福岡で二日にわたる全国会議が開催され参加した。その最後に、記念講演会が設定されていた。
何気なく講演者の名前を見ると、沈壽官となっている。おやっと、思った。つい先日、尹健次著「きみたちと朝鮮」(岩波ジュニア新書)を読み、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、日本に連れて来られたいわゆる被虜人が、鹿児島県の苗代川に住み着き薩摩焼きを始めるのだが、その中の一家は、「帰化」させられながらも、いまも沈壽官という朝鮮名を守り続けていると話を読んだばかりだったからだ(p.71)。そんな朝鮮人が日本にもいるのかと感心したので覚えていたのだ。その14代当主の沈壽官さんが、まさしく講演者として登場した。大柄な髭の男性で、歳は70際を少し越えたところ。まだ、元気いっぱいという感じ。
話は感動的だった。しかも、本当に話がうまい。聴きながら涙が溢れて止まらなかった。自らを茶碗屋と謙り、早稲田大学を出、政治家の秘書役を勤めた経験がありながら、なぜ、茶碗屋を継ぐことになったかを、「伝統を守ると言った、抽象的、観念的なものでは、ここまで来られなかった。愛する父を悲しませたくなかったからです」と述懐し、京都帝大を卒業し同じく茶碗屋になった、変わり者の父と自分との、実に情愛細やかな交情を淡々と話されるのだ。父上のみならず、母上や奥様についても、さすがと思われるように見事に描き出された。
昭和40年、韓国の大学に呼ばれ、講演の最後に余計なこととは想いながら、「36年間にわたる日本帝国主義の支配を経験した人がひどいというのならわかる、しかし、同じ事を若い人が言うのはいかがなものか」、と言ってしまった。言い終わってしまったと思ったが、会場には不思議な静けさと空白の時間があった。と、真ん中あたりに坐っていた学生の一人が立ち上がり、「黄色いシャツを着た男」の歌を歌い出した。会場の全員が立ち上がって唱和した。歌は、「友よ、一緒に歩もう」という内容だった。賛同の意志をそういう形で示しえた韓国の若者のユニークさ若々しさに感動すると共に、当時の無気力な日本の若者への一抹の失望感も覚えたというのだ。
この講演が機縁となり、翌日、朴大統領に招かれ、義兄弟の契りを結ぶことになった。朴大統領は大変立派な見識豊かな人で、後に私のところを尋ねてきた司馬遼太郎氏にもその旨を伝えた。そのせいか、司馬の書物には、朴大統領を暖かみのある筆致で描き出されている。司馬遼太郎は、「故郷忘じがたく候」で、この朝鮮人陶工たちの望郷の物語を描いたらしい。とにかく、沈さんは、ここに書ききれないぐらい感動的なエピソードをいろいろと話された。
講演が終わったところで、司会役の女性が、明日夜8時過ぎNHKのトークショウに沈壽官さんが出演するというようなことを言った。その時間は羽田空港からの移動時間だと思い、聞けそうもないので、いい加減に聞いていた。ところが、8日、羽田から乗ったタクシーがNHKの第一放送を流しており、午後8時のニュースが終わると、何と、沈壽官さんのトークショーが始まったのだ。大部分は、前日、聞いたばかりの話をおさらいするようなものだったが、トークも捨てたものではなかった。番組の出演者は三つの歌のリクエストをすることになっていたのだが、その最初に選ばれたのが、「黄色いシャツを着た男」の歌だった。その前に当然、ソウルの大学でのエピソードが紹介された。
立て続けに、三つの偶然が重なって、沈壽官という優れた人物のことを、深く胸に刻みつけることになった。
サー・ジョン・ハリントンは、エリザベス女王時代の詩人であるが、「彼の鼻は生意気であると同時に敏感であり、かねてより宮殿の衛生設備の悪臭に悩まされていたが、突然霊感がわき、彼はなんと水洗便所を発明したのである。」新発明が気に入った女王は、リッチモンド宮殿に取り付け流行の先駆けをつくったという。(リットン・ストレイチー「てのひらの肖像画」p.4〜5)。
ところで、和風の水洗便所というものがある。こちらのほうは、本家が鼻の敏感な詩人が発明したのに対して、いかにも日本人らしい匂いに無頓着な職工が、ただ水で流すことだけを猿真似した代物のように思えるのだが。