3月29日
私がうれしくて仕方がないと言ったらおかしいだろうか。中島光恵さんから返事がきた。これがぼくを小躍りさせている。これで文通が成立した。今後は話題が問題である。できるだけお互いに興味のある話題がほしい。なかなかしっかりした女性で、私は下から覗き見るような格好だが、こういう女性が男性に好かれないこともないものである。なんだか、手紙の後ろでにっこりと微笑んでいるようで薄気味悪い。
弘和は恐ろしかった。
彼を取り巻くすべてが、彼には未知なるものであり、それがやたらにうごめきあい、怒号しあって、ちょうど噴火口の中で、どこが急に噴き出すとも知らず歩き回っているような感じだった。彼は全神経を張ってその未知なるもの中にうごめいていた。彼のうごめきは、未知なるもののうごめきからすれば、動きの伴わないうごめきであった
ごーと電車が、プープーと自動車が、たったっと人がひっきりなしに彼の回りを通り過ぎる。
大きなビルディング。石畳の歩道。金属製の電柱。赤と緑の看板。ゆがんだ喫茶店。萎れた街路樹。平行の崩れた電車のレール。そのギラギラとした焦げ茶。
彼はうごめいた。その未知なるものと既知なるもののうちで最少の運搬能力たる足を踏みしめて。あまりにも広い世界。自分の姿が見分けられない。張り詰めた神経と外気の触れ合う表面だけが今彼に存在して彼は歩んでいる。外界の渦巻きと、彼のうちの渦巻きとが彼をその最も底にして干渉し合い、揺れながら彼の歩みとともに進む。彼の歩みの跡もいまだ未知の世界として存在する。
東大正門。
なおも、未知の世界は彼に続いたついた。しかし、そのヒンヤリとした涼感は彼にいくぶん内部を復活させた。
イチョウの木。彼の学校の全校舎に等しい大きさの建物が整然と静かに乱立している。時計台。1時15分。
彼は恐れを忘れる。しかし、心のどこかでなおも恐れている。懐かしい緑の木が茂っている。不毛の地東京の真ん中に彼はオアシスを発見して小躍りしている。彼が写真で見たことがある既知なるものが彼を緊張から緩める。彼の心は駆けだした。彼の足は胸を張って鷹揚に進む。
だが「見よ」
三四郎の池。
緑の木立の中にその緑を映して汚れた水がつかれたようにたまっている。狭い小さな池である。あひるががあがあとしゃべりかける。(人よりもあひるが彼と共通語を持っている。)
そして彼は子供を発見した。その回りが高く低く、急な傾斜だったり、緩やかだったり、石あり、緑の草あり、木のうでありの池の子トンボを追い回している。白い帽子と、白い服と、筋の走ったバッタのようにひょいひょいと曲がる黒い手足と、快い空気の緊張と弛緩を作っている赤く黒い翻る唇と、常にトンボより後ろを追っかける大きな白い網の似たような少年の2人。
思わず微笑がわいてくる。しかしあひるほど気を許せる相手ではない。いつ彼らは彼を襲撃してくるかわからないのだ。あちこちに白い人の姿がある。いつ彼らは彼に白い服が顔を向けるようにしむけ、彼を田舎人だと見破らせるかもしれないのだ。だが彼らは彼に頓着しない。彼らの世界に浸りきっている。彼がごうも自分を見いだし得ない世界で彼らは独歩の位置を占めている。彼には不可解だ。やはりこれも忘れよう。
時計台の方から下り坂を下りきったところから、池を右に見ながら上り坂がある。彼は未知の世界を目を少し前に落として突き進む。彼はぎくりとする。
木立の傍らで話し合っている2人の若い女。白く、赤く、黒く、碁盤目の。白く、青く、緑の縞と。ブラウスと心地よいフレヤースカート。ショートカットヘヤー。
彼の目には顔も見えぬ。手も見えぬ。ただ女の色の配合がそこにあり、彼の心を赤面さて、そして、相手の一瞬の会話の途切れが彼を慌てさせる。せまい道。彼は通り過ぎ・・・
「あのー、ちょっと」
「えっ」
彼はおもむろにしかも素早く振り向いた。
赤い手提げ型のハンドバックを両手にかけて、すらりと長身の白い服地に大胆な黒の碁盤目の女が彼を見上げている。そしてほほえみが唇に乗っかっている。ピチピチと張り切った小さな唇。顔もそれとして美しい調和が見える。
「食堂どこにあるかご存じじゃありません?」
「僕初めてきたばかりで」
彼はついに恥辱の頂点に昇った。
「そうですか。それじゃ」
「そうそう」
彼は大きくゆっくりと動作して、うつむきながらポケットを探る。
「これに書いてあるかもしれません」
と言いながら手帳の中からノート大の紙を取り出した。彼の先輩の小山さんから送ってもらった案内図だ。彼が歩いてきた道を含めて、現在位置まで説明書き入りで面白く東大構内の案内がある。彼がそれを読み始めると両側から女がのぞき込んだ。彼の神経は思考を失ってやたらに頬に突き当たった。大山さんらしく、食堂は1番わかりやすく書いてあった。
「すこぶる安い。うまくなし、まずくなし。昼食時に行くことなかれ。長蛇の列、長さ十間。わが好みのメニュー・・・」
こんな説明書きがある。うふふと小気味よく女が笑った。思わず彼もニヤリとした。しかし、何だか顔にこわばりがあって、あごの骨が思うように動かなかった。ありがとうと言って女は彼が来た道を引き返し始めた。彼も女と反対の方に勢いよく歩き出した。なんだか無我夢中であった。女を振り返ってみたくもあった。しかし、それが恐ろしくもあった。彼は彼女らの素性を知らない。彼の心は今や外界を忘れた。体に赤い血がどくどくと音をたてて流れ始めた。しかし彼の素性は彼女たちは知っている。「田舎者」。そう思っているに違いないのだ。ぎこちない振る舞い。
ちょうど着古した毛糸のように、ボソボソになったしどろもどろな言葉使い。彼は恐れた。行き着いたところは、なにか物々しい、なまめかしい御殿のようなところだった。思い切り左に曲がって、とグラウンドがあった。
ベースボール。彼の使う同じ言葉を使っている。学校に関係のありそうに見えぬ人達ばっかりである。
棒球。大胆なスイング。空振り。「ストライク」。歓声。野手の顔は口でいっぱいだ。見事、大きな大きなピッチャー・フライ。へっぴり腰。
あまりにも今までの環境は彼にとって優越するものばかりであった。そしてその優越に負けるものか負けるものかしている彼の心が外界に反発すればするほど彼は惨めだった。しかし、何かしらの安堵がその人たちを見て生まれ始めた。そして彼はその場に立ち止まって緑の草に腰をおろした。青い空。彼が見慣れた青よりも薄く霞んだ青い空。振り返ると太陽が眩しかった。安堵。安堵が彼の体にみなぎった。
彼の太陽はやはり今もこの東京の空にあるのだ。
「ところでいつ東京に」
「昨日着いたばかりです」
「ほほう、それじゃあ大変だったでしょう、東京は目まぐるしいところだからね」
「ええ本当にそうですね」
「お父さんは元気なように手紙で拝見したが、本当に月日の経つのは早いもんだね。。もう昔のライバルも、私も子供が大学を受けようというのだからね。今出かけているがちょうど君と同じぐらいの娘がいるんだ。お母さん、蔵子はどこにいったんだったかね」
「さあ、明日から東大のサマースクールがあるとかで、今日、お友達の順子さんと本郷の東大に行くとか言っていたけど」
「僕の上京の目的がそのサマースクールを受けるためなんです。それで今ここに来る途中に東大の中をうろついてきたばっかりです」
「あらそうですの、面白いこと」
「それじゃ都合がいい。君私の家に来たまえ、今どこに」
「県の寮に入れてもらおうかと思って今赤羽の先輩の下宿屋に泊めてもらっています」
「家には君が使っても困らないような部屋が3つ4つあるはずだ。母さん蔵子の部屋の隣を、和弘君の部屋に開けたって構わないだろう」
「ええ結構ですわ。いつからって事にしますの」
「そうだなぁ、君荷物は多くあるかい」
「いいえスーツケースとをボストンバックの2つきりです。でもご迷惑でしょうから」
「なに心配することはない。1人や2人増えたってかえって家の中が賑やかになってありがたいくらいだ。私はジャーナリストって職業柄、今日のように家にいる日は珍しいくらいなんだ。かあさんと蔵子と、もう1人上に明子と言って姉がいて、ファッションモデルになってしまったんだがね、この家じゃ夜私がいなくて寂しい寂しいとこぼされているんだ。君はなかなか頭も大きいし、体格も立派だから、まあ用心棒に雇われたと思って威張っていりゃいいよ。明日からそのサマースクールは始まるの」
「ええ開校式が、10時からあります」
「じゃあちょっと早起きして朝のうちに私のうちに引っ越してきたまえ」
「ボーンボーンボーンボーン」
「ごめいわくでしょうが、何とぞよろしくお願いいたします」
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