屋の店頭で「ペルシアの風」とい
うサブタイトルに惹かれて、4/29に購入し読み始めたのだ。小冊(297ページ)であることも手伝ってこっちの方が早く終着駅にたどり着いてしまった。
ところで、ペルシアの風と銘打ちながら、この旅はインドのカルカッタから始まり、ようやく最終章で、ペルシアにたどり着くのだ。しかも、「時の回 廊」の方も、ちょうど、第13章で「ペルシア、そのブルーモスク」にさしかかっており、期せずして、二つの本が、テヘラン、とその近郊のイスファハンで交 錯することになったのだ。もっとも、時代は「時の回廊」が1948年、「深夜特急」の方がそれから40年ほどもたった1980年代のことであるし、前者 が、ユネスコの初代事務局長として、夫人と共に中東諸国をいわば、公式に歴訪したのに引き替え、後者は、名もない若者で、一銭の金も出し惜しみしながらの 貧乏旅行にすぎない。したがって、見る視点がまったく、対照的である。歴史的な大きな流れの中で、ブルーモスクの一つもとらえるハクスリーに対し沢木は、 貧乏旅行者の地を這うような視点からモスクも見るのだ。40年の時空間が交錯し、書物を平行読みすることの御利益とでも言えるような、感興を味わった。こ れが読書の楽しみのひとつである。
「時の回廊」の方では、ブルーモスクがこのように紹介される。
「イスファハンはほとんどシャー・アッバスの手によって現在のような姿に造り出されたのである。それは、おとぎ話の世界のような輝かしい伝統に育まれた帝
王が、自分の夢を実らせたすばらしい町なのだ。町づくりの中心は、・・・方形の大広場であった。広場の一方にあるのが、驚くばかりに青色をたたえた大モス
ク、王のモスク(マスジツディ・シャー)で、そのドームもミナレットもイワーンもすべて色づけしたタイルに覆われて光彩を放っている。」p.400
「この様な光彩を放つもとになっているのがタイル・モザイクという技法で、事前に焼成して艶出ししてから所要の形状に切り出したタイルの小片を埋め込んで
いく。・・・これほどまでに艶出しタイルを用い、そして青色のもつ光輝をこれほどまで完璧に活かした建築というものを、私はほかに思いうかべることができ
ない。」p.401
「広場の右側の中ほどにある、やや小ぶりのシェイク・ルトファラー・モスクは、シャー・アッバスが自分と家族が用いるために建てた礼拝堂である。その形は
絶妙の均整を保っていて、ドームは精巧の極みというべきタイル・モザイクで覆われている。ただ、同時期に造られた片方の大モスクと比べると、私の眼と心を
否も応なく揺り動かすというほどのことはなかった。」p.401。訳注にこのモスクは1619年に完成したとされる。
「巨大なブルー・モスクがイスファハンの最大の見ものであることはいうまでもないが、それよりはずっと古い「金曜日のモスク」は簡素な美しさの点で優れて
いる。シャー・アッバスの壮大な建築が始まるまでは、九世紀から十二世紀の間に建立されたこの建物がイスファハンの中心モスクであった。」p.409
一方、沢木耕太郎の「深夜特急第2便ペルシアの風」では、こうなる。
「イスファハンは静かな美しさに満ちた古都だった。・・・西アジア中の富が流れ込んでいたといわれるほどの壮大な都だったのだ。現代では往時の様を想像す
ることは難しいが、世界で最も美しいモスクのひとつに数えあげられているマスジット・イ・シャーが、サファーヴィー朝の賢帝アッバスの勢威をいまに伝えて
いるという。マスジット・イ・シャーとは「王のモスク」の意だという。」p.283〜284
早朝にイスファハンにバスで着いた著者は、
「私は「王の広場」にでも行ってみようかと思った。夜明けの光の中で「王のモスク」を見てみようという気になったのだ。
「だが、バスの停留所はかなり町はずれにあったらしく、三十分歩いても、「王の広場」に出ない。くたびれ果て、広場もモスクもどうでもいいと思えはじめる
頃、突然、家々の向こうに蒼いモスクのドームが見えてくる。それが「王のモスク」だった。
「「王の広場」はガラーンとしていて、ただ老人が二人で掃除をしているだけだった。私は広場の中央に腰を下ろし、しだいに明るさを増していく朝の光の中で
「王のモスク」が輝きはじめるまで眺めていた。そのドームは、単にブルーとだけでは表現しつくせない幾種類かの鮮やかな蒼のタイルを組み合わせ、全体とし
て砂漠の冷気とでもいうべき冴え冴えとした雰囲気をかもし出していた。p.284
「王のモスク」の近くにはロトフラー寺院がある。それは別名「金曜日のモスク」といわれるらしいが、「王のモスク」が男性的な鋭さ、強さを表現しているも
のとすれば、このモスクのドームは暖かいクリーム色と柔らかい曲線をもった、まさに女性そのものを象徴しているかのようだった。眺めていると心がゆるやか
に溶けていくような気がした。
「王のモスク」の中には、杖を手にした老人たちが、電線にとまっている雀のように段差のある石畳に一列に並び、何をするでもなくただ坐っていた。」p.
289
「ある日、いつものように「王のモスク」に涼みに行った。モスクの中は、外がどんなに暑くとも、不思議なほど冷んやりとしていた。老人たちはやはりいつ
ものように石畳に腰を下ろし、何十分もぼんやりしていた。」p.295
そのモスクで筆者は眠ってしまい、老人の叫び声で目を覚ます。昼のアザーン(祈り)が始まったのだ。追い出されるはずが、居眠りしていたため、見逃された
のだ。
「老人は、壁際に立ち、大きな口を開け、天にも届けとばかりにコーランを朗読する。ひとりが朗唱をはじめると、「電線の雀」と私が勝手に名づけていた老人
たちが次々と立ち上がり、それぞれが自分の叫び声を上げる。
「観光客のための、ただの壮麗な建築物にすぎなかった「王のモスク」が、急に生き生きとしてきた。モスクの重い空気が鋭く震え、建物全体が微かに息づきは
じめる。
「このモスクの中にいるすべての老人たちは、自分にふさわしい場にいることによる安らぎに満ちていた。そして、このモスク自体も、老人たちによってのみ、
死から一瞬の生の刻を持つことができているのかもしれなかった。」p.295〜296
このように、対照的なのだ。
さて、ここまで、この二つの書物をつき合わせてみて、気づいたのだが、「金曜日のモスク」について、あきらかに どちらかに思い違いがある。ハクスリー
は、九世紀から十二世紀に建てられたといい、沢木は、シェイク・ルトファラー・モスク自体を、「金曜日のモスク」と思っているのだ。どちらが正しいのか。
生まれてから、3ヶ月と20日間、我が家で成長した初孫がいよいよ今日の子供の日に、自宅に引き上げることになった。引き上げるといっても、歩い て5分そこらのところだから、大したことはない。これからも、しょっちゅう顔を見せることだろう。
一日から昨日までは、宮城県の実家に、顔を見せに行き、元気に帰って来たのだ。
体重が7キログラムを越え、身長も70センチメートル近くになった。生まれて直ぐのときの顔のおおきさに比べれば優に二倍以上あるだろう。顔は、 まん丸。髪の毛はぼうぼう。全身まるまる太っている。脚も大きい。足の指が長く、特に小指が長い。
夜もぶっとおし朝方までよく眠るようになり、夜中に起きてミルクをやる手間がかからなくなった。昼間も起きている時間がずいぶん長くなった。
手足の動きが活発になって来て、両手両足を、大変なスピードで動かす。布団でも、タオルケットでも、簡単に蹴飛ばしてしまう。
手の指も開けるようになったし、口まで持っていって自分でしゃぶれるようになった。その手の指の爪が伸び、それで顔を引っ掻くので、傷ができる。 今もかなり大きな傷が左頬にある。
首も据わってきて、右左、上下、首を回し、目で追えるようになった。
「おーおーおー」とかなり大きな声を出し、一人で、声を出しながら、遊ぶ。話しかけると、話をするように、「おーおー」と応えることもある。お腹 が空くと、ずいぶんと大きな声で泣く。それでも、放って置かれると、火が付いたように泣く。ミルクが貰えるまで、諦めない。
呼びかけるとそっちの方を振り向く。眠っていても、くしゃみなど大きな音を聞くと、ぴくりとし、泣き出したりする。
何よりもいいのは、、人の顔を見ると、にっこりと笑うのだ。脚を曲げて貰うのが大好きで、曲げてやると大きく口を開けて、にこにこする。時には、 声を立てて笑う。その笑顔が何とも言えず、可愛くて、ついつい話しかけたり、抱いてやったり、脚を折り曲げてやったりする。放って置かれるよりは、やは り、相手をしてもらうのが、好きだ。抱いてくれと、泣くこともある。
顔を見ていると、いつまでも飽きない。いつも、まったく自分に忠実に自由奔放に振る舞っているから、逆に邪心やおもねりが全く感じられず、それ が、人を引きつけるのである。目もじっと見て自分の方から逸らすことは絶対ない。
お風呂が大好きで、流しにベビーバスを置いて、ずいぶん入れてあげたが、十日ほど前から、娘が、ふつうの風呂に入れるようになった。
基本的に、健康で機嫌のいい子だ。朝の起き立ても、むずからず、ベッドの上で、一人でにこにこしている。お腹が空いていない限り、ぐずぐずしないので、
あまり手が掛からない。
この4ヶ月足らずの間に、かなり大勢の人にあった。国も、日本のみならず、アメリカ、スペインからの客。長崎、千葉、島原からの客。曾祖父母、祖 父母、大叔父、大伯母、叔母、叔父、などなど、この短期間の間に、色んな地域の人、色んな年齢層の人、ずいぶんと多彩な人とあったものだ。多くの人と会う ことが、脳を刺激して、発達を促すような、気がする。これが、昼間、母親一人、子一人では、かなり刺激が少ないように思える。
この時期、シナプスが盛んに発達して、言語能力が形成されるのだ。刺激は多い方がいい。
ところで、昨日NHKの衛星放送で市民歌会を催していた。兼題は、光と響、そこで、即席の和歌を、ファックスで送った。
(兼題:光)三ヶ月の孫はまともに見つめおるその瞳(め)に揺るがぬ命の光
(兼題:響)シナプスは音と響きて絡み合う嬰児(やや)の瞳の見えざる奥で
今年の冬は随分ピエンローのお世話になった。「ピエンローのこと」で書いた ように、妹尾河童のNHKテレビ放送で、この中華風鍋料理のレシピーを仕入れたのが、一月の下旬だったのだが、週に一回を上回るペースで、都合6回も、こ の料理が食卓に登場することになった。もうすっかり、我が家の馴染みの料理の仲間入りし、わたしのレパートリーとして定着した。
NHKのテレビ放送で妹尾河童が強調したのは、この料理は、白菜の美味しいときにだけに限って作って欲しいということであった。妻に聞くと、も う、白菜の旬は過ぎたのだそうだ。そこで、白菜の代わりに、キャベツを使ってみることを、考えついたのだ。
白菜より、キャベツは水分が出にくく、甘さが少し強い。その点さえ注意するなら、十分行けそうな気がした。わたしのレパートリーに、色んな野菜を ぐつぐつ煮込み、具は、和風の手製ドレッシングで食べ、出汁は、卵とじのスープにするのがあるのだが、その料理では、キャベツをたくさん使うので、この野 菜が長く煮るとどうなるかについては、よく知っている。
そこで昨夜、キャベツピエンローを試してみたのだ。しかも、昨日は、アメリカからのお客や、香港赴任から帰国したばかりの息子がいたのに、妻の手 間を省いてやる意図で、もてなし料理の一角に名乗りを上げた上で作り始めたので、うまくいかなかったら、重大な結果を招きかねない状況にあった。
料理の方法は、白菜のときとほとんど同じ。水を心持ち多めにした程度。きっかり40分煮込み、熱々の料理を、まず料理人たるわたしが、例のごと く、塩と唐辛子で試食してみた。
行ける!
白菜よりは、味が少し濃いけれど、結構美味しいのだ。塩と唐辛子がよく合う。
みんなの反応も、幸いにして、美味しいだった。良く売れた。アメリカからの客は、自分も作ってみたいという。レシピーを、教えた。
キャベツはこれからが、旬である。白菜が旬を迎えるまで、キャベツピエンローは、我が家の食卓を、幾度となく、賑わしてくれることだろう。
今週のTime(March 29,1999)
は、今世紀の最も偉大な百人の第四集として、科学者と思想家を特集している。そのなかに、Tim
Berners-Leeという名がある(p.108~110)。
わたしは知らなかったが、この人こそ、internetの生みの親なのである。しかも、百人に今回選ばれた科学者が、多くは研究室に助っ人がいたり、共
同研究者がいたのに対して、このWorld
Wide Webの場合、Berners-Lee一人ですべてをやってのけたというのだ。
He designed it.He loosed it on the world.And he more than any one
else
has fought to keep it open,non-proprietary and free.
彼は、central manager,central database ,scaling problem
のない、それ自らが成長し、open-endedのスキームを構想し、インターネットの基礎をなすHTML,URL,HTTP,the
first browserなどを生み出す。
この年1991年、インターネットにWWWが登場する。これによって、エリートしか扱えないものから、誰でも扱える強力な情報システムが構築され たことになり、インターネットは爆発的に成長を遂げ、世界にグーテンブルグ級のインパクトを与える。21世紀のマスメディアが造り出されたのだ。
彼は幾らでも金持ちになるチャンスがあったが、常にノンプロフィットの道を選び、静かにバックグランドで仕事をすることに満足して、今はMIT で、W3 consortiumを指揮するような研究生活を送っているというのだ。
われわれは、インターネットにログオンする1億5千万人もの人の一人として、この1955年生まれの偉大なイギリス人に深甚なる感謝を捧げなけれ
ばならない。現代にも聖者はいるのである。
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(1999/3/14)自
分探しの旅
このHPは、ある意味では、私家版全集を作り上げようという目的で開設したものなので、これまで書いたもの、造り出したものを、できるだけ網羅的に拾い
集めようと、あちこちに散逸している文章などの類いを探り出すことに努めている。
その過程で、自分でもすっかり忘れていたような、文章や詩句などに出会すことがある。先日、この HPに収録した「想い出」「雪の夜の別れ」などの歌詞もすっかり忘れていた類いのものだ。「ポーランド通信」の方は、書いたことは覚えていたので、それが掲載されているた同人誌を 探してみたところ、同じ号に同時に掲載されていたのだ。手紙(エッセイ原稿)と一緒に、ポーランドから、書き送ったものらしい。ポーランドでは、環境に演 歌的な要素が乏しく、ほとんど歌詞など書く気にならなかったような記憶だけが強く残っていたので、見つけた時、おや、と思ったものだ。
こういうすっかり忘れていた文章や詩に出会すと、自分という存在が、現在の自分が気付いていない一 面を持った存在でもあることに、改めて、気付かされる。かつて、こういうことにも関心を持ち、こういうものをすくなくともその時点では受け入れ、よしと し、納得していたのに違いないのだし、それが今日の自分にもなんらかの形でつながっていないわけはないのである。
こうしてHPが、自分の造り出したものを収録し、整理し、蓄積する、一つのまとまったデータベース としての体裁を整えて行くにつれ、それだけ、自分という存在が、どういう存在なのか、いかなる要素で成り立っているのかということについて、より明確に、 把握できるような気がしてきた。
その意味で、過去に自分が書いたものを発掘し、それをデータベース化するということは、単に、過去
へ遡り、振り返るだけの意味ばかりではなく、その実、新しい自分を発見する、未来への旅でもあることに気付かされるのだ。
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(1999/3/14)赤ん坊のこと(その二)
初孫が、生まれて、今日でちょうど、丸二月になった。
たった二月だけど、見違えるようになった。身長も60センチメートるを越え、体重も6キログラム近い。服も、次々に大きなものに取り替えなければならな
い。
動きは活発になり、寝かされていても、首をすばやく動かせる。表情も豊かになって、ときどきにこっとする。本当に笑っているのか、いないのか判然とはしな
いけれど、気持ちがよさそうであることは確かだ。目は、まだどのくらいよく見えているか判然としないが、天井の蛍光灯をじっと見上げるし、デジタルビデオ
で撮影しながら、液晶のスクリーンを見せてやると、それを追っかけて仰け反ったりするし、われわれの顔をさもわかったような顔つきでじっと見つめたりする
ので、見えていることは間違いない。耳も、聞こえているらしく、大きな音をたてると、ぴくりと体を動かしたりする。
ミルクの飲みっぷりも、すごくなった。のどを鳴らしながら、一気に、160cc程度を飲んでしまう。一日約1リットルも飲む。体重に比べ5分の1程度を
飲むのだ。飲む間隔も長くなってき、夜の授乳も、二回程度で済むようになった。ただ、ミルクを飲んだ後、げっぷを出すのが下手で、うまく出ないと顔を真っ
赤にして苦しむ。出ないままに寝かせたりすると、げぼっとミルクを吐き出したりする。
お風呂が大好きで、実に気持ちよさそうな顔で入る。頭をマッサージしながら洗ってやるとわれわれが 恍惚の表情という、口をすぼめ、目を細くして、いかにも気持ちいいという顔つきをする。風呂から出すともっと入っていたいと泣き出すしまつだ。ベビー用の 風呂タブが、もう、狭いぐらいで、足を活発に動かし、いきなり、湯舟を蹴ったりするので、入れる時はよほど注意していないと、頭をぶつけさせたり、取り落 としたりしかねないほどだ。パパの帰りが遅いので、週日には、いつもわたしが入れているのだ。
お腹が空いた時、おむつを替えて欲しい時、泣いて知らせる。放っておくと、それこそ、火が付いたよ うに激しくなく。生まれたてのときに比べると一段と力強さを増してきた。しかし、抱き上げてやると、ミルクをもらえると合点し、とたんに泣き止む。おしめ を替えてやる時も、その気配を感じると、泣き止む。無駄には泣かない。もう、一種のプログラムをビルドインしたものらしい。
体も、最初の一月は、ほっそりしていて、いかにも生まれたてという感じがしていたが、今では、全身 まるまるとしてきて、赤ん坊らしくなってきた。頬は、ふっくらと大きくなり、顎も二重顎で、髪毛もふさふさと長くなった。胸が厚く、手足にもたっぷり肉が ついている。
表情が実に豊かで、見ているとまさに百面相で、いつまで見ていても飽きない。眉間にしわを寄せた
り、口をすぼめたり、大きく口を空け、あくびを堂々とやったり、あくびが出ないときなど、顔を真っ赤にして、唸ったり、うんちが出そうな時は、急に真面目
そうな顔でじーっとしたり、次々と違う表情をするのだ。
今日は、声をたてて笑った(ようだ)。おそらく、近い内に、人を認知して、笑うようになるのだろう。子供の成長を見つめるのは、実に楽しい。日一日と物
心が付いていくのを見ていると、人間が生み出されていく現場に立ち合っているようで、滅多にない貴重な経験をさせてもらっているような、気になってくるの
である。
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今日が第65回たまには歌句会の締め切りの日だった。このHPでも、毎回の応募作品と感想を紹介しているので、ご存じのかたもあるかと思うけれど、簡単に紹介する
と、NiftyServeのフォーラムに文学フォーラム(FBUNGAKU)というのがあり、その第七会議室が「いまのは倶楽部」で、そこで月一回「たま
には歌句会」なる催しをやっているのである。和歌、俳句、川柳、ショートポエム、自由律俳句など五つの部門に分かれて、毎月各部門に三つまで作品を投稿で
きる。題は自由だ。それを、作者名を伏せて、会議室で公開し、一部門につき、3ないし2点(これは作品数に応じるので4のときもあるが)の投票を行い、そ
の結果を一週間後に発表するのである。
私はこのたまには歌句会に第20回から参加して、65回の今月まで、和歌、俳句、川柳の三部門に毎回欠かさず、9作品を
投稿している。
一月に一回といっても、経験のある方はご存じだろうが、意外と早いものだ。うかうかしていると、締め切りは目の前に
迫っている。たった9作品と言うなかれ。やすやすと出来る月もあるが、なかなか出来ない月もある。どっちかというと、わたしの場合、和歌、川柳、俳句の順
に出来やすい。いつも、最後に俳句が残ることが多い。これは、俳句の勉強をしたことがないので、季語の知識が徹底的に不足しているからである。目の前の事
物をただ読んでも、その季節の俳句にならないことがある。締切日近くになると、歳時記や季寄せなどを、あわてて捜すのである。
締切日に、時計を睨みながら、滑り込みセーフを決め込んだことも数多い。46回も続けているのだから、なんとか続けた
いという一念で、駄作をも省みず、とにかく員数だけは揃えて、出すことにしている。一回でも途切れてしまうと、人間というものはルーズに流れやすいことを
知っているからだ。
それでも、火事場の馬鹿力というものも確かにあるのだ。トッ
プ賞をいただいたのが、これまで、和歌で5首、俳句で4句、川柳で16句あるが、たとえば、「嫁ぐ日の門清めたる雪化粧」という句、当日が娘の結
婚式で、大雪だった。無事、披露宴も終え、親戚縁者が我が家に集まって大いに話し、大いに飲んだ。その日が歌句会の締切日だった。時刻は午前2時、酔って
回らぬ頭でなんとかひねり出して投稿した句が、トップ賞に輝いたのである。
これまでの最高点が12点の次の川柳である。20回から65回までのなかでも、わたしの知る限り12点が最高点ではな
いか、と思っている。
「出る杭になるまいとして悔いが出る」という川柳
だ。
ところで、毎月の作品は、携帯用のザウルスに書き留めることにし ているのだが、たとえば、今月にしても、3作品の選に漏れた作品がある。
ーーせめてこの赤きネクタイ今日は着け沈みがちなる気分ほぐさん
ーー午後の日に全身すっぽり包ませて風邪で弱りし心身癒さん
大していい出来とは思わないが、と言って、たまには歌句会に応募し
た作品がこれに比べて格段にいいかとなると、それも微妙だし、あっちはHPで必ず紹介するのだから、いまさら恥ずかしがることもないと割り切って、このつ
れずれノート欄あたりで、当たり障りのない限度で紹介するのも、手かと思う。
こういう歌句会に参加していると、こちら方面のアンテナも発達してくることは確かで、NHKで実況生放送でやっている
市民句会や歌会にも関心を持つようになる。新聞の和歌俳句川柳欄も見るようになる。その種の本を買い込むなどの、副次的効果が現れてくる。いつだったか、
NHKの市民句会にファクスで送ったら、我が家の特徴ある黒く焼けたファクスにわたしの拙筆になる俳句が、瞬間的だったけれど、時実新子選で紹介されたこ
とであった。全国版になったのは、後にも先にもあのときだけである。
「余所行きの顔で猫行く菊の径」
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(1999/2/16)
アクセスのこと
午後6時頃、ホームページを開いてみたら、アクセス数が5506になっていた。1月27日には、5100だったので、
20日間で400のアクセスがあったことになる。1月27日に、北海道新聞が「ひと’99」欄で私とこのホームページのことを取り上げてくれたので、その
お陰でアクセス数が増えたようだ。それまでは、月平均300程度だった。あの記事を読みましたと、知らない人から、メールもいただいた。北海道在住の知人
から、新聞で久しぶりにお顔を拝見しましたと言ってお便りもいただいた。新聞というメディアの威力は依然大したものだ。
こういう風に、メールなり、お便りなりをくれる人はいい。しかし、5500のアクセスの多くは、こちらでは、どういう
人か全く知りようがない。名を名乗らずに他人のHPにアクセス出来るところが、インターネットのいい面でもあるのだけれど、ただ、覗いて、素っ気なく去っ
てしまわられると、なんとなく寂しいものを感じてしまう。だから、ときたまでも、HP見てますよというメールをいただくと、ことのほか、嬉しい。
ということは、他の人のホームページにアクセスしたら、一言でもいいから、挨拶文を残してくるのが、インターネット時
代の新しい礼儀かも知れないということだ。といって、それを常に実行するとなると、さすがに気が重い。
ということは、現在の状況が、それなりに、バランスがとれているのかも知れないのだ。
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先月下旬、一家全員インフルエンザでダウンしてしまった。そこへ 娘が生まれたての初孫を抱えて病院から実家に戻ってきた。頼りの新米のおばあちゃんはベッドの中。曾おばあちゃんは、インフルエンザで入院中。曾おじい ちゃんも体調不調。娘も、まだベッドから抜けられない状態。動けるのは、比較的、症状の軽い、なりたてのほやほやのおじいちゃんだけであった。
慣れない買い物をし、飯を作り、ベッドへ運び、口からスプーンで 入れてやる。朝食なら、サンドイッチや、オープンサンドに紅茶のいっぱいもあれば間に合うから何とかなる。問題は夕食だ。最初の数日、夕食は、出前で間に 合わせた。しかし、いつまでも出前と言うわけにも行かない。ステーキを焼く、温野菜を作る、サラダを作る、スープを作る等々程度の、わたしの少ないレパー トリーはすぐ底をついてしまった。
ちょうどそんなとき、NHKテレビの土曜日朝の番組「土曜元気 市」を見ていると、「男の食采」というコーナーがあり、舞台装置家で、小説家、エッセイストでもある妹尾河童が「ぴえんろー」なる料理を紹介していた。中 華風鍋物で、大人数でつつけ、料理法は極めて簡単なうえ、味は絶対保証付き(一緒に出演した岸田今日子も断言していた)という。
これは、この状況には、おあつらえ向きな料理だと思い、レシピー のメモを取り、さっそく、翌日の夕食に作ってみることにした。ちょうど、手伝いに来ていた、家政婦さんも知っていて、「味はなかなかいけます」という。
レシピーを取ったとは言いながら、水の分量、食材の分量などは、 細かなことはメモっていない。NHKのテキストは売っていると言うが、本屋まで走る気にもなれない。ま、そこは、男の料理だ、いい加減な目分量でとにか く、えいやっと作ってみるよりあるまい。味は出たとこ勝負だ。と開き直ってとにかく、戻して置いた干し椎茸を戻し汁ともども鍋に入れ、そこに大鍋に入りき らないくらい白菜を切り込んで放り込み(白い部分を先に、青い部分は肉を入れた後)、少々の水を加える。豚のバラ肉と鶏のもも肉とを一人100グラムの目 安で食べやすい大きさに切って投げ込み、のの字にごま油を垂らし、ぐずずぐと煮込むこと40分、最後に緑豆春雨を入れ、再度ごま油をのの字に垂らして3分 後、火を止め、さあ、出来上がり、といった寸法だ。すこぶる単純な料理である。
みんなを呼び寄せ、鍋の回りに座らせ、まず、鍋から、小さな碗に スープをとらせ、そこに各人好みの分量の食塩と唐辛子で味をつけさせ、さあ、食べたいだけ食べて下さいとやるのである。なにせ、白菜を丸一個、小さいのな ら二個分も煮込んである。分量だけは、大の男で、たっぷり食ってもお釣りが出るほどあるのだ。
ところが、これが、思った以上に大好評だったのである。みんな、 口も利かずに、必死に食べ始めた。ちょうど蟹の身をほじくっているときさながらである。鍋だから体は温まる。椎茸とごま油と豚肉と鶏肉、それに白菜と緑豆 春雨だけの単純な味に、塩の味が何とも言えず、合う。少々多めのほうがぐっと美味い。それに唐辛子のぴりっとした味が効いて、それこそ、食べても食べても 食欲がますます増す案配なのだ。皆一様に「美味しい」というため息を漏らしながら、何杯もお代わりをした。お新香も、それ以外の料理も一切なし。それで も、とにかく飽きないで食べられるのだ。
放送があったのが、1月30日だったかと思うのだが、評判がよく リクエストがかかるので、2月の8日にも作り、実は、昨夜も作ったのだ。二週間のうちに、もうこれで、三度目である。わたしのレパートリーとして、すっか り、定着したといってよい。妻は、これが、あなたの料理のうち、唯一料理らしい料理だという。やや、失礼な言い種だとは思うものの、いつもは、レシピなど 当てにせず、極めて独創性の高い料理しか作らないので、そう言われても、やむを得ない面があることを認めざるを得ぬ。妻も、ようやく元気になったものの、 孫の世話で疲れている。これからも、リクエストがあれば、いつでも応えて行くつもりでいる。
この料理は中国の山西省の料理なのだそうだ。この地方では塩が取
れないので、塩が何よりのご馳走という。そこで、この料理を供するときには、たっぷり塩を出し、お好きな味で召し上がれというのが、最上のおもてなしにな
るらしい。塩は岩塩などのミネラル分を含んだもののほうが美味い。塩加減は、各人各様好みが違うが、自分でその微妙な塩加減を決めて食べられるのだ。その
意味で、この料理には、味が好みに合わぬことがありえず、味は絶対保証付きということになるわけなのだ。
妹尾さんは、この料理は、是非とも白菜の一番うまい時期に作って下さい。食べたくなっても、少々我慢して、冬の白菜が
旬になるときまで、待って、食べていただきたいと強調していた。その気持ちがよく分かった。いや、実に旬の白菜は美味い。とにかく、昨夜も、白菜二個、や
や小粒だったにしろ、大鍋の蓋を押しつけなければ閉まらないほどの量を、五人でぺろりとおつゆの一滴も余さず、食べてしまったのだ。これまでこの中華風鍋
を食したのは、義父母、妻の二人の妹、姪、娘夫婦、われわれ夫婦の計9人だが、全員ファンになったようだ。
妹尾流だと、できるだけスープは飲まないようにして、最後に残っ
たスープで、雑炊を作って(しかも、最後は卵で閉じるらしい)食べるのが、これまた堪えられないらしいのだが、この点だけは、我が家は、簡便法を採用して
おり、最後に、銘々が、食べたい分量の炊き立てのご飯をお碗に盛り、そこにスープをいきなりかけて食べるのである。これでも、なかなかのおいしさである。
いつか、妹尾流と味比べをしてみたいと思っている。
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今日で、1月14日に生まれた初孫はちょうど丸一月だ。たったの 一月で、見違えるようになった。最初に我が家にやってきた生後一週間のときは、本当に生まれたての赤ん坊然だったのに、今では、顔の輪郭もしっかりしてき て、ほっそりと小さかった頬にも丸みがつき、産毛で覆われてほとんど見えなかった眉のあたりに、眉らしきものが、はっきり見えるようになった。つい、最 近、気づいてみると手足が、産着からもうにょっきりとはみ出しており、あわてて、もう一つサイズの大きな衣類に着替えさせたことだ。泣き声も、最初の頃の 弱々しく、あまり遠方まで届きそうもなかったものから、火のついたような、激しいものになり、もう二階までも届きそうで、お腹が空いた、おしめが濡れた と、きちんと知らせるのだ。光のある方を見る。抱く人の顔をじっと見つめる。大きな音にどきっとしたしぐさをする。
人間の赤ん坊というものは本当に不思議な存在である。まったく生
存能力ゼロで、この世に産み出されるのだ。鹿や馬の子供のように、生まれて数時間のうちに立ち上がり、母鹿や母馬の後ろを追いかけるようなこともできな
い。サルのように母サルの背中にしがみついて、枝渡りしても、落っこちないでついていく芸当も持ち合わせない。寝返り一つもできず、放り出されたままの姿
でそこに転がっているよりない。出来ることと言えば、ただ泣くことだけ。自分の生存の全てを回りの人の善意に依存している。泣きの一芸で、生存を全うしよ
うという仕掛けなのだ。
赤ん坊をみると、自らもこうして育って来たのだという感懐に捉えられる。これほど、か弱き存在ととして生を受け、一人
前の人間に育て上げて貰ったのだ。姪が、その有様を見て、お父さんもこういう風に、自分を育ててくれたのねと、感に堪えたように言った。今、一人住まいの
その姪は、お父さんに反発して家を出た面もあるのだ。
天衣無縫といえば、これほど天衣無縫の存在はない。それゆえ、人は赤ん坊を放っておけないのだ。赤ん坊を見ると、思わ
ず、にっこりと微笑んでしまう。
義母は、インフルエンザに罹って40度を超す熱を出し、救急車で病院にかつぎ込まれた。そこで、肺炎を併発し、生死の
境をさまよったあげく、ようやく回復して、つい最近退院してきた。病院で寝たきりだったせいもあってすっかり体力をなくし、自分でトイレに行くのもおぼつ
かない。言葉もはっきりしないほどで、表情にはまったく生気がなかった。ところが、その無表情の義母が、曾孫を見たとたん、満面に笑いを浮かべたのだ。
赤ん坊には、接する人にエネルギーを与える不思議な力が備わっているのだ。顔の表情を見ていると、いつまでも飽きな
い。見とれてしまう。結局構わないでおられなくする。それで自らの生存をあがなっているのだ。
ミルクだけで、赤ん坊は育つ。ミルクと泣くだけの毎日のなかで、その白紙のような頭脳は、静かに着実に、回りの人々の
言葉を分析し、音を捉え、単語を聞き分け、文法を抽出し、言葉体系を構築しているのだ。なんとも不思議でならない。