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水彩画とみにくいアヒルの子
ここ数年、一月末から二月にかけて、水 彩画を描くことに追われる日が続くのが、 恒例になった。というのも、三月の上旬に開催されるとある展示会に出品する作品を 三点、仕上げなければならないから である。
この展示会は、私の属するクラブの会員の作品展で、絵に留まらず、書、陶芸、漆 器、川柳など、展示に叶うものであれば何を出品しても良い。ただ し、一部門3点ま での限定付き。絵も、油絵でも水墨画でも俳画でも構わないが、わたしは、水彩画を 毎年3点出すことにしている。もう、5、6年ぐらい連続して出 しているが、最初の頃 は、もっと多くの絵を年間を通して描いていたので、その中から3点選んで出せば良 かった。ところが、3年ほど前から、年間合わせても、こ の展示会に出す分とほとん ど変わらないくらいの点数しか描かなくなった。というより、この展示会向けのもの しか基本的には、描かなくなってしまった。しか も、作品名登録の締め切り日である 1月23日の前後までには、一枚の用意もないことが多く、しょうがないので作品1、 2、3として三枚分だけ枠を抑えておき、その 日から、作品搬入日までの約一月間で、 立て続けに三枚仕上げて、間に合わせるのである。
昨年のケースで言えば、F6の絵を三枚出展したのだが、仕上がった日 は、1月29 日、2月12日、2月20日である。(どれも、ギャラリーNo.5に収録) 今年もまったく同じなりゆきになった。ということで、このところ、三連休も含め て連日絵を描くのに追われていたのだが、やっと12日に三枚目を仕上げて、実はほっ としているところなのである。ちなみに一枚目が2月1日、二枚目が2月7日だった。
昨年に比べて、仕上がりが早くなったのは、 次の土日は、子どもたち夫婦から、わ たしの還暦祝いの旅行に誘われているし、月末には、郷里の高校の同窓会の仲間と中 国の西安、洛陽へと旅立つからである。 作品を額に入れ、会場に搬入するにも少し余 裕がなければならないのだ。
絵はまず、何を描くかを決めなければならない。実は、これが一番苦労もするし時 間も 要することなのである。何を描くか決まってしまえば、その後は、ある種のルー ティン作業に入ることになる。つまり、デッサンをして、色を付けていくのである。 このところ、絵の具自体の美しさを際ださせるような描き方に心がけているので、今 年は花の絵と秋の林を取り上げることにした。花は、玄関の花瓶に妻が生けてい たチ ューリップと、夏の奥志賀高原で撮影したヤナギラン。秋の林は、高山植物の図鑑の 一部をスケッチした。作品の大きさは、初めてF8(36センチメートル×48セン チメート ル)に挑戦することにした。昨年まではF6止まりだった。大きくなればそれだけ難 しさが増す面がある。ちょっと不安だったが、描いてみて、易しくな る点もあること に気づいてほっとした。
実は、今年は、F4(18センチメートル×26センチメートル)ほどの大きさの絵を5枚ほど描き貯めてあった(どれも、ギャラ リーNo.6に収録)。いざとなれば、そ っちを出せばいいとの安心感もあって、二枚目 や三枚目を描くときにも描こうか描くまいか迷ったし、描き上げてからもどっちを出 そうか迷ったのだが、結局F8を 三枚出すことにした。まだ額に入れていないが、広 い展示会場では、大きいもののほうが見栄えがするだろう。家人の評判もそれほど悪 くない。
絵を描くたび思 うのだが、絵を描くプロセスは、「みにくいアヒルの子」にいかに 辛抱よくつき合うかといった類の、自分の忍耐力を試すことそのものである。それと いうのも、 絵は、自分の表現したいと思う美しさが紙の上に立ち現れてくるまでに は、かなりの時間を要するのだ。いったいこれで、良い絵に仕上がるだろうか。何度 も何度 もよぎる疑念を振り払い、きっと最後は美しい絵に仕上がると、盲目的信じ て、作業を進めるよりないのだ。隣の色を塗るまで、補色として塗った色は、死んで い る。しかし、色が完全に乾かないうちに隣に色をぬることもできない。紙の上で色 を混ぜる方式で今回は描いたのだが、期待する色が出る保証もない。しかも地の色 を 塗っただけの画面には美しさは感じられない。まるで、毛の生えそろわない白鳥の雛 鳥のような有様だ。だから、いつもアルゼンセンの童話にちなみ、この状況 の絵を 「みにくいアヒルの子」と称している。本当に美しい白鳥に忽然と生まれ変わるのだ ろうか。みにくいアヒルの子のまま、終わってしまうのではないだろう か。白鳥の子 ならば、いくら見かけがみにくいアヒルの子然としていても、よほどのことがない限 り、成長すれば必ず白鳥になるのだ。しかし、絵の場合、「みに くいアヒルの子」が ある日白鳥に変身して羽ばたくという保証はどこにもないのだ。時間をたっぷりかけ て、色を塗っていったところで、そのまま、みにくいアヒ ルの子のまま、終わってし まう可能性のほうがむしろ高いのだ。
こうして、みにくいアヒルの子を白鳥に変身させるべく、絵との必死の戦いが始ま る。といっ て、あわてて美しい白鳥にしようとしてはならない。最後の一筆で、これ まで塗ったすべての色が調和して美しく燦然と輝き出すように、常に全体のバランス を考 慮に入れながら、忍耐強く、色を置いていかなければならないのだ。
そのため、筆を何度も休め、遠くから絵の全体を繰り返しくり返し見、構想を練 る。その構 想を何度も練り直す。一度塗った色を剥がすこともしなければならなくな る。筆を持つ時間よりも、絵の前で、ああでもない、こうでもないと考える時間のほ うが いつも長い。場合によっては、色がお互いになじみあい、空気になじむまで、一 昼夜おいて見なければならない。
こうした努力が実って、あるところまで来る と、これまでのみにくいアヒルの子 が、徐々に白鳥に変身し始める。努力のかいがあったと胸をなぜ降ろす。いつだったか、妻が、背景の空がすごくよくなったわね。書き直したんでしょう。と言ったことがあった。いや、最初に描いたときのままだよ。全然手を加えたりしていないよ。とありのままに答えた。前景の林が描かれ、最前景の池が描かれて初めて、最初のなにを描いたのか判然としないような複雑な空の色が全景とマッチして空らしく見えてきたというわけである。
絵はしかも、描きすぎると生彩を失い、もとのみに くいアヒルの子にたちまち戻ってしま う。それをふたたび光り輝く白鳥のするのは、水彩画の場合、塗り直しがそれほどき かないので、容易ではない。
こんなことで、ど んな絵にしても、ほんとうのところ、最後の一筆を入れるまで は、いい絵になるかどうかは、描いてる本人にも、わからないのだ。でも、自分でも ある程度満足の いくものに仕上がった時の喜びは大きい。それが喜びが大きいので、 みにくいアヒルの子とつき合うという長い辛抱にも耐えられるとも言えるのだ。