| お知らせ |
「チビクロの冒険」を2002年初に出版する計画を進めています。是非予約してください。メールをお待ちしております。 |
|
目次
|
|
* ポーランドへ (1/2/3/4
)
* アンナ (5/6 ) * キジ猫 (7) * いたずらな子供たち (8) * ボイテック一家 (9) * 日本大使館 (10/11) * タクシ― (12) * 肉屋 (13) * 新しい家 (14/15) * アメリカンスク―ル (16/17) * ディナー (18/19) * スタ―レミヤスト (20/21) * 買物 (22/23) * エバ (24) * 再会 (25/26/27) * 船荷 (28/29) * 愛 (30) * グダンスクへ (31/32/33/34) * 船荷の整理 (35/36/37/38) * パ―ティ (39/40/41) |
目次
* ポーランドへ(1/2/3 / 4 )
* アンナ( 5 /6 )
* キジ猫(7)
* いたずらな子供たち(8)
* ボイテック一家(9)
* 日本大使館(10/11)
* タクシ―(12)
* 肉屋(13)
* 新しい家(14/15)
* アメリカンスク―ル(16/17)
* ディナー(18/19)
* スタ―レミヤスト(20/21)
* 買物(22/23)
* エバ(24)
* 再会(25/26/27)
* 船荷(28/29)
* 愛(30)
* グダンスクへ(31/32/33/34)
* 船荷の整理(35/36/37/38)
* パ―ティ(39/40/41)
| お知らせ |
「チビクロの冒険」を2002年初に出版する計画を進めています。是非予約してください。メールをお待ちしております。 |
「ウ―ム、待つべきか、待たざるべきか、それが問題だ」
一通の手紙を前にして、今日もご主人一家が居間に集まり盛んに議論をしています。
「いい知らせでもあり、悪い知らせでもある」
そう言いながらご主人が、その手紙を持って帰って来たのは、もう三日も前のことです。それ以来、時にはご主人と奥さんが頭を突合せて話合うこともあれば、今日みたいに夕食後ミコちゃんもひろしくんも入って、家族討議が繰広げられることもあります。
「この手紙によれば、我家の船荷はもうグダンスクという港に到着したらしい。ところがポ―ランドでは今、貨物運搬用のトラックがもの凄く不足していて、ほおっておくと少なくともあと一月はしないと配達されないらしい。でも、会社の秘書のバンダの話だと荷主がグダンスクまで行き、港の事務所の人と直接掛合えば、ひょっとしたら、その日のうちにもトラックを出してもらえる可能性があるらしい。現に我が社の間野さんは、そのやり口でうまくいったということだ。しかし、いつもいつもうまく行くとは限らないらしくて、三〇〇キロも車を飛ばして行ったところでまったく無駄足に終わった人も大勢いるらしい」
これが議論の発端になったご主人の説明です。そこで皆が頭を悩ましているというわけです。
「一日も早く船荷が届いて欲しいのは当然だけど、せっかくグダンスクまで三〇〇キロメ―トルもの道程をかけて行っても、うまくいけばともかく全くの無駄足になりかねないというんじゃ、黙って着くのを待つ方が利口かもしれないわね」
「船荷の中には、僕のおもちゃも一杯入っているし、絵本やミニカ―やウルトラマンも入っているのになぁ。ああ、早く着くといいなあ」
「あたしの可愛いお人形さんだってたくさん入っているのに。それに春向きのお洋服だって。船荷がもっと早く着くと思って飛行機では一枚も持って来なかったから、この頃着ていくものが何もないわ。クラスの女の子なんか春らしいとっても素敵な洋服をみんな着て来ているのに」
「この前の、野村常務のときだって日本食の材料もなければ、食器もないんですもの。茶碗蒸をコ―ヒ―のカップに作ったのなんて初めてよ。味噌、醤油、しいたけ、こんぶ、はるさめ、お豆腐のもと、かつおぶし、こんにゃくのもと。うどんに蕎麦、とにかく三年分の日本食をパパと日本橋の問屋さんまで行ってあれこれ買いこんできたのに未だ何もつかえないんだから。それにミコちゃんではないけれど、春ものの洋服や下着類も、もうそろそろ暖ったかくなって来たし、わたしも一日も早く欲しいわ。それに電動ミシン。あれさえ着けば子供たちにもいろいろと可愛い洋服を作ってあげられるんだけど」
「船荷が一日も早く着いて欲しいのはパパだって同じさ。パパの読みたい本だって、テニスの用具だって、合服だって、碁やマ―ジャンのセットだってみんな船荷の中なんだから」
「早く船荷に着いてもらいたいのは皆同じね。でも、グダンスクまで行って見たところでそれで早くなるかどうかはっきりしないところが問題なのよね」
「ああ、待つべきか、待たざるべきか、それが問題だ」
ひろしくんがこのところ聞きなれたご主人の得意のセリフを、ご主人の口調を真似て言ったので大笑いになりました。
しかし、今日の議論にしても、この三日間続いたのと少しも変りばえしません。僕は、やや距離をおいてじゅうたんの上に寝そべり、議論の成行きを冷静に聞いていました。こと船荷に関する限り僕は早く着こうが遅くなろうが全く我関せずです。なぜなら、船荷の中には僕のものは何一つ入っていないからです。だって、船荷を日本から出したのは、一月の末のことなのですが、そのときには僕は東京においてこられることになっていたのです。もっとも、僕の好きなカツオブシとか、お豆腐のもととかは入っているのでしょうが、ポ―ランドにも結構美味しいものがあることが分りましたし、ポ―ランドにいた四日間朝昼晩日本料理で通した野村常務のように、日本メシにこだわり続けるのはなんとなく馬鹿げています。僕はご主人もいうように外国へ来たらその土地の料理を楽しむべきだと思います。そのほうがどれだけ幸せか分りません。僕はもうカツオブシやお豆腐よりもどちらかというとポ―ランドせいのソ―セ―ジとか、カチカ料理の方が余計舌に合うように感じます。ご主人一家は、ご主人の
「何でも、食ってやろう」
という精神に影響されてか、ポ―ランド料理に対しても余り好き嫌いがないのは見上げたものです。
「グダンスクまで、三百キロメ―トルか。往復で六百キロメ―トル。車で行くとどうしても一泊は欲しい距離だな。強行すれば一日で行って来れない距離ではないけど、ポ―ランドにはまだ一メ―トルも高速道路がないし、あまり道路の整備状況は良くないから、やはりちょっとむつかしいかな」
「運転手のアダミヤックさんに頼んでみたら。運転のプロだし、一日で六百キロぐらいわけないでしょう」
「ウ―ン、会社の仕事だったら、頼めないこともないけれどね」
「でも、パパは会社のためにポ―ランドへ来たんでしょ。頼んでもおかしくないと思うけど」
「今度のお休みにパパの車で皆と一緒の方がいいな」
「お休みの日に行ってもグダンスクの港の事務所もお休みでトラックを出して貰えなかったら、意味がないわね」
「じゃ―普通の日にパパがお休みをとれば」
「ちょっと待てよ。もうそろそろ日本では五月のゴ―ルデンウイ―クだね。日本の休みの日には原則として、海外のオフィスでもお休みにしていいことになっているんだ。そうだ一つゴ―ルデンウイ―クを利用して家族そろってグダンスクへ行ってみるか」
「たとえ無駄足になったとしても?」
「うん、ポ―ランドにいるあいだに出来るだけあちこち行ってみたいと思っていたんだから、たとえ無駄足になっても構わないじゃないか。旅行でいったと思えばいい。グダンスクは、ドイツ名でダンチッヒ。第二次世界大戦の発火点になった有名な町だし、一度は行ってみたいと思っていたところだしね」
「でも、あなた三百キロも一人で運転できて」
「まあ、まかしとき。僕だっていざとなれば、三百キロだろうが、六百キロだろうが、無事故運転でやってみせるさ」
「ワ―イ万歳、自動車旅行だ」
ミコちゃんとひろしくんが両手を高く上げました。三日間にわたる長い議論もようやく結論が出たようです。日程も五月三日の憲法記念日から五月五日の子供の日まで二泊三日に決ったようです。とにかくゆっくり行ってゆっくり帰ってくれば、たとえ六〇〇キロだろうが、事故に合わずに済むだろうということのようです。
まあ、僕としてもグダンスクという町へ行くと決れば、別に反対ではありません。別に知らないところへ旅行することが嫌いなわけではありませんし。でもミコちゃんやひろしくんの万歳の中に加わって小躍りする気にはなれませんでした。
出発までまだ一週間もあるのにその翌日から家族全員で旅行の準備が始まりました。
ご主人は、早速ポ―ランドの地図を買ってきました。どの道を通って行くかさかんに研究しています。行きがけのだちんに途中の有名なところへも寄って行くつもりのようです。
奥さんは、旅行に持って行くものの一覧表を作り、足りないものはユラさんに買って来てもらい、ス―ツケ―スやダンボ―ルの箱にパッキングしいます。ミコちゃんもひろしくんも旅行に持っていくものの点検に余念がありません。
「僕は、このウルトラマンとミニカ―と肩掛けのカバンを持っていくことにしようかな」
「あたしは、お人形さんと英語のテキストブックと数学のドリルと持って行こう。そうだ日記帳も忘れないようにしなくっちゃ」
さて、この僕は何を持っていったらいいのでしょう。どこへ行くにしてもいつも体一つですから改まって持って行くものは何もなさそうです。ただ、僕が一緒に行くことになってるのかどうか誰もきちんと言ってくれないのが気掛かりです。まさか、二泊三日の旅行において行くとは思わないのですが。
実は、密かに心配しているのは、ご主人と奥さんは僕が飛行場で本当に迷子になったと思いこんでいるらしいふしがあることです。旅行中にもう一度あんなことになったらチビクロとはぐれてしまいかねない。つれていくのは少し心配だ。そう考えているようなのです。いつもなら、
「チビクロ、今度一緒にグダンスクというところへ行くぞ」
といってくれるはずのご主人が何も言わないのです。ついていくつもりになっているのに最後の土壇場になって、
「チビクロ、今度はユラとお留守番よ」
ということにでもなったら大変です。僕はせっかくの旅行のチャンスをみすみす失いたくありません。僕だって、ポ―ランドにいる間にいろんなところへ行ってみたいし、たとえ三日にしても、ご主人一家と離れて暮したくありません。
僕は少し心配になって、地図の上におおいかぶさるようにして見ているご主人の側に行ってみたり、奥さんがス―ツケ―スに下着を詰込んでいるところとか、ミコちゃんとひろしくんが小さなカバンに持っていくものを詰めているところに近づいていき、何か言ってくれないかとしばらく様子を伺ってみたのですが、今一つはっきりした反応がありません。
僕は少し、心配になって来ました。
本当に僕をおいて行くつもりなのでしょうか。そんなことなら皆が議論しているとき、つまらない意地を張って、いかにも自分には関係ないと言わんばかりに、少し距離をおいて寝そべっていたことが悔やまれます。あんな態度を取ったのでチビクロはグダンスク行きに興味がないと受取られたのかも知れません。これはなんとかしなければなりません。
僕はまず、地図を広げているご主人のところへ行き、クンクンと鼻を鳴らし、ご主人の手をなめました。ご主人は振りむきもせず、地図に夢中になっています。ご主人の手を優しく噛んでみましたが、まだ知らん顔です。ご主人をこっちにむかせるにはどうしたらいいのでしょう。こうなったら仕方がありません。僕は、地図の上に飛乗ってシッポを高々とかかげて、ご主人のあごの下を払うようにさっとなぜました。
「こらっ、チビクロ地図がしわくちゃになったじゃないか。邪魔しないでちょっとあっちにいっといてくれ」
これでは取りつく島がありません。今度は奥さんのところへ行ってみました。奥さんは赤と黒のチェックの布性のス―ツケ―スに、作りつけのタンスから子供用の着替えや下着を詰めているところでした。僕はミコちゃんがさっき旅行に持っていかなくっちゃと言っていた水玉模様のワンピ―スがまだタンスに残っているのを見て、それをタンスから出すお手伝いをすることにしました。下から三段目の棚にあるので、背伸びをし、出来るだけ気をつけてくわえ、引張りだしました。ところがせっかく畳んであったのがほどけてしまい引ずりだすようなことになってしまいました。自分で畳みなおすわけにはいきません。しょうがないのでそのまま引ずって、奥さんのところへ持って行きました。
「マ―マ―マ―マ―、チビクロったら何してるの。ミコちゃんの大切な水玉のワンピ―スを引っぱり回したりして。こんないたずらはやめて、向うで遊んでなさい」
少し悲しくなって来ました。ミコちゃんとひろしくんのところへ行って見ましたが、また、怒られたらと思うとうかつに近寄れません。ちょっと離れたところから、さかんにごっこ遊びをしている二人をぼんやりと見ていました。
「どうしたのチビクロ、元気なさそうな顔して」
「チビクロ一緒に遊ぼうよ。ほら、こっちにおいでよ」
僕は力なく尾を振りながら、二人のところへ行きました。
「チビクロ、今度グダンスクと言う町へいくんだよ。ワルシャワから、三百キロも離れているんだって」
「バルト海という海に面している大きな港町なんだそうよ。だから大きな造船所もあるんだって」
「海を見るのは久し振りだね、ミコちゃん」
「そうね。日本の海とは違うのかしらね」
「海の水はどこでもしょっぱいのかな」
[それはしょっぱいにきまってるでしょ」
「バルト海って、日本の海とつながっているのかな」
「そうねえ、日本の海とねえ。日本とポ―ランドは1万キロも離れているんだし、ひょとしたらつながっていないんじゃないかしら」
「僕はつながっていると思う」
「私はつながっていないと思うわ」
「じゃ、パパに聞いてこようよ」
「そうね」
二人は僕のことなどそっちのけでバタバタと一階へ降りていってしまいました。
僕は、ひとりぽっちなんだ。今度の旅行にはつれていってもらえないことになってるんだ。きっとそうだ。そう思うと、鼻の先がじ―んとしてきました。僕は一人で階段をこっそりと降り、居間で旅行の話をしているご主人やミコちゃんやひろしくんに気づかれないように、さっと地下室の自分の部屋に戻りました。冷えきったダンボ―ルの箱の中にもぐりこみ体を猫のように丸めてうずくまりました。
どの位たったのでしょうか。知らないうちにうつらうつら眠り込んでいたようです。
「チビクロ、夕御飯だよ。今日は御馳走よ。ほら、お肉」
ミコちゃんがアルミニウムのボ―ルを目の前に突き出しています。でも、僕は食欲が湧いてきません。頭を、布切れの中に突っ込み、そのままじっとしていました。
「チビクロどうしたのよ。大好きなお肉なのに」
ミコちゃんがしゃがみこんでのぞいています。
―どうせ、僕なんかおいていかれちゃうんだから。 さっきより、もっと強い悲しみがこみあげて来ました。僕は顔を見られないようにもっと深く布きれのなかに頭を突っ込みました。
「おかしいわねえ」
ミコちゃんは頭をひねっています。
「だれかきてえ…チビクロが元気ないの」
ミコちゃんが大声を出しました。
「どうしたの」
真先に降りてきたのは、ひろしくんです。
「チビクロが元気ないのよ。夕御飯を食べようともしないで、じっとうずくまっているのよ」
「どうしたのチビクロ、元気出しな」
ひろしくんがダンボ―ルの中に頭を突っ込んで両手で僕の顔を持上げようとしましたが、僕はその手の中からするりと抜けでました。
「ふ―んおかしいな、どこか具合がわるいのかな」
「パパ、ママ、ちょっと来てえ―」
ミコちゃんとひろしくんが声を合せて呼びました。しばらく待っても足音が聞こえてきません。どうせ僕のことなんかどうでもいいにちがいないんだ。
「きこえなかったのかな。じゃあ僕が呼んでくるよ」
ひろしくんは小さい足音をたて階段を昇っていきました。
「どうしたの一体。さっきまで元気だったのに」
「チビクロ、どうした。元気出しなよ」
降りてきたご主人と奥さんも心配そうにのぞきこみました。僕はますます布きれの中に頭を深くもぐりこませて、うずくまっていました。
「さっき、地図の上に乗ったので、ちょっと叱ったのをきにしているのかな」
「私も、いたずらしないであっちで遊びなさいといったわ」
「でも、そのくらいで夕御飯を食べないほどチビクロは繊細じゃないわ。食欲はいつもおうせいよ」
どうせ僕はそれほど繊細には出来ていません。
「どこか、体の具合でもわるいのかな。あっちこっち、押してみるか」
「あまり体の具合が悪そうな感じもしないわ」
「チビクロには何か悩みごとがあるんじゃないかしら」
「悩みごとって?」
「私にもはっきりとはわかんないんだけれど、なとなくそんな気がするの」
「こまったな、こんな調子だと、チビクロをグダンスクへつれていけなくなるかもしれないな」
―えっ、なんですって? 僕は飛起きました。ダンボ―ルの箱の縁に前足を掛けて、
「ワンワン、ワンワン」
必死になって吠え、千切れるほどシッポを振りました。
「一体どうしたんだ。チビクロ。いきなり吠えだしたりして」
「ワンワン、ワンワン」
「今までしょげかえっていたのが嘘みたい。一体どうしたの、チビクロ」
「驚いたわ、なんだか、急に元気が出てきたみたい」
「チビクロのヘンシ―ンだ」
「チビクロは僕が話したら、急に元気がでてきたみたいだな。でも何の話をしてたんだっけ。急に吠えだしたんで、すっかり忘れちゃったよ。トモコおぼえてないかい」
「人の話していたことなんかいちいちおぼえてないわ」
「ワンワン」
思い出して貰わないことにはどうにもなりません。僕はご主人の顔を見上げながら必死になって吠え続けました。
「チビクロのようすだと、やっぱりどうも、僕の話していたことと関係あるみたいだな」
「パパ、僕覚えているよ」
ひろしくんがいいました。僕はひろしくんの方に向直り息を詰まらせていました。
「パパはね、こんな調子だとチビクロをグダンスクにはつれていけなくなるかもしれないっていったんだよ」
僕は、嬉しくなってひろしくんのところへ飛んでいき、後ろ足で立上がりひろしくんの顔中をペロペロとなめました。
「そうか、そういうことか。わかったぞ。チビクロはグダンスクにつれていって貰えないと思ってしょげていたのかい」
僕は少し照れ臭くなって、ご主人の顔を上目使いで見ながら、
「ワン」
と答えました。
「ちゃんとつれていって上げるよ、心配しないでも」
僕はすっかり嬉しくなって、そこらじゅうをピョンピョンと後ろ足で飛びまわりましたが、すぐにおなかがグウグウ言っているのに気づいて、アルミのボ―ルのお肉のところへ飛んでいきました。
みんなが見ている真中で僕は夢中になって遅い夕御飯を食べ始めました。その美味しいこと。
「チビクロたっら現金だこと」
「やっぱり、こうじゃなくっちゃチビクロらしくない」
「でも、チビクロにだって、悩みごとがあるのね」
「ボクにだって、悩みごとはあるんだから」
ひろしくんが言ったので皆声を上げて笑いました。 でも、僕に関するかぎり、御飯を食べている間は、回りで何を言われようと、もう
―馬の耳に念仏 です。
「さあさあ、ミコちゃんもひろしくんも今夜は早く寝なさい。明日いよいよグダンスクへ出発だぞ」
「ハ―イ」
今夜はミコちゃんもひろしくんも素直に二階に上がっていきました。
「おや、チビクロはまだ起きていたのか。明日朝が早いんだから、お前も今夜は早く寝なさい」
僕も素直に言うことを聞いたのは言うまでもありません。早速寝床にもぐりこみましたが、いよいよ明日が出発かと思うと胸がわ
くわくして寝つけません。ポ―ランドってどんな国なんだろう。ワルシャワの外にはまだ一歩も出たことがありませんので、想
像も出来ません。平らな国と聞いていたけれど、どんなふうに平らなのだろう。僕はとりとめもなくいろんなことを考えていまし
た。
そのときです。僕ははっきりと聞いたのです。いえ、聞いたというと正確ではないかもしれません。別に声がしたわけではない
のですから。感じたのです。誰かが僕を呼んでいるのを。そうです。僕に早くきて、助けて欲しいと言っているのです。辺りは静
まり返っています。まっくらです。その中から、悲鳴にも近い呼声がはるか遠くから聞こえてくるのです。
僕はすくっと立上がりました。行かないわけにはいけません。でも、どうやってこの地下室から抜け出したらいいのでしょう。
僕はやみのなかで、忙しく頭を回転させました。
―そうだ。例の地下水道を通って行く道がある。
僕は、ちゅうちょなく地下室の一番奥の作業室へ飛んでいきました。木の棚箱に前足を掛け、後ろ足で立上がって、例の犬の首
飾りをくわえてぐいと引張りました。棚箱はギィ―といって回転を始め、半分ほど回って止まりました。僕はその後ろにぽっかり
あいた穴の中に声をおしころして呼びかけました。
「ロン、ドブネズミのロンはいるかい。僕チビクロだけど」
「おや、久し振りだね、チビクロ。こんな時間に一体どんな用事だい」
ロンが姿を現しました。いつものように後ろには家族がゾロゾロついてきています。
「ちょっと、僕は外へ行く用事があるんだ。悪いけど、君の部屋を通してくれないか」
「ま、そんなことならお安いご用だけどね。こんな時間にお出掛けとはお安くないね」
「今は少し急いでいるので、わけを説明している時間がないんだ。悪いけど通させて貰うよ」
ロンと話しあっている時間も惜しいので、僕はロンの言葉にまともに挨拶せず、急いでロンの家族の部屋を通り、部屋の右手にあ
る小さな穴を抜け、地下水道へ出ました。やみのなかを濁った水が相変らず音をたてて流れています。滑りやすい通路に気をつけ
ながらをしばらくいくと、外へ出る石の階段がありました。僕は一気にかけのぼりました。
外はやや肌寒い、春の初めの宵です。空気が新鮮に感じられます。丸い月が空の真中に浮かんでいます。五十メ―トルほど向う
にご主人一家の家が月の光を浴びて白く輝いています。居間の明りはまだ点っていますが、ご主人と奥さんが明日の準備をしてい
るのでしょうか。僕は少しうしろめたい気持ちにとらわれましたが、ここまで来た以上もう引返すわけにはいきません。僕を呼ぶ
声はさっきよりもっとはっきりと伝わって来ます。僕は声のする方向へ走り始めました。
道路には人影も少なく、車はごくまれにしか通りません。月の光を浴びて、大きな建物も、街路樹も静かに寝静まっています。
動くものといえば道路のあちこちに、立っているおまわりさんぐらいなものです。そればかりではなく、建物の陰や、木の陰など
思いがけないところにもおまわりさんはたくさんいるのです。
「ポ―ランドには警察官がやけに多いね、夜中に車を走らせるといたるところにいるって感じだよ」
といっていたご主人の言葉を思いだしました。僕は別に悪いことをしているわけではないのですが、つまらないいざこざを起こし
てもつまりません。出来るだけおまわりさんの目を避けるようにしながら走りました。ひょっとしたら、夜、人影がまだらなのもおまわりさんがこんなに多いせいなのかも知れません。僕と同じように、つまらないいざこざを起こしてもつまらないと思えば、つい
家に引込みがちになるのでしょう。
ある道路を曲がったとき、危うく僕はその避けているはずのおまわりさんとぶつかりそうになってしまいました。というのもそ
のおまわりさんは道路の回り角に身を潜めるようにして隠れていたからです。僕は驚いて飛退きました。
「シッ」
くちびるに人差し指をたて、
「あっちへいってろ」
低いドスのきいた声です。僕はあわてて、その場を離れました。張込みでもやっているのでしょうか。
あわてて進路を変更したせ
いか、ちょっとばかり方向感覚が狂ってしまいました。
「さて、と」
僕は立止まって辺りを見渡しまいした。と、この近くに一度来たことがあることを思い出しました。僕が記憶を頼りに歩いて行く
と道路の側に確かにありました。腕白な子供たちに追われて、転げ込んだ例の樅の繁みです。とするとそのうしろの家はボイテッ
クの家にちがいありません。ボイテックやヤ―チェック、マ―トカやタト―シュはどうしているのでしょう。家の明りも消えひ
っそりと寝静まっています。
―道も分かったことだし、よし、今度必ず遊びにこよう。
もう、ここからならなんとかなりそうです。僕を目的に向かって、足を早めました。飛行場が左前方に見えてきました。
「チビクロ早く来て、チビクロ」
―すぐ行く、今すぐ行くからね。
僕は心の中で叫びました。
飛行場の回りを半周して野原に出ました。木造の小さな家の側を通り、林の中の小道を抜けると、目の前に大きな石造りの家
が、こうこうと輝く月の光の中にそそり立っています。窓の明りは全部消えています。アンナの呼ぶ声は裏手の方から伝わって来
ます。
僕は裏手に回りました。車用の通路づたいに僕は入って行きました。半地下になったガレ―ジのところまで行き、僕は声をひそ
めて言いました。
「アンナ、僕だよ、チビクロだよ」
アンナはガレ―ジの中から飛出してきました。首には鎖がつけられています。
「まあ、やっぱり来てくださったのね、チビクロ、あたしが呼んだのがわかったのね」
「うん、君が呼ぶ声が直接僕に伝わってきたんだよ」
「神様に祈るつもりであなたに救いを求めてたの。それがあなたに通じたのね。嬉しいわ」
「救いだって?」
「ええ、私、もうどうにもならないの」
アンナは目に一杯涙を浮かべています。
「一体どうしたんだ、僕にちゃんと話してくれなきゃ何も分らないじゃないか」
「チビクロ、その前にキスして」
そういうとアンナは顔を上げ目をつむりました。僕がキスしてあげるとアンナの気持ちもやっと落着いたようです。
僕たちは木の
箱の中で寄添いながら話をしました。アンナはぴったりと体をすりよせてきます。これまで嗅いだこともないような素敵な匂いが
します。
アンナの話は、こうでした。
アンナの飼主が今日の午後、カジュクという雄犬をつれてきたんだそうです。引合せるなり、
「アンナ、これがお前のダンナだ、こいつは血統書付きの名犬で、子造り名人としてもポ―ランド中に知れ渡っている。顔付きもいいし、ほら、この真白い毛にも艶があって素晴らしい雄犬だろう。もうそろそろお前も赤ん坊を生める年頃になった。こいつとなら似合いのカップルだ。きっと可愛い子犬が出来るだろう。うんとこさつくってくれよ」
そう言ってこの地下のガレ―ジにカジュクと二ひきだけにして行ってしまったのだそうです。カジュクという犬は、確かに男前で
毛並みもよさそうだったけれど、アンナはどうしても好きになれなかったのだそうです。
「カジュクときたら私に向かって、君は運がよかったな、僕みたいに毛並みのいい犬の子供が生めるんだから。おれの子供なら高く売れるし飼主も大喜びさ。さあ、はずかしがらずにこっちにおいで、なんていうのよ」
アンナは、今考えても本当に身の毛がよだつといわんばかりにからだをふるわせました。
「私はだから、とりあわなかったの。そうしたらカジュクは私を追回すの。私は、ガレ―ジの隅にあった小さな隙間に入りこんで
何度カジュクが呼んでも、出ていかなかったの」
「二時間たって飼主が降りてきて、私たちの様子を見て腹をたて、私を隙間から引張り出して、カジュクをけしかけるの。私はあ
ばれまわって、どうしても言うことをきかなかったの。だって愛してもいないのに、そんなこと出来ないわ。買主は怒って私を何
度も鞭で叩いたわ。でもとうとう諦めて、今日はこれくらいにしといてやろう。でも明日はこれでは済まないぞ。今度は専門家の
ところへつれっていって、どうしても二人を一緒にさせてやると言うの。だから私、飼主が寝静まるのを待って必死になってあな
たに救いを求めたの」
そういいながらアンナは僕の顔をまともに見詰めました。
「チビクロ、私が愛しているのはあなただけ。あなたは私のことを愛してる?」
「もちろんさ、僕はアンナを心から愛してる」
「じゃ、私を救って、私をきつく抱きしめて」
アンナは体をもっと押しつけてきました。あの心がとろけそうな匂いが僕を包みこみました。こんなに気持ちが高ぶったのは初め
てです。こんなにアンナを愛しく思ったのは初めてです。僕の前にすべてを投出して、救いを求めているアンナ。どうしてそんな
アンナを他の犬の手に渡すことが出来るでしょう。僕はアンナをしっかりと抱きしめました。アンナは僕の腕の中で、幸せそうに
小さく体を丸めました。
その晩は僕はアンナの家に泊まりました。愛するものと抱き合いながら一緒に過ごす一夜がこれほど素晴らしいものだとは、僕は想像もしていませんでした。
夜の白む前に僕はアンナの家を出ました。買主に見付かりでもしたら百年目だからです。それにご主人がグダンスクへ朝早く出
発すると言っていたのに遅れてはならないと思ったからです。少し白みかけた道を今度は迷うこともなくま一文字に我家へ急ぎま
した。相変らず警官の影が街のあちこちに見え隠れしていますが少しは減ったようにも思えます。
家の後ろにあるアパートの階段の側を通り抜けようとしたときでした。いきなり大きな厚い板が覆いかぶさるように倒れてきま
した。ぼくはとっさに体をよじってよけ、危うく難を逃れましたが、もう、ちょっとでも逃げるのが遅かったら、板の下敷きにな
って身動きもできなくなるところでした。上を見上げると階段の陰に白と黒のブチがちらっと見えました。すぐ見えなくなりました
が、何者かがじっと身を潜めている気配がします。
あのブチ猫ニーナでしょうか。この前、ロンを救ってやったことを根に持っているのでしょうか。あんなことで恨みを持つなん
てまったく根性が曲がっています。よっぽど階段をかけ上って行って、とっちめてやろうかとも思いましたが、こんな素晴しい朝
をニーナごときのために台なしにするのはもったいないと考え直し、そのまま何事もなかったような顔で、マンホールの割れ目の
穴に向かいました。
家に入るときも、ロンの部屋を通らせて貰いましたが、朝早く起されたロンが、
「何だチビクロ朝帰りか、結構なご身分だな。御陰でこちらは寝不足だよ」
と言うのには、ちょっとばかり照臭い思いをさせられました。
見渡す限りの菜の花畑、どこもかしこも黄色一色の中をご主人の運転するプジョ―はエンジンの音も快調に一路グダンスクめが
けてひた走っています。
確かにポ―ランドは平たい国です。車の回りを見渡しても、どこにも高い山は見当たりません。ゆるやかなスロ―プがどこまで
も続き、薄い黄緑の若芽で彩られた景色はパステル画のようにきれいです。道路ぞいにはいろんな種類の並木が植えられていま
す。その後ろには菜の花や小麦などの畑が広がり、その向うに黒々とした森が連なっています。道路がその森の中へ入って行くこ
とがあります。松やもみの木やぶなやかばの木が高く聳え、どの森も奥が深くて、その果ては暗いやみのなかに消えています。道
路には車の数は数えるほどしか走っていません。ときおり馬車がのんびりとすれちがったりします。
朝、まだ薄暗いうちに出発したので、みんななんとなくねむそうで、うつらうつらしています。ご主人だけが初めての長距離旅
行なので、しんけんそのものの顔をして前方をにらみながら運転しています。
しばらくするうちに面白いことに気づきました。地平線の向うにまず見えてくるのは、決って教会の十字架なのです。それは高
い塔の上にあるからです。やがてその塔を取りまくような形でひとかたまりの建物や高い木が見えてきます。つまり村や町が顔を
現すのです。その村や町に近づくとどこの教会もなかなか立派です。村や町一番の建物は決って教会のようです。そのすぐ近くに
大きな広場があることもあります。広場にはおとしよりも小さな子供も集って来てのんびり過ごしています。ポ―ランドではどう
も教会を中心にして村や町が出来ているみたいなのです。
どれだけ多くの村や町や森や林や丘や河や湖を通りこしたことでしょう。
「あ―あ、良く眠ったわ。そろそろお昼にしましょうか」
奥さんは両手が車の天井につかえるほど背伸びをしました。
「うん、そうしましよう!」
なんと今まで眠りこんでいたはずのミコちゃんとひろしくんが、お昼と聞いたとたんにパッと目を開けいせい良く返事しました。
「それじゃ、今度森があったらそこで弁当にしよう」
「あのずんぐりした幹から細い枝が針鼠みたいに突出ている木は何ていう木なの」
「あれはハコヤナギという木だよ」
「今走っている道の両脇に植わっているヒョロリと高い木はなんていうの、パパ」
「これがポプラって木だよ。日本の北海道大学にあるポプラ並木は有名だけど、これ程長くは続いてはいなかったな。こっちの方
がよほど立派だ」
「ポ―ランドの家は農家でもレンガづくりだし、日本のより大きいわ。こんな何もないようなところにポツンポツンと建っている
けどさびしくないのかしら」
「なれたら、それほどでもないんじゃないかな」
「あっ、馬車だ。大きな缶をはこんでる。あの中にはミルクが入ってるのかな」
「ずいぶん、のんびりと走ってるわね。あっというまに追越してしまったわ」
「畑には、余りお百姓さんは見掛けないわねぇ」
「耕作機やトラクターなどの農業機械も余り見当たらないね」
「あっ、あそこにお百姓さんが働いている」
「なんだか、普段着でやってるみたい。日本のお百姓さんのイメ―ジとずいぶん違うわね」
「土の色がなんとなく白っぽくて砂みたい」
「あまり肥えた土地じゃなさそうだね」
「そのせいか、作物も余り元気良くなさそうね」
「この辺りにはあちこちに水溜りがあるわ」
「あっ、ミコちゃんアヒルがあんなに一杯いるよ」
「ほんとだ、カチカだ。行列を作って歩いてるわ」
「スタ―レミヤストを思い出すわ…」
「僕も今度は一羽丸ごと食べたいな」
「私だって今度は一羽にするわ」
「ほら、鶏も野原を元気に走りまわってる。鶏小屋に押込められて人工の餌を食べるのではなくて、地虫をつついているのね」
「どおりでポ―ランドの卵はからが堅くて、そのうえ目玉焼きにしても卵がこんもり盛上がったように焼けるはずだ」
「そうね、初め日本の卵のつもりで割ろうとしてなかなか割れないものだから、てっきりゆで卵かと思っちゃったわ」
「あたしもあんなに黄身の色が濃くってお皿から丸く盛上がった卵なんて食べたことなかったわ。それに味があって美味しいし」
「牛が放飼いにされている」
「牛の牧場なのね。焦茶色のが多いわ」
「チビクロ、ほら、犬が牛の番をしてるよ」
「大きな犬ね、チビクロの何倍もありそうだわ」
確かに僕の五倍はありそうな黒い犬がゆうぜんと寝そべって牛の番をしています。同族だからというわけではありませんが頼もし
い限りです。
「森が見えてきたよ。あそこに車を止めて弁当にしよう」
ご主人は森の中ほどの日当たりのいいところに車を止めました。
「しらかばにおひさまが当たってきらきらと輝いているわ」
「青空、匂いたつような新緑」
「ああ、空気が美味しい」
「このあたりは車が一台も通らないわね」
「森とはいうけれど、それほど木が密集して生えているわけでもないんだね」
「パパ、森の中に入ってもいい」
「いいよ、気をつけるんだよ」
「さ、チビクロ行こう」
森の中は静まり返っているようでも、ゴ―ッという不思議な音がしています。甲高い声で小鳥がひっきりなしに鳴いています。
土を踏むとふかふかしていてとっても気持がいいのです。爽かなにおいが押寄せてきます。ミコちゃんもひろしくんも木の間をじ
ょうずに走りまわります。僕はその後を追いかけます。僕などひっくり返って見なければならないほど高い木が多いのですが、と
ころどころに木漏れ日が差しこんで、草の上にまだら模様を作っています。
ご主人と奥さんも森の中をゆっくりと歩いて来ました。
「春の森っていろんな生き物の息吹が感じられるね」
「まったくの別天地ね。道路のすぐ脇にこんな素敵なところがどこまでも続いているなんて」
「日本では、どんな山の奥に行っても、人のいないところに行くのは難しいのに」
「さっきからまだ一台もほかの車は通らないでしょ」
「この森全体が我が家の貸切りみたいだね」
「それではこの草の生えているところで、そろそろお弁当にしましょうか」
「さて、ママ特製のおにぎりをいただくとするか」
「ミコちゃん、ひろしくん、チビクロ、いらっしゃい」
きれいな空気を胸一杯吸った後は、美味しいお弁当をおなか一杯食べる番です。僕は特製の骨付の肉です。これは昨日ユラが買
って来てくれたのです。なにか特別のことがあるとこれを買って来てくれます。もちろん僕の大好物です。
「ポ―ランドでたべるおにぎりも美味しいね」
「ポ―ランドの森の中で、今こうして家族そろっておにぎりを食べてる。なんとなく信じられないわ」
「考えて見ると信じられないことの連続だね」
「もうミコちゃんは英語を話しているし」
「ひろしくんだってポ―ランドがペラペラだし」
「ママだってエバさんのおかげでポ―ランド語を少し話せるようになったし」
「パパは、プジョ―というフランス製の車を無事故で運転しているし」
「ほんとに信じられないことばかり」
「ところで、信じられないことのナバ―ワンは何かしら」
「それは」
「もう」
「なんといっても」
皆が一斉に僕を振返りました。
例によって肉を食べた後一生懸命に骨をかじっていた僕は、皆が一斉に僕の方を見たので、お行儀が悪いといわれるかもしれな
いと思ってあわててかじるのを止めました。
「東京に置いてきたはずのチビクロが」
「ここに今こうしているのが」
「信じられないことの一等最初」
「東京から本当に良くきたわねぇ」
「しかも、人口170万人もいる広いワルシャワで巡り会うなんて」
「今もって信じられない」
「ポ―ランドまで迷子にならずにやってきたかと思うと」
「飛行場で迷子になってみたり」
「それにチビクロはポ―ランド語をたちまちマスタ―したし」
「通訳までやったり」
「馬を助けて上げたり」
「とにかく信じられないことばかり」
「それじゃ、ここで『信じられないチビクロ』という歌でも歌おうか」
「そんな歌があるの、パパ」
「別にありやしないさ、今からみんなでつくるんだよ。とにかくなんでもいいから言葉を思いついたら節をつけて歌えばいい、じ
ゃ僕からいくよ」
ご主人は立上がって歌いはじめました。
「黒くて小さいチビクロほど
信じられない犬はいない
神様が つかわされた
奇跡のようだ
チビクロのいくところ
いろんな苦労が 待ち受けているけど
その燃えるような心で
いつの間にか 雪のように とかしてしまう
チビクロは我家の宝
チビクロの幸せのためなら
僕はなにも惜しまない」
「パチパチパチ」
皆が拍手しました。僕もあまり誉められたので照れ臭かったのですが、
「ワンワン」
と吠えて尻尾を振りました。 ご主人は、ポーランドに来て、オペラを本物のオペラ座で、しかもヨーロッパでも一番大きいと言わ
れるオペラ座で見たせいか、歌い方と言い、歌詞の感じといい、オペラ調です。好奇心が旺盛なものですから、何にでも飛びつき
ますが、その反面何にでもすぐ感化されてしまうところがあります。
「まあ、あなたには思いがけない才能があるのね。音程の方は少し怪しかったけれど、歌詞のほうは即興にしては上出来よ」
「それじゃ、ママ、二番を歌って」
「ダメダメダメ、ママは作詞なんてやったことないんだから」
「そんなこといわずに、チビクロじゃないけど挑戦だよ」
「それじゃパパほどうまくいくかどうかは分らないけど、パパの作った曲に合せてやって見るわね」
奥さんも立ちあがって歌い始めました。照れているせいか、歌いだす前にからだのあちこちをなぜています。
「我家の一員チビクロほど
信じられない犬はいない
神様が 愛を授けた
天使のようだ
チビクロのいくところ
難しい問題が 待ち構えているけれど
その機転のきく頭で
いつの間にか 嘘のように
解き明かしてしまう
チビクロは我家の希望
チビクロの幸せのためなら
私たちはなにも惜しまない」
奥さんの澄んだ高い声が森の中に響きわたります。皆うっとりとして聞きほれています。終わるとご主人のときよりも大きな拍手
が湧き起こりました。僕も、
「ワンワン」
と吠え、くるくるとそこらを走り回りました。
「トモコが歌うととたんに歌らしくなるな。それならオペラ座で歌えるよ。歌詞の方も僕のよりいいくらいだ」
「さあ、今度は、ミコちゃんとひろしくんの番よ」
「そんなの出来ないわ」
「むずかし過ぎるよ」
「アラ、ママにはやらせといて逃げるつもり。チビクロは一万キロも一人で旅をしてきたのよ。パパやママが歌ったみたいにあな
たたちもトライしなくっちゃ」
「じゃひろしやってみようか」
「そうだね」
二人は少し離れたところへ行き、ぼそぼそと打合せていましたが、しばらくすると帰ってきて、二人並んで歌い始めました。
「わたしたちの仲間チビクロほど
信じられない犬はいない
神様に知恵を授かった 子供のようだ
チビクロのいくところ
新しい冒険が 降って来るけれど
そのくじけない勇気で
いつの間にか夢のように
やりとげてしまう
チビクロはわたしたちの仲間
チビクロの幸せのためなら
わたしたちは なにも惜しまない」
なんとりっぱな出来でしょう。ご主人も奥さんも大きな音をたてて拍手しました。僕もまけずにワンワンと吠え、辺りをピョンピ
ョンとびまわりました。最後のところをみんなが声を合せて繰返しました。
「チビクロは我家の宝
チビクロの幸せのためなら
わたしたちはなにも惜しまない」
美しいハ―モニ―が森の中にこだまします。皆が歌い終わりました。
さて、いよいよ僕の番のはずです。
こんなに素敵な歌を作って貰ったのですから、お礼の歌をお返ししないわけにはいきません。
僕は前足をきちんとそろえてお座りをし、歌い始めました。
「ワワワン、ク―ク、ク―クン
ワンワンワワワン、
ワンワンワン ワワワワン、
クククンクンワワワン」
「チビクロも気にいったみたいね、『信じられないチビクロ』の節に合せて吠えているわよ」
「チビクロも一緒に歌いたいんじゃないの」
「それじゃ、もう一度皆で声を合せて歌おうか」
「チビクロ、さ、一緒に歌うんだよ」
僕はみんなに合せて最初から歌い直しました。しかし、もしここにボイテックのタト―シュがいてくれたら、僕の歌っている歌の
歌詞だけが違っていることに気がついてくれたに違いありません。そしてこんなふうに訳してくれたことでしょう。
「何時でも明るい ご主人一家ほど
素晴らしい一家はない
神様に祝福された 家族のようだ
ご主人一家のいくところ
大きな石ころも 転がっているけれど
その強い愛のきずなで
いつの間にか 砂利のように 打ちくだいてしまう
ご主人一家は 僕の誇り
ご主人一家の幸せのためなら
僕は命も惜しまない」
森の中でたっぷりと休養をとって、車はまたグダンスクを目指して走り始めました。
しばらく走ると、前の方にバスが走っているのが見えてきました。大きな図体を左右に揺すりながら走っています。もともとは
赤い色のバスだったのでしょうが、排気ガスや泥で汚れて真黒です。とくに後ろの方の汚れは飛抜けています。速度が違うのでた
ちまちプジョ―は追いついてしまいました。この辺りは道路が狭いので追いぬくことがでません。バスの後ろについて走っている
と、一番後ろに乗っていた子供たちが気付いて、盛んに手を振り始めました。ミコちゃんやひろしくんが手を振り返すと、バスの
中の子供たちが全員後ろに集って来て盛んに手を振ります。薄汚れた窓ガラスに顔をぴったりつけて、皆ニコニコ笑いながら手を
振るのです。バスは前のほうが浮き上がったまま、走っています。
ご主人一家もニコニコしながら手を振り返します。
「こんなに手を振って貰うと追抜くのがなんだか悪いみたいだな」
広い通りにでてもご主人はなかなかバスを追抜けないでいます。でもあんまりゆっくり走ってばかりもおれません。とうとう左
側のランプをチ、チ、チ、と点滅させて追越しにかかりました。バスの子供たちは残念そうに手を振り何事か叫んでいます。
「ドビゼ―ニャ(さようなら)」
ご主人一家も叫びました。
「さあ、少しとばすぞ」
ご主人はアクセルを踏みこみました。車はぐんぐんスピ―ドを増します。
「わ―凄い。一四〇キロも出ている」
「そんなに出してあなた大丈夫?」
「このへんは車もこないし大丈夫だよ」
といったとたん向うからトラックがやって来ました。すれちがいざまに、
―ピカピカ、ピカピカ とヘッドライトを点滅させました。
「一体なんの合図だろう? トモコちょっと半ドアになっていないか確かめてくれ」
「別に半ドアになってないわよ」
「え―と、エンジンの温度も正常だし、ライトもつけっぱなしになっていないし…おかしいところはなにもないのに、どうしたん
だろうな」
ご主人がメ―タ―を確かめつつ走るうちに車のスピ―ドはたちまち落ちてしまいました。と、少し道路がカ―ブした、少し見えに
くいところにおまわりさんが数人立っているのが突然目に飛び込んで来ました。。その前に駐車させられた車が数台止まっていま
す。運転手が運転免許を調べられています。
ご主人はその前をゆっくりしたスピ―ドで悠々通り過ぎました。
「そうか、あのピカピカは警察がスピード違反の取締まりをしているぞという合図だったんだな。いや―助かった。あのピカピカの御陰でつかま
らなくって済んだよ」
「あのスピ―ドだったら今頃相当おきゅうをすえられているところね」
「あっ、向うから来る車は、かなりスピ―ドをだしているぞ。よし、ヘッドライトをピカピカさせて教えてやらなくっちゃ」
ご主人がライトをピカピカさせると、向うの車もライトをピカピカさせて応えました。運転手はすれちがいざまに軽く手を上げま
した。お礼の印のようです。
「なるほど、ポ―ランドではこれが運転手の間の礼儀になっているみたいだな」
「助合いの精神という訳ね。でも、あまりスピ―ドを出さないでゆっくりいきましょうよ」
「オ―ケイ」
とはいっても、ご主人は八〇キロから一〇〇キロのスピ―ドで走ります。道路は平坦ですし、車の数もそれほど多くないのであ
まり危険な感じはありません。ゆるやかなスロ―プ、真直ぐに続く道。景色もそれほど変りばえしません。お昼をおなか一杯食べ
たせいで、みんなまた眠たくなって来たようです。奥さんもミコちゃんもひろしくんもこっくりこっくりし始めました。
僕のまぶたも次第に重たくなってきました。運転しているご主人には悪いけれど、ここらで少し昼寝でもさせて貰おうと思い始
めたときです。
「チビクロ、おきているかい」
ご主人が声をかけました。
「ワン」
「それじゃ、ちょっと前の座席に来て僕と運転を代ってくれ。僕も少し眠くなって来た」
「そんなことをおっしゃっても僕は運転なんか出来ません」
「いや、心配はいらない。ほらこの道はずぅ―と向うまで真直ぐに続いている。だから、ハンドルを押えていさえすればいいん
だ。もし万が一目の前に危ないものが出てきてぶつかりそうになったら、いいかね、このスロットを思いきり引くんだよ。そうする
と問題はたちまち解決するからね」
「じゃ、やってみますからしばらく見ていて下さい」
僕はご主人に手ほどきを受けてハンドルを前足で押えました。
「思った通り、チビクロはなかなかうまいじゃないか。そうそうあまり肩に力を入れないで、楽な姿勢で運転するのだよ。うん、
これなら大丈夫だ。じゃ、私は少し昼寝をするから、チビクロ頼んだよ」
ご主人は、そういうとたちまち眠ってしまいました。
さあ、大変です。ご主人一家の命を預かったのです。僕はご主人に負けないくらい真剣な顔をして前方をにらみつけ、運転に精
神を集中しました。運転して見て分かったのですが、回りの景色を見る余裕はあまりありません。ご主人が、時々そんな教会が通
りの奥にあったかな、などということがありますが、助手席や後ろの座席に座っているほうがよほど回りの様子が分ります。車と
時々すれ違うのですが、運転手が目を皿のようにして僕の顔を見て、思わず急ブレ―キを掛けるのがちらっと見える程度です。通
りすぎると、運転手はわざわざ車から降りて、振りかえって見ているのがバックミラ―に映ります。後ろの景色をバックミラ―で
見る方が左右の景色を見るよりずっと楽です。
道はどこまでも真直ぐに続いています。天気はポカポカといい日和です。おなかは昼御飯を食べたばかりで満腹です。それにあ
まりに一生懸命、前ばかり見ているせいか時々ぼ―っと目の前が霞んで来ました。これはいけないと思い、時々目をパチパチやる
のですが、効果ありません。さっき歌った歌を口ずさんでとにかく目がぼ―っとしてこないようにすることにしました。
「ご主人一家は僕の誇り
ご主人一家の幸せのためなら
僕は命も惜しまない
僕は命も惜しまない
僕は命も
命も
おし
ま
ない
ぼ
くは
いの
ち
も
オ
シ
… 」
首がガクンとし、ハッとして目の前を見ると、すぐ前に森がおおいかぶさるように迫っています。
―このままではぶつかってしまう!
体中の血がすっと引きました。
ーなんとかしなければ・・・
そのときご主人がぶつかりそうになったら、スロットを引くようにといったのをとっさに思い出しました。僕はそのスロットを引
こうとしました。ところが、僕にはスロットが引けないのです。僕の前足ではスロットがつかめないのです。爪で引っかいてもス
ロットは動きません。もう駄目です。ぶつかるよりありません。
―でも僕は、僕の命をかけても、ご主人一家を…
僕は口にくわえてそのスロットを夢中になった引張りました。引張ったとたん、
―ぐ―ん
体が地面に押つけられるような感じがしました。ちょうどジェット飛行機が飛立ったときと同じ感じです。森の木にぶつかって、
いまにもドスンと体が投出されるかと覚悟していたのですが、そんな衝撃はなくて、ぐいぐいと上の方へ上がっていく感じです。
僕は不思議に思いスロットから口を放し、こわごわ外を見ました。 自動車のすぐ下に森の木々の幹ががくっつかんばかりに見えま
す。プジョ―は、
―きゅ―ん
とジェット機のように急上昇しているのです。
いつの間にか車の両側に大きな翼が出ています。ぐんぐんとプジョ―は上昇し、森の上にでると今度は水平に飛び始めました。
なんということでしょう、ご主人の車は、空も飛べるのです。ご主人がぶつかりそうになったら、このスロットを引くようにとだ
け教えたのは、僕を驚かそうというつもりだったにちがいありません。地上を走るのと比べれば空を飛ぶのは楽なものです。ポ―
ランドはまったく平らな国なのでぶつかりそうなものはなにもないのですから。
森を越え、畑を越え、町や村の上を越え、湖や河や丘を越え、プジョ―はエンジンの音も滑かに飛び続けます。ご主人や、奥さ
んや、ミコちゃんや、ひろしくんにも空からのポ―ランドの景色を見せてあげたいのですが、みんな気持よさそうにスヤスヤ眠っ
ていますので起こしたくありません。
村の上空に差掛かると、子供たちだけでなく村中の人達が盛んに手を振ってくれます。村はずれまでみんな走ってついてくるの
です。そんな時には少しスピ―ドを落します。
と、パタパタという音がして、車のボンネットの上に黒い影がひょいと止まりました。はっとして見るとそれは一羽の鳥でし
た。
―コツコツ その鳥は窓ガラスをノックしました。
「こんちは、僕はこの辺りに住んでいるをコクマルカラスのミケグというのだけど、君は一体何者だい。この辺りの空ではあまり
見掛けないけれど」
「や、こんちは、これは空飛ぶ自動車でプジョ―というんだよ。僕はその運転をしているチビクロという名前の犬だよ」
「ふ―ん、自動車ってのは、普通地面を走るものじゃないのかい。空を飛ぶこともできるのかい」
「僕も今の今まで、この車が空を飛べるなんて知らなかったんだけど、このスロットを引いたら翼がでて空を飛びはじめたのさ」
「我々の姿に比べれば、ずいぶんと不格好なのに良くそんなにスイスイと飛べるものだね」
「いま、後ろの席で眠っているご主人という人は、いろいろと新しいものが好きな人だから、きっと一番進んだ自動車を買ったん
じゃないかと思うんだ。これならただ真直ぐ飛べばいいんだから僕みたいに今日初めてのものにでもすぐ運転できるし、とても便
利だよ」
「ふ―ん、そんなに簡単なのかい。僕ら鳥だって、きちんと飛べるようになるにはいろいろと練習しなければならないのに」
「だって、このスロットを引きさえすれば後は黙ってこのハンドルを押えていさえすれば真直ぐにグダンスクへ飛んでいくんだ
よ」
「君、いまグダンスクとかいったな。そこへ行くつもりかい」
「そうだよ」
「だったらもうすこし方向を北へとった方がいいんじゃないかい。ほら君の右斜め前方にぼんやりと見える高い建物の立った大き
な町が見えるだろう。あれがグダンスクの町だよ」
僕はハンドルをあわてて右の方へ回しました。
「でもどうしてあんな人の大勢いるところへわざわざ行くんだい。あんなところには自然がないし、空気が汚れていて、僕らには
一日だって住めないね」
「僕だって別に空気の汚いところが好きなわけではないんだけれど、あそこに船荷を取りに行かなければならないんだよ。日本と
いう国からこの車に乗っているご主人一家の荷物があの港についたんだよ」
「ふ―ん。日本という国ね。その国の景色とこの国の景色とは同じようなものかい」
「あまり似ていないね。日本という国はとっても山が多くてこんなに平らじゃないし、人がもっともっとたくさんいて道路にも車
がいっぱい走っているし」
「僕と同じ種類の鳥は日本にはいないのかい」
「東京ではあまり見掛けたことがないからいないんじゃないかな」
「あんまり鳥が大切にされていないということかい」
「そんなわけでもないけれど、ポ―ランドに比べると日本は少し鳥のすめるところが少ないみたいだな。ポ―ランドだと大きな町
の公園にもたくさん野鳥がいるけれど日本ではせいぜい鳩とか雀ぐらいしか見掛けないしね」
「それじゃ、あんまり行ってみるきもおこらないな。やはり鳥を大切にするってことが、この世で一番大切なことなんだよ。鳥く
らい自然を愛し、自由を愛し、この地球を愛しているものはいないからね。いつも僕らはね、こんな高い空の上から、地球を見て
生活しているだろう。地上で生活している人間や君たち犬に見えるのはせいぜい、身の回り五メ―トル四方ってところだろう。だ
から全体の調和ってものが見えないんだよ。僕らにはいつも千メ―トル四方がみえるんだよ。地球の変化が手にとるようにわかる
んだよ。ほら御覧、いま春だろう。春の美しさも歩きながら見るのとこの空の上から見るのとではまったく違うだろう。森も湖も
畑も村もそれぞれに装いをこらし、お互いがお互いを引きたてるように美しく輝いているのがよく分るだろう。これが地球なんだ
って僕らはいつも思うのさ。このポ―ランドだって昔に比べれば、森の木が切倒されて畑にされ、森もアスファルトの道路で切刻
まれているんだ。これがどんなに全体の調和を壊しているか君にも分るだろう。ほらあの森のはずれのところに灰色をしたまるで
死んだような一角があるだろう。あれがつい最近開墾されたところだよ。空の上からみると地球の美しさに人間が年々傷をつけて
いくのが良くわかるのさ。僕の仲間もあそこの森から追いだされたしね」
ミケグのいうように空から見るとその辺りだけが無残にもえぐりとられたような感じです。パックリと大きな傷口が口を開いて
いるような。
「だからさ、僕らにとってはこの空飛ぶ自動車みたいな空を汚すものに、あまり大きな顔をして飛びまわってほしくないんだよ。
排気ガスを出すってことは地球の美しさを多少なりともこわしているってことを自覚してもらいたいんだ」
「そうだね、良くわかったよ。僕も空から地球を見、君の話を聞き、もっともっと地球や自然を大切にしなければならないという
ことが良く分かったよ。もうグダンスクもすぐそこだし、お別れだね。いろいろと教えてくれたり、道案内してくれてありがと
う。さようなら。君の仲間にも宜しく伝えてね」
「ちょっと後ろをみてごらん。ほら僕の仲間はさっきからずうっと一緒についてきていたんだよ。僕らはいつも一緒なんだ。そう
そうグダンスクならあの高い建物を目掛けてこのまま真直ぐいけばいい。あれがアン教会といってとても古い教会だよ。じゃ失敬
するよ。気をつけてね」
ミケグはボンネットの上からさっと飛びたちました。仲間の鳥たちがミケグの後にすっと寄ってきて、編隊を組みプジョ―の回り
をひとまわりすると反対方向へ飛んでいきました。
もうグダンスクの上空です。アン教会も目の前に近づいてきました。僕は注意深くスロットをすこしずつ押してプジョ―をアン
教会の前の広場に無事着陸させました。ほっとして回りの座席を見ると驚いたことにはご主人初め皆はまだスヤスヤと眠りこけているの
です。とっても楽しい夢でも見ているのか、少し笑っているようです。空から自動車が舞いおりてきたというので車の回りには人
がいっぱい集って来ているというのに、これではどうしようもありません。こうなったらどんなに楽しい夢を見ているにしても起
きて貰うよりありません。
「ご主人、奥さん、ミコちゃん、ひろしくん、もうグダンスクに着きましたよ。早く目を覚ましてください。ワンワンワン」
やっと皆が目をこすりながら起きだしました。まだ眠たそうです。ところが眠たそうな目を開けて、僕の顔を見るなり、皆が口を
そろえて
「チビクロ、もうグダンスクに着いたんだよ。さあ早く起きなさい」
というのです。起こそうとしているのは僕なのに、僕のことを起こそうとするのですから、きっとご主人一家はまだねぼけている
に違いありません。でも、少し合点がいかなかったのは、ご主人がいつのまにか運転手席でハンドルを握っていることでした。
グダンスクの中心部はちょうどワルシャワのスタ―レミヤストのようです。古い昔の建物が一杯立ち並んでいます。アン教会は大きなレンガづくりの建物です。中に入って驚いたのは、天井がものすごく高いことです。森の中にも高い木が一杯ありましたが、その木がすっぽり入ってしまうほどの高さなのです。だからそれこそ一番上を見ようと思うと、ねっころがって見なければなりません。回りの窓ガラスには美しい色で、赤ちゃんを抱いている女の人とか、十字架に張つけになっている人とか、馬に乗っている人とか、ほんとうにいろんな人の様子が書かれています。それが外から差込んでくる光でひときわ美しく見えるのです。回りには重々しい音が響きわたっています。
「教会の中できくパイプオルガンの響きって厳かで実にいいね。高い天井、厳かな響き、美しいステンドグラス、十字架の上の
神々しいキリストの像、自然に信仰心が湧きあがってくるね」
「本当に教会の中に入るとなんとなくけいけんな気持ちになるわね」
「ママ、けいけんって?」
「そうね、神様をうやまいたくなるってこと。ほら、あの窓に美しい色でいろんなことが書いてあるでしょ。あれがステンドグラ
ス。絵に書いてあるのが、聖書からとったキリストの物語なのよ。教会の外から差込む光で本当にきれいでしょ。まるで別世界み
たいで、神の国へ一歩近づいたみたいな気持ちに誘われるわ」
「アメリカンスク―ルでも聖書のお話を習っているの。キリストっていうとても立派な人がいて世界中の人々を救うために神の御
子としてこの世につかわされたんでしょ」
「僕もキリスト知ってるよ。あっあそこにあるのが、キリストのお母さんのマリア様の像でしょう。ほら、金色の冠をかぶってい
る。マリア様に抱かれている裸の赤ちゃんがキリストだよ。マリア様はとても優しい人でポ―ランドの人にお母さんのように愛さ
れているんだよ」
「ひろしくんも良く知ってるね。ポ―ランドではね。ほとんどの人がキリスト教の中のカソリック教派の信者なんだよ。だからこ
んなに立派な教会がどこに行ってもあるんだよ。この教会も戦争でメチャメチャに破壊されたのを戦争が終わった後にたてなおし
たんだそうだよ」
「こんなに大きな教会を作り直したの、すごいなあ」
「それだけポ―ランド人の信仰心があついってことなのねえ」
「あそこの階段からこの教会の屋上へ出れるらしい。ちょっと昇ってみようか」
みんなそろって狭いらせん状の階段を昇りました。僕は階段を昇ったり降りたりするのは余り好きではありません。その上こんな
長いらせん階段をぐるぐるぐるぐる昇るとなると目がまわって来ます。半分目が回りかけたときやっと屋上に出ました。
しかしあいにく僕にはなにも見えません。てすりがかなり高いのです。ご主人が僕をひょいと抱上げててすりの上にのせてくれ
ました。今度は本当に目がまわってしまいました。だって下を見たらすうっと吸込まれそうなほど高いのです。下の通りを歩いて
いる人がまるでありのように小さく見えます。
でも先ほどは空飛ぶプジョ―を運転していたのです。これ位のことで怖がってはおれません。気を引きしめて回りを見渡すと先
ほど見た古い建物がマッチばこのようにビッシリと立ちならんでいます。大体五六階だての高さでそろっています。通りに面した
ほうの一番高い部分がいっけんごとに違っておりおもしろい形です。屋根は少し赤みをおびたレンガ色のが多く、建物の壁は黄土
色や茶色や焦茶色などをしています。
「この古い中世風の建物も戦争で破壊されたのをみんな戦後つくりなおしたんでしょ。凄いエネルギ―ね」
「なにせ第二次世界大戦の発火点になった町だから徹底的に破壊されたらしいね。それで、今もってあちこちで昔のままに復元す
る工事を進めているらしい」
その古い建物を取囲むような形で長方形をした新しい高いビルディングが立っています。そのずっと向うに海が見えます。
「あれがこれから行くグダンスクの港かな。あの港に停泊していたドイツの戦艦ホルシュタイン号の砲火が、第二次世界大戦のひ
ぶたをきったんだね」
ご主人がそちらの方を指差しました。
「その近くに大きな工場みたいなのが見えるけれど、あれが有名なレ―ニン造船所かしら」
「どうして有名なの ママ」
「あそこでね、五年ほどまえ、お肉の値上げに反対してストライキがあったの。そのとき警察官に数人の労働者が殺されて、それ
がきっかけで、ポ―ランドの一番偉い政治家が交替することになったのよ」
「ふ―ん、このグダンスクという町はポ―ランドのとって、いろいろと大変なことがあった町なんだね」
ミコちゃんもひろしくんもなんとなく昔のことに思いをはせるような顔つきをして、グダンスクの町並を見つめています。
さて、またらせん状の階段を降りることになりました。目は回るし足はなんども滑りそうになるし、下に着いたときにはふらふ
らでした。教会を出て街のなかをぶらぶらしていると、ミコちゃんとひろしくんが、
「あっ、綿飴屋さんだ」
大きな声を上げて走りだしました。
僕もその後についていきました。小柄なおばさんが車のついた四角い荷台の上でせっせこ白い綿のようなものを棒の先に巻きつ
けています。人の頭ほどの大きさになるとそれを並んで待っている子供に渡しています。ミコちゃんとひろしくんはその列に加わ
りました。僕も一番後に並びました。並んだ後でミコちゃんははやくはやくとご主人たちを手招いています。
「やっぱり、ポ―ランドにも綿飴屋さんがあるのね」
追いついた奥さんが綿飴屋さんをしげしげと見ています。
「さあ、お嬢ちゃんにお坊っちゃん」
綿飴のように白い服に白いずきんをかぶった綿飴屋のおばさんがミコちゃんとひろしくんに一本ずつ綿飴を手渡しました。僕はそ
の後でじっと待っていましたが、次ぎの綿飴はすぐ後ろに並んでいた子供に手渡されてしまいました。おばさんには僕がちっちゃ
くてよく見えないのかもしれません。
「ワン」
僕はここにいるよという意味で吠えました。
「おやおちびの犬さんもお客さんだったのかい。これは悪いことをしたね。おわびに大きいのをこさえて上げるからね」
おばさんは、ミコちゃんのもらったのの倍もあるのを作ってくれました。
「あら、チビクロも欲しいの」
奥さんが受取って、僕の目の前にその白いお菓子を差出してくれました。
「あっ、チビクロのはあんなに大きい。僕のととっかえてえ」
ひろしくんが叫びました。
「そんなのずるいわよ。最初に綿飴屋さんに気づいたのはあたしなんですからね。チビクロあたしのと交換しましょ」
「そんな意地の汚いことをいうものじゃないの」
奥さんがピシリとはねつけました。
僕はこれまで綿飴を食べたことは一度もありません。とにかく僕の口をどんなに広げてもその大きな綿飴をパクリと食べる訳に
は行きません。それでも僕は精一杯口を広げて思いきり噛みつきました。
「ガキッ」
大きな音をたてたのは、僕の歯でした。力一杯噛んだので勢い余って歯と歯がぶつかったのです。まるで空気を噛むようなもので
す。全く歯応えがありません。が、噛んだ拍子に歯と歯とがくっついて少しはなれにくくなりその内に甘いものが口中に広がりま
す。余りいきおいこんで食べるものではなく適当に噛みちぎり口の中で味わうものらしいのです。僕は甘いものに目がありませ
ん。
食べる要領も分かったので、さて食べようとすると、奥さんが後ろの方からぱくついているのです。その口の大きいこと。のど
の奥まで見えます。僕も負けてはおれません。精一杯大きな口を開けて夢中になって食べました。前と後ろから大きな口がぱくつ
いたので、みるみるその大きな綿飴もやせ細ってしまいました。ご主人はと見るとミコちゃんとひろしくんから一口ずつ分けて貰
っています。ご主人一家はみんな大の甘党のようです。
綿飴で僕の疲れもふっとびました。食べおわって気付いたのですが、僕たちが綿飴を食べているところを五六人の人達が取囲ん
で見ていたのです。奥さんもなんとなくきまり悪そうな顔をしました。ご主人は、ポケットから地図帳を取りだして、港へはどう
いけばいいか回りの人にききました。するとみんな先を争って、ああいけばいいとかこういけばもっと早く行けるとか、大きな声
で説明を始めました。ご主人のポ―ランド語の能力ではどれ一つとして聞きとれないようでしきりに、
「ニェロズミエム(分りません)」
と繰返しています。
するとその中の一人が突然英語で、
「私が連れていって上げる」
といいだしました。頭はぼさぼさで黒い大きな眼鏡をかけた若い男の人です。ご主人は英語はさすがに分かったとみえて、税関か
ら送ってきた書類を見せると、
「僕、そこでアルバイトしたことあるよ。全然心配ない。車どこ。さ、一緒にいきましょ」
前に立って歩き始めました。ご主人と奥さんは顔を見合わせましたが、それほど悪い人でもないと見きわめたのか、黙って後につ
いていきました。車の助手席に座った後でその若い男の人は、
「僕、ジグムントといいます。大学二年生です。皆さん、日本人ですか。僕きっといつか日本へ行きたいと思っています」
と自己紹介しました。
ジグムントの案内で港の事務所へは、一五分もかからずに着きました。ジグムンドは、事務所までついてきて、係りの人にご主
人が船荷を取りに来たと説明してくれました。係りの人は、五十すぎの男の人でにこりともしないで、
「どうぞ。何時でも船荷を持って行ってくださってかまいませんよ。ただし、トラックは自分で手配して下さいよ。それにここで
は船荷は着いた順に送ってますからな。どこにあんたがたの船荷があるか私にはとんと分りません。どうぞ勝手に探し出して下さ
い。トラックに乗っけたら私に連絡して下されば、持出しOKのサインを私がやりますからな」
と言い終わるとさっさと事務所の奥へ引込んでしまいました。
「トラックまで自分で見つけなければならないのか」
ご主人が少し落胆したような声をだしました。ジグムントはしばらく考えている様子でしたが、
「うん、そうだ。なんとかなりそうだ」
そういうと両手をぱしっと叩き
「アハハハハ、アハハハハ」
突然、甲高い声で笑い出しました。余りに突然に笑いだしたので、ご主人一家だけでなく事務所の人達もみんなびっくりして一斉
に振返りました。
「いや―驚いたね。どうぞ、いつでも好きなときに持っていって下さいか。トラックも自分で見つけてくれだって。なんという自
由で親切な役所なんだろう。これだから、お役所は、みんなに愛されるんだ、全く。アハハハハハハ」
聞こえよがしにいうとジグムントは、ご主人の方に向きなおり、
「え―と、あなたのお名前は、何とおっしゃいますか。吉野さん? 吉野さん、ここでアルバイトしたときの私の知合いがトラッ
ク持っています。今度の日曜日はそのトラックがあくはずです。僕、運転できるから、そのトラック僕が借りてその船荷運んで上
げましょう。いいですか」
「いいも悪いも、ほんとにやってもらえるんですか」
「ええ、やります。やらせて下さい。それじゃ、僕、トラックを借りる手筈を整えにこれから直ぐ行く必要があるのでこれで失礼
します。どこのホテルに泊まりますか。話がついたら今晩でも連絡します。僕もここのお役人みたいにとても親切でしょう。アハ
ハハハ、アハハハハ」
ジグムントは、ご主人からホテルの名前を聞くと、
「それじゃ、みなさん、さいなら。船荷はちゃんと見つけておいてくださいよ。見つかんなきゃなんとかしますがね。アハハハ
ハ、アハハハッハ」
甲高い笑い声を残して行ってしまいました。
後には煙に巻かれたような顔のご主人一家がとりのこされました。
「一体、あのジグムントという人を信用していいのかしら。どうもあの高い笑い声が気になるわ」
「まあ、信用するもしないも自分でトラックを雇ってとなるとどうしようもないし、あの人に頼る以外に方法はないだろう」
「でも、どうやって船荷を探すの。一つ一つコンテナのラベルを見てまわるの、パパ」
「それがこまったな、とにかくコンテナヤ―ドに出てみよう」
道順を聞いてコンテナヤ―ドへ行きましたが、見渡す限りの広い場所にコンテナがところせましと置いてあります。
「なるほど、これだけ一杯たまっていたら、配達が一月、二月遅くなるのはあたりまえだな」
「この中から、一つだけ探しだすとなると、砂漠の中から一粒のダイヤを見つけだすようなものね」
「日曜日までまだ三日あるから、毎日ここへ来て朝から晩までコンテナを捜すことにしようか」
「つまんないの。せっかくバルト海で遊ぼうと思ってやって来たのに」
「ふ―ん、本当にどうしたものかね」
ご主人は、腕を組んで考え始めました。奥さんもあごに手を当てて考えています。ミコちゃんとひろしくんもつまらなそうに棒で
そこらをつつきながら、首をかしげています。僕は、みんなをそこに残したままそっとその場を離れました。
―ようし、
こうなったらやるしかありません。 僕は、コンテナが両脇に並べられたところまで走って行き鼻の穴を精一杯広げ注意深く当た
りの匂いをかぎはじめました。様々な匂いが漂って来ます。コンテナの中の匂いがほんの少し匂ってきます。僕は一個一個の
コンテナの中身をかぎながらそれでも小走りに走りつづけました。
とにかくこんなに一杯あるのですから、小走りで走っても一通りかぎつくすにはずいぶん時間がかかりそうです。でも一つ
一つのラベルを見て回るのに比べればものの数ではありません。ただ、一つでもかぎ損うと努力のかいがなくなる恐れがありま
す。僕は以前東京からポ―ランドに来る時にご主人のトランクをかぎ分けたことを思いだしながら、必死になってかぎ回りまし
た。
一列目、二列目、三列目が終わってもそれらしきものはありません。四列目がもうすこしで終りかけた時です。僕の鼻の先にな
んともいえない懐かしい匂いがほんの少し、ひっかかったのです。それは五列目の方からしてきます。僕はそれでも念のため残っ
た四列目のコンテナを全部確かめてから、五列目に向かいました。においは一足近づくごとに強くなってきます。間違いありませ
ん。五列目の端から四っつ目にそれはありました。
そこまで行くとまるで東京の我家のまん中にいるように濃い匂いがたちこめています。ご主人の匂いも、奥さんの匂いも、ミコ
ちゃんの匂いも、ひろしくんの匂いもかぎ分けることができます。ほんのすこしだけですが僕のにおいがします。ミコちゃんやひ
ろしくんと一緒に遊んだ時おもちゃについた僕の匂いです。
これで三日もここに来て、ラベルを朝から晩まで見て回る必要はなくなりました。ひろしくんもミコちゃんもバルト海で思いき
り遊ぶことができるでしょう。僕は全速力でご主人のいるところへ引返しました。走っていくと、ご主人一家がきょろきょろ辺り
を見回しているすがたが目にはいりました。きっと僕を捜しているに違いありません。僕は遠くから、
「ワンワン」
と吠えました。ミコちゃんとひろしくんが気づいて僕の方へ走ってきました。
「チビクロ、どこへ行ってたのよ。心配して捜していたのよ」
「チビクロ、また、迷子になったって、パパが怒っていたよ」
ご主人と奥さんが近づいて来ました。両腕を組んだまま一足一足ゆっくりと。目は怒りで四角になっています。きっとずいぶん捜
したに違いありません。なんといっても五列もあるコンテナをみんなかぎ回ったのですから。気がついてみると当たりはもう薄暗
くなりかけています。
「チビクロ、どこへ行っていた。この前は飛行場で迷子になるし、今度は二時間も行方不明。お前は賢い犬だと思ってどこへ行く
時も鎖もつけないで自由にさせているのに、こんなにちょくちょく信頼を裏切るようだと、やむをえず鎖をつけなければならない
ことになるよ」
確かに、僕はなにもいわずに姿をけしてしまったのです。でもどうやって僕がやろうと思ったことをご主人一家に伝えることがで
きたでしょう。僕はしょんぼりして下を向き、
「ク―ンクン」
と鼻を鳴らしました。
「今度だけは、見逃してあげるから、もう二度としないと約束しなさい」
「ワン」
僕は、大きい声で吠え、尻尾を思いきり振りました。
「でも、本当に良かったわ。こんなグダンスクなんかで迷子になったりしたら、もう二度と会えなくなるかもしれないと思って心
配したのよ、チビクロ。もう心配かけないでね」
「さ、チビクロ、一緒に帰ろう。もう迷子にならないようにあたしが抱いてあげるわ」
ミコちゃんが、手を差出しました。僕はその手を素早く逃れて後退りし、
[ワン」
となきました。
「どうしたのよ。パパが怒ったので、チビクロも腹をたてたの」
「ワンワン」
僕は、一生懸命尻尾を振りました。そして首を後ろになんどものけぞらせました。
「どこかへ連れて行こうとしているみたいだよ」
「そうね。チビクロ、どこかへ行きたいの」
「ワン」
僕は、尻尾をもっと思いきり振り、先に立って歩き始めました。ご主人一家は首をかしげながらその後をついてきます。ますます
日がくれて来ました。
「一体、チビクロはどこへ行く気かしら」
やっと微かに一家のコンテナの匂いがしてきました。僕は歩みを早めました。
「チビクロ、どうしたんだい。そんなに早いと追いつけないよ」
でも、早くしないと日が暮れてしまいます。そうするときっとラベルの文字が読めなくなってしまうかもしれません。そうしたら
せっかく見つけたのに、ご主人一家はそれに気づかずに帰ってしまうことになりかねません。もう僕は、走りはじめました。みん
なも必死になって僕を追いかけて来ます。それでもその間がかなりついてしまいました。僕はご主人一家のコンテナの前に行き、
振返って、
「ワンワン、ワワ―ン」
と吠えました。
みんな息を切らしながらそこへやって来ると、
「フッフッフッ」
と肩で大きく息をつき、
「どうしたのチビクロ、ここになにかあるの」
と尋ねました。僕はご主人一家のコンテナのラベルのところに鼻をおしつけ、
「ワンワン」
と吠えました。
「なんだか、このコンテナのラベルを読ませたいみたいだな」
ご主人がラベルをのぞき込みました。
「少し暗くて読みづらいな。どれどれ五―A ウリツア クラシキエ―ゴ ワルシャワ ポ―ランド ミツボシショウジキヅケ
ミスタ―ヤスオ・ヨシノ。ミスタ― ヤスオ・ヨシノ。こ、これは、僕あてのコンテナだ」
ご主人が、飛上がりました。
「まさか」
奥さんがラベルに顔を押つけました。
「本当だわ。我家のコンテナだわ」
奥さんは信じられないといった様子でご主人の顔を見ました。
「バンザ―イ。わたしたちのコンテナが見つかったんだ」
「チビクロがわたしたちのコンテナを見つけてくれたんだ」
ご主人と奥さんは、僕をぼんやりとした顔で見下しました。まるで気の抜けた顔です。どうしたのでしょう。せっかくコンテナが
見つかったというのに。嬉しくないのでしょうか。
「ワン」
僕は、精一杯尻尾を振りました。
「チビクロ、悪かった。さっきはお前のことを怒ったりして。許しておくれ。お前がコンテナを捜しに行ったとも知らずに…」
ご主人と奥さんはしゃがみこむと僕を抱きあげ、僕の顔に顔を押つけました。もうすっかり暗くなっていたのでご主人の顔は見え
ませんでしたが、その声がなんだか涙声なので僕はご主人の顔をなめてあげました。いつだったか東京でご主人のお母さんのほっ
ぺたをなめてあげた時と同じ味がしました。きっと親子ですから、ほっぺたの味も似ているに違いありません。
その夜は、グダンスクの隣のソポトという町のホテルに泊まりました。バルト海に面しているということでしたが、もう暗くな
っていたのでなにも見えませんでした。夕食を終えて部屋に戻るとちょうどジグムントさんからトラックの手配がついたという電
話が入りました。
「いや―それがワルシャワまで走るかどうかっていう位のポンコツのトラックでしてね。途中でエンコしたらはいそれまでよ。そ
れでもここらじゃ一番の新車なんですよ。アハハハ、アハハハ」
例の甲高い声で笑っています。きっとあれは癖なのに違いありません。
コンテナは見つかったし、トラックの手配はついたし、もう何の心配もありません。
ホテルの部屋にはまるでプ―ルのように大きなお風呂がついていて、僕がすっぽり入れそうなほど大きな蛇口からお湯がほとば
しるように出てきます。そこでその夜は、湯船一杯に溢れるほどお湯を入れて久し振りにご主人一家と一緒にお風呂に入り、今日
一日の長い旅の疲れをいやしました。早めに休みましたが、心配ごとがなにもないせいか、すぐに寝つくことができました。
グダンスクに着いた日のうちに、船荷のコンテナも見つかり、トラックの手配もすんだので、ワルシャワに出発する日曜日までの二日間はのんびりと過ごすことができました。ホテルの前はすぐバルト海でしたので、海を見たり、砂浜で砂遊びをしたり、海の中に長く突出た遊歩道を散歩したり、海岸にあった、人間が駒の代りになれるほど大きなチェスの盤の上で、じんとりごっこをしたりして遊びました。
バルト海の水は黒っぽい緑色をしており、入ると凍えるくらい冷たい水でした。こげ茶色の海藻が波打ち際まで一杯漂っていました。砂はきめが細かく少し茶色っぽい色をしていました。
グダンスクやグジニアやソポトの街へもドライブに行き、古い建物をいろいろ見てまわったりしましたが、郊外へ出てリンゴの花の咲く田舎道を思いきり走りまわったのが一番すてきでした。
日曜日の朝五時、いよいよワルシャワに向けて出発しました。
ジグムントさんは手伝いの仲間を三人つれてやってきました。乗ってきたトラックは、ご主人がこれは三十年も前のスタイルだな、ボンネットが前に突きでていて、良くこんな車が走れるなあ、というほどのトラックでした。そこでご主人の車が前を走り、ジグムントさんのトラックが後ろからついて走ることになりました。
グダンスクの街を出たか出ないうちに、トラックの影も形も見えなくなってしまいました。あわてて引返すとトラックは、エンジンが故障して道路のかたわらに止まっています。ジグムントさんがボンネットの上に乗ってドスンドスンと二度ほどジャンプするとやっとエンジンがかかりました。
なんとこんなエンジンンの故障がワルシャワに着くあいだに三五回もありました。おまけにタイヤのパンクが六回もありました。そこで僕は見張り番を買ってでました。トラックが止まると、すぐさま、
「ワン」
と吠えて知らせるのです。四一回も途中で止まったのですから、僕はゆっくりと回りの景色を楽しむどころではありませんでした。
トラックをじっと見ているうちに、そろそろエンコしそうだなと分るようになりました。ジグムントさんがあわててあちこちのノブやレバ―をひっぱりまわし始め、最後にハンドルを両手でパンパンと叩くと決ってトラックはガクンと止まってしまうのです。僕はジブモントさんがハンドルをパンパンと叩いたとたんに
「ワン」
とないて知らせることにしていましたが、一回だけジグモントさんがハンドルをパンパンと叩いたら急にまたトラックが元気良く走りだしたことがありました。ご主人に、
「チビクロ、ちゃんと止まってから知らせてくれよ」
と注意されてしまいました。だから、それからは一層注意深くトラックの様子に目をこらせていました。
トラックがエンコするたびにジグムントさんはボンネットの上に飛乗り、ドスンドスンとジャンプします。これがトラックの持主から教わったエンコを直すためのひでんなのだそうです。最初の故障の時は二回だけジャンプすれば良かったのですが、三五回目の時は、二〇回ほどジャンプしなければならなくなりました。そこでミコちゃんもひろしくんもエンジンが止まる度に一緒にボンネットの上に乗ってポンポンと飛びはねました。僕も一緒に飛びはねたかったのですが、ボンネットが高くてあがることができなかったので、下から見上げていました。
「まるでタンブリングみたいだね」
二人はどれだけ高く飛上がれるか競争を始めました。ジグムントさんも負けていません。時々エンジンが掛かったのも忘れて空高く何時までも飛びあがっています。もともと凸凹だったボンネットが、こうしてすりこぎで叩いた鍋の底のようになってしまいました。
そんなわけで、せっかく朝早く出発したのに、ワルシャワの家に着いたのは、もう夜の一二時を回っていました。ぐっすり眠り込んでいたミコちゃんとひろしくんは車の後ろのベッドからご主人に抱かれて自分たちの部屋のベッドヘはこびこまれました。奥さんも私もう眠くて駄目といって寝室に閉じこもってしまいました。それからジジグムントさんと連れてきた三人の手伝いの人がコンテナを下し、船荷を一つ一つ家の中に運びこみました。ご主人は荷物の置く場所を指示しています。僕は夜は強いので一部始終を見物していました。
作業が終わったのは、もう夜明けに近い時間でした。ご主人が、みなさん、疲れたでしょうから一休みしていって下さい、といいましたが、ジグムントさんたちは僕たちは若いですから大丈夫ですといって、すぐ帰ろうとします。
「でもこの車だとこれからグダンスクに帰るのにまた丸一日掛かりますよ、ちょっと休んでいったほうが良くはないですか」
ご主人が勧めたのですが、
「このトラックはね、荷物さえなんにも乗せなければ、時速百キロメ―タ―でふっとばしても大丈夫なんですよ。それに持主に早く返さなくちゃならないです。こんなオンボロトラックでも、グダンスクじゃ、引く手あまたの人気者なんですからね。今から出発すれば昼前にはグダンスクに着きますよ。どうぞご心配なく。それにしても荷物が嫌いなトラックなんて面白い性格のトラックでしょう、アハハハハハハ」
ジグムントさんは例によって甲高い笑い声を後にして出発していきました。
船荷が着いてもう三日目になりますが、家の中は、どこもかしこもダンボ―ルの箱や梱包された荷物や家具で一杯です。まるで迷路のようです。なんとなくわくわくして来ます。つい先ほどアメリカスク―ルや幼稚園から帰って来たミコちゃんもひろしくんも同じようです。もう我慢できなくなって、かんせいを上げて、荷物の間を走りまわり始めました。僕も、その後を追っ掛けました。
「ほらほらそんなに走りまわったりしたら、片づけられないじゃないの。邪魔だからお外で遊んでいらっしゃい」
奥さんが大きな声を張上げました。ミコちゃんもひろしくんも黙って大きな荷物の後ろに隠れます。
「つまんないわ、せっかく船荷が着いたのにわたしたちの物はまだなんにも出てこないんですもの」
「そうだよね、ママやパパのものばっかり先なんだから」
奥さんは、台所でユラと一緒にせっせと荷物の包装をといています。中から日本食器が出てきました。
「あら、良かったわ、全然割れてないわ」
ユラは、様々な形をした食器が次々に出てくるのに目を丸くしています。
「マダム、どうしてこんなにいろんな形をした食器があるんですか。ポ―ランドでは平たい皿と少し底の深いス―プ皿くらいしか使わないのに」
「日本料理は、器で食べるというくらい料理によって違う食器をつかうのよ。これがちゃわんむし用、これがおしたし用の小鉢」
「ふ―ん、この小さな器はなんですか」
「これはお刺身用の醤油皿よ。日本人は魚を生で食べるときに、この皿にお醤油を入れてつけて食べるの」
「お魚を生でたべるんですか」
「そうよ、今度ユラにも御馳走して上げるわね」
「マダム、私は魚は生では食べません。結構です」
「それが結構美味しいんだから」
奥さんとユラはおしゃべりをしながら、一つ一つの食器の包装をていねいに解いています。
「あの調子じゃ、僕たちの物の番になるのはずいぶん先になるね、ミコちゃん」
「そうね、あと三日はまたなくちゃ駄目のようね」
「ダンボ―ルになにがはいっているか、書いてあればいいのに」
「洋服とか食器ぐらいなら書いてあるのよ。でもだれの洋服かはあけてみなくちゃ分らないみたいなの。少し能率が悪いわね。箱に詰めるとききちんと書いとけば良かったのよ」
[でも、いそがしかったんじゃないの」
「それもそうね」
「僕たちのおもちゃは一体どの箱にはいっているんだろうな」
「私は最初に春もののお洋服がいいな」
「僕は断然、おもちゃ。早くウルトラマンやロボットがでてこないかな」
「私は、洋服、今日でてきたら明日から着ていけるのに」
僕がこの前のようにミコちゃんたちの欲しいものの入った箱を捜して上げようと思いついて、早速実行に取かかろうとしたとき、
「そうだわ、チビクロに頼んだらいいわ」
「なにをミコちゃん?」
「チビクロにわたしたちの物の入った箱を捜しだして貰うのよ」
「うんそれはいいね。チビクロ、僕のおもちゃの入った箱はどれか捜しておくれよ」
「私のお洋服の入った箱はどれ、チビクロ」
広いコンテナ置場でご主人一家のコンテナを捜しだしたのに比べればなんでもありません。ひろしくんのおもちゃの入った箱は、居間のちょうど真中あたりにありました。ミコちゃんの洋服の箱は、階段の上がり口で見つかりにました。どちらの箱も二人の背丈ほどもあります。
二人は、それぞれ椅子を持って来て、その上に乗り、必死になってダンボ―ルのガムテ―プをはがし始めました。
ビリビリビリビリ。真剣な顔です。どっちが早いか競争です。まず縦のガムテ―プをはがし、次に横のをはがします。ふたのあわせめにはってあるのが一番はがすのが骨のようです。ミコちゃんは工作用のカッタ―で切っています。ひろしくんのほうは、はさみを使っています。ほとんど同時にダンボ―ルのふたが開きました。二人の目が輝いています。
「やった―!ウルトラマンだ」
「まあ嬉しい、水玉のワンピ―スだわ」
二人が小躍りして喜んでいるのを聞つけて、奥さんが台所から出てきました。
「二人でいったいなにしてるの」
「ママ、僕ウルトラマン見つけちゃった」
「私も、明日アメリカスク―ルに着ていく水玉のワンピ―ス見つけちゃった」
「まあ、あなたたち、良くこんなにたくさんある箱の中から、自分たちの欲しいものの入っている箱を見つけだしたわね。一体どうしたの」
「それは、ここを使ったのよ」
ミコちゃんが、人差し指で頭をポンポンと叩きました。
「あっ、分かった、チビクロにたのんだんでしょ」
「正解」
「アタリ―」
「そうか、その手があったわね、私もチビクロに頼みたいものがあるわ。今晩のおかずに、すきやきをやりたいんだけど、はるさめがどこにあるか分らないの。ちょっと教えてくれない。あ、それにチビクロの好きなお豆腐の素の入った箱もね」
おもちゃや洋服に比べたら、食べ物はもっと簡単です。僕はあっというまにさがしだしました。
それからというもの、船荷が片づくまで、僕の鼻が何度お役にたったことでしょう。
それでも収まるべきところに収まるべきものが収まったのはそれから二週間もたっていました。それに、奥さんは一度しまってしまうとどこにしまったのか忘れてしまうらしくて、あれは一体どこにしまったかしらと僕に聞くのです。僕の方は別に鼻にたよらなくてもちゃんとそれくらい覚えていましたから、何時も真直ぐその品がしまってあるところへ案内して上げました。
その間に電動ミシンの事件がありました。いえ、事件というほどのことはないのですが、電動ミシンの荷解きは済んだものの、さて二階に置こうという段になって、ご主人と奥さんでは重くて二階に運ぶことができず、翌朝やってきたユラに手伝ってくれるように頼んだときのことです。
ユラはちょっとミシンを見るといきなり両手でひょいと持ちあげ、自分のおなかの上に載せると、そのままらせん階段を昇り始めたのです。ご主人と奥さんがポカンと口を開けて見上げるなかを、ユラはしっかりした足取りで途中で休むでもなく、二階まで持ちあげ、涼しい顔をして階段を降りてきました。そのときご主人は恥かしそうな顔をして俯つむいていました。
「これでやっとみんな収まるところに収まったわ」
船荷の最後のダンボ―ル箱から出てきた花瓶を玄関の電話の側にあるサイドテ―ブルの上に飾り終わると、奥さんが嬉しそうに言いました。船荷がついてから、もう三週間以上もすぎていました。
[さあ、みんないらっしゃい。一緒に家中を見てまわりましょうよ」
丁度日曜日でしたのでご主人もミコちゃんもひろしくんも居間のソファに寝そべったり、本を読んだりしているいるところでした。僕もソファの足下でコックリコックリと船を漕いでいました。でもこれまで一人忙しく働いていた奥さんの提案に逆らうわけには行きません。みんなしてぞろぞろと一階から三階まで見てまわりました。
三階の一番奥にある納戸から始めました。そこには日本から着いたしいたけやかんてんなどの乾燥した食品がいっぱい置かれています。それに三年分のミコちゃんたちの下着や奥さんのストッキング等も区分棚にきちんと整理されています。
納戸の手前の部屋はさしあたりご主人の書斎に使うということになっているようですが、そこには大きな本棚があり、日本語の本がいっぱい並んでいます。ご主人は本好きなのでたくさん持ってきたのです。日本を立つまえに家族のめいめいに三年分の本を買いこんできたのです。近くの本屋へいっては両手に本のびっしり入った大きな紙袋を下げて帰ってきたことが何度かありました。だからたとえばひろしくん用には、五歳用の絵本から八歳用のグリムの童話全集まで揃っているという具合です。もちろん小学各学年用の国語とか数学の参考書やドリルまで三年分あります。学習辞典や図鑑や百科事典もちゃんと並んでいます。
ご主人は、
「ポ―ランドに行ったら本をたくさん読むぞ」
と宣言していましたからいろんな本が並んでいます。東京の家の本棚に並んでいたのものもあれば、はじめておめにかかるのもあります。難しそうなものの横にはちゃんとずいぶんと軽そうな本も並んでいます。ご主人はピカピカ輝いている英語の本の並んだあたりを指差しながら、
「おりがみや日本の子供の遊びや版画や禅や日本の景色、国宝、美術品、そのほか色々と日本のことをポ―ランド人や外国の人に紹介する本をたくさん持って来たので、お友達に興味のある人がいたら、見せてあげなさい。英語が分らなければ駄目だけど、でもカラ―の写真がどれもいっぱい入っているから見るだけでも結構楽しいよ」
「そうだね。僕この前幼稚園に自動車の図鑑を持っていったらみんな喜んで見てたよ。日本語が分らなくても絵を見るとわかるもん」
三階から二階へ降りる階段は少し急で狭いので一人一人手摺につかまりながら降りなければなりません。僕もこんな急な階段は苦手です。昇りならともかく下りとなると、一段一段降りるか、一気に転げ落ちるようにして降りるかのどちらかです。みんなと一緒ですから転げ落ちるわけにもいきません。慎重に降りることにしました。
二階のご主人と奥さんの寝室に入ると、奥さんが嬉しそうに洋服タンスの扉を左右にぱっと開きました。このタンスも東京から持ってきた奥さんの嫁入り道具です。そこにはポ―ランドに出発前に奥さんがご主人に何やかやとねだって作って貰ったドレスがずらりとならんでいます。日本では一度も着たこともないような派手な色のもあります。ご主人がこんな派手なのをというのにも奥さんは外国では派手な方がいいのよといったのを思い出します。でもそれは奥さんの方が正しかったようです。
「新品ばかり、こんなに揃ったことなんてこれまで一度もなかったわ。早くこれを来て、どこかにお呼ばれしてみたいわ」
奥さんはその中の一着を取りだすと、それを体に合せながら、大きな姿見の前でダンスのステップを踏みました。顔は夢見心地で薔薇色に輝いています。
ご主人用の洋服は奥さんの洋服の数に比べると、霞むほどです。それにどれもこれも同じようなスタイルで色も似たりよったりの物ばかり、見栄えがしません。ミコちゃんの部屋へ行くとミコちゃんが洋服ダンスを奥さんと同じ様に開いてみせました。ミコちゃんのもご主人に比べるとカラフルで形も色々と違っています。
「この前この赤いスカ―トはいていったら、みんなどこでかったのって大変だったの。マリアなんか取りかえてですって」
ミコちゃんは目をきらきら輝かせながらいいました。机の上を見ると船荷でついたこけしやフランス人形がポ―ランドで買ったポ―ランド人形となかよく並べてあります。
ひろしくんの部屋にいくとひろしくんが得意そうに見せたのは、ウルトラマンやキカイダ―、それにミニカ―やレゴのいっぱい入った大きなおもちゃ箱でした。それを絨毯の上にひっくりかえして、一つ一つ説明をはじめました。
「ウルトラマンはね、こうやってヘンシンするんだよ」
そういいながらひろしくんはベッドの上に乗り、目の前で両手で十字を切り
「ヘンシ―ン」
とさけびながら飛び降りました。ところが、床に敷かれていた小さな絨毯が滑ったので、ひろしくんはすとんとしりもちをついてしまいました。
「アッ、イタ―イ」
今までの得意そうな顔が、たちまちしかめっつらに変身しました。
二階から一階へは緩かならせん階段ですから降りるにもそれほど苦労はいりません。ゆっくりと降りていくとシャンデリアのある広い居間に繋がっています。居間のサイドボ―ドにも日本から着いた銀製の扇の飾りやしっきの壷が飾られ、ワインク―ラ―には、日本酒や日本製のウイスキ―が並んでいます。応接セットにも、日本から持って来たぼたんの柄のクッションが置かれ、センタ―テ―ブルには日本製のセンタ―クロスや灰皿とライタ―の煙草のセットが置かれています。煙草入れにはもちろん日本製の煙草が入っています。部屋の片隅に日本製のステレオセットが置かれています。
「せっかくだから、日本から持ってきた歌謡曲でもかけましょうよ」
奥さんが大好きな若い男性歌手のテ―プをかけました。奥さんときたら毎日少なくとも三回はこのテ―プを聞いているのです。みんなちょっとうんざりしたような顔をしましたが、口には出しませんでした。
「あたし、ピアノがほしいな。習いたいの。この居間は大きいから、グランドピアノでもおけそうよ」
「同じ商社の太田さんのところでは娘の美香ちゃん用にピアノを借りているらしいから、今度パパがきいといてあげるよ。ピアノを貸す大きな店があるらしい。ポ―ランドは音楽が盛んな国だからきっといい先生もおおぜいいるだろうし、それじゃ家族揃ってピアノのレッスンを受けることにしようか」
「それもいいけど、私子供の頃習ったことがあるから、四人一緒じゃまずいわ。私は、別格ってところね」
「ママなんかすぐ追抜いちゃうから」
「その意気、その意気」
歌謡曲を聞きながら今度は食堂へ行きました。そこには日本製の電気釜、庖丁、食器、鍋、がところせましとならんでいます。壁には東京の家の台所にあったカレンダ―まで飾ってあり、奥さんの特徴のある大きな字で色々と書きこんであります。きっと、毎日のお仕事の段取りを書きこんでいるのでしょう。
最後に地下に行きました。地下の入口はらせん階段と居間の間にあり普段はカ―テンの陰になっていて見えません。ドアを開け鍵型になった階段を降りると地下室に出ます。降りたところはガレ―ジになっており、ご主人のプジョ―がでんと構えていますが、その向う側に食糧庫があります。もっとも、そのプジョ―の後ろのところはもう一台車が入るようになっており、そこは洗濯物を干す場所に使われています。ポ―ランドでは空気が乾燥しているので地下室でも乾かせるのです。食糧庫には、醤油や味噌をはじめ日本食品の缶詰やお酒が溢れています。これも三年分ですから大変な量です。
「こんなに食べられるかな」
「なにしろ三年分だからね。三年たったらたりなくなっているかもしれないよ」
「でも、持ってきて本当に良かったわ。ポ―ランドには日本食品がないってきいてはいたんだけど、これほど徹底しているとは思わなかったわ。」
「ホント、日本食はめったに食べられないけど、カップヌ―ドルだって今や大御馳走だわ」
「僕は、インスタントラ―メンの方がいいな」
「ここにある日本食が我家の命の綱ってわけね。せいぜい大切に食べましょうね」
「さてと、これで船荷の収まり具合を一わたり見終わったってわけだ。トモコが頑張ってくれたおかげで、家中足のふみばもないほどあったダンボ―ル箱がすっかり片付き、中身も全部収まるところに収まった。本当にご苦労さん。今日は一日ゆっくり休んだらどうだい。僕がお茶でも入れてやろう」
「あら、嬉しいわ。でも雨が振ったりしないかしら」
「イッタナッ!」
ご主人がふざけて奥さんの頭にげんこつをかざしました。
「クワバラ、クワバラ」
奥さんは、両手で頭を庇いながら食料品のかげに身を潜める振りをしました。
「これだけたくさんあると食べ物のかげに隠れてかくれんぼができそうだね」
「ひろしくんなら、十人分隠れられそうね」
「ミコちゃんだって、五十人分隠れられるよ」
「あたしなんかせいぜい五人分よ。チビクロなら百ぴき分だけどね」
確かに僕なら百ぴき分隠れられそうです。でもこんないい匂いのする部屋でかくれんぼをするのはごめんです。なまつばをのみこむ音ですぐ見付かってしまうに違いありません。
食糧庫を見終わるとみんなはぞろぞろと、地下からの階段を昇りはじめました。階段のすぐ右側に僕の部屋があるというのに。僕は僕の部屋の前に立止まり
「ワン、ワン」
と吠えました。 みんないっせいに振返りました。
「そうだ忘れてたわ、チビクロの部屋も見てあげなくっちゃね」
みんな降りて来ました。僕はみんなより一足先に部屋に入り、段ボ―ルでこさえた小屋のなかに入り両足を揃えてみんなを待受けました。
「おや、チビクロの小屋もなかなか良くなったじゃないか」
「ほら、チビクロの小屋も日本製の段ボ―ルでつくったんだよ。それに寝床にも日本製のタオルのおふるを敷いてあげたんだ」
「あたしが、ここにチビクロのおうちって、日本語と英語とポ―ランド語で書いてあげたの。日本製のマジックインキでね」
「チビクロも日本が懐かしいでしょうね」
「ワン、ワン」
僕は盛んに尻尾を振りました。
居間への階段を上がりながらご主人が言いました。
「これで僕たちのポ―ランド生活もいよいよ軌道に乗ったって感じだね」
「そうね、東京のおうちにあったものをそれこそなんでもかでも持ってきたでしょ。台所のカレンダ―まで。それが良かったみたい。これだけ東京のうちにあった物に取りまかれると、ふっと東京の家にいるような気がして、なんとなく落着くの。この家に住んでいてもこれまで自分の家じゃないみたいだったんだけど、やっと自分の家だなって実感が湧いてきたわ」
「あたしも、そう。どこからともなく東京のおうちの匂いがするでしょ。すると凄く安心なの」
「僕も、ウルトラマンがいると、元気がでちゃうんだ」
「それじゃ、ポ―ランドにやっと我家らしい我家が出来たのを記念してなにか記念行事をやろうか」
「私、いい考えがあるの。大パ―ティを開かないこと。これまでお世話になった方々をお呼びして、日本料理を御馳走するのよ」
「賛成」
「僕も、賛成」
「ワン、ワン、ワワン」
「よし、それではポ―ランドで最初のパ―ティを大々的に開いて新しい生活の門出を祝うとしよう」
階段を上がり終わらないうちに、大パ―ティを開く話がまとまっていました。 ご主人がいれたお茶をのみながら、みんなで居間のソファに座り、誰を呼ぶか、という話が始まりました。
「とにかく、我々一家がこれまで色々とお世話になった人を出来るだけ多くよぶことにしよう」
「それじゃ、めいめい自分がお世話になった呼びたいとおもう人を明日までに考えておくことにしたら」
「うん、じゃ、そういうことにしよう」
「あたし、ノ―トに書いておくわ」
「う―ん、僕は頭の中でおぼえておくぞ」
「パ―ティを開く日は、二週間後の土曜日ってことでどうだい」
「賛成、賛成」
話は、まとまったようです。でも、僕は少し気掛かりです。僕が色々とお世話になった人も呼んで貰えるのでしょうか。
「ワン」
僕はご主人の顔を心配そうに見上げました。
「なんだ、チビクロ。ああ、チビクロもお世話になった人をよびたいんだね。 それじゃ、こうしよう。私が明日までにちチビクロの分まで考えて置くけれど、もし、それで不十分の場合は、お前の欲しいだけ招待状を上げるからお前はそれを持ってその人に直接届けたらいい」
いつもながら、ご主人は僕の気持ちをすぐ察してくれました。僕が尻尾を千切れるほど振ったのは言うまでもありません。
その日の午後、近所の子供たちが遊びに来ました。日本から来たおもちゃや絵本はもう近所の子供たちに知れ渡り大人気なのです。
ミコちゃんの部屋では、モニカとイレ―ナが、ミコちゃんに折がみの作り方を習って夢中になってつるを折っています。ひろしくんの部屋ではタデウシュとカロルとヘンリックが、レゴで大きな宇宙基地を作っています。モニカはミコちゃんと同じ年で左斜め前の家の子です。色白で金髪、少しはにかみやですが、凄くやさしい子です。僕を見付けるといつも、
「チビクロ、元気?」
と声を掛けてくれます。イレ―ナはミコちゃんより一つ年上で、タデウシュとカロルのお姉さんです。下に弟が二人いるせいか、とても気が強くて、少し男っぽい顔付きをしています。まん丸い顔で髪の毛は少し赤みをおびています。
タデウシュはミコちゃんより一つ下で、カロルはひろしくんと同じ年です。お姉さんのイレ―ナに似てまん丸い顔をして体はこぶとりでがっしりしています。胸の厚みはひろしくんの二倍ほどもありそうです。二人とも目がキラキラしていて、 そうとうないたずらこぞうです。時々ごみ箱をひっくりかえしたり、小猫を高い木の上に昇らせて喜んだりしています。僕も通りにこの子たちがいるときは自分だけでは余り近寄らないようにしています。この三人の姉弟は、斜め前の家に住んでいます。
ヘンリックはタデウシュと同じ年で、二軒左隣の大きな家に住んでいます。お父さんがカナダに住んでいたことがあるので英語が話せます。背がすらりと高くて、薄い金髪、顔にはソバカスがたくさんありますが、賢そうな顔付きをしています。あまり笑ったりしないので少々生真面目な感じがしますが、通りで会うと、
「チビクロ、今度飛行機のタダ乗り法を教えてくれよ」
とか、
「まだ、料金はとりにこないのかい」
とか冗談をいいます。結構おもしろい子供なのです。 しばらく部屋で遊んでいるうちにひろしくんの部屋に置いてある妙な物をカロルが見付けました。
「一体このみょうちくりんな物はなんだい」
「大きな手袋みたいなものと小さなゴムのボ―ル。まさかサッカ―には使えないし」
「この棒は何に使うの。太いところと細い所があるし、これでなにか叩くの」
船荷のなかに、バットが一本、ボ―ルが二つ、グロ―ブとミットがそれぞれ二つずつ入っていたのです。ポ―ランドではサッカ―はとっても盛んで、タデウシュ兄弟やヘンリックも草っ原でしょっちゅうサッカ―ボ―ルをけって遊んでいますが、ポ―ランドには野球がありませんから、何に使うか分らないのです。ひろしくんがこれは野球というとてもおもしろいゲ―ムにつかうんだよと説明しても、みんななかなか分りません。とうとうミコちゃんの応援を頼みました。ミコちゃんは、女の子ですが日本にいたとき、野球を実際にやったことがあるのです。ひろしくんはテレビで見て知ってはいるのですが、まだやったことは本当はないのです。
「口で説明するより、実際にやってみせた方が早いわよ。みんな一緒にお庭で野球をやりましょうよ」
そういうことで、みんなで、庭で野球をやることになりました。ミコちゃんとひろしくんが先生役です。でも先生役とはいいながらミコちゃんにしてもそれほどうまくありません。しかし、ひろしくんに比べればミコちゃんは相当うまいようです。ミコちゃんが打ち、ひろしくんが拾って、みんなに教えることになりました。ミコちゃんが打ったボ―ルをひろしくんが
「ボ―ルはこうやってひろうんだよ」
といいながらグロ―ブを差出すのですが、ボ―ルの方は決ってその下をくぐり抜けてしまうのです。見ていて僕ははがゆくて仕方がありません。僕はひろしくんのすぐ後ろに待構えていて、ひろしくんが後ろにそらしたボ―ルをすばやく口にくわえて、ひろしくんに届けることにしました。いつだったか、ユラさんを相手に、ソ―セ―ジを空中でパクリパクリと受止めた腕前、いえ口前ですから、ゴロなんてたいしたことありません。右に走り、左に走り、みんな掴まえてしまいました。
みんなが応援してくれるので、いい気持です。ミコちゃんも、ひろしくんそっちのけで、僕めがけてかなり難しい球を打ってきます。ときにはライナ―性の当たりもあって飛付くと、勢い余って、芝生の上で体が二三回転したり、歯が痛む時もあるのですが、負けてはおれません。地上から一メ―トルもある球に飛付いてとった時にはパチパチと拍手が湧きました。
「僕、つまんない。もうやめた―っと」
ひろしくんがグロ―ブを芝生の上に投出しました。 どうも僕は少しでしゃばりすぎたようです。僕はひろしくんが投捨てたグロ―ブを口にくわえてひろしくんの後を追いました。ひろしくんの前に回り、グロ―ブを押付けましたがひろしくんは、ぐいぐいそのまま進んできます。僕は身をよけ、また先回りして、グロ―ブを押付けます。でもひろしくんは見向きもしないで、そのまま庭に面したテラスから家のなかに入っていってしまいました。
「チビクロ、ひろしくんのことなんか構わないでいいのよ。我がままいってるんだから。こっちへいらっしゃい。ほらみんなと一緒に野球やりましょうよ」
近所の子供たちは、すこしずつこつが分かって来たとみえてキャ―キャ―はしゃぎながらボ―ルを追いかけたり、バットを振回したりしています。でも、やはりミコちゃんが一番じょうずです。僕は、みんなのところに戻り野球の輪のなかに入りましたが、なんとなく力がでません。時々つまらないエラ―もしてしまいます。
「チビクロ、どうしたの。ちゃんと取らなきゃ、だめじゃないの」
僕ももうやめたっといいたい気持ちになった時です。テラスのところにひろしくんが姿を現しました。きまり悪そうに下を向いたまま、みんなの方へすこしずつすこしずつ近付いて来ます。僕は側へ走って行こうかと思いましたが、さっきのこともあるので気付かない振りをしていました。と、すぐ目の前にボ―ルがとんできたので慌てて飛付きました、が、いきなりボ―ルのバウンドが変ったので、よけそこなって頭に当ててしまいました。
「キャン」
僕は芝生の上にひっくり返ってしまいました。目の前が少し暗くなりチカチカと星が光りました。
「チビクロ、大丈夫?」
僕を抱上げてくれたのは、ひろしくんでした。ひろしくんの心配そうな目が僕を覗き込んでいます。本当にたいしたことはないのです。
「ウ―ウ―」
僕は、ひろしくんの手をなめました。僕の頭をさすりながら、ひろしくんは僕の耳元で小さな声でいいました。
「チビクロ、さっきはごめんね」
僕はひろしくんのほっぺを舌を出来るだけ長くだしてなんどもなんども、なめました。
その日は暗くなるまで、みんなで野球をして遊びました。帰り際に、ミコちゃんとひろしくんが、近所の子供たちを、二週間後のパ―ティに是非来るように早速招待しました。みんな口を揃えて
「ありがとう。喜んで」
と答えました。モニカとイレ―ナは、スカ―トのすそを指先で持ちあげちょっと膝をまげるしぐさをしながら。僕はこのしぐさが大好きなので、口を開けて見とれていました。
二週間なんてあっという間です。たちまち、大パ―ティの日になってしまいました。僕は今日本製のダンボ―ルで作って貰った寝床の中でこの2週間の出来事を色々と思いだしているところなのです。まだお日さまが昇ってくるには少し時間がありますが、僕はうきうきしてとてもねむっておれないのです。
とにかく忙しい二週間でした。やることが山ほどあったのです。ご主人や奥さんだけでなく、ミコちゃんもひろしくんもそれぞれ目の色を変えていました。呼ぶ人のリストづくりから、招待状の発送や電話での確認、料理用の材料の手配、ケ―キやポップコ―ンやコ―ラなどの買入、大勢呼ぶので部屋やテラスや庭のお掃除、片付けや飾り、子供たちようのゲ―ムやお土産の準備。一つ一つ手際良くやらないととてもこなせません。 呼ぶ人のリストをきちんと作るだけでも簡単ではありませんでした。
みんなが呼びたい人のリストをご主人に提出し、ご主人がだぶった人がいないかをチェックした上で、それぞれ手分けして招待状を書き、配ったのです。アメリカンスク―ルや幼稚園の友達や先生を呼ぶときにはミコちゃんやひろしくんがそれぞれ持っていって手渡しました。郵便でも送りましたが、宛名がはっきりしない人にはご主人が車で配りました。僕はそのとき一緒に付いて行きました。僕はその家の前にいくだけで留守なのか、だれか家にいるのか分るのでご主人にとっても便利なのです。
奥さんは日本料理を御馳走しようというので、色々と手を尽くして材料を集めました。刺身を御馳走するため、ワルシャワ中の魚屋さんを探しまわりましたが、刺身に出来るような魚は見付かりませんでした。がっかりしていましたが、ご主人の会社の人が丁度西ベルリンへ車で出掛ける用事があったので、その人に頼んでまぐろとはまちを買って来て貰いました。こちこちの冷凍まぐろでしたからもう三日も前から解凍に掛かっています。奥さんはチラシズシやノリマキ、テンプラ、ほうれんそうのオシタシ、にしんのヌタ、ちゃわんむし、チキンのからあげ、とんかつなどのメニュウを作りその材料をユラさんと手わけして買い集めました。なにしろたくさん呼ぶので、市場にいって買おうとすると、
「おくさん、それはなにかの間違いではないですか」
と売子が注意してくれるのだそうです。いつだったか五百グラムのつもりで五キログラムもお肉を買ったり、その後もさくらんぼを四キロも買ってきた前歴がありますから、お店の人も心配してくれるのでしょう。奥さんは買い集めた材料の一部を使って毎日日本料理の作り方をユラさんにてほどきしています。ユラさんはのみこみがいいようです。それにお醤油の味が大変気にいったようで、料理が出来あがるとちゃわんむしにまでお醤油をたらしてたべたりします。しかしのりまきの海苔は苦手のようです。奥さんがのりまきの作り方を教えようとしてこれは日本語でノリというのよと何度教えても、ポ―ランド語で「黒い紙」としかいいません。出来あがったのりまきも、海苔は生魚の匂いがするといって食べようとしません。
「ユラは、黒い紙はたべたくない」
本当にそれが黒い色の紙であって、食べ物とは信じていないみたいなのです。
ミコちゃんとひろしくんは友達と一緒にやる東京名所めぐりのすごろくづくりや、一人一人のお友達にわたす日本製のお土産に頭を絞りました。和紙で作った小さな人形や、財布、ミニカ―、等を包装紙でくるみ、りぼんで飾るのです。それに二人は、ピアノの練習もやらなければなりません。ご主人がいつものように善は急げとあの日の翌日早速ピアノ会社にいってピアノを借りる契約をして来たのです。その足でピアノの先生も頼んで来たのです。ご主人が早く持ってきてくれるように一生懸命頼んできたせいか、そのまた明くる日の午前中にはピアノが届きました。ユラがこんなに早く来るなんて信じられないと驚いたほどです。
力の強そうな小父さんでしたが、たった二人でトラックでやって来て、あの重いピアノを肩にかけあった太いロ―プで 「えいやっ」 とばかりに担ぎあげ、玄関の石段を持ちあげ居間の一番奥まで一気に運びこんでくれました。
ピアノの先生もその日の午後からやってきて、早速レッスンを始めました。名前は、イボンヌといい、ワルシャワ音楽大学で声楽の先生をしているのだそうです。そのせいか声が驚くほど綺麗で良く響きます。小柄で頬がばらのように赤いやさしそうな女の先生ですが、教えるときにはピシリと教えます。でもとても朗らかな先生なので、ミコちゃんもひろしくんも気にいったようです。最初はミコちゃんだけレッスンを受ける予定でしたが、ひろしくんも
「僕もやりたい」
といいだしたので、二人で一緒にレッスンを受けることになったのです。でもひろしくんがあまりお喋りなもので、二人別々に受けることになりました。ひろしくんは、とても知りたがりやなものですから、
「先生、どうしてピアノは音がでるの」
「先生、どうして一つ一つの音にドとかレとかミとか名前が付いているの」
「先生、どうしてここをたたくとドという音がでるの」
「先生、どうしてピアノの鍵盤には白いのと黒いのとがあるの」
といちいち質問するのです。ミコちゃんが
「これじゃ、先生のレッスンを受けているのか、ひろしくんのおしゃべりを聞かされているのか分らないわ」
といいだしたので、別々になったのです。でも僕もひろしくんではないけれど、どうしてピアノの音がでるのか、どうしてあるところを押すとドという音がでるのか、どうして音に一つ一つ名前が付いているのか知りたいのです。それでひろしくんがレッスンを受ける時にはピアノの足下に陣取ってレッスンに耳を傾けることにしました。お陰でピアノが鳴るのは、ピアノ線というはがねで出来た強いコイル線をハンマ―で叩くからということや、音には、七つの音があってそれぞれドからシまで名前が付いていることや、ピアノ線の短いものからは高い音が、長いものからは低い音がでることがわかりました。
ひろしくんは最初繰返し繰返し、ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ドとひかされていましたので僕はいつの間にかその音階に合せてうたうことが出来るようになりました。そこである日、ひろしくんがまたド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ドとひくのに合せてつい声を出して歌っているとイボンヌ先生が僕の方を振返り、
「まあ、犬がド、レ、ミと歌っている」
と目をまんまるくしました。ひろしくんが
「この犬はね、チビクロっていうのだよ。まあポ―ランド語だって全部分るくらいだから、ド、レ、ミを歌うのは朝御飯を食べるくらいやさしいかもしれないよ」
「そう、ポ―ランド語が分るの。じゃ、チビクロ、私の言うこともわかるわね。さっき歌っていたときミとファの半音階のところの音程が少し怪しかったわ。そこはね、こういうふうに歌うのよ」
といって、自分で歌ってくれました。さすが歌が専門だけあって素晴らしい声です。どうがんばってみても、僕の声は、数等落ちるようです。先生の前で歌うのは気がひけるのですが、でもせっかく大学の先生に教えていただけるのなら、チャンスを逃すわけにはいきません。僕は先生の教えを守って声を張上げました。
「あら、チビクロなかなかうまいじゃないの。じゃ、ちょっとこのフレ―ズうまくうたえるかしら。ラ、ラ、ら―らラッラ―」
「ワ、ワ、わ―わワッワ―」
「うまいうまい。なかなかやるわね。じゃここんとこはラ―ッラッララらら、ラララ―ララ」
「ワ―ッワッワワわわ、ワワワ―ワワ」
「パチパチパチパチ」
イボンヌ先生が拍手をしました。
「先生、僕にも教えて下さい」
背後からひろしくんがいいました。
「あら、いけない。お仕事のほうを忘れていたわ。でもチビクロ、ひろしくんがひくのに合せて歌ってごらんなさい」
そこで僕はひろしくんのひくのに合せて歌うことにしましたが、ひろしくんはまだ始めたばかりなので、しょっちゅう間違えます。それに、ひいてる途中ですぐ質問を始めるのです。歌っていてもこれでは調子がでません。僕はひろしくんがうまくひけるようになるまで歌うのをやめ、先生がリズムのとりかたや音の高さをひろしくんに注意するのをじっと聞いていることにしました。
ひろしくんは最低十回ほどひき、質問を十六回ほどすると、滑かにひけるようになります。そこで僕はそれに合せて歌うのです。先生の注意はもう充分のみこんでいますので、歌うほうはそれほど難しくありません。声を張上げて歌うとなかなかいいきもちです。遠吠えするときのように声を長く細くしてみたり、ご主人の呼びかけに応えるときのように力づよく歌ったりすると、もっと気持ちが引立って来ます。
僕がうまく歌うとイボンヌ先生は振りかえって、ウインクをしてくれます。それがとてもすてきなので先生のウインクを見るためにも一生懸命歌うことにしました。僕が心をこめて歌い終わった時です。
「パチパチパチパチ」
突然背後から大きな拍手の音が聞こえて来ました。驚いて振りかえると、奥さんにミコちゃんにユラが勢揃いして拍手をしているのです。僕は、ちょっぴり恥かしくなりました。
「素敵だわチビクロ。チビクロにこんな才能があるなんてね」
「そうだ、あたしいいことおもいついちゃった。今度のパ―ティの時にひろしくんの伴奏でチビクロが歌うことにしたら」
「それはいいアイデアですわ。きっとお客さんも大喜びしますよ」
そんなわけで、今日のパ―ティの余興でひろしくんの伴奏で一曲歌うことになっているのです。イボンヌ先生がそれではということで特訓をしてくれたのですが、今から胸がどきどきします。
僕がパ―ティに呼びたいと思っていた人は、ご主人が作ったリストのなかに一人残らずのっていましたので、問題はないのですが、実をいうと僕が呼びたい動物の方は残念ながらリストから外れていました。でもこれは仕方がないのかもしれません。飛行場で僕を助けてくれたシェパ―ドやポ―ランド語のてほどきをしてくれたキジネコや肉屋の前であったミルボやどぶねずみのロン一家、スタ―レミヤストで会ったやせ馬さん。それにほかでもないあの愛しいアンナ。みんながやって来たらパ―ティはどんなに素敵でしょう。でも呼ばれてきた人はびっくりしてしまうに違いありません。そうだ、僕はいいことを思い付きました。
おや、台所の方でごとごとと音がしはじめました。きっと奥さんが起き出したに違いありません。昨夜も料理の仕込みのため夜おそくまで頑張っていたのですが、今朝も一番早起きのようです。僕ものんびりと寝床に寝そべっているわけにはいきません。いよいよ活動開始です。
パ―ティの始まる予定の一時ぴったりに用意がととのいました。時計が一時を打ったのと同時に玄関の呼鈴がなりました。みんな慌ててご主人を先頭に玄関に一列に並びました。僕も一番後ろに並びました。
奥さんは
「みんな準備はいいわね。ドアを開けるわよ」
と小声で念をおしました。
「おい、トモコまだエプロンをつけたままだよ」
「あらいけない」
奥さんは慌ててエプロンをとると玄関脇のもの置きの中に放り込みました。とにかく、みんなぎりぎりまで手分けして準備に余念がなかったのです。良く間にあったものです。奥さんが着ているのは、日本から持ってきた胸のところが少しあいたパ―ティ用のドレスです。どれにしようかとさんざん悩んだあげく思いきって一番大胆なものを選んだのですが、良く似合っています。ご主人もミコちゃんもひろしくんも船荷で届いた新しい服を着て今日はめかしこんでいます。僕もまけないようにいつもの倍も丁寧に体の隅々までなめて毛ずくろいをしました。
「ビッビ―」
また呼鈴がなりました。
「さ、今度はいいわね」
奥さんがドアを開けました。
「ジェンニド―ブリ」
一番乗りは近所の子供たちでした。最初にモニカにイレ―ナ、それからタデウシュ、カロルとヘンリックが入って来ました。 例によってモニカとイレ―ナが膝をおってスカ―トを持ちあげて挨拶しました。
「こんにちは、今日はご招待ありがとうございます」
一人一人に握手して、最後に僕がお手をすることになりました。
その後には幼稚園の生徒とお母さんや先生たち、もちろんひろしくんを幼稚園に入れてくれた校長先生も一緒でした。さすがにレディファ―ストの国だけあって女の子が先に入って来ます。
アメリカンスク―ルの友達と先生の一行は大変威勢良く、
「グッアフタヌ―ン」
といって入ってきました。白い肌の子も、黄色い肌の子も、黒い肌の子も皆ニコニコと元気一杯です。
例によって小さなポルスキ―フィアット126でやって来たのはバランスキ―一家です。バランスキ―夫人が車からうまくおりられないので暫く行列が途絶えました。この前みたときよりももっと太ったみたいです。娘のヨアンナも夫人同様この前みたときよりまた一回り大きくなったようですし、バランスキ―さんはニコニコしながら降りる手助けをしていますが、ポルスキ―フィアット126は相変らず大変なようです。唯一の救いは息子のヨゼフが相変らずかとんぼのようにやせていることでしょう。
ポ―ランド語の先生のエバさんは娘のボウグナとエバさんのボ―イフレンドのマ―テウスを連れてやって来ました。ボウグナはひろしくんと同じ年ですが、初めてお目に掛かります、どうぞ宜しくと一人一人に握手しながらきちんと挨拶をしています。奥さんがエバ先生に習ったポ―ランド語を試そうと
「ボウグナ、どこの幼稚園にいっているの」
とポ―ランド語で尋ねると、
「家のすぐ近くにあるウリ―ツァ・ドンブロンフスキエ―ゴの第五幼稚園にいっています。とても楽しい幼稚園ですよ」
とはきはきと答えました。でもかなり早口だったので、せっかくエバ先生に習ったかいもなく奥さんは
「ああ、そう…」
とあいまいにうなづいただけでした。
ピアノのイボンヌ先生は素敵な民族衣装を着て現れました。
「先生、凄く素敵」
「先生はすご―く、べっぴんだね」
ミコちゃんとひろしくんが同時に叫びました。
ご主人の商社で働いているポ―ランド人達も賑かにやって来ました。その中で一際目立つのがご主人の美人秘書のバンダさんのようです。
「奥様、初めまして。私秘書のバンダと申します」
「はじめまして、主人がいつもお世話になっております」
そういいながら奥さんが何となくしげしげとバンダさんの顔を見ています。
ボイテック一家も全員やって来ました。おくさんがボイテックの手をひいています。弟のヤ―チェックをタト―シュがだっこしています。この前あったときは生まれたばかりだったのですが、もう、かなり目方も増えて、ボイテック同様女の子のようなやさしい顔だちをしています。犬語のわかるタト―シュは、
「チビクロ、ずいぶんげんきそうになったな」
と座り込んで犬語で話しかけてくれましたので、僕も、
「タト―シュさんこそますます元気そうですね」
と答えました。座り込んだときにチラッとみたのですが、タト―シュの頭の後ろの髪の薄くなったところが少しふえたような気がしました。ボイテックは
「僕、チビクロにとってもあいたかったよ」
僕をきつく抱締め、なんどもほほずりしてくれました。僕もボイテックの頬を一生懸命なめました。 日本大使館の髭の書記官も見えました。
「本日はおよびに預かり誠にありがとうございます」
丁寧に挨拶をしました。
少し遅れてやって来たのはグダンスクのジグモントです。
「いや―すっかり片付いちゃいましたね。この前は足のふみばもなかったのに。でもこんなにかたづけちゃうと今度引越すときが大変じゃないですか。アハハハハ」
最後にやってきたのは、ご主人の商社で働いている仲間の日本人たちとその家族の人たちです。
「これつまらないものですが」
といってスコッチ・ウイスキ―を二本お土産に持って来ました。その中の一人 の小父さんはたくさんいるお客さんの中に入っていきながら頭をペコペコ下げては
「ジェニド―ブリ・バルゾ―」
と挨拶をしています。これはそのまま日本語に直すと、
「大変、こんにちわ」
ということになって意味が通じません。きっとジェンク―エン・バルゾ―(大変ありがとう)とジェンニド―ブリとをごっちゃにしているに違いありません。今もエバ先生に、
「ジェニド―ブリ・バルゾ―」
と挨拶をしましたが、エバ先生が
「はじめまして、私エバ・カミュシカといいます。どうぞ宜しく」
と綺麗な日本語で答えたので、びっくりして
「私、ここのご主人と同じ商社で働いている間野といいます」
とポケットからあわてて名刺を出して自己紹介をはじめました。
部屋のあちこちに置かれた大きな日本製のせとものの器の中にはポプコ―ンが一杯入っていますので誰でもつまむことが出来ます。ご主人はお酒の係りなので注文をとって回っています。つい男の人の方から注文を取ろうとしてあわてて女の人から注文をとりなおしています。ジュ―スもテ―ブルのうえに一杯並べてあります。ミコちゃんとひろしくんがみんなにジュ―スの栓を開けて配っています。ひろしくんはさすがにちゃんと女の子を優先しているから大したものです。
ステレオからは日本の歌謡曲が小さく流されています。大人のお客さん達は、部屋の中のあちこちに五、六人ごとにサ―クルを作って話しこんでいます。時々サ―クルの間を移動しては自己紹介して話しに加わっています。楽しそうな笑い声が方々から聞こえて来ます。テラスや庭に出ている人たちもいます。庭にはリラの爽かなかおりが溢れています。すももの大きな枝が庭にせりだしており美しい陰模様を芝生の上に描いています。庭の奥にあるモミの木のところでおにごこをして遊んでいる子供たちもいます。ほかの子供たちは二階のミコちゃんとひろしくんの部屋でお話したり、東京巡りのすごろくやほかのゲ―ムをしたり、おもちゃで遊んだり、日本の絵本を見たりしています。僕はみんなうまくいっているか見てまわることにしましたが、お客さんの顔は楽しそうに輝いていますので、なんの心配もないようです。
ところが一つのサ―クルのところではなんとなく、言い争っているような雲行きのところがあります。僕は心配になってとんでいきました。みるとアメリカンスク―ルの先生とポ―ランドの幼稚園の先生がふたはに分かれて言い争っているのです。
「語学の才能のあるのは、それは絶対ひろしくんですよ。本当にあっというまにポ―ランド語をマスタ―して、今ではポ―ランド人より早口でまくしたてるくらいなんですから」
「それだったら、ミコちゃんだってアメリカンスク―ルに来て一週間後にはもう電話で話していましたからね」
「じゃ、語学の方はともかく、ひろしくんは幼稚園に入ったその日のうちに、給食のス―プをお代りして飲んだくらいですからね。小さいのに度胸の座っていることこの上なしですよ、だからみんなからも一目置かれているんですよ」
「ミコちゃんが、今クラスの委員に選ばれていることをご存じないんじゃありませんか。まだアメリカンスク―ルに入って間がないのに。ミコちゃんだってみんなから好かれているんですからね」
「ひろしくんが、女の子にもてること、右にでるものなしですわ。すごく気持ちのやさしい子ですからね」
「ミコちゃんは、体の不自由な子供たちを救う募金活動のために運動場一周ごとに両親から五ズオ―ティ貰う契約をとってきて、なんと二五しゅうもはしったんですよ。女の子では校内で五ばんめですよ。まだ一年生なのに」
「そんな話しでは、驚きませんわ。ひろしくんときたら五歳なのに、ポ―ランドの歴史に興味を持っていて、どうしてドイツが攻めてきたのかとか、どうしてワルシャワの街のあちこちに、小さな墓が祭られているのかと聞くんですからね。そして言うことが、僕は大きくなったら絶対戦争のない世界になるようにがんばるんだ、ですって」
丁度そこへやって来た幼稚園の校長先生が
「まあまあ、皆さんどっちにしても、ミコちゃんもひろしくんも気がやさしくていい子であるという点では意見が一致しているんですから、今度は少し話題を変えて、ちょっとチビクロのことでも話しませんか、丁度チビクロもここにいることだし。チビクロだって語学にかけてはそうとうなものなんですよ」
「ええ、わたしたちもチビクロがポ―ランド語をたちまちマスタ―したとか…」
「通訳をやったってことは知ってますわ」
「私の幼稚園に初めてこの一家が見えたときチビクロが通訳をやった話しはもう幼稚園では伝説になっていますの。まあ驚いたのなんのってあのときは…」
校長先生が話し始めました。僕は照臭くなってその場を離れました。いい争いがおさまればもう心配いりません。
もう一つ、大きな輪ができてドッと笑い声が湧きあがっているサ―クルがあるのでいってみると、輪の中央にボイテックのタト―シュが陣取り、
「チビクロに会わなかったら、私に犬語の能力があるなんてまったくのところわかりませんでしたよ。それにしてもあのチビクロ、よくもまあ、日本から自分だけでやってきたもんですよ。それにたちまちポ―ランド語をマスタ―してしまうなんておどろきですなあ。そういえば髭の書記官殿、日本大使館ではチビクロが日本からの冒険談を話すのを私がポ―ランド語に直し、あなたがそれを日本語に直して…」
「そうでした、車のトランクを旅行用のトランクと間違えて訳すと、チビクロにそこは少し違いますと注意されたりして、いやあの時は参りましたよ」
そこで回りの人がドッと笑います。
「あれから犬にまけてはいかんということで、大いにポ―ランド語に励みましたよ。少し上達しているかどうか今日チビクロに試験して貰うことにしますかな」
そこでまた笑いが爆発するといったあんばいなのです。ここでも僕は照臭くなって、ほかのサ―クルのところへ走って行きました。どのサ―クルへ行っても僕がいくと
「チビクロ、チビクロ」
と呼びとめ皆すぐ僕の頭をなでたり抱上げてくれたりします。嬉しいことは嬉しいのですが、僕は見回りの役を買って出ているのですから、あまり長くはお付合いできません。僕が見回りをしていると、なんとなくモジモジしている女の子がいました。僕が近寄っていって見上げると
「チビクロ、あなたポ―ランド語がわかるんでしょ。だったら。早くトイレがどこにあるか教えて。あたしおしっこがもれそうなの」
僕は早速一番近くの地下室の降り口の反対側にあるトイレにつれってあげました。
「さあ、皆さんお食事の準備が出来ましたよ」
奥さんが、みんなを台所と居間の間にある大きなテ―ブルの所に順番に案内しました。そこにはメニュウ通りの日本の食事が大きなお皿の上に美しく盛付けられ、ところせましと並んでいました。
「さあ一人一人お皿に、すきなものをとって召上がって下さい」
まず最初にちいさい子供たちからです。背がちいさくてとりづらい子供たちには欲しいと指差す料理を奥さんとユラがお皿にとってあげました。みんな初めて見る日本料理なので、どれが美味しいのか迷っていましたが、子供たちに一番人気があったのは、ごもく寿司とちゃわんむしと鶏のからあげでした。
刺身は初めての人が多くて最初売れ行きがかんばしくありませんでしたが、日本人が、美味しいですよと勧めるので、バランスキ―さんがまず挑戦しました。
「うん、これはうまい」
その一声で刺身の売れ行きは途端に良くなり、中にはお代りをするひとも出てきました。
そのほかの料理も、みんなおいしいといって食べています。順調な売れ行きに最初心配顔だった奥さんの顔も明るくなって来ました。ユラと顔を見合わせて頷きあっています。
めいめいお皿に、すきな料理を取って居間の各コ―ナ―に設けてあるちいさなテ―ブルの周りに座っておしゃべりをしながら食べています。日本料理というので奥さんはナイフもフォ―クもださないで、箸だけ出しましたので、みんないろいろとおもしろい持ち方をしながら食べています。ミコちゃんやひろしくんが子供たちに箸の使い方を教えています。いつもひろしくんは持ち方が悪いといって奥さんに注意されているのですが、今日だけは先生格です。
ところでいつまで待っても僕の番になりません。おなかはぐうぐうすいて来るのですが、奥さんは忙しそうにしていますし、ご馳走を食べながらおしゃべりに夢中になっているご主人やミコちゃんやひろしくんに頼むわけにもいきません。お客さんも大勢いるので自分でテ―ブルの上の料理をとるなどといった、あまり意地汚いまねも出来ません。とうとう奥さんもお皿にお料理を取ってひとつのサ―クルのなかに入り、腰を落着けて食べ始めました。
僕はちょっと台所を覗いて見ました。と、ユラが今では大好物になった刺身をお醤油にたっぷり浸して食べているところでした。大きな口を開けて、いましも大きなマグロのトロを口のなかへ滑りこませようとしたところへ僕が入っていったものですから、今度は目のほうも大きく開けて僕を見ました。僕の元気なさそうな様子ですぐ気付いたのでしょう。食べかけたトロを慌てて刺身皿に戻し、
「あっ、すっかりチビクロのことをわすれてた。ごめんよ。わすれてたおわびに美味しいものをたっぷりとあげるからね。ここじ
ゃまずいから、チビクロ先に自分の部屋へ戻っていなさい。すぐ持っていってあげるから」
僕は人目に付かぬようにこっそり自分の部屋へ降りていきました。待つほどもなくユラがおおきな皿に山盛りの御馳走を持って
きてくれました。僕も是非食べたいと思っていたサシミもあれば鶏のからあげもとんかつもごもく寿司もあります。
僕はごくんと生つばを飲込みました。これだけあれば僕の計画にももってこいです。僕はユラにお礼の意味で尻尾を精一杯ふっ
てから食べ始めました。
食べ終わって居間へ上がっていくと子供たちの余興が始まっていました。大人たちも輪を作って見ています。丁度ミコちゃん
が、「赤とんぼ」という日本の歌を歌っているところでした。イボンヌ先生がピアノで伴奏をしています。歌いおわるとみんな一
斉に拍手しました。ミコちゃんはペコリと頭を下げ、アメリカンスク―ルの同級生に一緒にアメリカ国歌を歌うように提案しまし
た。
「オ―ケ―、レッツゴ―」
みんなさっとたちあがるとピアノの側に集って元気良く歌いだしました。英語の歌詞なので良く内容はわかりませんがなかなかい
い曲です。ミコちゃんも英語でちゃんと歌っています。国歌を歌うときは全員起立するものらしくみんな立ちあがっています。そ
れが終わると、ミコちゃんは幼稚園の子供たちにポ―ランド国歌を歌うようにいいました。みんな大きな口を開けて精一杯声を張
上げて歌い出しました。もちろんひろしくんも一緒に歌っています。ポ―ランド人は全員声を合せて歌い出しました。イボンヌ先
生も、バランスキ―夫人も舞台の上で歌ったこともある専門家ですし、声量のあるバランスキ―さんやタト―シュも精一杯口を開
けて歌っていますので、とても聞きごたえがあります。
「我ら生きる限り、ポ―ランドいまだ失われず…」
「この歌は、ドンブロフスキ―のマズルカというのよ。もう二百年も前から歌い続けられてきた歌なの。この歌をきくといつも血
がたぎるわ」
エバ先生がミコちゃんたちにそっと教えています。歌が終わると盛大な拍手がなり響きました。
次ぎは誰の番だろうと思っていると司会役のミコちゃんがいきなりこういいました。
「それでは只今から、いよいよお待ちかねのひろしくんとチビクロによる、日本の歌をお送りします。曲は、『ハトポッポ』と
『さくらさくら』です。チビクロが歌い、ひろしくんがピアノで伴奏します。皆様も拍手で手拍子をとって下さい」
僕はどきどきしながら、居間の真中に進みでました。居間には人が溢れ、らせん階段の上から見ている人もいます。後ろの方の
人が、
「チビクロがみえないわ」
といいました。するとご主人が僕を抱上げてピアノの上にのせてくれました。こんな高いところで歌うのは初めてなので、それだ
けでも胸がどきどきします。目の前がぼやけるかと思うとはっきり見えたり、どうも目の調子がおかしいのです。ひろしくんがピ
アノで、ラの音をくれました。その音に合せるようにイボンヌ先生に教えられたのです。僕はその音に合せて小さく、
「ウ―ゥ―」
と歌って見ました。自分ながら声が震えているのが分ります。これはまずいとおもいましたが、ひろしくんがじゃいくよ、という
ので、
「ワン」
と思わずOKのサインを出してしまいました。伴奏が始まりました。歌の出だしを間違えてはなりません。僕は頭をかしげて耳を
そばだてました。と、僕の目にイボンヌ先生がウインクしているのが飛込んできました。あのとても魅力的なウインクです。僕は
思わずウインクを返したくなりました。その途端に気がす―っと軽くなり、丁度うまいぐあいにピアノに合せて歌い出すことが出
来ました。イボンヌ先生が首を上下に振って拍子をとってくれますので、僕は音程が狂わないように注意を払って歌いました。
「ワッワッワ―、ワワワワワ― ワッワワワ、ワワ、ワワ、ワワワワワ―」
ひろしくんもイボンヌ先生の拍子に合せて一生懸命ひいています。高い椅子にピョコンと座って床に足は届かないのですが、全然
間違いません。僕が間違えてはひろしくんに申し訳がたちません。僕も心をこめて歌いました。
「ワッワッワ―、ワワワワワ― ワッワワワ、ワワ、ワワ、ワワワワワ―」
歌い終わると大きな拍手と、声援が湧きおこりました。
「ブラボ―」
「ブラボ―」
僕はひろしくんと一緒にぴょこんと頭を下げました。
「アンコ―ル」
「そうだ、もう一曲」
声が掛かりました。でもピアノが来てから二週間もたっていないのですから、二曲覚えるので精一杯、アンコ―ルの曲を用意する
余裕なんてありませんでした。一体どうしたらいいのでしょう。ひろしくんも困った顔をしてイボンヌ先生と顔を見合わせていま
す。なにかいい知恵はないでしょうか。
「そうだ」
その時僕の頭にいい考えが閃きました。グダンスクへいく途中の森のなかで最初にご主人が歌いだした曲があります。あのときは
「信じられないチビクロ」という題でしたが、僕が歌詞を作ったところだけは未だ誰にも聞いて貰ったことがありません。それに
あの時は未だイボンヌ先生に教えを受ける前でしたので、歌うというより単に曲に合せて拍子をとるぐらいでしたが、今ならもっ
と旨く歌えるはずです。あの歌を歌おう。僕は突然歌いだしました。
「あっ、この曲はパパが作った『信じられないチビクロ』って曲だ。チビクロちょっとまって。ママ、あの曲ピアノでひける?だ
ったら、みんなで一緒に歌おうよ」
「うまくいくかどうかわからないけどやってみるわね」
奥さんはピアノの鍵盤をポンポンポンと叩きました。
「まあなんとかなりそうね、じゃいいこと」
僕は見ている人のなかからボイテックのタト―シュの匂いを必死にかぎわけました。タト―シュはらせん階段のところにいまし
た。
「ワン、ワン、ク―ク」
僕がいきなりほえだしたものですから、みんなの目が一斉に僕に集まりました。僕はタト―シュに近くに来て下さいといったので
す。
「チビクロ、なんのようだい」
タト―シュはすぐやって来てくれました。僕はこれから、僕がいうことをみんなに紹介してくれるように頼みました。
「おやすいごようだよ」
僕が話しはじめると、タト―シュがそれをポ―ランド語に訳してくれました。それをまた、日本大使館の髭の書記官が日本語に訳
しました。
「チビクロが『信じられないチビクロ』の曲に合せてご主人一家に捧げる歌を作ったので聞いて貰いたいといっています。私が訳
しますので、皆さんも声を合せて歌って下さい。それではおくさん伴奏をお願いします」
僕は、歌いだしました。
「いつでも明るい
ご主人一家ほど 素晴らしい一家はない…」
うたうはじから、タト―シュがうまく訳してくれます。髭の書記官も少し遅れて追掛けます。
「神様に祝福された 家族のようだ…」
みんなは歌わないで、じっと耳を傾けているようです。
「ご主人一家のいくところ 大きな石ころも
転がっているけれど その強い愛のきずなで いつの間にか
砂利のように 打砕いてしまう
ご主人一家は 僕の誇り
ご主人一家の幸せのためなら
僕は命も惜しまない…」
歌い終わると一瞬静かになりました。みんな僕の方をぼんやり見ています。どうしたのでしょう。なにかまずいことをしてしま
ったのでしょうか。一人でいい気になってせっかくのパ―ティを台無しにしてしまったのかもしれません。
と、突然
「ブラボ―」
「ブラボ―」
という声が湧きあがりました。拍手がさっきよりも一段と高くなりひびきました。ピアノを伴奏をしてくれた奥さんを見下すとま
だ鍵盤の上に俯いたままでうなだれています。肩が小刻みに震えています。といきなり顔を上げ
「チビクロ、ありがとう」
と僕を抱締めてくれました。顔が真赤です。目も少し赤くなっています。ご主人もミコちゃんもひろしくんも寄って来て僕にほほ
ずりをし口々に
「いい歌をありがとう」
といいました。
「本当にいい歌ですわ。もう一度みんなでいっしょに歌いましょうよ」
イボンヌ先生が提案しました。 大合唱が始まりました。僕も力を込めて歌いました。歌が終わりかけたときミコちゃんが大きな声
で叫びました。
「そのまま、『信じられないチビクロ』の歌も続けて歌って下さい。この歌はあたしたち一家がチビクロに捧げる歌です。あたし
歌詞をいいますので皆その後に付いて歌って下さい」
「黒くてちいさいチビクロほど 信じられない犬はいない 神様が つかわされた 奇跡のようだ…」
イボンヌ先生が拍子を取り、それぞれのパ―トをわけていったのでいつの間にか混声四部合唱になっていました。良くハ―モニ
―のとれた曲が屋敷のなかに響きわたります。みんなの顔も生き生きと輝いています。僕は照臭くて少し俯いて聞いてましたが、
みんなからこんな祝福の歌を歌って貰って、幸せで胸がはちきれそうでした。本当に今日はいい日です。
子供たちもそれぞれ日本からの小さなプレゼントをお土産に貰って喜んで帰り、大人のお客さんも一人減り二人へりして最後に
残ったのはご主人と同じ商社の
「バルゾ・ジェンドブリ」
の小父さんでしたが、その小父さんも
「バルゾ・ドブラビエチュ―ル」
といいながら、少しちどり足で引上げました。
ご主人一家にとってもこれが最初のパ―ティだったのです。それがうまくいき、お客さんたちがみんなとても素敵なパ―ティだ
ったと口々にお礼をいって帰っていったので、みんなほっとして、どっかりと居間のソファの上に腰を下し大きくふ―っと息をつ
きました。
「本当に楽しかったわね」
「みんなが協力して良くやってくれたので、お客さんは大喜びしてくれたね」
「また、こんなパ―ティやりたいナ」
「そうね、もう経験したことだし、今度はもっとうまくやれるかもね。あらでも、もう九時過ぎよ。さあ後片付けは明日にして今
日はぐっすり眠りましょう」
と、ユラが台所から出てきて
「マダム、もう台所の片付けはすっかり終わりました。今から居間のかたづけをやるのでみなさんはもう休んで下さい」
といいました。ユラはいったん言出すと決して引込めませんので、奥さんもユラに任せて休むことにしました。ご主人一家がらせ
ん階段を昇っていくのを見届けてから、僕は地下へ降りていきました。僕も少しは疲れましたが疲れたなどといっておれません。
すぐにでも計画に移りたいのですが、ユラが、まだ居間でかたづけをしていますので、それが終わるまで待つ必要があります。ち
ょっとうとうとしかけたのでしょうか、もの音ではっとして目を覚ますと部屋の入口にユラが立っていました。
「おや、チビクロ、もう眠っていたのかい。悪かったね。チビクロも大活躍だったから疲れたろうね。昼間あんなにたくさんあげ
たのにすっかりたべたんだね。それじゃ丁度良かった。残り物だけど食べておくれよ」
ユラはまたお皿に溢れるほど御馳走を持って来てくれました。
「私は、もう帰るからね、お休み」
ユラは階段を上がっていきました。暫くすると玄関のドアをガチャリと締める音がしました。
もう大丈夫です。
僕はダンボ―ルの箱の後ろに隠して置いた、バスケットを引張り出しました。そのなかには昼間ユラに貰った御馳走がまだたくさん残してあります。それにいまユラが持って来てくれたごちそうを付足すとバスケットの蓋がしまらないぐらいです。このバスケットは地下室の一番奥の部屋で見付けたものをちょっとかりたのです。僕はバスケットのとってを口にくわえて出発しました。例によって、一番奥の部屋にいき、本箱の紐をひきました。本箱がぐるりと回り、大きな入口がポカリと穴をあけました。
「ロン、約束の御馳走だよ」
僕が声をかけると、ロン一家がたちまち勢揃いしました。僕は今朝起きたときにロンに今日パ―ティをやるので御馳走を届けると
いう約束をしたのです。
「ところで、ロン、のらぐらしのキジネコには連絡とってくれたかい」
僕は聞きました。
「とれたとも。この地下道はワルシャワ中繋がっている。チビクロに頼まれたので仲間に連絡をとったら、確かに飛行場の近くに
住んでいるのらぐらしのキジネコが見付かったので、チビクロが今日パ―ティの御馳走を届けると連絡してくれたそうだ。だけ
ど、チビクロもひどいよ、ネズミに猫への連絡がかりをやらせるなんて。使いにいった仲間が危うくそのキジネコにつかまりそう
になったんだよ。まあマンホ―ルに逃込んで難はのがれたそうだけどね。マンホ―ルの中から間違いなくチビクロの伝言は伝えた
そうだよ。伝言を聞くとキジネコも掴まえようとして悪かったって謝りはしたそうだけどね。行先がわからないようだったら、そ
のあたりのマンホ―ルに声をかければわかるようにしておくよ」
僕はロン一家にお礼の御馳走をたっぷり置いていつものように抜け穴を通って表通りにでました。僕がさよならをいうかいわない
うちに、ロン一家は早速御馳走を夢中になって食べ始めていましたから、僕が表に出ないうちになくなってしまったかもしれませ
ん。
もうかなり遅いはずなのに、空はすっかりくれてはいません。すきとおるように青く輝いています。宇宙の向う側がそこから透
けて見えているようです。北国なので夏には日の暮れるのがとても遅いのです。道路のあちこちにはやはり、警官がたくさんいま
す。僕は注意深く小走りに走りだしました。大体の方句はわっかっていますが、もうそろそろキジネコのすみかの近くかなと思い
ながら通りの角を左に曲がろうとすると、いきなり
「おい、チビクロ」
と鋭い声がしました。
「反対、反対、方向がまるで反対だよ。右だよ右。ここを右に曲がって真直ぐいけばキジネコさんが、フェンスの上でおまちかね
だよ」
声はすれども姿はみえずです。
「一体君はだれだい。どこにいるんだい」
「ここだよ、ここ。マンホ―ルの中さ。僕は、ドブネズミのヤスっていうんだよ」
僕が足下を見下すと、マンホ―ルの穴の中に赤い二つの目が光っています。
「キジネコに連絡にいって、危うくつかまりそうになったのは、僕だよ」
「そうか、君が連絡をとってくれたのかい。本当にありがとう。これはほんの気持ちだけど、パ―ティの御馳走のおすそわけだ
よ。食べてくれたまえ」
僕はマンホ―ルの穴の中に御馳走を押込みました。
「チビクロ、ありがとう。こんな珍しいものを食べられるなんて、命懸けでやったかいがあったよ。さあ僕の一家のパ―ティをは
じめることにしよう」
マンホ―ルの中ではヤス一家のパ―ティが始まりました。
僕は、久し振りにキジネコに会えると思い足を速めました。
キジネコはヤスのいうとおりフェンスの上で待っていました。僕が近付くとひらりと道路に飛下りて来ました。相変らず丸々太っていますが、さすがにノラ暮らしをしているだけあって、飛下りる時も足音一つたてません。
「久し振りだね、チビクロ」
「本当に久し振りですね、キジネコさん。あの時は本当にお世話になりました」
僕はご主人一家に巡りあったこと、今は一緒に楽しく暮らしていること。キジネコにてほどきをうけたポ―ランド語が本当に役に
立っていることなどを手短に話しました。
「結構じゃないか。こちとらもそれをききゃぁ一安心も二安心もするってものさ。あれっきりなしのつぶて。いっていどうしてい
るかと案じていたら、今朝ほど急にみもしらぬネズこうの奴がチビクロが今日お礼の御馳走を持って現われるてんで、いっていど
うゆう風の吹回しかと、首を捻っていたところよ。いや―おめえさんの元気な顔をみて安心したよ。本当に運がよくってよかった
なあ。積もる話しもあることだし、今晩はゆっくりしていきねえ」
「僕もゆっくりしていきたいんですが実はもうひとつ寄るところがあるんです。それにあまりゆっくりしていると黙って抜け出し
たことがご主人にばれてしまうので、今日はこれで失礼します」
「相変らず、お前さんも律義だねえ。ご主人思いには感心するよ。じゃこんどまた出掛けておいでな」
僕は、キジネコにも、御馳走をおすそわけして、また走りはじめました。キジネコは、早速マグロのサシミに舌づつみをうってい
ました。
飛行場が左側にみえてきました。
飛行場で僕を助けてくれたシェパ―ドとも連絡をとりたかったのですが、ドブネズミの連絡網では無理だったのです。そのうち
に是非あってお礼をいいたいものです。飛行場を過ぎ、野原を過ぎ、木造の小さな家の側を通り抜けました。
僕は最後の目的地はすぐそこです。ひとりでに足が早くなって来るのがわかります。最後にあったときからもう一月半もたって
います。元気にしているでしょうか。目の前に大きな石づくりの家がそびえたっています。窓の明りはみんなきえています。僕は
裏手にまわりました。いつものように車用の通路づたいに入っていきました。半地下のガレ―ジの所にいき、僕は人間の耳に聞こ
えないような高い声で、名前を呼びました。
「アンナ、いるかい。僕だよ、チビクロだよ」
「えっ、チビクロ、まあ、良く来てくれたのね」
その声だけはすぐ返って来たのですが、アンナはなかなかでてきません。
「ちょっと、まちなさいよ。お母さんはすぐ帰って来ますから、お乳は後にしてね。お前たちのお父さんが、来てくださったの
よ」
アンナが小さな声で話しています。
「クン、クン。クン。クン。クンクン、クン」
子犬の甘えた鳴声がします。心臓が全速力で走った時のように打ちはじめました。
「まさか!?」
アンナがガレ―ジの外にでてきました。すっかり大人びて眩しいほどです。
「チビクロ、よくきてくれたわね。嬉しいわ」
アンナは鼻を押付けて来ました。僕もやさしくキスを返しました。
「さあ、早く中に入って」
僕はアンナに付いてガレ―ジの中に入りました。
「チビクロ、みてちょうだい。これがわたしたちの赤ちゃんよ」
わらをしいた寝床の中に、小さなそれこそドブネズミほどの子犬が動きまわっています。白い毛のが三びき、黒い毛のが三びき、
上になり下になり、一時もじっとしていません。
「アンナ」
それだけいうと声が詰まって良くいえません。良くやったといいたかったのですが、僕は代りにアンナの体をやさしくなめてあげ
ました。
「君も元気そうだし、子供たちもみんな元気そうだね。本当に良かった」
「さあ、かわいこちゃん、お前たちのお父さんだよ」
小犬は、
「クンクン、くんくん」
鳴くだけでまだなにもわからないようです。お乳の匂いのする子犬たちを僕は
一匹ずつやさしくなめてあげました。子犬はなめら
れると気持ちがいいのか、
「ク―ン、ク―ン」
と鳴きます。そしてちいさな舌でなめかえすのです。これが僕の子供だと思うとなんだか信じられないような、夢でもみているよ
うな、妙な気持ちです。僕ももう一人前の雄犬なんだ、しっかりしなくちゃ―。
「白が三びきに、黒が三びきでしょう。飼主がどうして黒い子犬が生まれたんだろうって頭をひねってるの」
アンナはかたわらから肩をすりよせてきて、クスクス笑いました。平気な顔をして笑うのには僕は驚いてしまいました。
「飼い主から怒られたりしなかったの」
「ううん、全然。だって、生まれてしまったのだから仕方がないでしょ。でも、カジュクという雄犬の飼主の所へ、もんくをいい
にいったようよ」
「それで…?」
「向うもそんなことはありえないと言張ったらしいの。とうとうけんか別れになったらしくて、飼い主と来たら、もうあのカジュ
クには絶対頼まないぞって、プリプリ怒りながら帰って来たわ。カジュクなんて大嫌だから丁度良かったわ」
僕は驚くことの連続で、せっかくお土産を持って来たことさえすっかり忘れていました。が、アンナの出産祝いをしようと思いつ
いて、食べ物のことに気付きました。
「アンナ、実はね。僕のご主人のうちで今日大パ―ティがひらかれたんだ。これまでご主人一家がポ―ランドでお世話になった人を残らずおよびして日本料理をめしあがっていただこうって。だから僕もポ―ランドに来てお世話になった仲間の動物たちにも是非とも御馳走を食べて貰おうと思って、ほらこのバスケットに入れてこれまであちこち配ってきたんだ。アンナにもずいぶんお世話になったのでお礼のつもりで今日はきたんだよ。そうしたら、なんと、僕の子供が六ぴきも生まれている。でも、丁度良かったね。アンナの出産のお祝いと子供たちの誕生祝いを兼ねて今から僕らのパ―ティを開こうよ」
「忘れてはいけないわ、お互いにはじめてお父さんとお母さんになったお祝い。でも遠いところをわざわざ、日本のお料理を持っ
てきてくれるなんて嬉しいわ。この子たちには日本の血が交っているんだから、私が日本料理を食べて、日本料理の味のするお乳
をあげればきっとあなたみたいに素敵な犬になれるわね。さあそれではお祝いのパ―ティをはじめましょう」
アンナは、僕が持っていった日本料理が気にいったようです。鶏のからあげも、とんかつも、マグロのサシミもたちまちペロリ
と食べてしまいました。
「赤ちゃんにお乳をあげるせいかこの頃とても食欲旺盛なの。私少し太ったかしら」
食べおわると、アンナは子犬たちにお乳をあげ始めました。
「クンクンクン、くんくんくん」
子犬たちは、上になったり下になったり、大騒ぎしながらちくびを奪いあいます。そのうちめいめい自分のちくびを見付けて、
「ゴックン、ゴックン」
美味しそうに飲みはじめました。アンナも気持ちよさそうな顔をしています。もう堂々たる母犬です。この前あった時は、娘っぽ
い雌犬だったのに、赤ちゃんができただけで、どこからみても一人前の母犬に変身しているのですから、驚きです。そういう自分
は父犬に相応しく変身しているのでしょうか。でもたった今知っただけではそれほど簡単に変身出来るものではありません。た
だ、心のおくふかくから、ゆっくりと生きていくことへの自信が湧きあがって来るのを感じます。それが血管の中に入り、心臓か
ら体の隅々に向けてドキッドキツと音をたてて流れ始めたのがわかります。
僕はもう一人前の雄犬なんだ。どんなことにでくわしても負けずにやるぞ。この子供たちの為にも僕はお父さんらしく立派に生
きなければならないんだ。そう思うともりもりとファイトがわきあがって来ます。おそらくポ―ランドでの生活にはいろんな困難
が待構えているに違いありませんが勇気を持ってあたっていこう。僕は心の底でかたく決心しました。
今日は僕にとっては本当に記念すべき日になりました。僕はみんなを、抱締めてあげたくなって寝床の中に入りこみ、からだを
押付けました。子犬たちも体をすり寄せて来ます。なんというぬくもりでしょう。お乳の甘酸っぱい匂い。子犬だった頃が懐かし
く思いだされます。本当に目の中に入れてもいたくないほど可愛いのです。
そういえば、まだ小さなひろしくんをだきながらご主人が、
ー子を持って知る親の恩
ということわざをつぶやいていたのを思い出しました。ご主人や奥さんのミコちゃんやひろしくんに対する気持ちが良くわかるような気がします。僕にも子供って親が自分の命に代えても大切にしたい存在であることが今納得出来たのです。
やがて、お乳をお腹いっぱいすって満足したのか、六ぴきの子犬たちは、アンナと僕の間でスヤスヤと可愛い寝息をたてて眠り
に付きました。アンナも、口元に幸せそうな笑みを浮かべて、静かに寝息をたて始めました。
僕もしばらく、僕の家族と一緒に安らかな夢路を辿ることにしましょう。