筆者、20歳〜21歳、大学二〜三年生当時の日記の 連載を始めます(2002年9月26日)
日記の部屋1961-01/Diary1961 -01


これから新日記(文芸日記1961)の掲載開始です (2002/9/26)。

(1960/11/28〜1960/12/1)(2002/9/26 掲載)

(1960/12/2〜1960/12/6)(2002/9/27 掲載)

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日記1961(1960/11/28から1961/7/20)

1960年11月〜 12月
1960/11/28
1960/12/1
1960/12/2
1960/12/3
1960/12/6








日記1960(1960/1/8から1960/9/22)

1
1960年1月
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1960年2月
1960/2/1 1960/2/4 1960/2/7 1960/2/8 1960/2/9 1960/2/10
  1960/2/11 1960/2/13 1960/2/15 1960/2/17 1960/2/18 1960/2/21
  1960/2/23 1960/2/28 1960/2/29      
1960年3月
1960/3/4 1960/3/14 1960/3/14-2 1960/3/23 1960/3/30  
1960年4月
1960/4/4 1960/4/12 1960/4/26      
1960年5月
1960/5/13 1960/5/20 1960/5/30 1960/5/30-2

1960年6月
1960/6/3 1960/6/7 1960/6/7-2 1960/6/8 1960/6/13 1960/6/15
  1960/6/16 1960/6/16-2 1960/6/20 1960/6/23 1960/6/23-2 1960.6.28

1960.6.28-2          
1960年8月
1960.8.5 1960.8.20 1960.8.20-2 1960.8.20-3 1960.8.26 1960.8.26ー 2
  1960.8.27 1960.8.29        
1960年9月
1990/9/1 1990/9/3 1960/9/7 1960/9/9 1960/9/10 1960/9/11
  1960/9/13 1960/9/14 1960/9/15 1960/9/16 1960/9/17 1960/9/17-2
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  1960/9/22-2 この日記はここで完了        
1960 年11月〜12月

1960/11/28
1960/12/1



 

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年月日 曜日 日記本文
1960.11.28 Monday

1960.11.28
lundi 28 Novembre

  新しいものの魅力よ。頬を赤く染めた乙女の白い豊かな胸が、恋人の愛に初めて開かれたその瞬間、ときめく心と、おののきうちふるえる思いが 恋人の側のものならば、それは、新鮮さに対する畏敬であり、新鮮なものの前に立たされたときの逡巡である。目覚めて、ふと外界に目をやれば、冬の柔い朝日 に映えて、夜来の積雪、見渡す限りを白一色に覆い、目映げに輝きわたるとき、思わず漏らす嘆声(ためいき)こそ、新鮮さの強要する賛美であろう。

 今日、この新しい日記を前にして、私の心もまたうちふるえる。新しいものは美しい。新しいものは圧倒的である。新しいものは豊かである。新しいものも常 に新しい。

 ごくありふれた心情の持ち主である私は、新しいものの前にいつも敬虔であった。新しさに対して素直に反応して、私は新しいものをいつも尊重して取り扱っ た。その今までの私の習慣通 り、私はこの日記の新しさを大いに大切にもてなし、新しさの要求するものに即したことでも書こうと思う。

 それには自己紹介もいい方法ではないだろうか。少なくともいい方法の一つと思われる。

 私。名前を阿部毅一郎という。まだ同姓同名という気味の悪い存在に出くわしたことは一度もない。阿部という同姓なら掃いて捨てるほどいる。毅一郎の方は ざらにはいない。いや、ほとんどいない。音だけ同じのなら、樹一郎、喜一郎、とちょいちょいお目にかかるけれど。

 私はかつて毅一郎会とでもいうものを作りたいと考えていた。なにせ何万何千あるか分か らぬ 漢字の中から、任意に三字を選び出して、それがピッタリ一致するというのなら、浅からぬ 因縁に結ばれたものと考えてもおかしくはあるまい。同名の毅一郎を持った人のみで会を結成する、面 白いではないかと考えたのである。

 ところで現在のところ、この会の有資格者は私を入れて三人である。横田毅一郎君と、高橋毅一郎先生。横田君というのは、一頃大評判だった、赤胴鈴之介の ラジオ・ドラマの主演をやった人だ。悪者の「名を名乗れ!」に応じて「赤胴鈴之介だ!」と勇ましく叫んでいたのが横田君なのである。

 高橋先生の方は、知る人ぞ知るの産婦人科医である。文藝春秋や”日本の十人シリーズで医者の中で堂々ベストテンに顔を出すほどの人だ。もちろん、ずっと 以前から私と同名というので大いに関心を持っていたのだが、時たま、朝日新聞などでまじめな文章を見かけるかと思えば、風流読本などで風流な随筆でお目に かかることもあるという、なかなか幅広い活躍をしていらっしゃった。われらば毅一郎会の重量 級と目していたのだが、このたび日本の医者のベスト・テンに入っていらっしゃるのを見て、まず名誉会員クラスに、位 を昇格しなければならないと考えている。

 わずかに三人では大した会にもなるまいとも考えられるが、会員はまだまだ、アチコチに転がっている可能性もあるのだから、気長に会の発展を考えていきた いものである。

 三人の中で一番有名でないのがこの私だが、かつて”君の名は”ブームのとき、春樹と真知子の名を持つ赤ん坊が盛んに生まれたと言われたことさえある。そ のうち有名になって、毅一郎会のメンバーの増加に寄与したいと考えているのである。もっとも春樹みたいに、毎日毎晩真知子のことばかり思い続け、すれ違い ばっかり年がら年中やり続けなければだめだというのなら、毅一郎会のメンバーは容易に増えそうにない。 

 ともかくも私のこの名前、私自身としては決して悪い名前とは思っていない。

 私の生まれたのは、熊本市で水前寺の駅のすぐ近くである。島原の僕の父方の祖父から、 僕が生まれたときに”毅”と名付けたらと言う手紙が来たんだそうだ。それに僕の父が、俺にも言わせてくれ、と言うので一郎をくっつけたのだ。それで毅一郎 ということになった。横田君や、高橋先生にどういう経緯で同じ名が付けられるようになたか聞いてみるのも面 白いだろう。

 さて、この毅という漢字だが、現在当用漢字の中にはなくて、人名用漢字の中の九十二字の中の一つである。だから言うなれば同名を持つ赤ん坊がこれからも 生まれてくる可能性はあるわけだし、それにわざわざ人名用と特選された漢字であってみれば人情の常としては余計に使ってみたくなるものだし、人名において のみしかお役に立ち得ないのであるから人の同情をも引いて、毅の使われる率は他の漢字に比してより高いのではあるまいか、と希望的観測をしているのだ が・・・

 人が自分の名前に心理的なある種の影響を受けることは、確かな事実である。私は、毅の入った熟語に殊の外敏感だった。剛毅、毅然、とかいう成句が出てく るたびに身の引き締まるのを感じたものだった。いや今もってそうである。特にこの毅の入った言葉で、価値的に悪いものであった例しがない。いかにも男らし い男の中の男を褒め称えて”剛毅の若者は、気を失いし愛しの乙女を抱きかかえて、ひらりと馬にまたがるや・・・”であり、”畏れる様子もなく、ジャンヌダ ルクは、王の前に毅然として進み出た”とその乙女の信念に満ちた行動が描き出されるのだ。

 我知らず、この私が、毅の持つ魔力に捉えられないはずがない。私は、剛毅でありたいと願った。毅然たる行動を常にとりたいものと考えた。女々しさを否定 した。虚弱さを嫌悪した。私が勝ち気と言えるなら、この毅の感化を見逃し得ないのではないだろうか。

1960.12.1 Thursday

キーワード:映画「おとうと」

1960/12/1
Jeudi 1er Decembre
 
  私の自己紹介もいいが、二つ三つ忘れぬうちに書いておきたいことがるので、今日はそれからまず始めよう。

 私はこのごろあまり映画を見なくなった。法学部に行くことになって忙しくなったせいでもあるが、見たいと思うほどにいい映画らしいものに出くわさなかっ たせいもある。

 先日めずらしく日本映画に行った。この正月に邦画を見てから実に十一か月ぶりである。そして二本立て、四時間あまりの映画にすっかり感心し、日本映画を 見直して帰ってきたのである。

 ”おとうと”は幸田文の小説の映画化である。監督・市川昆。主演は岸恵子、川口浩ら。

 実にいい映画だ。映画を見ながら、涙をぽろぽろとこぼした。カラーがまたいかにも渋く、映画の内容とよく溶け合って、むしろ厳しいほどの映画の世界を形 作っていた。映画自身の持つ情緒が観客の胸の隅々まで染み渡るようなそんな色合いであり、不思議な美しさがあふれていた。

 それに岸恵子と川口浩が見事な姉弟を演じている。心と心の美しい交流が素直な彼らの演技の中にきわめて詩的な情感をもって描かれている。特に優れたシナ リオのせいでもあろう、一つ一つの言葉が実に生き生きとしていて、まことに爽やかな姉弟愛を美しく浮き彫りにしている。

 私が涙をこぼしながら見たのはどうしてであろうか。理由を今から捻くりだしてくっつけてみるなんて、野暮なことかもしれない。映画を見ながら、もう我知 らず涙をこぼしていたのだから。だが、確かに涙をこぼさせるものがあった。あのときは実に悲しかったのだ。人の心情の美しさに泣けたのであろうか。姉弟愛 の美しさに涙したのでああろうか。もはや二度と帰り来ない過ぎし日に対する、喪失感が、私のまぶたに追憶の涙を浮かべたのであろうか。心の交流を未だ知ら ぬ 、私の飢えた心の、憧れの涙だったのであろうか。

 あの映画のいいたいことは何なのであろう。人間は結局みんないい人なんだと言いたいのであろうか。それはそれとして一編の映画を作りうる材料を提供する であろう。そしてこの映画から私の感じたものの中の少なくとも一つの大きな感慨であることは確かなのだ。それに姉弟愛の美しさを描きたかったのかも知れな い。いや実際それが描かれているのだ。
 
 市川昆がこの作品を作るに当たって持ったであろうヴィジョンはこんなものではなかったか。つまり、映画詩とでもいうべきもの。あの映画から受ける感じ は、細やかな川の水の流れの上に描き出された叙情豊かな詩というようなものであった。類い希に美しい人生の、この世界の中の、一こまを、さらりと描き出し て、それを一編の映画詩というべきものにする。それはもはや、見た人には生涯忘れられぬ 、清冽な、印象を胸底深く焼き付ける、そんな映画を作りたいと考えたのではなかろうか。そして作ったのだ。

 

年月日 曜日 日記本文
1960.12.2 Friday

[キーワード:山本薩夫監督 武器なき闘い  山本宣治]

1960.12.2

 書きたいことが二つ三つあるなぞと書きながら、もう二つ目を書くときは一日後である。
 
 実は、二本立ての映画のもう一本は”武器なき闘い”なのだ。監督が山本薩夫というだけである種の映画の内容を予想する人もあるだろう。小さな独立プロダ クションで仕事する日本では極めてまれな自己の主張を持った監督だ。自分の作りたいものしか作らない。それも社会問題と取り組んだ、実に内容豊かな作品ば かりなのだ。以前に”荷車の歌”を見た。

 今度の”武器なき闘い”は山本宣治の半生を描いたものだ。折しも浅沼稲次郎がテロの兇刃に倒れるという暗い事件の起こったのと、時を ほとんど同じくして、今を去る三十年昔のテロを扱った映画が偶然にも出来たことは興味深い。もちろん偶然と言えるにはせよ、河上丈太郎、岸信介殺傷事件と 続いたテロ的行為が何らかの形で山本監督にこの映画を作るきっかけを与えたのかも知れない。この映画のテロのシーンを見た者は、改めて、浅沼氏が壇上で倒 れたフィルムを思い起こしたことであろう。テレビ・フィルムではそれほどリアルでクルエルでなかった場面 を、映画が圧倒的な迫力のある・凄まじい構成の下に描き出したのを見て、もう一度浅沼事件の持つむごたらしさを思い直したのだ。二度とあってはならぬ もの、あれほど残酷な非人間的なものが断じて許されるべきではない、と痛切に感じたのだ。

 山本宣治について僕はあの映画を見るまで何も知らなかった。あの映画を見ることによって、日本にもすぐれた人物がいたんだということ を感じた。

 ものすごい弾圧の最中に、一人己の信念を貫き通した偉大な人物が日本にもいたんだと、胸を熱くしながら鑑賞した。山本宣治の母親も実 に気性のさっぱりした人で、大好きになった。我が子が非業の死を遂げたと聞いて涙一つ見せず

「私の子は何か悪いことをやるようなことはありゃしません。どうして殺されたかはっきりお調べのつくまで私は泣きやしません」

と言い放つ。あのシーンには、こちらの方が泣いてしまったのだ。

 宣治は何ら偉ぶるところのないきさくな人好きのする人だった。金と権力の力を借りて、徹底的に選挙妨害する対立候補を見事に破って当 選するほど民衆に愛されていた。病床に当選の知らせを聞いて、「大衆の力は偉大ですな」としみじみと語る感慨は、大衆の力の偉大さに結びつく氏の偉大性 あって、初めて言えるものなのだ。

 映画の技術的な批判をすれば、最期の方の終戦後のシーンのみが、カラーになっており、まるで、和服に革靴を履いたみたいで、何と言っ ても変だと言わざるを得ない。

 ほうぼうの実録のフィルムは有意義だった。特に、ものすごい国家権力の圧力の下でなお盛んにデモが行われている写 真には、今日この頃のデモの参加者と引き比べて、その精神的な心構えというものに雲泥の差があると感じられて、我知らず恥ずかしく思った。

 

1960.12.3 Saturday

[キーワード:我妻栄 民法講義]

1960.12.3

 言っておきたいことのその三。

 我妻栄大先生のこと。先月二十九日、神田の学士会館で緑会大会があった。会費200円也で参加してみた。十時半の開会予定なのに十時 まで加藤先生の講義があって、会場に着いたのはすでに十一時半に近かったろうか。緑会の先輩、多士済々の挨拶は”できるだけ時間内にお願い”されている頃 であった。この挨拶に対する時間的制約は食事時間に近づくに従い、更には食事時間に食い込むにつれ、「三分内で」となり「一言、二言で簡潔に」となって いった。

 その挨拶の最期に立たれたのが我妻栄先生であった。先生の話は法律相談所の講演の時にも伺ったことがあり、そのユーモアに富んだ話術 のさえはすでに知るところであったが、その日の話も滋味に富んだ有意義なものであった。

 桑を食え!

 これが先生の我々学生に向かって言われた言葉である。蚕はその幼虫の時代に一心桑を食い続け、あの美しい絹をはき出すのである。諸君 がいざというときに美しい絹をはき出すためには今桑を食っておかなければならない。もしそうでなかったら諸君は自らの、ハラワタをはき出さざるを得ないで あろう。

 先生は見るからに穏和な好紳士である。足が悪いようで、いつも松葉杖をしていらっしゃるけれど、話すときなどはちゃんと立って話され る。笑みを浮かべながら、少々歯切れは良くない声で、話しかけられる。我々が民法講義などを読んで感じるような鋭さを感じない姿をしていらっしゃった。

 こういった先生の話なり、ご様子なりが、大いに私の関心を引くところとなり、その後行われた会食の時には僕は先生のすぐ隣の位 置を占めたものだ。先生は足がお悪いので、一人椅子に座っていらっしゃった。もちろん、乾杯の時にはお立ちになられたけれど。我々は先生の周りに人垣を 作って、先生の話を拝聴した。僕が一番近いところにいたのだから、いろいろとお尋ねしたり、相槌を打ったりした。

(ここから、12月5日)
 そして先生が今日壇上でもう一つ話しておきたかったということを引っ張り出すことに成功したのである。
 自分は、名誉教授という肩書きしか持たない唯一人の名誉教授だ。他の人は、他の大学の法学部長となったり、総長になったりしているけれど、私はこういう 人も一人ぐらいいてもいいと思う。だけど、何もやっていないと思ってか、方々からいろんな仕事を持ち込まれて困る。自分には民法講義を完成するという大き な仕事があるのだ。だからその仕事に精魂が傾けられるようにして欲しい。諸君が、我妻は今民法講義を書いているだから雑多な仕事を持ち込まないような雰囲 気なり評判を作って欲しい。また、生活もやっていかなければならないから、私の本を沢山買って欲しい。

 眼鏡の奥の先生の目はいつも微笑んでいる。

ーー先生はやっぱり民法講義を完成なさるおつもりなのですか、
と愚問が出た。

ーー世界中で民法講義が完成出来るのはこの俺だけだ。世界中でああいう本を書いた人はまだ一人もいない。俺がやらなければ誰がやるん だ。

 まさにこの人をおいて誰がこの言葉を言うことが出来るだろう。学問をする人にとってこういう言葉が言えるという仕合わせに過ぎるものがないであろう。

 

1960.12.6 Tuesday

[キーワード:我妻栄]

1960.12.6

 昨日書いたことの中には少々記憶の正しくないところがあるので次のように訂正したい。確かに学生の質問にはそういったものもあったことは事実であるが、 その前にこういう質問があったのである。

ーー先生は、最高裁の裁判長をたとえ頼まれてもお受けにならないと言うことですが、裁判長の仕事は今日において充分重要だと思うのです が。
ーーそれはそうだけど、ワタシにはもっとやらなければならぬ重要な仕事がある。民法講義を完成しなければならないんだ。ああいう本を書いた人はこれまで世 界中に誰一人いない。あの本を完成できるのはこのワタシをおいて他にはいない。

 確か、こういう経緯であったと思う。

 親っていうものはこういうものでしょうね、という話もあった。民法研究という厳しい道には子供を踏み込ませる気にはなれなかった。出 来るだけ子供のしたいことをやらせている。長男は今アメリカに行って・・・次男は産婦人科医をやっていましてね(笑い)

ーー岸首相について一言?
ーーあまりに秀才過ぎますよ。

 私は先生に日に何枚ぐらい書けるものか等ともうかがってみた。最初に色々と資料を集めたり基礎的なことを研究したりするのが大変だそ うで、一旦準備がなれば日に200字詰めで200枚位 書けると言うことであった。親族相続編を来春までには出したいとのことである。民法を学ぶものにとって大きな喜びとするところであろう。

ーー加藤先生は先生の民法講義を使っていらっしゃいます。どうせ使うなら、一番すぐれた本を使うのが良いからと言って・・・

 先生はなあにといった調子で笑っていらっしゃった。四月一日生まれの先生はまさしく民法学者たるべく、お生まれになったようなもので あるとも言えるであろう。民法講義全巻の完成が一日も早くならんことを!

 

 

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