
こんなにすがすがしい、いい匂いのする朝はめったにありません。どこからともなく心をわくわくさせるような香がただよってきます。ああ、これは春の香です。もうそろそろ二月の終ですから春がすぐ近くに来ているに違いありません。ぼくは思いきって鼻の先を空中につきだして胸いっぱい素敵な匂いを吸い込みました。そのとたん、今日がご主人一家の出発の日なのだということがひらめきました。気持ちがたちまちシャンと引き締まりました。
「そうだ、今日はぼくにとってとっても大切な日なんだ。うかうか過ごすわけにはいかないんだ」
ぼくは、犬小屋から出て、その前をせかせか歩きまわり、あれこれと思案をめぐらせました。
「飛行機の出発は午後10時30分だから一時間前に空港に着くとして、タクシーには七時頃来てもらえばいいな」
とご主人が言っていたのを思い出しました。それにご主人一家が行くポーランドのことも繰り返し繰り返し頭のなかではんすうしてみました。これは商社員のご主人が、奥さんやミコちゃん、ひろしくんと話し合っているのを聞きかじった、文字通りの耳学問です。
それによるとポーランドは、日本の北の端よりもっと北にあるとても寒い国らしいのです。冬にはみんな厚い毛皮のコートを着、毛皮の帽子をかぶっている国らしいのです。日本には、山が多く、どこへ行っても山が見えるのにくらべて、ポーランドにはほとんど山がなく、どこも平たい国らしいのです。
飛行機で行っても、ポーランドへ行くには20時間もかかるらしいのです。ぼくは、ご主人の車で箱根や日光や鎌倉まで連れて行ってもらったことがありますが、それ以上遠くへは行ったことがありません。それにこんなことを言うのは恥ずかしいのですが、これまで一度も、新幹線にも飛行機にも乗ったことがないのです。
でも、20時間ぐらいで着けるのなら大したことはなさそうです。なんと言っても一日もかからないのですから。いつだったかご主人に日光に連れていってもらったとき、帰りの道路がひどく混んで10時間もかかって帰って来たことがあります。あの二倍程度なら大したことはありません。ぼくは車のなかではいつもぐうぐう眠ることにしていますから、10時間かかろうと3時間で済もうと大した差はないのです。とにかく食べ物さえもらえれば20時間車にゆられても平気だという自信があります。
・・・でも、今度は食べ物が貰える保証がありません。ぼくはこの日は、おばあちゃんが出してくれる食事を朝昼晩おなかいっぱい食べました。
「チビクロったら、体は小さいのに良く食べること。最初からこの調子なら、うちに置いてもなんの心配要らなそうね」
おばあちゃんは感心しています。
それにもう一つ心配なのは、ポーランドは寒い国で二月でも厚い毛皮のコートが必要と言うことです。でも、その点なら、ぼくはもともと毛皮を着ているようなものですし、なんとかなりそうです。
五時過ぎにはあたりはすっかり暗くなりました。六時半頃ぼくはそっと犬小屋を抜け出ました。こんなときには、ぼくみたいな真っ黒の毛並みはとても好都合です。通りを渡ってご主人の家に行き、玄関脇の暗闇のなかに身を潜めました。幸い、だれの目にもつかなかったようです。
七時きっかりに二台のタクシーがやって来ました。おじいちゃんとおばあちゃんも、やって来ました。玄関口に積み上げてあった手荷物をみんなが手分けしてタクシーのトランクに積み込み始めました。
おばあちゃんが
「ヤスオ」
とご主人の名前を呼びました。
「お前のところにチビクロは戻っていないかい。一緒に連れていこうと犬小屋へ行ってみたらいないんだよ。晩ごはんをあげたときにはちゃんといたんだがねぇ」
「いや、戻っていませんよ。今ごろどこへ行ったんでしょうね」
「まったく困ったわねぇ。もう捜す時間もないし、せっかく見送りだというとき、チビクロは、いなくなってしまうんだから」
おばあちゃんは、ためいきをつきました。
「チビクロ、いなくなっちゃたの。じゃ、ぼくちょっと捜してくる」
赤と黒のチェックのオーバーコートでめかしこんだひろしくんは、おばあちゃんの家の方へ走り出しました。
「ひろし、もう時間がないのよ。飛行機に遅れちゃうわよ。チビクロはおばあちゃんが後で見つけて下さるわ。この間もしばらくいなくなってたけど、ちゃんと帰ってきたでしょ」
奥さんがひろしくんのうしろからあわてて追いかけていきます。ひろしくんは小さい割にはすばしっこいのです。
「ぼく、チビクロが、見送りに来ないならポーランドなんかには、行かない」
「ひろし、そんな聞き分けのないことを言うもんじゃないよ」
これは、ご主人の声です。
ああ、ぼくとしては、どんなに辛かったことでしょう。できれば、
「ここにいるんだよ、ひろしくん、ワン」
と飛び出して行きたいところでした。しかし、それではぼくの計画はおじゃんになりかねません。ぼくはみんなが騒いでいるすきに、物陰から飛び出し、すばやくタクシーのトランクに忍び込みました。積まれたスーツケースの一番後ろに小さなすき間があったので、見つからないように、そこに身を鰻のように細くしてうずくまりました。
やっと、ひろしくんもなっとくして、戻って来たようです。トランクの蓋もバタンと閉められました。周りは真っ暗になりました。ガクンと一揺れしてタクシーは走り出しました。
狭いトランクの中には、ご主人一家の匂いが充満しています。積み込まれたスーツケースや細々した手荷物から、日頃からなじみの匂いがしているのです。この匂いを嗅いでいるだけで、安心できます。
時々急カーブをきるのでしょうか、体がいきなり右へ引っぱられたり、左へ連れ戻されたりしますが、真っ暗闇のなかではとりたててやることもないので、例によってウトウトしていました。どのくらい走ったのでしょう。
車がゆっくりと止まりました。みんなが、降りている物音が伝わってきます。トランクの蓋が開きました。明るい光がさっと差し込んで来ました。ここで見つかったら、元も子もありません。ぼくは細めていた体をもっと細めて、光の当たらないところに身を隠しました。タクシーの運転手が、大きなスーツケースをよっこらしょと持ち上げ地面に降ろすためにちょっと横をむきました。
そのわずかの隙に、ぼくはすばやくトランクから飛び出し、さっとタクシーの下に潜りこみました。幸いだれにも気付かれなかったようです。
ご主人一家は、それぞれ手荷物を持って、空港の大きなビルディングへ向かって歩き始めました。その二十メートルほど後ろからぼくはこっそり付いて行きました。
ご主人は、ビルの中の受け付けのカウンターへ行き、そこに座っているおそろいの赤いスーツを着た女性と話し始めました。背広の胸のポケットから、大きな財布を取り出し、そこからさらに切符のようなものを取り出して、その女の人に手渡しました。大きなスーツケースやバッグなどを預けたりしています。きっと飛行機に乗る手続きをしているのでしょう。あまりにその近くに行くと見つかってしまうので、二十メートルほど離れた柱の陰から見ているのですが、それだとはっきりしたことは、良くわかりません。 空港の時計はもう九時四十分になっています。このまま、ご主人一家の様子を遠くからぼんやり見ていたのでは、せっかくの計画もおじゃんになりかねません。
確かご主人一家の乗る飛行機の出発は十時半のはずです。ぼくはとにかくそこらじゅうを走り回って空港の様子を探ることにしました。空港のロビーはまだかなり混んでいます。人と人の足の間をうろちょろとせわしなくかいくぐり、荷物の山の上をぴょんぴょん跳び超え、あっちのカウンターこっちのカウンターを嗅ぎ回りました。それこそ足を棒にして走り回ったあげく、ぼくは大発見をしました。どうも人間と荷物とは別の入り口から飛行機に乗せられるらしいのです。それに人間が乗り込む方の検査は、とても厳しくて、それこそネズミ一匹、入り込むすきがないようです。小さいとは言え、ネズミより十倍以上は大きいぼくに入り込むチャンスはないも同然です。
とすれば、チャンスは一つしかありません。
ぼくは、先ほどご主人がいたカウンターに引っ返しました。カウンターはずらりと並んでいますが、どのカウンターにも、きれいな女の人が座っていて、乗客から荷物を受け付けています。まず荷物を秤の上に乗せると、重さ何キログラムという表示がでます。重さを量り終わると女の人はボタンを押します。すると荷物の下のベルトが動きだし、荷物は後ろの穴の中に吸い込まれて行くのです。
見渡すと、幸い一つのカウンターのランプが消えており、係の女の人が座っていません。ぼくは小走りにそこへ行き、近くに人影がないことを確かめて、素早く、荷物を量る台の上に飛び乗り、カウンターの下に潜りこみました。だれにも気付かれなかったようです。ぼくはそこで一息入れてから、今度は一気に壁に開いている穴へ向かって突進しました。穴の中に飛び込んだ瞬間、ぼくはたちまち足を取られ、すってんころりとひっくり返り、そのままスーッと滑り落ちて行きました。まるで奈落の底に落ちて行くような感じがしました。やっとこさ止まったところでよろよろしながら立ち上がると、そこは長い滑り台の一番下でした。さきほど飛び込んだ壁の穴から先は滑り台になっているのです。同じ様な滑り台がたくさんあって、さまざまな形をした荷物が次々に滑り降りて来ます。下では、男の人が待ち構えていて小さな運搬用の車の上に荷物を載せています。ぼくの滑り台にはだれもいなかったので助かりました。
ぼくは、見つからないように急いで物陰に隠れ、鼻をピクピクうごめかしました。数千、数万の匂いの中から、たった一つの匂いを選び出すのです。 クンクン、クンクン・・・ ありました!
ご主人のスーツケースの匂いです。ぼくの匂いも混じっています。先ほどのタクシーの狭いトランクの中で付いたのです。もうそのスーツケースは、十五メートルも向こうの運搬車に積まれて、今しも、動き始めようとしています。
ぼくは、あっちの物陰、こっちの物陰に、巧みに隠れながら、長く数珠つなぎになった運搬車の後を追いました。運搬車はやがて屋外に出ました。そこは、見渡す限り遠くまでだだっ広く、長い光の帯のような、滑走路の誘導灯がどこまでも続いています。蛇行しながら進む運搬車のすぐ後ろからぼくはとっとことっとこ付いていきました。
運搬車は大きな飛行機のお腹の下で止まりました。見上げるとそのお腹のところに大きな黒い口がぽっかり開いています。
その中へ運搬車から荷物の積み込みが始まりました。どうやったらその中にうまく忍び込めるのでしょう。運搬車に一人、お腹の中にも一人おじさんがいて、荷物をきちんと収納庫に整理しているのです。 ぼくは窮余の一策を思いつきました。
ぼくは、運搬車から荷物を持ち上げているおじさんの後ろにこっそり回り、いきなりお尻にガブリと噛みつきました。
「イテーィ!」
おじさんは大声を上げ、両手でお尻を押さえながら後ろを振り返りました。もちろんその時には、ぼくは運搬車の下に身を隠しています。
「どうしたんだ?どうしたんだ?」
飛行機の中からもう一人のおじさんも降りてきました。
「いや、いきなりなにかにお尻をガブリとやられたんだ。こんな所に犬がいるわけもないんだが、イテテテ・・・」
「なに、いきなりガブリだって?こんなところで?どれどれ」
飛行機から降りてきたおじさんが傷口を調べています。
ぼくは、申しわけないと思いながらも、この隙を利用しないわけにはいきません。素早く、運搬車の屋根にかけ上り、飛行機の収納庫目がけてジャンプしました。やっとこさでしたが、入り口の端に前足がかかりました。必死の思いで、体を持ち上げ、収納庫の中に入りこむのに成功しました。思ったより、広いところでした。すでにたくさんの荷物が積み込まれています。これなら、簡単に見つけられそうにありませんが、念のため、一番奥の、大きな棚の下に潜りこみました。
さきほどのおじさんが、収納庫の中に戻って来て、作業を再開しました。じっと息を潜めているとご主人の匂いがすぐ近くにやって来ました。ご主人のスーツケースやバッグが積み込まれたにちがいありません。
やがて、作業が終わったとみえて、おじさんはいなくなり、収納庫のドアがピッタリ閉ざされました。もう周りは鼻をつままれてもわからない闇になりました。
キーン
。ジェットエンジンが唸りをたて始めました。飛行機がゆっくりと動き始めたのがわかります。ジェットエンジンの音が一段と高くなりました。ちょうどスピードを出すのが好きなご主人が車のアクセルツォぐいと踏み込んだときの感じに似ているなと思っていると、今度は、体が空中に放り出されたような感じになり、そのまま身体ごと床にぎゅーっと抑え付けられ、なんとなく後ろへ引っ張られるような感じがします。それがしばらく続いたあとは、エンジンの音は少し違いますが、ご主人の自動車に乗っているのとたいして違わなくなりました。いえ車より揺れが少なく、自分の犬小屋に寝ているのとあまり変わりなくなりました。
「ジェット機は、富士山よりずうっと高いところ飛ぶんだよ」
ひろしくんが、いつだったかご主人の郷里の長崎に連れていって貰った後で、飛行機に乗ったことのないぼくに、自慢そうに話してくれたことがありましたが、真っ暗の収納庫の中では、右も左も、上も下も、富士山の上なのか海の上なのか、なにもわかりません。なにもわからないので、例によって眠ることに決めました。起きているとお腹も空いてくるに違いありませんし、これから二十時間も、なにも食べられないのですから、とにかく、眠るに限るというものです。