お知らせ

「チビクロの冒険」を2002年初に出版する計画を進めています。是非予約してください。メールをお待ちしております。


童話の部屋
チビクロの冒険 (1/3)
       著者  阿部毅一郎(あべきいちろう)       


 
 
 
目次
* ポーランドへ     (1/2/3/4 )
* アンナ       (5/6 )
* キジ猫       (7)
* いたずらな子供たち (8)
* ボイテック一家   (9)
* 日本大使館     (10/11)
* タクシ―      (12)
* 肉屋        (13)
* 新しい家      (14/15)
* アメリカンスク―ル (16/17)
* ディナー      (18/19)
* スタ―レミヤスト  (20/21)
* 買物        (22/23)
* エバ        (24)
* 再会        (25/26/27)
* 船荷        (28/29)
* 愛         (30)
* グダンスクへ    (31/32/33/34)
* 船荷の整理     (35/36/37/38)
* パ―ティ      (39/40/41)

 


お知らせ

「チビクロの冒険」を2002年初に出版する計画を進めています。是非予約してください。メールをお待ちしております。


 


ポーランドへ

   1  

 それが、ぼくのことでもめていることは、よくわかっていました。 毎日、毎日、ご主人と奥さんが大きな声で議論をしているのです。ぼくは 部屋の隅で小さくなり、尻尾を丸めて聴いていました。 

「それはわたしだってチビクロは可愛いわよ。できることなら、一緒に連れて いってやりたいと思うわ。でも、行き先が北海道や沖縄ならともかく、ポーランド なのよ、ワルシャワなのよ。この東京から一万キロメートル以上も離れた、地球の 裏側にある国なんですからね。そこんところを良く考えなくっちゃ」

 これは奥さんの声です。いつもはやさしいいい声なんですが、議論をするときは ちょっと刺々しくなって、ぼくの繊細な耳にガンガン響きます。ぼくは奥さんが 話すたびに、耳たぶを折り曲げ、音量を少し絞って聴いていました。 

「でも、チビクロがぼくらの本当の子供だったら、それでも東京に残していくかい。 ミコちゃんとひろしくんは一緒にポーランドに行くことになっているんだし、チビクロだけ 残していけないよ。チビクロは、生まれた時からわが家にいるんだし、犬とは いいながら、わが家の一員みたいなものじゃないか」 

 これはぼくのご主人の声です。なんとなめらかで、どっしりと重みのある、いい声 なのでしょう。ぼくは耳をピンと立てて聴きほれます。ぼくが口がきけたら、 

「さんせい!」 

と叫びたいくらいです。 

 それに、ご主人の鼻の上に輝いている金縁の眼鏡の立派なこと。ぼくは一生のうちで 一度でもいいからあんな素敵な眼鏡をかけて大通りを歩いてみたいと思っています。 そうしたら、道を行く人がみんな振り返って、  

「なんて素敵な犬だろう」  

と感心するにちがいありません。 

 時として、ミコちゃんとひろしくんがこの議論に参加することがあります。二人とも 決まってぼくの味方なので頼もしい限りです。 

「ママ、チビクロも連れて行って上げましょうよ。チビクロも一回くらい海外生活を 味あわせてあげなくっちゃ」 

 これ小学一年生のミコちゃんです。ミコちゃんは、丸い顔で丸い目をした可愛い女の子です。 でも、ぼくがミコちゃんの靴をちょっとかじったりするだけで、 

「チビクロ、お止め!」  

と大声を上げてぼくのことをにらみつけます。そのときは、顔が四角になり、目が三角になります。 

「チビクロが行かないんなら、ぼくだってポーランドなんかに行きたくないな。ママは チビクロがかわいそうじゃないの」 

 これが、今年五つになるひろしくんです。ひろしくんは、色が白くて脚が長くて、なかなかかっこいい男の子です。いつもぼくにエサを持ってきてくれるのですが、時々 

「オマチ!」 

と言って、ズイブン長いこと待たせることがあります。そんなときには、すこし憎らしいと思うことがあります。 

「いつもママだけが悪者にされちゃうんだから。ママだってなにもチビクロが憎くて連れて行かないなんて言っているんじゃないのよ。あんな遠いポーランドまで犬を連れていくのは、それはそれは大変なことだから、言っているのよ。それなのにだれもわかってくれないんだから・・・」 

 もう奥さんは半分泣き声です。目尻にうっすら涙がにじんでいます。ご主人は、困ったような顔をして黙ってしまいました。人間の社会には <泣く女と児童には勝てない> ということわざがあるようですが(ご主人が良く口にしますから)、ご主人を見ているとこれがもっともだということがよくわかります。 

 そんなわけで、ぼくは一匹だけ東京に置いていかれることになってしまいました。
 
 


2

 

 ポーランドへ出発する日の前の日、ご主人は、ぼくを犬小屋ごと通りの向こう側にある、ご主人の両親の家に預けに行きました。 

「母さん、チビクロはお風呂が好きなんですよ。申し訳ありませんが、週に三回はお風呂に入れてよくブラッシングしてやって下さい。それに、お豆腐にカツオブシをまぶしたのが大好物なんですよ。豆腐もカツオブシも高くなりましたが、たまにはご馳走してやってくださいね」 

 ご主人は、ぼくの頭をなでながら、お母さんに頼んでいます。

「お前に言われなくたって、チビクロのことなら、わたしゃ何だってよく知っていますよ。生まれたときからの長いつきあいだもの、ねぇチビクロ。ほら、今日からここがお前のおうちだよ。引っ越しのお祝いにちゃんとお豆腐にたっぷりカツオブシをまぶしたのを用意しときましたよ。ミコちゃんもひろしくんも遠い遠いところへ行っちまんじゃ、おばあちゃんさびしいですからね。これからはお前だけが頼りだよ、わかったわね、チビクロ」 

 ご主人のお母さん、つまりミコちゃんとひろしくんのおばあちゃんは、ぼくを膝の上に抱き上げ、ぼくのほっぺにチュッとキスしました。ぼくは、お返しに長い舌を出しておばあちゃんのほっぺたをペロリとなめてあげました。梅干しばあさんなんて近所の子供たちが悪口を言っていますが、決して梅干しの味はしませんでした。いつだったか、ひろしくんが転んで泣き出したとき、涙でいっぱいのほっぺたをなめてあげたことがありましたが、そのときの味にそっくりでした。 

 奥から真っ白い八の字髭を生やした、ご主人のお父さん、つまりミコちゃんたちのおじいちゃんも出てきて、 

「ほ、チビクロ来たか。今日から、わしらが可愛がってやるからな。明日は空港までわしらと一緒に見送りに行くかね?」 

と、髭をしごきながら言いました。 

「クーン、クーン」

ぼくは一生懸命に尻尾を振りました。 

「よし、よし、わかったわかった」 

おじいちゃんは目を細めました。そしてぼくの目を覗き込むようにして言いました。 

「明日、お前たちがポーランドへ行ってしまうのも知らず嬉しそうに尻尾を振っておるが、チビクロも不憫なやつじゃ」 

 このおじいちゃんが、これでも人間の世界では有名な心理学者というのですから、ぼくには理解できかねます。
 
 



3

 こんなにすがすがしい、いい匂いのする朝はめったにありません。どこからともなく心をわくわくさせるような香がただよってきます。ああ、これは春の香です。もうそろそろ二月の終ですから春がすぐ近くに来ているに違いありません。ぼくは思いきって鼻の先を空中につきだして胸いっぱい素敵な匂いを吸い込みました。そのとたん、今日がご主人一家の出発の日なのだということがひらめきました。気持ちがたちまちシャンと引き締まりました。

「そうだ、今日はぼくにとってとっても大切な日なんだ。うかうか過ごすわけにはいかないんだ」

 ぼくは、犬小屋から出て、その前をせかせか歩きまわり、あれこれと思案をめぐらせました。

「飛行機の出発は午後10時30分だから一時間前に空港に着くとして、タクシーには七時頃来てもらえばいいな」
とご主人が言っていたのを思い出しました。それにご主人一家が行くポーランドのことも繰り返し繰り返し頭のなかではんすうしてみました。これは商社員のご主人が、奥さんやミコちゃん、ひろしくんと話し合っているのを聞きかじった、文字通りの耳学問です。

 それによるとポーランドは、日本の北の端よりもっと北にあるとても寒い国らしいのです。冬にはみんな厚い毛皮のコートを着、毛皮の帽子をかぶっている国らしいのです。日本には、山が多く、どこへ行っても山が見えるのにくらべて、ポーランドにはほとんど山がなく、どこも平たい国らしいのです。

 飛行機で行っても、ポーランドへ行くには20時間もかかるらしいのです。ぼくは、ご主人の車で箱根や日光や鎌倉まで連れて行ってもらったことがありますが、それ以上遠くへは行ったことがありません。それにこんなことを言うのは恥ずかしいのですが、これまで一度も、新幹線にも飛行機にも乗ったことがないのです。

 でも、20時間ぐらいで着けるのなら大したことはなさそうです。なんと言っても一日もかからないのですから。いつだったかご主人に日光に連れていってもらったとき、帰りの道路がひどく混んで10時間もかかって帰って来たことがあります。あの二倍程度なら大したことはありません。ぼくは車のなかではいつもぐうぐう眠ることにしていますから、10時間かかろうと3時間で済もうと大した差はないのです。とにかく食べ物さえもらえれば20時間車にゆられても平気だという自信があります。

 ・・・でも、今度は食べ物が貰える保証がありません。ぼくはこの日は、おばあちゃんが出してくれる食事を朝昼晩おなかいっぱい食べました。

「チビクロったら、体は小さいのに良く食べること。最初からこの調子なら、うちに置いてもなんの心配要らなそうね」

おばあちゃんは感心しています。

 それにもう一つ心配なのは、ポーランドは寒い国で二月でも厚い毛皮のコートが必要と言うことです。でも、その点なら、ぼくはもともと毛皮を着ているようなものですし、なんとかなりそうです。

 五時過ぎにはあたりはすっかり暗くなりました。六時半頃ぼくはそっと犬小屋を抜け出ました。こんなときには、ぼくみたいな真っ黒の毛並みはとても好都合です。通りを渡ってご主人の家に行き、玄関脇の暗闇のなかに身を潜めました。幸い、だれの目にもつかなかったようです。

 七時きっかりに二台のタクシーがやって来ました。おじいちゃんとおばあちゃんも、やって来ました。玄関口に積み上げてあった手荷物をみんなが手分けしてタクシーのトランクに積み込み始めました。

 おばあちゃんが

「ヤスオ」

とご主人の名前を呼びました。

「お前のところにチビクロは戻っていないかい。一緒に連れていこうと犬小屋へ行ってみたらいないんだよ。晩ごはんをあげたときにはちゃんといたんだがねぇ」

「いや、戻っていませんよ。今ごろどこへ行ったんでしょうね」

「まったく困ったわねぇ。もう捜す時間もないし、せっかく見送りだというとき、チビクロは、いなくなってしまうんだから」

おばあちゃんは、ためいきをつきました。

「チビクロ、いなくなっちゃたの。じゃ、ぼくちょっと捜してくる」

赤と黒のチェックのオーバーコートでめかしこんだひろしくんは、おばあちゃんの家の方へ走り出しました。

「ひろし、もう時間がないのよ。飛行機に遅れちゃうわよ。チビクロはおばあちゃんが後で見つけて下さるわ。この間もしばらくいなくなってたけど、ちゃんと帰ってきたでしょ」

奥さんがひろしくんのうしろからあわてて追いかけていきます。ひろしくんは小さい割にはすばしっこいのです。

「ぼく、チビクロが、見送りに来ないならポーランドなんかには、行かない」

「ひろし、そんな聞き分けのないことを言うもんじゃないよ」

これは、ご主人の声です。

 ああ、ぼくとしては、どんなに辛かったことでしょう。できれば、

「ここにいるんだよ、ひろしくん、ワン」

と飛び出して行きたいところでした。しかし、それではぼくの計画はおじゃんになりかねません。ぼくはみんなが騒いでいるすきに、物陰から飛び出し、すばやくタクシーのトランクに忍び込みました。積まれたスーツケースの一番後ろに小さなすき間があったので、見つからないように、そこに身を鰻のように細くしてうずくまりました。

 やっと、ひろしくんもなっとくして、戻って来たようです。トランクの蓋もバタンと閉められました。周りは真っ暗になりました。ガクンと一揺れしてタクシーは走り出しました。

 狭いトランクの中には、ご主人一家の匂いが充満しています。積み込まれたスーツケースや細々した手荷物から、日頃からなじみの匂いがしているのです。この匂いを嗅いでいるだけで、安心できます。

 時々急カーブをきるのでしょうか、体がいきなり右へ引っぱられたり、左へ連れ戻されたりしますが、真っ暗闇のなかではとりたててやることもないので、例によってウトウトしていました。どのくらい走ったのでしょう。

 車がゆっくりと止まりました。みんなが、降りている物音が伝わってきます。トランクの蓋が開きました。明るい光がさっと差し込んで来ました。ここで見つかったら、元も子もありません。ぼくは細めていた体をもっと細めて、光の当たらないところに身を隠しました。タクシーの運転手が、大きなスーツケースをよっこらしょと持ち上げ地面に降ろすためにちょっと横をむきました。

 そのわずかの隙に、ぼくはすばやくトランクから飛び出し、さっとタクシーの下に潜りこみました。幸いだれにも気付かれなかったようです。

 ご主人一家は、それぞれ手荷物を持って、空港の大きなビルディングへ向かって歩き始めました。その二十メートルほど後ろからぼくはこっそり付いて行きました。

 ご主人は、ビルの中の受け付けのカウンターへ行き、そこに座っているおそろいの赤いスーツを着た女性と話し始めました。背広の胸のポケットから、大きな財布を取り出し、そこからさらに切符のようなものを取り出して、その女の人に手渡しました。大きなスーツケースやバッグなどを預けたりしています。きっと飛行機に乗る手続きをしているのでしょう。あまりにその近くに行くと見つかってしまうので、二十メートルほど離れた柱の陰から見ているのですが、それだとはっきりしたことは、良くわかりません。 空港の時計はもう九時四十分になっています。このまま、ご主人一家の様子を遠くからぼんやり見ていたのでは、せっかくの計画もおじゃんになりかねません。

 確かご主人一家の乗る飛行機の出発は十時半のはずです。ぼくはとにかくそこらじゅうを走り回って空港の様子を探ることにしました。空港のロビーはまだかなり混んでいます。人と人の足の間をうろちょろとせわしなくかいくぐり、荷物の山の上をぴょんぴょん跳び超え、あっちのカウンターこっちのカウンターを嗅ぎ回りました。それこそ足を棒にして走り回ったあげく、ぼくは大発見をしました。どうも人間と荷物とは別の入り口から飛行機に乗せられるらしいのです。それに人間が乗り込む方の検査は、とても厳しくて、それこそネズミ一匹、入り込むすきがないようです。小さいとは言え、ネズミより十倍以上は大きいぼくに入り込むチャンスはないも同然です。

 とすれば、チャンスは一つしかありません。

 ぼくは、先ほどご主人がいたカウンターに引っ返しました。カウンターはずらりと並んでいますが、どのカウンターにも、きれいな女の人が座っていて、乗客から荷物を受け付けています。まず荷物を秤の上に乗せると、重さ何キログラムという表示がでます。重さを量り終わると女の人はボタンを押します。すると荷物の下のベルトが動きだし、荷物は後ろの穴の中に吸い込まれて行くのです。

 見渡すと、幸い一つのカウンターのランプが消えており、係の女の人が座っていません。ぼくは小走りにそこへ行き、近くに人影がないことを確かめて、素早く、荷物を量る台の上に飛び乗り、カウンターの下に潜りこみました。だれにも気付かれなかったようです。ぼくはそこで一息入れてから、今度は一気に壁に開いている穴へ向かって突進しました。穴の中に飛び込んだ瞬間、ぼくはたちまち足を取られ、すってんころりとひっくり返り、そのままスーッと滑り落ちて行きました。まるで奈落の底に落ちて行くような感じがしました。やっとこさ止まったところでよろよろしながら立ち上がると、そこは長い滑り台の一番下でした。さきほど飛び込んだ壁の穴から先は滑り台になっているのです。同じ様な滑り台がたくさんあって、さまざまな形をした荷物が次々に滑り降りて来ます。下では、男の人が待ち構えていて小さな運搬用の車の上に荷物を載せています。ぼくの滑り台にはだれもいなかったので助かりました。

 ぼくは、見つからないように急いで物陰に隠れ、鼻をピクピクうごめかしました。数千、数万の匂いの中から、たった一つの匂いを選び出すのです。 クンクン、クンクン・・・  ありました!

 ご主人のスーツケースの匂いです。ぼくの匂いも混じっています。先ほどのタクシーの狭いトランクの中で付いたのです。もうそのスーツケースは、十五メートルも向こうの運搬車に積まれて、今しも、動き始めようとしています。

 ぼくは、あっちの物陰、こっちの物陰に、巧みに隠れながら、長く数珠つなぎになった運搬車の後を追いました。運搬車はやがて屋外に出ました。そこは、見渡す限り遠くまでだだっ広く、長い光の帯のような、滑走路の誘導灯がどこまでも続いています。蛇行しながら進む運搬車のすぐ後ろからぼくはとっとことっとこ付いていきました。

 運搬車は大きな飛行機のお腹の下で止まりました。見上げるとそのお腹のところに大きな黒い口がぽっかり開いています。

 その中へ運搬車から荷物の積み込みが始まりました。どうやったらその中にうまく忍び込めるのでしょう。運搬車に一人、お腹の中にも一人おじさんがいて、荷物をきちんと収納庫に整理しているのです。 ぼくは窮余の一策を思いつきました。

 ぼくは、運搬車から荷物を持ち上げているおじさんの後ろにこっそり回り、いきなりお尻にガブリと噛みつきました。

「イテーィ!」

おじさんは大声を上げ、両手でお尻を押さえながら後ろを振り返りました。もちろんその時には、ぼくは運搬車の下に身を隠しています。

「どうしたんだ?どうしたんだ?」

飛行機の中からもう一人のおじさんも降りてきました。

「いや、いきなりなにかにお尻をガブリとやられたんだ。こんな所に犬がいるわけもないんだが、イテテテ・・・」

「なに、いきなりガブリだって?こんなところで?どれどれ」

飛行機から降りてきたおじさんが傷口を調べています。

 ぼくは、申しわけないと思いながらも、この隙を利用しないわけにはいきません。素早く、運搬車の屋根にかけ上り、飛行機の収納庫目がけてジャンプしました。やっとこさでしたが、入り口の端に前足がかかりました。必死の思いで、体を持ち上げ、収納庫の中に入りこむのに成功しました。思ったより、広いところでした。すでにたくさんの荷物が積み込まれています。これなら、簡単に見つけられそうにありませんが、念のため、一番奥の、大きな棚の下に潜りこみました。

 さきほどのおじさんが、収納庫の中に戻って来て、作業を再開しました。じっと息を潜めているとご主人の匂いがすぐ近くにやって来ました。ご主人のスーツケースやバッグが積み込まれたにちがいありません。

 やがて、作業が終わったとみえて、おじさんはいなくなり、収納庫のドアがピッタリ閉ざされました。もう周りは鼻をつままれてもわからない闇になりました。
 
 キーン 。ジェットエンジンが唸りをたて始めました。飛行機がゆっくりと動き始めたのがわかります。ジェットエンジンの音が一段と高くなりました。ちょうどスピードを出すのが好きなご主人が車のアクセルツォぐいと踏み込んだときの感じに似ているなと思っていると、今度は、体が空中に放り出されたような感じになり、そのまま身体ごと床にぎゅーっと抑え付けられ、なんとなく後ろへ引っ張られるような感じがします。それがしばらく続いたあとは、エンジンの音は少し違いますが、ご主人の自動車に乗っているのとたいして違わなくなりました。いえ車より揺れが少なく、自分の犬小屋に寝ているのとあまり変わりなくなりました。

「ジェット機は、富士山よりずうっと高いところ飛ぶんだよ」
 ひろしくんが、いつだったかご主人の郷里の長崎に連れていって貰った後で、飛行機に乗ったことのないぼくに、自慢そうに話してくれたことがありましたが、真っ暗の収納庫の中では、右も左も、上も下も、富士山の上なのか海の上なのか、なにもわかりません。なにもわからないので、例によって眠ることに決めました。起きているとお腹も空いてくるに違いありませんし、これから二十時間も、なにも食べられないのですから、とにかく、眠るに限るというものです。
 
 


4  

 もうあれから何時間たったのでしょう。

 あたりは相変わらず真っ暗で、ジェットエンジンの音が鈍く響いています。

 お腹が猛烈に空いてきました。喉が乾いてひりひりします。しかし、今さら弱音を吐くわけにはいきません。どんなに辛いことがあっても我慢しようと決心して飛行機に潜りこんだのですから。

 真っ暗の収納庫の中で慰めになるのは、ご主人一家のスーツケースの匂いだけです。ご主人の頼もしい匂いや、奥さんのくすぐったい匂い、ミコちゃんやひろしくんの甘ったるい匂いが漂って来るのです。

 それに匂いと言えば、ぼくの頭を狂わせそうなソーセージとベーコンの匂いがどこからともなく漂って来ます。

 よほどそのありかを探り出して食べようかと思いましたが、そんなことをしたら見つかってしまうだけだと思い直し、あきらめました。

ーーー犬は食わねど高ようじ

ーーー痩せ我慢 負けるなチビクロ ここにあり

 いろいろ口からでまかせのおまじないを唱えましたが、一向に効き目がありません。もうお腹がすいて目から火花が出そうになった頃、ドスンと大きな音がして、飛行機のスピードが、急ブレーキをかけたときのようにぐぐーっと落ち、ぼくは壁にぐいぐい押し付けられました。どうやら、地上に降りたようです。やがて飛行機は止まってしまいました。

 しばらくすると収納庫のドアがガラリと開きました。続いてなにやら聞き慣れない人間の言葉が耳に飛び込んで来ました。入り口から入ってくる空気が、やけに冷たく感じられます。ぼくはブルブルと身震いしました。

 と、金髪の男の人がのそっと入って来て、荷物を運びだし始めました。ご主人の匂いもすうっと遠のいて行きました。ぼくは、金髪の男の人が、反対側の荷物をかついているすきに、ドアから、エイヤとばかり地上に飛び降りました。ちょっとつんのめりましたが、大丈夫です。素早く運搬車の下に潜り込みました。

 そこから飛行機を見上げると、今しも乗客がタラップを降りてくるところです。その中にご主人一家の元気な姿も見えます。ご主人の金縁の眼鏡がキラリと光っています。ぼくは、飛び出して行ってご主人にじゃれつきたい思いにかられましたが、飛行場というところは入ったり出たりするのがとても面倒なところだということがよく分かっていましたので、じっと我慢していました。

 ご主人一家はタラップの下で待っていたバスに乗り込んでいます。と、そのとき、ぼくが潜り込んでいた運搬車がいきなり動き始めました。こうなれば運搬車の下に隠れたままついていくより仕方がありません。右に左にカーブを切る車の下に隠れて走るなんてなかなか難しいことです。前輪を注意深く見、曲がる方向を間違えないように気をつけながら、ぼくはただ走り続けました。

 ところが走ることだけにあまりに一生懸命になっていたので、運搬車が急停車したとき、思わず車の前に飛び出してしまったのです。

 「アッ」

思ったときは、もう遅すぎました。

「オッ」

「ヤッ」  

 ぼくに気付いた運搬車の運転手が鋭い叫び声を上げました。大勢の人が一斉に振り返り、ぼくの存在に気付くと口々に何やらわめきながら、突進して来ました。言っていることはさっぱりわかりませんが、ぼくを捕まえようとしていることはよくわかります。こうなればもう逃げるよりありません。

 ぼくは必死になって走りました。ここで捕まってしまったらこれまでの苦労も水の泡です。

 走りながら振り返ると、兵隊さんやおまわりさんや、いろんな格好をした人が五十人も追いかけて来ます。この追かけっこを、空港の展望台から眺めている人もいます。その中にはぼくを応援してくれている人もいるようです。

 ぼくは生まれつきかけっこは得意で、急カーブを切ったり、急停止もお手のものなので、いつもだったら、人間に追いかけられたぐらいで困ることはないのですが、何といっても今はお腹が空き過ぎています。走っているうちにふらふらして来ました。

 飛行場はだだっ広くて、どこまで走っても体を隠せるようなものが見つかりません。ぼくは、ひーひーあえぎながら、走り続けました。

 と、ドタドタした人間の足音に混ざって、それに比べたら十倍も軽やかですばしっこそうな足音が聞こえて来ました。もう、追い付かれてしまいそうです。

「おい、そこのチビくん」

 ぼくの耳にはっきりそう聞こえたのです。それは懐かしい犬語ではありませんか。ぼくは驚きました。振り返ると、5メートルもないところに、ぼくの三倍もありそうな、すらりと形姿のいいシェパード犬が追いかけて来ているのです。人間は、それより五十メートルも離れています。

「チビくん、そのまま真直ぐ走り続けなさい。ぼくはこの空港の警備犬なんだ。だからこうして君を追いかけなければならないけれど、決して君の敵ではない。ぼくの言う通り走りなさい。そすれば、君は飛行場からうまく逃げ出せるはずだ。そ、そこは、右!」

 ぼくは指示されるままに、右に曲がりました。いったいこの犬が本当に味方なのかどうかわかりませんが、こうなればこの犬に頼ってみるほかに手はないと思ったからです。

 時々、シュパードは、ウーワンワンとおどすような吠声を上げるのですが、その都度小さな声で、

「チビくん、今度は左」

とか

「そのまま、真直ぐ」

とか、やさしく助言をくれるのです。

「このままあと百メートル真直ぐ行くと、金網のフェンスがある。そこに君なら通り抜けられる穴が一つだけ開いている。そこから逃げなさい」

 後百メートルか。広い飛行場をもう半分以上走ったに違いありません。ぼくは最後の力を振り絞って走りました。シェパードはぼくと並ぶようなところを走っています。

「お見かけするところ、その監察札のついた首輪にしても、君はポーランドの犬ではないようだね。あの飛行機で密航して来たようだね。ポーランドには、不案内のようだから、うまくフェンスの外へ逃れたら、その付近に住んでいるプードル犬のアンナ嬢に連絡を取りなさい。彼女は親切だから、きっと君の力になってくれるはずだ」

 ぼくに今にも噛みつかんばかりのふりをしながら、シェパードはこう言ってくれたのです。目の前にフェンスが迫って来ました。確かにぼくがなんとかすり抜けられそうな穴が開いています。

 ぼくは、そのままのスピードで、その穴に突っ込みました。毛がひっかかり、針金の先にいくつも塊が残りましたが、そんなことを気にする余裕はありません。

 フェンスの直前で急停止したシェパードは、穴の間から、鼻先を突き出して、いかにも残念そうに低くウーと唸っています。が、その実、

「チビくん、よく頑張った。達者でな。ぼくはマーテックって言うんだ。アンナにもよろしく伝えてくれ」

と言ってくれたのです。

「マーテックさん、本当にありがとう。お陰で助かりました。ぼくは日本から来たチビクロと言います」

 ぼくは、弾む息の下からやっとそれだけ、言いました。見れば先ほどぼくを追いかけて来た人達は、百メートルも向こうで完全にへたばって座り込んでいます。マーテックは、ぼくのほうを振り返り振り返り、その人達のほうへと引き返して行きました。
 
 






アンナ

5

 フェンスの外でぼくはしばらく休みました。空きっ腹でいきなり全力で走ったので、体中の力が抜き取られたような感じです。それに先ほどは何でもないと思ったのですが、よく見ると金網を潜り抜けた時すこしばかり引っかけたとみえて、右肩のところに血がにじんでいます。舐めようとしても、そこまで首が回りません。ずきんずきんと傷の痛みが空きっ腹に響きます。

 辺りを見回すと枯れた草地が広がり、ところどころに雪がまだ融けずに残っています。すっかり葉の落ちた木がぽつんぽつんと立っています。その少し向こうの方には、茶色を帯びた林があり、うっすらと雪をかぶっています。

 マーテックが、言っていましたが、ここはもうポーランドなのでしょうか。日本の景色とまったく違っています。日本ではもう春の匂いがしていたのに、まだ、冬の匂いだけしかしません。

 ぼくはマーテックが言っていたプードルのアンナを捜すことにしました。そこで四つん這いのまま首筋を伸ばし、空中に口を突き出して

「アンナさーん」

と、遠吠えしました。 最初は、ぼくの発音で通じるか心配でした。ただマーテックの言うことが全部わかったので、ぼくの発音でも大丈夫だろうと思い直しました。

「アンナさーん」

ぼくは、二度、三度遠吠えを繰り返しました。

と、

「だーれ、わたしのことを呼んでいるのは」

遠くから雌犬の声が返って来ました。よくわかる犬語です。

「ぼく、チビクロって名前の犬です。空港の警備をしているマーテックさんにあなたのことを紹介して貰ったのです。ぼくはつい今しがた日本という国から着いたばかりです。お腹が空いて死にそうですし、今夜泊まるところもありません。すっかり困っているんです」

「えっ、日本から?日本ってずうっと遠いところにある国なんでしょう。その日本から?」

「そうです。その日本から」

「まあ、それはお疲れでしょう。ポーランドへそうこそ。でも日本の犬も、わたしたちと同じ言葉を話すのですか」

「ええ、どうもそうらしいですね。こうやってあなたとなに不自由なくお話しできるのですから」

「いつだったか、通りで日本人が話しているのを立ち聞きしたことがあったけれど、何を言っているのか、まったくチンプンカンプンだったわ」

「つい今しがた空港でポーランド人に追いかけられたんですが、何を言っているのか、ぼくには、何もわかりませんでした」

「人間って偉そうなことを言っているけど、あんがい遅れているのね。その点、犬族のほうが進んでいるってわけね。日本の方ともこんなに簡単にお話しできるんですもの。あら、いけない。あなたはチビクロっておしゃったわね。あなたが、お腹を空かせているのも忘れてすっかり長話ししてしまって、ごめんなさいね。わたし、今そちらに行けないので、わたしの家にやって来て下さらない。わたしの声のする方へ真直ぐに駆けていらっしゃれば、すぐわかりますよ」

 ぼくはアンナの声に導かれて、枯れ草の野原を横切り、小さな木造の家の傍を通り抜け走っていきました。薄く雪をかぶった林の中の小道をしばらく行くと、大きな石造りの家が、目の前に現われました。

「チビクロ、こっちよ」

 その大きな家の裏手からアンナの声がします。急いで裏に回るとそこには、大きな木がいっぱい生い茂った広い庭があり、建物の半地下になったガレージの前に、ほっそりと姿のいい白いプードルが鎖につながれて立っていました。

 それが、アンナでした。ぼくはアンナがあまりに美しい雌犬なので、すっかり気後れしてしまいましたが、車の通り道になっている舗装した通路伝いに、そのまま歩調を落とさず、アンナのそばまで走り続け、思い切ってアンナの鼻の頭に自分の鼻の頭をこすりつけました。これがぼくらの仲間の「はじめまして」の挨拶です。ポーランドでも同じ様な挨拶が通用するのか、最初は不安でしたが、同じ犬語が通用するのなら、この挨拶も通じるのではないかと思って、思い切ってやってみたのです。

 アンナが、うれしそうに鼻の頭をこすり返して来たときは、本当にほっとしました。それにアンナはピンと伸ばした、美しい尻尾を、威勢よく左右に振っているではありませんか。これは最高級の歓迎のしるしです。鼻だけこすり返しても、尻尾がだらしなく垂れていたり、そのこすりつけた鼻で相手の匂いを胡散臭げにくんくん嗅ぎ回ったりするのは、けっして友好的な態度とは言えません。そんな犬とはそれ相応のつきあいをしなければなりません。

「早速ですけど、チビクロはお腹がぺこぺこなんでしょう。どうぞ、これを食べて下さい」

 初対面の挨拶もそこそこにアンナは、アルミボールによそった肉の塊を勧めてくれました。

 ああ、二十数時間ぶりに口にする食べ物です。遠慮している時ではありません。ぼくは勢いよく、肉に飛びつきました。

 なんとおいしい肉でしょう。こんなにたっぷりこんなにおいしい肉を食べたのは初めてでした。 ポーランドに出発する前に、奥さんが 、

「お友達の話だと、ポーランド料理って、あまりおいしくないらしいのよ。困るわァ」

などと、ご主人と話しているのを聞いたことがありましたが、この肉に関する限り日本の油っぽい肉よりよっぽどおいしく、しかも量がたっぷりです。ご主人だってこんなにいい肉をこれだけたっぷり食べたことは滅多になかったに違いありません。

 ぼくがおいしそうに食べているのを、傍らからアンナは満足そうに見ていましたが、ぼくの右肩に血がにじんでいるのに気付くと、

「まあ、かわいそう、こんなところを怪我して」

と、やさしく舐めてくれました。

 食事が終わるとぼくも犬ごころが着いて、アンナに日本からポーランドへやって来たいきさつを話す余裕が生まれました。ぼくが飛行機に忍び込んで、密航して来たことを話すと

「まあ、チビクロって勇気があるのね」

 アンナが感じ入ったようにため息をつくので、ぼくもなんだかすっかり嬉しくなって、日本にいたときよりも言葉がなめらかに飛び出してくるしまつです。ここが日本から一万キロメートルも離れたポーランドという国で、今日知り合ったばかりの友人と話し合っているなんてまったく思えないほどです。

「そんな訳で、ぼくは飛行場でご主人一家とはぐれてしまったんです。だから、これから、どうしても探し出さなければならないんです。でも、右も左もわからないポーランドで、いったいどうして探し出したらいいのか、すっかり途方に暮れているんです」

ぼくの話しを聞き終わるとアンナは 、

「チビクロ、心配しなくてもいいわよ。ご主人を探し出すまで、いつまででもわたしの小屋に泊まって下さってもいいし、わたしも近所の仲間に連絡をとって、あなたのご主人一家のことをいろいろ調べて貰ってあげるわ。今日は疲れたでしょうから、早めに、休んで下さい」

と励ましてくれるのでした。

 時刻はまだ三時半ということでしたが、あたりはもう暗くなってきました。ぼくはアンナの言葉に甘えて、その晩は、ガレージの中に作られたアンナ用の木箱に泊めてもらうことにしました。

 夜になると、サラサラと音を立てて小雪がちらつき、寒さも一段と厳しくなってきましたが、アンナと体をすり寄せて眠りましたので、少しも寒くありませんでした。
 
 


6

 翌朝、目を醒ますと周りはしんと静まりかえっています。アンナはぼくに体をぴったりと押し付けて眠っています。スヤスヤいい寝息です。柔らかいいい匂いがします。ぼくは幸せな気持ちで、アンナの寝顔を見つめていました。

 ガレージのドアには、アンナが外へ出れるように、小さな出入り口がついています。そこから、外を見ると、どこもかしこも真っ白です。きっと夜中じゅう雪が降ったに違いありません。こんなにたくさん積もった雪を見るのは初めてです。すっかり嬉しくなって、ぼくはガレージの外へ出、真っ白い雪の上でピョンピョン跳びはねて遊びました。雪はサラサラしていて、少しも体にはくっつきません。

 しばらくすると、アンナも起き出して来て、ぼくと一緒に飛んだり跳ねたり、ころげまわったりし始めました。鎖につながれているアンナは、ガレージからあまり遠くには来られませんが、後ろ足で立ち上がり、ポンポンとじょうずに飛び跳ねます。ぼくもアンナに合わせて後ろ足で立ち上がり、前足を合わせてポンポンと飛び跳ねました。ぼくたちの周りに白い雪が舞い上がります。とても素敵です。

 その時でした。

「コラーッ」

 いきなり大きな音が頭の上から落ちて来ました。いえ、本当にコラーッと言われたのかどうかはっきりしません。なにしろ聞き取れないポーランド語で言われたのですから。でも、どなられたことははっきりわかりました。思わず、首をすくめ、ぼくは、とっさに走り出しました。後ろから、怒鳴り声が追いかけて来ます。

 アンナが、あわててガレージの中へ走り込むのが眼の端に写りました。

 三十メートルも走ったところで後ろを振り返って見ると、石造りの家の窓から、顔中ひげだらけのおじさんが、上半身を乗り出すようにして、ぼくに向かって右腕を高く振り上げ、大声でなにやらわめきちらしているのです。

 ぼくは、安全のために、それからさらに二十メートルぐらい離れたところにあった、大きな木の後ろに隠れて、アンナの家をうかがいました。

 しばらくすると、さきほどのひげのおじさんが庭に現われ、嫌がるアンナをガレージから引きずり出して家の中に連れ込むのが見えました。 アンナのかぼそげな悲鳴が聞こえて来ます。アンナはきっとおきゅうをすえられているのでしょう。ぼくのうかつさのために、なんの罪もないアンナに迷惑をかけてしまい、申し訳なさで、胸がはちきれそうになりました。

 これでは、アンナのところへ戻っていくわけにもいかなくなりました。せっかく、頼りになる友達ができ、安心して泊まれる場所が見つかったと思えたのも束の間、ぼくは、真っ白く雪の振り積もった、右も左もわからないポーランドの町に、またしても一匹だけポツンと放り出されてしまったのです。
 
 




キジ猫

7  

 昨晩お腹いっぱい食べたので、それほど空腹は感じません。しかし、このまま木の下に座り込んでいたのではどうしようもありません。ぼくは立ち上がり歩き始めました。どこへ行くとと言う当てはないのですが。

ーー犬も歩けば棒に当たる

そう思って、人間の匂いのもっと強くする方へ向かって歩き始めたのです。

 林を抜けて、しばらく行くと、人家が次第に増えてきました。道に沿って歩いて行くと石畳の大きな通りに出ました。驚いたことに馬が荷馬車を引っ張って走っているのです。シャンシャンと鈴が鳴っています。馬の吐く息が白く見えます。御者が 「ビジョービジョー」 と大声で掛け声をかけています。荷車にはぼくの毛並みのように真っ黒な石炭がいっぱい積んであります。ご主人が西部劇映画が好きで、ぼくもいつのまにかファンになって、テレビで何度か馬車にはお目にかかったことがありましたが、本物の馬車を見るのは生まれて初めてです。ぼくはすっかり気に入って、馬車の後ろから馬の歩くまねをしながら、ついて行きました。

 幾つもの角を曲がり、やがて石造りの大きな屋敷が、両側に立ち並んでいる大きな通りに出ました。一つ一つの屋敷は、緑色のペンキを塗った金網の塀に囲まれています。馬車は、そのなかの一つの建物の前で止りました。御者は、御者台から降りて、大きなスコップで石炭を下ろしにかかりました。ぼくは初めて見る光景なので感心して見ていました。

「ソコノオ若ケーノ」

 いきなり後ろから声を掛けられました。驚いて振り返ると、丸々と太った大きなキジ猫が、緑の金網の塀の上からぼくを見下ろしているのです。

「この辺りではあまり見掛けない顔だが、いったいどこからおいでなさった」

 犬に向かって、こんなふうに声を掛ける猫など日本ではこれまでおめにかかったことがありません。日本の猫と来たら、犬の姿さえ見れば、すぐこそこそと物陰に隠れてしまうのです。 ぼくはちょっとむっとして、

「どこから来ようとぼくの勝手じゃないか。第一、ぼくが日本から来たと言ったって、君には日本がどこにあるか知っちゃあいないでしょ」

と言い返しました。

「なに、日本だと。そいつはこのワルシャワの中にあるのかね」

 ほれ見ろと思いました。ワルシャワはポーランドの首都です。それくらいのことはこのぼくでも知っています(と言っても、これはご主人からつい最近聞きかじったことなのですが)。ところがこのキジ猫ときたら日本がワルシャワの中にあるのかと聞く始末です。日本はポーランドの中にだってありはしないのに。

「君が物を知らないのには呆れちゃうね。日本はワルシャワどころか、ポーランドの中にさえないんだよ。ずうっとずうっと遠いところにある別の国なんだよ」

「お若けーの、日本がワルシャワにないってことはわかったよ。それだけわかりゃ沢山だ。お前さんの口のききかたから察するに、日本ってのは、あまり礼儀作法のうるさくない国みたいだね。わっしは、お前さんが、なんとなくお困りのようだと思って、ちょっと声を掛けただけのことで、別に、日本のことが知りたくって声を掛けたわけじゃござんせん」

 これには、ぼくも参りました。ぽいでは、どうも猫も犬も対等に口をきくらしいのです。

ーー郷に入らば郷に従え

そう思ってぼくはあっさり兜を脱ぎました。

「失礼な口をきいて悪かった。謝ります。お察しのように、ぼくはこの辺りはもちろんのこと、ワルシャワのことはまったくなにも知らないんです。良かったら少しばかり教えてくれませんか」

「そうくりゃ一肌脱ぎやしょう。わっしの住処はこの奥でござんす。遠慮せずに、ちょっと寄っていきやせんか」

 キジ猫が案内してくれたのは、石造りの屋敷の裏庭にある、樅の木の下の小さいレンガ積みの小屋でした。見掛けは、今にも崩れ落ちそうな感じなのですが、レンガがうまく積まれていて、びくともしません。中は結構広くて、ボロ布がびっしり敷き詰められており、温かくて快適です。

「こんなものしかありゃしませんが、口にあったら噛ってみて下さい。隣の家からちょいと失敬して来たソーセージの切れ端でござんす。少々古くなってはおりやすが」

 朝からなにも食べていないので言われてみると、お腹が空いていました。ぼくは遠慮なくご馳走になることにしました。固いことは固いのですが、よく噛むとおいしさが口中に広がってくるようなソーセージです。昨日の肉といい、今日のソーセージといい、日本で食べたものより、おいしいのです。これは空腹なせいだけではありません。噛り終わっても腹いっぱいというわけにはいきませんでしたが、なんとなくお腹が落ち着いた感じになりました。

「すっかりご馳走になりました。ところでキジ猫さん、こんなことを聞いてはなんですが、お察しするにあなたは、いわばノラ猫暮らしをしているようですね。こんな寒い時季にノラ猫暮らしは大変じゃありませんか」

「なーに、別にてーしたこたぁありゃしねえよ。まぁ、飼猫に比べりゃ食うのに少々不自由もするけれど、なにをやるにも自由だし、飼い主の機嫌を取る必要もないし、要するにわっしの性分にあってるんでさぁ。それに食い物だってこの近所を一回りすりゃ、まあまあの物が手に入るし、この家のおかみさんは親切なお人で、時々テラスに肉の切れ端とか、魚の尻尾を置いて下さるし、それにいよいよ食うに困りゃ、鳩でも雀でもこの近くにゃわんさといるんで、ちょいとひっつかまえればいいわけだし、まあそれほど心配するこたぁねぇんだよ。飼主のご機嫌とりをしなきゃならない飼い猫に比べれば、ここじゃノラ猫のほうがよっぽど高級な身分ってところでさぁ」

 確かに毛の色も悪くありませんし、丸々と太っていますし、キジ猫の言う通り食生活はそれほど悪くなさそうです。今やノラ猫同然のぼくとしては、この話を聞いて、少し安心しました。 と、キジ猫はギョロリとぼくの顔を見て、

「お若けーの、安心なすっちゃいけませんよ。ノラ猫に比べりゃ、ノラ犬は、よっぽど歩が悪いのですぞ。ご覧のとおりワルシャワの屋敷や家はほとんどどの家も金網の高いフェンスで囲まれている。猫なら、その上によじ登るのはお茶の子さいさいだが、犬にはそんな芸当は死んでもできやしねぇ。それにワルシャワの人間は、ノラ猫にはやさしいがノラ犬には冷てぇと来ている。肉を恵んでくれる人など、太鼓を叩いて捜したっていやしねぇ。その上、犬と来た日にゃ、動作がのろいので鳩や雀を捕えるなんてことなんぞ金輪際できゃしねぇ。たいていのノラ犬は、のたれ死にするか、保健所の犬殺しにひっつかまって注射で殺されるか、二つに一つってとこだね。お前さんも、石炭を下ろすところなんぞ、のんびり見物なんかしているとすぐ犬殺しに捕まちまって、注射プスッではい一巻のお終わりってことになりかねませんぜ。そう思ってさっきはちょっと声をお掛けしたって訳でがすよ」

「そうでしたか。そうとも知らず、生意気な口をきいてすみませんでした。ご親切には心から、お礼を言います。ところでぼくはさっきも言ったように遠いところから来たものですから、ここの人間の話している言葉がなにひとつわからないのです。よかったらぼくにここの言葉を少し手ほどきしていただけませんか」

「人間の言葉なんぞ覚えたって何の役にもたちゃしねぇよ。人間って奴はどいつも偉そうな顔をしてのべつまくなく喋りまくっているがその内容ときた日にゃ、どうでもいいくだらねぇことばかし。役にたつことなんぞ、これっぽっちも言っちゃいねぇ。まぁ、強いて役に立つことといやぁ、こっちはおいでとか、あっちへ行けとか、食事ですよ、といった程度。これしきのことなら別段教えてもらわなくったって、人間の顔付をよく見てさえおれば、すぐ飲み込めるってもんさ」

「キジ猫さん、実を言うとぼくはご主人を捜しているのです。日本から追いかけて来て、はぐれてしまったんです。見つけるためには、少しは人間の言葉がわからないと・・」

「犬というやつはこれだから始末に終えない。朝から晩までご主人、ご主人で、頭がいっぱいなんだから。お前さんみてぇに、半ばノラ犬同然の身でありながら、なおかつご主人のことばかり考えている。その点、ノラ猫とは考え方がまるっきり反対ですぜ。わっしの辞書にはご主人という言葉は金輪際ありゃしませんぜ。まあ、しかし、犬の悲しい習性とお前さんの悲しそうな顔を前にして、なにも教えないというのも、こくというものだろうから、少々実物教授をして差し上げやしょう。ここの家のおあかみさんと娘さんは、揃いも揃っておしゃべりときている。さきほど、娘さんが買い物から帰ってきたところだから、おそらく今ごろは台所のテーブルあたりに座り込んでふたりして夢中になっておしゃべりをしている最中のはず。このふたりの話しを聞いていれば、ワルシャワで暮らす上で必要な言葉は全部出てくること請け合いときたものだ。それじゃ、さっそく台所の窓の下まで行って、ちょっくら様子をうかがってみやしょう」

 キジ猫に促されて、一緒に窓の下に行くと、幸い窓が少し開いていて、女の人の話し声が聞こえて来ます。

「あの低いかすれた声がおあかみさんの声で、高くて滑らかなほうが娘さんの声だ。どれどれ、わっしが、同時通訳してあげやしょう。

「今娘さんが言ったのは、今日も肉屋に行ったけれど、とても長い行列だったの。この寒空の下で二時間も待たされたのよ。その挙句、豚肉も牛肉も売り切れてしまっていて、一切れもないの。買えたのはソーセージだけ。まったく頭にきちゃうわ、という意味だ。この中で重要な単語を拾うと、今日、肉屋、豚肉、牛肉、買い物に行く、長い行列、無い、ソーセージ、二時間、売り切れってとこかな。今日がジシャイ、肉屋がメンソー、豚肉がスハブ、牛肉がフィレ、買い物に行くがクーピッチ、長い行列がドゥジョ・コレイカ、無いはニエマ、ソーセージはクバーサ・・・」

「今おかみさんは何と言ったのです」

「本当にこの頃は買いたいものは品切れ、あると思えば長い行列、その上なにもかも値上がりしてしまって、買うに買えない。ああ、大変な世の中になったものだねぇ、と言ったんだよ。ここで重要な単語は、この頃、品切れ、思う、何もかも、値上がり、大変、世の中・・・」

こうして絶好の教材に恵まれた上に、なかなか教えるこつを心得たキジ猫の特訓を受けたおかげで、ニ時間もすると、ふたりの話しの内容がおぼろげながらわかるようになってきました。

「キジ猫さん、今おかみさんが言ったのは『ところで今夜のおかずは何にしようかねぇ、毎日、ソーセージをゆでたのにポテトばかりじゃあきちゃうし』ってことじゃありませんか?」

「おや、これは驚いたね。お前さんはなかなか飲み込みが早いねぇ。それだけわかりゃてーしたものだ。この近所に、半年ほど前にどこかの外国から引っ越してきた人間一家があるんだが、揃いも揃って飲み込みが悪くて、今もってチンプンカンプンときている。人間ってのは語学の才が乏しいのかねぇ。それに比べりゃ、お前さんは大天才ってところだ。いやおみそれしやした」

 キジ猫に褒められて、ぼくは少し照れ臭くなりましたが、これからポーランドで生きていくとすれば、ポーランド語を知らないではおられないと思い、必死になって覚えようとした結果なのです。嬉しさもひとしおです。言葉さえわかれば、なんとかポーランドでもやって行けそうです。

 その夜は、キジ猫の住処に泊めて貰うことなり、夕食はキジ猫が近所から仕入れて来た肉の切れ端を分けて貰いました。夕食の後もポーランド語の特訓のおさらいをしてもらいました。

 夜更けになるとまた、白い雪が降って来ました。明日の朝も、そこらは真っ白になっているに違いないと思いながら眠りにつきました。

 翌朝、安心して眠ったせいかすっかり寝坊してしまいました。

 起き上がると、キジ猫は、朝飯前に一稼ぎしてきたよと、目の前に、一羽の雀の死体を並べ、朝飯にと勧めてくれました。雀を食べたことなどありませんでしたが、贅沢は言っておれません。食べてみると、羽が邪魔になりましたが、結構いけました。

 キジ猫にはすっかりお世話になってしまいましたが、いつまでも、居候を決め込むわけにもいきません。朝飯が済むと、ぼくはキジ猫にお礼を言ってまた独りポッチの、ご主人捜しの旅に出ることにしました。別れ際に、キジ猫が、

「お若けーの、くれぐれも気をつけてな。なにか困ったことが起こったら、いつでも遠慮せずにわっしの所へ引っ返して来るんだぜ」

と言ってくれたのが、ぼくにとっては、なによりも心強く思われました。
 
 

いたずらな子供たち

8

 雪に白く覆われた裏庭から表通りに出ると、屋敷の前の歩道の雪はすっかり片付けられています。雪が降り止むと、それぞれ自分の家の前の歩道の雪かきをすることになっているらしいのです。 
 キジ猫が、保健所の犬殺しに気をつけろと注意してくれたので、ぼくは道路を歩きながらすれちがう人間の一人一人の匂いを二十メートルも前から注意深く嗅ぎ分けました。犬殺しには犬の匂いが染み着いているものです。日本で犬殺しの匂いを嗅いだことが一度あるので、よく覚えています。
 ところが、すれちがう人がみんな犬殺しみたいな匂いがするのです。どうも日本人のあっさりした匂いと違っています。まさか、すれちがう人がみんな犬殺しとは思えませんが、用心するにこしたことはないと思い、ぼくは歩道のはしっこを通ってすれちがう人をやり過ごしました。歩道は広く車道より広いところさえあります。だから、歩道の端に身を寄せておきさえすれば心配ありません。
 ところで歩道の端を通りながら気付いたことは、かなりあちこちに、ほっかほかの犬のフンが落ちているということです。それに歩道にそびえたっている葉の落ちた街路樹の根元から、それぞれ違った犬のオシッコの匂いが、ここはおれの縄張りだと言っているのです。ぼくは緊張しました。他の犬の縄張りのなかを、挨拶もしないで通り抜けたりすると、吠えたてられても噛みつかれても、仕方がありません。オシッコのかかっている幹の高さがいろいろと違います。これは犬の大きさが違っていることを示しています。この様子だと、この通りには、ずいぶん沢山犬がいるようです。このことと、人間から犬殺しみたいな匂いがすることと関係があるのかもしれません。

 いずれにしても、あまり怖じけづいて歩くと、かえって馬鹿にされて、脅かされなくてもいいのに、脅かされかねません。ぼくはできるだけ胸を張って尻尾を高く立てたまま歩くことにしました。と、目の前にいきなりブルドックの顔がぬうっと現われたではありませんか。毛皮の厚いオーバーコートを着た若い女の人に連れられて、とある家から出てきたのでした。ぼくは、てっきり、このブルドックに吠え立てられるものと思い、あわてて両耳を後ろへ倒し肩をすぼめました。ところが、ブルドックは、ぼくのほうをちらりと見ると、
「やあ、お初にお目にかかるね。君も散歩かい」
と言って、そのままさっさと通りを過ぎて行くではありませんか。
 ぼくはちょっと拍子抜けしました。日本でなら、犬と犬とが出くわしたら、ワンワンキャンキャンと決まって喧嘩です。強い犬と出会ったら尻尾を巻いてすごすご退散するよりありません。
 しばらく行くと、歳をとったおばあさんに連れられた、ぼくの四倍もありそうなボクサー犬がやってきました。今度こそ吠え立てられるかも知れない。ぼくはいつもの癖で、さっと身構え、尻尾を高く立てました。ところが、このボクサー犬も
「やあ、お初にお目にかかるね」
と言って、そのまま通り過ぎて行くではありませんか。
ーーーところ変われば犬変わる
 同じ犬語を話していても、日本とポーランドとではこんなに違うのです。ぼくは、これまで、他の犬に会うたび、肩をすぼめたり、きっと身構えたり、キャンキャンとところ構わず吠合っていた自分のことが、なんだかとても情けなく感じられて、しばらく、その場にぼうっとしたまま立ち止まり、悠々と通りすぎて行くボクサー犬の後を見送っていました。やがてボクサー犬の姿も通りの角の向こうに見えなくなったので、ぼくは、また歩き始めました。

 他の犬におどかされる恐れもないということがわかったせいか、何だか少し落ちついて回りの町並を観察出来るようになりました。

 東京の町並と違って、一軒一軒の家の造りも大きく、建物と建物の間隔がかなり広く取ってあります。道幅も広く、人影も少なく、自動車の数もそんなに多くないので、何となくのんびりしています。東京の道を歩くときは、何となく身構えて、人に蹴飛されたり車にはねとばされたりしないように、いつも肩肘張って歩いていたものですが、そんな必要はまずないようです。とくに東京では道路を横断するときは、それこそ命がけで渡ったものですが、ここなら歩道を歩くような気安さで渡れます。いつかご主人に連れていってもらった、信州の片田舎のようにのんびりしています。そういえばあの田舎の道を、ミコちゃんやひろしくんと、前になり後になり鬼ごっこをして遊んだものです。それにしても、ご主人一家は今どうしているのでしょう。無事に探し出すことが出来るでしょうか。

 こんなことを思ったので、ついつい気がゆるんだのでしょうか。僕は危うくとんでもない目にあうところでした。

 ふと気がつくと、僕の前の方から、十二、三歳になる男の子が三人、道路の幅一杯に広がって歩いて来るのです。三人とも手を後ろに回しています。何かを隠し持っているようです。何となく嫌な空気が漂っています。そのまま歩いて行ってやり過ごそうかとも思ったのですが、危ない橋を渡ることもないと、引き返すつもりで後を振り返って見ますと、同じ年格好の男の子が三人、後ろからも僕の方へ近づいて来ているのです。皆んな僕をじっと見詰めています。知らぬ間に狭い路地に入り込んでいたようで、道幅は十メ―トルもなく、おまけに両側には緑色のペンキを塗った、人の背丈よりも高い金網のフェンスがあり、脇へそれるわけにもいきません。

 とにかく、ちょっと様子が変です。僕は前へ行こうか、後ろへ行こうかと少しためらいました。しかし、ままよとそのまま前へ歩き続けました。三人の男の子が側へ来たら、いきなりその間を走り抜けようと思ったのです。僕と男の子たちの間隔が五メ―トルになり、三メ―トルになり、二メ―トルになったとき、僕はいきなり、一番右端の男の子と二番目の男の子の間めがけて、突っ込みました。一人の男の子は、後ろに隠し持っていた長い棒を、いきなり僕の行く手に振かざし、もう一人の男の子は、大きな網を僕の頭上から振り下しました。僕は、きわどく身をかわし、今度は後ろの方へ走りました。後ろでも、三人の男の子がめいめい長い棒切れを道路一杯に広げてたちはだかっています。しかし、ひるんではおれません。僕は、棒の上を飛越えるつもりで突っ込んで行きました。

―ビュ―ン

 いきなり、僕の足を払うように長い棒が襲って来ました。その上をなんとか飛越えると、その後ろに回った男の子が棒を振かざしています。僕は右に走り、左に走り、必死に逃げ回りました。ビュ―ン、ビュ―ン。耳元をうなりを立てて、棒が通り過ぎます。何度、ぶたれそうになったことでしょう。男の子たちは、声も立てず、目を光らせながら、僕をめがけて棒を振り回し、一歩一歩僕を道路の片隅に追いつめるのです。男の子たちが作った棒の囲いを破るのは絶望的に見えます。息が切れてきました。棒がかすったのか肩の辺りがズキズキします。

 もうこうなったら一か八かやってみるれより仕方がありません。

 僕は網を持った男の子めがけて真直ぐに走りました。男の子が網をかけようと振り上げた瞬間、僕は思い切って、その子の顔めがけて飛びかかりました。

「キャ―ッ」

 男の子が叫び、僕を避けようとのけぞり、その拍子にストンと尻餅をつきました。僕はその子の上を飛び越えて一目散に走りました。男の子たちはあっけにとられたのか、だれも追いかけて来ません。僕はそれでも息の続く限り走り続けました。

 どれだけ走ったのでしょうか。どこをどう走ったのかも全然覚えていません。僕は目が回って倒れそうになりました。どこか安全な隠れ場所はないでしょうか。このまま道路にしゃがみ込んだりしたら、またいたずらな子供たちに捕えられかねません。フラつく足でしばらく走っていると、やっとのことで道路脇に樅の木の繁みが見つかりました。ここなら誰にも見つかる心配はなさそうです。僕は、最後の気力を振りしぼって、その下にもぐりこみ、その途端その場にのびてしまいました。
 
 

ボ イ テ ッ ク 一 家

          9

「ママ、こんな所に子犬が寝ているわよ」

「マア、どうしたんでしょうね、今時こんなところで寝てるなんて」

「なんだかチビクロに似てるみたい」

「こんな所にチビクロがいるわけがないでしょ。さあ、ミコちゃん、早く行きましょ、遅くなるわよ」

 どこかで聞いた声です。いえ、まぎれもないミコちゃんと奥さんの声です。僕は嬉しくなって、立ち上がろうとしましたが、肢に力が少しも入らないのです。ミコちゃんと奥さんはずんずん行ってしまいます。僕はあわてて、

「ワン」

と吠えようとしました。でもどうしたのでしょう。声が出ないのです。たちまち、ミコちゃんと奥さんの足音は遠のいて行ってしまいました。

「パパ、樅の木の下に犬が寝てるよ」

「ひろし、触ったりしちゃ駄目だよ。触るとかみつかれるぞ」

 今度はひろしくんとパパの声です。どうして僕がひろしくんを噛んだりするでしょう。
「でも、チビクロみたいだよ」

「こんなところにチビクロがいるはずがないだろう。さあ、ひろし、早くしないとママたちに遅れてしまうぞ」

 ご主人やひろしくんは僕の事を忘れれてしまったのでしょうか。

「僕はチビクロですよ。ワンワン」

僕はそう吠えようとしました。しかし、やっぱり声は出てこないのです。起き上がろうとしても、肢にはちっとも力が入りません。僕が必死になって起き上がろうとしているうちに、ひろしくんとご主人はそのままどんどん行ってしまうではありませんか。

―待って下さい、待って………

 声にならない声を張り上げているうちに僕の両目から涙があふれて来ました。僕は皆んなに見離されてしまったようです。ほんとうの一人ぼっちになってしまったのです。

 こんなに遠いポ―ランドまで苦労して追いかけて来たのに、皆んな、チビクロがこんな所にいるはずがないと決め込んでしまって、どんどん通り過ぎてしまうのです。

 涙が止めどもなく溢れて来ます。みるみる涙で水たまりが出来、いつの間にか涙の川が出来ました。涙の川は、ずっと遠くまで流れて行き 端の方は霞みの中に消えています。その霞みの中からキラキラ光るものが見えて来ました。良く見るとそれは小さな星で出来た船でした。船はゆっくりと僕の方へ近付いて来るのです。船の中には、ピカピカと光る服を来たきれいな女の人が乗っています。僕はこの女の人に見離されたらもうおしまいだと思い、一生懸命しっぽを振りました。とうとう僕に気付いたのでしょう。その人はにっこり笑いました。そして、僕の前で船を止めると降りて来て、僕をやさしく抱き上げてくれました。

「まあ、かわいそうに、こんなに怪我をして」

 女の人は、柔かい手で背中をさすってくれました。たちまち傷の痛みが和らぎました。僕は抱かれたまま星の船に乗せられました。星の船は滑るような速さで進んで行きます。女の人の胸に抱かれているとほんのりお乳の匂いがします。 懐かしい匂いです。僕はすっかりいい気持ちになっていつの間にかぐっすり眠り込んでしまいました。

 もうあれからどのくらいたったのでしょう。とてもいい気持ちです。まだ女の人に抱かれているのでしょうか。僕はそっと右目を片方だけ開けて回りを見回しました。

 そこは女の人の胸ではありませんでした。僕は柔かい布の上に寝ているのでした。どうも木の箱の中に入れられているようです。さっきの女の人がいれてくれたのでしょうか。首を回して上を見上げると、僕を見降ろしている二つの小さな青い目と出くわしました。その目が僕の目に会うとニッコリ笑いかけて来ました。

「マ―トカ、早く来て犬が目をさましたよ」

それは威勢のいいポ―ランド語でした。

「そうお、良かったわね、ボイテック。どれどれ」

 僕を見降ろす青い目が二つ増えました。その顔には見覚えがあります。さっき僕を抱き上げてくれた女の人そっくりです。ぷ―んと匂ってくるお乳の匂いもさっきと同じです。 僕は嬉しくなって立ち上がり、しっぽを振りました。

「おやまあ、すっかり元気になったみたいだね。さっき樅の木の下で見付けた時はすっかりのびていたのに。お腹が空いているんでしょ。さあ、これをお食べ」

 女の人は小さな皿の上に肉の切れ端を乗せて、僕の前に置いてくれました。僕は遠慮なくご馳走になりました。

「マ―トカ、この犬、うちで飼うことにするの?」

 ボイテックと呼ばれれる子が尋ねました。

「そうね、怪我しているみたいだから傷が直るまでうちに置いて上げましょうね。でもさっき鑑札を見たら、ポ―ランドのじゃなくて日本のをつけていたわ。きっとこのあたりに新しく引越して来た日本人の飼い犬じぁないかしら。飼い主はきっと心配しているでしょうから早く飼い主をさがしだして返して上げなければいけないわ。早速明日にでも心当たりに聞いて見ましょうね」

「そう、返しちゃうのか。残念だな。せっかくいい犬が見付かったのに。この犬、一体何という名前なんだろうね、マ―トカ。うちに置いて上げる間だけでも、名前がないと不便だから、僕、この犬に名前をつけてあげたいな。マ―トカ、いいでしょ」

「それはいいわよ。可愛い名前をつけて上げたら」

「じゃ、僕、ヤンという名にする」

「ヤン? 可愛くていい名じゃない」

「じゃ、これから、君のことをヤンと呼ぶよ、チビ犬くん。僕はボイテックっていうんだ。よろしく」

 ボイテックは僕に向かって話しはじめました。

「僕、男の子だよ。間違わないでね。時々僕のこと女の子と間違える人がいるんだけど、僕、とってもいやなんだ」

 そういわれて見るとボイテックは色白の上に金髪がふさふさと肩まで垂れており、女の子みたいな感じもします。

「僕、もう五つになるんだ。毎日すぐ近くの幼稚園に行っているんだよ。ヤン、ちょっとこっちへ来てごらん。ほら、このちっちゃなベッドでスヤスヤ眠っているのが僕の弟のヤ―チェックだよ。この間産まれたばかりなんだ。まだ何にもいえないんだ。時々ニコニコって笑うけれどね。可愛いでしょ。それからあそこでお料理してるのが僕のお母さん、マ―トカって呼ぶんだよ。さっき、マ―トカがヤンのことを、ぼくんちの前の樅の木の下で見付けて、ここに連れて来てくれたんだよ。覚えてるかい。マ―トカはねえ、お料理がとても上手いんだよ。今アヒルのロ―ストを作っているんだよ。いいにおいでしょ。後でヤンにも、僕の分を少し分けて上げるからね。おいしくって、ほっぺたがおっこちそうになるよ。

「もうしばらくしたらタトゥ―シュが帰って来るよ。つまり僕のお父さんだけどね。タトゥ―シュは、サッカ―がとてもうまいんだ。球を蹴飛すと、まるでロケットみたいだよ。僕だって時々ブ―ンってやるけどね。でもタトゥ―シュみたいにはいかないな。サッカ―ってね、案外難しいんだよ。日本でもサッカ―やる?ヤンはやったことある。あるんなら、僕と今度一緒にやろうね」

 ボイテックはおしゃべりと見えて次から次へといろんな事を話かけて来ます。僕はボイテックの話を聞きながら、ご主人一家は本当に僕の側を通り過ぎて行ったのだろうか。あの涙の川や星の船は一体どこへ行ってしまったんだろう、僕を抱き上げてくれた人がマ―トカだったのなら、さっき着ていたピカピカのドレスをマ―トカはいつ着替えのだろうなどと頭の中でいろいろ考えていました。

――リ―ン、リ―ン

 突然玄関の呼び鈴がなりました。

「あっ、タトゥ―シュだ」

 ボイテックが玄関に走って行きました。僕もその後を追いかけて行きました。玄関の所で、大きな四角いメガネをかけて四角い顔をした男の人がボイテックを抱き上げて盛んにキスしています。

「タトゥ―シユ、ちょっと見て。これが今日うちに来た、日本の犬のヤンだよ」

「日本の犬だって?」

 タトゥ―シュは、ボイテックを下に降ろすと足下にいる僕を四角いメガネの奥から丸い目をしてみつめました。そのとき玄関に現れたマ―トカが、これまでのいきさつをタトゥ―シュに話しました。

「フ―ム、それは珍客だね。どれどれ」

 タトゥ―シュは大声で言いながら、僕を抱き上げ、首の鑑札をしげしげと見詰めました。その間を利用して僕もタトゥ―シュの顔をすぐ近くからしげしげと観察しました。下から見たときは髪がフサフサしているように見えましたが、頭の頂上の所の髪はかなり薄くなっています。その代わり、頬から顎にかけて焦茶色の髭がもじゃもじゃと生えています。

「ナ―ルホド。これは日本の犬だ。鑑札に東京と書いてある。」

 タトゥ―シュが喋るともじゃもじゃの髭の間に赤い唇が透けて見えます。タトゥ―シュは僕の顔を覗きこみながら

「どうやって、ポ―ランドへ来たんだね、おチビくん」

 タトゥ―シュはまるで人間に話しかけるように僕に話掛けてきました。

「飛行機でやってきたんです。ウ―ワンワン」

 僕はまともに答えました。だってこんなに親身に話掛けてくれる人はあまりいないからです。

「そうかい、飛行機でね。」

 タトゥ―シュはうなづきました。僕は一瞬あっけにとられました。

 なぜって?

 タトゥ―シュには、僕の言った事が分かったらしいのです。でも今のは偶然なのかも知れません。僕は念の為

「飛行機の倉庫にこっそり忍びこんできたのです。」

とつけ加えました。

「なるほど、倉庫に隠れて、密航して来たと言うわけだね」

 タトゥ―シュは何でもないようにうなづいているではありませんか。人間で犬語がこれほど分る人に会った事はまだありません。僕はびっくりして目玉をぐるぐる回しながら 、

「タトゥ―シユさんは犬の言葉が分るのですか?」

とたずねましした。

「おや、そういわれてみればそうだね。君の言っている事がよく分るな。これはおかしい。」

 タトゥ―シユは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、僕の顔を覗きこみました。

「お前がポ―ランド語を話しているわけでもないみたいだし………キャ―ッ」

 いきなりタトゥ―シュが両手を放したので、僕は空中に放りだされ、床板の上につんのめるような形で落っこちました。僕が危うく立ち直った時には、タトゥ―シュは台所に戻っていたマ―トカの肩を両手でつかまえて前後に揺すっていました。

「ハ、ハンナ、ち、ちょっと、僕は今もう、その、いや、実に、驚いた。」

「まあ、一体何を言ってらっしやるの、私にはさっぱり分らないわ」

「落着いて、落着いて」

「落着いて欲しいのは、あなたの方よ。一体どうしたの。」

「ぼ、僕には、犬の言葉が分るらしいんだ。このおチビさんが言った事が今わかったんだ」

「まさか?そんなこと嘘でしょ。ありえない事よ」

「エッ、タトゥ―シュ、犬の言葉が分るの。いいなあ、それでヤンは何と言ったの」

「いや、このヤンが言うには、飛行機に忍び込んでポ―ランドへやって来たというんだよ。ネ、そうだろう、ヤン」

タトゥ―シュは僕の方を振り返ってまるで人間の子供に尋ねるみたいに尋ねました。僕は嬉しくなって 、

「ワン」

 と吠え、尻尾を威勢よく振りました。

「それ御覧。ヤンがワンと言って尻尾を振っている」

「どんな犬でも、ワンと言って尻尾ぐらい振りますわ」

「君は実に疑り深い質なんだな」

「まあ、あなた、疑り深い質だなんて、失礼ね。だって世の中には、ありえる事とありえない事があるのよ」

「じゃ、試して見よう。僕が何かヤンに聞いてみて、ヤンが何と答えたかを当てて見せれば、君だって信じるに違いない」

「どうして当たったか分るのよ」

 マ―トカはなおも食い下がりますが、タトゥ―シュはマ―トカの言葉を無視して、僕の目を覗き込むと、

「おチビさん、君の本当の名前はなんだね」

と尋ねました。

「チビクロと言います」

「今、この犬は、自分の名前はチビクロっていいますって答えたんだ」

「私には、ただワンワワンと言ったようにしか聞きとれなかったわ」

「僕にも、ワンワワンとしか聞きとれなかった」

 ボイテックも小首をかしげました。

「じゃ、僕がこの犬の本当の名前を呼んで見ることにしょう」

 タトゥ―シュはそういって、大きな声で僕の名前を呼びました。

「チビクロ!」

「ワンワンワン」

 僕はこの時とばかり大声で返事をし、後ろ足で立ち上がってピョンピョン跳ね、さっきより三倍も激しく尻尾を振りました。

 マ―トカの顔付きが少し変って来ました。

「フ―ン」  といった面持ちです。

「じゃ、あなた、飼主はどうしたのか聞いてみて」

 僕は奥さんの言うことが分るので 、
「ポ―ランドまで追ってきたんですが、空港ではぐれてしまいました。」

と答えました。

「空港ではぐれてしまったらしい」

タトゥ―シュがポ―ランド語で言い直しました。

「じゃ、チビクロ、飼いぬしの名前は?」

「ご主人と奥さんとミコちゃんとひろしくん」

僕は答えました。

「ゴシュジンとオクサンとミコチャンとヒロシクンという四人家族らしい」

「あなた、でたらめを言ってるんじゃないでしょうね」

 マ―トカはきっとタトゥ―シュの顔を睨みつけました。

「と、とんでもない。この犬がそういうんだよ」

 タトゥ―シュは口と目玉を丸くしながら答えました。

「わかったわ。あなたにはこの犬の言葉が分るらしいわねえ」

 とうとうマ―トカもタトゥ―シュの意外な才能を認めたようです。

「でも、どうして今になって急に犬の言葉が分るようになったのかしら?」

「うん、僕にもよく分らないけど、両親から聞いたところだと、僕は生まれた時から五才くらいまで、いつも数匹の犬と一緒に育てられたらしいんだよ。だから潜在的に、人間の言葉と同時に犬の言葉も覚えていたんじゃないかな。今まで眠っていた才能が、今日このチビクロに会って突然花開いたとも考えられる」

「でも、そんなことってありうるのかしら………」

「現に、僕がこうして………」

 タトゥ―シュとマ―トカは、僕の事はそっちのけにして、どうして突然犬語が分るようになったかについて難しい議論を始めました。しかし、そんな事は僕にとってはどうでもいいことです。とにかく犬語が分る人に巡り会えたという事は、百万の援軍を得たようなものです。僕は嬉しくて小躍りしたい気持ちを押えながら延々と続く議論を我慢して聞いていましたが、とうとえうしびれを切らして

「ワンワン、タトゥ―シュ。僕はご主人と奥さんとミコちゃんとひろしくんに一刻も早く会いたいんです。何とかしていただけませんか」

 僕は、マ―トカと鼻がくっつかんばかりに顔をくっつけて議論しているタトゥ―シュのズボンの裾を引張って一生懸命に頼みました。

「そ、そうだ。つまらない議論をしてかんじんのチビクロの事を忘れていた」

 タトゥ―シュは、もう一度僕を抱き上げると

「分かったよ、チビクロ。明日早速、日本大使館と言うところへ連れて言って上げよう。そうすれば、明日のうちにでもゴシュジンやオクサンやミコチャンやヒロシクンに会えるかも知れないよ」

 この言葉で、僕の前途はいっぺんにパッと明るくなりました。

 その夜は、ボイテックのベッドの側で眠りましたが、うまくいくと明日にでもご主人一家に会えると思うと嬉しくてなかなか寝つけない程でした。
 

  
 
 


 日 本 大 使 館

          10

 翌朝目を覚ますともう窓からキラキラ輝く朝日が眩しい程に差込んでいました。

「もしもし、おはようございます。私グルジンスキ―ですが、今日、急に大変大切な用事が出来ましたので、申しわけありませんが、休暇をとらせていただきます」

タトゥ―シュが勤め先に電話をかけています。

「さあボイテック、早く毛皮のコ―トを着るのよ。お外は零下五度なんですからね」

 マ―トカがボイテックをせき立てています。

「コ―トを着たら、チビクロにこのお肉を上げて頂戴。あなた、チビクロの皮紐をちょっと捜して来てくださいな。確か地下室の納戸にあった筈よ。私、ヤ―チェックの乳母車の用意をしますから」

 あわただしい朝です。皆んなが手分けして忙しく働いています。地下室から上がって来たタトゥ―シュが、僕の首に立派な皮紐をつけてくれました。

 いよいよ出発です。

 しばらく歩くと住宅街から、両側にビルの立並ぶ大通りへ出ました。大きな並木が通りの両側にそびえています。ゴ―ッと大きな音を立てながら赤い色をした電車が走って来ました。

「さあ あの電車に乗ろう」

 タトゥ―シュは皆んなをせきたてて電車に乗りこみました。僕は生まれて初めて市街電車の客になりました。なんだか落ちつきません。ぐるりと回りを見回すと電車の前の方に痩せた背の高い犬が腰を降ろして、僕の方を見ています。僕はいつもの癖で

「ウ―」

と唸り声を上げてしまいました。その途端、お尻に、目から火が出るほどの痛みを感じました。

「キャン」

 僕は悲鳴を上げました。とまたお尻に目から火が出るほどの痛みが来るのです。驚いて振りかえるとタトゥ―シュが皮ひもの端で僕のお尻をぶっているのです。僕は尻尾を後ろ足の間に巻込み、首を垂れて黙り込みました。するとタトゥ―シュは振りあげていた皮ひもを下しました。

「あの犬を御覧。じっと静かにしているだろう。人の大勢いるところでは、吠えたり唸ったり、人の迷惑になるような事はしてはいけないんだよ、チビクロ」

 確かに電車の前の方に座り込んでいる痩せた背の高い犬は、顔色ひとつ変えず、すましこんでいます。電車の中では、やたらにウ―とか、キャンとか言ってはいけないようです。とにかく、生まれて初めて皮ひもでぶたれたので文字通り骨身にしみてよく分りました。僕も、お尻のいたいのを我慢していずまいをただし、痩せた背の高い犬のようにきちんと座りました。

 電車の窓は、僕の背丈よりずいぶん高いので窓から見えるのは、高いビルの屋上の方と並木のてっぺんとキラキラ輝く空ばかりです。並木のこずえには一枚の葉っぱもついていません。次から次へと複雑にからみあった木の枝のモザイクが消えては現れます。どれほど多くの並木を見たことでしょう。僕には、一万本も見たように思えました。

「さあ ここで降りるんだよ」

 タトゥ―シュが言いました。降りたところは人通りのかなり激しいところでした。車がひっきりなしに走っています。よくよく見ると運転手が左の方に座っています。しかも車は道路の右側を走っているのです。僕は面くらってしまいました。日本とは全部あべこべだからです。日本にいる時には、まず右の方を見てから左の方を見て横断歩道を渡ったものでしたが、ここではまず左を見てから右 を見なければなりません。いつもの癖で右を最初に見て横断歩道に飛出してしまい、タトゥ―シュにいきなり皮ひもで引戻されてしまいました。見ると左の方から車が突っ込んで来ていたのでした。

 電車の停留所から大通りにそって四、五分歩き、スリッパ屋さんの角を右に折れ、やや狭い、なだらかな下りの坂道に入りました。通りの両側には、車がいっぱい駐車してします。でも、ここも歩道が広くて、大きな並木が植わっており、歩くスペースは十分あります。角から五十メ―トル程行ったところで、タトゥ―シュが立止まり、右側の三階建の建物を指差しながら、

「ここが、日本大使館だ」

と皆んなに教えてくれました。そう言われて門柱を見上げると、四角いプレ―トに金色で

「日本大使館」

と書いてあります。ぼくは胸がどきどきしてきました。日本と言う文字があるのですから、ここには日本人が住んでいるに違いありません。もしかしたら、ご主人や奥さんやミコちゃんやひろしくんも、ここにいるのかも知れません。

 石の階段を四、五段昇ったところに入口があります。タトゥ―シュがブザ―を押すと、入口の黒いドアが開きました。中に入ると受付けに、少し年を取ったポ―ランドの女性が座っています。タトゥ―シュが

「領事関係のお仕事をなさっている方にお会いしたいのですが」

と尋ねると、受付の女性は、すぐ電話で連絡をとってくれ、皆んなを受付のすぐ右手にある応接室に案内してくれました。毛皮のコ―トを皆んなが脱ぎ終わらぬうちに、タトゥ―シュに劣らぬくらい顔中に真黒な髭を生やした日本人が応接室のドアを開けて入って来ました。

「どんなご要件でしょうか」

 驚いたことに髭の男の人は、日本人のくせにポ―ランド語でそう尋ねたのです。タトゥ―シュは

「実は、昨日、この犬が、私の家の近くの樅の木の下で伸びていましてね。家内が可愛そうに思い家に連れて帰り介抱してやったんですが、鑑札を見ると日本の鑑札をつけているんです。それで日本人のお宅に飼われていた犬ではないかと思い、こうしてお伺いしたわけでして。大使館の方では、何か心当たりはありませんか」

と切り出しました。

「ふ―む。日本の鑑札ですか。どれどれ。なるほど。確かにそうですね。でも、ワルシャワには、日本人は二百五十人も住んでいるんですからねえ……一軒一軒に電話して、お宅の犬は行方不明になりませんでしたかと聞きまわるわけにもいきませんし………何か他の手掛かりはありませんか。例えば、飼いぬしの氏名とか?」

「それなら分かっています。この犬が言うには、飼主はなんでもゴシュジンと言うのです。」

「えっ?!この犬が言う?あなた、まさか私を馬鹿にしにいらしたんじゃないでしょうね」

「いや、そんなことは決して。ただ自分でも不思議でならないんですが、昨日から、急に犬の言葉が分るようになりましてね」

「まさか、あなた。人間に犬の言葉が分るなんて。そんなこと私、大学でも習わなかったし、日本のテレビ番組でも見たこともありません。それは絶対に間違いです」

「いや、間違いではありません。私が犬の言葉が分るってことは、ここにいる家内も、私の息子も、ちゃんと認めているんですよ」

「それは、きっと奥さんや息子さんは、あなたのおっしゃることですから、信じたふりをなさっているんじゃないんですか」

「え―、私も最初は全く信じられませんでした。でも、どうも内の主人ときたら、本当に犬の言葉がわかるらしいんですの。あなた、この方の前で、昨日私に証明してくださったように証明してお上げになったら」

マ―トカが助け船を出しました。

「それじゃ、ちょっと実験をしてお目にかけます。このチビクロに――そうそうこの犬はチビクロっていうんです。――このチビクロにこれまで日本で何という通りに住んでしたのか聞いてみましょう。チビクロが何と答えるか。私は日本へは一度も行ったことがありませんから、通りの名前なんて何にも知りません。もし、チビクロが日本の地名を答えられたら、私がチビクロの言っていることが理解出来ると言うことになりませんか?」

「ふ―む。じゃ、とにかくやってみて下さい」

「チビクロ、これまでお前は何という通りに住んでいたのかい?」

 僕は、頭をひねりました。だって、僕は、通りに住んでいるのら犬ではなくて、ちゃんとご主人の家の犬小屋に住んでいたのですから。

「僕は通りにじゃなくて、ご主人の家に住んでいました」

と僕は答えました。

「いや、それは分かっている。じゃ、そのゴシュジンの家は何という通りにあったのかい」

なんだ、そういう意味か。とはいうものの、僕はこれまで通りの名前なんて気にもとめていなかったので、全く思いだせません。
どこか出掛ける時でも、通りの名前を覚えるよりも、お菓子屋さんの角を曲がって、花屋さんの横を通り抜け、僕のオシッコの臭
いのする電信柱のところを左に曲がるとお肉屋さんがある、というふうに覚えておく方がよっぽど実用的で便利だからです。僕は
首をかしげながら、何とか通りの名前を思い出そうと脳味噌を絞りました。しかし、どんなに一生懸命になって思い出そうとして
も、一度もはっきり覚えたことのないことを思いだせる筈がありません。

「どうしても 思い出せません」

 僕は、力なく答えました。タトゥ―シュは明らかにがっかりしたような顔をして

「ふ―む」

とあごをさすりました。

「一体、この犬は何と答えたんですか」

髭の日本人が聞きました。

「いや、通りの名前は思いだせないと言っています。これまでゴシュジンの家にいたとだけ」

「アッハッハッハ、いい加減にして下さいよ。大使館は忙しいんですから、そんな話にかまっている暇はありませんよ。それはど
んな犬でもご主人の家にいたでしょうよ。別に犬が喋らなくても、そのくらい誰にだって分りますよ」

「もう一回だけ試させて下さい。いいことを思い付きました。チビクロは、飛行機に乗ってやって来たと言っていますから、何時
発の飛行機に乗って来たのか、ちょっと聞いてみます」

 タトゥ―シュは真剣な顔付きをして僕の方へ振り向くと

「チビクロ、いいかい。もう一回だけ尋ねるけど、何時発の飛行機に乗ったんだい?」

と僕の顔をのぞきこむようにして聞きました。飛行機の出発時刻か。これなら、何とか思いだせそうです。そうそう、あの出発の
日は、朝から飛行機の出発時間に合せて、一日あれこれ動き回ったのです。七時にタクシ―が来て、飛行場に着いて、空港の時計
が九時半を回っていたのであわててカウンタ―にしのびこみ………そうです。思い出しました。
「あの―夜の十時三十分の飛行機です」

僕は、確信を持って答えました。

「この犬は、夜の十時三十分発のに乗ったと言っていますが。さっきも言ったように私は一度も日本へ行ったことがないのでそん
な便があるかどうか全く知りません。この犬が答えた通り繰返しただけです。時刻表があったらちょっと確かめていただけません
か」

 髭の日本人は、ハテナといったような顔をすると

「少々お待ち下さい」

といって奥に引込みました。しばらくすると分厚い時刻表を覗きこみながら現れ

「確かに十時三十分発のJALってのがありますなあ」

「それじぁ、私が犬の言葉が分るってことを分かっていただけましたか」

「まあ、全部信ずるというわけにはいきませんが………それで、この犬の飼いぬしの名前は分かっておりますか」

「それは、さっきも言った通りゴシュジンです」

「エッ?さっきあなたがいったゴシュジンというのは、人の名前のつもりでいったんですか。それは、日本語で飼いぬしという意
味ですよ」

「でも、その飼いぬしの夫人は、オクサンといいます」

「オクサンというのは夫人のことですよ」

「でも 娘さんはミコちゃんで、息子さんはひろしくん」

「ちょっと待って下さい。ミコちゃんという娘さんに、ひろしくんという息子さんですか。ちょっと在留邦人の届出簿を調べてみ
ましょう」

 髭の日本人は、もう一度部屋を出でいき、今度は大きな帳簿を持って現れました。

「残念ながら、ミコちゃんとひろしくんという子供のいる家族の届けはありませんね。え―と、この犬を見付けたのは、確か昨日
とかおっしゃいましたね。それじゃ、この犬の飼いぬし一家はまだ在留届けを大使館に出していないんじゃないんですかね。しか
し、いずれにしましても、近いうちに在留届けを提出に来るはずですから、そのときは、ご連絡して差上げますから。この紙に住
所と電話番号を書いておいて下さい」

「そうですか。それでは宜しくお願いします」

 タトゥ―シュもマ―トカも力なく答えました。皆んなうなだれて大使館を出、今来た道を戻り始めました。

 その時です。

 僕の鼻がキンコンカンコンと鳴り始めました。僕は、思わず走り始めていました。いきなり僕が走り始めたので、皮ひもはタト
ゥ―シュの手からすっぽり抜けてしまいました。 「チビクロ!」

 タトゥ―シュはあわてて僕を追掛けて来ます。でも、僕はそのまま全速力で走り続けました。

 向うから、懐かしい人影が近付いて来るのです。大人が二人、子供が二人。厚いコ―トを着ていますが、この匂いをかぎ間違え
るような僕ではありません。それは、まぎれもなく、ご主人と奥さんとミコちゃんとひろしくんの匂いです。僕は、ワンワンと歓
声を上げ、尻尾を小旗のように振りながら走っていきました。

「ワンワン」

 僕はご主人の胸に跳びつきました。ご主人はいきなり僕に跳びつかれて、ひっくり返りそうになり、二、三歩よろよろとしたあ
げく、やっとのこと立ち直りました。

 僕は今度は、奥さんの胸に跳びつきました。奥さんは驚いたように 「マアマアマア」 と叫びました。

 僕は、続いて、ミコちゃんの胸に跳びつきました。ミコちゃんは、物の見事にストンとシリモチをつきました。

 最後に僕は、ひろしくんに跳びつきました。ひろしくんは、待ち構えていたかのように僕の両前足を取ると

「チビクロ!」

と叫びました。

「チビクロ!?」

 ご主人と奥さんとミコちゃんが驚いて一斉に叫びました。

「そんな筈が………」

とご主人がいいかけました。

「まさかチビクロがこんなところに………」

奥さんもいいかけて、両手を開きかけた口にかぶせました。

「ほんとにチビクロだわ!」

今度はミコちゃんが、シリモチをついたまま叫びました。

「ほんとだ、チビクロだ!」

ご主人と奥さんが一緒に叫びました。

 その時、ちょぅどタトゥ―シュがはあはあ息を弾ませてやって来ました。僕は

「これが、僕のご主人と奥さんとミコちゃんとひろしくんです」

と紹介しました。

「エッ これがチビクロの飼いぬし一家なのかい」

「今日は 奥さん」

「今日は ご主人」

「今日は ミコちゃん」

「今日は ひろしくん」

 タトゥ―シュは一人一人の手を握って挨拶しました。ご主人も奥さんも、ミコちゃんもひろしくんもポ―ランドの男の人が、オ
クサンとか、ゴシュジンとか呼んだり、ミコちゃんひろしくんと言いながら、手をきつく握ってさかんに振回すので目を丸くしま
したが、それでも、手をぎゅっと握り返して挨拶を返しました。奥さんは、手の甲にチュッとキスされて少し赤くなりました。そ
のうち、マ―トカとボイテックもやって来て握手を始めました。マ―トカからほっぺたにチュッチュッとキスされて、ミコちゃん
とひろしくんは跳び上がりました。

 タトゥ―シュがこれまでのいきさつを説明し始めました。

「実はチビクロを昨日、私の家の近くで妻が見付けまして、今日、日本大使館へ連れて来たところなんです」

 タトゥ―シュは、身振り手振りを交えて話すのですが、ご主人たちには何も分らないらしく、きょとんとした顔で聞いていま
す。ポ―ランドに着いたばかりでポ―ランド語は全く分らないらしいのです。タトゥ―シュは、なおさら一生懸命になって

「このチビクロは」

と僕を抱上げ、

「あなたがた一家を慕って、飛行機に忍び込んでポ―ランドまでやってきたんですよ」 と、説明しました。それでも、ご主人は

「この人一生懸命説明してくれてるらしいんだけど一体何を言っているんだろう、ねぇ、ママ」

と傍らの奥さんに話し掛ける始末です。ミコちゃんも僕をタトゥ―シュから抱きとって、 「チビクロ、どうしたのよ。どうしてこ
んな所にいるの?」

と僕の顔を必死になってのぞきこむのです。人間って何て不便な動物でしょう。僕は、そう思いながら、タトゥ―シュに

「今タトゥ―シュが話したことは、僕のご主人には何も分らなかったようです。すみませんが、もう一度さっきの大使館へ引返し
て、髭の日本人に通訳してもらったらどうでしょうか」

と提案しました。タトゥ―シュも

「それはいい考えだ」

と深くうなづき、皆んなして、日本大使館へ戻ることになりました。

 

         11

 大使館では、先ほどの髭の日本人が通訳をやってくれました。

 ご主人は、タトゥ―シュが僕の喋ることが分るのでびっくりしましたが、タトゥ―シュが話すポ―ランド語を僕が分るのを見て
二度びっくり、あんなに大きなご主人の目玉を見たのは、その時が初めてでした。これなら本物の目玉焼が出来そうです。

 話はこんなふうに進みました。

 ご主人「チビクロが飛行機に忍びこんだのは分りましたが、実はポ―ランドヘ発つ前に、チビクロを私の父の家に預けてきたん
です。そこから飛行場まで、一体どうやって行ったのかチビクロに聞いて下さい」

 僕にはご主人の日本語は良く分りますので、僕はタトゥ―シュに犬語で説明します。
「今、ご主人は、僕が飛行場までどうやって行ったかと聞いています。僕は、あの夜お祖父さんの家からこっそり逃出して、ご主人の家の前の暗闇に隠れ、タクシ―が来るのを待っていたんです。そして、皆んなのスキを盗んでタクシ―のトランクへ忍びこみ、こっそり飛行場までいったんです」

 僕が説明すると、今度はタトゥ―シュがそれをポ―ランド語に直して髭の日本人へ伝えます。それを、髭の日本人が日本語へ訳
すとご主人一家が最後にナ―ルホドというわけです。しかし、残念ながら、この髭の日本人の日本語訳は余りうまくありません。
ところどころタトゥ―シュのポ―ランド語訳と違うところがあります。そんな時には、僕はタトゥ―シュに向かって 、

「今、髭の日本人が、手荷物のトランクの中に隠れた、といいましたけれど、タクシ―のトランクに隠れた、と直すように言って
くれませんか」

と頼みます。するとタトゥ―シュが、髭の日本人にポ―ランド語で説明して、正確な日本語に直るというわけです。こんな面倒臭
いやり方でしたので、僕の長い旅行の一部始終を話し終えるのにずいぶん長くかかってしまいました。僕もいささかくたびれまし
たが、皆んなが僕の話を目を丸くして聞いてくれるので、実をいうと大変得意でした。

「チビクロって凄いのねえ。アタシひとりでなんか、とてもポ―ランドに来れないわ」

 ミコちゃんが僕に頬ずりしてくれます。

「チビクロは、ウルトラマンみたいに何でもできるんだね。スゴイナ―」

 ひろしくんは、僕の頭を何度も何度も撫ぜてくれます。  僕はもう嬉しくなって、ワンワン吠えながら、そこらじゅう転げ回り
たいところでしたが、人のいる所で人の迷惑になることをすると、タトゥ―シュにもう一度皮のヒモでお尻をぶたれるかも知れな
いと思い、電車の中の痩せた背の高い犬のようにすましこんでいました。

「ほんのしばらく会わないうちに、なんだかチビクロったら、凄く大人になったみたい」
 今度は奥さんがいいました。

「うん、長い冒険旅行をやったんでぐっと成長したみたいだな。もう立派な雄犬だ。ポ―ランドで早くお嫁さんを見付けてやらな
くちゃいけないな」

 僕は、すましこんでいましたが、頭の中が少しポ―ッとなり、気付いて見ると我知らず尻尾をさかんに振っているのでした。
 
 


   タ ク シ ―

          12

 ご主人の話によると、昨日新居に落ちついたので、家族揃って大使館へ在留届けを出しに来たところだったのです。そこにちょうど僕とタトゥ―シュ一家が来合せたというわけです。なんという偶然、僕にとってはなんという幸運でしょう。

 髭の日本人が在留届けの係りの人だったので在留届けも簡単に済みました。ご主人は、タトゥ―シュ一家に何度もお礼を言って、僕を引取りました。もちろん、僕もタトゥ―シュ一家に何度もお礼を言いました。タトゥ―シュもマ―トカも僕との別れを惜しみ、遊びに来るように何度も念をおしました。ボイテックは 、

「つまんないの」

と半分むくれていました。

 大使館からは、無線のタクシ―を呼んで家へ帰ることになりました。さんざん待たされたあげくやって来たのは、丸っこくてぼてぼてした感じのとても旧式の車でした。こんなオンボロ車には、東京ではお目にかかったことがありません。でも運転手は、丸いくしゃくしゃした顔のとても親切そうなおじさんでした。タトゥ―シュがポ―ランド語で行先を何度も運転手に念をおしてくれました。

 盛んに手を振ってくれるタトゥ―シュ一家を後に、車は走りだしましたが、ガ タガタ、ギシギシ盛んに音がします。耳をすますと 、

「アア ヤンナッチャウナ  

アア ヤンナッチャウナ  

オイラハ トシヨリ  オンボロ グルマ  

今日モ 朝カラ走リッパナシ  

タマニャ ユックリ 昼寝ガシタイ  

アア クタビレタ クタビレタ」

 車が鼻歌を歌っているのです。

 ご主人一家が乗っている車がくたびれて居眠りでもした日には大変です。運転手が居眠りしても事故になるというのに、走っている車が居眠りしたらどうなるというのでしょう。僕は後肢で、車のお腹のあたりを少しひっかいて、いいました。

「車のオジサン、変な歌を歌うのはよして、真面目に走って下さいよ。事故になったら大変じゃないですか」

 すると歌の調子ががらりと変って

「何ヲ オッシャル チビイヌサン  

コレデモ ワッシハ 四十年  

鼻歌 ウタッテ ヒタバシリ   

無事故デ 元気ニヤッテキタ  

歌エバ 心ガ 浮キダッテ  

走ル元気ガ ワクノダヨ」

 僕は、なるほどと思いました。黙ってぶすっとしているよりは、鼻歌でも歌っている方がよほど元気が湧いて長生きも出来るというものでしょう。僕もついタクシ―の調子に吊られて歌いだしてしまいました。

「ナルホド ヨ―ク ワカッタヨ  

ボクモ 歌ナラ 大好キサ  

イッショニ 歌オウ ワンワンワン」

「チビクロ 何を唸ったり、タクシ―の床を引掻いたりしてんのよ」

 ミコちゃんが不思議そうな顔をして尋ねました。僕は、どうも調子に乗りすぎる癖があるようです。僕が急に黙り込むとタクシ―の方から話掛けてきました。

「オチビノイヌクン キミノナハ 

 チビクロサンッテ イウノカイ  

ドウシテ キュウニ ダマリコム  

ドウシテ イッショニ ウタワナイ?」

 このタクシ―ときたら、何でも歌にしてしまうらしいのです。僕は仕方がないので小さな声でいいました。

「今はちょっと大きな声が出せないんだよ。よかったら、得意な歌を歌って聞かせてくれませんか」

「ソウカイ ソレジャ イキマショウ」

 タクシ―は 咳払いをひとつすると歌い始めました。

「ワッシハ ワルシャワデ 一番  

古イトイワレル タクシ―   

ワルシャワガ 戦争デ 灰ニ   

ナル前カラ 走ッテル                                       

アル時市街戦にマキコマレ   

鉄砲ノ弾ガオナカニ五発  

ミゴト命中 死ヌ思イ   

ソレデモ メゲズニ ヒタスラ 走リ  

オ客助ケテゴホウビ タント」

「それ本当のこと?」

僕は、こっそり聞きました。

「ソウダヨ モチロン ホントノコトサ」

 タクシ―は、急に真面目そうな声で歌い始めました。

「コノアタリデモ 戦争ノトキニハ

 ズイブン 大勢ノ人タチガ死ンダ

 今デハ 建物モ並木モ  

見違エルホド 立派ニナリ

 人々ハ シアワセソウニ歩イテイルケド                                                      

ホラ ゴランヨ アノ建物ヲ  

入口ノトコロニ 小サナ  祭壇ガアッテ

 美シイ花ト小サナロウソクガ ソナエテアル

 アソコデモ 罪モナイ五十人モノ人ガ  

ドイツ軍ニ ハムカッタコトヘノ  

見セシメノタメニ  

一人一人 鉄砲デ射殺サレタ

 ダカラ 今デモ アアシテ   

ワルシャワノ人タチハ  花ヲソナエ  

殺サレタ人タチノタメニ

 イノリヲササゲテイルノサ

 コノマチニハ  ソンナトコロガ  

数エキレナイホドアル

 ゴラン アノ角ヲ曲ガッタトコロニモ  

マタ別ノ祭壇ガアリ  

小サナロウソクガ揺レ  

美シイ花花ガソナエラレテイルノヲ」

 タクシ―自身も、亡くなった人々の霊を慰めるかのように、静かなしんみりした調子でそこまで歌い終わった時、エンジンの音もパッタリと止み、車もすうっと止まってしまいました。

 運転手はあわてて、あちこちの計器を回したり引張ったりしましたが、エンジンは時折、グスングスンと音を立てるだけで、なかなか始動しません。

「どうも、またエンジンがいかれちゃったみたいだな、これじぁ修理に二、三日かかりそうだ。よわっちゃったな」

 運転手はひとりごとを言うと客席を振りむいて言いました。

「お客さん、申し訳ないが、エンジンの故障です。ここで降りていただけませんか」

 ご主人も、先ほどからの様子で、運転手が何をしているか、すぐ合点がいったらしく、

「それじゃ、ここから家まで近いようだから、幸いここに地図もあることだし、歩いて帰ることにしよう」

とタクシ―代を払って先に降りました。僕が降りようとすると、タクシ―が

「アバヨ サヨナラ チビクロ君  

ワカイツモリデ 走ッテイテモ  

ワッシモ ドウヤラ ジュミョウノヨウダ  

オソラク 二度トハ アエマイガ  

君ハ 元気デ ガンバリナ」

「タクシ―さんも、元気だしなよ。そんな弱気なことはいわないて大好きな鼻歌でも歌うんだよ」

 僕はしおれ切ったタクシ―のおじさんを一生懸命励ましました。

「ワカッタ、ワカッタ」

とうなづくタクシ―を後にして、僕は、ご主人に引かれて歩き始めましたが、その後ろから、タクシ―の歌う歌が聞こえてきました。

「アバヨ サヨナラ チビクロ君  

ハゲマシテクレテ アリガトウ

 ヨルトシナミニャ カテナイガ  

セイゼイハシルサ コンカギリ」
 
 


   肉 屋

          13

 電車通りをしばらく行くと、ある店の前に長い人の行列ができていましした。

「まあ、ずいぶん長い行列ね。一体何を売っているのかしら」

 奥さんがつかつかと歩いて行って、店の中を覗きこみました。

「まあ、お肉屋さんよ。日本のお肉屋さんと全く違うわねえ。重たいドアを開けてお店の中に入って買うみたい。外からじゃショウウィンドウも見えないわ。でもお肉買うのにこんなに並ばなければならないのかしら。お店の中も人が一杯で、入り切れないので外までこんなに並んでいるのよ」

「ポ―ランドは肉不足で、肉を買うには並ばなければならないとは聞いていたけど、こんなに長い行列とはねえ」

 ご主人も感心しています。

「もう飛行機で持ってきたカップラ―メンもほとんど食べちゃったし、お料理の材料が何もないから、何か買ってかえらなくっちゃならないんだけど、あなたどうする?」

「そうだねえ。今から並らんだんじゃ、二時間以上かかりそうだね。まだカップラ―メンが少し残っているので、今夜もあれで我慢するか」

「でも、チビクロにあげるものが何もないわ。まさか、ラ―メンじゃ可愛そうだし。せっかくチビクロにめぐりあえたのだから何か美味しい物でも買ってあげて、お祝しなければ」

「それじゃ仕方がないから並ぶことにするか」

 ご主人一家と僕は一番後ろに並びました。

 行列に並んでいるポ―ランド人が振りかえって物珍しそうにじろじろ見ます。

「まあ、日本人かしら。あの二人の子供ときたら、本当に可愛いわねえ」

「髪の毛が真黒くて全然ちぢれてないのねえ。素敵だわ」

「目の色も黒くて、まん丸くて」

 とめいめいいろんなことを言っています。

 僕らの後にもたちまち行列が出来ました。中にはミコちゃんとひろしくんのところへやってきて、頭を撫ぜるおばさんもいます。ミコちゃんとひろしくんはちょっぴり嫌そうな顔をして首をちぢめました。

 ある男の人は大きなロ―ディポップ(アイスクリ―ム)を持って来てミコちゃんとひろしくんにくれました。ミコちゃんが覚えたてのポ―ランド語で 、

「ジェンク―エン」(ありがとう)

と言うと回りの人が一斉にどっと歓声をあげました。

「なかなか 発音が綺麗だ」

とか

「まあ感心ね。あの子ポ―ランド語がはなせるんだね」

とかいっているのです。

 僕のところにも、僕の背丈の三倍もありそうな黒い筋肉質の犬が挨拶にやって来ました。

「君は、日本からやってきたのかい」

「そうです」

「僕はミルボというんだ。この近くに住んでいる。これから宜しく頼むよ」

「僕は チビクロと言います。こちらこそ宜しく」

「僕は、いつもご主人のお供をして肉を買いにくるんだ。ほら、二人前に並んでいるあのメガネをかけた白い髪のお婆さんが僕のご主人さ。肉を買うのがご主人の役目なんだ。一緒に住んでいるご主人の息子さん夫婦は共稼ぎで、二人とも仕事にいかなきゃならないんで、いつも、僕のご主人が肉を買いにくるってわけさ。たいてい二時間は待たなきゃならないんだ。でもご主人は僕の為にいつも美味しい骨を一本よけいに買ってくれるし、こうやって他の犬と世間話をしていればいいんだし、二時間ぐらいわけはない。それにもう三月、春も近いしね。真冬の霊下十度以上もある、風の強い日はさすがに大変だけどさ」

「そんな寒い日にも並んで待つんですか」

「お肉を食べずにすませられれば別だろうけれどさ。朝の七時半の開店を待って、真冬に徹夜して待つ人もいるんだよ。毛皮のコ―トを着て毛布にくるまって……」

 ミルボの話によると肉不足はもうずうっと長いこと続いていて、ますますひどくなってきているというのです。その分だけ肉屋の前に並ぶ時間が増えて、この分でいけばそのうち一日中肉屋の前に並びっぱなしになるかも知れないなんて冗談をいうのです。

 こうやってミルボと話込んでいるうちに行列は少しずつ前に進み、ミルボのご主人の番になりました。ミルボはとんでいってお婆さんのそばに並びました。

 お婆さんは、丸々太った女店員に

「牛肉二キログラム、豚肉一キログラム、ベ―コン二キログラム、それに大きな骨一本」 と注文しています。

 見るとカウンタ―の後ろに大きな牛や豚の肉の塊が幾つもぶら下がっているのです。注文があると女店員はその塊をフックからはずしてきてマナイタの上に置き大きなナタで、エィヤッとばかり骨ごと切取るのです。日本の肉屋とは確かに全く様子が違います。ご主人一家も目を皿のようにしてその有様を見ています。

 いよいよご主人一家の番になりました。奥さんは少々もじもじしながら 、

「牛肉三百グラムに豚肉五百グラム」

と英語で注文しました。

「エッ、何だって、わかんないね」

 丸々太った女店員は首を傾げています。

 そこでご主人が、牛肉の塊を指差して、指を三本立てました。

 女店員は分かったというかのようにニッコリ笑うと手頃な牛肉の塊をフックからはずして来て、大きなナタでドスンと音を立てて肉を切取り、その塊を計りの上に載せました。計りの針は三キログラム百を差しています。

 その肉をすばやく紙で包むと、女店員は、

「他に注文は?」 と振返りました。

 ご主人は肉の塊の大きさにびっくりして、盛んに指を三本立て、

「三百グラム、三百グラム」

と叫んでいます。すると女店員は、豚肉の方を指差して

「これが欲しいのか」

と聞いています。ご主人は豚肉も欲しいのでそうそうと言い、今度は指を五本全部立てました。

 ドスン、ドスン  女店員は、さっきよりもっと大きく肉を切取り、計りの上に載せました。目盛りは五・二キログラムを差しています。

 その肉もたちまち紙に包みこまれ、ご主人の目の前にドスンと置かれました。ご主人は顔を真赤にし、違う、違うと手を盛んに振りました。女店員は、そんなご主人には全く無頓着に、小さな紙の上に五百五十ズォティと書いてご主人に手渡し、会計の係りの所へいって代金を払って来るように言っています。どうも、ポ―ランドでは、キログラム単位でしか肉を買わないらしく、指を五本立てると、店員には五キログラムの注文としか思えないらしいのです。僕はあまりの行き違いに驚いて

「違います。女店員さん。ご主人は五キログラムじゃなくて五百グラム注文したんですよ」

と思わず叫んでしまいました。

 僕が後ろから、いきなり大声を出したのでご主人は跳びあがり、目を丸くして僕の方を振返りました。僕は必死になって、女店員がご主人の五本の指を五キログラムと取違えていると訴えました。そんな僕を見てご主人は大きくうなずき、

「そうか。チビクロはお肉をたっぷり食べたいんだな。分かったよ。それに五百五十ズォティってことは日本円に直せば四千円足らずってことだし、東京でお肉を買うのに比べれば目茶目茶に安い。せっかく二時間以上も並んだことだし、このまま全部買って帰ることにするか」

と奥さんに同意を求めました。

 そんな訳で、その日は八キログラムの肉を買って帰ることになりました。ご主人が五キログラム、奥さんが三キログラムの包みを手分けして持ちましたが、

「手がくたびれるほど、お肉を買ったことなんてこれまで一度もなかったわ」

 奥さんはなんとなく戸惑ったような、なんとなく幸せそうな、これから始まる新しい生活に対して不安と期待をないまぜたような調子で呟きました。
 

   
 
 

新 し い 家

          14

 電車通りを右に折れて、並木がたくさん植わっている歩道の広い通りを暫く行くと、道の両側に大きな屋敷が立並んでいます。肉屋を出てからもう十分も歩いたでしょうか。ミコちゃんが、右手前方の大きな建物の一つを指差して言いました。

「チビクロ、あれがワタシたちの新しいお家よ」

 三階建ての見上げるように高い立派な建物です。

「チビクロ、これが僕たちのお家なんだよ。上から下まで全部ぼくんちなんだから、すごいでしょ」

 ひろしくんは、右手をゼ―ンブと言うようにぐるりと回しました。僕は、建物の一部だけをご主人一家は借りたのかと思ったのに、何とその全部を借りたというのです。東京の家に比べたら、チワワとセントバ―ナ―ドぐらいの違いがあります。

 玄関のドアは、分厚い樫の木で出来ています。ご主人がとりだしたキ―ホ―ルダ―には、長さが五寸釘程もある鍵が三本もついています。ドアに三つも鍵がついているのです。おまけに鍵穴の中で二回ずつ回さなければ鍵はあきません。なんと厳重に出来ているのでしょう。これではなかなか泥棒も入れそうにありません。ご主人もどの鍵とどの鍵穴が合うのかまだ覚えていないらしくいちいちガチャガチャ試しながらやっているので、ドアが開くまでずいぶん時間がかかりました。

「ギ―ッ」

 分厚い割りには、ドアはスム―ズに開きました。

「ウァ―イ」

 ミコちゃんとひろしくんが家の中にとびこみました。僕も負けずにその後を追いました。

「チビクロ、見てごらん。ここがサロンだよ。ずいぶん広いでしょ」

「ミコちゃんと昨日ここで鬼ごっこをしたんだよ。広いから面白いよ」

 走りまわっているミコちゃんとひろしくんの後を僕も追いかけましたが、確かにこのサロンだけで、東京のご主人一家の家の回りを一回りするほどあります。家具付ということで、ソファやサイドボ―ドなど一通りのものはそろっています。

「チビクロ、家の中を案内してあげるから一緒についておいで」

 ミコちゃんとひろしくんが先に立って家の中を案内してくれることになりました。

 一階はこの大きなサロンの隣が食堂とキッチンになっています。サロンかららせん型の階段を昇ると二階には、大きな寝室が一つと、小寝室が二つ、それに広い洋式のお風呂場があります。

「この大きな寝室がパパとママの、その隣がひろしの、そのまた隣がワタシの部屋なの。ワタシたち昨日からもう一人で寝てるのよ」

 ミコちゃんが得意そうに説明してくれます。

 三階にも、もう一部屋大きな部屋があってその両側に納戸がついています。シャワ―ル―ムもあります。まだ、日本から船荷が届いていないせいでどこもガラガラ、広い部屋が余計広く見えます。

「チビクロ、もうこれでおしまいと思うでしょ」

 これ以外に部屋があるのでしょうか。三階から上にはもう階段もついていないのです。

「さ、チビクロ、ついておいで」

 ミコちゃんとひろしくんが勢いよく階段を降りていきました。一階のサロンの階段のかげに、白いドアがあります。

「チビクロ、この向うに地下室があるんだよ」

「地下室ってこわいんだから」

 ミコちゃんとひろしくんはいかにももったいぶったしぐさで白いドアをゆっくり開きました。少しカビ臭いような冷たい空気がすっとドアの間から入って来ました。そこから地下に向かってコンクリ―トの階段がつながっています。

 ミコちゃんとひろしくんは、するりとドアから忍込むと、足音も立てないように薄暗い階段を降りて行きます。僕もミコちゃんたちに調子を合せて階段を降りて行きましたけれど、地下室には何もこわいものがないことは先刻わかっていました。地下室から吹きあがって来た空気をちょっと嗅げば、地下室に何があるかぐらい僕には全部わかってしまうのです。

 ミコちゃんがひろしくんの耳元でなにかささやいています。きっと何かいたずらを思いついたに違いありません。

 カランカラン  突然つんぼになりそうな大きな音がしました。

「キャ―ッ オバケダ―」

 ミコちゃんとひろしくんが悲鳴をあげました。僕もあわてて階段をかけのぼりました。

「アハハハハ」

 ミコちゃんとひろしくんが笑っています。

「ごめんなさい。チビクロ。おどかしちゃって」

「ジュ―スの空き缶をミコちゃんが蹴っただけだよ。オバケなんていないよ」

「チビクロ、早く降りていらっしゃいナ」

 僕は少しすねたような顔をして階段の上にしばらくじっとしていましたが、頃合を見て、尻尾をふりながら二人の所へ降りて行きました。

 地下室は大きなガレ―ジになっていて、車がたっぷり二台は入りそうです。その他にも、洗濯室、作業室、物置き、食料庫等いろんな部屋があります。なにしろ一階、一階が東京の前の家と同じ広さがあるのですから、部屋が沢山あっても不思議ではありません。

「チビクロにも一部屋あげられるわねえ」

「それじゃ僕ママを呼んで来るから待っててね」

 ひろしくんに呼ばれて降りて来た奥さんが、四畳半程もある部屋を僕の部屋に決めてくれました。東京の犬小屋に比べるとその何十倍もありそうです。地下室とはいいながら空気が乾燥していて少しもじめじめしていません。それどころか空気が乾燥し過ぎていて、鼻先が物に触れると、ピリッ、ピリッとそのたびに静電気が走るのです。犬の鼻先は特に敏感にできていますので、ジュ―スの空缶がカランカランいうよりよっぽどこの方がこたえます。奥さんが上から持ってきてくれたダンボ―ルの箱に布を引いた僕のベットに寝そべって部屋をぐるりと見渡すと天井の所にパイプ管が二、三本走っていますがなかなかいい部屋です。これなら安心して休めそうです。

「チビクロももうすっかり落着いたようだな」

 ご主人も地下室に降りて来てダンボ―ルの箱の上からのぞきみこみました。

「それじゃひとつ、食事の前に久し振りにチビクロをお風呂に入れてやるか」

「ワタシも一緒に入る」

「僕も」

 そこで、二階にある風呂場へ行き、ご主人にミコちゃんとひろしくんと一緒に、僕の大好きなお風呂に入れてもらうことになりました。

 湯船は、畳一畳程もあります。三人と一匹で一緒に入っても平気です。お湯は下から沸かすのではなくて、フランクフルトソ―セ―ジ並の大きな蛇口からドゥ―ッと音をたてて出てくるのです。蛇口の所を少しいじると、シャワ―に切換えることも出来ます。

 ミコちゃんが、たっぷりシャンプ―をつけてくれたので、僕はシャンプ―の泡で真白になってしまいました。

「これじゃ、チビクロじゃなくてチビシロだ。今から、チビシロって呼ぼうかしら」
「うん、そうしよう。チビシロ、ちょっとこっちをごらん」

ミコちゃんとひろしくんがこんなことを言いだすので、僕はあわてて体を揺すって泡を振り飛ばしました。

「キャ―ッ」

「チビクロ、もうチビシロ何て呼ばないから、そんなに泡をとばさないで」

 僕は体を揺するのを止めましたが、まだ体のあちこちに残っている白い泡を、大急ぎでなめ始めました。

「チビクロったら、やっぱりチビクロって呼ばれるのが好きみたい」

 当然ですよ。だって僕は生まれた時からチビクロなんだから。そう思って僕は、

「ワン、ワン」

と吠えました。

「わかったわよ、チビクロ。もう決してチビシロなんて呼ばないから」

「僕も 絶対チビシロって言わない」

 二人が請合ってくれたので僕もやっと安心しました。  充分お湯で暖まり、シャワ―を浴び、湯あがりに体中をブラッシングしてもらいました。長い長い旅の疲れもこれですっかり取れました。

「まあ、チビクロ すっかりきれいになったわね」

奥さんが顔を出しました。

「もう食事の用意ができたんだけど、今日は、チビクロと巡り会えた特別の日だから、下の食堂でチビクロも一緒に食事をとりましょうよ。さあ、皆早く降りていらっしゃい」

 食堂に降りて行くと、皆の皿の上にはこんもりするほど大きなビ―フステ―キがのっていました。僕の皿にも、それに負けない位の大きな肉の塊がありました。八百グラムのつもりで八キログラムもの肉を買ったおかげで、その晩は、ご主人一家も僕も食べきれないほどの肉の御馳走にあずかることになったわけです。本当に美味しい、そして本当に素敵な夕食でした。

 その夜は、新しい家の新しい部屋の新しいベッドだったのですが、ポ―ランドへ来て初めて安心してぐっすり眠ることができました。何といったってご主人一家と久し振りに同じ家で一緒に寝るのですから。

 

         15

 翌朝目を覚ましたとき、僕には自分が今どこにいるのかすぐには思い出せませんでした。辺りが真暗なので、まだ飛行機の収納トランクの中にいるかのような気になり、胸がキュッと締付けられましたが、昨日、ご主人一家に巡り会い、ご主人一家が住むことになった家の地下室で眠っていることを思いだし、たちまち元気を取戻しました。

「そうだ。僕はもうご主人一家と一緒なんだ」

そう思うと、うれしさが込上げて来て、ぼくは思わずブルブルと首をふらずにはおれませんでした。

 まだ朝が早いのでしょうか。地下室の中は真暗です。半地下室なので、地面スレスレのところに窓が切ってありガラスがはめこまれているのですが、そこからも、明るい光は全く差込んで来ません。しかし、まだ暗いからといって、もう一度眠る気もしません。そこで僕は起きだして、地下室の中を探検して見ることにしました。

 僕が眠った部屋は、僕の日本での犬小屋に比べたら、それこそ、小犬と、石炭を運んでいた馬ぐらいの差があります。僕の部屋のすぐ隣には、自動車がたっぷり二台は入りそうなガレ―ジになっています。きっとご主人は自動車を買ったらここに入れるつもりなのでしょう。ガレ―ジを挟んで、僕の部屋の向い側には、食料貯蔵庫があります。引越して来て間もないせいか、そこには今は何もおいてありませんが、そこに漂っている空気や、棚に着いたシミから様々なお酒、ハム、ソ―セ―ジなどの肉製品、バタ―、チ―ズ等の酪農品、玉葱、キャベツなどの野菜など様々な食品がそこに置かれていたことが僕にはすぐ分りました。そこにはそのうちに様々な食品が置かれることになるでしょう。でも、そうなったら、今日の様に、食糧庫のドアは開けっ放しにしておいてほしくないな。だって、ハムやソ―セ―ジなんて、僕の大好物をいつでも、食べて下さいと言わんばかりにしておくのは酷と言うものです。

 ガレ―ジの奥では、大きなガス・ボイラ―がひくい声でうなっています。確か、ここから家中に温かい温水を供給して部屋を暖房しているとのことでした。その脇を抜けると、もうすこし先にドアがあります。そこのドアも半開きになっています。僕は、興味をそそられて、その部屋に入っていきました。そこは、どうも作業室になっているようでした。部屋の真中に、分厚い木の作業台が置かれていて、それに、万力やグラインダ―ががっしりと取りつけてあります。大きなノコギリやハンマ―、ペンチ等が壁に掛かっており、部屋の一番奥のところには、作り付けの棚箱があって、その中には、様々なビンや、作業用の小道具、植物用の肥料の入った袋、バスケット、壊れた懐中電灯、巻尺、ブリキ製のオモチャの自動車、花の鉢などが、ごちゃごちゃに並べてあります。
 その中で、僕の目を引いたのは、星形の真鋳製の飾りのついた立派な犬の首輪です。恐らく、僕より三倍もありそうな犬のものに違いありません。あの飛行場で僕を救ってくれたシェパ―ドのマーテックにならよく似合うことでしょう。僕は、その首輪をよく見ようと思って後足で立上がり、木の棚箱に足をかけ、首輪をくわえてぐいとひっぱりました。

 と、その瞬間、棚箱がギィ―といって、回転を始めたのです。僕は、あわててとびのきました。

 棚箱は、ちょうど半分ほど回転して、止まりました。驚いたことに、その棚箱の後ろに、人間が一人入り込めそうな穴がぽっかりと開いたのです。そこからごく微かに、カビ臭い空気が流れ込んできます。一体、こんなところに、どうしてこんな穴があるのでしょう。僕は少し怖くなって、元どおり棚箱を戻そうかと思いましたが、鼻先を突出して、辺りの匂いを嗅いでみても、それほど身に危険の及ぶような匂いは漂ってきません。僕は勇気を振い起こして、その穴の中を探検して見ることにしました。なにしろ、日本からポ―ランドまで一匹でやってきたぐらいなのですから、こんなことで、怖気づいていたのでは、チビクロがすたるというものです。

 穴の中に入ってみると、そこは階段になっています。階段を十段ぐらい下がると、小さな部屋になっていました。極々小さな部屋で、人間一人がなんとか横になれるぐらいの広さしかありまません。もうずいぶん長いこと、ここに人が来たことはなさそうです。でも、ずうっと前に人がそこに住んでいたことは明らかです。アルミニュ―ム製の粗末な食器や壊れたコップの破片、蝋燭のしょく台、蝋のたれた跡などがそれを証明しています。こんなところに一体誰が住んでいたんだろう、といぶかしんでいますと、部屋の隅の小さな穴のところに、ちらっと動く気配がしました。ハッとしてよくみると、二つの赤い光るものが、僕の方をじっと見詰めているようなのです。

 僕は、思わず後ずさりをし、体を低くして、ウゥ―と唸りました。と、その赤い光るものが、二、三度パチパチと明滅しました。

「君、一体誰。この辺りでは見掛けない顔だな。何か用なの」

 キイキイ甲高い声が聞こえてきました。その赤い光るものは、どうやら生き物の目のようです。僕も、ほっと胸をなでおろし、

「僕はねえ、昨日から、このお屋敷に住むことになったチビクロって犬だけど、君は一体誰なの」

と尋ねました。

 すると、穴の中から、一匹のドブネズミがピョンと飛出てきました。

「僕はね、この辺りを住かにしている、ドブネズミのロンっていうんだ。君は、どうして、こんなところにやってきたの。ここは僕らの専用の部屋なんだから、絶対に譲れないよ。もし、力ずくで奪うっていうんなら、僕らにも覚悟があるからね」

「そんなつもりはないよ。僕は地下室に専用の広い部屋を貰ってあるから、別に、こんな部屋に住む必要はないんだ。ただ、こんなところに、どうして、こんな小さな部屋があるのか不思議に思って、ちょっとのぞいてみていたところさ」

「本当に、それだけかい。間違いないね」

「絶対に」

「それなら、わかった。近くに住むことになったわけだから、これから仲よくしていこうよ。それじゃ、僕の家族を紹介するよ」

 ロンが後ろを降りむいて、長い尻尾をひとふりすると、さっきの穴から、次々にドブネズミが飛出してき、僕の回りは、たちまちネズミだらけになってしまいました。

「君が力に訴えようとしたって、これだけ数が多いのを見たら、あっさり諦めたことだろうね。だけど、僕らは、人間ほど馬鹿ではないから、簡単に力に訴えたりしないんだ。君たち犬だって、人間ほど馬鹿じゃないだろう」

 僕は、人間が馬鹿だ馬鹿だというロンの話に少しばかりむっとして

「どうして、君は人間は馬鹿だ馬鹿だっていうんだい。人間は君が考えるほど馬鹿じゃないよ」

「君は、戦争を知らないからだよ。ほら、この部屋にこびりついているこのどす黒い血の跡を見たまえ。この部屋で暮らしていたユダヤ人が、殺された時に流した血だよ。僕らはこの部屋から、自由に地下水道に出入りできる。そこでも多くの人々が戦い、お互いに傷付きあって死んでいったんだ。僕のお祖父さんのひいお祖父さんのそのまたひいお祖父さんのひいお祖父さんのその百倍ぐらい前のお祖父さんの時代からの言伝えではね、戦争中にこの狭い部屋にユダヤ人が三人も隠れ住んでいたんだ。十歳になる男の子とその両親の三人だったらしい。このワルシャワが解放されるたった一週間前にドイツ兵に発見されて、ここで射ち殺されたんだ。四年間もこんな狭いところに隠れて生きていたのにね。男の子だけは、ほら、この右手にある人一人やっと通れる抜穴から逃げのびたんだ。マイクという、その子を逃がしてやるために、父親と母親が両手を広げてドイツ兵の銃の前に立ちはだかったんだ。この両側の壁に、両手をこうやってぐっと突っ張って、二人して、雨アラレと降ってくる自動小銃の玉を受け止めたんだ。その男の子はね、ここから抜出して、地下水道の中に一週間も隠れていて、ワルシャワがドイツ兵の手から解放された日に救出されたんだ。もうすっかり骨と皮だけだったけれどね。その後、アメリカに渡って、風のうわさでは、すごく偉い政治家になっているってことだよ。君も、その穴をちょっとのぞいてみないかい」

 僕も興味をそそられて、その穴のところへいってみました。右手の壁のところに、レンガをとりはずしたような形で、人が横になってやっと通れそうな穴が開いていました。僕にとってはゆうゆう通れる大きさです。

「さ、こっちだよ」

 僕は、ロンの案内で、その穴の中に入りこみました。誰が、こんな穴を掘ったのでしょう。しばらく、同じような大きさの穴が続いています。どこからともなく、水の流れる音が聞こえてきました。やがて、その音が次第に大きくなり、目の前に地下水道が現れました。大人でも立って歩けそうな広い水道の中を濁った水がドウドウと音を立てて流れ、モウモウと湯気が立っています。その水流の側に、なんとか歩けそうな突出たところがあります。ロンがそこに、ピョンと飛び降りました。僕も、真似してポンと飛び降りましたが、下が湿っていたせいで、スルリと滑り、危うく水流の中におっこちそうになりました。と、一緒についてきたロンの家族が、一斉にその長い尻尾を僕の体に巻きつけて、引戻してくれました。こんなところで流れの中に落ちでもしたら、一体どうなったことでしょう。僕は、ほっと胸をなでおろしました。

「滑り易いから、注意しなよ、チビクロ」

ロンが後を振り返って、注意してくれました。僕は用心しながら、ロンの後をついて行きました。上の方から明るい光が差込んでいるところに出ました。そこには石の階段がついています。

「チビクロ、ここから、外へ出ることができるんだ。さあ、おいで」

 ロンは、素晴らしいスピ―ドで階段を昇っていきます。僕も遅れてはならじとその後を追掛けました。階段を上り詰めると、そこから、朝の光とすがすがしい空気が流れ込んできています。

「ここから、雨水が流れ込むところなんだけど、格子が壊れているから、君だって外へ出れるよ。一緒に出てみようか。お前たちはここで待っておいで」

ロンは、家族にそこに残るようにいいました。僕はロンと連れだって、地下水道から外へ出ました。そこはどこかの大きなアパ―トの傍らでした。

「こっちへ来てごらん。ここからなら、君の家が見えるよ」

 アパ―トの端を回ると、ずうっと通りが続いており、両側に建物が立っているのが見えます。

「ほら、あの左側の、端から三番目の三階建てのグレイの建物が、君の、そして僕のすみかだよ」

 確かにあの建物です。でもそこまで五十メ―トルもあります。まだ、朝が早いせいか、ひっそりと辺りは寝静まっています。きっとご主人一家もまだ、眠っているに違いありません。

「フゥ―ッ」

 ロンが、気が狂ったようにかけだしました。その後から、白黒のブチのある太めの猫が、それにおとらぬスピ―ドで追掛けていきます。ロンは、たくみに身をくねらせ、ジグザグを描きながら逃回ります。しかし、身を隠す所がないので、ロンは次第に、アパ―トの壁の方へ追詰められていきます。

 僕は、ハッとして我にかえり、猛然とブチ猫の所までかけていき、精一杯大声をだして

「ウゥ―ワ、ワン。止めろ、止めろ」

と叫びました。

 ブチ猫は、ジロリと後を降り返ると

「オヤ、ここらでは見掛けない顔だね。あなたは、犬じゃないのかい。だったらどうして、ドブネズミなんかの肩をもつのかい。こいつらは、ドブの中でもうろついていりゃいいものをこんな朝早くから堂々と、私の縄張りの中をのし歩いている。ブチ猫ニ―ナの顔が立たない。ちょっと凝らしめてやらんことにゃ。悪いことはいわないから。邪魔だてしないでくださいよ」

「僕は、昨日から、あの左側の三階建ての建物に住むことになったチビクロという犬だけど、今日のところは、僕に免じて見逃してくれませんか。同じ町中に住んでいることでもあり、力ずくで、あなたとケンカする気にもなれないし」

「まあ、今日のところは、見逃してやりましょう。しかし、このつぎ、この辺りをうろうろしていたら、許さないからな、このドブネズミ」

 ニ―ナは、悪態をつきながら、のっそりとアパ―トの中へ入っていきました。

 ロンは震えながら、身を丸めています。

「さあ、ロン、急いですみかに戻ろうよ。そろそろ、僕のご主人一家も目を覚ましそうだし………」

 今度は、僕が先頭に立って歩きはじめました。さっきまでの元気もどこへやら、ロンが首をうなだれて、僕の後からついてきます。マンホ―ルの割目のところから中に入ると、そこで待っていたロンの家族が、うなだれたロンを取囲んで、一体どうしたのかと聞いています。ロンの説明を聞くと、皆んなものすごく興奮して、ニ―ナの悪口をまくしたてはじめました。ロンの家族のうちでも、ニ―ナの犠牲になったドブネズミが少なくとも五匹はいるとのことでした。

「人間は、人間を殺し、ネコはネズミを殺す。地上の平和はいずくにぞある」

 ロンが、その騒ぎの中で、哲学者めいたつぶやきをもらしたのが印象的でした。 僕は、もときた地下水道を引き返し、ロンの家族に別れをつげて、地下室へ戻りました。半分開いた棚箱をもどすのに、一生懸命棚箱を押してみましたがビクともしません。そこで、もう一度、真鋳の飾りのついた首輪を口でくわえて、ぐいと引張って見ると、棚箱が、ギィ―と動いて、元のようにぴったりと穴をふさぎました。

 もう、半地下の窓ガラスから朝の光が差込んでいます。

 おや、ミコちゃんとひろしくんの足音が近付いてきました。

 僕はあわてて、自分の部屋にとってかえし、ダンボ―ルの箱の中にうずくまって寝たふりをすることにしました。だって、到着したその翌朝から、家を抜出したり、ドブネズミと仲良しになったなどと知られたくありませんでしたから。
 
 

 


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