筆者、20歳、大学一〜二年生当時の日記の連載を始めます(2002年7月26日)
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  以下工事中          
1960年3月
           

 

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年月日 曜日 日記本文
1960.1.8 Friday

1960.1.8

◆ここに登場する私は既に二十歳の若者である。二十歳と言っても二十歳と四日の青二才なのだが。
 この一月五日が私の記念すべき第二十回目の誕生日だった。私も二十歳に成ったのかと思うと感慨深いものがある。十五日の成人の日は私にとっての成人の日でもある。

 ”成人”という語感。まだ皮膚にピンとこないものがある。またピンと来たらかえって変なのかもしれない。人間にとって小人から大人への急激な飛躍が一日を境にして存在するはずがないのだから。大人ぶるということは全く無意味なことだろう。今日からこの日記の上に記されて行く私の折々の記が、私が如何なる大人かを少しずつ証明していかなければならないのだ。

 私の唯一と言っていいくらい良い習慣である日記をつけるということ、これからもこの頃は遠のきがちであったのだ。だけど今日三百五十円なりを奮発してその良き習慣を取り戻すべく早速の実行を行っているところなのだ。

 私の二十歳が、その一部分をこの日記の上に現すだろう。とうてい、あますところなき二十歳なぞをこの日記には約束しない。不可能だから。だけど、私という存在、この私自身にもつかみどころのない私という存在が、無意識のポーズをもって色々と現れて来るに違いない。そして当の私という存在自身さえもが、ある日読み返してみて、こんな自分も、私のこの小さな存在の中に巣くっているのかと、驚き眼をしばし見張るに違いないのである。それが楽しい。日記の楽しみと言ったらそういうことかもしれない。それだけのことかも知れない。

 いやいやながらつける日だってあるのである。眠たい方が大切な日の日記もあるのである。日記をつける楽しみというものは決してつけているその瞬間に消滅してしまうものではなしにその瞬間に生じて、読み返される日のために静かに冬眠し続ける。開く手が開けば日記は美しく開花して充分の楽しみを分け与えてくれる。

 私はこの日記を、ある日のその開く手のために秘密の贈り物としよう。

(午前一時三十四分記す。)

◆一月八日の記録。アルバイトに行き、我がささやかなお土産を置いてくる。
明日はクツを購入しなければならない。

今日の購入物。

ハンケチ 40円。リップクリーム80円。ハンガー 35円。 ノート18円。 日記 350円。 ラジオテキスト 60円。 回数券200円。ヨーチン 40円。 世界180円。

1960.1.9 Saturday

1960.1.9
 しかし、大人であると言うことは違法を犯せば新聞紙上に実名が出るということによって一部象徴的に表現されるであろう。自らの行動に対する責任感の所在を益々はっきりと自分の内部に追究していかなければならない。あらゆる言動を、若気の至り、として逃れうる日は消滅する。私のこれからのいつの日のそれとも、誤りを犯し合ってはならないのだ。私は、私自身にとっての真理を行わなければならない。

(午前八時二十分記す)

◆私は碁に負けて、自分自身の力を過信する愚かさをその都度思い知らされる。

 碁というものは無理をしては絶対に勝てないものなのだ。私の一学期の成績は思ったほど悪くなかった。だけど、努力以上の好成績というものは、私に自分自身に対する過信を植え付けはすまいか。いや現にそういう状態になってしまっているのではないか。

 本当を言って私は、十八日のドイツ語に対してはもちろん来月の試験に対して少しの準備もまだやっていない。一夜漬けで間に合うといったような心のゆるみが私には確かにある。七、八、九とここらの三日間私はいったい何をした?教科書一冊開けて見るではなし、本一ページさえ読むこともしなかった。ただ、馬鹿げた買い物に時間をつぶし、駄 弁と、まずい碁に身をやつしていた。

 今日何をなしたか。生産的な何ものも消費しなかった今日でさえが時刻は既に午前二時三分前。私の非理性的エネルギーをして叫ばしめよ。「明日は悔いなき日たれ」と。

◆購入品:靴1,950円。 碁 一勝四敗
I went Isetan,and bought shoes there by 1950yen.
Then went to my uncle's and played "Go"with my uncle.I won only once and lost my game at four times .
I'm discouraged.

◆処女の価値は、男がそれを如何に高く買うかによってではなしに、彼女自らがそれを如何に高く考えるかによって、その貴重さが決定されるべきものである。

 世人ーいや、その彼女達までもが、これと反対の考え方をしているのは嘆かわしい。

(午前二時八分記す)

1960.1.10 Sunday

1960.1.10

 十四歳の彼女はまだまだ子供っぽいところが多い。しかし、時にはこの私でさえ圧倒しかねない女らしさを発揮したりする。つんと急におすましやさんになって、とりつく島もないかと思えば、笑いが止まらなくなってお腹を押さえたり。「さあ」と言えば「いや」、「じゃあ、いい」と言えば「やる」と、女心はふんだんに。

 でも彼女は私が好きなのだ。彼女の目の中に時折、妖しいまでのきらめきがある。放心状態への眠たさをやっとこらえて、突飛なことを言う。

(午前十時四十分記す)

1960.1.10 Sunday

1960.1.10

島原 私の故郷

 僕の故郷が、たまたま、東京の辺地に位していたために、紹介文を書くことになった。僕たちのクラスではさしずめ最南端でありかつ最西端の故郷を有する僕としては選択される者としては極めて恵まれた条件を有していたようである。もし、この雑誌が島原で発行されるとすれば、この人選なり、都市の選定なりは、大幅に改められることと思う。従って、この雑誌の内容そのものが、すでに空間的な制約を持っていると言えるであろう。自分の故郷を紹介するというのなら、単に面 白可笑しい人文地理的紹介に終わってしまっては意味が少ないのではないかと考える。自分自身と故郷、それは切っても切れない関係にあるのだから。

 東京という空間がこの雑誌を制約したとはおよそ比較にならぬ 位強烈に十数年にわたって、僕を空間的に制約し続けてきた故郷というものの存在は、すでに旅行のガイドブックの紹介文ではすまされないほど僕には重要なのだ。僕という人間を考えるに当たって、およそ故郷の存在というものは抜きがたいし、それは遠きにありて思うものではすまされぬ 意味を有するのである。だが、こういった観点からの故郷の紹介が、ここで如何に無意味であるかを僕は知っている。僕にとっては身震いを禁じ得ない故郷を、僕の骨の髄まで染み通 っている故郷を、僕は今恥じらいの胸底深く隠し去って、適当な洒脱文句で観光都市としての(私の故郷としてではなしに)島原を、クラスの人たちより、より知識が深いという理由から紹介すれば、任が済むようである。

 『島原』という地名に対して、日本人なら二つ乃至はそのいずれかを思い出してくれる。ぼくのような真面 目な徒輩が「故郷は?」と聞かれて「島原」と答えた場合、大抵の人なら、知っているという意思表示を、「ああ、あの島原の乱の島原ですね」ですますものだが、「京都に、島原って、ありますね」と通 なところを見せる人もあることはある。

 確かに、我が島原がそういう古い事件でしか思い出されないのは面 白くないが、島原の存在を知っているかいないかの一応の相互の確認のためには便利ではある。

 だけど、「それじゃ、キリスト教徒が多いでしょう」などというその次の言葉は、単なる会話のつなぎとしてもお粗末である。

 島原の乱は1637年、今からおよそ三百三十年も前にキリスト教徒弾圧のために行われた戦乱なのだから、僕の家から約二百メートルくらいのところに、当時キリスト教徒側が立て篭もった原城の石を運んで出来た(この運搬に課せられた労役も乱の原因の一つだという)森岳城の城跡がある。昨年の暮れ、島原に帰ってみたところが、櫓らしきものが建立されつつあった。お城ブームの一端として紹介されてはいるが、貧弱なもので、建てぬ 方がましな位の代物であった。

 島原の乱の島原でも悪いとは言わないが社会主義思想に興味をお持ちの方には島原は忘れていただきたくない地名なのである。

 坂本太郎著「日本史概説」下巻63頁をご覧願いたい。その部分を引用させていただけば、

・・・中でも最も異色ある一政党は肥前島原に起こった東洋社会党であった。・・・社会主義を標榜した政党としては陳呉の名に値するものであろう

 これは東京に「自由党」とか「立憲改進党」などが起こった当時のことである。だけど、「ああ、あの東洋社会党の島原ですか」と言っても当の島原人どもが、「いいや、島原の乱の島原ですたい」と言いかねないのが現状のようである。

 島原というところはなかなかいいところだと私は思っている。

 島原市は、背後に麗峰雲仙がそびえ、前に、美しい有明海を有する人口約五万の城下町である。気候は温暖で、台風の被害を受けることはほとんどない。人口はあまり増えもしなければ減りもしない。これは市の停滞を意味するのだが、今後は観光都市としてしか発展の可能性はないように思う。

 最近のニュースによれば、市の南部地区に温泉が湧くと言うことだ。旅館ならいいのが数多くあるから市が観光都市にふさわしい施策を積極的に推し進めていけば、割合順調な発展があるのではないか。長崎市、雲仙、島原市を結ぶ観光ルートは非常に評判がいい、と聞く。諸兄のご利用を願いたい。

 市のすぐ背後には眉山といって、800メートル位の品のいい山がある。内港から外港にかけて海の中に美しい島々が散在するが、この九十九島は、その眉山の大爆発によって出来たもので肥前大変肥後迷惑と地異変動が数々の名残を今もとどめている。

 その外港からバスで約40分、雲仙国立公園の景観が美しく展開している。その初夏のツツジの美しさは、僕の脳裏に今も焼き付いている。死ぬ までには一度は見ていただきたい位なのだ。

 

年月日 曜日 日記本文
1960.1.11 Monday 1960.1.11 晴れ

枯れ木に月光。青白い光にコンクリートの白い冷たい道路の上に映し出されて枯れ木の影。枯れ木の模様。美しいナと思った。本当に美しいと思った。梢の千々の分かれが、ぼやけた影を結んで、重なり合っては黒い斑点模様を作る。月も、枯れ木も、空気も、コンクリートの道も、すべて厳しく、冷たい。凍り付いたような動きのない世界。でも不思議な美しさに充満し。美しさには生命感が張りつめていた。

○今日、目黒区役所の方から、成人の日の集いへの招待券が届いた。
○島原の方から年賀状が四通転送してきた。
1.榊原博 2.渡辺貞治 3.中島光恵 4.奈良悟

○ドイツ語(山下)試験は一月二十五日。接続法まで。
仏(三語)は二月八日か十五日。
1960.1.12 Tuesday 1960.1.12

価値観の相違か、一日でも長く政権の座に留まることをより価値のあることとするか、一つでもいいから善政を行って、他人に迷惑にならぬ うちに政権の座を離れることをより価値の高いものとするか。
 私なら後者を取る。また善政を行えばこそ長期政権も順調に可能なのだ。我が国の総理の価値観は前者なのだ。いくら長く政権の座にいたとしてもどっちみち終局はある。辞めたらすぐに忘れられる道をより高く買う価値観を岸は持っている。国民は迷惑だ。

○購入物:マフラー600円。歯磨き 80円。 定食券 1920円。
1960.1.14 Thursday

1960.1.14

 私が大人でないと言う意味において子供であり得るための最小の必要条件が今日までは存在する。明日は成人の日。今日が私を子供と言いうるにしてもその最後の日である。やはり子供から大人に成るということは一つの感慨を持つものである。子供という範疇が私において今日を限りに失われていくと言うことに対して、人生の常とは知りながら、寂しさを隠しきれないのである。明日から、名実ともの大人である私。明日から死ぬ 日まで。
 大人という範疇は動かしがたく私を規定するであろう。明日の大人を私に規定づける日は、決定的な重要性を持って、人生の一大分岐点たるを失わないであろう。子供から大人へ。それは確かに大きな意義がある。その間に引かれる一線ほどに明確に、人生行路を二分するものはあるまい。
 私はかつて、おませな中学三年生として年頭の所感に、大人になるという時点から初めて、私の一個の人間としての真の人生が始まるのだと書いた。
 そうかも知れない。一個の人間として社会から名実ともに認められた日から、新しい人生が始まると言っても、それは、今日までの私の子供時代に対する裏切りでは決してない。大人という概念を、観念を、実体を、感覚を、自らのうちに、厳しく定着せしめた日々を、大人になると言う一つの転換、飛躍に刺激されて、明日から、真面 目に送っていこうというのなら、単なる名称づけに留まらない新しい人生がそこには始まるのだ。
(午前三時十分)

1960.1.15 Friday

1960.1.15 快晴

○午前九時開場の目黒区の成人の式に臨む。講師:大宅壮一。出し物:ジューク・エイシス。午後。映画「底抜け、ニューヨークの休日」



◆成人の日。この日の駒場寮には騒然たる空気が流れていた。夜八時に入ったころから、マイクはひっきりなしに我々に呼びかけていた。メガホンを通 しての、絶叫する不明瞭な音が、廊下を次々と通り過ぎていった。

 寮生諸君!寮生諸君!安保改定の岸全権一行は、明朝八時に羽田を出発します。一刻の猶予もありません。既に羽田には、東大本郷の学生、北大の、九大の、北から南から全国からの多くの学生が集まっています。寮生諸君!我々もただちに羽田に駆けつけましょう。寮食堂の参加者大会に集結してください。出発は十時です。バスを連ねて、羽田に出発しましょう。

 寮生諸君!一人残らず、羽田へ!羽田へ!

 午後九時半、北寮わきの通路は、その暗い冷たい夜気を震わせる、若々しい歌声が充満していた。寮食堂から、北寮前、バス発車場へ向かう寮生の「インターナショナルの歌」は、生の緊張感を漂わせて自信と誇りに溢れるばかりであった。

 北寮前に集まって下さい!

 十時過ぎまで、メガホンの遠い叫びは、止まなかった。

 バスの発車爆音が鈍く聞こえ、七台のバスは満員だとニュースが届いた。

 十時十五分、我々居残った北寮二階の連中は、最後のバスに乗り込むように呼びかけられていた。

 彼らは出発する。勝利感と、心に一点のやましさも感じない晴れ晴れとした気持に包まれて。

 私は居残っている。この穏健な英語会の多くの連中の一人として。

 その多くの連中が私に与えてくれる安心感も、罪の共負いとしてのみ、わずかなものであった。私の心のわだかまり、私を卑怯者だとバスの上の彼らは言うだろう。

 私は何の行動も取れず、居残っている。

 何の行動を取ろうと私は努力したろう?

 ただ、私は最初から居残ることに決めてしまって、座りやすい自分の椅子にしがみついていたのだ。それが今日、成人式をすませた私の行動であったのだ。

 午後十時半。静かな夜は、あらゆる騒音から解放されていた。だが私の心は、火をつけられた芝生のように黒くくすぶりを広げていた。

 羽田に行くことが、はたして妥当最善の行動であるかということについて、私なりに色々と考えてはみた。私はそれに結論を下ろせないうちに、午前八時に繰り上げられた岸首相の出発に急襲されたのだ。

 羽田に行くと言うことは良いか悪いかという価値判断に決定される筋合いのものではなかった。それは決定されると言うより、我が身の安全を思う心の尻込みがもたらす一つの状態が、結果 として、羽田行きのバスに乗っていないというのであった。

 居残った連中にとって、すべてはあいまいに、決定されないままに残っていた。

 状態としての居残りに留まらない、心の居残りがそこにはまたあったのだ。

 だけど、私にとって、事態は、私がバスに乗ったとしても同じだったかも知れない。

 私の行動は、その場合、他からの誘発に対する単なる追従でしかなく、どっちみち、私の意志は存在しなかったであろうから。

 道路の上の寝ころび戦術、実力阻止などを全学連は行うと言っている。私は承服できないし、実際問題として、そういうことをやりたくない。岸政権の今度の安保改定の進め方には激しい憤りは覚えるけれど、手段を選ばない実力阻止はやはり受け入れかねる。

 羽田に今夜集まるのはどの位であろう。一般通学生はよほど関心が強くない限り、夜の十時半の出発予定が朝の八時に繰り上がったからと言って歩調を合わせて、羽田に集結するであろうか。一部労働者は、はたして夜十時を過ぎて羽田に集まるほどに情熱的であろうか。

 とにかくも羽田に四、五千集まったとする。それで一体何をしようというのか。という、敗北感が私の心の一部には巣くっている。

 奇声を上げ、岸の面前で、安保改定反対を叫ぶ。それを知らぬ 顔に、一万の警察官と、自民党の連中に守られてあの国辱的と誰かが言った笑顔をカメラに向けて、岸は安全に米国へ飛び去る。四、五千の奇声が、彼の出発に逃げ去ったという形容を可能にするであろうか。あまりに不法行為を行って、これからの批准阻止の共闘を困難にしはしないか。

 いろいろ懸念はある。

 それにしても、日本の政治よ。あまりにも今日、私がその責任の一端を持つに至った日本の政治は嘆かわしい状態にありはしないか。あまりにも・・・

 壁。新月の闇の中でそれをなぜ廻す私の身体にはあまりにも頑丈で広大無辺の社会の壁よ。いつの日かそれを打破し、満月の月の光を全国民の上に、美しく輝かせたい。

 しかし、何と手の着けようのないことか。

(午後十一時五十分)

 

年月日 曜日 日記本文
1960.1.16 Saturday

1960.1.16
◆筑摩書房「世界文学大系第18巻」『シラー』450円
 靴下 210円
 靴底敷き(2)90円
 ラジオテキスト 60円
 バター・砂糖 140円
 計    950円

◆男性はあくことのない意欲をもって敵をつくり
 あらがうものを踏みしだいて
 とどまることなく
 人生の野を突進する。
 つくっては こわし
 欲望はひしめきあってやすまない。
 ちょうどあの不死身の大蛇ヒドラの首が
 落ちてはまた生え出るよう。
 (Shiller Wuerder der Frauen)

◆全学連76名検挙さる。
 岸一行予定通り羽田を発つ。
 この二つの見出しは、敗北と勝利の対比ではない。76名の検挙にも予定通りの羽田発ちにも裏の裏があることを知らねばならぬ 。全学連は、男性的に、とどまることなく人生の野を突進した。法を忘れ、理性を失して。

 岸一行はあらがうものを踏みしだいて、予定通り羽田を発った。恥を忘れ、外聞を捨てて。あさましい、といい、嘆かわしい、と嘆くことが、今、一番必要であるかどうかを離れて、私は嘆かざるを得ないのである。

 無定見な、と言いたいのは全学連にばかりではない。折からの氷雨に幸いされて、無事裏街道から逃れ出た我が国の首相に対してもである。

 今日の彼の行動に見られる視野の狭さというものが、今や我が国の憂うべきこととなったようだ。政治的な視野の狭さが、連鎖反応的に我々を毒し始めた。全く救い難い頑迷さではないか。個人的な面 子のために、我が国の真の姿を見ることも、激しい世界の動きを聞き取ることも、忘れてしまった。一人の我執に満ちた老人を、いつまで我が国は首相に祭り上げておくつもりなのか。

 今日の朝日の社会戯評は岸首相がスチュワーデスに変装して渡米する漫画である。今日の彼の行動よりはその方がユーモアがあるだけましなくらいだ。

 安保改定病患者をどう治癒したらいいものか。

1960.1.17 Sunday

1960.1.17

 夕刊の記事で、岸首相にノーベル平和賞という記事ほど笑わせるものはなかった。

 何も「かたえくぼ」の冗談でもなくレッキとした一面 記事なのである。戦犯岸を平和賞候補に推薦する人間もいればいたもので、ご本人の岸首相にしたところで、鼻の頭がかゆいことであろう。一体どんなに平和のために貢献したのか、とっくりと説明して貰わないと理解に苦しむところである。

 まさに石もて追われるごとく国外に去った時が時だけに、私の部室は爆笑にわいたのである。

1960.1.18 Monday

1960.1.18

 

私の人生。
この漠然たる響き。
あらゆる観念を越え、
あらゆる刺激を離れ、
しかもきびしく束縛された
私の前途。
濃いスモッグに
一メートル先も閉ざされ、
手探りに恐れ恐れ
歩いていく
私の背を丸めた姿。
享楽の歌も
苦難の叫びも
あの穴から
この森から
私をつかみ
私をかきむしる。
私の人生。
何を求めて、
何のために、
そこにある、
そこにない
私の人生。

1960.1.20 Wednesday 1960.1.20

近代日本思想史講座「知識人の生成と役割」360円
the end of the affair  by Gream Greene 170円
1960.1.21 Thursday 1960.1.21

おお、私のやさしい心よ
躍り上がって獲物を襲うこともせず
その周りをぐるぐる回っている
思いやりのある私の心よ。
逃げ出そうとしたらとっちめてやる
いざという時が来たら、その時こそは
骨の髄まで牙をたてよう
おお、私のやさしい心よ。
獲物が逃げ出した
追え追え
爪を立てろ
牙に掛けろ
ああ、私のやさしい心よ。
あまりに優しくありすぎたのだ
獲物は逃げた。
獲物は逃げた。
1960.1.22 Friday

1960.1.22

ご報告申し上げる
一月二十五日        独語試験
二月八日          仏語試験
二月十二日         ニーチェ試験
二月十七日ー二月二十六日  本試験

◆厭な季節の到来である。
一学期に負けぬ成績を残したいもの。
まずは全優をねらうべし。
栃(栃錦)は今日負けてついに全勝ならず。
栃の強豪にして全勝成らず、いわんや私においておや。

 

1960.1.23 Saturday 1960.1.23

それは楽しいことであろうか。悲しいことであろうか。今の私のように"Ich liebe Sie"と言いうる女性が一人もいない状態は。決めかねる。さびしいこととは言いうる。楽しいことと矛盾しないかって。さびしささえも楽しみうる。それに大きく開かれた可能性の前には誰もが跪いて、歓喜の声を上げるものなのだ。美貌、理知、ちょっとした気の強さ、やさしさ、微笑。おお、わが愛のための女性は、今何と豪華に着飾っていることか。
1960.1.27 Wednesday

1960.1.27
 
◆ 去る二十五日、独語の試験も終わってさっぱりした気持で叔父さんのうちに行き、まず黒をもって軽く三連勝、後手番で打つ権利を奪回し、その後白で二番負けて角番に立ったが80目の大差で三局目を握り、勇躍引き上げてきた。

◆ 今日は山下先生の研究室で読書会。テキストは丸山真男『現代政治の思想と行動』
 バイト、伊東屋でカツライス。法学の授業、今日で終わり。教授久保正幡。

 

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