中国旅行2001・西安・洛陽への旅


目次(アイウエオ順)

ア行:

あべのなかまろ(阿倍仲麻呂)

カ行:

かんう(関羽)、かんていびょう(関帝廟)

くうかい(空海(弘法大師))

サ行

しこうてい、せいあん(西安)、しょ(書)

、せいあんじけん(西安事件)、

せっくつじいん(石窟寺院)

タ行:

たくほん(拓本)

ちゅうげん(中原)、ちゅうげんにしかをおう(中原に鹿を追う)

ヤ行:

ようきひ(楊貴妃)、ようきひ(楊貴妃)(能の曲目)

ラ行:

らくよう(洛陽)、らくようのしかをたかからしむ(洛陽の紙価を高からしむ)

りゅうもんせっくつ(龍門石窟)


小学館発行のSuperNipponica2001の引用。旅行の手引きにしました。


あべのなかまろ■阿倍仲麻呂 (698―770)奈良時代の遣唐留学生、唐の官僚。中務大輔(なかつかさたいふ)阿倍船守(ふなもり)の子。安倍にもつくる。仲満とも記し、入唐後、朝衡(ちょうこう)と改名する。 716年(霊亀2)7月、吉備真備(きびのまきび)らとともに遣唐留学生となり、翌717年(養老1)遣唐大使多治比県守(たじひのあがたもり)らに従って出発した。736年(天平8)10月、一度遭難して唐に戻った遣唐判官平群広成(へぐりのひろなり)が渤海(ぼっかい)経由で帰国することを学生仲麻呂が玄宗(げんそう)に奏上して許された。唐朝に仕え、司経校書(しけいこうしょ)、左拾遺(さしゅうい)、左補闕(さほけつ)、儀王友(ぎおうゆう)となる。753年(天平勝宝5)遣唐大使藤原清河(きよかわ)とともに僧鑑真(がんじん)に会い、その渡日を要請し、自らも帰国しようとしたが遭難し、ふたたび唐に帰った。その後、衛尉少卿、秘書監兼衛尉卿、唐の上元(じょうげん)年中(760〜762)に抜擢(ばってき)されて左散騎常侍(ささんきじょうじ)、鎮南(改名して安南)都督となった。ほかに光禄大夫、右散騎常侍兼御史中丞(ぎょしちゅうじょう)、北海郡開国公ともいう。770年(宝亀1)正月、唐で没した。73歳。李白(りはく)、王維(おうい)ら唐代の文人多数と交際し、没後■州(ろしゅう)大都督を追贈され、日本でも正二品(ほん)が贈られた。帰国に関する漢詩二篇(へん)、歌一首を残すが、『古今和歌集』所収の「天の原ふりさけみれば春日(かすが)なる三笠(みかさ)の山に出でし月かも」は有名。〈鈴木靖民〉 (C)小学館


かんう■関羽 (?―219)中国、三国蜀(しよく)の武将。河東解(山西省臨晋(りんしん)県)の人。字(あざな)は雲長。諡(おくりな)は忠義侯。解には塩池があるから、塩業関係の仕事に従事していたのかもしれない。亡命して■(たく)郡(河北省)にきて、劉備(りゆうび)や張飛(ちようひ)と知り合った。桃園で3人が義兄弟の約束を結んだことが小説『三国志演義』にみえるが、それに近いことはあったろう。劉備が起兵すると羽も参加し、寝食をともにした。 200年、曹操(そうそう)と劉備が戦い、備は敗れ、羽は操に捕らえられた。操は羽を礼遇して帰順を勧めたが、羽は操と袁紹(えんしよう)との戦いに、紹の将である顔良の首を斬(き)って、これを置き土産(みやげ)に備の所に帰った。やがて備とともに荊州(けいしゆう)に赴き、曹操が南下してくると、ここを逃れたが、ついで起こった赤壁(せきへき)の戦い(208)では、水戦で敗れた操の軍を陸上に待ち受けて撃ち破った。劉備が諸葛亮(しよかつりよう)や張飛らと蜀に入ったのちも、彼は荊州の留守(りゆうしゆ)を命ぜられ、江陵を基地とした。219年、劉備が漢中王になったのを機に、北上して曹操の部将である曹仁を攻めて樊城(はんじよう)(河南省襄樊(じようはん)市)を囲んだ。しかし、荊州領有をもくろむ孫権(そんけん)が、操と同盟して背後を襲ったので、樊城陥落を目前に南に引き揚げたが、ついに臨沮(りんしよ)(湖北省南■(なんしよう)県)において、子の関平とともに戦死した。  関羽は美しい髯(ひげ)の持ち主で、諸葛亮も彼を髯の愛称でよんだ。また彼は武勇に優れていたばかりでなく、好んで『春秋左氏伝』を読んだ。しかし人を見下すことがあり、人の恨みを買うこともあった。死後、軍神、財神として祀(まつ)られている。→関帝廟〈狩野直■〉 (C)小学館

かんていびょう■関帝廟 中国、蜀漢(しよくかん)の英雄関羽(かんう)の神霊を祀(まつ)る廟。出生地の山西省解県はもとより、中国全地にあり、また台湾、東南アジア、日本その他の華僑(かきよう)の居住地にもこの廟が存する。関羽は勇将で、信義に厚く、また経書を好んだとされ、劉備(りゆうび)との盟約を達成しないまま非業(ひごう)の最期を遂げたので、人々はその怨霊(おんりょう)を鎮めるために廟を建てた。唐・宋(そう)以後の王室は関羽の義勇をたたえ、関寿亭侯(かんじゆていこう)、忠恵公、壮繆義勇武安英済王(そうびゆうぎゆうぶあんえいせいおう)、三界伏魔大帝神威遠鎮天尊関帝聖君(さんがいふくまたいていしんいえんちんてんそんかんていせいくん)としだいに称号が加わった。また、関羽は山西夫子(さんせいふし)とも協天(きようてん)大帝ともよばれる。のちに神格化され武神、伏魔神、財神(商業神)となり、結社、会館の守護神ともなった。湖北省当陽県玉泉山では仏法を守る伽藍(がらん)神となっている。民衆の間でも関帝信仰は盛んで、『道蔵輯要』中の『三界伏魔関帝聖君忠孝忠義真経』や、『関帝覚世真経(かくせいしんきょう)』『関帝明聖真経』など関帝のお告げを記す善書(ぜんしょ)(勧善書)も有名である。 関帝廟には、関平と周倉とを従えた朱面美髯(びぜん)の関帝像があり、愛馬の赤兎(せきと)を置く所もある。〈原田正己〉 (C)小学館


くうかい■空海 (774―835)平安初期の僧。真言宗の開祖。弘法大師(こうぼうだいし)の諡号(しごう)で知られる。 ■生涯■宝亀(ほうき)5年、讃岐国多度郡屏風(さぬきのくにたどのこおりびようぶ)ヶ浦(うら)(香川県善通寺市善通寺)で、佐伯直田公(さえきのあたいたきみ)と阿刀(あと)氏出身の母(伝説では玉寄姫(たまよりひめ))の三男として生まれた。幼名は真魚(まお)。幼少のころ、神童(しんどう)、貴物(とうともの)などとよばれたという。母方の外舅阿刀大足(おじあとのおおたり)に就いて漢籍を学んだ。15歳で京に上り、18歳で大学に入って、味酒浄成(うまざけのきよなり)に『毛詩』『尚書』を、岡田牛養(おかだのうしかい)に『春秋左氏伝』などを学んだ。あるとき1人の修行者に出会い、求聞持法(ぐもんじほう)を授かった。そこで、阿波(あわ)(徳島県)の大滝岳、土佐(高知県)の室戸(むろと)岬、伊予(愛媛県)の石鎚(いしづち)山、大和(やまと)(奈良県)の金峰山(きんぶせん)などの聖地を巡り歩いて修行に励んだ。こうして出家の決意を固め、24歳のとき『三教指帰(さんごうしいき)』(別本または草稿本は高野山金剛峯寺(こうやさんこんごうぶじ)蔵の『聾瞽(ろうご)指帰』。国宝)を著した。それは思想劇の形をとり、儒教・道教・仏教の優劣を論じ、大乗仏教をもっとも優れた教えであるとする一種の比較思想論である。以後、約7年間の行跡はまったく不明であるが、奈良六宗のほかに、すでに密教も学んでいたと思われる。また高野山を発見したのも弱年のころであったとみられる。  804年(延暦23)31歳のとき、遣唐大使藤原葛野麻呂(かどのまろ)の船に橘逸勢(たちばなのはやなり)らと同乗し、途中、暴風雨にあい九死に一生を得て入唐(にっとう)。この年12月に長安に入った。翌805年、長安醴泉寺(れいせんじ)の般若三蔵(はんにやさんぞう)らに就いてサンスクリット(梵語(ぼんご))やインドの学問を学習し、同年6月から半年間、青竜寺(しようりゆうじ)の恵果(けいか)から密教の伝授を受けて、真言密教の第八祖を継いだ。同年12月15日、恵果が60歳で没したとき、門下から選ばれて追悼の碑文を書いた。長安滞在中は、唐の仏者たちのみならず多くの文人墨客と交流し、広く文化を摂取した。806年(大同1)10月に帰国、膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅(まんだら)、その他の文物をわが国にもたらし、12月に『請来(しようらい)目録』を朝廷に差し出した。809年に京都高雄山寺(たかおさんじ)(神護寺)に入り、翌年、国家を鎮める修法を行った。812年(弘仁3)には比叡山(ひえいざん)の最澄(さいちょう)や弟子に灌頂(かんじよう)(水を頭に注いで仏位につかせる儀式)を授けた。816年6月、43歳のとき、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨(さが)天皇に上奏し、7月8日に勅許を得、819年5月から伽藍(がらん)の建立に着手した。このようにして高野山は、天台宗の比叡山とともに平安初期の山岳仏教の拠点となる。一方、821年9月には四国讃岐の満濃池(まんのうのいけ)(香川県満濃町)を修築し、農民のために尽力している。また823年1月、京都の東寺(教王護国寺)を給預されたので、ここを京都における真言密教の根本道場に定め、後進の育成に努めた。828年(天長5)12月東寺の東隣にわが国最初の庶民教育の学校として綜芸種智院(しゆげいしゆちいん)を開設した。835年(承和2)1月、宮中真言院で後七日御修法(ごしちにちみしゆほう)を行い、同年3月21日に高野山で入滅した。齢62歳。 921年(延喜21)醍醐(だいご)天皇から弘法大師の諡号が贈られた。 ■業績・著書■空海は在唐中にインド直伝の密教を学び、帰国後、それらの組織化、総合化に努め、『大日経(だいにちきよう)』系と『金剛頂経(こんごうちようぎよう)』系の密教を両部としてまとめることに成功した。また、一宗の開祖にとどまらず、中唐後期の大陸の文化を幅広く移入し、平安初期のわが国の文化全般に寄与したことは計り知れないものがある。  著書には、一般仏教(顕教(けんぎよう))と密教とを対比し密教の特色を明らかにした『弁顕密(べんけんみつ)二教論』や、人間精神の発達段階と世界思想史とを組み合わせた『秘密曼荼羅十住心論(まんだらじゆうじゆうしんろん)』(『十住心論』)と『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』、また『即身成仏義(そくしんじようぶつぎ)』『声字実相義(しようじじつそうぎ)』『吽字義(うんじぎ)』の三部書、さらに『般若心経(はんにやしんぎよう)』の注解書である『般若心経秘鍵(ひけん)』その他がある。文学的業績では、『三教指帰』をはじめ、わが国最初の辞典『篆隷(てんれい)万象名義』(1114年書写、高山寺蔵、国宝)の編集や、文芸評論と作文概論を兼ねた『文鏡秘府論(ぶんきようひふろん)』『文筆眼心抄』などの著がある。 また、空海の詩文を拾集したものに弟子の真済(しんぜい)編『遍照発揮性霊集(へんじようはつきせいれいしゆう)』(『性霊集』)があるほか、書簡類を集成した『高野雑筆集』がある。このほか、密教芸術の指導、医学、科学に至るまで、その活動はすこぶる多方面にわたっている。  なお、空海の伝記には、真済の『空海僧都(そうず)伝』、藤原良房(よしふさ)の『大僧都空海伝』などがある。『今昔(こんじやく)物語』には高野山開創など四つの説話を収める。大師にまつわる伝説は各地にあり、全国でその数3000〜4000といわれる。→三教指帰 →十住心論 →弁顕密二教論 →文鏡秘府論 →篆隷万象名義〈宮坂宥勝〉 ■空海の書■空海は同時代の嵯峨(さが)天皇、橘(たちばなの)逸勢(はやなり)と並んで三筆の1人として名高い。その書は、奈良朝以来の伝統的な王羲之(おうぎし)書法を根幹としている。これに、入唐(にっとう)当時流行した顔真卿(がんしんけい)、徐浩(じよこう)ら唐代中期の能書の感化を受け、独自の書風を完成した。ふところを広くとる造字法、重厚な筆遣いは、スケールの大きい、表現力豊かなものである。空海以前にはみられない書風で、日本書道史に一つの転機をもたらし、後世の書壇にも大きな影響を与えた。近世初期には、その書流は松花堂昭乗(しようかどうしようじよう)らによって、大師流の名で盛んに行われたことは注目される。今日まで伝えられる空海の書として、入唐前24歳で書いた『聾瞽指帰(ろうごしいき)』があり、すでに非凡な才能を十分発揮している。さらに在唐中に記録をとった『三十帖冊子(さんじゆうじようさつし)』(京都・仁和寺(にんなじ)、国宝)、812年(弘仁3)から翌年にかけて灌頂(かんじよう)を授けたときの記録『灌頂歴名(かんじようれきめい)』(京都・神護寺、国宝)はいずれも草卒の書で、盛唐の書の影響がみられる。 もっとも著名な『風信帖』(京都・東寺、国宝)は伝教大師最澄(さいちょう)にあてた書状三通を一巻に調巻したもので、空海の最高傑作といえよう。また、『真言七祖像賛並行状文』(東寺)は飛白(ひはく)(刷毛(はけ)で書いたようなかすれ書きの書)体の珍しいもので、各書体に堪能(たんのう)であった空海を物語る遺墨である。このほかにも多くの遺墨があり、いずれも名筆として尊重される。 〈島谷弘幸〉 (C)小学館


 

しこうてい■始皇帝 (前259―前210)中国、戦国の「七雄(しちゆう)」の一つ、秦(しん)国の王(在位前247〜前221)、ついで秦帝国の初代皇帝(前221〜前210)。辛亥(しんがい)革命(1911)に至るまで、2000余年も存続した皇帝支配体制の創立者として、歴史的に重要な人物である。名は政(せい)、始皇帝は諡(おくりな)であって、生前の正式な称号は「皇帝」。父の子楚(しそ)(即位して荘襄王(そうじようおう)。出土史料では荘王)が人質として趙(ちよう)国にいたころ、その国都邯鄲(かんたん)(河北省邯鄲市付近)で生まれた。子楚のパトロン、大商人の呂不韋(りよふい)が始皇帝の実父であると『史記』にはみえる。子楚を継いで13歳で秦王となり、丞相(じようしよう)となっていた呂不韋が相国(しょうこく)として執政した。秦は、六代前の孝公(在位前362〜前338)の時代に、都を咸陽(かんよう)(陝西(せんせい)省咸陽市の東方15キロ付近)に置き、法家の商鞅(しようおう)を採用して、富国強兵に努めていたが、秦王政はこのころの成果を受けて、まず母の太后の愛人、■■(ろうあい)の反乱を鎮圧し、これを契機として呂不韋を追放し、親政を開始した。ついで法家李斯(りし)(のちに丞相となる)を抜擢(ばってき)して、商鞅が始めた内政改革(変法(へんぽう))をさらに徹底させた。咸陽の北東部の平野に巨大な用水路(鄭国渠(ていこくきよ))をつくり、「四万余頃(けい)」(約1867万アール)の耕地を開き、民政を安定させた。このような開拓事業を基盤として、国家に忠実な無数の兵士を養成し、軍功をあげれば庶民にも爵(しやく)を与えるという信賞必罰の政策、秦国の伝統的騎馬戦術、巧みな外交政策(遠交近攻)などを展開することにより、韓(かん)、趙(ちよう)、魏(ぎ)、楚(そ)、燕(えん)、斉(せい)の六国をこの順序で滅ぼし、紀元前221年、統一国家を完成し、この新生国家の盟主としてふさわしい「皇帝」の号を創立した。 ■支配構造■秦帝国の支配理念は、国家が民衆のひとりひとりを、あるいは兵士、あるいは人夫として徴用し、また人頭税の形で富を集め取ることにある(個別人身支配)。この理念を実現させるために、それまでの「封建」制(分封制)を廃止し、全国を郡県制(ぐんけんせい)で再編成した。地方の諸都市である県をいくつかまとめたものが郡であり、36(のち48)の各郡と、その下の各県の統治者としては、皇帝の代行者としての官僚を中央から直接派遣した。皇帝の周囲には、丞相(政務)、太尉(たいい)(軍務)、御史大夫(ぎよしたいふ)(監察)を中心とする機動的な中央官制を敷き、また人々の日常生活の隅々まで規制した統一的で膨大な法律を制定し、民間での武器所有を禁じた。また、度量衡規格を一にし、「公平」な租税徴集の体制を整え、行政に便利なように文字を簡略な隷書(れいしよ)体に統一し、また軍隊をただちに送り、政令を全国の隅々まで行き届かせるために、車軌(しやき)(両輪の間の幅)を一定にし、交通網を整備した。  首都咸陽には、皇帝の威容を誇示する壮麗な宮殿を建て、その周辺に多くの官庁を置き、皇帝の目が届くように地方の豪族を強制移住させるなどして、首都の姿を整えた。咸陽の南には天体の構造をかたどった阿房宮(あぼうきゆう)をつくり、渭水(いすい)を渡って咸陽宮に連結させるという大規模な造営も開始した。また北方の外民族の侵入に備えて、かの「万里の長城」を築き、「麗山(りざん)(■山)」と称する自己の寿陵(じゆりよう)(生前につくられる陵)を建設した。これらの事業は、民衆を酷使する結果となり、過酷な法律の適用とともに、秦帝国滅亡の起因となった。  皇帝支配を支えていた思想は法家のそれであり、儒家思想は「封建」の復古を願うものとして弾圧され、その系統の書物は焼かれ(焚書(ふんしよ))、儒家たちのうち460余人が、咸陽で生き埋めにされた(坑儒(こうじゆ))。このことが始皇帝の悪行の第一に数えられるようになったのは、漢代以降、儒家思想が復活してからである。  始皇帝はまた、威光を全国に示すために、5回にわたる巡幸を行い、その行路は、南は会稽山(かいけいざん)(浙江(せっこう)省紹興(しょうこう)市南東)から揚子江(ようすこう)流域の洞庭(どうてい)湖(湖南省)付近にまで及んでいる。しかしこの第五次の巡幸の帰路、前210年7月、沙丘(河北省平郷県近く)で病没してしまい、自分の意志とは違って、公子の1人の胡亥(こがい)(二世皇帝、在位前210〜前207)が即位し、この代で秦帝国は崩壊した。 ■始皇帝の遺跡■近年の盛大な考古学的調査発掘によって、始皇帝に関する多彩な史料や遺跡、遺構が出現した。まず新しい調査によって、始皇帝陵は二重の城壁を巡らした大規模な陵園であったことがわかり、墳丘の西側から出土した珍しい銅製の車馬、東側1.5キロの地点で発見された数千体の兵士や軍馬の陶俑(とうよう)など、始皇帝の権力を彷彿(ほうふつ)させる文物が姿を現している。のちに項羽(こうう)によって焼き払われた咸陽宮の調査も進んでおり、第三号宮殿遺跡からは、秦代のものとしては初めての壁画が発見された。また湖北省雲夢(うんぼう)県の秦代の墓からは、戦国末から始皇帝の時期までの、秦の法律文書を中心とする多数の竹簡(ちくかん)史料が出土し、貴重な第一次史料となっている。→秦 →郡県制 →皇帝 →焚書坑儒〈尾形 勇〉 (C)小学館


しょ■書 筆・墨などを用い、漢字・仮名の文字を書くことによって表現される造形芸術。書は中国と日本で発達した独特の芸術で、漢字のもつ造形的な要素と密接な関係がある。中国では古くから六芸(りくげい)(礼・楽・射・御・書・数)の一つに数えられ、官吏や知識人の必須(ひつす)の教養科目であった。運筆、構成、墨色、配置などの美や、作品に現れた筆者の風格が尊ばれ、東晋(とうしん)の書聖王羲之(おうぎし)の筆力が木に3分も墨が浸透するほどであったという故事にちなみ、入木道(じゆぼくどう)と称し、筆道(ひつどう)ともいった。書は文字を表記の手段としてだけでなく、筆者の芸術的創作として鑑賞の対象とする。したがって、印刷文字や日常の実用文書は書とはいわない。しかし、歴史的な実用書写である書状や写経などで芸術的に優れたものは書として鑑賞される。書体、書風、書法など時代や流派によりさまざまであるが、最近では古典を追究解明しようとする半面、従来の形式を離れた新しい分野の開拓が試みられている。 ■中国書道史■ ■文字の発明と書の始まり■中国の文字つまり漢字は、紀元前2800年ころ、黄帝の史官であった蒼頡(そうきつ)が鳥の足跡を見て発明したといわれるが、もとより伝説の域を出ない。中国で文字が発明される以前は、縄の結び目によって数や事柄を伝えたといわれるが、文字の始まりはきわめて単純な線の組合せであった。その後、夏(か)、殷(いん)の時代(前1500ごろ〜前1050ごろ)になって、亀甲(きっこう)や牛・鹿(しか)などの獣骨に小刀で線画のような文字を刻んだ甲骨文(こうこつぶん)が現れた。これらは、国家の大事、戦争や狩猟や農事を占った記録であり、清(しん)朝の末期(1899)に、殷の都の跡といわれる河南省安陽県小屯(しょうとん)で多数の甲骨片や古印が発掘され、古代文字の存在が明らかになった。同じ遺跡から陶片に墨で下書きしたものも発見され、古代にすでに今日の筆に近いものや墨が用いられていたことがわかる。また殷時代には銅器に絵文字のような銘文が刻まれた。これを金文(きんぶん)という。近年これらの古代文字の芸術性が注目されるに至った。このように形象・表意文字である漢字は、創生の始めから書体、書風という造形的な要素が重視され、実用の記号文字としての範囲を越えて、芸術として鑑賞される宿命をもっていた。  殷に続く周時代は西周から東周に分かれ、やがて春秋戦国(前8世紀〜前3世紀)の世となって、封建諸侯の勢力は拡大し、周王室は衰えた。文書、記録の類は多くなり、文字の数も増したが、政治が地方に分立してから字形の混乱がおこり、正式な書体や略式の書体とともに装飾文字ができた。これは、銅器の鐘の銘文や銅貨幣、兵器の剣や矛(ほこ)などに金象眼(ぞうがん)して施された。後世「鳥書(ちょうしょ)」とよばれるデフォルメされた文字もその一つである。  また石鼓(せっこ)とよばれる太鼓のような形の石に文字を刻んだものが10個、唐代に発見されたが、成立年代は東周あるいは戦国初期と推察され、石に刻まれた文字としては最古の遺物で、この石鼓文の書体を大篆(だいてん)あるいは籀文(ちゅうぶん)(周王室の史官、史籀(しちゅう)の書いた文字)とよぶ。  この時代にはまだ紙はつくられておらず、帛(はく)(布)や竹に文書が記された。1930年代の後半、湖南省長沙(ちょうさ)の古墳から、帛に書かれた絵と文字からなる文書が発見され、また1950年代の初め、同じ長沙遺跡から、竹の細長い片に墨書された竹簡(ちつかん)が発見された。これらは副葬品の目録とみられ、戦国末期の楚(そ)のものと認められている。肉筆による古代の筆写体文字の最古の資料として貴重である。 ■書体の分化と発展■周が滅び戦国時代を経て、やがて秦(しん)(前221〜前206)が天下を統一すると、始皇帝は自国の文字を中心にして、混乱していた書体の統一を図った。 統一以前の文字を大篆(籀文)とよぶのに対し、統一後の文字を秦篆(しんてん)または小篆(しょうてん)という。始皇帝は各地に自らの頌徳(しょうとく)碑を建設させたが、大臣の李斯(りし)は始皇帝のために多くの刻石に筆を振るった。現存するものに始皇28年(前219)の紀年のある『泰山刻石(たいざんのこくせき)』『琅邪台刻石(ろうやだいのこくせき)』がある。あらゆる制度文物を統一しようとした始皇帝は度量衡も官製の原器をつくり、秤(はかり)に詔書を刻んで民間に配布した。  秦が滅びたのち、漢の高祖は都を長安に定めた。漢時代は前漢(前202〜後8)と後漢(ごかん)(25〜220)に分かれるが、当初は秦時代の篆書がそのまま用いられていた。 しかし、装飾的で複雑な篆書は文書の作成に不便で、簡素化された隷書(れいしょ)が下級官吏の間で発明され(隷は賤(いや)しい者の意)、やがて一般もこれを用いるようになった。初期のものを古隷(これい)といい、後漢のころの字形の整った左右均整の華麗な字体を八分(はっぷん)という。篆・隷は縦横の字画が均整で、終わりの筆を右にはねるようにして止める。これを波勢(はせい)という。漢時代は一般的には隷書が用いられたが、印や鐘銘など荘重な書体を必要とする箇所にはまだ篆書が用いられていて、当時盛んになった碑は、頭部の題字だけは篆書で書くことが行われた。これを篆額(てんがく)(額は頭部の意味)といい、現在でも碑文にこの形式を踏むことがある。  漢末には、隷書のなかで使用頻度の高い文字は徐々に単純化されて草書(そうしょ)が現れた。これを古草(こそう)という。古草から章草(しょうそう)が生まれた。漢の章帝が発明したとも、皇帝に章奏する書に用いたからともいわれる。この時代の草書は篆・隷の影響で、おもな字画や終わりの筆は下に続けず右にはね出すのが特徴である。のちに草書は下の字画へ続けて流すようになり、連綿体(れんめんたい)が生まれた。また隷書の速書きから行書(ぎょうしょ)が生まれた。行書は漢の劉徳昇(りゅうとくしょう)の発明といわれる。これと前後して今日の楷書(かいしょ)も形成された。こうして漢末には篆・隷・草・行・楷の漢字の五体がほぼ出そろい、以後は字体の変化はなく、書風が問題にされるようになる。  20世紀の初め、中国の西域(せいいき)地の楼蘭(ろうらん)、敦煌(とんこう)、居延(きょえん)などの遺跡から、各国の学術探検隊によって、1万2000点に及ぶ漢・晋(しん)時代の木簡(もっかん)が発掘された。木簡は、木をそいで1片に1行10字前後の文字を墨書したもので、この木片を簾(すだれ)のように編んだものを冊(さく)という。また1972年に前漢時代の二つの墓(馬王堆(まおうたい)1号墓と2号墓)からは多数の竹簡が発掘された。これらの木簡・竹簡は日常の記事や公用書を筆記した実用の書で、用筆もきわめて簡略で、書かれた年が記してあるものが多く、漢から晋に至る字体の成立発達過程をたどる史料として重要である。  木簡とともに西域出土の肉筆史料として写経がある。これらは紙に筆・墨を用いて、通常の行・草よりやや謹厳な楷書風の筆法で書かれている。ところで、紙は後漢の初期に蔡倫(さいりん)によって発明されたと伝えられる。それ以前は木簡のほかに絹の布(帛)があったが、高価であった。紙の普及は書の発達に重大な影響を及ぼした。手に持って書いた木簡から、机のような平面の上に紙を広げて書くようになり、書写材料の変化は、当然、運筆の姿勢にも変化を及ぼし、紙に書写することによって、書はいっそう芸術的に表現されるようになった。後漢時代の多くの美しい隷書の碑は、まず紙に書いてから石工が刻んだものと考えられている。  この時代の書家には、篆・隷に曹喜(そうき)、章草に蔡■(さいよう)、杜度(とたく)、張芝(ちょうし)らがおり、また後漢の許慎(きょしん)は『説文解字(せつもんかいじ)』を著して漢字の造字法や転用法を説いた。 ■王羲之の出現と中国書道の確立■漢の滅亡(220)ののち、魏(ぎ)・蜀(しょく)・呉(ご)の三国の対立時代となり、晋(しん)が統一するが(265)、やがて北方民族に押された漢民族は南に移って東晋を建て、揚子江(ようすこう)流域には華やかな六朝(りくちょう)文化が栄えた。  漢時代におこった書は、魏の鐘■(しょうよう)、東晋の王羲之(おうぎし)、王献之(おうけんし)が出るに及んで、中国書道の最高峰となった。  王羲之は官名によって王右軍ともよばれる。古来の書の表現方法を集大成し、貴族的な清明な書風で、楷・行・草の三体の書芸術を完成し、書聖と仰がれる。その影響は中国、日本を通じ、広く長く後世に及んだ。羲之の書として伝えられるものに、行書の『蘭亭序(らんていじょ)』『集字聖教序(しゅうじしょうぎょうのじょ)』、草書に『十七帖(じょう)』『喪乱帖(そうらんじょう)』『孔侍中帖(こうじちゅうじょう)』、楷書に『東方朔画賛(とうぼうさくがさん)』『楽毅論(がっきろん)』がある。これらはいずれも真蹟(しんせき)は伝わっていない。臨模(手本を見て書く)か双鉤填墨(そうこうてんぼく)(真蹟の上に薄い紙をのせ細い筆で輪郭をとり、これを墨で埋める、いわゆる籠字(かごじ))したり、それをさらに石に刻み拓本にとったものである。羲之の書はほとんどが尺牘(せきとく)(手紙)で、有名な『蘭亭序』も一字の大きさは約2センチ、いずれの文章も短いが、一字ごとにくふうが凝らされ、書としての妙が尽くされている。  王献之は羲之の第7子で、若いときから書に優れ、つややかさは父をしのぐとさえいわれた。作品には『洛神賦(らくしんふ)』(楷)、『中秋帖(ちゅうしゅうじょう)』(草)などがあるが、これも真蹟は伝わっていない。父を大王、献之を小王とよび、この2王によって中国書道の基礎は確立された。  晋に続く南北朝(420〜534)には仏教の影響で写経が盛んになり、楷書で美しく書かれた写経体が生まれた。また南朝のころに雑体(ざったい)の書が流行し、これは唐代まで続いた。これは篆・隷をデザイン化した装飾文字で、正倉院の『鳥毛篆書屏風(びょうぶ)』にみられるような華麗な色彩を施した工芸品が室内装飾に使われた。  江南に対し華北の地に建ったモンゴル系の北魏(ほくぎ)には、碑、磨崖(まがい)、墓誌(ぼし)など多くの石刻があり、角張った緊密な構成と剛健な書風で注目される。ことに墓誌の類は雄偉な楷書で刻され、地上に建てず墓中に埋められたので、風化を免れており、近世になって発掘され再認識されている。 ■書風の発達■隋(ずい)の南北統一はわずかの期間にすぎなかった(589〜618)が、隋によって築かれた新文化は唐(618〜907)に受け継がれ、長い平和によって文学、芸術の花を開き、書道の黄金時代を現出した。このころ、遣唐使によって日本にも書の名品が数多く伝わり、習字が盛んに行われるようになった。隋・唐時代はとくに王羲之の書風が重んぜられた時代で、隋代の釈智永(しゃくちえい)は王羲之7世の孫にあたり『真草千字文(しんそうせんじもん)』を書いている。初唐に入ると、品格ある書風の虞世南(ぐせいなん)(『孔子廟堂(びょうどう)碑』など)、方正峻厳な書の欧陽詢(おうようじゅん)(『九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんのめい)』など)、初唐の楷書の頂点ともいえる清麗な書を残した■遂良(ちょすいりょう)(『雁塔聖教序(がんとうしょうぎょうのじょ)』など)の三大家が出た。また科挙(かきょ)(官吏採用試験)の科目の一つに書が取り入れられ、書道が政治家や官吏になるための必須(ひっす)の教養とされた。  唐の太宗皇帝(在位627〜649)は書に対するなみなみならぬ情熱をもち、自身も『温泉銘』などで知られるような名手であったが、王羲之の書を熱愛し、広く天下に詔して羲之の真蹟を集め、写させた。なかでも永年求めていた『蘭亭序』を手に入れると、数多く臨模させ、真蹟は崩御の際、棺に入れて葬らせた話は有名である。こうして王羲之の書風は広く世に伝えられ、唐代の書道の隆盛に拍車をかけたばかりでなく、わが国にも伝えられて、日本書道にも大きな影響を及ぼした。  唐の中期になると、こうした風潮に飽き足らず、新しい書風が生まれた。孫過庭(そんかてい)は『書譜(しょふ)』を著して従来の伝統を尊重すべきことを説いたが、唐の中興を成し遂げた玄宗(在位712〜756)の時代には、李白(りはく)、杜甫(とほ)らの詩の全盛と呼応して、剛直重厚な書風の顔真卿(がんしんけい)(『争座位帖(そうざいじょう)』など)をはじめ、李北海(りほっかい)、賀知章(がちしょう)、徐浩(じょこう)ら多くの著名な書家を輩出した。また漢・秦にさかのぼって篆・隷を研究しようとする復古主義の傾向や、張旭(ちょうきょく)(草書帖)、懐素(かいそ)(草書千字文)のように、新しい草書による革新的な書の追究は、次の宋(そう)・元(げん)・明(みん)時代の狂草体(感興に任せて速いスピードで書く草書)の先駆となった。 ■宋代以降の書■唐末の混乱から天下を統一した宋(960〜1279)は、北宋から南宋へおよそ320年続くが、このころになると、王羲之らの筆法を学ぶには、複製のさらに複製となって、真蹟とはあまりにも遠く、形骸(けいがい)化し、かわって独特の浪漫(ろうまん)的な書風が生まれた。また古代の篆書への関心がいっそう高まったのもこの時代の特徴である。米■(べいふつ)(元章)は書画ともに優れ、書は行書を得意とした(『蜀素帖(しょくそじょう)』など)。蘇軾(そしょく)(東坡(とうば))は文学と書で当代随一といわれ、豪放な書風で後世に影響を及ぼした(『黄州寒食詩巻』など)。また蔡襄(さいじょう)は政治家・文人として優れ、楷・行をよくし、黄庭堅(こうていけん)は草書に妙味をみせた。これら宋の四大家のほかに、北宋の徽宗(きそう)も独特の書を残した。徽宗は帝王としては失敗したが、文化興隆のうえでは歴史に名を残す功労者である。自身書画をよくし、この時代に文房具などの趣味が盛んになったのも徽宗の力によるところが大きい。南宋では徽宗の子の高宗も優れた楷書を残している。また張即之(ちょうそくし)は禅思想による独特の書をかいた。宋代には諸産業がおこり、書道文化に関係の深い紙・墨・筆などの特産品が各地に現れた。また印刷術が発達して、手による書写にかわって、印刷による書籍が普及したのもこの時代の大きな特色である。  モンゴル民族の建てた元王朝(1271〜1368)では、趙子昂(ちょうすごう)が出てふたたび王羲之への古法が復活した。また宋・元時代に盛んになった禅宗の僧の筆跡は、書法に拘束されない自由な筆法で人格の発露とみられ、ことにわが国の鎌倉期に墨跡とよばれて珍重された。  明(みん)代(1368〜1662)末期になると、いままでにない長く大きな条幅が盛んに書かれるようになり、そうした紙幅の形式にあうような連綿体の草書が流行した。  満州から興った清(しん)(1616〜1911)の諸帝も書を好み、漢碑や唐碑の調査、金石文の研究も盛んになった。また古銅器の発見や整理から、元や明時代に生まれた文人による篆刻(てんこく)がこの時代にさらに発達した。いわば清時代は中国の書の大成の時期といえる。しかし全体の傾向としては、時代の下るにしたがって低下の傾向をたどったのはやむをえない。第二次世界大戦中の中国では、知日家としても知られる郭沫若(かくまつじゃく)の書名が高い。戦後の文化革命以後は文字改革が行われ、簡略化が進められている。また考古学研究が全土にわたって活発に行われ、それによる書道史の新しい発見が期待されている。 ■日本書道史■ ■中国書道の影響■日本における文字の使用は漢字の伝来に始まる。かつてはそれに先行する「神代文字」の存在が主張されたこともあったが、今日では否定され、日本は固有の文字をもたなかったという結論に達している。 1世紀なかば中国の後漢(ごかん)の光武帝(在位25〜57)のとき、北九州の一角にあった奴国(なのくに)の王がもらったという「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印が文字遺品として最古のものである。『古事記』に応神(おうじん)天皇のとき王仁(わに)が百済(くだら)から来日して『論語』10巻、『千字文』1巻を貢進したとあるが、大和(やまと)朝の早い時期から朝鮮半島とは密接な関係があり、中国へもたびたび日本から使を派遣したことが中国の『後漢書』『魏志』(ぎし)などに記録されている。5世紀ころには日本でも漢字の学習が盛んになったことは、各地の古墳から出土する鏡や埼玉県稲荷山(いなりやま)古墳出土の太刀(たち)の象眼(ぞうがん)銘、「宇治橋断碑(うじばしだんぴ)」などの古碑、「法隆寺薬師光背銘(ほうりゅうじやくしこうはいのめい)」などから想定することができる。  6世紀になると漢字・漢文の学習が本格的になり、607年(推古天皇15)聖徳太子は小野妹子(おののいもこ)を隋(ずい)に派遣して、中国文化を直接日本に取り入れた。これより仏典も輸入され、墨・紙・筆の製法も伝えられた。聖徳太子の真筆とされる『法華義疏(ほっけぎしょ)』は、現存する最古の肉筆の書としてきわめて重要である。こうした日本の書の黎明(れいめい)期は六朝(りくちょう)風の影響を強く受けている。  奈良時代(710〜783)は7代約70年続くが、この間に中国では隋が滅びたのち唐が大陸を支配し、長い安定期に入る。わが国は唐と修交を続け、前後6回にわたる遣唐使の派遣によって、唐都長安の流行がそのまま伝わり、唐の文物制度がほとんど採用された。 唐の書家の名跡や、王羲之(おうぎし)、王献之らの精妙な模本も入って、当時の人々が直接それらを学習していることは注目に値する。日本人の手になる唐風の優れた書として、聖武(しょうむ)天皇の宸翰(しんかん)『雑集』(ざっしゅう)、光明(こうみょう)皇后の臨書『楽毅論』(がっきろん)『杜家立成雑書要略』(とかりゅうせいざっしょようりゃく)などがあり、これらは整然とした楷・行書で書かれていて、唐の専門家の書と比べても遜色(そんしょく)がない。  飛鳥(あすか)時代に渡来した仏教は、天平(てんぴょう)年間(729〜749)国をあげて信仰されるようになり、国立の大規模な写経所が設けられ、仏教にかかわる文物が多く残された。なかでも写経は書の遺品としてもきわめて重要である。「正倉院文書(もんじょ)」とよばれる約2万点の古文書のなかには、写経生が王羲之の書を手本として習字した落書きが残されている。また同文書の一つである『東大寺献物帳』によれば、20巻に及ぶ王羲之の臨書があったことが記されており、当時、王羲之の書法がもっとも珍重されていたことがわかる。 ■和様書道の開花■平安時代は日本における書の一つの頂点をなす時代である。その初期は前代に続いて唐文化の移植が盛んに行われ、弘法(こうぼう)大師空海(くうかい)や伝教(でんぎよう)大師最澄(さいちょう)、橘逸勢(たちばなのはやなり)らが入唐(にっとう)して晋(しん)・唐の書風を会得し帰国したが、その際、仏画・仏具とともに唐の書家の筆跡類も持ち帰った。空海はこの時代の能書の代表的存在で、最澄にあてた手紙『風信帖(ふうしんじょう)』、『三十帖冊子』は王羲之風を基調とした重厚端麗な書体で書かれ、後世に深い感化を及ぼした。また詩文に長じた嵯峨(さが)天皇は空海について書を学び、『光定戒牒(こうじょうかいちょう)』などの雄渾(ゆうこん)な書を、橘逸勢は『伊都(いと)内親王願文(がんもん)』で唐風の行書を残している。この空海、逸勢、嵯峨天皇の3人を後世「三筆(さんぴつ)」とよんだ。このほかにも、空海とともに入唐した天台宗の開祖最澄(『久隔帖(きゅうかくじょう)』など)、藤原敏行(としゆき)(『神護寺鐘銘』など)は唐代最高の書法を今日に伝えている。  平安中期になると、盛大な唐も衰運に傾き、宇多(うだ)天皇の寛平(かんぴょう)6年(894)菅原道真(すがわらのみちざね)の進言によって遣唐使が停止されると、和様の書がおこり、日本独自の書芸術を高めていった。 10世紀に小野道風(おののとうふう)(『屏風土代(びようぶどだい)』『玉泉帖(ぎょくせんじょう)』など)は王羲之から出発した雄渾豊麗な草書で古今に優れ、藤原佐理(すけまさ)(『詩懐紙(しかいし)』『離洛帖(りらくじょう)』など)は唐様(からよう)を離れて自由奔放な筆跡を残し、藤原行成(ゆきなり)(『白氏詩巻』など)は、官は権大納言(ごんだいなごん)に進み、流麗な書風で世尊寺(せそんじ)流の祖となった。この3人の書は野蹟(やせき)、佐蹟(させき)、権蹟(ごんせき)とよばれ、いわゆる「三蹟(さんせき)」として、前期の三筆とともに日本書道の黄金期を築いた。  中国から渡来した漢字は書写や記録に便利だったが、日本語で情感や思想を表現するには表記上、無理があった。そこで、漢字の音(おん)だけを借用して一字一音式に国語を書き出すくふうがなされ、『万葉集』のような和歌を詠む場合に用いた。これを後世「万葉仮名(まんようがな)」といい、楷書で書かれたので真仮名(まがな)という。これを草書体で書いたものを草(そう)仮名といい、さらに大胆に書き崩したのが女手(おんなで)という書体になった。女手とは、男子は漢字を学ぶ必要から楷・行書を主としたので男手(おのこで)というのに対し、漢字の知識に乏しい女性専用文字という意味であったが、実際には男性も用い、のちに女手は平(ひら)仮名とよばれるようになった。紀貫之(きのつらゆき)は『土佐日記』の冒頭、「男もすなる日記というものを女もしてみんとて」と女性作者になりすまして書いているように、女手すなわち仮名で歌や文章を綴(つづ)ることがこのころから盛んになった。貫之は『古今和歌集』の撰者(せんじゃ)の1人として仮名書きの序文を書いているが、漢詩漢文学の衰退にかわって和歌が大流行し、貴族社会の日常教養に不可欠のものとなった。新しい日本文字である仮名は書道に革命をもたらした。多くの能書家が出て競い合い、漢字と調和した気品高く情趣ある、いわゆる上代様(じょうだいよう)とよばれる仮名書きの和様書道が完成、優れた作品を生んだ。平安前期の仮名の代表的作品『寸松庵色紙(すんしょうあんしきし)』(伝紀貫之)、『継(つぎ)色紙』(伝小野道風)、『升(ます)色紙』(伝藤原行成)は、散らし書きの構図のなかに仮名の感覚的な美を盛り込んでいる。  平安中期から鎌倉前期まで、10世紀から13世紀ころまでに書かれた仮名書きの作品(多くは和歌集)を古筆(こひつ)とよんでいる。古筆のもとの形は、1冊の冊子本か1巻の巻物であったが、のちに近世初期に茶の湯が盛んになり、茶室の掛物に使われるようになって、これらの冊子や巻物は一紙、半紙に切断されて多くの断簡となり、これらは「切(きれ)」といって諸家に愛蔵された。有名なものに『貫之自家集切』、3種の異なった筆跡を含む『高野切(こうやぎれ)』(古今和歌集断簡)、『石山切(いしやまぎれ)』などがあり、筆者はほとんど推測の域を出ないが、当時能筆家として名が高かった紀貫之、藤原公任(きんとう)、藤原行成らの名があげられてきたが、なかには研究の結果、源兼行(かねゆき)、藤原伊房(これふさ)、藤原基俊(もととし)、藤原定信(さだのぶ)らの真蹟が確認されている。  仮名書きの華麗な書風は料紙の工芸美を生み、染紙(そめがみ)、唐紙(からかみ)、雲紙(くもがみ)、墨流しなどの美しく加工した紙が用いられた。唐紙はもと中国から渡来したものだが、平安時代になると国産品の美しい唐紙を生産した。これは、胡粉(ごふん)を刷(は)いた地に、雲母(うんも)で文様をすり出したものである。なかでも平安後期の傑作『本願寺本三十六人集』(1112年ころ書写)は20人ほどの能書家の分担執筆、いわゆる寄合書(よりあいがき)であるが、唐紙のほかにいろいろの紙を用い、それを、破り継ぎ、切り継ぎ、重ね継ぎなど精巧な継紙(つぎがみ)の技法を凝らして変化をつけ、なおその上に装飾下絵(そうしょくしたえ)や金銀の箔(はく)を散らして料紙の艶麗(えんれい)変化の妙を尽くしている。こうした料紙の工芸美は仮名ばかりでなく、写経にまで及び、『平家納経(へいけのうきょう)』『久能寺経(くのうじきょう)』『扇面法華経(せんめんほけきょう)冊子』などの装飾経にも及んだ。 ■書道流派の発生■平安末期から鎌倉時代にかけて貴族階級の衰微と武家階級の台頭という社会現象に伴い、仮名書道は概して振るわなくなった。藤原忠通(ただみち)は粘りのある重厚な書をかき、後世、法性寺(ほっしょうじ)流とよばれた。『千載和歌集』の撰者として知られる藤原俊成(しゅんぜい)は鋭い筆致をみせながら奇癖に富んだ独特の書風をたて、のちに俊成(しゅんぜい)流とよばれた。その子定家(ていか)は『新古今和歌集』を撰し、いわゆる定家流とよばれる書風をおこした。平安朝の能書家藤原行成の子孫は世尊寺流を継いで、宮廷の右筆(ゆうひつ)として書道界の中心勢力となったが、鎌倉末期には世尊寺流の流れをくむ伏見(ふしみ)天皇の皇子尊円(そんえん)親王の青蓮院(しょうれんいん)流が広まった。これは御家(おいえ)流として室町〜江戸時代を通じて幕府・朝廷の公私の文書の標準書体に用いられ、一般にも個性のない低俗な書体として流布した。このように世襲による書法の伝統を伝える努力もあったが、いたずらに因襲的な様式を授受するにとどまった。  当時ややもすれば沈滞ぎみであった鎌倉期の書道に清新の気を吹き込んだものは、禅僧によって中国から移入された宋(そう)・元(げん)の書道である。鎌倉時代には大陸との交流が復活し、栄西(えいさい)、道元(どうげん)、俊■らは入宋(にっそう)して、当時の新興仏教であった禅宗を日本に伝えるとともに、蘇東坡(そとうば)や黄庭堅らの書風を紹介し、また中国から蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)(建長寺開山)、無学祖元(むがくそげん)(円覚(えんがく)寺開山)、一山一寧(いっさんいちねい)ら高僧が相次いで来朝帰化した。禅宗の簡素で剛直な精神と生活態度は武士階級の共感をよび、京都、鎌倉を中心に崇敬された。これら禅僧の書は技法を超えた破格法外の書として尊ばれ、墨跡とよばれる。清雅な草書に優れた夢窓国師(むそうこくし)、気宇雄大な大燈(だいとう)国師の遺墨はこの時代の代表的なものといえる。禅僧以外では日蓮(にちれん)が気概、品格ともに優れた書を残している。  墨跡の影響は天皇や公卿(くぎょう)にも及んで、宸翰様(しんかんよう)とよばれる気品ある独特の書風を生んだ。後深草(ごふかくさ)、伏見(ふしみ)、花園(はなぞの)、亀山(かめやま)、後宇多(ごうだ)、後醍醐(ごだいご)ら歴代天皇はいずれも従来の宮廷の和様書道にない宋風の影響を受けた書を残した。ことに伏見天皇は歴朝中屈指の能書帝として名高く、後醍醐天皇は力に満ちた覇気あふれる書を残し注目される。  室町時代は戦乱相次ぎ、書道は和漢ともに低調であったが、東福寺の了庵桂悟(りょうあんけいご)は明(みん)に留学して王陽明と交わった。大徳寺の一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は豪放な書を残し、圜悟(えんご)禅師の墨跡を茶道の祖村田珠光(じゅこう)に与えたが、これより茶道で禅僧の墨跡を重んずる風がおこり、墨跡といえばただちに禅僧の書をさすようになった。またこの時代に懐紙、色紙、短冊(たんざく)などの使用が盛んとなり、やがてそれらの寸法が規格化され、料紙や書式が整った。 ■和様の再興と唐様の展開■打ち続く戦乱を経て天下は統一され、迎えた江戸時代(1603〜1867)は革新の気がみなぎり、久しく沈滞していた和様書道も活気を呈し、近衛信尹(このえのぶただ)、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)、松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)のいわゆる「寛永(かんえい)の三筆」が出て、ともに伝統を破って新しい書風を樹立した。 とくに本阿弥光悦は絵画、工芸の分野でもたぐいのない創造性をもって新境地を開いた。 烏丸光広(からすまみつひろ)は歌人としても有名で、初め光悦に書を学び、一時は定家流に傾いたが、のち自由奔放な性格そのままに闊達(かったつ)な独自の書風を展開した。  一方、禅宗の一派である黄檗(おうばく)宗の僧たちによって明(みん)との交流が盛んになり、唐様(からよう)の書も新たな展開をみせた。  4代将軍徳川家綱のとき、1654年(承応3)隠元(いんげん)が明から来朝帰化し、宇治に黄檗山万福寺(まんぷくじ)を建てたが、その穏和な書は人柄とともに世に親しまれ、同じころ来朝した独立(どくりゅう)は本国においてすでに書名が高く、草書に巧みであった。こうして明の書風が伝えられると、気迫に富む唐様の書が流行し、北島雪山(せつざん)は長崎で明の文徴明(ぶんちょうめい)の技法を研究して江戸時代における唐様の先駆者となった。雪山の門下、細井広沢(こうたく)は師より相伝の執筆法を著し、江戸に唐様を広めた。広沢の『西湖十景』(東京国立博物館)は明の張寧(ちょうねい)の詩を楷・行・草・隷・篆(てん)の各体に書き分けたものである。江戸中期には長崎を門戸として、中国の法帖、碑拓や文献が舶来し、それらの翻刻によりわが国の唐様は一段と活気を呈した。幕末、江戸では市河米庵(いちかわべいあん)は宋の米■に心酔し、書学の基礎に詳しく多くの著述を残した。京都では貫名菘翁(ぬきなすうおう)(海屋(かいおく))がわが国に古くから伝わる唐時代の書跡に注目し、格調の高い唐様の書を完成した。巻菱湖(まきりょうこ)は晋・唐の書を尊び、書体の源流を研究し、平明な書をかいた。この3人を「幕末の三筆」という。  これら専門の書家以外に文人墨客の書にもみるべきものが多い。江戸時代は文人趣味が流行したが、これは中国の明・清(しん)時代の文人墨客に倣って詩・書・画を重んじ、時流には超然として、教養や個性的な人間性を表現したものである。越後(えちご)の人良寛(りょうかん)は王羲之、懐素を研究し、また小野道風の『秋萩帖(あきはぎじょう)』を習得して超脱自在の書境に至り、池大雅(いけのたいが)も超俗の書画を残した。このほか与謝蕪村(よさぶそん)、田能村竹田(たのむらちくでん)、大窪詩仏(おおくぼしぶつ)らがおり、頼山陽(らいさんよう)は米■に傾倒して個性の強い書を残した。  和様の書は江戸初期には活気もあり、それらの法帖もつくられて流布したが、その後流派を守るに汲々(きゅうきゅう)として低調であった。後期はわずかに加藤千蔭(ちかげ)、村田春海(はるみ)、香川景樹(かげき)らの歌人の書を数えるにすぎない。江戸時代は唐様の影響で行・草書が流行し、そうした時代を反映して書体字典が盛んに刊行された。行書字典の『行書類纂(るいさん)』(関克明選集)、草書字典の『草露貫珠(かんしゅ)』(水戸彰考館編)など数多く刊行されている。 ■現代書道の流れと展望■明治以後も唐様の流派はなお勢力を保っていたが、1880年(明治13)清の学者楊守敬(ようしゅけい)が1万点余の漢・魏・六朝・隋・唐の拓本を携えて来朝した。これまでわが国でみることのなかった5、6世紀ころの北魏を中心とする碑法帖は書道界に多大の刺激を与え、楊守敬の指導を受けた日下部鳴鶴(くさかべめいかく)、巌谷一六(いわやいちろく)は書道界に新風を巻き起こした。ことに鳴鶴は門人の育成に努め、その流派は一時全国を風靡(ふうび)した。また中林梧竹(なかばやしごちく)は中国に渡って楊守敬の師の潘存(はんそん)に直接師事し、漢・魏・六朝の書法を研究して帰国し、芸術的な作品を発表して注目された。このほか西川春洞(しゅんとう)、中村不折(ふせつ)、俳人の河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)らも六朝風の書家として知られる。中国では清末、篆・隷とあわせて篆刻に長じた書家が多いが、その影響で明治以後の書家で篆刻をよくする円山大迂(まるやまだいう)、桑名鉄城(てつじょう)、浜村蔵六(ぞうろく)5世らが出た。  和様の書では、当時の極端な欧化主義に反発して大口周魚(おおぐちしゅうぎょ)、多田親愛(しんあい)に次いで田中親美(しんび)らが古筆を研究し、阪正臣(ばんまさおみ)、小野鵞堂(がどう)らの温和な書風が一時流行したが、のちに尾上柴舟(おのえさいしゅう)、吉沢義則(よしざわよしのり)が出て上代様の仮名を唱えた。また画家の吉川霊華(きっかわれいか)は孤高の存在を示した。  日下部鳴鶴の弟子比田井天来(ひだいてんらい)は師風に追随せず、碑法帖や木簡を研究し、古典美のなかから心象表現としての書の現代美を追究して新境地を開いた。彼は弟子にも独自の道を歩ませ、門下から多くの前衛作家を出した。  明治以来、学校教育が急速に普及し、習字が教科に組み入れられて書道塾も盛んになった。これとともに各種の書道団体が結成された。1924年(大正13)の日本書道作振会をはじめとし、泰東書道院、東方書道会、大日本書道院その他ができ、条幅のような大作を素人(しろうと)も書くようになり、書家はその技量を展覧会の大作で競うようになった。 第二次世界大戦後は書も動揺混乱の時期があったが、まもなく再興し、毎日書道展、日展の権威ある書道展のほかに大小の書道展が催され、書はもはや書斎や教場のものではなく、展覧会作品を中心として、一般にも鑑賞されるようになった。戦後多くの著名作家が輩出したが、豊道春海(ぶんどうしゅんかい)、鈴木翠軒(すいけん)、安東聖空(あんどうせいくう)、西川寧(やすし)、手島右卿(てじまゆうけい)、日比野五鳳(ひびのごほう)らは文化功労者に選ばれ、ことに日比野は仮名の作品に独自の境地を開いた。一方、書のブームにのって書道塾も空前の盛況をみせている。 ■墨象■戦後の一つの傾向として、従来のような詩文を書き連ねることに飽き足らず、保守・伝統に反抗して、文字をかかない書の「前衛書道」または「墨象」とよばれる書芸術がおこった。読むことができない草書や行書の詩文や変体仮名よりは、抽象絵画と同じく表現主義的な立場から、自由に書に造形美を求めるべきだとして、上田桑鳩(そうきゅう)、井上有一(ゆういち)、宇野雪村(せっそん)、森田子龍(しりゅう)、篠田桃紅(しのだとうこう)らの作家が出た。前衛書道は書とは認めがたいとする人もいるが、彼らの大胆な試行提言は、保守的な書道に反省を促し、近代化に役だち、欧米の注目を集めたことは否めない。〈小松茂美〉 (C)小学館


 

せいあん【西安】■西安 シーアン(原語読み) 中国、陝西(せんせい)省の省都。旧称長安、西京。現代中国の八大都市の一つであり、北京(ペキン)、南京(ナンキン)、洛陽(らくよう)と並んで四大古都にも数えられる。歴史的に関係の深い日本の京都、奈良と友好都市関係を結んでいる。人口約294万(うち市区は約218万、1982)。市域に長安県など六県を含む(1984)。

 黄河中流の一支流である渭河(いが)の形成する平野のほぼ中央にあり、肥沃(ひよく)な黄土による沖積土壌、適度な温度(年平均15.8度C)、降水量(年490ミリ)などの安定した自然条件に恵まれ、中国でもっとも早く農耕文明が発達した土地であった。周辺には多くの新石器時代遺跡があるが、とくに著名なものは市東郊にある半坡(はんぱ)遺跡で、仰韶(ぎょうしょう)文化の代表遺跡として知られている。この地域を基盤に原始国家を形成した周は、紀元前11世紀には中原(ちゅうげん)に東進して殷(いん)を破り、黄河中・下流域で最大の勢力となったが、その中心となったのが市西郊の■水(れいすい)を挟んで建てられた豊京(ほうけい)と鎬京(こうけい)であった。その後、秦(しん)もここに咸陽(かんょう)を置き、前漢の長安に引き継がれ、古代中国の中心都市となった。長安は南北朝分裂期においても、前秦、後秦、北周など北朝の国都となり、隋(ずい)、唐にはふたたび全国の中心となった。しかし経済の重心が南に移行するとともに、長安は政治・文化の中心ではあっても経済基盤に欠けたため、五代の混乱期を経て北宋(そう)になると、都は華北平原の大運河に沿う開封(かいほう)に置かれ、以後長安は地方都市となったが、伝統に支えられた特殊な地位をもつ中心地であった。明(みん)代に西安府が置かれてからは一般にはその名でよぶようになった。以後、1928年に西安市が設置され、30年に西京市と改称されたが、43年にもとの西安市に改められた。36年に発生した西安事件は国共交渉史上の重要な事件であった。

 その歴史のなかで都市がもっとも繁栄したのは唐代で、東西9.7キロ、南北8.7キロにわたる長方形の都城が築かれ、中央北部に皇城(皇帝の執務処)と京城(皇帝の居処)が置かれ、そのほかは東西南北に整然と走る街路により110余の坊に区画されていた。その中には王侯貴族の邸宅、官庁、寺院、道観などの壮麗な建物がそびえていたほか、東西に市が置かれ、付近では商業、手工業が栄えた。最盛期には城内と郊外をあわせて100万の人口があったといわれる。唐代にはシルク・ロードを通じて西方の文物がもたらされ、長安はその東端にあたる一大国際都市であった。日本からも多くの人が訪れ、長安は日本古代の都市計画のモデルになった。しかし唐末の争乱のなかで都の大部分は廃墟(はいきょ)となり、わずかにかつての皇城を中心とした小規模な城郭が残されるだけであったが、明代にこれを基礎に西安府城が築かれ、これが今日の西安の原型となっている。

 現在の西安は、渭河平原周辺に多数分布する歴史遺跡や、南部にそびえる秦嶺(しんれい)山脈の美しい自然を観光資源として、中国有数の文化観光都市となっている。また西北地方への入口にあって、陝西のみならず西北全体の中心都市でもあり、機械・繊維などの軽工業に加え、最近は石油化学などの重工業開発も進められている。→長安 →渭河 →関中 →西安事件〈秋山元秀〉 (C)小学館スーパージャポニカによる


 

せいあんじけん ■西安事件 1936年12月、中国の西安で蒋介石(しょうかいせき/チヤンチエシー)が監禁された事件。 36年、旧東北軍の張学良(ちょうがくりょう/チャンシュエリヤン)は東北軍総司令として、西北軍総司令の楊虎城(ようこじょう)とともに陝西(せんせい/シエンシー)省北部の中共軍を包囲していた。張は剿匪(そうひ)総司令部(匪は中共をさす)の副司令でもあったが、彼の部下の兵士たちは、中共の内戦停止、一致抗日の呼びかけを支持していた。「先安内後攘(じょう)外」(国内平定が先決、外敵は後回し)という政策をとり、抗日運動を抑圧していた蒋は、自ら対共作戦督促のため、張軍の布陣する西安に飛んで華清池(かせいち)に滞在した。ちょうど一二・九運動一周年に向けて西安の青年たちはデモを行い、張らを牽制(けんせい)した。張、楊は民衆の要求を背景に12月12日、蒋を逮捕し、内戦停止、抗日、政治犯釈放などを要求した。中共は南京(ナンキン)では親日派の何応欽(かおうきん/ホーインチン)が覇権をねらっていること、南京の親英米派は一定の条件のもとに抗日に参加しうることなどの状況判断にたって平和解決に乗り出し、25日、蒋介石は釈放されて南京に戻り、内戦は停止された。この事件は抗日民族統一戦線結成の契機となり、中国近代史における重要な転換点となった。 〈安藤彦太郎〉 (C)小学館


せっくつじいん■石窟寺院 岩山の断崖(だんがい)面を利用して掘削した洞窟形式の宗教建築。本来は修行者が隠遁(いんとん)する簡単な洞窟から発展したものである。主として、インドの三大宗教である仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教によってつくられ、その影響を受けて中央アジアや中国にも広まっていった。石窟寺院という語は英語のcave templeあるいはrock-cut templeの漢語訳で、略して石窟、窟院ともいう。中国では敦煌莫高窟(とんこうばつこうくつ)第17号窟を蔵経洞というように、個々の窟を洞とよぶこともある。現在もっとも古い石窟は、インドのビハール州にあるアージビカ派僧侶(そうりよ)の窟で紀元前3世紀に始まる。仏教窟は前2世紀ごろから現れ、石窟内にストゥーパを設けて礼拝するチャイティヤ窟(塔院)と、僧侶が修行する部屋を設けたビハーラ窟(僧院)の二形式ができ、しだいにビハーラ窟に仏像を置いて本尊として礼拝するように変化した。アフガニスタンでは紀元後4世紀にバーミアン石窟がつくられ、中国では4世紀中ごろに敦煌莫高窟がつくられ、やがて雲岡(うんこう)、竜門(りゆうもん)など各地でこのような形式の石窟が広まっていった。石窟内の壁面には信者に絵解きをするための釈迦(しやか)の本生譚(ほんじようたん)、仏伝図、造営者の伝記などを描いて荘厳(しようごん)した。朝鮮半島では慶州石窟庵(あん)や軍威石窟でわずかに石窟寺院に似た形式が伝わっているが、日本ではさらに退化したものとして摩崖(まがい)仏がつくられただけで、本格的な石窟寺院は発達しなかった。→アジャンタ →エローラ →バーミアン →敦煌石窟 →雲岡石窟 →竜門石窟 →慶州石窟庵〈江谷 寛〉 (C)小学館


たくほん■拓本 石や金属に彫られた文字や模様を、原形のまま紙に写し取ったもの、およびその技法。瓦(かわら)、磚(せん)、古碑、板碑、記念碑、文学碑、墓碑、釣鐘、摩崖仏(まがいぶつ)、鐔(つば)、刀銘、硯(すずり)、コインなどがその対象となる。  活字、印章、版画などは、写し取ったとき、文字を正面向きとするために左文字につくられており、魚拓では魚に直接墨汁を塗って紙に押し当てるため左右反対になるが、拓本は原物に紙を当て、その上から墨を打って凹凸の文様を写し出すので、文字はそのまま正面に原寸大で写し出され、刻み込んだ部分は白く、彫り残した部分は黒くなる。文字の点画や線の微妙な部分まで原寸大で見ることができるため、考古学や、碑文・鐘銘などの文字文章を研究する金石学の分野では、拓本は不可欠の重要な資料であり方法といえる。 また、白と黒のモノクロームで表現される簡素な美は、採拓者、墨の濃淡、天候その他の条件によって一枚一枚できあがりが異なり、数にも限りがあるので、その原始性が芸術作品として鑑賞の対象となっている。また、植物の葉や木目(もくめ)、木はだを拓本にとって、自然の造型美を味わう葉拓(ようたく)も拓本の一種である。 ■拓本の歴史■中国では真跡を紙本墨書で複製する場合、籠字(かごじ)にとり輪郭の中を墨で塗りつぶす双鉤填墨(そうこうてんぼく)が早く行われていたが、これと並んで碑の模本復刻も盛んに行われた。敦煌石窟(とんこうせつくつ)で発見された唐の太宗の『温泉銘』の拓本に、永徽(えいき)4年(653)の墨書があり、すでにこのころ拓本技術があったことがわかる。古くは打本あるいは搨(とう)本といい、碑から直接に写した拓本と、それをさらにもう一度石や木版に彫ってから拓本にしたものがあり、前者を原拓、後者を模本とか模拓という。これらの拓本を折本に仕立てたものを法帖(ほうじよう)といい、書道の名品として鑑賞され、学習の手本とされた。  日本では古くは石摺(いしずり)といい、技法は中国から伝来したと思われる。奈良時代には碑本が舶載され、鎌倉時代には仏照禅師によって達磨(だるま)以下禅僧の画像拓本がもたらされている。日本での採拓記録として、虎関師錬(こかんしれん)の『元亨(げんこう)釈書』に、義空が東寺の断碑を模印したことが記されている。これは拓本が金石文研究に使われたわが国最初の例といえよう。江戸時代に学芸が盛んになるのに伴い、古瓦(こがわら)・古碑・墓碑などの拓本が多くとられて珍重されるようになる。書家細井広沢(こうたく)は、模拓についての研究を行い注目された。写真技術の発達した現代でも、拓本は考古学や美術史研究のうえで重要である。 ■拓本のとり方■乾拓と湿拓の二つの方法がある。乾拓はコインやメダルの上に紙を当てて鉛筆の芯(しん)を斜めにしてこする遊びと同じ方法で、原物の上に紙を当て、動かないようにしっかりと押さえ、固形の拓本墨でまんべんなくこすりつけると、高いところは濃く、低いところは薄く写る。小品や繊細な文様のあるものや、ぬらすことのできない木彫りの作品などでは、この乾拓法を用いる。 ■湿拓法■原物の表面に当てた紙を、上から水でぬらして張り付け、墨のついたタンポでたたいて写し取る方法。碑などの採拓にはほとんどこの湿拓法が用いられる。(1)原物の寸法を測り、泥やほこりを払う。ただし、苔(こけ)などはなるべくそのままにし、現状を損じてはならない。(2)紙を適当な大きさに切り、碑面に当てて刷毛(はけ)で水を塗るか、霧吹きでまんべんなく湿らせる。四隅をセロファンテープで軽く留めるとやりやすい。ただ、テープなど粘着剤使用を禁じられている場合もあるので注意すること。(3)碑面と紙の間にできた気泡を、文字の中や碑面の外へ押し出し、紙を碑面に密着させる。 これには、羅紗(らしや)布や、ぬらしたタオルを固く巻いたものを用いる。(4)さらに、毛の短いブラシか、脱脂綿をフェルトに包んで棒状にしたもので、打ち込むように手早く、かつ念入りにたたき、文字の線がはっきり出るようにする。(5)紙がいくぶん湿り気を残しているうちに、タンポで採拓する。タンポは二つ持ち、一方のタンポに墨をつけ、もう一つのタンポとこすり合わせて墨加減をならし、余分の紙で濃さを確かめたら、手早く紙面全体をたたいてゆく。初めは薄くし、何度も重ねてたたいて墨の濃さを一様にする。タンポは紙面に対して直角に、ボールが弾むように軽く打つ(けっして強くたたいてはならない)。全体にむらなく打てたら、別の小さいタンポで細部を打って完成させる。(6)紙が完全に乾ききらないうちに注意しながらはがし、広げておいた新聞紙の上に置いて乾かす。乾いたら筒状に巻いて保存する。拓本を裏打ちしたものは、額装や軸に仕立てて鑑賞することができる。 ■拓本の用具■(1)紙 乾拓には礬水(どうさ)引きの薄美濃紙(うすみのがみ)がよく、湿拓には一般に画牋(がせん)紙を用いる。中国産の画牋紙(宣紙(せんし))は粘りがあり、拓本にもっとも適している。(2)墨 乾拓の場合は拓本墨(石花墨)でこする。湿拓には油墨を用いる。1、2枚とる程度なら、品質のよい墨を濃く摺りためて用いればよい。 専門家は、植物性油と煤(すす)の粉を煮つめ、これに細かく切った古綿をかき混ぜて練った墨肉を用いる。墨汁はむらをつくり、水がかかるとにじむので、拓本には不適当である。(3)タンポ 綿(わた)を布で包んだもので、墨をつけて紙面をたたくのに用いる。包む布は糊(のり)気のない羽二重(はぶたえ)か紅絹(もみ)を最上とするが、細かい目の化学繊維でもよい。また、麻布のような粗い布目を用いて、特殊な効果を出す場合もある。中に入れる綿はもめん綿がよく、脱脂綿は適さない。綿を丸め、厚さ4、5センチくらいのスポンジを綿の球より大きめに丸く切ったものをかぶせ、その上から布で包む。根元のほうに丸く切った厚紙をのせ、布にしわが出ないように絞り込み、紐(ひも)で根元をくくる。 別に綿か布を棒状にしたものを把手(とつて)として、絞り込んだ中央につける。把手は握るのに適当な長さとする。タンポは大(直径7、8センチ)2個、中(同約5センチ)1個、小(同約2センチ)1個は用意したい。 大きい面は大きいタンポでおおらかな味を出し、細かい輪郭は小さいタンポを用いてたたくとよい。(4)その他 水刷毛は障子張りなどに使う糊刷毛でよく、毛足の長めで軟らかいものを選ぶ。たたき刷毛は毛足の短いもので、古い洋服ブラシなどで代用できる。また、湿拓には水が欠かせないので、水筒はかならず用意する。 ■採拓の心得■かならず碑の所有者、管理者などの許可を受けてから採拓する。重要文化財などは、原則として、願い出ても許可されないと考えてよい。絶対に直接碑面に墨を塗ってはならない。碑を汚すばかりでなく、反対に写って拓本の意味をなさない。碑を損傷したり、汚れたりしないように注意するのはもちろんだが、碑の周囲の草木を踏んだり、景観を損じないようにすることもたいせつである。採拓には、風のあるとき、雨天は不適当であり、炎暑の好天も乾きすぎてやりにくい。天候としては曇天がもっとも適している。→魚拓〈大山倫子〉 (C)小学館


 

ちゅうげん■中原 夏(か)、殷(いん)、周三代が都を置き、中国文化の発祥地とされる黄河中流域を中心とした地域。中華、中国ともよばれ、周辺の夷狄(いてき)の地とは区別される。しかし、漢民族が形成され絶えず周辺諸民族を同化させながら中華の枠が拡大していくにつれ、中原の地も拡大していく。魏晋(ぎしん)南北朝時代に揚子江(ようすこう)中・下流域を中心とする江南が開拓され、北宋(ほくそう)代以降はその地が華北にかわって経済的中心地になると、華北全体を中原とよぶようになる。 〈鶴間和幸〉 (C)小学館


ちゅうげんにしかをおう■中原に鹿を逐う 古代中国で、王権の争奪をいい、単に逐鹿(ちくろく)ともいう。中原は漢民族の生活領域で、古くは黄河の中・下流地域、現在の河南省を中心とし、山東省西部、陝西(せんせい)省東部にわたる地域をいい、ほぼ周王朝の勢力範囲であったが、のち揚子江(ようすこう)流域の一帯にも広がったため、中原の語は河南省を中心とする華北平原をさすようになった。中原の鹿は周の王権を象徴するものであり、中原の覇者は天下に君臨できたところから、ここを舞台として古代中国の群雄が覇を競ったのである。〈田所義行〉 (C)小学館


ようきひ■楊貴妃 (719―756)中国、唐第六代皇帝玄宗の寵妃(ちょうひ)。蒲州(ほしゅう)永楽(山西省■城(ぜいじょう)県)出身の父楊玄■(げんえん)が、蜀(しょく)州(四川(しせん)省崇慶(すうけい)県)司戸参軍として任地にあるとき生まれる。幼名を玉環(ぎょくかん)という。早く父に死別、叔父の河南府士曹(しそう)参軍楊玄■(げんきょう)の養女となったとされるが、玄■の実子とする説もある。才知あり歌舞に巧みな豊満な美女で、735年玄宗の第18皇子寿王李瑁(りまい)の妃(きさき)となったが、ちょうど寵妃武恵妃と死別した玄宗はこれを愛し、740年寿王邸から出して女冠(じょかん)(女道士)とし、太真(たいしん)の名を与え、744年宮中に召した。翌年27歳で正式に貴妃に冊立、政務に飽きた玄宗の心を完全にとらえ、娘子(じょうし)とよばれて皇后に等しい待遇を受けた。3人の姉は韓国(かんこく)、■国(かくこく)、秦国(しんこく)夫人の称号を賜り、族兄楊�サ(ようしょう)は国忠の名を賜り、一族みな高官に列し皇族と通婚し、官僚たちはみなこれに取り入ろうと競った。貴妃の好む南方産のレイシ(茘枝)が早馬で届けられた話は有名。毎冬帝とともに華清宮温泉に遊び、宦官(かんがん)高力士、安禄山(あんろくざん)らも寵を競い、李白(りはく)らの宮廷詩人たちに囲まれ豪奢(ごうしゃ)な生活を送った。しかし楊国忠と対立した安禄山がついに反乱し(安史の乱)、756年長安に迫るや、楊国忠の勧めで玄宗は蜀(四川)へ逃亡しようとし、貴妃および楊氏一族と少数の廷臣を引き連れ長安を脱出した。しかし西方数十キロの馬嵬(ばかい)駅(陝西(せんせい)省興平県)で警固の兵士たちが反乱を起こし、国難を招いた責任者として国忠を殺し、さらに玄宗に迫って貴妃を駅の仏堂で縊殺(いさつ)せしめた。38歳であった。兵士はようやく鎮まって帝を守って成都へ向かった。長安奪回後、都へ戻った玄宗は馬嵬に埋められていた屍(しかばね)を棺に収めて改葬させたが、余生は貴妃の画像に朝夕涙を流すのみであったという。貴妃と玄宗の情愛と悲劇は同時代から文学作品の題材とされ、白居易(はくきょい)(楽天(らくてん))の『長恨歌(ちょうごんか)』をはじめ、後世まで多くの詩、戯曲、小説を生んだ。→長恨歌 〈菊池英夫〉 (C)小学館


ようきひ■楊貴妃 能の曲目。三番目、鬘(かずら)物。五流現行曲。金春禅竹(こんぱるぜんちく)作。白楽天の『長恨歌(ちょうごんか)』を基にしている。唐の玄宗(げんそう)皇帝は、死んだ楊貴妃を忘れかね、超能力者である方士(ほうし)(ワキ)に命じて彼女の魂魄(こんぱく)のありかを尋ねさせる。常世国蓬莱宮(とこよのくにほうらいきゅう)に至った方士は、仙界に生まれ変わった楊貴妃(シテ)に会い、玄宗の伝言を伝える。対面の証拠として、楊貴妃は七夕(たなばた)の夜の「比翼連理(ひよくれんり)」の愛の誓いを方士に明かし、いにしえの霓裳羽衣(げいしょううい)の曲に、思い出を込めて美しく舞う。方士の去ったあとに、楊貴妃はひとり泣き沈んで終わる。東洋史上最大の恋物語の艶麗(えんれい)さを、現世とあの世という憂愁のベールを通して描く、独自の幽玄能。異次元の存在がこの世にやってくる能は多いが、ワキが異次元の世界に入ってゆく能はこれ一番である。→能〈増田正造〉 (C)小学館


らくよう■洛陽 ルオヤン(原語読み) 中国、河南省北西部の市。■(こう)山山脈の北■(ほくぼう)山や熊耳(ゆうじ)山脈に囲まれ、黄河の支流洛河の河谷盆地にある。市街行政区は老城、西工などの6市轄区に分かれ、孟津(もうしん)、新安(しんあん)、偃師(えんし)など9県を管轄下に置く。人口約255万9100、うち市区は102万3900(1984)。1948年、洛陽県の市街部に市制が敷かれ、洛陽市が成立。市街は、東部の金代以来の旧市街地である「老城」と、解放後に発展した西部の新市街部からなる。70余万平方メートルの広さをもつ中国最大の洛陽(東方紅)トラクター工場をはじめ、軸受、鉱山機械、ガラス、綿紡織などの近代工業が発達している。市外の農村部では小麦、トウモロコシ、大豆、ワタを産出する。とくにワタは揚子江(ようすこう)デルタや江漢平原に次いで高い単位当りの生産高を誇っている。洛陽東駅では隴海(ろうかい)鉄道と焦枝(しょうし)鉄道が交差し、河南省西部の交通の拠点ともなっている。北京(ペキン)、西安(せいあん)、開封などとともに「中国六大古都」の一つで、市内には竜門石窟(せっくつ)や中国仏教の発祥地と伝えられる白馬寺、三国時代の英傑関羽の墓のある関林、各時代の故城などの古跡が数多く残っている。〈駒井正一〉 ■歴史■中国古代史の主要な舞台となった中原(ちゅうげん)と関中平原とを結ぶ交通の要衝に位置し、西周時代の洛邑(らくゆう)以来、政治や文化の一中心として栄えた。洛陽の地は、南は洛河に臨み、北はぼう山を控えた小平野で、ぼう山の北には黄河本流が西から東へ流れている。  初めてここを国都としたのは東周で、その後、後漢(ごかん)、魏(ぎ)、西晋(せいしん)もここに都を定めた。北魏もまた大同から都をこの地に移し、さらに隋(ずい)・唐時代には西都長安に対する東都として繁栄した。このあと、五代十国の後唐(こうとう)や後の中華民国も一時洛陽を都としたので、九朝の都とよばれている。  東周洛陽城は、現市街地西方の一角に位置し、漢魏(かんぎ)洛陽城は東郊に、それぞれ遺跡を残している。57年、倭(わ)の奴国(なこく)王は後漢に使者を送り、光武帝から印綬(いんじゅ)を賜ったという記録が『後漢書(ごかんじょ)』に記載されているが、倭の使者が皇帝に閲見したのはこの漢魏洛陽城であり、古代日中交流史にとって重要な遺跡である。  北魏は493年に都を洛陽に移したが、この北魏洛陽城は前代の都城を四周に広げ、東西約9キロ、南北約7キロの規模とした。ここには11万人が住み、仏寺は1367を数えたと記録されているが、北魏末には兵火に焼かれ壊滅した。隋・唐時代には、ふたたび漢魏洛陽城の西方の地に大規模な都城を建設し、江南や華北の物資がここに集積され、大いに栄えた。先年発掘された含嘉倉(がんかそう)は、唐の地下穀倉群であり、400余基に上る巨大な穴倉(あなぐら)が発見されている。  洛陽は、中国古代文化の中心地でもあり、漢代には史家の班固(はんこ)、紙の発明者蔡倫(さいりん)、名医華陀(かだ)などが活躍し、唐代には李白(りはく)、杜甫(とほ)、白居易(白楽天)がここで多くの名詩を残した。洛陽には、中国最古の仏寺といわれる白馬寺や、南郊には北魏に始まる竜門石窟があり、仏教の一中心地でもあった。後唐以後、洛陽は一地方都市として衰微の一途をたどったが、新中国の建国によって再生し、近代都市として発展しつつある。〈田辺昭三〉 (C)小学館


らくようのしかをたかからしむ■洛陽の紙価を高からしむ

著書が世間の評判となり、大いに売れ行きのよいことをいう。元来は、洛陽での紙の値段を高騰させるとの意。中国、晋(しん)代の斉(せい)の詩人左思が構想10年にして、魏(ぎ)、呉(ご)、蜀(しよく)三国の都を賦(ふ)した「三都(さんと)の賦」をつくったとき、最初は注目されなかったが、張華が賞賛して以来、時人が競ってこれを写したため、晋の首都洛陽では紙の値段が高まった、と伝える『晋書』「文苑(ぶんえん)伝」の故事による。 〈田所義行〉 (C)小学館


りゅうもんせっくつ■竜門石窟 雲岡(うんこう)石窟と双璧(そうへき)をなす中国の代表的な石窟寺院で、洛陽(らくよう)市の南約14キロにある。石窟のある伊闕山(いけつざん)は伊河の流れを挟んで、西山と東山とに分かれ、石灰岩の岩壁に大小多数の洞窟をうがち、内部にはそれぞれおびただしい数に上る仏像が刻まれている。ちなみにその数は、洞窟1352、龕(がん)750、石塔39、仏像9万7306体と記録(竜門保管所)されている。石窟は北魏(ほくぎ)に始まり、隋(ずい)唐と続き、五代、宋(そう)にわたっているが、その主要な部分は5世紀末から7世紀後半に至る仏教美術の隆盛期に造営された。北魏窟のある西山の石窟群は古陽洞(こようどう)をはじめ、賓陽(ひんよう)洞、蓮華(れんげ)洞などが有名で、北魏仏像の優秀な作例が多い。また西山の中央にある奉先寺(ほうせんじ)洞の大盧舎那仏(るしゃなぶつ)は高さ13メートル余の巨大な石仏で、脇侍(きょうじ)の菩薩(ぼさつ)像、羅漢(らかん)像、神王(しんのう)像、仁王(におう)像などとともに唐代彫刻の最高峰を極めた秀作で、その造像技術の冴(さ)えと品格の高さは特筆すべきである。唐の高宗、則天武后の造建になるもので、675年に完成をみた。また東山の看経寺(かんぎょうじ)洞などはいずれも唐代の造営。東山の北には白楽天の墓がある。竜門の北魏仏は、雲岡のそれと比べて、造像技法もすこぶる繊細で、作風にも鋭さを内に秘めた優麗典雅な趣(おもむき)が表れている。仏像のもつ幽暗な表情、堂々たる体躯(たいく)、整斉な着衣と裳懸座(もかけざ)、勢いよく流れる雲に乗って飛ぶ神仙のような天人など、いずれも南朝仏像の作風の影響を受けている。  石仏に添えられている造像記や願文も多彩で、北魏の雄勁(ゆうけい)な書風を伝えるものとして『竜門二十品』があり、中国書道史の貴重な資料となっている。〈吉村 怜〉 (C)小学館