筆者、20歳〜21歳、大学二〜三年生当時の日記の 連載を始めます(2002年9月26日)
日記の部屋1961-05/Diary1961 -05


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(2002/9/26)

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近く文芸日記1962の連載を開始します。

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日記1961(1960/11/28から1961/7/20)

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日記1960(1960/1/8から1960/9/22)

1
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1960 年11月〜12月

1960/11/28
1960/12/1



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年月日 曜日 日記本文
1961.4.5 水曜日

1961/4/5(火曜日)風強し。

■家から速達で戸籍謄本が送ってきた。(45円切手)移動証明書。

■何気なくそのまま今日の出来事を書き始めては気が引ける。なぜって?訊き給うことなかれ。訊き給う前に,今日の日付けをご覧遊べ、と 言いたくなる。

オヤオヤ三月はどこへ行っちゃったんだい。改めてこう尋ねたくなるんじゃないかな。

我ながらこんなに長く、日記を書かなかったんかしらと少々不思議がっているようなわけなんだから。三月を丸一月完全にすっぽかしてしま うなんてと今日記を開いて見て自らの怠慢さ加減に驚いた次第なんだから。月日の経つのは…なんぞと今更嘆き返してみても始まらないとすれば、今日が四月の 五日であることこそをしっかりと認識すべきかしらん。

それはそうとして・・でもあるまいが、とにかく今日日記を開いてみる気になったのは書きたい何かがあったからこそなのだ。

  今日、川崎の山口忠策氏の宅に訪ねていった。氏の奥さんの敏子さんは、僕の父方の祖母の妹の娘でこの三月島原を訪問してこられたと いうので、今日の強風にもかかわらず、お伺いしたっていうわけ。

東工大一年のヤスシ君、身長が彼より五センチも高く176センチの弟の人、それに忠策氏の兄妹の人五人がちょうど来ていらしてたのでそ ういった人、それに敏子オバさん、犬のメリーなどと初対面の挨拶を交わしたのである。コロンビア製品の立派なステレオ装置で、十分音楽を楽しんで、夕食を ご馳走になって帰ってきた。ヤスシ君とは、是非五月祭にはいらして下さいと、バス停まで送ってもらって別れた。彼のお姉さんらしい人はチラッと見かけたけ れど、帰りも遅かったらしく、テレビを皆で見ていたりしたのでお会いできなかった。(残念!)。

川崎に行く途中、有楽町あたりで三人連れの外国人の女性が乗り込んできた。母と二人の娘らしかった。一番下の12、3歳らしい女の子 が、それはとってもチャーミングなのだ。田町に電車が滑り込んでドアが開くと、その母親が隣の35,6年配の三人の子供連れに女の人に”タマシ?タマシ? と少々不安げに尋ねた。その女の人が何にも答えないものだから、あわてて辺りを見回して僕のほうを見た。その母親の前に二人の娘が立ち、その娘と僕との間 にもう一人男の人がいたけれど、僕は少々答えの準備があるようにその母親のほうに腰をかがめていたのだ。

「タマシ?」「イエス、タマチ」と僕が言うと彼女は安心したようだった。

「Where are you goinng?」と僕が訊くと、「シナガワ」と彼女が答えた。「next」と僕は言った。

 明らかにその二人の娘は僕に興味を覚えたらしかった。一番僕より離れた吊り皮を握っている末娘の方が母親の方に問い掛けるようにして 腰を曲げたけれど、その顔は下から掬い上げるように僕の顔を覗き込んだのだ。その大きな美しい瞳は忘れられない。あのサンドラ・ディにも似かようようなあ どけない可愛さがその顔にあった。白い肌、ブルーの眼、褐色の髪。何にも増して、その少女期特有の生き生きと瑞々しいかすかなほほえみをのぞかせた赤い 唇。

お姉さんの方は僕くらい身長があった。決して美人でないとはいえないが、少々魅力に乏しかった。顔立ちも、妹に似て非なるものあって、 ちょうど今、あどけなさの魅力が失われ、本当に女性らしい魅力が芽生えて来ようとしている時期の女の子にありがちなある種のちぐはぐさがあった。品川駅に 国電が着くと、母親は立ち上がって私のほうにほほえんだ。私もほほえみ返した。

■4月6日に進学手続きを行う予定。今日家から戸籍謄本も送ってきたし、後は6日に写真ができるのを待つだけ。(午前1時ごろ)

 

1961.4.6 木曜日

1961/4/6(水曜日)

■私が再び日記をつけ始めたということは、私に再び理性が舞い戻ってきたということを意味するのかもしれない。理性が私に舞い戻って来 るにしたがって、私は自分自身のこれまでの不真面目な生活に必然的に批判の目を向けざるを得なくなる。その批判を日記に記したくなる、というわけなのだ。

だからこそ私の日記にはしばしば同じような内容の、自分の怠慢さ、自分のいい加減さ、自分の性格的な貧しさ、に対する慨嘆によって埋め られるのだ。

私が日記を欲するのは、旧友を欲するのと変わらない。自分の恥ずかしい全てを打ち明けて、それに対する手厳しい非難を承知しながらも、 その奥に流れる暖かい友情を感じ取りたいという気持ちからに他ならない。ああ、今日まで俺はなんと情けない奴だったろう。と嘆きながらも、そうした自分を 許しているのだ。如何に激越した悪罵を浴びせ掛けても、心の奥では、抱きしめて、頬ずりしたい、可愛くて仕方のない、自分なのだ。

私は例えば次のように自分の悪行を並び立てる。三月丸一月俺の読んだ本といえば、たった一冊、日本経済入門があるだけではないか。英語 の文章を十行と読んだか。法律の本に指一本触れなかったではないか・・・ 

  私はこうして暴き出された悪業の恐ろしさに改めて震え上がるのだ。こうとはっきり認識しないで犯してしまった数々の罪悪は、間違い なく私に胸を押しつぶしそうな火曜日

1961.4.7 金曜日

1961/4/7(木曜日)

■Abshied to my childhood!

 ■こういう気持ちのことでもいうのだろうか。何もかもがすべて楽しく感じられてしかたがない時、オが切れてもおかしい乙女の気持ちと いうのは。とにかく幸福感で私の心は満ち満ちている。こうも言えばどうしてだって訊かざるを得ないところがこっちのつけめだが、実はこうなんだ。

  今日東京タワーに初めて行った。そこで、実に多くの外人に話し掛けたんだ。思い出すままに連記すれば、まず、ロサンゼルスの夫婦連 れの人。次がカリフォルニアの先生をしているご夫婦。その次に三人連れの親子。次にMr.ハリンソン。

  一番最初のご夫妻は一番最初だから一番難しかった。話し掛ける気になるのが。実はまずご主人の方に話し掛けようと思ったが、ちょう どいい具合にご婦人の方が僕から4、5メートルのところにいらしたので勇を振るったというわけ。この婦人はとっても面白い人で、彼女にNEWSの東西南北 を教えてやると、とっても喜んでいらした。それにタワーの意味が”塔”であり、五重塔の塔と同じ意味だということがやっと通じた時は僕の方でも彼女の方で も、もう嬉しくて仕方がなかった。Oh you teach me,teach me.と言って大変喜んでいらした。すでに京都・大阪・奈良を見物していらしたとかで、フィジー諸島、ニュージーランド、オーストラリア、フィリッピン、 ホンコン等等見学を終えて、さてこれから6時間ジェット機で、アラスカへ、それから6時間またジェット機で、故郷のロサンジェルスへと、明日で終わる旅行 を楽しまれるということであった。実に感じのいい人たちであった.

 次が黒人の方で、学校の先生である。私は先生だけど、あなたの英語はとってもうまいと誉めて貰ってどうもありがとうといったものだ。 これが私の妻です、やはり、先生をやっています、といって紹介してもらった奥さんからも、英語がうまいと誉められて恐縮の至りであった。是非文通したい、 アドレスをくれというので、書き付けてきた。名刺はもちろん貰った。今度の東京オリンピックの時はまた東京に来るとかでその折は私のところへお立ち寄りく ださいと言っておいた。来月の四日まで京都や、奈良等を見るそうで、僕が日本の印象はと訊くものだから、旅行が済んだら早速そうした印象を書き送ってあげ ましょうと奥さんの方が言った。I look forward to hearing from you.と答えたものだ。

 その次が、13歳の男の子とご夫婦。日本に来てからまだ二日だそうで、東京だけ見て、ホンコン、セイロン、ボンベイ、サウジアラビア 等に行かれるのだそうだ。そのとってもスマートな少年は絵が大好きだそうで、それじゃこのタワーからの景色を絵にするつもりかと訊くと、奥さんが笑ってお られた。

 最後に会ったのがMr.ハリソン。67歳の好紳士である。43年間勤めた銀行を退職して今は旅行を楽しんでいらっしゃるのだそうだ。 実はこの文を書き始めた、50%以上の理由はこの人にあるくらいで、この人とはタクシーで帝国ホテルまで一緒に行くくらいのいい仲になってしまったのだ。

まさに温厚そのものの如き人で、帰ろうとしてエレベーターの前に並んだら、あっしまった、チケットをなくしてしまったと言って真顔で心 配そうにあちらこちらのポケットの中を捜しまわっていらっしゃる。どんな重要なチケットかしらんと心配すると、どうも東京タワーの入場券であるらしい。僕 のポケットに中に同じチケットがあったのでそれをあげようとすると、いやけっこうとおっしゃる。いや僕はいらないんだからと言うとそれではと済まなさそう に受け取られる。とパンフレットの中にそのチケットが見つかった.いやこいつはどうも有難うというわけでチケットを返される。お家まで持って帰られるつも りなんですか。と訊くと、ええそうなんだ。このパンフレットもね。家に残っている妻のためにね。Oh you are a very good husband!

タクシーを拾ってあげて、一緒に帝国ホテルまで行った.そこに着くと、わざわざボーイがタクシーの扉を開けてくれた。辺りは外人がいっ ぱいだ。 I must say good bye now.

と僕が言うと、心から僕に感謝された.しっかりと手を握り締めて何度も何度も、どうもありがとうを繰り返されるのだ。

1961.4.7 金曜日

 

僕は今日一日とってもいいことをしたと思うのだ.人間の感情にそう隔たりがあるはずがない。僕だって外国へ行って誰かに話し掛けられた らどんなにか嬉しいだろう。ましてや、タクシーを拾ってもらったり目的地まで連れて行ってもらえたとしたら、言葉の通じない国では、本当にありがたいに違 いない。汝の欲するところを他にほどこせである。私はその通りやったのだ。東京タワーの五階から地上までの階段を、21歳の僕が67歳のハリソンさんの腕 を取ってゆっくりと歩いたのである。

 こうした外国の人々すべてが口をそろえて日本は素晴らしいと激賞した。一番最初のロサンゼルスのご夫婦も、ハリソンさんも今日とは殊 のほかお気に入りらしかった。

フィラデルフィアのハリソンさんは、日本人はすばらしい国民だ。日本はすばらしい国だと、ワンダフルワンダフルと語気を強めて繰り返さ れた。それに日本の女の人はとってもプレティだ。微笑がたまらない、と。

 東京タワーからの眺めも全部の人がとっても素敵だ。とおっしゃっていた。

ハリソンさんはこの後、五月三日までハワイ、カナダ、ニューヨークなどを見物して廻られるそうで、もうヨーロッパには三回もお行きに なったとか。北はスウェーデン、ノルウェーから南はイタリアまでほとんどの国をご覧になったそうだ.それぞれ違った趣があって何事も一概には言えないとき わめて慎重な話し方をされる方だけど、日本の美しさはとにかく素晴らしいと言っておられた.横浜港に現在停泊中のカロリナ号での遊行で、明日出発。今夜 は”オドリ”をご覧になるのだそうだ。

 愛妻に、東京タワーの入場券の半券まで持って帰って見せようと言うハリソンさんである。きっとこの僕のこともその入場券にまつわる話 題として奥さんにお話になることであろう。一人の親切な日本の学生の存在が、遠く海を越えた外国の居間で、話題に上るとしたらそれはどんなにか嬉しいこと であろう。微力ながら国際親善に一役買ったような気さえするのだ。

ハリソンさんは、アメリカも実にいい国だと話された.ワシントンは最も美しい街だと話された。白く美しい街並み、グリーンとホワイトの 調和等等。僕もいつかアメリカに行ってみたいと言った。ハリソンさんは、サンフランシスコをご覧なさいとおっしゃった。

 

1961.4.13 木曜日

1961/4/13

昭和三十六年四月十三日付け朝日新聞朝刊(十二版)は、最大の大見出しをつけて、その一面全てを同一の記事で埋めた。「ソ連、人間衛星 を無事帰還さす」がその大々見出しであり、その詳細が一面を埋めつくす記事となっているのだ。

「マラジューツ(でかした)!」

全世界がその素晴らしい出来事に心からこう叫んだに違いない。人間の歴史にまさしく一時期を画する大事件として私は高く高く評価すると ともに、この時代に存在しえたことを誇りに思うものである。

 

1961.5.7 日曜日

1961/5/7

今日日記をつけようとこの頁を開いてみると、前頁にソ連の人間衛星の成功の記事がある。そこで、昨日の朝日新聞の一面トップ記事をここ に記しておく必要がありそうだという気が起こってきた.ソ連の時のように大大見出しにならなかったのはその成果の価値の小ささによるものだろうか。「米の 人間ロケット成功」の記事が一面の約三分の一を占めている。五日午後11時34分十三秒(日本時間)に打ち上げられ成功したものである.

 

1961.5.7 日曜日

 

私が今日まであまり日記をつけなかったということは、日記にさえ隠しておかなけれ ばならないようなこと、後日読み返したら赤面せざるをえないようなこと、誰かに覗き見でも困るようなこと、毎日毎日臆面もなく繰り返していたことを示す最 も有力な証拠となろう。世の中でなにより悪いと言って、自分自身に恥じねばならぬようなことをするほど悪いことはあるまい。この最低の状態から今日限り きっぱりと抜け出したい。

 

1961.5.7 日曜日

 

私が日記をつけなかったということは私が何事をも考えずに過ごしてきたことを示 す。よしんば何事かを考えてたとしても、日記に記さない以上、水泡にも似て存在性を主張できまい。さらに日記をつけないことは私の文章力の低下をきたす。 毎日毎日苦心して文章を書いていくのでなくては、美しい、読みやすいものは書けないものなのだ.自分の思ったこと見たこと感じたことを、ずばり的確に表現 できる文章力が欲しいものである。

 

1961.5.7 日曜日

 

よしんばそれが恥ずべきことであったにせよ、確かにそれは貴重な経験であったには 違いない。その多くのものが私の不精と考え違いのために闇から闇へと葬り去られてしまおうとしている。この数ヶ月間の意義ある見聞と体験と思考がことごと く永久に飛散してしまい、残るのは後悔と淡い哀愁のみとなろうとしている。この数ヶ月間の私の存在を証明するものは何もない.完全なアリバイが出来たこと を喜ぶには私はあまりに罪が軽い.

 

1961.5.7 日曜日

 

女性。私に女性観なぞという確立したものがあったろうか。漠然とした女性に対する 見くびりが私の女性観をなしていたのではあるまいか。女性。その性の優れたる素性を私はこれまでやすやすと見逃していたのだ。その恐るべき存在性を見落と していたのだ。彼女たちは僕のような青二才が考える以上に、我々男性が想像する以上に、優れた直感と洞察力を持っている。我々がうまくごまかしたと考えて いるとき、多くはうまくごまかされた振りが出来たと彼女たちが考えている場合である。我々が何かの弾みにひょいと漏らす本心に彼女たちは想像以上に敏感な のだ。しかも、そうした男性側が負い目に感ずる機会を非常にうまく利用するすべを知っているのだ。我々が女性と接する場合、もしその偽らざる本心を持って しないならば、決してうまくいくことはないだろう。我々の側のちょっとしたごまかしにでも彼女たちは、本能的に不安を感じ取ってしまうものなのだから。

 

1961.5.7 日曜日

 

五月五日子供の日に、井の頭公園で散々遊び興じていた僕たちには、まるでそれが遠 い子供の日、あの島原第一小学校の校庭で、またあの島原第一中学校のグランドで、ともに遊び興じていた日が再現したかのようにさえ思われたのだ。

年月は確かにその絶大な力をもってあの懐かしい少年時代を二度と帰り来ることのないものにしてしまった。しかしその年月の絶大な力を もってしてさえもが、我々が小学時代からの、中学時代からの、八年と言う月日が、五年と言う月日が、まるでなかったように感じるのを妨げることは出来な かったのだ。

島崎は、小学六年の時そっくりによく三振した。市川辰っちゃんのバットの振り方も中学三年の時と少しも変わっていなかった。内田が、手 に白い包帯をしているのは、手の甲に出来た無数のイボをシュウ酸で焼いては包帯をしていたのと少しも変わらなかった。西村が大きな声でアジャーアジャーと 下唇をとんがらせていたのは、ネクタイを締めた、GI刈の今もそのままそっくり残っている。寺中がその大きな口を柔らかくパクパクさせて、きわめて用心深 く、どもらないようにしゃべりだすのも変わっていやしない。岩永のやや猫背気味の柔らかい物腰も、中川の掬い上げるような捕球の動作も、榊原のバットで ベースを叩いて構え、乱暴にバットを放り出して一塁に駆け込むのも、みんなみんな島原の匂いが色濃く染み込んでいて、あの過ぎし日を髣髴とさせる。

僕らが野球をやっていたら、田村、橘田、田中、神田などの女の方が、参加を申請してくる。そこで、野球に打ち興じていた我が森岳会は新 たなる名誉会員を得ることができたのだった。

帰路新宿の風月堂でそこでボーイをやっている東君に会う。彼もこの会の会員の一人だ。光永さんも遅れてやってきて、ずいぶん懐かしい顔 が、この東京の一隅に勢ぞろいした。思い出が思い出を新たに作った一日だった。(5/8午前2:00)

 

1961.5.12 土曜日

1961/5/12(「土曜日)

「何でも見てやろう」この痛快なベストセラーは私の心を壮 大にした。昨日今日の二日で、それこそ一気に私はこの本を読み上げた。こんなに 一息に私はこのところ本を読み下すことはなかったのである。言ってみれば、この 本、まるで西欧が私の肌にぴったりである以上にぴったりした感覚で満ち満ちてい たのである。私も旅行するとしたらこんな旅行をやるだろう。と、いいたいぐらいな のだ。この小田実君の旅行っぷりは。

もちろん、確かに私には彼のごとくには旅行は できぬことはわかる。しかし、あくまで理想としては彼の如く、なのだ。何と評し たらいいのだろう。まるでエネルギーの権化の如き彼の旅行を。人間はかくも痛烈に 生きられるということを、彼は私のネボケマナコの前にまざまざと見せ付けてくれ たのであった。

ギリギリに生きること、それは決して生易しいものでないだろう。自己の全生存を 日日に賭けて行き続けて行く事。動物的な生存と、感覚と、人間的な生存と思考の 全てをギリギリにまで緊張させて行き続けていく事。まさにそれは圧倒する力を持 っている。揺さぶり動かす力を、揺さぶり倒す力を、持っている。何を圧倒し、何を 倒すのか。私の全生存をである。私は彼のギリギリの生存に対して、私の全生存を 持って立ち向かわねばならなかったのだ。そしてその全生存を揺さぶられ続けてい るのだ。

私は彼の如く旅行したいと言った。そしてそれをあくまで理想としてか言え なかったのだ。私はこの本を読みながら自分自身を試さないわけには行かなかった 。

エジプトを行く彼を、ベイルートを行く彼を私はいつしか羨望のまなこで見つめて いたのである 。

羨望。それは彼の如くそこに行きたい故の羨望ではなかった。そこに行くことので きた彼に対する羨望であった。私にはそこに行くことが出来ないであろう。その弱い 私と強い彼との間の隔たりに対する羨望であった。彼自身の言うように、ベイルート の、イランの、インドの、その真の姿を直視できずに、もはや我々は、何事も語り えないであろう。肌でアジアの数十億の人民を感じなくては我々はもはや、明日の世 界に、未来を作り出す働きをなしえないであろう。それを知りながら私はアジアを 恐れたのである。

そこにある不可解なもの、西欧以上に私にとって異質なものであ るオバケ的なアジアを恐れたのである。私自身、金髪と真白い肌の美少女と、それ こそ楽しく語り合う事を夢見ても、インドのアンタッチャブルの中でオーバーに包 まって街路 に一夜を明かしたい気にはならないのである。

口では私は容易に、一つのアジア !と叫ぶ事ができるであろう。いや、実際に叫んできたのである。しかし、そのとて つもなく大きく、とてつもなく不可解な、とてつもなく貧困なアジアの同朋のこと を問題として取り上げ、それに取り組むこと以上に私はもっと楽をしてうまく西欧 と渡り合っていきたいと感じるのである。

アジアの同朋と言う言葉一つにしてが、私 にとってこれまで何と無内容に使われてきた事か。その実体の何かも知らずに私は 盲ものに動ぜずの如く、同朋同胞と観念してきたのであった。

小田氏がこの本で問 う、西欧対東洋の問題を解決してからでないと、その問題に対する私の立場を明ら かにしてからでないと安易に使えない言葉なのだ。実は私は彼らの敵になる可能性 も、彼らの裏切り 者になる可能性をも持っているのである。観念的に彼らの友であることほど彼らにと っての卑怯な態度はないであろう。彼らに対する裏切り行為はないであろう。その 貧困と腐敗を少なくともこの本を読んでであれ知りえた以上、そのどこから手をつ けていいかわからぬエタイの知れぬものに対して、敢然と取り組んでいく覚悟を決 めるか、我々の肌に合った西欧とうまくやってアジアにそっぽを向けつづけていく かの決断を下ろさないでは私は一歩も前に進み得ないのである。

これは私のとって非 常に大きな問題だ。軽軽しく答えられないのである。少なくともこの本を読んで私が 自分の全生存を揺さぶられたというのはこの意味を含むのである。私がアジアにと って確固たる同胞として留まりつづけるか否や。もっと正確に言えばこれまでは西 欧のみの同胞 であった私が、新しくアジアの同朋として出発し直すか否かという意味を。

この本 は自らの安易な生存に対する警鐘でもある。私は小田氏の如く、すさまじく生きた いものである。

 

1961/5/22 水曜日

1961.5.22

 安田講堂は、当の私が一番後の壁にもたれて立っていたのだから、もう空席一つな く、観客でいっぱいであった 。

 五時ちょっと過ぎだった。五月祭の二日目、プログラムは祝典音楽会がちょっと 一息ついて、男声合唱団が退場 していた。場内アナウンスが、次のプログラムを紹介した。三十五年度入選応援歌の 発表というのである。

 まったく イイ時に来たものである。とにかく発表会に間に合わなければ意味がないので、早 過ぎて来てもいいにはいいが、 講堂に入ってまず最初に聞くアナウンスが、我が応援歌の発表の発表であってみれ ば、まさしくグッドタイミング と誇らないではいられない気持ちであった。

 およそ、四・五十人程度の管弦楽団と九十人のコール・アカデミーとがややあっ て登場する。楽器の調整がしば らくあって、クリーム色の背広を着た指揮者早川正昭氏が颯爽と舞台右手から現れ る。場内、拍手。指揮者の右手 がさっと上がる。沈黙指揮棒が打ち下ろされる。

 その一瞬、ヴァイオリンの弓が弦 の上を走り下り、打楽器のバチ がドラムを叩く。停止して動かない指揮棒と、躍躍として動き回る指揮棒と、その 下にある二つの世界の間には、 決定的な違いがあるのだ。静から動への激しい飛躍がそこにはある。空気はピリピリ と引き締まったものへと変わ る。朗々とした管弦楽の音が場内を圧し、応援歌の曲を一回演奏し終る。次いで、合 唱と管弦楽の合奏が始まる。

「ドウコンハ今ゾキワマル・・・」

”堂々と速過ぎないように””静かに””だんだん力強く””ff”

  曲想にのって、男声四部合唱と大管弦楽団の演奏が渾然一つとなって、あるいは逞 しくあるいは静かに場内に響き 渡る。

 私の机の上から生まれ出た曲。今、歌っている人々をも、演奏している人々を も、そして耳を傾けている人 々をも、私のある力が支配しているのだ。自らの作詞の拙さに恥らいつつも、すで に客観的な存在と化したとはい え、なお我が歌である応援歌が、今こうしてここに、あらゆる人々の集中された関 心の対象として存在しているの を聞き、見るとき、私の心は嬉しさに震えたのであった。私は少なからず興奮した 。感激した。まさしく私自身の作 ったこの応援歌になぞらえて言えば、「歓喜(よろこび)は今ぞ極まる」であった のだ。

 最後に合唱なしで演奏がもう一度繰り返されて指揮棒が停止した。湧き上がる拍 手。私は心高ぶってその拍手の 音の高さが正当に聞き分けれれないほどだった。私自身この感激的な演奏に拍手を 送った。むしろ控えめに。

 

  水曜日

1961・5・22

本郷学生センターに英会話を習いに行きだしてから今日まで三回行った。

私はきわ めて積極的な学生の一人である 。自ら手を上げて答える。

先生はルース・ハープストという女の人。

 

今日ゼミナールの時間に私の今度発表することについてのメモ程度の事を言わねば ならぬ。現在23日の午前一時 五十分。用意は全然なし。おお怠慢よ。今日を限りに失せよ。少なくとも何らかの考 えをまとめなければならぬ。今 日の三時までに。

 

 

1961・5・24 金曜日

1961・5・24

■家から八千円の送金あり。実を言えば、この下宿に引っ越してきて以来、自宅へ一 回も手紙を書いていないのだ。 自分自身のダラシなさが情けない。明日はきっと書こう。

■法学部研究室の図書を伊藤正己先生の紹介で借りられるようになった。

今日早速 出かけて、ジュローム・フラン クの「裁かれる裁判所」と戒能道孝教授の法定技術を借りた。時間が五時までな の は残念だけど、欲しい本が容易 に見つかるのは嬉しい。

 

 

1961・5・29 月曜日

1961・5・29月曜日

  彼にとってそれは一つの固定観念だった。いつも頭にこびりついて離れないことだ った。

「おれは絶対に死なない ぞ。勝利の日までは、決して」

 彼に勝利として意識されたものは、彼自身にとって さえ漠然として取りとめのない ものだった。しかし、彼はなおも自分に言い聞かせるのだ。

「いつかおれが勝利する 時、おれはこの東京を支配し ている」

と。支配するとは?彼は好んでこの言葉を使うのだ。

「今に見ていろ、今に おれはお前たちの上に立ち、 おれの一挙一動がお前たちの関心を掻き立てるものになってみせる」

 これが彼の支 配の概念かも知れぬ。ふとこう した力の充溢を激しい人の波の中にありながら、満員電車の吊りがわに揺られなが ら彼は感じるのだ。あたりに蠢 いている人々の顔を例のぎらぎらした目でじっと見詰めながら、彼はこの力の陶酔 と同時に一種の恥辱、一種の寂 しさをも感じていたのかもしれない。

「彼らにとってこのおれはいかなる価値を持つのだ。まったくの他人。まったくの他 人は彼らにとって存在し なかったことと同じじゃないか。おれがどんなに偉大であろうと、おれがどんなに 優れた才能を持っていようと彼 らにとっては無縁ではないか。あの疾駆する自動車にはねられておれが即死しようと 彼らには何事をも意味しない のだ。昨日の交通事故の死亡者として、機械的に数字化されてしまい、ごく少数の人 々はあら昨日は5人も死んだ のねと言ってくれるかもしれない。だけど誰がその中に秘められた人生にまで思い を致すだろう。一人の有為な若 者が哀れにも夭折したと悲しんでくれるものがいるだろうか。

 おれはだから決して死なないぞ。自動車事故で死ぬなんてそんなバカらしい死に 方を決してするものか。今死な なくてはだめというのなら、せめて百万人に一人の奇病でなくちゃだめだ。おれは 断然生きる。その日まで。勝利 の日まで。高らかに大笑いしてこの人波を上から見下ろせる日まで」

 彼は忘れない。彼にとってまさしく恐怖の対象であった彼らの仕打ちを。彼が初 めてこの東京にやってきた時、 彼らは何と彼に冷たかったことだろう。冷ややかな顔をして彼らは目まぐるしく彼 の前を、完全に彼を無視して通 り過ぎたのだ。彼らは彼の劣等感につけこんで彼の魂が泣き叫ぶまで責めさいなん だのだ。彼には他人に道一つ訊 くことさえ恐怖だった。恥辱だった。顔赤らむことだった。二重の意味で。一つに は道を知らないという事。何打 こんなところも知らないのかね田舎っぺ君。彼らの目は彼を冷ややかに見下ろすに違 いない。他方に彼の田舎なま り。

「それでも日本語をしゃべっているつもりかね田舎っぺ君」

 彼は東京に復讐を誓ったのだ。今に見ていろ。おれはお前たちを支配してやるんだ。

■苟も人間としての自覚ある者にとって、情熱なしに為しうるすべては無価値だか らである。

■裁判の現実を知る者にとって、裁判とは信頼するに足るものであろうか。

 

 

 

1961.7.1 土曜日

1961・7・1

 目覚めたる知性は、音楽をもまた愛好せねばなるまい。

 ああ、メンデルスゾーン 作曲、ヴァイオリン協奏曲ホ短 調作品64。

 悲しくも妙なるヴァイオリンの響きよ。打ち震える乙女の胸の如くに 、静寂な夜のしじまに、高く低 く、脈打ち続ける。ヴァイオリン、ルソジェロ・リッチ。はかなきは音楽の調べか 。かくも麗しく、かくも気高く 、かくも愛しく、かくも、空し。胸えぐられる思いも切なく、心痛めて、虚空に放 つ、我一人の深きため息。心の 中に広がるファンタジーの世界よ。美しき思い出のみを求めて、さ迷い歩く、夜霧と 、灯火と、木の香りの薫る白 い砂利の小路。そのほのかに明るきぬれた小路。

 ああ、我が胸よ、汝、何故にかくも打ち震える。汝、打ち震える者よ。汝は我が 魂か。

 ああ、我は、我を忘れる。ひたすらに、哀しき調べの中に我を忘れる。哀しき調 べよ。そは、我が哀しき魂と、 共鳴りする二本の弦の如し。あらゆる思いを分かち合い、同じ憂いに思いを潜む。夜 よ。愛よ。哀しみよ。我が魂の 叫びよ。おお、汝ら一つのものにして、この法悦の言葉。

 世界を抱擁せよ。この美しき調べにて世界を覆い尽くせ。この小さき心持て世界を かき抱け。

 この切なさを、息もつきあえぬ胸苦しさを。哀しき愛の想いを。懐かしき遠き思 い出を。一人もだえる魂の苦悶 を。

 おお誰か知らん、ヴィオロンのかぐわしきあの調べを知らずして。

 クライスラー。愛の哀しみ。愛の喜び。

    ・・・・・

 音楽とは、何と不思議なものであろう。この一瞬にあるものは、単なる一つの音 に過ぎないのだ。かくもはかな き存在が、またとあるであろうか。時の流れの上に一つ一つの音が乗っかっている だけ、時そのものの如く、その 存在はあまりにも空しい。一瞬の後には未来永劫帰らぬ響きだ。急流に投げ込まれ た、花びらのように、アッと言 う間もなく、聴界から去っていく響きだ。我々の心のうちに、わずかばかりの感激 を残して、音楽は、常に、その 演奏が終わった瞬間にこの世から消えるのだ。我々の感激がはたしていつまで続こう 。あの恍惚たる感動は、音楽 が終わるや否や、好むと好まざるとにかかわりなく、人々の心の中で薄れ、もはや 、二度と法悦感を取り戻すこと はない。人々はあの音楽は「良かった」と過去形で語る事しか許されない。音楽は そのはかなき存在の中において のみ我々に意義をもっているに過ぎないのだ。

 

1961.7.1 土曜日

1961.7.1

 今日植木姉弟に渋谷で会う。もちろん初めて。

 落ち合ったのは、渋谷”でんえん ”。ついで映画見学。最後に、サラ バンで、エビフライを食べる。井の頭線の渋谷駅で別れたのが、十一時少々前位 。全部、彼女のオゴリ。いや、我 ながらだらしなく、全部オゴッてもらうことになってしまった。なにはともあれ 、深く感謝しなければならない。 人の良さは、植木さん一家の持ち味であろう。太平君は、兄さんに似ているとの電話 だったので、すぐわかった。 いや、後、五、六年もたてばますます、似てくるんじゃないかな、と思う。話っぷり も似ている。お姉さんの方は、 中学二年の妹さんに似た感じである。

「ボーナスが出たらウンとオゴリますから。家庭料理が食べられなくては大変でし ょう。来年から自炊を始めます からそのときはいつでもいらして下さい」

「それはそれはどうも」

 本当に親切である。よく気のつく人でもある。

「家庭の料理食べたいでしょう?」

  確かにそうなんだ。たまにはね。

 で、彼女にオゴられた映画ってのは、渋谷東急の「日曜はダメよ」と「エルマーガ ントリー」。どちらもアカデミ ー賞と関係がある。なかなか面白かった。

「日曜はダメよ」の方は、一人のアメリカ人がケチョンケチョンにけなされる。天 心無垢、自由奔放なる生活をエ ンジョイする娼婦イリアの前には、道徳も、哲学も、美徳も、一切通用しない。す べての固定観念が粉砕される。 物事にとらわれない健康さがエネルギッシュに溢れている。自由で伸び伸びと躍動 する彼女の生き方を、一体誰が 裁きうるのだ。

「エルマー・ガントリ」一人の強烈な臭みを持つ男の物語である。その名がエルマ ー・ガントリー。演ずるのはア カデミー主演男優賞をこの演技で得た、好漢、バート・ランカスター。

 えげつなさも、ずるさも、強引さも、やさしさも、真情も、汚さも、崇高さも 、あらゆる点で真に人間らしさを 持った男、それが彼なのだ。強烈なあくの強い個性と、攻略に長けた手腕と、比類 のない弁舌の才とを縦横に張り 巡らして、たちまちにして成功を手中にする。その逞しい生活力に我々はまず舌を 巻かざるを得ないのだ。自己に 対する絶対的な信頼、自分一つの手であらゆる機会をとらえては不可能を可能にし て行く力、一面、口先だけの如 くして、一面真情を持った人間性。ベッドに疲れきって倒れ伏したシェラにやさし く布団をかけて、花をそっとお いて立ち去る彼。あらゆる非難と罵倒と、投卵と投石の中に、敢然と立ち尽くす彼 。気絶したルルをやさしく介抱する彼。聖女シャロンの処女を奪う彼。日の中の彼女を狂気の如く捜し求める彼 。灰塵の教会から立ち去る彼。

 ど こまでが、でまかせとごまかしか、どこまでが彼の真意なのか。何が彼の策略か 、何が彼の真情か。互いに矛盾し 、互いに対立する彼の複雑さ。それ故に人間臭い。それゆえに愛すべき、好漢。 人生は、彼の如く、ダイナミックに劇的に生きるべきものなのか。

 

1961・7・2 日曜日

 

1961.7.2

 ルルにとってみれば、それはまさに前代未聞の大見世物になるに違いないものだ った。自分を、売春婦という卑 しい仕事に落とし込んだ憎いエルマーの、偽善と破廉恥が、人々の前にさらけ出さ れ、こっぴどく辱めを受けるに 違いない。人々の罵倒と嘲笑と、憎悪の渦の前に、なすことを知らず、肩をすぼめ ておずおずと壇を降りていくで あろう彼。それこそ、彼女が彼から負わされた運命の重荷に比肩する、まさしく彼 を悲惨のどん底まで一挙に転落 せしめる、彼女にとっては快挙でありうるのだ。

なによ、口先ばっかりでうまいこ とを言ったって。私は知ってい るのよ。あなたがどんな人間で、どんなに下司な男かを。偽善者!神を冒涜する者 はあなた自身でなくって誰なの よ。さぞかし面白いでしょうね。あの傲慢不遜のあなたが大衆の前でペチャンコに されて、首をうなだれすごすご 退散するとしたら。その顔が見てやりたくて私は今日わざわざこの大テントまでや って来たのよ。今に見ていらっ しゃい!

 昨日までの大入り満員ではちきれんばかりの大テントは、今日は空席のみが寒寒 と目立って、敵意と、憎しみと 、軽蔑と悪意のみに燃えた少数の影があるばかり。ルルは思わず口元をゆがめる。

「いい気味だわ。エルマーとシャロン尼のあの意気消沈した顔ったら。まったくお 笑い種ね。いったい、何が始ま るのやら。とくと見物させて頂きますわ」

 シャロンが説教を始める。しかし聴衆は、聞く耳を持たぬ悪意の徒ばかりなのだ 。ののしりとあざけりと、生卵 の棒杭が、壇上に浴びせ掛けられる。

「何よ、あのアワテフタメキ方。おやおや、神の使徒シャロン尼から、お偉方まで 、おっかなびっくり逃げ出して いくじゃないの、これであの傲慢な男の鼻も・・・」

 しかし、そのとき、彼女は見たのだ。壇上に一歩も退かず傲然と立っている一人 の男の姿を。

 あらゆる悪罵と、軽佻な揶揄との中に、敢然として、胸を張り、さげすみの投卵 と、悪意の飛石を、真正面に受 けて立っている一人の男の姿を。その男の姿が、彼女を目指して一歩一歩と近づい てくるのを知ったとき、彼女は 、恐怖の真っ只中に投げ込まれてしまう。裁かれているのは彼ではない。この自分 なのだ。彼が今一身に浴びてい る非難と憎悪はすべて彼女自身に浴びせられているものなのだ。彼女は彼の本当の 姿と言うものを知らなかったの だ。彼が一心に耐えしのいでいる試練の何と痛ましく残酷なものであることか。い かなる心の持ち主にしてか、か くも無残な艱難を、雄雄しくも人々の前に耐えうるであろうか。彼女の心も今彼と 同じ苦しみに捉えられる。だけ どあの多くの人々の前で彼女は苦しむ必要はないのだ。ああ、何ということをして しまったのだろう。こんなはずではなかった。許して。赦して。

 彼女は、追われるごとくに逃げ始める。じっと屈辱を耐え忍んでいたあの男の執 拗な目が私を追ってくる。ああ、あの軽蔑に満ちた目が耐えられない。今一番軽蔑 されている者はこの自分なのだ。彼の目は、悪意のしかし無知な人々を赦しても私 を赦しはしないだろう。

 かくも壮烈な逞しさを持った男。私は誤解していたのだ。彼が私の部屋を訪ねた とき、私は一緒に寝ようと言った。彼はそれを敢然とはねつけた。しかも、私に仕 送りまで申し込んできた。彼にも、いや彼こそに人の真情と言うものがあるのでは ないかしら。私の傷つけられた愛の代償をあまりに高く支払わせようとして、みす みす、その倍額と自分で払うようなものだわ。私は彼にあれほどまでに痛ましい屈 辱を味わわせる権利があるかしら。アハハハ・・権利があるもないも今一番屈辱を 味わわされているのはこの私なんだわ。彼が追ってくる。私はなぜだか絶望的に惨 めで彼が怖い。

 

 

1961.7.5 水曜日

 

1961.7.5 朝7時。

小林先生の話。

 昨日のゼミナールでの雑談で拾った先生の話。

  先生は戦争に行ったことが今の仕事を始めるきっかけになったのだとおっしゃった 。戦争という、すさまじい不合理なものの渦の中で、暮らした反動が、先生に勉強 に対する燃えるような渇望をもたらしたのだそうである。あらゆる知性的なものか ら完全に隔離された戦地から戻って、南原先生とか尾高先生の講義を聞いたときに は、ほんとうに涙が出た。講義を聴くことが面白くて仕方がなかった。講義を聴き に入る時と比べて出てくるときには自分がぐっと充実しているように感じた。本に 餓えていたせいでしょうね。本が本当に好きになりました。

 

1961.7.9 日曜日

1961.7.9(日曜日)

■ 重馬叔父さん

■ ステレオ、購入

■  我々は女性が、月々、汚血に見舞われ、その間、自らの性器を、清浄に保つ ために、その白き指先でもって、入念に洗浄せねばならぬことを知っている。彼女 たちは自らの性器の隅々まで知らぬはずはないと想像はつく。しかしながら、我 々の通常の認識の中に浮かんでくる女性は、そうした面までも意識の上に汲み上げ られたものではない。少なくとも、もう少し美化された、理想的な存在なのだ。よ っぽど、意地悪く考えを巡らさない限り、我々は彼女たちの真っ白い滑らかな細長 い指先を、ただ美しいと、接吻したいほどの感動で見詰めるのみである。その可憐 な白い指が性器の奥深くを、ヌルヌルとかき回したなどとは考えも及ばない。きり りと真正面を向いて惚れ惚れと美しい女の顔は、ただため息とともに、じっと見詰 められるに過ぎぬ。そ の顔が、ぐっと曲げられて、開いた股の奥深く存在する自らの性器の内側をしげし げと見詰め下ろしたなどという考えとともに女の顔を見詰めることはない。

■  思うに、あの初々しい十四、五歳の色白の美少女も、そうした残酷な作業を 月一回はなさねばならぬのだ。我々は彼女らが一切のそうした無残なものから自由 であるかのごとく、いつも考えているのだ。

■  今僕の目の前に、有馬稲子の写真がある。私はその顔の何と美しいことかと 、日々賛嘆の声を繰り返してきた。そこには穢れを知らぬ美しさがあると思う。そ の微笑には永遠に妙なる美しさがあると思う。そしてその彼女もまた決して肉体か ら切り離されえない存在であることを今知らねばならぬのだ。あの美しく澄んだ目 も幾度か、血に濡れた自らの性器をねめまわし、その柔き指も、それ以上に柔らか い自らの深部を蠢いたのだ。彼女たちはいかなる思いと、いかなる眼をもって 、その我々にとっては一番残酷な仕事をなすのであろうか。

■  有馬稲子の笑顔は私にはなお依然として清冽に美しいのだ。

1961.7.10 月曜日

1961.7.10

■ 今日、本郷学生センターに行き、Work Campに申し込んできた。千葉県君 津郡富津町での九日間のキャンプのうちの四日間に参加する予定だ。一日四時間労 働のワーク・キャンプである。きっと黒々と日に焼ける事であろう。

■  学生センターに午後の大半を、ダベリングとウクレレの練習に費やした。五 百川さん鈴木さんそれにアキさんと、あれやこれやと話題は弾んで楽しかった。

1961.7.20 木曜日

1961.7.20

■ 午前0時45分より記入す。

■  私はひねくれ者で、自分の思いのままの感想を滅多に人にもらさない。その 私が、といったら少々表現がオーバーだろうか。もう単純に、心から、楽しかった 、楽しかった、と他人にぶち巻いて歩くしまつなのだ。

そう、7月14日から 17日までのワーク・ショップが私にとって実に楽しいものであった。そうして 22日まで続くこのキャンプを早々に引き上げてきたことの、なんだか、大事な宝 物を失ってしまったような、空虚な思いを、昨日、今日と、生活の切れ目にフト思 い出しては、深いため息をつくのだ。

■  寝床の中で時計を見る。午前六時。アア、今頃は、あの狭い寝床からゴソゴ ソと這い出してみんな作業場に向かっているに違いない。一寝入りしてラジオの時 報を聞く。みんな、日々の糧を斉唱して楽しい朝餉の前に座っている頃だ。こぼれ るような笑いの渦が、耳元でする。

 ソーレンソン先生も、愉快なことを言ってみん なを笑わせているに違いない。アキさんは男座りをして、誰かさんたちと笑い興じ ているだろう。

 宝珠山先生の童顔も、時折小さな口元を中心に実に楽しそうにほこ ろんでいることだろう。ジャネットも、あまりうまくないハシサバキで日々の糧を 摘み上げながら、勇敢な男性のトンチンカンな英語(?)の質問に、人懐っこく首 を傾け、舌を口から半分覗かせて、肩をすくめ、少々恥ずかしげな茶目っ気のある 笑いで、お相手をし ているに違いない。

 鈴木嬢も五百川嬢も、誰かしらの滑稽な言動に転げまわって 、ご飯が喉を通らないでいるかもしれない。

 加藤さんは例のポーカーフェイスで時 折、面白いことを言ってはみんなを哄笑の虜とすることだろう。小さなムンディガ ーさんは、そんなときに、あの人懐っこい笑みを顔いっぱいにして、その澄んだ目 でじっと目の前の人と顔を見合わせていらっしゃることであろう。

■  思い出す。実に楽しかった様々な事を。労働。食事。水泳。ソフトボール 。キャンプファイア。聖書研究。キャンプソング。讃美歌。風呂。撮影。睡眠。花 火。オヤツ。

■  私は確かにこのキャンプ生活によって、大いに影響されたといえよう。短い けれども充実した日々であったと思える。少なくとも以前より一歩は聖書に近づい た自分を感じるのだ。

■  まず私が驚いたことは、私がこのキャンプに参加しようとしまいと、厳然と してこの世に、日々をあのように神の御心にしたがって整然と美しく送っている人 々がいるという事実である。この事実は私にとってまったく圧倒的であった。単に 私が頭のてっぺんの片隅で神は存在するかどうか、私はそれは認められない気がす る、気がしないとひねくり回している間にも、ああした、慎ましくも自らに厳しい 人々が、灼熱の太陽の下で奉仕の労働に全精力を傾け、規則正しい生活を共にし 、健康な笑いと活気に満ちているという事実が厳として存在しているということ (今、この怠惰な私が午前二時に近い真夜中にこうしてペンを執っている最中にさ え存在しているということ)が、私に正に迫力をもって迫ってきたのだ。

■  私がしばしば犯しがちなあまりに観念的な判断を越えた紛れもなく存在する 事実の人をして判断を決定せしめる強力な力に私は圧倒されたのだった。観念的に 考える前に私は信仰の偉大な力を目の当りに見せ付けられたのだ。自らを慎ましく 厳しく制し、現世的な一切の報酬を望まぬ、健康な人々を、その心の奥深くにあっ て動かし続ける共通の何ものかがあると、どうして信じないでいられよう。

■  そして、かの人々が、私にとっても、あるべき姿により近いものである時 、よしんばそれが盲信であったとしても、それを盲信として退け得るものであろう か。盲信ではあれ、それは、人としてあるべき程度に開かれた信仰であればそれは 盲信ではあるまい。聖書の中の言葉の一つ一つがより強くこの世に生きるための導 きとなり、休みない努力がかの人々の心のうちで繰り返されていることを私は心に 痛く感じたのだ。

 

   

これで文芸日記1961の連載は、終わりです。近日中に「文芸日記1962」の連載を開始します。引き続きご愛読お願いします。

     2004.7.12
当時の手帳を見つけ出したので、備忘のため、以下に転記しておく。
 1961.8.8  火曜日 ○Elements of English Lawを数ページ読む。
○松川事件仙台高裁判決。全被告無罪。きわめて妥当と思う。
○理髪(¥170)
 1961.8.9  水曜日 ○Miss Ruth Herbstに手紙を出す。
○帰ってから出した手紙
8/2 to Miss Tamura
        to Miss Suzuki
8/     to Miss Sakuma
8/8   to Miss Herbst
○植木夫妻訪問す(碁1-1) 
1961.8.10
木曜日
○一好さんと碁(4-0)
○鈴木紀代子さんからお手紙(消印8/7)
○『Yの悲劇』読破。
1961.8.11
金曜日
○全国高校野球始まる。
1961.8.13
日曜日
○周治叔父さんに10目勝ち
○古瀬叔父さんに中押し勝ち、2目勝ち
○北野さんの宅に行く。
1961.8.14
月曜日
○島田オジさんと碁、4子となる。
○海星高校負ける(九州勢五校、一回戦で全部敗退)
1961.8.15
火曜日
○周治叔父さんに中押し勝ち
○一好さんに負ける(0-1)。
○墓参り,7p.m.以後
○精霊流し
1961.8.16
水曜日
○碁、一好さんに(4-2)
○忠叔父さん一家。
○カニ料理。
○忠さん……3人
隆さん……4人
うち……7人
一好さん……2人、勢揃いで宴会
1961.8.17
木曜日
○碁、植木さんに(1-1)
○佐久間三佐子さんから返事(消印、軽井沢)
○夜、北野・荒木・内島に会い、荒木に写真二枚。
○Selftimerで植木家、阿部家、記念撮影。
1961.8.18
金曜日
○碁、島田オジさんに(2-1)
○兄弟5人、男は女装し、女は男装し、記念撮影す。


以下、本の記録 
9月20日以降
1961.9.20
水曜日
○読書:
啄木歌集^90
○自由からの逃走数十ページ

○購入:
ベートーベンの生涯……80円
善の研究 西田幾太多�カ……80円
賃労働と資本 Carl Marx……40円
啄木歌集……120円
創世記80円
以上、岩波文庫
法律(岩波新書)末川博……100円


1961.9.21
木曜日
○読書:
ベートーベンの生涯1-70ページ
啄木歌集90-150ページ
創世記7-26ページ
The Brothers Karamazov 34-36ページ
○購入:世界¥120 数ページ
1961.9.22
金曜日
○The Brothers Karamazov  p. 37-39
○債権法 p.341-
1961.9.23
土曜日
○憲法講義 p.454-485
○啄木歌集 p.150-208
○The Brothers Karamazov p.40-49
1961.9.27
水曜日
○新しい社会 1-60ページ
○購入:
事務管理・不当利得・不法行為
国家補償法
行政訴訟法
山県有朋
新しい社会
    以下工事中

 

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