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チビクロの冒険(小説)
黒い子犬「チビクロ」が、大活躍します。小学生から大人までお愉しみいただけます。
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アンナ

5

 フェンスの外でぼくはしばらく休みました。空きっ腹でいきなり全力で走ったので、体中の力が抜き取られたような感じです。それに先ほどは何でもな いと思ったのですが、よく見ると金網を潜り抜けた時すこしばかり引っかけたとみえて、右肩のところに血がにじんでいます。舐めようとしても、そこまで首が 回りません。ずきんずきんと傷の痛みが空きっ腹に響きます。

 辺りを見回すと枯れた草地が広がり、ところどころに雪がまだ融けずに残っています。すっかり葉の落ちた木がぽつんぽつんと立っています。 その少し向こうの方には、茶色を帯びた林があり、うっすらと雪をかぶっています。

 マーテックが、言っていましたが、ここはもうポーランドなのでしょうか。日本の景色とまったく違っています。日本ではもう春の匂いがして いたのに、まだ、冬の匂いだけしかしません。

 ぼくはマーテックが言っていたプードルのアンナを捜すことにしました。そこで四つん這いのまま首筋を伸ばし、空中に口を突き出して

「アンナさーん」

と、遠吠えしました。 最初は、ぼくの発音で通じるか心配でした。ただマーテックの言うことが全部わかったので、ぼくの発音でも大丈夫だろうと思い直しました。

「アンナさーん」

ぼくは、二度、三度遠吠えを繰り返しました。

と、

「だーれ、わたしのことを呼んでいるのは」

遠くから雌犬の声が返って来ました。よくわかる犬語です。

「ぼく、チビクロって名前の犬です。空港の警備をしているマーテックさんにあなたのことを紹介して貰ったのです。ぼくはつい今しがた日本と いう国から着いたばかりです。お腹が空いて死にそうですし、今夜泊まるところもありません。すっかり困っているんです」

「えっ、日本から?日本ってずうっと遠いところにある国なんでしょう。その日本から?」

「そうです。その日本から」

「まあ、それはお疲れでしょう。ポーランドへそうこそ。でも日本の犬も、わたしたちと同じ言葉を話すのですか」

「ええ、どうもそうらしいですね。こうやってあなたとなに不自由なくお話しできるのですから」

「いつだったか、通りで日本人が話しているのを立ち聞きしたことがあったけれど、何を言っているのか、まったくチンプンカンプンだったわ」

「つい今しがた空港でポーランド人に追いかけられたんですが、何を言っているのか、ぼくには、何もわかりませんでした」

「人間って偉そうなことを言っているけど、あんがい遅れているのね。その点、犬族のほうが進んでいるってわけね。日本の方ともこんなに簡単 にお話しできるんですもの。あら、いけない。あなたはチビクロっておしゃったわね。あなたが、お腹を空かせているのも忘れてすっかり長話ししてしまって、 ごめんなさいね。わたし、今そちらに行けないので、わたしの家にやって来て下さらない。わたしの声のする方へ真直ぐに駆けていらっしゃれば、すぐわかりま すよ」

 ぼくはアンナの声に導かれて、枯れ草の野原を横切り、小さな木造の家の傍を通り抜け走っていきました。薄く雪をかぶった林の中の小道をし ばらく行くと、大きな石造りの家が、目の前に現われました。

「チビクロ、こっちよ」

 その大きな家の裏手からアンナの声がします。急いで裏に回るとそこには、大きな木がいっぱい生い茂った広い庭があり、建物の半地下になっ たガレージの前に、ほっそりと姿のいい白いプードルが鎖につながれて立っていました。

 それが、アンナでした。ぼくはアンナがあまりに美しい雌犬なので、すっかり気後れしてしまいましたが、車の通り道になっている舗装した通 路伝いに、そのまま歩調を落とさず、アンナのそばまで走り続け、思い切ってアンナの鼻の頭に自分の鼻の頭をこすりつけました。これがぼくらの仲間の「はじ めまして」の挨拶です。ポーランドでも同じ様な挨拶が通用するのか、最初は不安でしたが、同じ犬語が通用するのなら、この挨拶も通じるのではないかと思っ て、思い切ってやってみたのです。

 アンナが、うれしそうに鼻の頭をこすり返して来たときは、本当にほっとしました。それにアンナはピンと伸ばした、美しい尻尾を、威勢よく 左右に振っているではありませんか。これは最高級の歓迎のしるしです。鼻だけこすり返しても、尻尾がだらしなく垂れていたり、そのこすりつけた鼻で相手の 匂いを胡散臭げにくんくん嗅ぎ回ったりするのは、けっして友好的な態度とは言えません。そんな犬とはそれ相応のつきあいをしなければなりません。

「早速ですけど、チビクロはお腹がぺこぺこなんでしょう。どうぞ、これを食べて下さい」

 初対面の挨拶もそこそこにアンナは、アルミボールによそった肉の塊を勧めてくれました。

 ああ、二十数時間ぶりに口にする食べ物です。遠慮している時ではありません。ぼくは勢いよく、肉に飛びつきました。

 なんとおいしい肉でしょう。こんなにたっぷりこんなにおいしい肉を食べたのは初めてでした。 ポーランドに出発する前に、奥さんが 、

「お友達の話だと、ポーランド料理って、あまりおいしくないらしいのよ。困るわァ」

などと、ご主人と話しているのを聞いたことがありましたが、この肉に関する限り日本の油っぽい肉よりよっぽどおいしく、しかも量がたっぷり です。ご主人だってこんなにいい肉をこれだけたっぷり食べたことは滅多になかったに違いありません。

 ぼくがおいしそうに食べているのを、傍らからアンナは満足そうに見ていましたが、ぼくの右肩に血がにじんでいるのに気付くと、

「まあ、かわいそう、こんなところを怪我して」

と、やさしく舐めてくれました。

 食事が終わるとぼくも犬ごころが着いて、アンナに日本からポーランドへやって来たいきさつを話す余裕が生まれました。ぼくが飛行機に忍び 込んで、密航して来たことを話すと

「まあ、チビクロって勇気があるのね」

 アンナが感じ入ったようにため息をつくので、ぼくもなんだかすっかり嬉しくなって、日本にいたときよりも言葉がなめらかに飛び出してくる しまつです。ここが日本から一万キロメートルも離れたポーランドという国で、今日知り合ったばかりの友人と話し合っているなんてまったく思えないほどで す。

「そんな訳で、ぼくは飛行場でご主人一家とはぐれてしまったんです。だから、これから、どうしても探し出さなければならないんです。でも、 右も左もわからないポーランドで、いったいどうして探し出したらいいのか、すっかり途方に暮れているんです」

ぼくの話しを聞き終わるとアンナは 、

「チビクロ、心配しなくてもいいわよ。ご主人を探し出すまで、いつまででもわたしの小屋に泊まって下さってもいいし、わたしも近所の仲間に 連絡をとって、あなたのご主人一家のことをいろいろ調べて貰ってあげるわ。今日は疲れたでしょうから、早めに、休んで下さい」

と励ましてくれるのでした。

 時刻はまだ三時半ということでしたが、あたりはもう暗くなってきました。ぼくはアンナの言葉に甘えて、その晩は、ガレージの中に作られた アンナ用の木箱に泊めてもらうことにしました。

 夜になると、サラサラと音を立てて小雪がちらつき、寒さも一段と厳しくなってきましたが、アンナと体をすり寄せて眠りましたので、少しも 寒くありませんでした。
 
 

  (続く)
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