赤ん坊のこと(その六)

 子どもは、妊娠後十月十日で生まれると言うが、孫は、生まれてちょうど十月十日たった。
 受精卵(単細胞)から人間の形をした新生児に成長するまで、十月十日かかるとすれば、生まれたての、目も見えず、耳も聞こえず、首も据わらない新生児から、十月十日で、すっかり、人間らしく、子どもらしく、なってきた。
 五体満足で、目もよく見え、耳も良く聞こえる。手足も良く動く。病気もあまりしないし、機嫌もいい方だ。成長ぶりも順調である。有り難い。

  背後からでも、名前を呼ばれると、首をぐるりと回して、振り替える。しばらく顔を見つめ、知っている人とわかると、にこっとする。それがいかにも可愛い。その笑いには、他意がまったくないので、こちらの心が洗われる思いがする。おいで、と手を出すと、両手を前に出し、大胆に、身を乗り出して飛び込んでくる。
 

 手の指がよく動く。あの小さな手で、結構大きなものを持つ。小さく切ってあげたバナナを器用につまんで食べる。マグカップを持って、ストロー口から、ジュースやミルクを上手に飲む。
およそ、手の届くものには、手を出し掴もうとする。掴むとどんなものでも、口に入れて確かめる。われわれも、見ただけでその物体がどれほど固いかすぐわかるが、生後10月前後期、何でも口に入れて舐めた成果なのかも知れないと思う。とにかく好奇心旺盛で、珍しいものにはすぐ手を出す。抱いていると知らないうちに近くのものを掴まえ、手に持っていたりする。
 まだ、歯は生えていないが、食べ物も大抵のものは食べる。もぐもぐと歯茎で食べているように見える。鮭の切り身を一枚ぺろりと食べるように、いつも食欲旺盛だ。旺盛すぎるほどだ。なっとうも好きだという。お腹がいっぱいならば機嫌がいいが、少しでもお腹が空いてくると、むずかるようになる。まだ、機嫌の善し悪しを決定する天では、お腹の具合が最優先のようだ。しかし、これも生き残るためには、やむを得ないことなのだ。
 言葉も相当理解しているようだ。ティッシューを口にいれそうにするので、ダメというと止めるが、相手の様子をうかがい、ちょっと口に入れるふりをして「ダメ」と言わせ、いたずらっぽく、にこっと笑う。
 何よりも、相手とコミュニケーションできるようになってきた。たとえば、私が孫を前向きに膝に抱いていたとき、急にのけぞって、頭を私の胸にどすんとぶつけてきたので、わざと大げさに
「イターイ」
と叫んでみた。
すると、同じ動作を繰り返すのだ。その度に
「イターイ」
叫んだ。と、4度目からは、イターイと叫ぶ度に嬉しそうに、
「ケ、ケ、ケ」
と笑うではないか。そして、飽きずに何度も何度も、頭をのけぞらせてぶつけてくるのである。私を困らせている、それが楽しいと言わんばかりなのだ。
 抱いたり、高い高いをして上げたりすると、声を立てて笑う。少し乱暴なぐらいに扱われても平気である。しかし、少し、怖いということもわかってきたようだ。おいでと言われて、とっさに身を投げ出し、落っこちそうになったときの顔つきがそれを証明している。
 住んでいる家のスペースが狭いせいか、まだはいはいはしない。しかし、坐らせると足を投げ出して坐り、もう、自由に方向を変えることが出来る。自分の関心のあるものの方へ身体を回すことが出来るのだ。立たせると、脚をまっすぐに伸ばして、かなり、しっかり立てるようななった。
 知恵がついたせいか、回りの人の関心を自分に引きつけることに、ものすごく、こだわるようになってきた。関心を示さないと、たとえば、今まできちんと食べていた、バナナを机の下にわざと落としたりする。近くにいる人が、まあだめねーと言いながら、寄って来て世話を焼いて貰いたいのである。そういう意味の知恵が日一日と付いてきた。母親が自分の側を離れると、悲しそうな顔をしたり、泣き出したりする。夜泣きも少しするようになってきた。知恵がついた分、世話がかかるようにもなるのだ。
 人の真似を、良くする。口をぱくぱくしてみせると、口をぱくぱく動かす。話しかけると、同じように声を上げる。色んな声音を出す。機嫌のいいときは、いつまでも、色んな声を出し続ける。
 体重はもう9キロ近い。生まれたときの3倍にもなった。抱くと重い。高い高いも骨が折れる。
 生まれたときにはなにもなかったところに、明らかに「私」と呼ぶべき、核が出来てて来ており、関心を払わないとちょっとすねて見せたり、ダメと言わせて、いたずらっぽく笑ったり、知らない人だと、緊張した顔つきになったりするのだ。言葉をすこしは理解し、言葉を話す準備をするかのように発声練習らしきことを繰り返すのだ。そこに既に個性らしきものの前触れとでもいうべきもがあるのだ。
 こういうプロセスを見ていると、本当に不思議だし、いつまで見ていても飽きることがない。
子どもは宝だとはよく言ったものだ。こちらがいろいろと教えられる。(完)



(1999/12/5掲載)
「もしも」という詩



 もう35年も前のことになるのだが、社会人になって軟式テニスから、硬式テニスに転向した頃のことである。硬式テニスの名手に勧められて、チルデンの「ベター・テニス」(福田雁之助訳 ベースボール・マガジン社 1957年発行、1961年第4刷、原書は1950年発行)を読むことになった。チルデン(1893〜1953)は、全英・全米オープンなどのタイトルを10回も獲得し、8度も世界のチャンピオンとして一般に認められた名テニスプレイヤーであり、名文家としても知られている。
 この本を、何度読み返したことだろう。いま手元にある同書をめくると赤線やら黄色い線やらが至る所に引かれている。技量が進むにつれて、新たな発見をし、新たな色を使って線を引き足していったのだ。この本が私の今のテニスの礎になっていると言っても過言ではない。
 この本の中にチルデンが、ラドヤード・キップリングの「もしも」という詩を引用して、チャンピオンの性質を要約しているところがある(162頁)。
 チルデンはチャンピオンとよいトーナメント・プレーヤーとの差は、紙一重であるという。「多くの場合、ストロークにはあまり差はない。」しかし、「チャンピオンはかんじんなときにはめったにミスしない。チャンピオンの気力は苦境に立ってもけっして失われない。ところが、二流のプレーヤーは同じく巧いが、チャンピオンとプレーするとき、ピンチにミスする。それが重大に影響する。」として、「私はラドヤード・キップリングが『もしも』という詩の中で、チャンピオンの性質を要約していると、いつも考えている。その詩の数行はー

もしもあなたが精神力と体力を使い果たした末
なおもそれらを役立たせることができるなら
”頑張れ”と命令する意志だけしか残らぬとき
なおも頑張ることができるうなら

おお、この数行はまことによくチャンピオンの資格を描いている。」

 この詩の各行にも赤い線が引かれ、全体が太い赤線が囲まれている。私も読んで、大いに感動したのだ。チャンピオンとは言えぬまでも、わたしは、クラブ選手権のシングルス決勝とか、優勝をかけた一戦で、一歩動くのも苦しいほど、体力を使い果たしたとき、よくこの一節を思い浮かべながら戦ったものだ。

 実は、こんなことを書き出したのも、つい最近、この詩の全文に巡り会ったからだ。きっと、この詩の一節をチルデンは引用しているのではないかと思って、確かめてみたら間違いなかったのだ。わたしにとって忘れがたい詩だっただけに、ちゃんと記憶の底から甦ったというわけである。

 巡り会ったのは、ベリー・ゴーディー著の「モータウン、わが愛と夢」(吉岡正晴訳、TOKYO FM出版 1996年)の中である(38頁)。この本は、ベリー・ゴーディーの自伝で、この人は、マイケル・ジャクソン、ダイアナ・ロス、スティヴィー・ワンダーらを発見し、育て、見事なスーパー・スターにし、60年代のアメリカ音楽会に燦然と輝く栄光のモータウン・レコードをゼロから作りあげた人である。
 この自伝自体、生き生きとした文体でユーモアたっぷりに書かれており、大変面白い。まだ途中までしか読み終えていないのだが、彼が15歳の誕生日からまもなくの頃、姉から「これを読んどくといいわよ」といって渡された紙切れに、この詩が書いてあったのだ。いつもは、こうした紙切れを無視してきたベリーだったが、「もしも」というタイトルに注意を引かれ読み始める。この詩を読み終えて15歳のベリーはこう考える。

「ー私に何かが起こった。
大きな疑問が解けたのである。何が男を男たらしめるのか、という大きな疑問だ。・・・誰かから、あるいは何かから、体力的に強いことと同じ程重要なのが精神的な強さだということを教えてもらったのは、これが初めてだった。『お前は、男になるのだ、私の息子よ!』というラインが私をとらえて離さなかった。
 私はこの『イフ』を暗記し、それぞれの部分を自分自身の人生哲学と照らし合わせたのである。」(39頁)

さて、肝心の詩の全文だが、同書から以下に引用する。

              ◆ ◆ ◆
もしも、誰かに非難されたお前が、冷静さを失いそうなときにも、冷静でいられれば、
もしも、すべての人間がお前を疑っているときにも、自分自身を信じることが出来、お前を疑った連中を許すことができるのなら、

もしも、お前が待つことに飽くことなく、待てるのなら、
あるいは嘘をつかれても、嘘とかかわらなければ、
あるいは、人に憎まれても、人を憎まなければ、
そして、あまり気取らず、知ったかぶりをしなければ、

もしも、お前が、夢を見ることができ、そして、その夢に支配されることがなければ、
もしも、お前が自分自身で考えることができ、そして、考えることが目的とならなければ、
もしも、お前が栄光と惨劇という名の虚像と遭遇でき、そのはかなき虚像を同じように扱えるのなら、

もしも、お前が話してきた真実を、悪者が、愚か者をわなにかけるために、ねじ曲げて語るのを聞くことに我慢できるのであれば、
あるいは、お前が自らの人生を賭けて作りあげてきたものが壊されるのを見たとき、身をかがめてそれらを使い古した道具で作り直すことができるのであれば、

もしも、お前が、膨大な勝利の積み重ねをたった一回のコイン・トスの結果と引き換えるというリスクを背負うことができるなら、
そして、それに負けて、その負けについて一言も不満を漏らさず、まったく最初からやり直すことができるのであれば、
もしも、お前が自分の気力を神経と体力がなくなってしまった後も、それらを振り絞ることができるのであれば、
そして、それらに『頑張れ!』と言っている意志以外何もないお前が、頑張ることができるであれば、

もしも、お前が自分の美徳を保ちつつ、民衆と話をすることができるのあれば、
あるいは、庶民の感覚を失うことなく、王様とともに道を歩むことができるのであれば、
もしも、お前の敵と愛する友人のどちらもが、お前のことを傷つけることがないのであれば、
もしも、お前にとって、あらゆる男が価値があり、重要であり、しかし、重要すぎるということがなければ、

もしも、過ちの許されざる厳しい一分を、60秒間の全力疾走で長距離走の如く見事に完走できるのであれば、
地球はお前のものだ。そして、その中にあるすべてのものも
そして、お前は男になるのだ、私の息子よ!
              
                     ◆ ◆ ◆

この詩の「もしも、お前が自分の気力を神経と体力がなくなってしまった後も、それらを振り絞ることができるのであれば、
そして、それらに『頑張れ!』と言っている意志以外何もないお前が、頑張ることができるであれば、」

というところが、チルデンがチャンピオンの資格として引用した部分である。訳は、福田訳の方が良さそうな気がする。

 いずれにしても、「もしも」という詩の全文を初めて知って感銘を受けるとともに、同じ詩に30年ぶりに巡り会い、とても懐かしい思いをしたのである。(完)
 
 



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