旅程
あらかじめ旅程を大まかに紹介しておくと、1日目は、大連到着後、老虎灘公園で老虎の巨大な石の彫り物を見、北大橋(1987年北九州市と大連の友好都市を記念して作られた230メートルの橋)、中国第2の重要な商港である大連港の見学。夜は大連国際旅行者社長の招宴で海鮮料理。
二日目は、50キロ離れた旅順に出かけ、203高地、水師営会見所跡、東鶏冠山堡塁など日露戦争関係の史跡と、伊藤博文を暗殺した安重根が収監されていた旅順監獄の見学。夜は大連に戻り、海鮮しゃぶしゃぶ料理。三日目は旧満鉄本社ビル、鯨や恐竜の化石のある大連自然博物館の見学、自由市場での買い物。宿泊は、ホテルニューオータニ系の最高級ホテル富麗華大酒店、朝食は、そのホテルで和洋中のバイキング、昼食は毎回、豪華な菜館での海鮮料理。
大連は、北緯40度にあり、東京よりずっと寒い。われわれの滞在中に零下12度にもなった。雪も降った。選りに選ってなぜ寒いところに厳冬の最中に行くのか、疑問に持たれる人も多いことだろう。だが、この時期は、オフシーズンでも最右翼、ハイシーズンに比べ、何よりも費用が安い。そんな料金では考えられないほどのいいホテルに泊まり、うまいものが食える。費用対効果がこれだけ高い時期はない。今回の旅の目的の一つが海鮮料理を味わうことであったのだが、この寒い時期は多くの海産物の旬に当たる。身が引き締まっていて、一番うまい時期の魚介類の数々を着いた日の夕食から、帰る日の昼食までたっぷりと賞味することができた。どこでも、王侯貴族並に大勢の給仕役に取り囲まれて。
おまけに、どこの観光地に行っても、閑散としており、ゆっくり見ることが出来た。日露戦争の決戦場である203高地など、ちょうど小雪が降っていたせいもあるが、バスの駐車場から、頂上までのぼったのは、われわれ「さとみ」会の26人だけで、しばらく、乃木将軍が作ったという弾丸型の記念碑が立つ頂上を独占して見物できた。雪で霞む3キロ前方の旅順港を遠望しながら、さして斜度のきつくない山腹に這い蹲い、降り注ぐ敵弾の中を、この頂上をめざした5万もの将兵に思いを馳せた。
雪の中滑って転んで爾霊山
乃木大将とロシア軍のステッセル将軍が会見した水師営の会見所跡や、大連自然博物館もほぼ同じ状況で楽しむことができた。
東鶏冠山堡塁、つまりロシア軍トーチカ跡に至っては、「さとみ」会の有志4人と案内の王さんだけ。このときは、バスが、折からの積雪でそれ以上坂道を登ることが出来ず、降りしきる雪の中をとぼとぼと片道15分も歩かなければならなかったので、志願者は、男性4人だけということになったのだ。でも、これが私にとっては旅行中一番の思い出になった。私は幸い転ばなかったが、城台君のように10回も転んだ人もいた。トーチカは、頑丈そのものの造りで、これを攻め落とすのに日本軍が莫大な犠牲を払わざるを得なかったのも頷けた。バスの方へ引き返しながら見ると見渡す限りの雪の原、雲は低く立ちこめ雪は小止みなく降りしきっている。日暮れ近く、近くにあるはずのバスさえ、ようとして見えぬ。雪にも大陸の広さにも慣れぬ日本軍にとって冬の満州はさぞかし大変だったろうなと思ったことだ。
バス行かぬ新雪の道とぼとぼととロ軍要塞古跡を訪ぬ
いずれにせよ、観光客が押し掛け、押すな押すなで、目的物をゆっくり見るどころではないハイシーズンとは大違いであった。
しかも、一番旅行に向いていない時期に繰り出すのであるから、これ以上の悪条件の旅はない。すると、今後どんな悪条件下での旅でも平気だという度胸がつく。われわれ敗戦直後の困窮期に育ったおかげで、大抵のことには驚かない度胸がついている。どんな目に合おうと、あの時以上に大変な時期はあるまいと高をくくり、逆に、その時のことを懐かしめる。今回のように、零下12度の中で、雪に見舞われ、滑って転んでをやると、語りぐさが増え、逆に思い出が深まるようなものだ。寒いときに寒いところへいくことこそ、旅の王道かも知れない。
大連
大連は、ビル建設のラッシュだった。日本の高度成長期さながら至る所にビルが建っている。泊まったホテルのすぐ前にも建設中の高層ビルがあった。開放路線が浸透し、社会主義国と言うより、もう資本主義国である。町全体に活気が満ち、夜のネオンも鮮やかだ。1500社を越える日本企業が進出しており、日本企業の広告ネオンも多い。在留邦人は3000人を越えているという。
大連は人口540万人の大都市(大連市区部人口は254万人)だが、町並みは整然としていて、美しい。道路は碁盤目状に走り、歩道が広く、アカシアやプラタナスの並木がある。方々に大きな広場(中山広場、人民広場など)や公園がある。西洋風の都市の感じがする。市長の薄氏が、中国第一の緑化都市を目指していると言うが、確かに緑地帯が多く、なるほどと頷けた。
建築物のデザインもかなり手の込んだものが多い。建物の色が、赤、黄、ピンク、橙、黄緑、茶などなど、信じられないほどカラフルである。
大連では、北京に比べ、自転車をあまり見かけなかった。坂が多いせいもあるが、裕福で、自動車の普及率が高いせいでもある。最新モデルの日本車もベンツも走っており、公共交通網の整備も進んでいる。
中国人は、大胆というか、路面が雪で滑りやすいにもかかわらず、それこそ、バスや車の5センチほど前をすいすいと横切る。バスや車もお互いどうし、あわや接触事故寸前の交差をする。見てるほうの肝が凍る。
旅順
二日目、朝から降り出した雪の中を50キロ離れた旅順へ出かけたが、旅順には、軍港があり、外国人観光客に解放されたのは1996年7月10日以降のことである。
日露戦争は、日本海軍の旅順港攻撃で1904年2月幕を開けた。旅順港を見下ろす地点にある203高地にはロシア軍の堡塁が構築され、港を護っているので占領できない。そこで日本陸軍は、乃木大将の指揮下、203高地の攻撃を8月に開始するが、延べ13万人の将兵、393門の火砲を動員し、4次にわたる攻撃の末、5万九千人に及ぶ死傷者を出した上で、12月になってやっとのこと日本軍勝利で決着を付ける。203高地の3キロ前方に展開する旅順港も、その月のうちに日本軍の支配下に落ちる。かくして、日露戦争は日本の勝利に帰する。この勝利が、日本人の志気を大いに高め、その後の日本躍進の精神的支柱になったのだが、一方で、日本軍の中にさまざまな神話を生み出し、日本の軍国化を押し進める原動力にもなった。その挙げ句、ずるずると日中15年戦争から、第二次世界戦争へとのめり込み、日本が無条件降伏を余儀なくされる遠因ともなった。ロシア側でも、この敗北がロシア革命を招き、帝政ロシア崩壊の原因にもなる。このような大きな歴史的転換点になったところなのだ。
乃木大将とステッセル将軍が終戦条約の署名をした水師営会見所をはじめ、スパイ容疑で中国側に銃殺された男装の麗人川島芳子の住んだ家も203高地の登り口にあるように、至る所に日本人にとっての忘れがたい史跡や因縁浅からぬ人物の痕跡が残っている。
旅行中ひやりとしたハプニングといえば、203高地を降りてきて市街地に差し掛かった地点で、電柱が根元で折れており、垂れ下がった電線にバスの屋根の突起がひっかかったことだ。バスが動くと電柱が動く。運転手の王さんが、エマージェンシー用の天井穴から体を乗り出して電線を外すのに成功して事なきを得た。しかし、そのまま放置して走り去るところがすごい。
飲食と香茶
海鮮料理づくしの旅であったが、店に入るとどこも、水槽の中には、数え切れないほどのいろんな種類の魚介類が泳ぎ回ったり、底に張り付いたりしている。それを料理して出してくれるので、新鮮そのもの、味も悪くない。
料理はどこでも、種類も量も食べきれないほどたっぷりあって、還暦男女の胃袋の容量をいつも軽くオーバーした。料理法もしゃぶしゃぶ、飲茶風、北京風など異なっており、食材の種類も豊富なのでおよそ同じものがダブるということがない。
食事の時には、昼も夜も、大瓶のビール、紹興酒、五糧液など出たが、どの酒もうまかった。五糧液は四川省の産で52度もあり、独特の臭みがあったが、これがまた良かった。マオタイ酒以上と言われる最高級の酒らしい。
料理店はどこもなかなか豪勢な造りで、店員の接客態度もよく、トイレもきれいだった。トイレといえば、旅順監獄のトイレだけは開放的でかつ床がつるつるで、使うのに手こずった。
203高地の駐車場にあった喫茶店で飲んだ香茶も、忘れがたい。茶器は、お猪口程度の大きさのもので、細長いものと普通のお椀状のものとがペアになっていて、細長い方にジャスミン茶を注ぎ、椀状のもので蓋をし、ひっくり返して供するのである。サービスしてくれたのは韓さんという若いチャーミングな女性である。客は、細長い茶器をもちあげ、そこに溜まった馥郁たるジャスミンの香りを楽しんだ上で、お茶を喫するのである。さすがお茶の国だ。実に様々なお茶があるし、実にいろんな飲み方を楽しんでいる。茶器、茶具の類も実に多様だ。
旅行中接した中国人は、日本との関わりが深いせいか、親日的な感じがした。海鮮しゃぶしゃぶの店には、日本語を流暢に話す女子店員がいたが、黒竜江省の出身であるという。日本語を勉強する人も結構多いらしい。それだけ就職の機会が増えるのだ。彼女はきわめて商売熱心で、料理のサービス合間を縫って、掛け軸とはスカーフ、中国風箸セットなどを売りつけようとする。その熱意にほだされて、財布の紐を緩めたことであった。
最後の日に訪れた自由市場はおよそ、食べ物の類なら何でもある。もちろん、日用雑貨の類から、玩具、人形の類まで売っている。店員は商売熱心で、売りつけんかなの姿勢である。そこで高いもっと負けろ、これ以上負けたら破産だ。と、激しい値段の攻防が繰り広げられる。この攻防が楽しい。
宿泊したホテルには「Nのバー」が常設され、ドアには日本から持参した看板がかかり、成田の免税店で買い込まれた大量の酒が惜しみなく振る舞われた。部屋の番号も1919(いくいく)だったせいか、みんなして押し掛け、連日遅くまで大賑わいであった。酒は、一滴残らず飲み干されたという。本当に酒好きで、酒に強く、暇さえあれば一杯という人が多かった。ただ、酒を飲むだけでなく酒に飲まれている人も中にはいたが。
私は、例によって、デジタルカメラに、デジタルビデオを持参し、料理の一品一品から観光地の隅々まで撮りまくってきたので、書くことはいくらでも増やせるが、紙面の関係もあるので、ここらで筆を置こう。
「二百三高地の登り口に立っている案内板の、中国語の解説が良くできているので、翻訳してみます。なるべく原文の文字を生かして翻訳します。
「ここは、日露戦争の時期、旅順西部の重要な戦場であった。海抜二百六メートルあるが、戦時、日本軍は二百三高地と称した。山上の防御工事は戦争勃発後、露軍があわてて修築したものであった。
1904年9月19日から始まって、日本軍第一、第七師団は前後四回の総攻撃を、二百三高地に向かって発動した。最後に、一万人以上の死傷者を代価として、12月6日に制高点を占領した。ただちにここに重砲観測所を設置し、重砲を指揮して港内の露艦を撃った。戦後、日本軍の司令官、乃木希典は、“二零三”の諧音に基づいて山名を改めて“爾霊山”とし、侵略軍の亡霊を祀った。今となっては帝国主義が中国の領土を侵略した歴史の見証となっている。
1985年5月、市の文物保護単位として公布する。
1989年、省の文物保護単位として公布する。」
まじめな解説ですが、最後はどうしても共産党式お説教になるようです。」
1999年
「鞍部からの登り口の右側に立っている説明の看板が新しくなりまし
た。最後の部分を訳しますと:「日露戦争によって旅順の人民は災難
を蒙った。戦後、日本の軍国主義者乃木希典は、二零三の諧音を用い
て山名を“爾霊山”と改め、併せて碑を立てて、日本軍の死者の霊を
“慰惜”し、日本人民を騙して侵略戦争を美化した。」とあります。
以前の文面:「戦後、日本軍の司令官、乃木希典は、“二零三”の諧
音に基づいて山名を改めて“爾霊山”とし、侵略軍の死者の霊を祀っ
た。今となっては帝国主義が中国の領土を侵略した歴史の見証となっ
ている。」と較べると、ますます激しい口調になっています。 」