編集者のつれづれノート

四十一年目の初対面  

(2002/3/16掲載)

 昨年(2001年)の十一月二四日の朝のことだ。

 土曜日で休日とあって、いつものようにゆっくり起き出し、朝食を摂りなが ら、日経新聞をめくっていたら、「消息」欄に髪の毛が真っ白な眼鏡の男の写真 が出ている。自分によく似てるナと思ってよく見ると、似てるはずだ。他ならぬ この私だったのだ。

『<自作の応援歌に感動>---西部石油常勤監査役の阿部毅一郎さん(61)は自分が作詞した母校の応援歌を久しぶりに耳にした。十月の週末、神宮外苑でテニスをしていると、となりの神宮球場から東大の応援歌「闘魂は」が流れてきた。「若い人の合唱がじーんと胸に響いた」

  二十歳の時、学内の募集に応募して当選。第一応援歌に昇格しているのを七、八 年前に知った。応援部に連絡すると「作詞したのはずーっと昔の人だと思ってま した」と驚かれてしまった。阿部さんの楽しみはスタンドで若者たちと一緒に歌 うこと。』  

 テニスコートで応援歌を聞いたことを、日経のN記者に話したのは,N記者が 10月の上旬、私のホームページの取材に来たときのことである。それは、面白 い、是非、「消息」欄に書かせて欲しいということだった。掲載するときには事 前に連絡しますから、という言葉を信じていたのだが、事前に連絡ないまま、突 然掲載されたので、いささか虚をつかれた。

 1997年2月にホームページを開設し、自分の趣味を中心 に紹介していたが、その後、自分がしていること、してきたこと、書いているこ と、書いたこと、何にもかもすべて、ホームページに載せる方針で膨らませてき た。その結果、自分史とも、アーカイブス(古書保存庫)とも言っておかしくな いものに成長した。そこに目を付けて、日経のN記者が「自分史」をテーマとし た記事を書くために取材に見えたのだった。ちなみにその記事は、10月14日 付けの日経紙上に掲載された。

 さて、消息欄に記事が出た数日後、オフィスに電話がかかってきた。  取り次いでくれた秘書が「○○大学の先生で、山中とおっしゃる方です」という。  その瞬間、私には、ピンときた。

「○○大学の山中ですが・・・」

「えー、存じ上げております」

「えっ?ご存じですか、初めてお電話するのですが・・・」

 知っているも知っていないもない。私は、それまで、この山中さんに何度か 電話をしようとして、その都度ためらい、思いとどまったのだ。

「実を申しますと、私もお電話を差し上げようと、山中さんの経歴を調べておりまして、○○大学で教授をしていらっしゃることは、存じ上げております」

「そういうことでしたか、先日の日経の『消息』欄を見て、貴社の電話番号を調 べて電話を差し上げた次第です」

「お電話をしていただいて、本当にありがとうございます。妻からも、あなたって、変わっているわね。あなたの歌詞に曲を付けてくれた方に、どうして会おうとしないのよ、お電話しないのよ、とこれまでさんざん言われておりまして・・・」

 この山中さんこそ、応援歌「闘魂は」の作曲者なのだ。東大の第一応援歌に昇 格できたのも、作詞者の腕というより、いい曲を付けてくれた山中さんの手柄と 言ってよい。

 話は、昭和35年(1960年)に遡るが、私は大学二年生、二十歳だった。

 当時、東大では、毎年学生歌か応援歌を募集していた。応援歌が三年に一回の 割合だったかと思う。まず、歌詞を募集し、入選作一編を決め、その後、それに 付ける曲を募集するのだ。

 私は校内の掲示板の張り紙を見て、応援歌の歌詞を作り、応募したのだ。日 記を見ると1960年の8月29日、台風16号が本土上陸した日、作ったばかりの歌詞の後にこんなコメントをしている。

「今三十分ばかりで作ってみた。本年度の応援歌応募作品である。たいしていい出来とは思わないが万が一のこともある。入選したらもうけものだから応募してみよう。もしこれが神宮で歌われるようなことになったら、どんなに嬉しかろうと思うけど、ね。」

 確か、三番が先にでき、それに合わせて一番、二番を作ったのだ。当時シラーの戯曲を良く読んでいたし、ベートーベンがシラーの詩に付曲した第九交響曲の歓喜の頌が大好 きだったので、「歓喜(よろこび)はいまぞ極まる」というフレーズがまず浮か び、これを膨らませて、案外すらすらと作詞できたように覚えている。

 応募したことも忘れた頃に入選したとの連絡があり、安田講堂にある事務局に 出向いたところ、そこには、選考委員が数名いて、その中の一人である当時の応 援団の団長が、「これぞ待望久しい応援歌です」とえらくお気に入りであった。 賞金に金一万円いただき、初めての背広を作った。

 その後、曲が募集され(応募要領を謄写版刷りしたワラ半紙が日記に挟んであった)、私より二年先輩の山中さんという工学部の学生が入選したことは知っていた。翌年の、東大本郷の「五月祭」で、東大管弦楽団の演奏、「コールアカデミー男声合唱団」の合唱で披露されたが、司会役の女性は作詞者名をなんと「あべこくいちろうさん」と読み上げ、晴れがましい気持ちで会場(安田講堂)にいたわたしを少なからずがっくりさせた。

 しかし、「闘魂は」は、その年から明治神宮球場の六大学野球に登場し、九インニングの表裏に歌われることになった。応援団長の強い推しがあったに違いない。わた しも何度か母校の応援席で自分の作詞した応援歌を声を張り上げて歌った覚えが ある。ただ、作曲者と対面するアイデアは思いつかなかった。

 その後、社会人になり、仕事に忙殺され、新婚の時、妻を連れて一度行ったのを最後に神宮球場に行く機会もないまま、長い月日がたってしまった。二百勝まであと一勝のところで七十連敗という足踏みを続けて いた東大が立教大学を相手にやっと待望の勝利をあげた日の翌日、新婚以来二五年ぶりになる妻ともども、神宮球場におもむいた。もう、「闘魂は」は消滅しているかも知れないよと、妻に何度も言い含めた上で(参照:エッセイの部屋「応援歌」)。

 ところが、なんと第一応援歌に昇格しており、チャンスになるたびに、学生時代には見たこともないチアガール隊がこの曲に合わせてカッコよく飛び跳ねていたのだ。妻には大いに面目を施したことだった。このときにも、山中さんと連絡したらと思い、経歴を調べもしたし、妻にも盛んに勧められたが、踏ん切りがつかなかった。

 先にも触れたように1997年2月にはインターネットにホームページを開いた。1999年の7月、自分の名前「阿部毅一郎」を検索語にしてウェブ内を検索してみたら、東京学生歌館という学生歌専門のホームページがひっかかった。なんと「闘魂は」の作詞者としてヒットしたのである。学生歌館の六大学のコーナーには、大学別に、学生歌や応援歌が収録されており、「闘魂は」は東大の第一応援歌として紹介されており、MIDI方式で演奏を聴くことさえできたのである。

 その学生歌館には、掲示板が設置されていたので、「闘魂は」の作詞をした者であると名乗りを挙げると、現役の東大応援団の団員から、

「失礼ながら、いままでこの「闘魂は」の作者の方というのはまさに、遠い世界の方で、このように掲示板の書き込みなどでその人の声を 聞くことができるようなことを夢にも思わないような存在でした。 ですから、この掲示板で阿部さんの書き込みを見つけたときには正直言ってある種の興奮を覚えました。・・・「闘魂は」は、まさに、名実共に東大の第一応援歌です。」

という返事をもらった。

 確かに、現役の学生が「遠い世界の方」と思うのも無理はない。四十年の歳月がたっているのだ。我々が学生現役だった昭和三十五年から四十年遡れば、大正九年という年に突き当たるのだ。

  山中さんからの電話に応えて、

「せっかくお電話いただいたのだから、善は急げ、是非とも年内にお会いしま しょうよ」と、私はいささか強引に誘った。山中さんも同意され、暮れの十二 月十八日、私と妻が週末によく行く、自宅近くの小料理屋でお会いした。

 大変気さくな、話もお酒も好きな方で、日頃若者を相手にしておられるせい か、気分も体つきも若々しく、話題も豊富だった。延々五時間近くも話が弾ん だ。こんなことなら、相手の気持ちを忖度し過ぎたり、ためらったりせずに、もっと早く、こちらから電話を差し上げれば良かったと思ったことだったが、何はともあれ、四 十一年目にしての初対面は、大成功だった。

 合唱に懲りすぎ、大学を五年かけて卒業した。今もまだ、ときどき作曲するし、 ○○大学では、混声四部合唱団の指導もしている。しかし、第一応援歌に昇格しているなどとは、わたしの記事を読むまで知らなかった、とおっしゃる。

 山中さんに興味を覚えて同席した妻が、おそるおそる、

「こんなところで申し訳ないですけれど、『闘魂は』を歌っていただけないで しょうか。主人が、歌ってくれても、どうも今ひとつピンと来ないものですから」

 根から歌うことが好きらしい山中さんは、快諾され、持ち前の美声で、自らが作曲した「闘魂は」を歌って下さった。

「これで、よくわかりました。『闘魂は』がどうして第一応援歌に昇格したか が。本当にいい曲ですね」

 妻が深く頷いた。私も同感だった。音痴のわたしが歌うのに較べ、作曲者自ら が歌う正調「闘魂は」は、第一応援歌にふさわしい素晴らしい曲だった。

 今春、六大学の春のリーグ戦が始まったら、山中さんと一緒に神宮球場に応援 に行く約束ができている。四十一年目に初対面したばかりの作詞者と作曲者が肩を並べて、現役の若い学生の歌う、自らの青春時代の思い出のこもった応援歌に、耳を傾けるのもいいものだろう。いや、山中さんは立ち上がり、大きく口を開け、持ち前の美声で、若者たちと声を合わせて歌われるだろう。その傍らで、わたしはじっと耳を傾け続ける・・・

(完)

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