短編小説の部屋

 二通の手紙    山 羊 男  七つ泣き虫  ある官僚の死 

山羊男

目次
1、2,3,4,5,6,7,8(完)


これは第18回小説現代新人賞第3次予選通 過作品である(『小説現代』(講談社発行)1972年5月号 p.93)。

入選作は有明夏雄 氏の「FL無宿のテーマ」であった。


 

山羊男
(1971年11月9日作)

1

 脇村参太郎は、ある中央官庁の係長である。大正12年の生まれであるから、もう50の声も近い。
 中央官庁で50歳の係長といえば、出世の早いほうではない。むしろ、遅いほうである。いや、単刀直入にいえば、出世に 見放されたほうというべきかもしれない。
 中央官庁というところには、掃いて捨てるほども係長がいるのである。脇村氏の勤める産業省では、総定員3.119名に 対して、係長のポストは、4363ある。すべての職員を係長にしても、なおかつ、1244の係長ポストが空くわけである。だから、一人で二つも三つも兼務 している人が珍しくない。
 ところで、係長の実員は、2309人である。これは、同省の総定員の74%に当たっている。ちなみに、平の係員は、 349人いる。勘定のうえでは、係長一人について、0.23人の係員がついていることになる。係長と平の係員をのぞく261人は、係長より偉い人ばかりで ある。
 すなわち、係長の上には、班長、課長補佐、課長、部長、審議官、参事官、次長、局長、事務次官と気の遠くなるような位 階が並んでいる。そのうちの課長補佐ひとつを取り上げても、末席から次席、次席から主席と階級が分かれている。この職階を、係長から始めて、2年ずつ各駅 停車で昇っていくとすると、どんなにうまくいっても有に20年はかかる。
 わが脇村氏は、70歳になってしまう。これは、ほぼ現在の総理大臣と同じ歳である。事務次官を辞めて、総選挙に打って 出、陣笠から中堅幹部へ、さんざ提灯持ちをやったあげく、中堅幹部から相伴大臣へ、運良く派閥のボスが死んでくれて相伴大臣から師団長に担ぎ上げられ政争 を繰り返した末に総理大臣の椅子にたどり着くとなると、もう何年かかるか見当もつかない。脇村係長では、もう一度生まれ直さなければとうてい無理である。
 ところで、産業省の現在の事務次官、安野掛三氏は、50歳である。脇村がたぐいまれなる幸運に恵まれたとしてもあと 20年以上かかるところを、安野氏は、その卓越した行政手腕を持って、50にして成し遂げたというわけである。
 安野氏の業績は、枚挙にいとまがないといわれている。今日の産業省があるのは、同次官の功績であるとまでいう人がい る。
 とくに業績が顕著だったのは、先見的な目でもって、産業省の組織の拡充を図ったことである。今日、工業製品と言われる もので、産業省の組織表に載っていないものは、皆無である。すなわち、コンピュータ係長、ビデオテープ係長、カラーテレビ係長、白黒テレビ係長、液晶テレ ビ係長、スポーツ用品係長、化粧品係長、ガラス係長、ガラス食器係長、ガラス玩具係長、履き物係長、蝋燭係長、ゴム製品係長、便器係長、ほうろう係長、棺 桶係長・・・
 並べていけば、キリがない。結局、日本標準製品分類表を、丸写しにするのと同じことになってしまう。
 安野事務次官の先見性は、弱冠29歳の主席課長補佐時代に、時のGHQ産業担当特別 補佐官マックラーキンを相手に、「官に官職足りて、民に眠食足る」と喝破したところにうかがわれる。それ以来、安野氏は、行政簡素化の風潮に押し流される こともなく、官職の拡充に専念したのである。その成果 が、今日、産業省の係長ポストが潤沢で、1係長あたり平均2つの係長ポストを兼務できるという事実となって花開いているわけである。
 こういうわけで、脇村は、現在二つの係長ポストを兼務している。しかし、これは、上述したところからもお分かりいただ けるとおり、脇村がとりわけ優秀であることを何ら意味するものではない。
 同氏が兼務しているのはとレットペーパー係長と生理用品係長である。この二つの係りは、組織表上、便所用品班長のもと におかれ、日用必需品課長が統括している。
 ただ、婦人団体連合婦人問題研究委員会婦人の地位向上促進共闘会議から、生理用品係りを、便所用品班におくのは、婦人 に対する許し難い蔑視であるので、すみやかに同係を婦人用品班のもとにおくべしとする抗議文が、安野事務次官宛に、三年前に出されている。
 これに対し、産業省は、事務次官名をもって「生理用品といえども、原則として便所内において使用せられる点において、 トイレットペーパーと何ら変わりがない。生理用品とトイレットペーパーに関する係を、便所用品班のもとにおくのは、かかる観点から見て、まことに妥当であ り、行政能率の向上、ならびに行政の円滑化を図り、一般 消費者及び生産者の利益を確保するとともに、国民経済の民主的で健全な発達を促進するうえに置いて、もっとも適切であると思料する。もって、現在の組織を 変更するいかなる理由も認められない」という反駁を行っている。
 この文書を起案したのが脇村氏である。脇村氏といえども、一度自分のものになったポストを失いたくないという心理に駆 られる点においては、総理大臣と何ら変わらない。とにかく必死になって文案を練りに練って20歳も若い班長のところに持っていき、三度も突き返されてもひ るむことなく、4度目にやっと原案を留めないほど大幅に手直しをしてもらったおかげで、無事課長の認め印 をもらうことができ、脇村氏は、兼務を解かれる羽目にも陥らずに済んだのである。
 脇村氏は、省内では、堅物で几帳面な男で通っている。生理用品係長をやっていても、それこそ浮いた話一つない。水に流 れるがごとく淡々として、トイレットペーパー製造業の発展のため、生理用品工業の国際競争力の強化のため、人生の盛りとも言うべき、35歳から50歳まで の貴重な時代を捧げてきた。
 ところが、この脇村氏に異常な事態が発生したのである。
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2

つい1年半ほど前のことである。
ちょうどウーマン・リブの運動が盛んになった頃のことである。
またしても婦人団体連合婦人問題研究委員会婦人の地位向上促進共闘連絡会議から、産業大臣太田福三宛に、生理用品係を婦 人用品班へ移管せよとの厳重抗議が持ち込まれたのである。

ーもし、今回の抗議を無視するならば、総理大臣へ直訴するぞ。総理大臣夫人も女だぞ。それでも貴省が何らの措置を 講じないならば、広く公論を起こし、われわれ生理用品を使用する全女性(注、使用した、あるいは、今後使用する女性を含む。以下同じ)は、一致団結して徹 底的に戦うぞ。欲しがりません勝つまでは、の臨戦態勢で、無期限のボイコット運動を展開するぞ。困るのは男だぞ。業界は潰れるぞ。
という、凄みのきいた文面だった。脇村参太郎は驚いた。
 総理大臣へ直訴する、ボイコット運動を展開する、というのである。
 これは、自分の手に負えないと思い、脇村は、川屋便所用品班長のところへ抗議文を持っていった。一目見るなり、川屋班 長は、自分の手に負えそうにないので、主席課長補佐に相談してくれといった。そこで水沼主席課長補佐のところへ持ち込むと、水沼補佐も、自分の手に負えな いから課長に相談してくれと言う。主席補佐が手に負えないというからには、問題は想像以上に難しいのかもしれないと思いながら、脇村参太郎は、日用必需品 課長のもとに、おそるおそる抗議文を持って行ったのである。
 35歳になる紺野課長は、胡散臭そうな目つきで、脇村参太郎をジロリと見ると
「君は、何年役人をやっとるのかね」
「はあ、今日で、32年と6月と5日になりますが」
脇村が正確を期して答えると
「ぼくが3つの時から役所に勤めていて、こんな文書の処理の仕方ひとつもわからんのかね」
またしてもジロリと脇村の顔を一瞥した。脇村は冷や汗を垂らしながら、痩せた体に似合わぬ大きな生真面目そうな顔を赤く したり青くしたりしていると
「君、その件については、すでに1年半前、事務次官名で当省としての正式見解を出したのを忘れたのかね。あれと同じこと を回答すればいいんだよ。こんなもの、やたらに正式見解を変えるのは、行政の一貫性を損なうことになって、逆にまずいんだよ」
「でも、総理大臣に直訴すると・・・」
「君、それは、単なる脅しだよ。こんなことは総理大臣に直訴するような問題じゃないよ」
「でも、無期限のボイコットをされると、業界が参ってしまうんではないかと・・・」
「馬鹿だなあ、君は。あれは女性にとっちゃ必需品なんだよ。だから我が日用必需品課が所管しとるんじゃないか。必需と は、必ず要すると意味だ。ボイコットなんて喚いているのは、もうメンスの上がった幹部のオバチャン連中だけじゃないの」
「でも、業界が集めた非公式情報によりますと、老いも若きも、全女性が、一斉に妊娠して、少なくとも向こう一年間は使用 せずに済むような非常手段に訴えることも計画しているということですが・・・」
「君、いい加減にしてくれよ。このごろは、小学生の四五年生から初潮(メンス)があるんだよ。十歳の小学生から五十過ぎ のオバチャン連中まで、全員妊娠できるっていうんならやらせたらいいじゃないか。それに女性だけでは妊娠できないだよ。そんなデマに狼狽えている暇があっ たら、早く机の戻って、一年半前の文書を参照のうえ、伺い文書を起案したらどうだね」
 課長にこう言われても、何となく釈然としないものが、脇村の胸の中には残った。しかし、国家公務員にとっては、上司の 命令は神聖である。脇村は課長に命ぜられるまま、自分の机に戻り、早速伺い文書を起案し始めた。
「昭和四十×年、○月○日付けで婦人団体連合婦人問題研究委員会婦人の地位向上促進共闘連絡会議から、別添のとおりお申 し越しのあった表記の件については、次案のとおり、回答してよろしいかお伺いする。」
 この前書きに、一年半前事務次官名で出した文面と全く同じ文書を付けて、脇村参太郎は、課長のところへ、持っていっ た。
「これで、よろしいでしょうか」
「どれ」
課長は、脇村の手から文書をひったくった。
「君、標記の件ではなく、上記の件になったと何度言ったらわかるんだ。それに「お伺いする」ではなくて、「お伺いしま す」だよ。そういう風に一年前から書式が変わったんだから、ちゃんと頭の方を切り替えてくれなくちゃ困るじゃないか。まだ耄碌をする歳でもないだろう」
「はあ、以後、気を付けます」
「君は、いつも、はあ、以後気を付けますだ。それでいて、すぐ忘れる。まったく困ったものだ。まあいい。本件は、わたし から直接局長に上げとくよ」
そこで、脇村参太郎は、満面を皺のよった笑いで引きつらせながら
「どうぞよろしくお願いします」
深々と頭を下げて、自分の机に戻った。
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3

脇村参太郎が起案した婦人団体連合婦人問題研究委員会婦人の地位向上促進共闘連絡会議に対する回答文を持って、紺 野課長が局長室に入ったのが午後四時少し過ぎでだった。ところが、課長は、なかなか戻ってこなかった。退庁時刻の五時十五分になっても課長は帰って来な かった。
 水沼主席課長補佐も、川屋便所用品班長も、
「君、悪いけど、お先に失礼するよ」
と言って帰ってしまった。連れだって出ていったところをみると、どうも班長以上を対象とした宴席でもあるらしい。
 その日、次男坊の誕生祝いをやる予定のある脇村参太郎は、一分間に十回程度の割合で腕時計を見ながら、一人でポツンと 課長の帰りを待ったいた。
 六時半を過ぎたころやっと課長は戻ってきら。戻ってくるなり、
「きみ!」
と課長はどなった。
「ちょっとここまで来たまえ」
脇村参太郎は、課長の一言で震え上がった。これは何か良くないことがあったに違いない。そう思いながら、脇村は、背中を 丸めて課長の机の前まで飛んでいった。
「君、この起案文書は、全面的に書き直しだ。まったくなっとらん、局長にこう言われてね。四時過ぎから今まで、しぼら れっぱなしだ。全く参ったね。君、文書を起案するときにゃ、もっと注意してくらなかゃ困るよ。恥をかかされるのは、君じゃなくて、わたしなんだからね。局 長はネ、こんな不親切極まる回答文はない。時代は今、大きく変わりつつある。こんな文書で通 用する時代ではなくなった。役所ももっと国民に対するサービスを考えなきゃならん。弊省も、「公開と対話」方式で、今後の行政を行う旨、つい最近鳴り物入 りでPRしたばかりではないか。弊省は、いつも、カッコイイことを言うが、実行が伴っとらんと、ジャーナリズムから批判されとる。それも、二年前の文書を 丸写 しさえすれば、世の中は通用すると考えるような役人が、弊省には、まだゴロゴロしとるからいけない。何もたかが婦人団体連合会何とかかんとか連絡会議から ねじ込まれる度に、弊省の伝統ある組織を変更せよと言っとるわけではない。しかし、同じ断るにしても断りようがありゃせんか。ものは言いようで角が立つ だ。怒っている相手に、怒らせるようなものの言い方をしちゃあかん。相手の怒りを静めるような丁寧で噛んで含めるようなものの言い方を研究したまえ。しか も、こういう文書は、早く回答しなきゃいかん。局長はこうおっしゃるんだ。いちいち、もっともなご意見だとは思わんかね。とにかく至急全面 的に書き直して来い。明朝一番に、決済してやろうとまでおっしゃて下さったんだ。君、悪いけど大至急起案し直してくれたまえ。ほんとに大至急で頼むよ。わ たしはこれから、二つばかり宴席に呼ばれているんで、ちょっと顔を出して、十時前にはここに戻ってくるから、それまでにやっておいてくれたまえ。それじゃ 頼んだよ」
 一気呵成にそれだけじゃべりまくると紺野課長は、そそくさと部屋を出ていった。
 課長の足音が完全に遠ざかったのを確かめてから、脇村は電話のダイヤルを回した。
「ハイハイ、脇村でございますが、どちら様でいらっしゃいますか」
 電話口に出た脇村夫人のよそ行き声が、脇村の耳に返ってきた。
「浪江か、オレだ、わかるか」
「ナーンダ、アンタなの。今頃までどこをほっつき歩いてるのよ。もうター坊の誕生パーティは始めちゃったわよ。早く帰っ てこないと、ごちそうなくなっちゃうわよ。今日は張り込んですき焼きなんだから」
「それが、重要な緊急要件ができてね。早く帰れなくなってしまったんだ」
「重要な緊急要件ですって?まだ、アンタ役所にいるの」
「うん、まだ役所にいる」
「なにが重要な緊急要件か知らないけれど、安月給なんだからさ、夜遅くまで頑張ることないじゃないの。いい加減にして 帰ってきたらどうなの」
「そうもいかんのだよ。局長に明朝一番に上げなきゃならない重要な文書を大至急まとめなきゃならんようになったんだ。課 長からも、君でなければできないって、全権委任されてね。とにかく、ヘタをすると政治問題化しかねないほどの大問題なんだ」
「なにが政治問題よ。たかがトイレットペーパーか生理用品ごときで大問題もないもんだわ。タンポンにすべきかナプキンに すべきか、それが大問題だってわけ?」
「お前にくどくど説明している時間はないよ。太造には誕生日おめでとうといっといてくれ。あいつも今日で十四歳になるん だろう」
「なに寝ぼけてんのよ。今日でもう、十五になるのよ。来年三月には高校受験があるのよ。アンタもしっかりしてよ」
「そうか、もう高校受験か、誕生日を一緒に祝ってやれんのは悪いが、あいつにも、男の仕事というものの厳しさがわかって いいだろう。まあ、とにかくおめでとうとだけは言っといてくれ。それじゃ、電話は切るよ」
 脇村は、電話を切った。浪江を話しているとキリがない。ああ言えばこう言う。こう言えばああ言うで、このところ脇村 は、いつも言い負かされている。
 とにかく、紺野課長が帰ってくるまでに、頼まれた文書を作り上げておかなければ、またしても、怒鳴られかねない。何と 言ったって、局長から、公開と対話だ、できるだけわかりやすい文書にせろと二時間以上も絞られたからには、紺野課長も、生半可のできでは満足するまい。 いったい、どういう文書を書けばいいのだろう。
 脇村は、不安という虫に背中を這われているような思いで、椅子にチョコネンと腰掛け、頭を両手で押さえながら、アレコ レと思いを巡らせた。
 役所の窓からは、有楽町、銀座のネオンサインの灯も見えるのであるが、今はそれどころではない。生理用品係をなぜ、ト イレットペーパー係と同じ便所用品班の中におかねばならないか。この大問題を前にして、脇村氏の頭の中から、一切が霧散してしまっている。
 脇村氏が、腕を組んで目を閉じると、トイレットペーパーと生理用品とが交互に浮かんで来ては消えていく。十五年間この 道一筋に生きてきただけに、浮かんでは消えるトイレットペーパーにしても生理用品にしても、そのサイズ、柄、模様、厚みのどれ一つをとっても実に正確無比 そのものである。しかし、いい知恵は一つも浮かんで来ない。額に脂汗を浮かべながら、どうしたものだろうと、人一番小さな心臓をますます小さく締め付けら れる思いで、脇村は考えあぐねていた。
 なぜ、生理用品係とトイレットペーパー係を同じ便所用品班の中におかなければならないか。これを誰にもわかるように易 しく説明するとなると、なかなか骨の折れる仕事である。何と言っても、婦人団体連合婦人問題研究委員会婦人の地位向上促進共闘連絡会議は、頭に血が上った ような厳重なる抗議文をつきつけているのである。とにかく怒っている女性ほど、扱いにくいものはない。理を説けば説くほど感情的に反発する。怒っている女 性を怒らせず、なるほどごもっともと思わせるのは、泣く子と地頭を扱うより難しい。それは浪江とのことで百も承知している。噛んで含めるようなわかりやす い文章などとは、口では言えても、実際書く身になれば、むずかしいことおびただしい。
 脇村は、考えれば考えるほど、問題の難しさ複雑さに泣きたい思いである。しかも、課長は、十時前に帰ってくるのであ る。その時までに何もできていなかったら・・・
 その時は身の破滅である。
 脇村は、首になって、首をくくっている自分の姿までを想像してぞっとした。可愛いとまでは言いかねるが、自分には妻子 がいる。とにかく、何か書いておかなければならぬ。
 なお数刻、必死に考えたあげく、脇村は、良い考えを思いついた。我ながら、良い思いつきだと思ったので、四分の一まで 小さく締め付けられていた心臓が、二分の一まで回復した。
 脇村の思いつきというのは、トイレットペーパーと生理用品の共通点を、およそ考えられるだけ細大漏らさず列挙し、両者 には、これこれしかじかの共通点がある。しかるがゆえに、同じ便所用品班に置かれているのである。という論理構成にしようというのであった。これなら、頭 に血の上った婦人団体連合婦人問題研究委員会婦人の地位向上促進共闘連絡会議の幹部といえども納得してくれるのではあるまいか。
 こう考えて、しかも、これ以上良い考えも出てきそうになかったので、脇村参太郎は、役所の起案用の用紙を取り出して、 思いつくままに共通点を並べ始めた。
一、おおよそ、便所またはそれに類した場所において人目をはばかりながら使用される。
二、主原料は、パルプである。
三、水中で容易に分解し、水に流れる。
四、通常パンツなど(ブリーフ、猿股、パンティ、パンティストッキング、ショーツ、ふんどし、トランク、ボトムパンツな どを含む)で隠されている人体の部分に使用される。
五、使い捨てされるものであって、再使用されることは、ほとんどない。
六、手で使用される。
七、人体から排出ないしは分泌されるものを処理するのに用いられる。
八、生産者や、流通機構、販売店が、ほとんど同一である。
九、生活必需品であり、ないと困る。
十、・・・
 脇村参太郎は、彼の全知を傾けて、両者の共通点を並べ上げた。しかし、共通 点を思いつこうとすればするだけ、両者が画然として異なる一点が頭にこびりついて離れず、脇村は、内心忸怩たるものを覚えた。それというのは、両者にいく ら共通 点があろうとも、生理用品を用いるのは、女性のみであり、トイレットペーパーのように男女共通 で使うものではないという点であった。この点から言えば、生理用品係を婦人用品係におけという婦人団体連合婦人問題研究委員会婦人の地位 向上促進共闘連絡会議の主張にも五分の理を認めざるを得ないのである。いや、五分どころか、ことによったら十分の理があるかも知れないのである。
 今日、純粋に婦人用品と言えるものは生理用品ぐらいしかないのではあるまいか。ブラジャーにコルセットを付け、ドレス をめかし込んで香水の匂いを漂わせているオカマと言えども、生まれが男である以上、生理用品を使うことはないのである。まさに生理用品は婦人にとって残さ れた最後の砦かも知れないのである。
 こう考えると、脇村参太郎は、額から冷や汗がわき出るのを覚えた。
 しかし、基本方針は定まっているのだ。とにかく、相手にたとえ十分の理があるにしても、たかが婦人団体連合婦人問題研 究委員会婦人の地位 向上促進共闘連絡会議の申し入れごときで、産業省の伝統ある組織を変更する必要はないと局長が言明しておられるのである。今更、良心的に、御説ごもっとも と引き下がるわけにはいかない。
 脇村は、踏ん切りを付けるために、額にわき上がった汗をハンカチで拭うと、共通点を列挙した下に次のような文章を付け 加えた。
 「上に列挙しましたように、トイレットペーパーと生理用品には、極めて多数の共通点があります。このように極めて多数 の共通点があるところから、トイレットペーパーと生理用品は、同じ便所用品班の中で、取り扱われているわけであります。このことが、行政能率を上げ、行政 の円滑化を図る上で、最も適しており、国民の一人一人にとっても、最も便利であると考えられます。従いまして現在の組織を変更する理由は、少しも認めるわ けには行かないのであります・・・」
 脇村参太郎は、これ以上良い知恵も浮かばなかった。そこで、とりあえず、今まで書いた分を清書することにした。
 脇村の字が綺麗なことは、課内では言うに及ばず、省内でも有名である。一字一字、活字のようにそろった美しい字を書 く。
 脇村の仕事時間のうち、文章を考えて下書きをつくる時間が一とすれば、それを清書する時間が十ぐらいの割合になってい る。それだけ精魂を傾けて書いた字を、ほめられるときの快感は何とも言えない。
 紺野課長は、
「君は字だけはうまいねぇ」
といったような誉め方をする。若干嫌みはあるが、それでも脇村は悪い気はしない。
 誰もいない部屋で、雑念にとらわれず、精魂を込めて書いただけに、我ながら、上々のできだと思いながら清書した文書を 見直していると、ドアがサッと開き、真っ赤な顔をした紺野課長が、フラリと部屋の中に入ってきた。脇村が、もうそんな時間になったのかと腕時計を見ると、 なんともう十二時近くになっているのである。
 「いやぁー脇村君、遅くまでご苦労さんだったな。二次会に誘われてね、どうしても断りきれずに遅くなってしまって、す まん、すまん。ところで頼んどったやつは、もうできたかね。ナニできとる。いやー実に君は優秀だよ。どれどれ見せてくれ。いつもながら字が綺麗だね。ふ む、フム。トイレットペーパーと生理用品は、かくかくしかじかの点で共通しておるか。なるほどなるほど。それにしても随分並べ上げたものだな。便所の中で 通常パンツなどで隠されている人体の部分に使用されるか。それもそうだが、さっきの芸者は、和服の時は何にも穿かないのとかいっとたな。まぁ通常と断り書 きを入れているから、ここはこれでいいだろう。脇村君、君はなかなか役人的な注意の行き届いた文章が書けるようになったな。それじゃ君、使いだてしてわる いかど、今夜のうちに例のナントカ共闘会議宛の封書を用意しといてくれんかね。もちろん、速達だ。明朝、いの一番に、局長のハゲの奴から決済を貰ったら、 時を移さず投函できるようにしておこうじゃないか。僕はここでちょっと酔いをさますから、君その間に速達の封筒の準備を頼むよ。その前にちょっと悪いけ ど、コップに一杯、水を汲んできてくれないか」
 紺野課長は酔うとたちまち饒舌になる。しかも、酔うと記憶力がたちまち衰える。翌朝になると本人は、何をしゃべったの か、何にも覚えていない。
「君、こんないいかげんな文章で良いなんて、一体誰が言った。全面的に書き直したまえ」
とやられることも十分覚悟しておかなければならない。
 脇村参太郎は、とりあえず、湯沸かしからコップに一杯の水を汲んできてやり、早速、速達の用意に取りかかった。例に よって、美しい字で「婦人団体連合婦人問題研究委員会婦人の地位向上促進共闘連絡会議御中」と丁寧に書き上げた。
 課長は、いつの間にか、自分の机にうつぶせになって、いびきをかき始めた。
 脇村参太郎が、切手を貼る糊を探していると、課長は、ムックリ起き上がり、
「君、まだできんのかね」
とどなった。あわてた脇村参太郎は、
「その、切手を貼る糊が見あたらないもので」
と、つい、余計なことを答えてしまった。脇村参太郎は几帳面な質だから、それまでついぞ切手を舐めて貼ったことがないの である。いつも切手は糊で丁寧に貼ることにしている。
「ナニ、切手を貼る糊がない。糊がなければ舐めればいいじゃないか。そのくらいのことがわからんのかね、君」
 紺野課長は、またしてもどなった。そうとう悪酔いしているらしい。
「ハ、ハイ」
脇村参太郎は、あわてて、目をつぶり、切手をペロリと舐めた。
 そのときである。
 脇村参太郎の舌先は、キンコンカンコンカンと快いメロディに打ち震えた。まるで、出来立ての生クリームをペロリと舐め たのではないかと思えたほどである。
 脇村は思わず、舌先に乗せた切手を噛んでしまった。
ーシャリ
と音がして、得も言われぬ、うまみが、口中に飛び散った。
 夢中で脇村は、シャリシャリと切手を食べてしまった。それは、いつか脇村が、ゴーフルというお菓子を食べたときの美味 しさと、少しも変わらなかった。子供の顔ほどもある大きな薄っぺらなシャリシャリした皮の間に、とろけるような美味しい生クリームが挟んである、あのゴー フルという菓子を初めて食べたとき、世の中にはこんなに美味しいものがあるのかと思ったものだったが、その味を彷彿とさせる美味しさだった。いや、それ以 上と言ってもよかった。
 脇村は、夢見心地でごくりと切手を飲み下した。そのとき、
「君、一体さっきからそこで何をやっとるのかね。まだ、封筒はできないのかね。ぐずぐずしていると、夜が明けるぞ」
 課長の声が飛んできた。課長は、声をかける度に、ピクリと目を覚ましているらしい。
 脇村は、文字通り、盗み食いをしているところを見つけられた子供のように驚いて飛び上がり「ハ、ハイ」
と、答え、もう一枚切手をシートから切り離し、今度は、ほっぺたをきゅっと思い切り強くつねってから、切手を舌先で舐め てみた。
 ああ、またしても脇村は、抑えがたい食欲を覚えたのである。
 シャリ、シャリ、シャリ、シャリ。
 課長の方を盗み見ると、課長は、机の上にうつぶせになって、また、いびきをかいている。その机の上のコップに、飲み残 した水が少し残っている。
 脇村は、日頃の彼らしからぬ大胆さで、課長の机まで歩いていき、指先をコップの水に湿らせ、その湿りで、切手を封筒に 貼り付けた。封筒の準備ができると、それをいびきをかいている課長の顔のすぐそばに置き、脇村は、心もち急いで、自分の机に戻った。机の引き出しを半分引 き出すと、その中に切手のシートを隠し、一枚ずつ切り離しては、シャリ、シャリシャリシャリ、シャリ、シャリシャリシャリとたちまち十枚ほど食べてしまっ た。
 昼過ぎに、地下の職員食堂で、金七十円なりのラーメンを食べて以来、十二時間以上も、何一つ固形物にありついていな い、脇村の臓腑に、切手は、カイロの温もりのように温かく、しみ通っていった。
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4
 そのことがあって以来、脇村は憂鬱であった。
 あのときは、極度に空腹であった。だからあんなことができたのではないかと考え、翌日、昼食を食べたすぐ後で、こっそ り隠れて、切手を口に入れてみたのである。
 シャリ、シャリシャリシャリ。
 何の苦痛もなく、切手は喉を通り過ぎていった。苦痛どころか、もう一枚食べたくなったほどである。
 そこで脇村は、試しに、他のものにも、手を出してみた。起案用紙、グラフ用紙、便箋、わら半紙、新聞紙、ちり紙、 ティッシュ、包装紙などなど、身の回りにある色んな紙を、手当たり次第に試みてみたのである。驚くべきことには、みんな行けたのである。それぞれに、味は 異なるものの、食って食えないものは、何もなかったのである。
 たとえば、黄色く変色しかかった新聞といえども、脇村が戦争直後に食ったコーリャンのお粥、芋の蔓、糠の饅頭、カイコ の蛹、カボチャの葉っぱ、種芋に使った後のサツマイモなどに比べれば、もっと増しな味がするのである。要するに、紙と名の付くものであれば、およそ、脇村 の味覚に合わぬものは、何一つないと言うことが判明したのである。
 脇村は、泣きたくなった。これでは、山羊と同じではないか。山羊にしたって、黄色くなりかけた古新聞には見向きもすま い。それがじぶんと来た日にゃ、要するに紙であれば、一応食って嫌な気がしないのである。
 ああ、これは、非常に良くないことの前兆なのではあるまいか。ひどい病気に罹ったのではあるまいか。脇村は、そう考え て憂鬱になったのである。
 よほど病院に行って相談したいと思った。しかし、恥ずかしくて行く気になれなかった。脇村には、それが、性病や精神病 のように、忌むべき、かつ、恥ずべき病気のように思えたのである。
 しかし、と脇村は考えた。たとえ、紙が食えるにしても、自分が食いさえしなければいいではないか。別段、紙を食わなけ れば、気が狂うわけでもない。よしんば、紙を食う病気に罹患しているとしても、紙を食いさえしなければ、これまでと同じで、病状は現れていないようなもの ではないか。これまでも、罹患していたのかも知れないが、それと気づかず、普通に生きてきたではないか。
 脇村は、そう思って、その日以来、紙には一切手をつけぬようにした。こうして、切手を貼るときは、糊で丁寧に貼り付け るという以前通 りの平凡な日々に戻った。こうした平凡な日が三月ほど続いた。
 ところが、脇村をして、再びその悪癖に戻らせしめたのは、年毎の物価上昇であった。
 年率六ないし七パーセントの割で消費者物価は上昇していた。物価の上昇率に反比例して、彼の小遣いは、減少した。三人 の子供が成長し、教育費と食費がますますかかるようになる分、脇村の小遣いは減額されていったのである。
 もともと少なかった脇村の小遣いは、ますます哀れな状態になった。三年来、脇村は、昼食は、地下の職員食堂の金七十円 なりのラーメンに決めていた。ところがその頼みのラーメンが、百円に値上がりしたのである。月に直すと750円の値上がりになる。これは、七十円のラーメ ンにして、10.7日分の昼食代に相当する。まったく余裕のない脇村の小遣いの現状では、月25日の出勤日のうち、10.7日分の昼食を抜かなければなら ないことになるわけである。
 脇村は、やむを得ず、週二日、月曜日と土曜日の昼食を抜くことにした。
 役所の土曜日は、半ドンなので、脇村は、一目散に我が家に帰り、冷蔵庫の中を覗いてみた。口に入りそうなものがあれ ば、しなびたキュウリのしっぽでも、食った。何にもないときは、腹が空かないようにテレビを見ながらごろ寝をした。日曜日は月曜日の断食に備えて、一日 中、テレビを見ながらごろ寝をした。
 これで脇村の生活ぶりが変わったわけではない。、昼食を抜くということを別にすれば、ここ二十年来の脇村の生活ぶりと 大した違いがなかった。妻の浪江も脇村の生活の変化には気づかなかった。
 しかし、週二日昼食を抜くということは、さすがに我慢強い脇村にとっても、つらいことであった。ときとして、月曜日の 仕事が、夜の九時、十時になったりすると、朝の七時半から半日以上も、脇村の胃袋は、固形物にありつけないということになるのである。
 そこで、ある月曜日の夜、残業で、夜の十時過ぎまで、仕事をしていた脇村は、とうとう書類に手を出したのである。
 自分の飢えを癒すために役所の書類に手を出すことに、脇村は、いたく道義的な引け目を覚え、最初に口にしたのは、すで に使用済みのざら紙百ページ足らずの資料だった。これは、ちょうど黒パンのようで、ミルク一本を付けると、ほどよい満腹感が味わえた。
 その次に絶食した日には、中質紙の資料にした。
 その次に絶食した日には、上質紙にした。紙の質が良くなるにつれて、うまさも一段と上がっていった。
 黒パンから、白パン、白パンからフランスパンといった趣があった。
 こうして、月曜日と土曜日の昼には、ミルク一本に、様々な資料を食べることが脇村の生活の一部になった。
 こうした生活を続けていくうち、ある日、脇村は、忽然として、悟ったのである。
 何も、絶食する日に限って、資料を食べる必要はない。毎日、資料を食べて何の悪いことがあろうか、と。
 とにかく、役所には、いらない資料が溢れている。産業省においては、十部印刷すれば間に合う資料は、50部印刷するこ とになっている。というわけで、いらない資料が、どのロッカーにも溢れ返っている。ロッカーに入りきれない資料が、部屋のあちこちに所狭しと積まれてい る。
 その上、毎日毎日新手のおびただしい書類が印刷され、置き場所に困っているのが実状である。
 とすれば、脇村のごとき存在は、むしろ歓迎すべき存在ではあっても、なんら非難すべき存在ではないわけである。
 こう思うと、脇村は、道義的な疚しさからもすっかり解放されて、突然腹の底から、うれしさがこみ上げてくるのを感じ た。笑うまい笑うまいと、努力しても、いつの間にか、口元がほころんでくるのであった。
 今や、脇村は、一生かかっても食べきれないほどの食糧の詰まった倉庫のただ中で、自分が仕事をしていることにはっきり 自覚したのであった。脇村を紙魚たとえるのは少々礼を欠くにしても、産業省にいる限り体長一ミリの紙魚が、世界大百科事典の中に住処を見つけだしたときと 全く同じ安心感があるのだった。
 脇村はその時生まれて初めて生活の安らぎというものがどういうものであるかを悟った。これから先たとえどういうことが 起ころうと食いはぐれる怖れがないということがどれほどの安心感を人に与えるものであるか、脇村はしみじみと思い、これまで長い間背中に背負っていた重荷 を、ドッコイショとばかり降ろしたかのような解放感を覚えた。
 衣食足って礼節を知る、という言葉の本当の意味を、脇村は、その時、悟った。
 それ以来、脇村の態度には、一種の落ち着きが感じられるようになった。脇村は冷静な観察者の眼を持ち始めたのである。
 観察者の余裕ある目で見れば、紺野課長という人物が、いささか礼節にかけており、あまり歓迎すべき人物でないことがす ぐわかった。
 例の婦人団体連合婦人問題研究委員会婦人の地位向上促進共闘連絡会議へ返書を出したときも、翌朝になって、紺野課長 は、こんな文章では、局長のところに持って行くわけにはいかないとごねだし、さんざ脇村を手こずらせた挙げ句、結局、書き直す時間がなくて、最初の案を 持っていくよりなくなったのだが、局長はあっさり、okと言ったらしいのに、課長は、帰ってくるなり、脇村へ詫びを言うでもなく、君があんなへたくその文 章を書くので、おれは冷や汗をかかされたよと言って、例の封書を脇村にぽんと、放り投げた。脇村は、申し訳なさで、「済みませんでした」と頭を深々と下げ たのだった。
 その時のことを思い出してみて、脇村には、紺野課長がかなり痛い目に遭わされても仕方のない人物であるとの確信がいっ た。
 そこで、脇村は、ある日、課長が不注意にマル秘文書を机の上に置いたまま、隣の主席課長補佐相手に何やらボソボソと話 し込んでいるホンの数秒の隙を盗んで、すばやく机に近づき、そのマル秘文書をこっそり食べてしまったのである。
 紺野課長は、机の上に置いたはずのマル秘文書がないことに気づくと、あわてて机の上の文書箱の中や、机の引き出し中を 引っかき回し、挙げ句の果てに背広のポケットの一つ一つに手を突っ込んで、中身を改めた。やがて、隣の席の水沼主席課長補佐が同じことをやり始めた。つい で、そのまた隣の川屋便所用品班長が同じことをやり始めた。
 そのとき、電話のベルが鳴った。
 庶務係の前野嬢が、電話口に出た。前野嬢はミスOLと言われている。年齢46歳で、まだ独身である。したがって、ミス OLとは、ミス・オールド・レディの略である。いつも目の回りに濃いアイシャドーを塗っている。
「課長、局長が先ほどの文書を持って、大至急局長室に来て欲しいとのことです」
「前野さん、あなたは、僕が部屋にいると言ったんですか。そいつはまずいですな。そいつは全くまずいですよ。あなたは、 われわれがこうして、書類を捜しているのがわからなかったんですか」
「そんなことをおっしゃっても、わたしは課長が一々何をなさっているか見張っているわけにはいきませんわ。いつもは、女 性職員は、あまり課の仕事にくちばしを入れるなとおっしゃっているくせに。どうせ、悪いのはいつもアタシなんですから。ああ、アタシときたらなんて不幸せ な女なんでしょう」
ミスOLは、金切り声で叫ぶように言うと、大きなハンカチで顔を覆い、肩を震わせ始めた。
「前野さん、わたしが悪かった。謝るよ、謝るよ」
課長が、頭をペコンと下げても、ミスOLの悲しげな泣き声は、一向に止まない。課長は気が急いていて、ミスOLにいつま でもつきあっておれず、
「水沼君、書類はまだ見つからないかね」
これまた、泣くような声で言う。
「ええ、まったく」
水沼補佐も、直立不動の姿勢で答える。
「いったい、どこへ行ったのかな。脇村君、ちょっと悪いが、ドアを締めてくれたまえ。水沼君、全員動員して、至急書類を 捜してくれ!」
 課長のガチョウの首を絞められたような声が部屋中に響きわたった。
 全員、机の上から引き出しの中、ロッカーの中はいうに及ばず、ゴミ捨ての中まで、ひっくり返して調べたが、すでに脇村 参太郎の胃袋の中で、セルロースに分解しかかっている書類が発見されるはずがなかった。
 出てこないということがわかると、課長は、課員18名を一列横隊に並べ身体検査までやった。もっとも、先ほどから、機 嫌を損ねている前野嬢は、身体検査を断固拒否した。とにかく、前野嬢を除く課員からは、書類は発見されなかった。
 また、電話のベルが鳴った。局長室からの催促の電話だった。
 課長は、真っ青になると、ヨロヨロと部屋を出ていった。
 そんな事件が三度ほど続くと、紺野課長は、すっかりノイローゼになってしまい、まもなく地方の出張所長に左遷されてし まった。

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5
 脇村参太郎は、自らの実力を自覚するようになった。生きることに自信を持ち始めた。毎日、自宅と役所を往復するだけの 生活から、少しずつではあるが、抜け出し始めた。
 紙を食べることを通じて、脇村は実に様々な世界があることを経験し始めた。最初は、役所の無味乾燥に近い書類で満足し ていた脇村の味覚も、それ以外の「民間」産の紙を食するにつれて次第に肥えて行き、それにしたがって、ますます色んなものを要求するようになっていったの である。
 そして、驚くべきことには、紙に書いてあることと味覚とが複雑に関連している事実を発見したのである。
 その発見のきっかけになったのが、ある中間小説雑誌に掲載された川下薫という作家の小説を食べたことにある。川下は、 セックス描写で一世を風靡した流行作家である。その川下の「官能のうずく夜」を、ほんの一口、口に入れたとたん、脇村は、ついぞ久しく感じたことのない欲 望が、下腹部にピピッと走るのを覚えたのである。それ以上食べると、もう爆発しそうであった。
 脇村は、そとところすっかりセックスに弱くなり、妻の浪江から、
「カラタチ、カラタチ、カラターチのパーパ」
などとからかわれ、ひそかに金冷法などを試みたりしていたのであったが、その夜は、「官能のうずく夜」の残りの部分を布 団に入る直前に食べておき、妻の浪江を15年ぶりに失神せしめたのである。
 以来、脇村は、いわゆる純文学から、中間小説、ポルノ小説と、色んな文学書の味覚を試してみた。純文学は、文字通り白 紙を食べるほどの味しかなかった。もともと脇村は、純文学は好きではないのである。中間小説、ポルノ小説にはそれぞれの味わいがあり、とくに催淫剤的効果 とう面からは、ポルノ小説に勝るものはなかった。
 ところが、こうした実験を続けていくうちに文学のみならず、絵画や写真なども、味覚と極めて深い関連があることがわ かってきた。
 脇村は、そのころ、昼食は大体、中間小説の雑誌で済ますことに決めていた。一冊の雑誌には、おおよそ30編近い小説が 載っており、一つの小説で昼食一食分に十分間に合ったので、一冊200円也の雑誌で、読んで食って一月分の昼食代からお釣りがくるのであった。
 小説には、それぞれ持ち味があり、それぞれの作品の出来不出来によって、中華料理をたらふく食べたときのような満足感 を味わうこともあれば、高級料理店で、気の抜けたシャンパンを飲まされたときのような味気なさを味わうこともあった。こうして、脇村は、好むと好まざるに 関わらず、極めて広範な味の冒険をやり、その蓄積から、自ずと「味のある作品」の鑑別にかけては誰にも引けを取らないと自負するようになった。
 たとえば、一見、いかにもエロチックな作品に見えながら、食べてみると、わずか数分しか持たないものがあるかと思え ば、一見したところ、大したことがなさそうでいて、食べてみると、一晩中体が火照って寝付かれないような作品がある。その鑑別を、脇村は、実際に口に入れ ないでも、できるようになったのである。この鑑別を誤って、昼食時に、強すぎる作品を食べしまい、ミスOLさえ、妖艶なマドンナに見え、危うく襲いかかり そうになった、苦い経験を通じて、脇村は鑑別法の研鑽を積むとともに、そういう強い作品は、夜中、布団に入る前に食べることにしたのである。
 そのため、浪江の脇村に対する態度の中には、新婚当時の初々しさと甲斐甲斐しさがよみがえるという副次的効果が生じ た。
 大体一月かけて、一冊の中間小説雑誌を読み終え、かつ、食べ終わると、後には、十数枚のグラビアが残る。そのグラビア は、作家の写真とか、作家の娘さんの写真とか、作家と七人の女性とか、作家に関係のあるものが、7、8割を占めていたが、残りの2、3割の中には、欠かさ ず、ヌード写真が混じっていた。
 ある日、脇村は、ヌード写真の方を試食してみることにしたのである。作家関係の写真は、日頃お世話になっており、もっ たいなくもあり、また、あまり食欲の湧くような作家も見あたらないこともあり、手をつけなかった。
 ます、脇村は、好きなタイプのモデルを選んだ。妻の浪江とちょうど反対のタイプがいつの間にか脇村の好みのタイプに なっていた。おあつらえ向きに、細面で若干痩せており、オッパイだけはプリンプリンとはち切れそうなヌードの写真が脇村の目に留まった。
 モデルは、禅僧のように足を組んで、真正面を向いて座り、前を両手で隠した、かなり大胆なポーズをしていた。
 脇村は、頭の方から食べ始めた。頭の部分は、中身のほとんど詰まっていない肉饅頭のような味がしたが、唇のあたりのう まさは格別であった。
 舌に絡むがごとく柔らかく、32年前脇村が初めて2つ年下の女性からキスされたときの感覚を呼び覚まさずにはおかな かった。
 プリンプリンのオッパイのなると、少し口に入れただけで、甘く柔らかくとろけていき、脇村自身もまたとろけてしまいは しないかと、心配になったほどであった。
 脇村は最後に、モデルが両手で隠している部分を残しておき、はち切れそうな期待に胸を膨らませて、一気にパクリとやっ たのである。
 ところが、脇村の期待は、裏切られた。女性の柔らかい手をしゃぶっている以上の感興を覚えることができなかったのであ る。プリンプリンのオッパイや、太股の味覚には遠く及ばなかった。
 つまり、この試みによって、写真に写っていないものは、味わうことができないという極めて単純は結論が得られたのであ る。しかし、これを逆に言えば、写真に写っていさえすればそれが何であれ、確実に味わうことができるということを意味するのだ。これは、人類が、有史以 来、かつて経験したことのない未踏の分野を、脇村参太郎が独自に開発したことを意味する。これまで、絵画や文芸作品を味わうとか、味読、味到、味得、味解 するとかいった表現は、比喩でしかあり得なかったのであるが、脇村参太郎は、その実績を積むことによって、これらの言葉を直接的な表現語たらしめたのであ る。
 その日以来脇村は、人類の先覚者としての自覚のもと、様々な方法でヌード写真を味わった。その手法を挙げていけば、キ リがないほどであるが、二三列挙すると、まず「両面(りゃんめん)」というのがある。
 これは、ヌード写真が、裏と表に印刷されているグラビアを食べる手法に脇村が命名したものである。
 表と裏とで全く異なったポーズのヌード写真を、手当たり次第(むしろ口当たり次第と言うべきかも知れないが)に食べて いくのである。オッパイとオシリ、クチビルとフトモモ、オヘソとウナジといった全く無作為に組み合わせたものを、一緒に口にするわけである。その微妙に混 ざり合った味が、ときとして、例えようのないほどの快楽を催させるのだ。
 また「千切り」というのがある。これは、大根などを細かく切るのと同様に、脇村が選り抜いたオッパイやヒップなどを、 薄い剃刀の刃で千切りにし、よくかき混ぜて食べる手法である。これを食べた人間は、一生この味が忘れられなくなる。同時にその夜は、おそらく千人の女性を 切ることさえできるようになる。そこから「千切り」と名付けたのである。
 そのほか「カクテル」、「時限爆弾」、「ダイレクト」、「シングル」、「スペシャル」、「初夜」「ガイジン」・・・と いった色んな方法があるのであるが、ここでは「時限爆弾」と「ガイジン」だけを紹介するにとどめ、あとは、読者の自由な想像にお任せすることにしよう。
 「時限爆弾」は、ヌード写真を、全く噛まずにそのままそっくり呑み込む方法である。
 紙の質や、ヌード嬢のポーズによって、その時間はまちまちであるが、一定の時間が経過して消化が始まったとたん、突発 的にエクスタシーに襲われ、脇村参太郎自身が激しく爆発してしまうところから、命名したのである。
 「ガイジン」というのは、グラビアを飾る世界各国の美女をほんのすこし舐めるだけで、ヌード嬢の国籍を判定する一種の ゲームである。脇村にとっては、全部食べてしまえば、国籍を当てることなど、ビーフとマトンを区別するぐらいに易しい。しかし、舌先で一舐めするだけとな ると、キリンビールとアサヒビールを識別するほどの注意力を要するので、結構楽しいゲームになるのだ。ゲームを楽しみながら、脇村参太郎は、日本に居なが らにして、世界の美女を味わい、その鑑別にかけては、他に引けを取らないほどの能力を身につけるに至った。

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6
 こうして、ひょろひょろと痩せて、顔だけだだっ広い感じのしていた脇村参太郎は、いつの間にか、肉付きの良い、顔色の 艶やかな、中年の貫禄を備えたロマンスグレーの男へと変貌していった。
 日用必需品課では、セロファン紙のように影の薄かった脇村参太郎が、今では段ボールの厚紙のような存在になり、初めて 同課を訪れる人の大半は、脇村を課長と間違えるようになった。
 紺野課長に代わって着任した野田課長は、脇村が試みに「上記の件」と書くべきところを「標記の件」と書き、「お伺いし ます」と書くべきところを「お伺いする」と書いてみても、別 段腹を立てるようなこともなかったので、脇村と野田課長の間には、これまでは友好関係が成立していたのであった。ところが、脇村の血色が日毎に良くなり、 腹の回りにも脂肪がついて、堂々たる貫禄が備わり、訪問客の十人のうち九人までが、脇村を課長と思い、野田課長をつかまえて
「君ちょっとすまんが、課長さんにご挨拶をしたいんで、ご都合を聞いてくれかね」
などと耳元でささやくような事態がますます頻発するに及んで、野田課長は、脇村に対して、激しい嫉妬の炎を燃やし始めた のである。
 そのころ、川屋便所用品班長が、社団法人便所用品工業協会の専務理事にいわゆる天下りしたため、一時、便所用品班長の ポストが空席となった。脇村参太郎も内心班長昇格を夢見たなかったわけではなかったが、半月後に発令されたのは、それまで隣の日用不必需品課で、クリスマ スランプ係長をしていた、脇村より一回りも若い男であった。
 脇村の顔に、明らかな失望の色を見取ったと思いこんだ野田課長は、まさかこの脇村が、前課長を更迭した原因を作った陰 の実力者とも知らず、脇村を自分の机の前に呼び寄せ、女性的なネチネチした声でこう言った。
「私がこの課に来て、かれこれ十月近くになりますが、その間、君が起案した文書は、全部”標記の件についてお伺いする” となっていますね。これは、”上記の件についてお伺いします”と書くことに決められていることを知らないんですか。知らぬ わけがないでしょう。わたしは、いつ、君が、きちんと書式に従って起案してくるかと待っていたのですが、いつまで待ってもだめなようですね。私の期待は裏 切られました。わたしはよほどあなたを、川屋班長の後任として推薦しようかと思ったのですが、まぁ、こういう勤務ぶりでは、推薦というわけにはいきません でした。とにかく、君は、風采が立派なのを鼻にかけているようですが、、世の中は風采よりも、頭の中身ですよ。仕事に対する勤勉さ、誠実さですよ。そこを 忘れないように。とにかく、係長は係長らしく、あんまり出しゃばった真似をしないようにして勤務してくれませんか。全く目障 りったらありゃしない」
 脇村は、比較的冷静に課長の言葉を受け止めていた。今の脇村にとっては、こうした課長の小言などは、少しも恐れるに足 りないものだった。紙を食べることができるという一種の天才にとっては、役所という小さな組織にしがみついていて、その中での立身出世に汲々としている野 田課長程度の人物には、エベレストの山頂から、ふもとで草をはんでいる山羊を見下ろすような感興しか湧かないのであった。どんな小言も、山羊がメーメーと 鳴いているいるようにしか聞こえなかった。係長とか班長とかいったことも、もう取るに足りないことであった。
 紺野課長同様、その追い出しを計ることを考えないわけではなかったが、追い出してみたところで、その後任には、変わり 映えのしない人物が来ることは目に見えていた。そのうえ、こういう小者を相手にすること自体に、もうあまりに興味を持てないほどに、脇村参太郎は偉大に なっていた。 
 偉大な人物が常にそうであるように、脇村参太郎は絶えず新しい冒険を求め続けた。
 ヌード写真から、脇村の食い道楽は、すでにポルノ写真へと一歩前進していた。
 せいぜいポルノ写真を見たり、見ながら、妄想を逞しくする程度の楽しみしかしらない人物と、ポルノ写 真を食べてじっくりと味わうことのできる人物との間には、少なくとも、月世界に行った人物と、その有様をテレビで見ている人物との格差がある。
 しかし、脇村参太郎は、単純にポルノ写真に止まっていたわけではない。ポルノ写真一枚を食することによって得られる底 知れないエネルギーを徐々にではあるが、男性の弱さに泣く世の多くの女性に均霑し始めたのである。ロマンスグレーで恰幅がよく、余計なことは何一つ口にし ない代わり、精力は絶倫そのものの脇村は、銀座界隈でも次第にモテモテオジサンで通るようになった。
 そもそものきっかけは、便所用品工業協会の専務理事に天下りした前便所用品班長の川屋が、就任披露宴の二次会に、日用 必需品課の野田課長以下5〜6名を銀座六丁目のクラブ「モジリアニ」に連れていってくれたとき、脇村がその末席をけがしたことにあった。役所の序列が末席 でも、ホステスにとっては、そんなことはどうでもよい。課長が課長並にもてたとすれば、脇村はパトロン並にもてた。看板になったら、送ってやろうかと言わ ぬ うちから、帰りは乗せてって、というホステスが三人も現れた。課長が、おれが送ってやるよと、しつっこく袖を引っ張っても、「暴力はよしてよ」と、とりつ く島もなかったナンバーワンの麗子までが、
「わーさん、同じ方向なのよ。一緒に乗せてって」
とこっそり耳打ちする。 
 こうして、帰りのハイヤーが、脇村家にたどり着かないうちに、脇村の絶倫ぶりは四人のホステスの肉体に消えることのな い刻印を残すことになった。
 脇村の安月給では、銀座で遊ぶことはできなかったが、遊ばせて貰うことはできた。つまり、麗子らからの噂を伝え聞いた 銀座のマダムやホステス連中が、脇村との一夜を共にするためになら、それこそ、自分の操をかけるのも惜しまず、貢いでくれるのであった。
 脇村という産業省の役人が、三日と空けず、銀座界隈のバー、キャバレーに出没しているという情報は、警視庁の捜査三課 のいち早く捉えるところとなった。
 それ汚職事件とばかり、警視庁は、捜査員33名を動員して、脇村の身辺を徹底的に洗った。ところが、出てきたいかがわ しいものといえば、数枚のポルノ写真程度で、収賄の証拠を掴むことはできなかった。
 バーに忍び込んだ捜査員は、わずか一杯のジンフィズで一万円を取られた上に、一銭の金を払う出もない脇村が、ホステス に取り巻かれ、モテモテにもてている現場を見せつけられ、「同じ男に生まれながら」と切歯扼腕した。その弾みに、唇に全治一週間の裂傷を負い、変な気を起 こしたんでしょうと奥さんにさんざん絞られた。
 また、モーテルに尾行したうえ、首尾良く、部屋の内部を覗き見ることに成功した39歳になる捜査員は、脇村が、50に 近い歳をしながら、三人の女性を相手に一晩に軽く十ラウンドをこなし、耳を聾するばかりのよがり声を立てさせた現場を見せつけられ、自分の至らなさを恥 じ、警察官の職をなげうつと、オカマに転向した。これなら、十ラウンドもこなせると考えてのことである。
 脇村は、そのとき、覗かれていることに気づき、いつもより、三倍も濃厚なポルノカクテルを食した上で、わざとねちっこ くやったのであったが、とんだ罪作りをしたものである。
 捜査三課長のもとに提出された捜査報告書は、かくして日の目を見ることなく、埋もれることになったが、これは全男性に とってまことに幸運であった。
 全編、脇村参太郎の精力絶倫ぶりが、捜査員の念密極まりない捜査ぶりを物語るように克明に記録されており、中には、 「もし、脇村参太郎が、彼の精力の秘訣を教えてくれるならば、私自身汚職をも辞さない気持ちにさせられた」という、公表をはばかるような、一捜査官の告白 さえ忠実に記載されていたのだ。
 大方の捜査員の意見も、彼ほどの精力絶倫の男であれば、もてるのが当然であり、これを汚職と関連づけたり、たかが、ポ ルノ写真の所持程度の容疑で別件逮捕したりするのは、男としての道に外れることになるという点で一致していた。しかし、さすがの鋭敏な警視庁の捜査員も、 脇村参太郎がホステスや有閑マダムにもてる理由が、彼が単に精力絶倫であるばかりでなく、彼の発射する実弾が実は紙鉄砲であり、当たっても実害がない点 が、大いに寄与しているという事実までは、ついに、突き止め得なかったものと見え、分厚い捜査報告書のどこにも見当たらない。
 かくのごとく、銀座でモテモテになれば、家庭内で不和が生じるのが、当然の成り行きであった。
 ある夜、脇村が、午前二時過ぎに帰宅すると、玄関先で待ちかまえていた妻の浪江が、眉をつり上げて、脇村に食ってか かった。
「これからは、私以外の女の人と、絶対に50センチメートル以上、くっつかないと約束して。でないとわたしは、今夜限 り、家を出ていきます」
脇村が強くなるに従って、浪江の口のききかたも、次第に丁寧になり、たとえ、食ってかかるようなときでも、あまり、食っ てかかるような口のききかたをしなくなっていた。
「そんなにお前は、家を出たいのか。それなら・・」
ネクタイを外しかけていた脇村が言いかけると浪江は、
「待って、それじゃ、20センチメートル以上くっつかないって約束して」
甘えたような眼差しで、脇村を見上げた。
「そんなにお前は・・」
「それじゃ10センチ」
「そんなにお前は」
脇村が言いかけると、浪江は、突然両手で顔を覆い、
「あなた、わたしを捨てないで、あなたがいない人生なんて、アタシもう考えられないの」
浪江は、肩を震わせて泣き始めた。45になるものの、このところめっきり色っぽくなり、色つやもよくなって、40前後に しか見えない。以前は、解れたまま紐で結わえていた髪にも、このごろでは、きちんとセットをかけている。泣きじゃくる浪江には、また違った色気が感じられ る。脇村は、そっと妻の肩を抱いて、寝室へ誘い、「千切り」を口にすると、その夜の11ラウンド目を開始した。
 浪江は千々に乱れ、その夜は、前後8回失神した。この失神によって、家庭内のいざこざも霧散し、その後脇村家の家庭争 議の際の解決法として慣例化する端緒となった。
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7

 セックスは、量より質である。

 脇村は、30を過ぎた頃からそう思い始めた。40を過ぎて、浪江 の見古した裸を見ても興奮できなくなってみると、セックスは、量 や質よりも、術であると思うようになった。いかにして浪江をうまくはぐらかすかの化かし合いの術から、自らを奮い立たせるための術まで、様々な術を研究し た。金冷法も、その一つであった。
 ところが今や、50にして11ラウンドをこなす脇村は、セックスが量 よりも質といわれる所以のものをこの歳にして初めて感得し、新たなる冒険の旅を始めたのである。
 その手始めに、脇村は、皇居前にそそり立つパレスサイドホテルのロビー に立ち現れた。
 ちょうどそのときである。
 歌麿の美人画から抜け出したような嫋々たる美人が、紺の大島紬を鮮やか に着こなして、脇村の傍らをツっと通 り抜けていった。脇村の鼻腔を、かすかにくすぐる香りの中に、女の浮気心が匂っている。銀座で、女性誘引術をすっかり身につけた脇村が、それを見逃すはず がない。
「お嬢さん」
 脇村は、柔らかく呼び止め、
「ひとつ、お茶でも、ご一緒に」
と誘うと、相手の女性は、色白の目元をポッと染めて
「ええ」
とついてくる。
 名を聞くと、吉野澄子という。年の頃なら25、6。結婚指輪をはめてい ないのは、独身の故か。それとも、浮気のためかはわからない。透けるような色白の肌には、小さな愛らしい唇の紅がよく似合う。袖口からこぼれる細いかいな には、青白い静脈がすいて見える。触ると壊れそうで、こういう女性を情事に誘うのは、年端のいかない半玉 を水揚げするような痛々しさがある。面と向かって座ってみると、さきほど脇村の鼻腔をくすぐったはずの浮気心が匂って来ない。
 脇村も、一瞬鼻白まざるをえない。しかし、ここまで来たら、一瞬たりと も躊躇してはならない。
「行きましょう」
 脇村は、勢いよく立ち上がり、吉野澄子の、小さく冷たい手をとると、澄 子は、塩らしくついてくる。ここまでくると脇村はもう手慣れたものである。
 十分とたたないうちに、吉野澄子は、一糸まとわぬ 姿で、ホテルの最上階の一室のベッドのうえで、脇村と激しく睦みあっていた。裸になると和服姿のときでは想像もつかぬ ほど、乳房が豊満である。ブリッジのように反り返り、貞操を奪われた姑娘のように号泣する。その有様を、脇村は感に堪えない面 もちで見ていた。
 これをきっかけとして、二人の交際が始まった。しかし、これだけ深く肉 体では結ばれながら、吉野澄子は、一向に自分の素性を明らかにしようとしない。まともに聞くと、巧みにはぐらかしてしまう。
 ところが、酒に酔うと大抵の男が口が軽くなるように、肉体に酔うと、女 の口は軽くなる。吉野澄子は、クライマックスに達する度に、無我夢中で何やら喚く。ため息をつく。それを注意深く聞いてみると、多くは、夫に対する愚痴で あり、世の男性に対する怨嗟であった。
 吉野澄子は、既婚者であり、しかも、男運が悪いらしいのだ。四回目に 会って、六回失神したあとで、吉野澄子はこんなため息をついた。
「ああ、わたしの夫ときたら、いつもはコチコチの堅物のくせに、いざとい うときは、いつもフニャフニャのなまこみたいになっちゃうんだから。まったく、お役人なんてだめねぇ」
脇村参太郎は、お役人なんてだめねぇ、と言われて、ドキッとした。しか し、それが、澄子の夫のことを指していることに気づいて、安心した。吉野澄子の夫も、役人らしい。しかも、コチコチという形容詞のつく堅物らしい。これ は、紙を食べ始める前の自分とそっくりである。おまけに、妻の澄子を十分満足させていないらしい。満足させていないからこそ澄子がこうして浮気をするので あろうが、満足させていなかったという点では、これまた、紙を食べ始める前の自分にそっくりである。こう思うと、吉野澄子の顔の上に、浪江の顔が、二重写 しになり、脇村は胸を痛めた。
 逢い引きの数が増えるにつれ、澄子の失神の数も増えた。それにつれ、吉 野澄子の喚き、叫ぶ量 も増え、澄子の素性も次第に明らかになっていった。
 確か、20回目に逢ったときであった。
 吉野澄子は、脇村の胸に頭を埋めながら、行為の余韻冷めやらぬ 面もちでつぶやいた。
「ああ、産業省なんてお役所、なくなっちゃえばいいんだわ。どうしてツヨ シみたいなインポテンツと結婚したんでしょう。エリート官僚なんてみんなツヨシみたいに弱いのかしら」
 産業省、ツヨシ、インポテンツ、エリート官僚、それに姓が吉野というヒ ントから、脇村が、吉野剛日用不必需品課長の名前を思い浮かべるのに、ものの一秒とかからなかった。というのも、吉野剛は、隣の課の課長であり、脇村が、 その日も歓迎用のテープなるものの権限争いで、やりあった相手だったからである。
 役所における権限争いには、積極的なものと、消極的なものとの二種類あ る。自分にとって都合のいい権限を自分のものにしようとして争うのが、積極的な権限争いで、自分に都合の悪い権限を他の課に押しつけようとして争うのが、 消極的権限争いである。歓迎テープに関する権限争いは、消極的のほうだった。
 近く、国賓として来日する米大統領の歓迎パレードの際に、トイレット ペーパーが歓迎テープ替わりに使われる怖れが生じたのである。野球場などでも、トイレットペーパーが、テープ替わりに実際に使われていた。本来、歓迎用の テープの所管は、日用不必需品課であるが、トイレットペーパーが歓迎用として使われる場合、その所管は判然としない。野田日用必需品課長と吉野日用不必需 品課長が、猛烈な消極的権限争いを開始し、脇村も、その争いに巻き込まれているのである。
 とにかく、国賓に対して、礼を失するようなことがあれば、一国の元首の 責任問題にもなりかねない。政府の方針として、歓迎用テープとしてトイレットペーパーの使用を禁ずるとの基本方針はすでに閣議決定されているものの、その 実施細目に関する通 達文をどこの課で書くかとなると判然としない。トイレットペーパー係か、歓迎テープ係かのどちらかであることは、はっきりしているが、一方が、「本来の用 途以外に使われたトイレットペーパーは、すでにトイレットペーパーではない」と主張すれば、「本来の用途とはそもそも何か。トイレットペーパーは本質的に トイレットペーパーであって、その用途によってその本質が変わるものではない」と他方がやり返す。
 実は、その日も、脇村と、吉野課長は、この一月来続いている似たりよっ たりの議論を、半日にわたってやってきたばかりなのだ。野田課長は、
「脇村君、君に全権を譲るよ」
と、自分で火をつけておきながら、体よく逃げているので、脇村が吉野課長 とやり合わざるをえない。吉野課長は、さすが、東大法学部出身のエリート官僚だけあって、論理構成が緻密で、脇村はいつも、やりこめられる。
「君、トイレットペーパーの本来の用途なんて、それは、法律用語じゃない よ。僕はトイレットペーパーを法律的に厳格に定義づけたらどうなるか、それを訊いているんだよ。よしんば、歓迎用テープ替わりに、君が言う本来の用途以外 の用途に使われようとしてもだよ、今度の件は、君が言うところの本来の用途に使うようにせよ、歓迎テープ替わりに使うな、という通 達を出せというんだから、トイレットペーパーを所管しとる、君のところで起案するのが、理の当然じゃないか。君の論理は、論理になっとらんよ。もうちょっ と理論らしい理論を展開したらどうだい」
 いつも、こんな調子でボロクソにやられる。しかし、野田課長に絶対降り るなと厳命されている以上、脇村としては、みすみす降りるわけには行かない。野田課長は自分では簡単に降りるが、部下には自由裁量 の余地を少しも与えないのだ。
「そうおっしゃいますが、歓迎用テープの幅は、何センチメートル以下でな ければならないって決まっているんですか。高いビルの窓からまくとすると、目立つようにするには、普通 の歓迎テープでは、だめですからね。歓迎のために使われるテープ状のものであれば、それは、もう、歓迎テープじゃないんですか。まいてしまえば、そこで用 途は終わり。二度とトイレットペーパーとして使うわけにはいきませんよ。そんなもの、トイレットペーパーじゃありませんよ。歓迎テープ替わりにトイレット ペーパーを使うな、という通 達を、歓迎テープを所管しているところで出すのが、普通じゃないですか」
 脇村も必死に食い下がる。こうして、延々と議論が繰り返される。
 こういう仲だから、脇村も、吉野課長のことはよく知っているのである。
 吉野課長の旧姓は、丸山といった。七年前、オリオン電機の社長の一人娘 である澄子と結婚して吉野姓を名乗ることになったのである。帝国ホテルに、千名を越す客を招いた豪華な結婚披露宴は、産業省では、今もって語り種になって いる。吉野課長のような中央官庁のエリート官僚となると、金はあるけど名誉がなく、とにかく名誉が欲しい、地方財閥や、新興成金実業家の娘婿に狙われやす いのである。吉野課長の場合、その最も典型的なケースである。オリオン電機は、ミニコンピュータで最近めきめき頭角を現した会社で、株価もこのところ 1000円を下ったことがない。結婚祝いに、吉野オーナー社長が、娘夫婦に贈った株だけでも、数億円の値打ちがあるといわれている。
 こんなに恵まれた家庭の娘は、往々にして器量 が悪い、というのが相場である。ところが、この吉野澄子は例外のようだ。とくに脇村との逢瀬が始まってからの吉野澄子は、逢うたびに色気付き、春を待ちわ びていた北国の花が、やっと巡ってきた春の訪れに、一気に花開いたような華やかさが見られるようになった。
 こんな女性を、ほったらかしにして夫の吉野剛がやっていることといえ ば、トイレットペーパーの消極的権限争いである。しかも、退庁時刻になっても、一向に腰を上げない。書類をめくったり、酒を飲んだり、碁を打ったりして、 だらだらと時間を過ごす。夜遅くまで残ってやらなければならないような仕事があるわけでもないが、局長室のランプや同期のライバルである野田のいる隣の課 の明かりが消えないうちは、帰るに、帰れないのである。
 役所で出世するためには、役所に留まる時間を、ライバルより一分でも長 くし、自分自身の自由な時間を一分でも長く犠牲にしなければならない。脇村のように、定刻になれば、退庁時間だと思うような精神構造では、およそ、出世は 望めない。
 たとえ、定刻になろうと、それに仕事があろうとなかろうと居残り、役所 のため、国民のため、いつでも、わが一身を犠牲にする覚悟がありますという姿勢を、局長や、ライバルや、回りのものに印象づけることが、出世の要諦なの だ。
 課長クラスになって、出世競争もいよいよ厳しくなってくると、他の課の ランプがついているうちに引き上げるのは、おそろしく、不安を伴うのである。こうして、お互いに相手を牽制しながら、不安を持った者同士が、粘り合うの で、産業省のランプは深夜までなかなか消えないことになる。
 吉野課長は、同期生の中でもとくに優秀と目されている。それは、帰宅時 間が、同期の中では、一番遅いということを評価されてのことである。局長や事務次官になった人物も、結局夜遅くまで頑張った組だから、吉野課長のような人 物を高く評価するし、局長にしても、他の局長のランプを気にして遅くまで残るという点では、吉野課長と同類だから、その労を多とするのである。局長のラン プを見て、また、課長が粘る。こうした悪循環の結果 、産業省は不夜城のごとく、毎日毎晩、煌々とランプが灯ることになるのである。
 帰宅時間が遅ければ、どうしても、夫婦の間のことは、疎かにならざるを 得ない。しかも、薄汚れたオフィスの中で、ほこりっぽい書類に取り巻かれ、運動をほとんどやらずに、頭だけを使う仕事を長年続けておいて、セックスが強い わけがない。弱くなる一方であろう。
 ところが、産業省のエリート官僚夫人で、欲求不満に陥っている比率は、 1パーセントにも満たないという意外な調査結果 が出ている。
 そもそも、女性のセックスは、資源開発と同じで、十分ボーリングや試掘 を繰り返えして開発されない限り、地底に眠る石油やダイヤモンドと同様、そのまま、埋もれたままになりがちなのだ。決して発見されることがない。大体にお いて、エリート官僚の夫人連には、箱入り娘で、おとなしく養育され、十分開発投資がなされないのみならず、気位 だけは高く、それだけで生きていける種類の女性が多い。したがって、欲求不満が生じないというわけである。
 欲求不満がないところに、浮気の虫は生まれない。吉野澄子など例外中の 例外なのだ。しかし、吉野澄子のような女性が現れ始めたということは、時代が変革期に差し掛かっていることを意味している。それに対応できぬ 男性は、中央官庁のエリート官僚といえども、妻を寝取られざるを得ないのだ。 
 それにしても、脇村の胸に顔を埋めて、熱いため息をついているもち肌の 美女が、エリート官僚吉野の妻と思うと脇村は、悪い気がしない。
「セックスが、こんなに楽しいものだなんて、あなたに逢うまで少しも知ら なかったわ。だって、一月720時間のうち、夫がわたしの体の中にいる時間は、たったの6分間なのよ。これじゃ、わたしの感覚が、発達しようがないじゃあ りませんの。このごろでは、夫とやる気もなくなっちゃた。ところが夫ときたら、それをかえって喜んでいるみたいなの。ほんとにいやになっちゃうわ。脇村さ ん、わたしのこと好き?好きだって言って。うれしいわ。わたしもあなたのことが好き。男の人をこんなに好きになったのは、初めてよ。ねぇ、この次は、いつ 逢えるかしら」
 吉野澄子にこんなことを言われると、人の良い脇村は、つい、トイレット ペーパーの権限争いを降りてやってもいいという気がしてきた。公務に私情を交えるのは慎まなければならないことだが、妻を寝取っている当の相手に対して は、少しぐらい、私情を交えて、譲ってもいいのではないか。そんな気がしてくるのだ。そう思いながら、脇村は、
「澄子さん、この歳で愛しているなんていうとキザかもしれないが、本当に ぼくは君のことを愛している」
澄子は、脇村に耳元でささやかれて、またしても、燃え上がった。そこで今 日の第5ラウンドが始まった。
 

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8
翌朝、脇村参太郎は、吉野課長のところへ行き、
「これまで、いろいろありましたけけど、歓迎用に使用されるトイレット ペーパーの件に関しては、わたしが責任をもってやります」
と通告した。その一言を聞くと、吉野課長は、満面に笑みを浮かべ、
「そうか、やってくれるか。それじゃ、ほんとに頼みますよ」
と言って、脇村の手を両手でしっかりと握った。弱いと聞いていた割には、 握力は相当なものだった。
 野田課長のところへ行き、例の件は、わたしのところで引き受けることに しましたと報告すると、課長は満面に怒りをみなぎらせ、
「君は僕に無断で、なんで降りたんだ。降りる前に事前に上司に相談するの が役人としてのイロハじゃないか。今後は、僕は一切あずかり知らないからな、君一人で全部処理したまえ」
大声でどなると、くるりと椅子を回して、プイと窓の外を見始めた。両肩が 怒りでプルプル震えている。
 かくして、脇村は、ニクソン大統領の訪問するまでの残された一月間とい うもの、目の回るほどの忙しい日を送ることになった。トイレットペーパーの歓迎用テープとしての使用を禁止する旨の通達文を纏め、関係業界に趣旨の説明に 出かけるとともに、警視庁にも取り締まり方を依頼するため数度にわたって足を運んだ。銀座のママ連のネットワークを最大限に活用して、マスメディアにも働 きかけ、テレビや新聞雑誌に、自粛を呼びかけるキャンペーンを繰り広げた。
 いよいよ、ニクソン大統領訪日の当日になった。脇村は心配で役所にじっ としておれなかった。現場視察と称して、歓迎パレードの始発点である銀座四丁目に出掛けた。
 銀座に急ぐ脇村の胸中には、一人で難事業を成し遂げた喜びと、あの日以 来、二日と空けず会っている吉野澄子に対する愛とが渾然と溶け合い、かつて感じたことのないほどの充実感が溢れていた。ニクソン大統領の乗ったオープン カーが銀座四丁目から走り始めると、両側のビルの窓という窓から歓迎の紙吹雪や色とりどりのテープが乱れ飛んだ。時折、真っ白くて幅広の歓迎テープが投げ られ、ひときわ目立った。間違いなく、トイレットペーパーだった。
 およそ、破られない規則はない。脇村が苦心して書いた通達も、マスメ ディアを通じてのキャンペーンも、心ない国民によって踏みにじられたのである。
 このことあるのを予測して、待ちかまえていた脇村は、トイレットペー パーが投げ下ろされるのを見つけると街頭に溢れる人混みをかきわけてその場へ突進し、窓からみっともなくだらりと垂れ下がっているトイレットペーパーを素 早く引きちぎった。トイレットペーパーはゆらゆらと落ちてくる。脇村はすばやくそれを両手で丸め込み、用意していたゴミ用の袋に押し込んだ。一本、また一 本と、トイレットペーパーが舞い落ちてくる。用意した四五枚のゴミ袋はたちまちいっぱいになってしまった。それを、近くのゴミ箱に放り込み、仕方がないの で、次のトイレットペーパーは、コートのポケットにねじ込んだ。コートのポケットも、いっぱいになってしまった。背広のポケットといわず、ズボンのポケッ トといわず、ありとあらゆるポケットが、トイレットペーパーではち切れんばかりに膨らんだ。
 パレードは、ゆっくりとだが、かなりのスピードで進んでいく。ゴミ箱を 探して、ポケットの中のものを移しかえる時間的余裕はない。せっかくゴミ袋や、ポケットにいれたものを街頭に放り出すのは国辱ものである。トイレットペー パーは次々に落ちてくる。もう空いているところと言えば、脇村参太郎の胃袋しかない。
 脇村は、拾い上げたトイレットペーパーを片っ端から、胃袋に押し込み始 めた。パレードが終点のアメリカ大使館に到着した頃には、脇村の胃袋もまたポケット並にトイレットペーパーで張り切れんばかりに膨らんでいた。しかし、脇 村は、胃袋の中のトイレットペーパーの塊よりももっと大きな満足感に充たされていた。
 自分としては、できる限りのことをやったのだ。日本の恥を幾分でも軽減 することができたのだ。それで、いいではないか。
 そう思いながら脇村は、道路傍らに見つけた金網製のゴミ入れの中へ、ポ ケットを膨らませていたトイレットペーパーを投げ込んだ。ただ、胃袋に押し込んだものは、吐き出す訳にはいかなかった。しかし、それはそれで、いつぞや、 脇村が全国婦人団体連合婦人問題委員会婦人の地位向上促進共闘会議宛の回答文の中で書いたように、水中で容易に分化し、水に流れる性質を持っており、胃袋 の中で、はやくも分解し始めていた。
 と、ちょうどそのとき、晩秋には珍しい激しいにわか雨が降り始めた。雨 に当たるとゴミ入れの中のトイレットペーパーはたちまちぐしゃぐしゃになり、金網の間から、溶けて流れ出し始めた。脇村はあわてて、残りのトイレットペー パーをゴミ入れに放り込み、一目散に、ホテルオークラに向かって走り始めた。
 そこからホテルオークラまではわずか五分しかかからなかったが、雨足が 強かったので、脇村はかなり濡れてしまった。なぜか急にからだがだるくなるのを覚えた。
 今日一日働きづめだったせいに違いない。
 そう思いながら、脇村は101号室のドアをノックした。中から、待ちか まえていたかのようにサッとドアが開いた。ピンクのネグリジェをまとった吉野澄子のにこやかな笑顔がそこにあった。
 「まあ、こんなに濡れてしまって。どうしたのよ、さあ早く中に入って、 浴衣に着替えて。でないと風邪を引いちゃうわよ」
吉野澄子は、まめまめしく脇村を導き入れた。歓迎パレードが米大使館で終 わることを見越して、今日のデートの場所をこのホテルに決めていたのである。役所には、もう戻らないと伝えておいたので問題はない。
 脇村は慈父のように目を細めて、澄子を見、軽く唇にキスをすると、
「ちょっと、軽く、シャワーで汗を流してくるよ。今日は、ずいぶん、走り 回ったんだ」
と言って、浴室に入っていった。
 吉野澄子は、いつものように、たちまち一糸まとわぬ 素っ裸になって、ベッドに潜り込み、脇村を持ち構えた。シーツを体にまとうと、澄子は、やがてシャワーを浴びた脇村が、裸のままで部屋を横切って来、ベッ ドに入いるなり、いつものように澄子の体を力強く抱き寄せ、有無を言わせず、押し入り、最初から最後まで二時間近くも、彼女を虐めにいじめ抜き、それ以上 耐えられなくなって澄子が、全身をのけぞらせながら、最後の断末魔のような声をたてて失神して果 てる様を、次々に心の中で描き、体の中心が痺れてくるのを感じていた。
 15分たった。
 澄子の体は燃え上がっていた。
「早く来て」
声に出して叫びたいほどだった。我慢できずに、澄子は枕に体を擦り付け た。
30分たった。
澄子は、自らエクスタシーの寸前まで達してしまい、シーツを跳ね飛ばし て、ベッドの上で身もだえた。
50分たった。
 澄子は、素っ裸のまま、なにもかけないまま20分近くも身もだえしてい たせいで、急に寒気を覚えた。同時に、脇村があまりに長く、シャワーを浴びていることに気付いた。
 耳をすますと、かすかにシャワーの音が聞こえてくる。その他の音は何も 聞こえてこない。
「一体、どうしたのかしら」
澄子は、シーツを体にまとって立ち上がった。
風呂をたてて湯船に入ったような、物音は聞いた覚えがない。たとえ、お風 呂にしても、脇村はせいぜい20分が限度である。今日はあまりにも長すぎる。それにあまりにも静かである。
「一体、どうしたのかしら」
もう一度、澄子はつぶやいた。そのとき、澄子の心の中に、”脳卒中”とい う嫌な言葉が、どんと、ひらめいた。脇村の赤くつややかな顔と、日頃の精力絶倫ぶりが、このときばかりは逆に澄子の恐怖心を煽った。澄子は、そんなことが あるはずがないと心の内ではうち消してはみたものの、不安がむくむくと頭をもたげてくるのを抑えようがなかった。
 デートの最中、ホテルの浴室で、相手の男性が急死すれば、おそらく、新 聞ざたになってしまうだろう。中央官庁のエリート官僚の夫人が、不倫の相手ということになれば、マスコミの格好の餌食にされることだろう。しかも、澄子 は、脇村のことについては、名字を知っているだけで、身元や素性はおろか、参太郎という名前すら知らないのである。一体この方はどこのどなたですかと尋問 されても、答えようがない。そうなれば、新聞記者は、情事のための情事として、彼女の不節操をなじり、図に乗って書き立てることだろう。身元がやがて明ら かになる。そうなればなったで、決していいことになりそうにない。万が一、夫の知人だったとしたら・・・
 それで、わたしは決定的に傷つくのだ。いや、わたしだけでなく、夫も。 大した夫とは思わないが、そこまで迷惑をかけていいわけがない。わたしは、そこまでこのデートに賭けていたわけではない。わたしにとっては、単なるお遊び に過ぎなかった。だから、名前を確かめることもしなかった。 自分のことも、何一つ話さなかった・・・
 そう思うと吉野澄子の体の火照りは、あっという間に冷めてしまった。澄 子は、脇村という身元も知らない男と、情事を重ねたことを、心の底から後悔し、顔をこわばらせながら、浴室のドアを叩いた。
 何の返事もなかった。
 澄子は、震える手でドアのノブを回した。ドアは簡単に開いた。澄子は、 半開きのドアの後ろから、そこに脇村の太った体が倒れていることを半ば確信しながら、恐る恐る覗き込んだ。
 ところが、浴室の中は空っぽだった。
 シャワーだけが湯気を立てながら、ベージュ色のタイルのうえに降り注い でいた。濡れたタオルが、タイルの上に落ちている。下水口には、どろどろに溶けたトイレットペーパーの塊のようなものが引っかかっており、水が少し淀んで いる。その塊は、端の方から、少しずつ、下水口に流れ込んでいる。
 澄子は、狐につままれた思いであった。一体脇村はどこへ行ったのだろ う。狭い浴室には隠れるところなんてない。青いほうろう引きのバスタブと腰掛け式の洋式トイレが、硬質の光沢を投げて光っているだけである。
 一応念のために吉野澄子は、部屋中を探し回ったが、脇村の姿はどこにも 見あたらなかった。脇村が脱ぎ残した衣類はコートからパンツまで全部そのまま残っていた。着替え用の浴衣は、糊のついたままで触った形跡もない。
 吉野澄子は、突然、背筋が冷たくなるのを覚え、そそくさとスーツをまと うと、あっという間に101号室を抜け出した。部屋を出る前に、情事の痕跡を残さないように、脇村の衣類一切を持ち出すことは忘れなかった。部屋の予約を 入れたのは脇村である。自分の名前は出していない。
 吉野澄子は、ホテルの駐車場に停めておいたパールイエローの小型の BMWに乗り込むと、すでにとっぷり暮れ、今は静かに雨に煙っている晩秋の街の中にたちまち消えていった。
 その後、脇村を見たものは、誰もいない。
                                  (完)
 
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 二通の手紙    山 羊 男 七つ泣き虫 ある官僚の死