
もうあれから何時間たったのでしょう。
あたりは相変わらず真っ暗で、ジェットエンジンの音が鈍く響いています。
お腹が猛烈に空いてきました。喉が乾いてひりひりします。しかし、今さら弱音を吐くわけにはいきません。どんなに辛いことがあっても我慢しようと決心して飛行機に潜りこんだのですから。
真っ暗の収納庫の中で慰めになるのは、ご主人一家のスーツケースの匂いだけです。ご主人の頼もしい匂いや、奥さんのくすぐったい匂い、ミコちゃんやひろしくんの甘ったるい匂いが漂って来るのです。
それに匂いと言えば、ぼくの頭を狂わせそうなソーセージとベーコンの匂いがどこからともなく漂って来ます。
よほどそのありかを探り出して食べようかと思いましたが、そんなことをしたら見つかってしまうだけだと思い直し、あきらめました。
ーーー犬は食わねど高ようじ
ーーー痩せ我慢 負けるなチビクロ ここにあり
いろいろ口からでまかせのおまじないを唱えましたが、一向に効き目がありません。もうお腹がすいて目から火花が出そうになった頃、ドスンと大きな音がして、飛行機のスピードが、急ブレーキをかけたときのようにぐぐーっと落ち、ぼくは壁にぐいぐい押し付けられました。どうやら、地上に降りたようです。やがて飛行機は止まってしまいました。
しばらくすると収納庫のドアがガラリと開きました。続いてなにやら聞き慣れない人間の言葉が耳に飛び込んで来ました。入り口から入ってくる空気が、やけに冷たく感じられます。ぼくはブルブルと身震いしました。
と、金髪の男の人がのそっと入って来て、荷物を運びだし始めました。ご主人の匂いもすうっと遠のいて行きました。ぼくは、金髪の男の人が、反対側の荷物をかついているすきに、ドアから、エイヤとばかり地上に飛び降りました。ちょっとつんのめりましたが、大丈夫です。素早く運搬車の下に潜り込みました。
そこから飛行機を見上げると、今しも乗客がタラップを降りてくるところです。その中にご主人一家の元気な姿も見えます。ご主人の金縁の眼鏡がキラリと光っています。ぼくは、飛び出して行ってご主人にじゃれつきたい思いにかられましたが、飛行場というところは入ったり出たりするのがとても面倒なところだということがよく分かっていましたので、じっと我慢していました。
ご主人一家はタラップの下で待っていたバスに乗り込んでいます。と、そのとき、ぼくが潜り込んでいた運搬車がいきなり動き始めました。こうなれば運搬車の下に隠れたままついていくより仕方がありません。右に左にカーブを切る車の下に隠れて走るなんてなかなか難しいことです。前輪を注意深く見、曲がる方向を間違えないように気をつけながら、ぼくはただ走り続けました。
ところが走ることだけにあまりに一生懸命になっていたので、運搬車が急停車したとき、思わず車の前に飛び出してしまったのです。
「アッ」
思ったときは、もう遅すぎました。
「オッ」
「ヤッ」
ぼくに気付いた運搬車の運転手が鋭い叫び声を上げました。大勢の人が一斉に振り返り、ぼくの存在に気付くと口々に何やらわめきながら、突進して来ました。言っていることはさっぱりわかりませんが、ぼくを捕まえようとしていることはよくわかります。こうなればもう逃げるよりありません。
ぼくは必死になって走りました。ここで捕まってしまったらこれまでの苦労も水の泡です。
走りながら振り返ると、兵隊さんやおまわりさんや、いろんな格好をした人が五十人も追いかけて来ます。この追かけっこを、空港の展望台から眺めている人もいます。その中にはぼくを応援してくれている人もいるようです。
ぼくは生まれつきかけっこは得意で、急カーブを切ったり、急停止もお手のものなので、いつもだったら、人間に追いかけられたぐらいで困ることはないのですが、何といっても今はお腹が空き過ぎています。走っているうちにふらふらして来ました。
飛行場はだだっ広くて、どこまで走っても体を隠せるようなものが見つかりません。ぼくは、ひーひーあえぎながら、走り続けました。
と、ドタドタした人間の足音に混ざって、それに比べたら十倍も軽やかですばしっこそうな足音が聞こえて来ました。もう、追い付かれてしまいそうです。
「おい、そこのチビくん」
ぼくの耳にはっきりそう聞こえたのです。それは懐かしい犬語ではありませんか。ぼくは驚きました。振り返ると、5メートルもないところに、ぼくの三倍もありそうな、すらりと形姿のいいシェパード犬が追いかけて来ているのです。人間は、それより五十メートルも離れています。
「チビくん、そのまま真直ぐ走り続けなさい。ぼくはこの空港の警備犬なんだ。だからこうして君を追いかけなければならないけれど、決して君の敵ではない。ぼくの言う通り走りなさい。そすれば、君は飛行場からうまく逃げ出せるはずだ。そ、そこは、右!」
ぼくは指示されるままに、右に曲がりました。いったいこの犬が本当に味方なのかどうかわかりませんが、こうなればこの犬に頼ってみるほかに手はないと思ったからです。
時々、シュパードは、ウーワンワンとおどすような吠声を上げるのですが、その都度小さな声で、
「チビくん、今度は左」
とか
「そのまま、真直ぐ」
とか、やさしく助言をくれるのです。
「このままあと百メートル真直ぐ行くと、金網のフェンスがある。そこに君なら通り抜けられる穴が一つだけ開いている。そこから逃げなさい」
後百メートルか。広い飛行場をもう半分以上走ったに違いありません。ぼくは最後の力を振り絞って走りました。シェパードはぼくと並ぶようなところを走っています。
「お見かけするところ、その監察札のついた首輪にしても、君はポーランドの犬ではないようだね。あの飛行機で密航して来たようだね。ポーランドには、不案内のようだから、うまくフェンスの外へ逃れたら、その付近に住んでいるプードル犬のアンナ嬢に連絡を取りなさい。彼女は親切だから、きっと君の力になってくれるはずだ」
ぼくに今にも噛みつかんばかりのふりをしながら、シェパードはこう言ってくれたのです。目の前にフェンスが迫って来ました。確かにぼくがなんとかすり抜けられそうな穴が開いています。
ぼくは、そのままのスピードで、その穴に突っ込みました。毛がひっかかり、針金の先にいくつも塊が残りましたが、そんなことを気にする余裕はありません。
フェンスの直前で急停止したシェパードは、穴の間から、鼻先を突き出して、いかにも残念そうに低くウーと唸っています。が、その実、
「チビくん、よく頑張った。達者でな。ぼくはマーテックって言うんだ。アンナにもよろしく伝えてくれ」
と言ってくれたのです。
「マーテックさん、本当にありがとう。お陰で助かりました。ぼくは日本から来たチビクロと言います」
ぼくは、弾む息の下からやっとそれだけ、言いました。見れば先ほどぼくを追いかけて来た人達は、百メートルも向こうで完全にへたばって座り込んでいます。マーテックは、ぼくのほうを振り返り振り返り、その人達のほうへと引き返して行きました。