お知らせ 「チビクロの冒険」を2002年初に出版する計画を進めています。是非予約してください。メールをお待ちしております。
童話の部屋
チビクロの冒険 (2/3)
著者 阿部毅一郎(あべきいちろう)
目次* ポーランドへ (1/2/3/4 )
* アンナ (5/6 )
* キジ猫 (7)
* いたずらな子供たち (8)
* ボイテック一家 (9)
* 日本大使館 (10/11)
* タクシ― (12)
* 肉屋 (13)
* 新しい家 (14/15)
* アメリカンスク―ル (16/17)
* ディナー (18/19)
* スタ―レミヤスト (20/21)
* 買物 (22/23)
* エバ (24)
* 再会 (25/26/27)
* 船荷 (28/29)
* 愛 (30)
* グダンスクへ (31/32/33/34)
* 船荷の整理 (35/36/37/38)
* パ―ティ (39/40/41)
| お知らせ |
「チビクロの冒険」を2002年初に出版する計画を進めています。是非予約してください。メールをお待ちしております。 |
「チビクロったら、まだ眠っているの」
「ポ―ランドにきたら、チビクロもお寝坊さんになっちゃたのかな」
ミコちゃんとひろしくんが僕の部屋の入口からのぞいています。僕は、出来るだけ知らん顔してたぬきねいりをきめこんでいました。
「ミコちゃんどうする。チビクロ起こしちゃおうか」
「でも、チビクロも散々苦労してやっとわたしたちに巡りあえたんだから、きっと疲れているのよ。今朝は、このまま寝かせておいてあげましょうよ」
二人は僕のダンボ―ルの箱の上からのぞきこみながら、ヒソヒソ声で話しあっています。
これ以上心配かけたくありません。僕は、こっそり片目を開け、いきなり飛起きて、
「ワン」
と叫びました。
「まあ、チビクロったら、起きていたのね。寝たふりなんかして」
「お早う、チビクロ」
僕は、ダンボ―ルの箱から身を乗出して、二人のほっぺを代わる代わるなめて上げました。これがいつもの朝の挨拶です。こんな挨拶をするのも久し振りです。やっといつもの習慣を取りもどした感じです。
「チビクロ、今日からあたし、ワルシャワのアメリカンスク―ルへ行くのよ。チビクロもつれてって上げるから、早く朝御飯を済ませてね」
「さあさあチビクロ、朝御飯よ」
いつの間にか奥さんが、大きな皿の上に大きな肉の塊をのせてミコちゃんの後ろに立っていました。朝からこんな大きな肉の塊の御馳走なんて生まれて始めてのことです。でも、こんな御馳走なら何時だって大歓迎です。
「プップ―」
朝御飯を食べおわらないうちに玄関のほうから自動車の警笛が聞こえてきました。
「ジェンニドウブリ、パヌ。みなさ―んおはようござます。お迎えに参りました」
男の人の声がします。僕はまだにぎりこぶしほどもある肉の塊を残していたのであわててごくんとのみこみました。ところがそれが喉につかえてしばらくは息もつけません。
「チビクロ、どうしているの早くいらっしゃい」
返事どころではありません。目をしろくろさせて後ろ足で立ちあがり、前足で口のあたりを一生懸命ひっかきまわしたあげく、やっとのみこめました。目から涙はでるし、息は詰まるし、やはり食い意地は程々にしたほうがいいようです。
「チビクロ、置いていっちゃうよ」
奥さんの催促です。僕はちょっぴり情無い顔付きで階段を昇っていきました。
玄関の前には、ピカピカに磨かれた黒い大きなカッコいい車が止まっていました。昨日乗ったタクシ―に比べたら、ブラッシングのいきとどいた若いコリ―犬と泥塗れの少し年老いたマルチ―ズ位の差があります。その傍らに三角形のおむすびを逆さにしたような顔をした男の人が立っています。紺色の背広を着て、角張った紺色の帽子を深々と被っています。おまけにネクタイも紺色です。両方のめじりが少し垂れ気味で、なんだか眠たそうな顔をしています。ご主人を先頭に玄関の階段を降りていくとその男の人が車のドアをいきよいよくパッと開けてくれました。
「ワタシは、アドミャックと申します。どうぞよろしく」
運転手が片言の日本語で自己紹介をしました。ご主人が自分の商社の運転手のアドミャックさんだ。長年日本商社に勤めているので、少し日本語が話せる。今日はミコちゃんをアメリカンスク―ルへつれていって貰うためにきてもらったと奥さんたちに紹介しています。 奥さんやミコちゃんやひろしくんも覚えたてのポ―ランド語で
「ジェンドウブリ、アダミャックさん」
と挨拶をしています。僕も負けずに
「ワンワン」
と挨拶しました。アダミャックさんは、両方のめじりを益々下げて、大きな口を開けて笑いながら、
「ジエンドウブリ」
と一人一人にあいっさつを返しました。もちろん僕にも長い体を折曲げるようにして、
「ジエンドウブリ」
といってくれました。その間にひろしくんはすばっしこく車に乗込み、
「ワ―これは本物のメルセデスベンツだ。スゲ―ナ―。僕のミニカ―よりよっぽどカッコいいや」
そういいながら、後ろの座席でピョンピョン跳びはねています。僕もひろしくんと同じ様に、そこらじゅう走りまわってピョンピョンやりたいところでしたが、昨日電車の中でタトゥ―シュにムチでいやというほどぶたれたことを思いだし、車にも静かに乗り静かにしていました。
「ひろし、車に乗ったらチビクロみたいに静かにしなければだめよ」
奥さんがひろしくんに注意しています。 車が動きだしました。ものの十メ―トルも行かないところで
「アッ」
奥さんが大きな声で叫びました。いきなり耳元で大声をたてられたのでアダミャックさんは驚いて飛上がり、頭をゴツンと天井にぶつけました。 奥さんはそんなことには見向きもせず窓の外をみながら、
「ストップ、ストップ」
と叫びました。アダミャックさんは慌てて車を止めました。
「一体どうしたんだい」
「あなたちょっと右側の建物を見てよ。ひろしと同い年位の子供たちが建物の中にも広いお庭にも一杯だわ。そうよ。ここは間違いなく幼稚園よ。ほら、すべり台もあるわ、ブランコもあるわ」
「な―んだ。我家の斜め筋向いが幼稚園だったってわけだ。これはいい。ひろしの幼稚園をどこにするか、散々頭を悩ましていたのに、燈台下暗し、とはこのことだね」
「ぴったりよ。正しくおあつらえ向きとはこのことよ。ひろし。あなたの幼稚園が見つかたのよ。さあ、いらっしゃい」
「おいおい、どうするんだ。先にアメリカンスク―ルへ行ってきたほうがいいんじゃないかい」
「まだ充分時間があるわ。善は急げよ。アメリカンスク―ルに行く前にちょっと頼んで見ないこと」
奥さんは、さっさと車をおりると、ひろしくんの手を引張るようにして先頭を切って歩き始めました。
奥さんの鼻息が嵐のように荒くなっているのを見ると
――百万人とて我行かん
の気がまえのようです。こうなったら奥さんを止めることのできる人は誰もいません。ご主人もそのことは良く知っていますから、ミコちゃんともどもその後を追掛けます。僕も負けてはおれません。たちまち奥さんより先にでて幼稚園の玄関先まで一気に走って行きました。振返ると、運転手のアダミャックさんは、メルセデスベンツの傍らで、右手で頭を押えながら口をポカンと開けて後ろから皆を見ています。車をたった十メ―トル走らせただけで頭は嫌というほどきつく天井にぶつけさせられるや、お客には皆降りられてしまうやで、さぞかし驚いたのでしょう。本当に大きな口です。おむすびの逆三角形に口の丸、これはどこかで見掛けたマ―クです。そうそう、確か、公衆便所にかいてありました。なんでも逆三角形のマ―クが男用、丸のマ―クが女用を意味するとのことでした。逆三角形に丸のマ―クが重なるとそれはきっと男女兼用ということになるのでしょう。もっとも僕ら犬族には公衆便所は余り関係ありませんが。
幼稚園は、道路の曲り角にあって例によって緑色の背の高いフェンスに囲まれています。大きな庭にはたくさん木が植わっており、ひろしくんと同じ年頃の子供たちが手を取りあってダンスをしたり、砂場でトンネルを作ったり先生を囲んでお話を聞いたりしています。一番奥まったところに二階だての建物が立っており、左側の道路から入るようになっています。奥さんがよびりんを押すと若い女の人が出てきました。
「ジェンドウブリ」
ご主人一家が口を揃えて、挨拶しました。その女の人は髪の黒い見かけない家族がドアの前に立っているのに驚いたのか、目を皿のように大きくして、
「モメント」
というとあっというまに奥に引込んでしまいました。しばらくするとご主人よりももっと年をとったようにみえる背筋のぴんとはった女の人が出てでてきました。さっきの若い女の人は、その人の後ろに隠れて心配そうに様子を伺っています。
奥さんはニッコリ笑うと、
「ジエンドウブリ」
といいながら、手を差延べました。
「ジエンドウブリ」
中年の女の人はその手を握って、ちょっとだけ笑みを浮かべました。奥さんはひろしくんをその人の前に押出していいました。
「この子をこの幼稚園に入れてください」
それは日本語でしたので、女の人は首を傾げながら、
「ニエロズミエム(分りません)」
といいました。奥さんにはその言葉の意味が分りませんでしたので、今度は奥さんのほうが首を傾げています。僕には『なんのことか分りません』といっていることが分りましたがどうすることも出来ません。すると奥さんは、庭で手を取りあってダンスをしている子供たちの方を指差しました。それからいきなり女の人とひろしくんの手を取って、音楽に合せて足をリズミカルにはねあげたり、ステップをふんだりしてみせました。女の人は、合点がいったとみえてポ―ランド語で、
「それではこの子をこの幼稚園に入れたいのですか」
と尋ねました。僕は皆がきょとんとしているのを見かねて、
「ワン!」
と吠えて尻尾を盛んに振りました。
「そうだ。チビクロはポ―ランド語がわかるんだ」
ご主人が叫びました。
「チビクロ、今この女の人はひろしくんを幼稚園に入れたいのかときいたのかい。もしそうだったら、ワンと一つだけ、もしそうでなかったら、ワンワンと吠えてくれ」
さすがにご主人です。僕を見る目があります。
「ワン」
僕は激しく尻尾をふりました。嬉しくて、もっとワンワンワンといいたいぐらいでしたが、ハイのときはワンというようにということでしたから、ワンとだけいってその代わり激しく尻尾を振ったのです。
ご主人は女の人の方へ向直ると
「タ―ク、タ―ク(そうです、そうです)」
盛んに首を縦に振りました。
「でもこの幼稚園には、外国人は一人もいないし、入れることは出来ません」
そういうと女の人は首を左右に振りました。
「どうも入れることは出来ないといっているみたいだな」
ご主人は僕の方に振り返りました。僕も力なく、
「ワン」
とうなずきました。奥さんは、
「プロシェ、プロシェ、お願いします。なんとか入れてください」
ポ―ランド語と日本語をちゃんぽんにして盛んに頼み込んでいます。女の人はそれでも首を左右に振りつづけています。しかし、ご主人一家はいっこうに帰るそぶりを示さないので、女の人が尋ねました。
「あなた方はどこの国の人ですか。ヒンスカ? ベトナミ―ズ?」
「ベトナミ―ズ? あら、ベトナム人かって聞いているのかしら」
奥さんは一言つぶやくと、突然叫びました。
「ヤポンスカ!日本人!ヤポンスカ!」
女の人の目が急に輝きました。
「ヤポンスカ?」
「タ―ク、タ―ク」
「ワンワンワン」
僕は後ろ足で立上がり、尻尾を盛んに振りました。
「タ―ク!」
女の人は大きくうなずくと、後ろで様子を伺っていた若い女の人に入園用の書類を取ってくるようにといいました。ものの三十秒もしないうちに若い女の人が書類を持って来ました。中年の女の人は、その書類をご主人たちに示しながら、右手に持った鉛筆で書入れるまねをしました。
「どうも入園手続きのために書類に書入れるようにいっているみたいだな」
「ワン」
僕はかんぱつを入れず相槌を打ちました。ご主人は僕ににっこりし、女の人に向直って、
「ユトロ、ドブジェ?(明日でいいですか)」
と聞きました。
「タ―ク」
女の人はこっくりして初めてにっこり笑いました。にっこり笑うと十歳位若くみえます。僕は嬉しくなってその場を三回ぐるぐる回りました。女の人は僕の方を見ると、
「お前は、日本から来たのかい」
と尋ねました。
「ワン」
「さっきから見ていると、お前さんが通訳をやっているみたいだけれど、なかなかおりこうさんなんだね。この子が幼稚園に入ったら、時々一緒に遊びにいらしゃい。私がこの幼稚園の園長だから、日本からの感心な犬として子供たちにも紹介して上げるからね。私はね、日本人を見るのも日本の犬を見るのもうまれて始めてなのさ。だから、入れて上げる気になったんだよ」
といって園長さんは僕の頭を軽くなぜてくれました。僕は、園長さんから思いがけないお誉めの言葉とお招きとをいただいたのですっかり嬉しくなり、目を細めてその柔かい手の感触を味わいました。
「ジェンク―エン」
「ありがとう」
「さようなら」
「ドビゼニア」
皆でお礼をいって幼稚園を出ました。逆さおむすびの運転手のアダミヤックさんは、メルセデスの運転席でこっくりこっくりと居眠りをしていました。
「ミコちゃんがアメリカンスク―ルに入る前にひろしくんの入園が決まるなんて全く運がいい」
ご主人一家は大喜びです。
「でも、トモコの度胸には恐入ったね」
「言葉はほとんど通じないのになんとなく話は通じちゃうのね。これからもなんとかなりそうだわ」
「トモコぐらい度胸があれば心配なしさ」
ご主人と奥さんの話声でアダミヤックさんは目を覚まし、すぐに車を発車させました。一眠りしたせいかたれさがっていためじりもピンと跳上がり、今度は奥さんに威かされることもなく、無事にアメリカンスク―ルへ百キロメ―トルの猛スピ―ドでふっとばすことが出来ましたから、なんとそこまでたったの五分しか掛かりませんでした。
「昨日私の秘書がミコちゃんの入学依頼の電話をしてOKをとってあるので、だれか出迎えてくれるはずだ」
ご主人のいうように二階だてのアメリカンスク―ルの玄関口にちゃんと出迎えの人が待っていました。頭はツルツルに禿げているのに口元にはふさふさとしたくりいろのひげをはやした男の人とミコちゃんと同じ年頃の金髪の素敵な男の子です。ご主人一家が車から降りると、口髭の男の人が近付いてきて
「ヨクイラッシャイマシタ。ワタシコウチョウノデイビスデス。ドウゾヨロシク」
と日本語で挨拶をしました。ご主人が思いがけないところで聞く日本語に驚いた顔をすると、
「ワタシ、ムカシニッポンニイタコトガアルノデ、ニッポンゴハナセマス」
ご主人はそれは大いに助かります、こちらこそよろしくと握手をしました。
金髪の男の子はツカツカとミコちゃんに近付き、ミコちゃんの右のほっぺにチュッとキスをしました。そのときなんと静電気がピッと弾けたものですからミコちゃんは、両足をまげて僕の頭よりも高くポンと飛上がりました。始めてキスされたためなのか、静電気に驚いたのか分りませんが目をパチクリさせています。ホッペタはもう真赤です。僕たち犬仲間だったら、キスぐらいいつものことですから、あんなに飛上がったりしません。アンナとの時だって僕は全然飛上がったりしませんでした。もっとも少々赤くはなりましたが…
「ヘ―イ、カムオン(さあおいで)ミコ」
男の子はミコちゃんの手をとってひっぱりました。ミコちゃんは手を引かれながら、たちまち姿を消してしまいました。ご主人も奥さんもあっけにとられています。
「シンパイイリマセン。ミコチャンガクルコトヲミンナシッテイマス。ダカラムカエニキタノデス。ミコチャンモスグニアメリカンスク―ルニナレマスヨ」
ご主人たちは心配そうでしたが、校長先生はニコニコしています。
「チョット、ワタシノヘヤデ、コノガッコウノコトニツイテオハナシシマショウ」
校長先生は校長室へご主人たちを案内していきました。僕は、校長先生の話よりもミコちゃんのことが気掛かりでしたので匂いを頼りにミコちゃんたちの後を追ってみました。
二人の匂いは廊下を左に折れ一Aとかいた教室へ行き、廊下のロッカ―のところへ行き、それからトイレに行き、体育館へ行き、運動場に出、階段を昇って図書館へ行き、そしてまた最初の一Aの部屋に戻っているのです。さっきの男の子が恐らく学校の中をくまなく案内してくれたのでしょう。
僕は一Aの部屋の窓の外から後足で立って精一杯背伸びして覗き込みました。が、それでも少し高さが足りません。そこで少し弾みをつけてジャンプして見ますと、ミコちゃんは部屋の真中の机に座り、二十人ほどの子供たちに取りまかれてホッペを先ほどキスされた時のように真赤にしながら話をしているのです。
一体なに語を使っているのか、何について話しているのか分りませんが、いろいろと身振り、手振りをまぜた話に、赤、茶、黄色、黒といろんな髪の色をした子供たちが愉快そうに頷いているところを見ると、ミコちゃんもそれほど心配なさそうです。
―案ずるより生むがやすし
そう思いながら校長室に戻ると、ちょうど話しも終わったと見えてご主人一家が別れの握手をしているところでした。
帰りの車の中で奥さんがいいました。
「ミコちゃんはアメリカンスク―ルへ行きはじめたし、ひろしくんの幼稚園は見付かったし、これで子供たちのことはなんとか目処がついたわね。あなたは明日から商社勤務が始まるし、なんとなくポ―ランド生活も軌道に乗りだしたみたい。さあ、私も皆にまけないように頑張らなくっちゃ」
「さあ僕も、明日から幼稚園だ。皆に負けないように頑張らなくっちゃ」
ひろしくんが奥さんの口調をまねて言ったので、ご主人と奥さんは大笑いしました。実は僕も、
「ようし、僕もみんなに負けないように頑張らなくっちゃ」
と心の中で呟いたところでしたので、ご主人たちに笑われたような気がしてちょっぴり照臭い思いをしました。
その日、アメリカンスク―ルから帰ってきたミコちゃんが最初にいったのが、
「あたしにアメリカンスク―ルの玄関でキスした子、男の子かと思ってたら、マリアっていう女の子だったの。赤くなってそんしちゃった」
この調子なら、ミコちゃんも全く心配なさそうです。
「プップ―、プップ―」
ミコちゃんやひろしくんと屋根裏部屋で遊んでいると、通りの方から大きな自動車の警笛が聞こえてきました。皆で窓から覗く
と、家の前に見慣れない青い色の車が止まっています。ドアを開けて降りてきたのはなんのことはないご主人です。
「お―い、我家の新しい車がきたぞ。皆早く降りておいで」
ご主人は、嬉しそうに手をふっています。ミコちゃんがアメリカンスク―ルへ行きはじめてから一週間近くたった夕方のことで
す。
「わ―い、車がきたんだ」
「すごい。素敵な色の車だわ」
皆先を争って階段をバタバタと降りていきました。らせん状の階段ですので気をつけないと足を踏外してしまいかねません。結局
一着は僕。続いてミコちゃん、ひろしくん、最後が奥さんの順です。奥さんは地下室で洗濯をしていたらしく、エプロンで手を拭
きながらやってきました。
ご主人は車の前で腕を腰にあて得意そうな顔をして立っています。
「素敵な車だろう。これはプジョ―というフランスの車なんだよ。今日から我家の車になったんだ。そこで早速今夜はこの車でど
こかへ夕食に出掛けることにしよう」
奥さんもミコちゃんもひろしくんも車の回りに集って、なぜたり擦ったり、車の中を覗きこんだり、ナンバ―プレ―トの番号を読
んだりしていますが、誰も乗込もうとはしません。
「一体どうしたんだ。早く乗った乗った」
ご主人はドアを開けて促すのですが、皆は顔を見合わせて黙っています。
「そうか分かった。パパの運転では不安だから乗れないというのだね。確かに僕はこの二年ばかり運転しなかった。でもね今日は
丸一日、アダミヤックさんにつきっきりで運転を教えてもらったんだ。現にこうして自分で運転して、我家まで帰ってきた。それ
が信用できないというのならそれでいい。今夜はワルシャワ一豪華なホテルのレストランで僕一人で大御馳走を食べることにす
る」
ご主人は怒ってドアを締めそうになりました。
確かに日本の車と違ってハンドルは右から左へ変っていますし、道路も左側通行から右側通行へ変ったのも事実です。でも、ご
主人は日本でもちゃんと二年前までは運転していたんだし、たかがこれしきのことで、事故を起こしたりするような人ではないは
ずです。もっと信頼してあげなくっちゃ。そう思って、僕はドアの締まる直前に素早く滑り込みました。もっとも豪華なホテルの
御馳走を食べたい気持ちも強かったのですが。
「アッ、チビクロが行くんなら、僕も行く」
ひろしくんが慌てて乗込みました。
「ひろしくんが行くんなら…私も」
ミコちゃんも、奥さんの顔色を半分見ながら、車のステップに片足かけました。
「しょうがないか。愛する夫に二人の子供、それにチビクロだけ先立たせるわけにはいかない。私も運命を共にすることにするか」
とうとう奥さんもご主人の隣の席に乗込みました。
「確かに、ハンドルが右から左へ変ったし、右側交通なので、いささか戸惑うことはあるさ。しかしなんといっても僕はこれまで
無事故、無違反でやってきた腕前なんだし、まあ安心してシ―トによっかかっていなさい」
ご主人は自信たっぷりに発車させました。皆は顔にこそ出しませんでしたが、その実、両手でしっかりと、シ―トにつかまって
いるのです。僕も少し申し訳ないと思いながら、背を低くして床にうずくまっていました。
最初の曲り角を曲りかけたとき、
「アッ!」
奥さんが叫びました。
「キ―ッ」
ご主人は慌てて急ブレ―キをかけました。この前のアダミヤックさんの時と同じようにご主人は三十センチメ―トルも飛上がりま
した。幸いアダミヤックさんほど背が高くないので天井に頭をぶつけずに済みましたが。
「な、なんだい?」
「あの、ちょっと、洗濯してたんで、水道の水をだしっぱなしにしてきたんじゃないかと思って」
「なんだそんなことくらいでそんなに大きな声を出さないでくれよ。だれかが急に飛出してきたんじゃないかと思って、きも
を冷やしたじゃないか」
「そんなことをいったって、急に思いだしたんだからしょうがないじゃありませんか」
「でも、僕は運転しているんだし、隣の席で急に大声をたてられれば、てっきり車のことだと思ってびっくりするじゃないか。水
道の水だったら、別にアッと叫ばなくたっていいだろう」
「アッと叫ばなくたっていいじゃないかと言ったって、急に思いだしたんですからアッと言ったって仕方ないでしょ。急に思い出さ
なくするわけにはいかないわ」
ポ―ランドで聞くご主人と奥さんの最初の口喧嘩です。ポ―ランドにくるまえ確か僕をポ―ランドにつれていくかどうかをめぐ
ってさんざん聞かされたことがあります。あのときと少しも変りありません。日本にいたときのようにこうして堂々と口喧嘩が出
来るようになったのもそれだけご主人と奥さんがポ―ランドの生活になれてきた証拠に違いありません。ミコちゃんとひろしくん
はまた始まったかという顔をして、両肘を前のシ―トの背もたれについて聞いています。
なんでも、人間の世界には夫婦喧嘩は犬も食わないということわざがあるそうです。確かに僕も夫婦喧嘩はあまりいただけると
はおもいませんが、その言い方は、はっきりいって気に入りません。
「犬も食わない」
というと、犬はなんでも食べちゃうがそんな犬でも食べないというちょっと嫌な意味がその裏にこめられているからです。
曲り角で夫婦喧嘩が続いているうちに他の車が一台後ろに停車しました。口喧嘩に夢中になっているご主人はそれに気がつかな
いようです。僕はそれを気づかせて上げようと思って、
「ウ―ワンワン」
と吠えました。と、ご主人と奥さんは後ろの車にはっと気づき、僕のほうを罰の悪そうな顔でチラリとみると、
「こんな道路の曲り角で口喧嘩などしている場合じゃない。さあ、出発だ」
車はふたたび走り始めました。今度は奥さんも、
「アッ」
と叫んだりしないので車は滑かに走ります。それにしても、出しっぱなしの水道の水はどうなっているのでしょう。僕は少々気に
なりましたが、ここでぼくが、
「ワン」
とでも吠えようものなら、今度は僕がご主人のきもを冷やすことになりかねませんので黙っていました。まあたいていの場合、奥
さんが忘れたかしらというときは忘れてないことが多いのです。
ご主人は左ハンドルになれないせいか、スピ―ドをそれほど出さずに走っていますが、事故の心配をしなければならないような
ことは全くありません。皆のシ―トをつかんでいた腕からも次第に力が抜けていきました。僕も後ろの座席に上がって、ガラス窓
からワルシャワの景色を楽しむことにしました。
「今日は、ビスワ川のほとりにあるソレッツというホテルにいくことにしよう。ほら、この通りがワルシャワ一の大通りマルシャ
コフスカ通りだよ。通りの真中に中央帯があって、赤い市電が走っているだろう。この前日本大使館へいった時にはこの電車に乗
ったのだよ」
通りの両側には大きな街路樹が植わっています。どこに行っても大きな街路樹があるのには感心させられます。広い歩道があっ
て、人々がゆっくり歩いています。石造りの建物がどこまでも続いて建っています。
「ここを右に曲ってしばらくいくと……」
車は右に大きなカ―ブを切り、両側に三車線ある道路を走っていきます。
「ほら、大きな河がみえて来ただろう。この河がね、ポ―ランドの母なる大河と言われるビスワ河だ。ポ―ランドの大きな都市の
多くはこの川の岸辺に発達しているんだよ。現在の都のこのワルシャワ。四百年まえまで都だったクラコフ。コペルニクスという
偉い学者が生まれたトルン。バルト海に注ぐ河口には、グダンスクにグジニアという二つの大きな港町がある」
僕は右の窓へ首を回してビスワ河を見ましたが向うの河岸までずいぶんあります。その間を溢れるような水が流れています。両
岸には背の高い木が沢山植わっていますが、まだ芽をふいていない枯木同然の枝の間から、夕日に照りはえる水面がみえます。ご
主人はビスワ河にまつわる話を続けています。
「今から四十年まえ、世界中が大戦争をしていたんだよ。この戦争を第二次世界大戦と言うのだけど、その戦争はこのポ―ランド
にドイツ軍が攻入ったことから始まったのさ。その戦争も終りに近くなって、ソビエト軍はドイツ軍を撃退させながらとうとうこ
の川の向う岸まできたんだよ。ワルシャワは未だドイツ軍に占領されたままだったけれど、ワルシャワの市民は、ソビエト軍が助
けてくれることを期待してドイツ軍を相手に戦いをいどんだんだ。ところがソビエト軍はピクリとも動かなかったんだね。ワルシ
ャワ市民が持っている武器といえば、小銃とか鉄砲の類ばかり。完全武装したドイツ軍に勝てるわけがない。それでもポ―ランド
人はずいぶんとがんばったんだけど、二月後に降伏する。ドイツ軍はワルシャワの全住民を追放し、市街をかたぱしから略奪して
火を放ち、王宮をダイナマイトで爆破した。そのとき戦死したり、処刑されたりした人の数が二十万人と言われている。その結
果、このワルシャワは、ほとんどがれきの山となり、戦争前には百二十万だった人口が二十万人まで減ってしまったんだ。この事
件は『ワルシャワほうき』という名で有名な史実なんだけど、ポ―ランドの公式の歴史の中では認められていない。ソ連にとって
都合の悪い事件だからね」
「へえ、本当のことなのにどうして、ソ連は認めようとしないの」
「今も、ポ―ランドはね、ソ連の言うことをむりやり聞かされているのよ。ソ連が昔の王様みたいに威張っているの。王様にとっ
て都合の悪いことはなにも話したり、書いたりしてはいけないことになっているの」
「ふ―ん、ちょうど王様の耳はロバの耳というお話にそっくりね」
「そう、その通りなんだ」
「ミコちゃん王様の耳はロバの耳ってどんなお話なの」
「昔々あるところにね、とってもいばった王様がいたのね。その王様の耳は本当はロバの耳のように長くて毛がモジャモジャはえ
ていたの。でもけらいや町の人は王様の耳がロバの耳っていえないの。言えばつかまって牢屋にぶちこまれたり、縛り首にされ
ちゃうの。だからちょうどソ連が王様で、ポ―ランド人は王様のけらいみたいに思えたの」
「ポ―ランドはソ連なんかのけらいなんかやめちゃえばいいのにね」
「ポ―ランドは、本心ではけらいでなくなりたいのでしょうけどね、王様はそんな勝手はゆるさないのよ。ガキ大将が少しくらい
無理なことをいったって周りの子供たちはいう通りにしなければならないことがあるでしょう」
「そういえば、アメリカンスク―ルにはジョンというガキ大将がいるの。ジョンがこうしろああしろというとその通りにする男の
子たちがいるの。聞かないと、ゴツンってやられちゃうのよ」
「ポ―ランドって、かわいそうな国なんだね」
「うん」
「ほんとに」
ご主人も奥さんもしんみりと頷きました。
話がここまで進んだとき、車がす―っと止まりました。ご主人がさきほどいったソレッツ・ホテルの前でした。いよいよ豪華な夕食です。もうさっきから僕の口の中はつばきで一杯です。
「犬も食わない」
という言い方は気に入りませんが、確かに僕も犬族の一員にふさわしく、いつでもびっくりするくらい食欲があることを認めない
わけにはいきません。
ホテルの入口を入るとすぐ左側がレストランになっていました。ご主人一家がツカツカと入ろうとすると
「プロシェパ―ナ(もしもし)」
という声がかかって来ました。レストランのドアの左側にあるカウンタ―の奥に座っていた中年の丸顔のおばさんが立上がって呼
びとめたのです。
「レストランに入る前に皆さんの着ているコ―トをこのクロ―クに預けて下さい」
「わかりました」
と即座に答えたのはひろしくんです。ご主人たちに今度は日本語でコ―トを預けていくようにと教えています。たったの一週間ポ
―ランドの幼稚園に行っただけなのにひろしくんは、もうこんなにポ―ランド語がうまくなったのです。人間も子供の場合は、犬と
同じ様に語学の才能があるとみえます。
クロ―クのおばさんはひろしくんがポ―ランド語がわかるとみると、ニコニコと丸い顔をますます丸くして、
「可愛い子だねえ、真直ぐな黒い髪をして。どこの国から来たのかい」
コ―トをハンガ―に掛けながら声を掛けました。
「日本から」
「まあ日本から。それでどこの町からきたのかい」
「東京」
「えっ、東京。まあかわいそうに。東京ってところは、人が多くて、車が多くて、空気が汚れていて、物価が高くて、とうてい人
の住めるところじゃないというじゃないか。この前テレビでやってたよ。皆さんはワルシャワみたいにいいところに来れて本当に
良かったね」
東京はそんな酷いところではないのにクロ―クのおばさんはそう信じ込んでいるようです。コ―トを預けてレストランに入ろうと
するとおばさんがいいました。
「ここではねえ、レストランには犬を連れては入れないのだよ。犬はホテルの玄関口につなぐところがあるからそこにつないでお
いで」
―せっかく豪華なホテルで一緒に食事ができると思ってやって来たのに……と思うと僕は全身から力が抜け一層空腹感が強まるの
を覚えました。 とミコちゃんが、
「チビクロは特別な犬なの。日本からたった一匹でこの遠いポ―ランドまでわたしたち一家の後を追って来たのよ。それにポ―ラ
ンド語がみんなわかるの。だからこれまで私たちがポ―ランド語が話せるようになるまで、このチビクロがわたしたちの通訳をやっ
てくれていたの。だから、今日はチビクロへのお礼のための食事なの。もし、チビクロを玄関口につながなくっちゃならないんな
ら、わたしたちも食事を止めて帰らなくっちゃならないわ」
もちろんこんなに滑かに話せたわけではないんですが、とにかくミコちゃんはこれだけのことを必死になっていったのです。ミコ
ちゃんが引掛かるとひろしくんが助け船を出します。二人があまり一生懸命なのでクロ―クのおばさんも話しに引込まれるよう
に、カウンタ―から身を乗りだして聞いていましたが、コックリ頷くと、
「よ―くわかったわ、モメント(ちょっとまっててね)」
というとカウンタ―の下をくぐって外に出てき、すたすたとレストランの中に入って行きました。さっきから事情がのみこめずに
キョトンとしているご主人と奥さんにミコちゃんとひろしくんが今までのいきさつを説明してあげています。
しばらくするとクロ―ク係りのおばさんは黒い立派な服を着たデップリと太った男の人と一緒に帰って来ました。レストランの
入口辺りで立止まりこちらをチラチラみながら話をしているところを見ると、その男の人に事情を説明しているようです。でもな
かなか話はつきそうにありません。とうとうクロ―ク係りのおばさんと太った男の人とは、顔と顔とがくっつかんばかりにして大
きな声で怒鳴りあいを始めました。
「規則は規則だよ、たとえ、どんな立派な犬だろうが犬は犬。犬などレストランに入れるわけには絶対にいかない」
「だって、あの犬は特別の犬なんですよ。日本からたったの一匹で飼主をしたってやってきたっていうし、ポ―ランド語がちゃん
とわかるっていうし」
「日本の犬でポ―ランド語がわかるって。ふん、日本の犬でなくったってポ―ランドの犬なら、お手、こっちへ来い、待て、止ま
れ。みんなポ―ランド語がわかる。別に感心するほどのことではないね」
「その程度のことでなにも感心していただこうなんて少しも思いませんわ。その犬はねえ、日本語とポ―ランド語の通訳をやって
いたっていうんですよ。通訳をね」
「通訳?じゃああんたはあの犬が通訳をやるところをちゃんとその目で見たとでもいうのかね」
「話をきいただけですから見たことはありませんわ」
「そんなのでたらめに決っている」
「まあ、でたらめですって、じゃぁ、あの日本の子供たちが私にでたらめをいっているというんですか」
「あんな小さい子供のいうことなんてあてにならんよ」
「それじゃ、賭けますか。もしでたらめでなかったら、一体どうしてくれます」
「そのときは、喜んで、あの日本のお犬さまとやらにこのレストランの一番いい席でお食事を取っていただこうじゃないですか」
「わかったわ、もしでたらめだったら、私は、あなたの前でチンチンを三回やってワンと吠えますわ。それじゃ、でたらめかどう
か実際に試してみましょうよ」
クロ―ク係りのおばさんと、ビヤ樽の様に太った男の人が鼻の穴を大きく脹らませ、ギラギラした目で僕を見ながら近付いてき
ました。
ミコちゃんとひろしくんにも、今までの話の内容は大体わかった様です。
「チビクロが通訳がやれるってことをどうやってわからせたらいいのかしら」
「そうだ、この前幼稚園に行った時、パパがイエスの時はワンだけ、ノ―の時はワンワンと答えさせたでしょ。あれをやらせよう
よ」
「そうね、それは名案ね」
ミコちゃんは、近付いて来た二人の前に出ていき、
「クロ―クのおばさん、それに、あの―ちょっとばかし太めの小父さん、このチビクロが通訳できるかどうか、賭をしたんでし
ょ。それではチビクロがどうやって通訳をするかお見せするわ。まず、ポ―ランド語がどのくらいわかるかってところからやりま
すから、チビクロに、ポ―ランド語であなた方からなにか質問してみて下さい。そうしたら、チビクロがあっているとき、つまり
タ―クのときはワン、間違っているとき、つまりニエッのときはワンワンと吠えますから。チビクロもいいわね」
「ワン」
僕がそう吠えるとミコちゃんはニッコリしました。
「それじゃ、ワシから一つ聞いてみよう。ポ―ランドの首都はワルシャワかね」
「ワン」
「ポ―ランド語ではネコのことをコットというかね」
「ワン」
「ネコの好物はネズミかね」
「ワン」
「ふん、ポ―ランド語が少しわかるみたいだが、ちょっと質問がかたより過ぎた。いつもワンとだけいうだけかもしれんな。今度
はニェッという質問も混ぜねばなるまい。さ―てと… 」
「日本はポ―ランドのすぐ近くにあるのかね」
「ワンワン」
「水は低いところから高いところへ流れるのかね」
「ワンワン」
「ワシは凄くやせているかね」
「ワンワン」
「ワシは素敵かね」
さあ、これはむずかしい質問です。ビヤ樽のように太っていて、アゴが三重にもなっているのに、良くこんな質問ができるもの
ですが、素敵か素敵でないかは、自分で決めればいい種類の問題ですし、この小父さんは夢見る乙女のような目で僕をじっと見
つめているのです。僕は答えました。
「ワン」
「ワシは、凄く男性的かね」
「ワン」
「ワシは、食らいつきたくなるほど魅力に溢れているかね」
「ワン」
「ワシは、世界中の女性にもてそうかね」
「ワン」
「ブラボ―。素晴らしい!完璧だ。こんな素晴らしい犬を見たことはこれまで一度もない。まさに天才だ。ポ―ランド語が良くわ
かっているばかりではない。わがポ―ランド文化―つまり、他人にたいして限り無く優しいというポ―ランドの文化を君は良くわ
きまえている。よし、賭けは、ワシの負けだ。さあ、君はチビクロといったな。今晩は君の分はワシのおごりだ。大きな骨つきの
肉のかたまりを進呈しよう。チビクロくんとお連れの日本人の皆さん、私がこのレストランの支配人のデブコフスキ―です。私の
レストランへようこそいらっしゃいました。一番奥の一等席へご案内しましょう。さあ、どうぞ」
デブコフスキ―さんは大きな体を揺すりながら先頭にたって歩きはじめました。前の方から見たら、きっと、デブコフスキ―さ
んの陰に隠れてご主人一家の姿はまるでみえないに違いありません。案内されたのは、五人ほどのバンドマンが演奏しているボッ
クスのすぐ近くの席でした。観葉植物の鉢が幾つも飾ってあります。デブコフスキ―さんは僕の背が低いのを見ると、普通の椅子
の上にお子様用の椅子を重ねて特別高い椅子を作ってくれました。首から上だけテ―ブルの上に出していたひろしくんも、
「僕もチビクロの様に高くして」
といって、椅子を二つ重ねて貰いました。 デブコフスキ―さんは、最後に僕の首の回りにナプキンを結えつけてくれ、
「どうぞ、いいお食事を。すぐにウエイトレスを寄越しますから」
というと、大きな体を揺すりながらいってしまいました。
テ―ブルの上には、真白いテ―ブルクロスが掛かっており、その真中には一輪差しの花瓶が置かれ、クロッカスの花がいけてあ
ります。こんな豪華なところでおまけに白いナプキンを付けて食事するのは初めてのことなので僕はすこしばかり堅くなりまし
た。ご主人一家もポ―ランドのレストランで家族だけで食事するのは初めてのことですのでどことなく落着きがありません。
「すぐにウエイトレスを寄越しますといったけれど、メニュ―一つなかなか持って来ない。どうしたんだろう」
「日本でなら座るか座らないうちにウエイトレスがすぐ飛んでくるのにおかしいわね。ずうっと向うの方で二、三人集っておしゃ
べりしているのはウエイトレスでしょう。おそろいの茶色の服を着ているし。私たちがここに座ったのに気がつかないのかしら」
すぐかたわらのボックスではバンドが、ゆっくりした曲を演奏しています。それに合せて、食堂の真中にしつらえられたダンス
フロアで踊っている人達もいます。老いも若きもといういいかたがありますが、踊っているのは若い人というより、むしろご主人
と同じぐらいの歳の人が多く、中には東京のおじいちゃんおばあちゃんと同じ位の歳の人達も腕を組み足を上げて楽しそうに踊っています。食事をしている人は小さな声でみんな楽しそうに話しています。明りは薄暗いぐらいで辺りには落着いた雰囲気が漂っています。僕は明かる過ぎるのは苦手なので大助かりです。
「遅いなあ、一体どうなっているんだ」
「もうかれこれ二十分にもなるのにねえ」
しかし、いらいらしているのはご主人一家だけのようです。ご主人一家より早く来た人達のところにもまだメニュ―が来ていない席
もありますが、一向にあわてるようすでもなく話しに花を咲かせています。
「ポ―ランドでは、サ―ビスが悪いって聞いていたけれど、これほど悪いとは思わなかったな」
ご主人がそういったとき、ちょうどメニュ―が届きました。
「いらしゃい。メニュ―をどうぞ」
茶色の制服を着た金髪の小柄なウエイトレスです。メニュ―を置くとさっといなくなりました。
「三十分たってやっとメニュ―か。一体どうなってるんだろう」
ご主人がぶつぶついいながらメニュ―を開きました。メニュ―にはつるの様につながったまるっこい文字が一杯書いてあります。
「さあてと。なにがなんだかさっぱりわからないな。おや、こっちはフランス語でこっちがポ―ランド語のようだぞ。フランス語
ならば、なんとかなりそうだな。ふむふむ、これがオ―ドブル、これがポタ―ジュ、ポ―ランド語ではこれをズッペというのか、
そういえばス―プにすこし似ているな、これがポアソンだから魚というわけか」
「パパ、僕もうきめちゃった」
「えっ、まだパパはメニュ―を読んであげてないのにどうやって決めたんだい」
「あそこの小父さんが食べているのが美味しそうだから僕あれにする」
「あたし、その向うの女の人が食べている、ソウセ―ジやキャベツやら一杯煮込んだのがいい」
「なるほど、メニュ―を苦労して見るよりかそっちの方がてっとり早いな。パパもそうするとしよう」
こうして一通り、注文の料理が決りましたが、今度は注文をなかなか取りに来ません。
「こうなりゃ、郷に入らば郷に従えだ。腰を落着けて待つことにしよう。おや、いい音楽をやっているじゃないか」
ご主人は初めてバンドの演奏に気付いたようです。
「まあ、懐かしいわ。私たちが初めて一緒にダンスを踊ったときの曲よ。ほら、『魅惑の宵』って曲。あなた踊らないこと」
「よし、踊ろう。ミコちゃん、ウエイトレスが来たら、合図を頼むよ」
いつものことながら、変り身の早いご主人と奥さんです。注文のことはそのままに、さっとたってダンスフロアで踊りはじめまし
た。
「おなかすいちゃったけれど、僕たちもなにかゲ―ムやらない、ミコちゃん」
「そうね、じゃ果物と野菜だけのしりとりゲ―ムは?」
「うん、それじゃ、僕から出すよ、僕の一番好きなスイカ」
「カボチャ」
「やだね、や、や、ヤキイモ」
「ちょっと怪しいけどおまけにしとくわ、モモ」
「モヤシ」
「シソ」
「ソラマメ」
「メロン」
「あつ、ミコちゃんが、ンって言った。ミコちゃんの負けだ。さ、ミコちゃん手を出して、僕がしっぺするから」
ミコちゃんがテ―ブルの上に手を出しました。ひろしくんがねらいを定めて打とうとすると、ミコちゃんはさっとひっこめてしま
います。
「ミコちゃんずるいよ、もっとちゃんと出しておかなくちゃならないんだよ」
「そんなことないわ、それは私の自由よ」
「あっ、ミコちゃん、ウエイトレスが来たよ」
「エッ」
「パチン」
ミコちゃんがちょっとウエイトレスに気を取られたすきにひろしくんはミコちゃんの手をパシッと叩きました。
「いた―い。ヒロシ、良くもやったわねえ。でも本当にウエイトレスが来ちゃったからパパたちに連絡しなくっちゃ」
ミコちゃんが手を上げて合図すると、ご主人と奥さんは、すぐテ―ブルに帰って来ました。奥さんは気持ち良く踊っていたとみえ
て、両頬がポ―ッと上気しています。さきほどの金髪のウエイトレスが、
「ご注文は」
といって、メモを構えました。
ご主人は、ス―プはこれこれとメニュ―から、お肉はあれ、それと近くの人の料理をこっそり指差しました。ミコちゃんが注文
したソ―セ―ジやキャベツやらを一杯煮込んだ料理は、ビゴスというポ―ランドの名物料理ということがわかりました。
「あれ、僕の頼む料理がなくなっている。どうしよう」
ひろしくんが悲鳴を上げました。みると確かに先ほどの小父さんはもう違うものを食べています。しかし、あの小父さんが食べて
いたものと同じ物ということでウエイトレスも、
「ロズミエム(わかりました)」
とニッコリして引下がりました。
どっちみち、料理が来るまで時間が掛かるだろうといって、ご主人と奥さんは料理の注文が終わると、またすぐダンスへいって
しまいました。奥さんの頬の赤みはまだ収まっていませんでした。
「それじゃ、わたしたちもさっきの続きをしましようよ。今度は動物のしりとりよ。私から出すわね。いい?」
「うん、いいよ」
「じゃあ……ワニ」
「ニンゲン。アッしまった」
「ひろしったら馬鹿ね。ワニというといつもすぐニンゲンっていうんだから。さあ、しっぺよ。手を出して」
「また、あの手にやられたか、う―ん残念」
今度は、ひろしくんが盛んに手を動かしてなかなかミコちゃんに打つチャンスを与えません。
僕だけ一人ポツンとしているのはさびしいので僕は、すぐかたわらのバンドの小父さんをながめることにしました。目の前でい
ろんなボタンみたいのがたくさんついたほそ長い笛を吹いている男の人の顔の表情がとても面白いので、僕は一生懸命その人の様
子を見ていました。息を吸うとそれを両方の頬に一杯ため、吹くときにはいかにも苦しそうに目じりや額にしわを一杯よせます。
吹いている間は堅く目をとじていますが、息を吸う瞬間、パッと目を開けます。泳いでいる人が息をするときパッと口を開けるの
と良くにています。その目を開けたとき、僕の目と視線があいました。と、片目をつぶって、僕にウインクしてくれたのです。僕
もそれにこたえようとして片目をつぶろうとしましたが、うまくいきませんでした。もう、笛の小父さんは、両目を閉じて、一生
懸命に笛を吹いています。そこで笛の小父さんが今度目を開けたときに合図をしようと思って待構えていました。
曲の切れ目に笛の小父さんがパッと目を開けた瞬間、僕は右足をパッと上げ、片目をその足で隠しました。ウインクできないの
で、足先で片目を隠したのです。笛の小父さんは、ちょっと驚いたように目を見開きましたが、すぐ目を閉じてしまいました。僕
は、僕のウインクがはっきり伝わったかどうか不安でしたので、次ぎの曲の切れ目を待ちかまえていました。笛の小父さんがその
つぎ目を開いたとき、僕は今度こそ良く分るように、右の前足で、片目を押え、そのついでに首を直角にかしげ、耳をピクンと動
かしました。
笛の小父さんの目は、今度はびっくりしたように大きくなり、両頬のふくらみがこれまで以上にふくらんでいき、次ぎの瞬間と
うとうこらえきれなくなって笛の中に、
「ク、ク、ク、ク」
笑ったとも、咳込んだとも区別のつかないない息を吹きこんでしまいました。
「プゥ―プゥ―プゥ―」
突拍子もなく大きな笛の音が辺りに響きわたりました。とうとう笛の小父さんは笛を口から話し、
「ワッハッハッハ」
と腹をよじって笑いだしました。
バンドの他のメンバ―はあっけにとられて演奏をやめてしまいましたし、踊っていた人達も踊りをやめて笛の小父さんの方を振
返りました。バンドの一人が、
「一体どうしたんだヤ―ヌシュ。急に笑いだしたりして」
「いや―参った参った。僕の前にナプキン結んでちょこねんと座っているこのおちびの犬君が、僕がちょっとウインクしたらウイ
ンクでも返すつもりか、盛んに面白いしぐさをするのだよ。前足で右目を隠してみたり、首を傾けてみたり、いろいろするもんだ
から思わず吹きだしてしまって。すまんすまん」
「この黒い子犬がウインクをだってどれどれ」
バンドのメンバ―は演奏そっちのけで僕のテ―ブルの周りにぞろぞろ集って来ました。踊っていた人達もその後に人垣を作り背
伸びをしてのぞきこんでいます。みんながヤ―ヌシュとよばれた笛の小父さんにもう一度ウインクをしてみろとけしかけていま
す。笛の小父さんは僕の前に進みでると、ちょっとばつの悪そうな顔をして、右目をキュッとつぶりました。僕も負けずに、もう
一度右の前足で右目を隠し、首を直角にかしげ耳をピクリと動かし、今度はおまけに尻尾も振りました。
見ていた人は、どっと喚声を上げ我先に僕に向かってウインクを始めました。僕はここは一つサ―ビス精神にてつしようと心に
決め、一人一人に僕流のウインクを返しました。みんな大喜びです。
「なかなか面白い犬だね、ぼうや。名前は何ていうの」
「チビクロというんだよ」
「おじょうちゃん、チビクロにどうやって、ウインクの芸をしこんだんだね」
「あら、チビクロがウインクするなんてこと今の今までしらなかったわ。でも、チビクロは、通訳ができるんですから、ウインク
することぐらいアサメシ前だと思うわ。今はユウメシ前ですけどね」
「通訳?」
「そう、いまさっきも、このレストランの支配人のデブコフスキ―さんに、通訳できるところをお見せして、そのごほうびにバン
ドに一番近いこの特等席と骨付の肉のかたまりを御馳走して貰うことになったのよ」
「そんな凄い犬が今夜のお客とは知らなかった。それじゃ、今夜はチビクロのために我々の腕をふるって一つ大いに演奏しょう」
バンドのメンバ―がボックスに戻り、テ―ブルを取囲んでいた人の輪が消えるとご主人と奥さんだけが残りました。ご主人たちも
輪の中で今までの様子を見ていたのです。ちょうどそのとき料理も運ばれてきました。デブコフスキ―さんが御馳走して上げると
いっていた例の骨付の肉のかたまりもちゃんと届きました。
「いいお食事を」
ウエイトレスはちゃんと挨拶をし、僕に微笑みながらウインクをして引下がりました。
バンドの演奏が始まりました。最初の曲は「子犬のワルツ」の変奏曲です。これはポ―ランドが生んだ名作曲家ショパンという
人の曲だそうです。それから次々に犬に関係のある曲や日本の曲を演奏してくれました。ご主人や奥さんは、
「これは、荒城の月だ」
「あっ、さくらさくらよ」
となつかしそうな顔できいています。
「こんな遠いポ―ランドで日本の曲を聞きながらこうしてゆっくり食事できるなんて、全く想像もしなかったけれど実にいいもの
だね」
「お肉の周りには、こんもりと盛上がるほどのジャガイモ。一皿一皿がかなりボリュ―ムがあって、最初はとても食べきれないと
思っていたけれど、一つの皿が引込んでから次ぎの皿が出てくるまでたっぷり時間があって、その間に演奏を聞いたり踊ったりお
話をしたりしていると、結構おなかに入るものなのね」
「なるほど、こうやってゆっくり時間をかけて食べるってのも、なれてしまうといいものなのかもしれないね」
「そうね、考えてみるとこのほうが人間らしいのかもしれないわ。本当に食事を楽しむってこういうことなのかもしれないわね」
「食事に二時間以上もかけるって、日本じゃとうてい信じられないことだけどね」
どこのテ―ブルでも、みんなゆうぜんと食事をとり、楽しそうに話しあっています。食べては踊り、踊っては食べ、大きなビフ
テキを平らげた後で、デザ―トに大きなチ―ズのかたまりや、日本の生菓子の二倍ほどもあるいかにも甘味のきつそうなお菓子を
注文して、平然と食べています。
ご主人たちが、デザ―トに選んだのは、さすがに「小さめのアイスクリ―ム」ということでした。みんながデザ―トを食べ終わ
りかけたとき、バンドは気を利かして、「ホタルの光」を演奏してくれました。
ご主人一家が席をたつとバンドのメンバ―が一斉にウインクしました。今度はみんなを笑わせるとせっかくの演奏が駄目になり
かねませんので、僕はただ尻尾を振るだけにしておきました。レストランの出口にウエイトレスがせいぞろいして送ってくれまし
た。クロ―クでコ―トを受取り、クロ―クのおばさんに楽しく食事ができたお礼と別れの挨拶をしていると、デブコフスキ―さん
も、大きな体を揺すりながら現れました。
「お食事いかがでした。ご満足いただけましたか。それはおおいに結構。またいらして下さい。チビクロも是非一緒に」
こういいながらご主人に握手をし、奥さんの手の甲にキスをし、ミコちゃんとひろしくんのほっぺにキスしました。最後に僕の
頭をなぜながら、たずねました。
「今日の料理は気に入って貰えたかね、チビクロ」
「ワン」
次の休みの朝です。
「ミコちゃんにひろしくん、今朝、家主のバランスキ―さん一家がお見えになるのよ。お願いしておいたお手伝いさんを連れてきて下さるの。だから、早く食事を済ませて、食器は流しまで運んでね」
「ママ、お手伝いさんって何のお手伝いをするの」
ミコちゃんがききました。
「簡単にいうとママの助手ってとこね。ママこれから色々と忙しくなるでしょ。お家も東京の何倍もあるし、掃除するだけでも大変でしょ。それに毎日長いこと待たなければならない買物もあるし。日本からいらっしゃるパパのお客様のおもてなし。あなたたちの下着の洗濯に日本語の補習。広い庭の手入れ。とてもママだけでは手が回りそうにないわ。そこで家主のバランスキ―さんに頼んでお手伝いさんをさがして貰ったの。そうしたら前にバランスキ―さんの家で働いていたこともあるいい人が見つかったらしいの」
「へぇママに助手が来るの。いいなあ。僕も助手がほしいなあ」
「ひろしくんにはちゃんとチビクロという立派な助手がいるじゃないの。昨日だってひろしくんたら幼稚園にハンカチを忘れていったんだから。そうしたらチビクロが追掛けていって渡してあげたじゃないの。助手が欲しいのはあたしの方よ」
「ミコちゃんだってこの間遊んでいてスカ―トを木の枝に引掛けてすってんころりんって転んだとき、チビクロに助けてもらったじゃないか。それに泣きそうになった時にもほっぺたをなめて貰ったりしてさ」
「まあひろしくんたら、言ったわね」
「チビクロはなかなか有能な助手見たいだな。こういうことになるとパパもチビクロみたいな助手がほしいな」
「あら、あなたにはバンダさんという美人で有能な秘書がオフィスにいらしゃるんじゃないの」
奥さんがちょっとトゲのある目つきでご主人の方をチラッとにらみました。ご主人はそれが聞えないかのように時計をのぞきこむと、
「もうそろそろバランスキ―さんがお手伝いさんを連れてくるころだな」
ブルルンブルルン。表の通りの方から弱々しい車のエンジンの音が聞こえてきて、家の前で止まりました。きっとバランスキ―さん一家に違いありません。僕は先頭を切って玄関へ走っていきました。ミコちゃんもひろしくんも、
「ワア―イ、お手伝いさんだ」
と叫びながら、僕の後を追ってきました。 ご主人と奥さんは食堂の窓ガラスごしに確かめてからやってきました。
玄関のドアを開けると家の前に小さな赤い車が一台止まっていました。ご主人のプジョ―に比べると半分位の大きさしかありません。
「あっ、あれはポルスキ―フィアット126って車だよ」
車のことならなんでも良く知っているひろしくんが言いました。
「そうだね、イタリアのフィアットという自動車会社と提携してポ―ランドで車を作っているんだけれど、小さいほうのツ―ドアの車が、あの126。パパのプジョ―と大体同じ大きさのがポルスキ―フィアット25という車だ」
「でもパパ、プジョ―にくらべたらちょっとスタイルが悪いね。それにスピ―ドも余り出ないみたいだね」
車の左側のドアがギ―ッと音をたてて開きました。顔中ひげだらけの大きな男の人が狭いところから這いでるような感じで降りてきました。
「あの人が家主のバランスキ―さんだよ」
ご主人が皆に説明しました。バランスキ―さんは車の左側に回っていき、ドアを開けてあげました。助手席にはまんまるい顔をした太った女の人が座っています。狭い助手席にピッタリはまりこんだのか体の向きを変えるのもひと苦労のようです。 プ―ルに落ちた人を助けあげてやるようにしてバランスキ―さんがやっとその女の人を車から降ろしました。降りた拍子に車がユサユサと揺れました。
「あの方がバランスキ―さんの奥さんのハンナさんよ」
奥さんが言いました。
続いてそのすぐ後ろの席に座っていたシュ―クリ―ムのようなヘアスタイルをした女の人が、助手席の椅子を前に倒して降りはじめましたが、この人もハンナさんに負けず劣らず太っているので助手席と車の柱との間にはさまってしまい身動きがとれなくなってしまいました。バランスキ―さんが引張ります。後ろからハンナさんも引張ります。
「一二の三」
ふたりしてやっとのことで引ずりだしましたが、せっかくのシュ―クリ―ムがたのヘアスタイルがいつの間にか空飛ぶ円盤のようにペチャンコになってしまっています。
「あの人がきっとお手伝いのユラさんよ」
ユラさんはペチャンコになった髪を両手で一生懸命に直しています。
続いて十歳程の金髪のやせた男の子がスルリと降りてきました。大きな太った人三人も続いた後にみるせいかまるでカトンボのように見えます。
「バランスキ―さんの息子のヨゼフよ。小学六年生」
これで終りかと思っていると最後にもう一人頬が真赤な女の子が降りてきました。ハンナさんやユラさんほどではありませんが、結構太っています。でも若いだけ動作はびんしょうで誰の手も借りずに身軽にポンと飛びだしてきました。その反動で車がブルンとゆれました。
「バランスキ―さんの娘のヨアンナよ。十七歳高校三年生」
あんな小さい車によくこれだけ太った人達が乗ってたものです。車の苦労がよくわかります。あえぐようなエンジンの音がしていたのも無理ありません。バランスキ―さんたちは通りにせいぞろいするとやおらこちらを向直り、
「ジェンド―ブリ」
声をそろえて挨拶をしました。
「どうぞ入ってきてください」
ご主人が声を掛けると、緑色の金網の扉を開け、ハンナさんを先頭に玄関の石の階段を昇ってきました。入口で挨拶が始まりました。
バランスキ―さんは奥さんの手をとってチュッとキスしました。 奥さんはたちまちポッと頬を赤くしました。ご主人はどうするかと思って見ているとバランスキ―夫人やユラさんやヨアンナに握手だけしています。いつだったか、
「今度ポ―ランドの女の人に挨拶するときは僕も手の甲にキスをするぞ」
と言っていたことがありましたが、なかなか実行はできないみたいです。 バランスキ―さんがお手伝いのユラさんをご主人一家に紹介しました。ユラは腰を屈めるようにして一人一人に握手しました。
「そうぞよろしく、ミステル」
ご主人はこれからミステルと呼ばれることになりました。
「どうぞよろしく、マダム」
奥さんはマダムです。
「どうぞよろしくミコちゃん、どうぞよろしくひろしくん」
ユラはそういってミコちゃんとひろしくんを両手に抱え上げ、二人のほっぺたに代わりばんこにキスをし、
「ムイコ―ハニ―(私の可愛い人)」
ときつく抱きしめました。 ミコちゃんもひろしくんもいっぺんにユラが好きになったようです。 皆の挨拶が終わるとご主人が僕のことをバランスキ―さんたちに紹介してくれました。
「我家の愛犬チビクロです。日本から我々を尋ねて一万キロメ―トルもやってきた。今ではポ―ランド語も全部分かる。ミコちゃんとひろしくんのお手伝いさん」
ご主人のややあいまいなポ―ランド語でしたので皆に良く分かったのかどうか良く分かりませんでしたが、バランスキ―さんはじめ全員が目を皿のようにして僕を見たので大体は通じたに違いありません。
「チビクロ、よろしく。なかなか賢そうなつらがまえだな」
バランスキ―さんは、ひげだらけの顔ですので犬族としては親しみがわきます。ひげの奥の目は優しそうです。
「チビクロは日本から独りでやってきたの。偉いのねえ」
ハンナさんは両方の頬が焼きたてのコッペパンのように盛上がっています。これでも結婚するまえまで有名な歌手で踊も踊っていたというのですからちょっと想像できません。今では片足を二十センチメ―トルあげるのも大変なことでしょう。
「お手伝いのユラよ。これからは同じ屋根の下で暮らすのよ。仲よくやりましょうね」
そういいながらユラは僕を抱きあげてくれました。ユラは近くでみると顔中にシワがあります。それも不思議ではありません。もう六十四歳というのですから。でも僕を抱きあげてくれた手は、驚くほど大きくて力強いのです。きっと働きものに違いありません。
「わたしの話すポ―ランド語が皆分かるのチビクロ。すごいのねえ。高校で英語を習ってるけどなかなか良く聞きとれないわ」
ヨアンナは、腰を屈めて頭をなぜてくれました。赤い頬がりんごのように光っています。肌が白いのでくちびるの赤さも引立ちます。なかなか可愛い顔だちです。
「僕、ヨゼフ。僕んちにもトトという犬がいるんだよ。トトも賢い犬なんだ。今度紹介するからね」
ヨゼフの体からは犬の匂いがします。きっと犬好きなのに違いありません。
一通り挨拶が済むと、バランスキ―さんがせっかくの機会だからワルシャワの名所のスタ―レミヤストをご案内したいと提案しました。
「スタ―レミヤストって何ですか」
ミコちゃんがききました。
「スタ―レはポ―ランド語で古い、ミヤストは街という意味です。だから文字通りに訳すと『古い街』ということですが、ワルシャワの街が大昔その辺りから始まったとされるところで、街を囲んでいた古い城壁の跡や、中世のおもかげを残した街並が見られ、なかなか美しい所です。是非一度見ていただきたいのです」
そこでみんなはご主人のプジョ―とバランスキ―さんのポルスキ―フィアット126とに分乗して出発しました。体の大きさでどちらに乗るかをきめたところ、結局プジョ―には、運転するご主人、バランスキ―夫人、ユラ、ヨアンナ、ヨゼフ、フィアットには、バランスキ―さん、奥さん、ミコちゃんとひろしくん、それに僕ということになりました。つまり運転する人を除くとご主人一家とバランスキ―さん一家とがそっくり入替ったという訳です。フィアットが先導して、その後ろをプジョ―がついてきます。
バランスキ―さんは、
「さっき運転した時に比べたら、なんだか車が羽根のように軽くなったぞ」
とかなりのスピ―ドで走ります。エンジンはバッバッバッと大きな音をたてます。プジョ―に慣れっこになった僕の耳にはかなりうるさく感じられます。後ろの席はミコちゃんとひろしくんと僕が座っても狭い感じなのによくこんなところにさっきはユラやヨアンナやヨゼフまで乗っていたものです。バランスキ―さんは、曲り角などもスイスイと思いきって曲がるので、奥さんやミコちゃんやひろしくんもなんとなく心配そうで、それとなく回りのものにつかまっています。バランスキ―さんは街のあちこちにある建物や、記念の銅像等を指差して説明してくれます。説明に夢中になるとハンドルから両手を離してしまうのでその度に助手席の奥さんは心配そうにバランスキ―さんがハンドルから離した手を見つめます。バランスキ―さんはそんなことにはお構いなしに盛んに両手を離します。
「この通りはクラコフ通り、戦前から続いている美味しいお菓子屋さんや、喫茶店もあって、ちょっとばかし、おしゃれして来るところです。あっ、左手に見えてきた大きな建物が聖十字架教会、あそこにはポ―ランドの生んだ偉大な音楽家ショパンの心臓が祭られています。ショパンはパリで死んだのですが、遺言に従って妹がショパンの心臓をここまで運んできて祭ったのです。
「そ、そのすぐ斜め前にある銅像が地動説で有名なコペルニクスの像です。コペルニクスは、ポ―ランドが生んだ有名な天文学者で地球が太陽の回りを回っていることを明らかにした人です。それまでは地球のほうが天の中心にあってその回りを太陽をはじめ全ての星が回っていると考えられていたのです」
「本当に地球が太陽の回りを回っているの。じゃ、どうして太陽は東からでて西に沈むの」
ひろしくんが尋ねました。
「そういうふうに見えるだけなのよ。車に乗っていたら、時々車の方が止まっていて、回りの景色が動いているように思えるときがあるでしょう。あれと同じことよ」
奥さんが説明しました。
「ふ―ん」
ひろしくんは分かったような分からないような顔をしています。僕も余り良く分かりませんが、太陽が動いていようと地球が動いていようとあんまり大した変りはないことなので、コペルニクスという人がどうしてそんなに有名なのか良く分かりませんでした。
「今通りすぎた右手の門がワルシャワ大学の正門です。ワルシャワ大学はポ―ランド一の大学です。さて、そろそろスタ―レミヤストにつきましたよ、あそこに高い塔がたっているでしょう。あそこがザムコ―ビ―広場で、高い塔の上の銅像がジグムント三世という王様です。今から約四百年前にクラコフという町からワルシャワに都を移した人です。ザムコ―ビ―というのは『城の』という意味で、ほら右手に再建中の大きな建物が見えるでしょう。あれが戦争で壊された城です。さてとここらに駐車してみんなして後は歩いていくことにしましょう。」
フィアットが止まるとその直ぐ横にプジョ―がすっと滑込んできました。プジョ―の助手席から今度は一人で降りたバランスキ―夫人は、バランスキ―さんのところにつかつかと歩いて来ていいました。
「あなた今日からわたしたち一家総入替えにしないこと。車のサイズもそのほうがピッタリみたいだし。プジョ―に乗ったら、もうフィアット126なんかには乗れませんわ」
「ああ、一向に構わないよ。わたしとしては食事代とガソリン代が半分になって大助かりだ」
「わたしのほうで引受けるにしては、少々荷が重いような感じがしますが…」
ご主人が真面目な顔をしていうものですから大笑いになりました。
「これがバルバカン。昔のワルシャワは二重の城壁と堀とによって外敵の来襲に備えていたのです。その門のひとつはバルバカンとよばれ敵の来襲に備えて銃眼、落し穴、みずぜめの設備なども持っていました。その城門の跡がこれです。もうすっかり壊れていますが」
バランスキ―さんが説明してくれるバルバカンは赤茶けた色をしたレンガづみの壁で、古いせいかあちこち崩れており色もまだらです。バルバカンに囲まれた中の街に入っていくと道路は石畳でその両脇には四、五階だての建物がびっしりと立っています。しばらくいくと大きな広場に出ました。広場も石畳です。広場の回りにも四、五階だての建物が立並んでいます。ひとつひとつの建物の色や窓の大きさやなどそれぞれ違っていますが、全体としてはちゃんと調和がとれています。広場には、そぞろ歩きをする人、椅子に腰を降ろして話している人、壁に並べられた絵を眺めている人などいろんな人がいます。白い馬をつないだ馬車が 観光客を乗せてポッカポッカと高いひずめの音を辺りに響かせて走っています。アイスクリ―ムの店の前には長い行列ができています。
その行列を横目で見ながらみんなが行きすぎようとしたとき、
「僕、なんとなくロディ(アイスクリ―ム)が食べたくなっちゃったな」
ひろしくんが、少し恥かしそうに奥さんにいいました。と、皆その言葉を待っていたかのようにピタリとその場で立止まり、ちょっと顔を見合わせ、こっくりとうなずくと黙って行列に加わりました。
「ワルシャワは、前の戦争ですっかり壊されてしまったという話をきいたんですが、ここだけはたすかったのですか」
「いいえ」
バランスキ―夫人が、とんでもないといわんばかりに打消しました。
「ここも、すっかり壊されたのです。でも、壊されるまえとそれこそ一枚一枚のレンガの色までそっくりに作り直したのですよ」
「じゃ―さっき見たあのバルバカンもそうなんですか」
ミコちゃんがききました。
「そうですよ。あのバルバカンも、この広場の回りの建物も、そしてあそこに十字架の高い塔が覗いている聖ヤン教会も、皆ほとんど影も形もないまでに壊されたのです。それを昔どおりに、ワルシャワの市民が力を合せて戦後いちはやく作り直したのです」
「戦後いちはやくって、皆貧しくて食べるものも充分なかったでしょうに」
「今だってポ―ランドは貧しくて、肉屋の前には毎日長い行列ができていますわ。でも、ポ―ランド人は、戦後すぐこの街の復興に乗出したのです。ポ―ランド人はワルシャワが大好きなんです。愛するものが壊されたらそれを元のように直してあげる。たとえおなかがすいていても。これは普通の気持でしょ。おなかがすいているからといって後回しにするわけにはいきませんわ。戦争さえなかったら、ここにはここに今あるのとまったく同じ美しい街があり、生活があったということであれば、その美しい街、平和な生活を一日も早くとり戻そうとするのが人情ではありませんこと? この広場の石の畳の一枚一枚を若い娘も年老いた老人も四つん這いになりながら、うめこんでいったのですよ。わたしもその中にいたんですが、膝こぞうはすりむけるし、手からは血が出るし…でも皆それほど気にもしませんでしたわ」
昔、劇場で歌ったこともあるというバランスキ―夫人の美しい声で聞くスタ―レミヤストの物語は感動的でした。
ヨアンナやヨゼフもこの街にまつわる話は良く聞かされているものと見えて次から次へといろんなことを話してくれます。戦後再建する日に備えて、この辺りの図面や設計図などを一万枚以上も戦時中に密かに疎開させた人達のこととか、バルバカンの建物の建築様式を伝えるために特別の学校まで作った話など、いろんな苦心談を聞いているうちに、アイスクリ―ムの番が回ってきました。
ミコちゃんもひろしくんもポ―ランドで初めてアイスクリ―ムを食べた時には日本のに比べてちょっと酸っぱすぎるといっていたのですが、今ではもう大のフアンです。食べ終わっても少しもべとつかず、口の中がすっとするアイスクリ―ムは、なんとなく本物の味がします。僕にもちゃんと一個の配給がありましたので、ひろしくんに持って貰ってペロペロとなめました。美味しくてあごが落ちそうです。アイスクリ―ムをなめながら、日曜画家が広場の端のところに絵を一杯並べて売っているのを見てまわりました。スタ―レミヤストを書いたものもあれば、肖像画や犬や猫を書いたのもあります。
絵の好きなご主人は、夢中になって見ています。
「結構抽象的な絵もあるんだな。せっかくだから一、二まい買って行くか」
色々迷ったあげくご主人は、スタ―レミヤストを書いた小さい絵を二まい買いました。
僕はもう絵どころではありません。絵の並べられている直ぐ側に、喫茶店があり、そこから凄くいいにおいがしてくるのです。もうそろそろお昼時なのでおなかがすいてきました。僕は喫茶店の前までいき鼻をくんくん鳴らしていました。嗅ぎ慣れない料理の匂いです。少しチキンに似ているけれど、少し違います。
「はて何だろう」
盛んに首を捻っていると、
「チビクロ、絵を買っているうちにどこへいったかと思っていたらこんなところにいたのか」
どうもみんなして僕のことを捜していたような口振りです。 しまったと思い、尻尾をまいていると、
「いや、さすがにチビクロは鼻がきくな。ここはスタ―レミヤストの名物のひとつでカチカ料理を食べさせてくれるところですよ」
バランスキ―さんが説明しました。
「カチカ、つまりダック」
ヨアンナが英語でつけ加えました。 「ダック、つまりあひる」
ミコちゃんがいいました。
「へぇ、あひる。醜いあひるの子のあひる?」
「そうグアグアと鳴く」
「あひるなんて食べたことないなあ。おいしいのかな」
「それは折紙つき」
「おなかもすいたことだし」
「それではここでお昼といきますか」
「さすがにチビクロは目のつけどころじゃない、鼻のつけどころがいい」
やっと面目を回復して、僕は鼻を二、三度ひくひくさせました。
「でもここは喫茶店なんでしょ、喫茶店でカチカ料理をだすんですの」
「そうなんです。そこが変ってて面白いでしょ」
喫茶店の入口には厚い毛布がぶら下がっています。冷たい空気が中に入らないようにしてあるのです。その毛布をくぐって中に入ると中は薄暗くて、そのうすぐらいなかで楽しそうに食事を味わっている雰囲気が漂っています。皿やフォ―クのふれあう音。人々の話声。ウエイトレスの足音。ろうそくの炎のゆらめき。
一番奥まったところにちょうど九人と一匹分の席があいていました。ウエイトレスが注文を取りにきて、カチカの注文をすると、
「一羽にしますか、半分にしますか」
ときいています。カチカ一羽丸ごとにするか、それとも半分にするかの意味だそうです。ウエイトレスはメモ帳片手に一人一人に一羽か半分か聞き始めました。ミコちゃんとひろしくん以外は、あのやせたヨゼフを含めて一羽の方を選びました。さて僕に聞かれたらどっちにしようか、あのヨゼフだって一羽なんだから、僕だって一羽にしてもおかしくないと思っていたら、いつの間にか僕の分は半分ということに決っていました。僕だってちゃんとポ―ランド語が分かるのですから聞いてくれればいいものを…
大人はワインを飲みはじめました。バランスキ―さんやご主人も飲んでいます。帰りの車の運転は大丈夫なのでしょうか。子供には、ポジェツキ―という木の実で作った赤い色のジュ―スが出ました。
しばらくするとこんがりときつね色に揚げられたカチカが運ばれて来ました。一羽分の方は大きな皿からはみだすほどあります。回りには例によって、こんがりと揚げたジャガイモが山盛りになっています。カチカは少しくせがあるので赤い色をしたベリーのジャムを付けて食べるのだそうです。でも僕の口にはジャム抜きの方があいそうです。
カリカリとほどよい歯応えがあって、これはいけます。おいしそうな匂いがしたはずです。かなり堅い骨がありますが僕にはちょうど手頃です。ミコちゃんやひろしくんは食べかたを教わりながら、骨の間の肉をナイフやフォ―クで苦心して食べています。ヨアンナやヨゼフは慣れた手つきで、したなめずりしながら食べています。でも僕のスピ―ドにはかないません。僕は骨ごとたちまちペロリと食べてしまいました。もう半分ぐらい食べれそうな気がします。誰か気付いてもう半分追加注文してくれないものかと辺りを見回しましたが、みんな食べることと話に夢中です。大人たちはアルコ―ルが入ったせいか、いつもより少し大きな声でポ―ランド語や英語や時には日本語までチャンポンにして楽しそうに話し合っています。
「これは、我々日本人の舌にも良く合う。トモコ是非料理法をマスタ―して帰った方がいい」
「ユラはカチカ料理の名人ですよ。うちに来ていたときも、良く料理してくれましたよ。」
「マダム、何時でもわたしが教えて差上げますよ」
「でも、あなた日本では、あひるを売っているところがありませんわ」
「それじゃ、我家の庭に池を作ってあひるを飼おう」
「あんな狭い庭じゃ、あひるを飼えてもせいぜい一羽よ」
「家族四人に一羽じゃ、一羽にするか半分にするかの注文もとれないね」
「やっぱり、あひるはポ―ランドで食べるに限りますわ」
みんな、カチカにも話にも満足して喫茶店を出ました。店を出るときひろしくんが叫びました。
「一羽丸ごと食べれるぐらい大きくなってから僕はまたこの店にくるんだ。ゼッタイ」
僕は心の中で叫びました。
「僕はもう一羽丸ごと食べれるぐらい大きいんだぞ」
あんなに痩せたヨゼフだって、少しも残さずに一羽食べたのですから僕が食べれないはずがありません。犬の気持ちももうすこしくんでほしいなあ。
でも、もう一度広場に出ると僕の心もきゅうっと引締まりました。ここの石畳はおなかをすかしながらも、膝こぞうをすりむき、手から血を流しつつ一枚一枚ひきつめていったという話を思いだしたからです。カチカ半分といいながら実は僕のおなかはもう九分以上もまんぱいになっているのです。わずか一分が満たされないと、文句をいっている自分の食い意地の汚さになんとなく情無くなってきました。
突然、パカッパカッと陽気な馬のひずめの音が聞こえてきました。先ほどの白い馬車です。お客は誰も乗っていません。
「ワ―ッ、馬車に乗りたい」
ミコちゃんとひろしくんが口をそろえていいました。
「食後の散歩は馬車でとしゃれますか」
アルコ―ルがはいって口がなめらかになったご主人が、早速右手を上げて馬車を止めました。
「さあさあ乗ったり乗ったり」
わずか四人分の席に九人と一匹がぎゅうぎゅうづめで腰を降ろしました。おなかもふくらんでいます、恐らくポルスキ―フィアット126の中以上の混み具合でしょう。御者はチラッと後ろを振返りましたが、
「それじゃ出発しやすよ。ようがすかな」
そういうと、
「ビジョ―」
馬の尻にムチを当てました。 馬車はピクリとも動きません。
「ビジョ―」
もう一度ムチが馬の尻にピシリと音をたてましたが、馬車は動きません。痩せてか細い尻です。その尻に筋が走り、馬が動きだそうと必死に力をふりしぼっているのが分ります。
「少し降りた方がいいかね」
「いいや、そのままで結構でやす。こいつめがいつもの怠け癖をだしたんでさあ」
御者はお客が降りると料金がへるせいもあってか、自分が降りて、馬車の後ろに回り、後ろからぐいと押しました。そのときを待っていたかのように馬は元気良くパカッパカッと走りだしました。御者はよろけて、つんのめりそうになりました。
「ち、ちょっと待て…」
御者はあわてて追っ掛けてきます。
馬耳東風とはこのことををいうのでしょう。馬はなに知らぬ顔をしてパカッパカッといせいよく走ります。御者が今にも追いつきそうになると、ほんのすこし速度を早めるので、御者は益々腹をたてています。
「この馬鹿やろう。トンマメ。わしを置いてどこへ行きくさる」
御者は口汚く罵りながら追掛けてきます。馬のほうでは何事もないように走りつづけます。いや、何と驚いたことには、馬はパカパカというひずめの音に合せて鼻歌を歌っているのです。
「かいばも充分くれずして
朝から晩までこきつかう
御陰でおいらはこの通り
痩せておいぼれ 力も出ない
たまにはかいばを腹一杯
食べて見たいよ
おいらでも」
「まてこのうすらとんかち、お客さんにもしものことでもあったらどうするんだ」
御者は右手でムチを振回しながら追掛けてきます。通りがかりの人も立止まって見ています。子供たちが御者の後ろから、
「馬勝て、御者勝て、馬勝て、御者勝て」
とはやしながらついてきます。
「おいらはこの道二十年
慣れたものだよこの通り
御者などなくても走れるさ
右に折れれば 教会で
左へ下れば ビスワ河
シャンシャンシャンシャンお馬が通る
ワルシャワ一の名馬だよ」
御者は息を切らしていて、ゼイゼイいう音がここまで聞こえて来るほどです。それでも諦めずにヨタヨタと追掛けてきます。頭はもうすっかりごま塩で、大きな鼻はお酒のせいでか真赤です。大きなソ―セ―ジが顔の真中に一本ぶらさがっているようです。それが走るたびに揺れています。
「一体どうしたんですかね。この馬車は御者なしで大丈夫ですかな」
「まあこの程度のスピ―ドならひっくり返ることもないでしょう。御者なしで走るってのもなかなか乙なものですね」
「でも、あの御者の小父さん、かなりお年のようだけど、あんなに走って大丈夫かしらねえ」
「まあ苦しくなれば止まりますよ。こんな時に観光案内というのも何ですがせっかく観光馬車に乗ったのですからご説明しますと、左に見えてきたのが、ポ―ランドの母なる大河ビスワ河でして、向う岸がプラガ地区、ちょうどあの当たりに動物園があります。」
「いっそのことこのまま向う岸の動物園まで行きたいね、パパ」
「ビジョ―、ビジョ―」
ミコちゃんとヨゼフが掛声をかけています。
ご主人一家といい、バランスキ―さん一家といい、なかなか見上げた度胸の良さですが、僕には御者の小父さんのことが気に掛かってしょうがありません。僕は空席になっている御者台のところへ行って馬に話掛けました。
「馬さん、馬さん聞こえるかい
僕は小犬のチビクロさ
御者の小父さん大弱り
今にも心臓やぶれそう
そろそろおよしよ悪戯は」
「おやおやこれは ご親切
だけど 潮時 分かってる
たまには おきゅうをすえないと
おいらの主人は横着で
自分ばかりで 酒を飲み
おいらにゃ かいばもくれぬのさ
しばらく走って一回り
広場に戻れば 止まります」
僕が御者台に座っているのを見付けた通りがかりの人の中にはなにを勘違いしたのか、
「まあ、御覧よ、あんなちび犬が馬車を走らせているよ」
と感心している人がいます。子供たちも、
「チビ犬頑張れ、チビ犬頑張れ」
と声援を送ってくれます。
「あの角曲がればもう広場
お降りの準備を願います
皆様長らく お疲れさん
ここが終点 止まります」
その言葉通り、馬はその場でピタリと止まりました。ちょうど皆が馬車に乗った場所でした。皆が降りようとしているところに御者が息を切らしながらやってきました。ゼイゼイと息を苦しそうにはきながらも
「こんちくしょうめ、わしをコケにしよって…」
御者はムチを高く振り上げました。今にもうちおろそうとしたとき、僕は、馬車の上からその腕に飛びつき、御者の袖口に噛みついてぶら下がりました。もちろん腕を噛まぬように充分注意を払ってのことですが。御者は驚いて袖口にぶら下がっている僕を見、
「このやろう」
といって振りほどきました。僕は五メ―トルも向うにほうりだされました。御者はもう一度馬目掛けてムチを振り上げました。 僕は御者の背後から、
「ウ―ワンワン」
と激しくほえたてました。御者は僕の方を向き直り、今度は僕に目掛けてムチを振りあげました。ピュ―ン。うなりをしょうじたムチが僕に向かってとんで来ました。僕は危うく身をかわしました。
「ワンワン」
「このチビ犬め、邪魔をしおってからに」
「ち、ちょっと待って下さい」
ご主人が御者の右腕にすがりつきました。すっかり頭に来ている御者は思いきり腕を横に払ったので、ご主人はよたよたと転びそうになりました。あわててバランスキ―さんが御者を後ろから押えつけました。
「お客さんに怪我でもさせた日にゃ、いっていどうなるんだ。犬ちくしょうにはちゃんと痛い目をさせて教えないことにはわからねぇんでさあ。自分の馬にあっしが教え込もうってのが何が悪い。このチビ犬が横からじゃまだてしやがって」
「まあまあ、事故もなくこうして無事一回りしてきたんだから、今日のところは大目に見てやって下さいよ」
「見ればこの馬は凄く痩せている、充分かいばをあげているようには見えませんな」
「それに反して、あなたの方は昼間から酒臭い息をしている。酒のみの御者の方が事故を起しやすいじゃありませんか」
「あなたがこうして酒が飲めるのも、この馬がいればこそじゃないですか」
「そんなにムチでばかりひっぱたいたりしないで、もうすこし、可愛がってあげたらどうですか」
「この馬は凄く頭がいい。ちゃんと同じ所に戻って来て、ほれ、こんなに静かにしているじゃないですか」
ご主人とバランスキ―さんが代り番こに御者を慰めています。御者の怒りも次第に収まって来たようです。
「そういわれりゃ、この馬あってのわっしですわ。こいつが倒れた日にゃわっしも食ってはいけねえ。ようがす分かりやした。今日からは、ムチではあんまりひっぱたかねえようにして、かいばもうんとこさ食わしてやりやしょう。な、お前、今日からは大事にしてやっからな。それにしたってよ、時々わっしを置いてけぼりにして走りだす癖さえなけりゃ、おめえもいいやつなんだがなあ」
「それじゃ、この馬のかいば料に少々チップを弾みましょう。御者抜きの馬車というものに初めて乗せて貰ったことでもあるし」
「いやぁ、だんなもお人が悪い。そんなこといいっこなしですぜ」
僕は馬のところに行って声をかけました。
「馬くん良かったね。今日は、おなか一杯かいばが食べれそうだよ」
「チビクロっていったかね。今日はみっともないところをお見せしちゃって面目無い。悪い主人じゃないんだが、酒が入ると人が変っちゃってね。今日のことですこしはいい人になってくれればいいんだけどね。ありがとよ。君の主人は優しそうな人みたいで幸せだね。君が放り出されたとき必死になって止めに入ったものね。大切にしておあげよ。今度また、ここへ来たら、会いに来てくれよ。今度はすこしは太っているかな」
それから二月経った頃、スタ―レミヤストへ行ったことがあるのですが、その時観光客を載せて走っているこの馬を見掛けました。相変らず、痩せこけていて、酒臭い息をした御者にムチで打たれていました。それでもパカッパカッという陽気なひずめの音をたて、鼻歌を歌いながら走っていましたから、案外あれはあれで幸福なのかも知れません。
ユラは、翌朝から早速やって来ました。
ご主人は会社へ、ミコちゃんはアメリカンスク―ルへ、ひろしくんは斜め向かいの幼稚園へ、それぞれ出掛けてしまうと、広い家の中に残ったのは、奥さんとユラと僕だけです。奥さんは早速ユラに色々の仕事を頼み始めました。ポ―ランド語が充分話せないので時々英語を混ぜますが、ユラは英語はからっきし駄目で、
「ニェロズミエム」
と頭を振るだけです。もちろん日本語はまったく分りません。
ユラは話が分らなくなるとポ―ランド語で色々たずねますが、奥さんにはそれが何を言っているのか分らないのです。するとユラは声を一段と大きくして、ゆっくりと区切って話します。電話が遠い訳ではないので、声を大きくするだけで通じる訳はないのですが、ユラは声を大きくするとすこしは通じやすくなるとでも思っているようです。
奥さんとユラは顔と顔とを見合わせて一緒に
「フ―ッ」
と溜息を付いています。僕もやれやれというふうに溜息をつきました。
「そうだわ、うっかりしてたわ。チビクロがいるんだわ」
奥さんは膝を叩きました。
「チビクロちょっとおいで」
奥さんが僕を呼びました。
「よくって、わたし、今ユラさんに、洗濯物のアイロンがけをするようにたのんだんだけど、足りないものでもあるらしくて、ユラが大きな声で何か言っているのよ。わたしにはユラが何を言っているのかチンプンカンプンなの。ユラがこんなことを言っているんじゃないかってことを、わたしがお前に尋ねるから、当たっていたらワン違っていたらワンワンと答えてくれないこと」
「ワン」
「ユラは、アイロンの使い方がわからないといっているの」
「ワンワン」
「じゃ―やっぱりなにか足りないものでもあるの」
「ワン」
「一体何かしら。霧吹きはあるし、アイロン台はあるし。それじゃ何か薬品でも欲しいと言っているの」
「ワンワン」
「そうだ、うっかりしてたけれど、アイロンを掛けるときに使う薄いタオル地を出してあげるのをわすれてたわ。そうでしょう」
「ワン」
「良くわかったわ。チビクロどうもありがとう。これ、ごほうび」
奥さんがソセ―ジを冷蔵庫から出して僕にくれました。
「ユラ分かったわよ、これでしょう」
奥さんは、三階の整理棚から薄いタオルを取りだしてきて、ユラに見せました。
「タ―ク、タ―ク」
ユラは僕が奥さんの通訳のてつだいをしているところを感心したようなようすで見ていました。
僕が庭で遊んでいると、ユラがテラスまで出てきて、
「チビクロ、ちょっと来て」
僕が何事かと近付いて行くとユラは困ったような顔をしていいました。
「チビクロ、ちょっと巻尺が欲しいんだけど、奥さんになんとか通訳してくれない」
僕ははてなと考えました。巻尺のことをどうやって奥さんに分らせたらいいのでしょう。考えているうちに、いつか地下室のバランスキ―さんの仕事場に行ったとき確か作り付けの棚箱の棚に並べてあったことを思出しました。僕はユラのスカ―トの裾をちょっと噛み、付いて来るように合図しました。僕が前に立って歩くとユラが後ろから付いて来ます。地下室の仕事場まで連れて行き、作り付けの棚箱を見上げると、そこにちゃんと巻尺が並べてありました。そこを見ながら僕が、
「ワン」
となくと、ユラは、
「まあ、チビクロはわたしのいってることがちゃんとわかるんだねえ。本当に賢い犬だね、お前は。ちょっとわたしもごほうびをあげたくなったわ。一緒に台所においで」
台所へ行くとユラは、奥さんと同じ様に冷蔵庫の中からソ―セ―ジが一杯入った袋を取りだし、ひとつちぎって、
「ポン」
と投げてくれました。僕はそれを空中でパクッと受止めました。
「おや、なかなか運動神経もいいんだね。じゃ、それもうひとつ」
今度はもっと遠くの方へ投げました。それも床に落ちる寸前にパクッと食べました。すると今度は右に左に連続的に投げたり、左に投げると見せかけて右の方に投げたり、色々と手がこんで来ました。こうなれば乗掛かった船です。意地でもひとつも落したくありません。スライディングキャッチ。危うく転びそうになってやっと踏止どまったときには次のソ―セ―ジが反対方向に飛んで来ています。いわしを一匹残らず受止めるサ―カスのおっとせいよろしく、僕はあせみどろになりながら走りまわり、ユラの投げるソ―セ―ジをことごとくダイレクトキャッチしました。
「お見事お見事」
ユラは、両手をパチパチ叩きました。
「おや、しまった。ソ―セ―ジがすっかりなくなってしまったよ。奥さんにお昼は、ソ―セ―ジを使ってなにか作ってくれといわれたのにどうしよう」
どうもユラさんは調子に乗りやすいタイプの人のようです。まあ、そういう僕も調子に乗りやすい点ではひけをとりませんが。とにかく袋に一杯あったソ―セ―ジを全部平らげてしまったのですから。もうゲップが出そうです。
「そうだこんなことしておれないわ」
ユラは、何を思いついたか、それからあっちへ行ったりこっちへ行ったり家の中をめまぐるしく動きまわり始めました。
それから一時間たったでしょうか。
「チビクロちょっと来て」
また、ユラが呼んでいます。ユラの側に奥さんがいます。通訳の仕事に違いありません。それともソ―セ―ジを全部食べたことがばれたのでしょうか。でもあれは僕に責任がある訳ではありません。とにかくここは平気な顔をしているにこしたことはありません。僕はユラと奥さんが待っているところに胸を張ってゆっくりと歩いて行きました。
「チビクロわたし今日半日かけて家の中を色々調べてみたんだけれど、これからわたしがお手伝いをするうえで足りないものがいっぱいあるの。だから、今からマダムと一緒に買物に出かけたいんだけれど、奥さんに通訳してくれないかい」
僕は奥さんが買物に行くときにいつも持って行く買物かごを台所から持って来て奥さんに手渡し、奥さんのスカ―トの裾を引張って玄関へ連れて行きました。
「ユラは買物に行きたいの?」
「ワン」
「わたしと一緒に?」
「ワン」
「わたしも色々と買いたいものがあるし。それじゃ今日は買いものに行きましょうか。でももうそろそろお昼も近いことだし、お昼御飯を済ませてから行ったらどうかしら」
奥さんは食べる真似をしました。
「ニェ」
ユラは大きくかぶりを振って、奥さんの肩にすばやくコ―トを掛けました。そして奥さんをうしろから追いたてるようにして家の外へ出ました。僕はあわててその後を追掛けました。
家を出て左手に曲がると、ひろしくんの幼稚園があります。ちょうど園児が庭に出て遊んでいるところでした。僕たちが通りかかると皆一斉に金網のフェンスのところまで走って来て
「ジェンド―ブリ。ひろしくんのマ―トカ」
「ジェンド―ブリ、チビクロ」
声をかけて来ました。
「あの太った女の人はだれだろう。」
という声も聞こえて来ます。ひろしくんもこちらに手を振りながら
「今日から来ることになったお手伝いのユラだよ」
と説明しています。ひろしくんは人気者のようです。
「ジェンド―ブリ、ユラ」
皆精一杯声を張りあげて自分の方を見るように挨拶をします。
「園長先生が言っていたけれど、あのチビクロはポ―ランド語が何でもわかるんだって」
「チビクロ、もっと近くへおいでよ。なぜてあげるから」
金網の隙間から園児たちが可愛い紅葉のような手を差出しています。僕が近付いて行くと、皆が先を争って触ろうとするので、大人の背丈以上もあるフェンスが今にも倒れて来そうです。
「チビクロはねえ、きのうスタ―レミヤストで酔払った馬車の御者が、馬をムチでひっぱたこうとしたとき御者の袖に噛みついてやめさせたんだよ」
ひろしくんが得意そうに話しています。もうポ―ランド人とおなじぐらい早口で話せるのです。
「へぇ、すごいなあ」
「チビクロ、チビクロ、僕らのヒ―ロ―、チビクロ」
皆が声を合せてはやしたてました。僕はきまりわるくなってとっとこと小走りに幼稚園の前を通りすぎました。
幼稚園の角を右に曲がるとプヤトフスカ大通りに出ます。いつもの奥さんの買物のときの順路です。ところがユラはそこを左に曲がりました。曲がったすぐ横の建物の地下へつながっている階段をユラは降り始めました。階段を降りたところにある木のドアを開けるとそこは食料品店でした。
「まあ、こんなに近くに食料品店があったの。いつもプヤストフカ大通りのス―パ―まで行っていたのに」
奥さんが驚いています。地下に降りたところに、ほんの印だけ小さな看板が出ているだけですから、奥さんが気づかないのも無理ありません。卵、チ―ズ、バタ―、ヨ―グルト、ソ―セ―ジ、ハム等が売られています。トマトケチャップやリンゴ酢、にしんの缶詰、酢キャベツ、マッシュル―ム等もあります。
「まぁ、この店プライベ―ト(個人経営)の店かしら、品数が多いわね」
奥さんはあれもこれも買うのでたちまち大きな袋が二つ出来ました。奥さんが買ったものを見ていたユラが、今度はいろんなスパイスやら、サワ―クリ―ムやら洋からしやら、いろんな種類のマスタ―ドやリンゴ酢等を袋につめ始めました。奥さんが今まで日本では使わなかったようなものばかりです。奥さんがちょっと横を向いたすきに、ユラはソ―セ―ジの袋を素早く袋の中に滑込ませました。僕が見上げるとユラは片目をつぶってウインクしました。
「秘密だよ、チビクロ」
こうしてたちまち合せて四つの大きな袋が出来てしまいました。料金を払って、奥さんがユラと二つずつ持とうとするとユラが
「ニェ、わたしが全部持ちます」
奥さんの手から袋を取りあげてしまいました。
「いいわよ。わたしが持つから」
「ニェ、わたしが。このくらい大したことはありません」
ユラは絶対に譲りません。奥さんも諦めて食料品店を出ると、
「それじゃ、今日はこれで帰りましょう」
と家の方に向かって歩き始めました。
「ニエ、もっと買いたいものがあります」
ユラはその場に立止まって動きません。
「あら、もっと買いたいものでもあるのかしら」
「ワン」
ユラは先頭にたって今度はプワフスカ大通りの方へ歩いて行きます。
「お店はすぐ近くなのかしらね」
奥さんはユラに遅れまいと時々小走りになってついて行きます。ユラは体が大きいだけ歩くスピ―ドが早いのです。
十五分ほど歩いたでしょうか。賑かな大通りに出ました。これがプワフスカ通りです。この通りはワルシャワ一の大通りのマルシャコフスカ通りにつながっており、電車が走っています。ユラは大きな雑貨店に入りました。そこで、掃除用の大きなタブやブラシ、洗濯用のタライ、洗剤、漂白剤、お風呂場用のマット、玄関にひくマット等を買いました。
大きな包みがまた四つ増えました。キャッシャ―でお金を払って奥さんが荷物を持とうとすると、
「ニェ、ユラ一人で大丈夫です」
ユラは合計八この荷物を一人じめにしました。長いタブを肩に担ぎ、タライを背中に背負い、両手に大きな袋を幾つもぶら下げた様子は、七つ道具を持った弁慶のようです。
「もう今日はこれで充分だわね、さあ引返しましょう」
奥さんが引返そうとすると、ユラはその場を動きません。
[ニェ、もう一軒だけ寄るところがあります」
「チビクロ、ユラはもっと買物がしたいって言っているの」
「ワン」
「そうね、考えて見ればわたしはまだ手ぶらだし、わたしだけ手ぶらで帰るのもおかしいわね」
またユラが先頭に立って歩き始めました。これだけ荷物を持ってもスピ―ドが衰えません。奥さんは時々小走りで追いすがらなければなりません。
「一体お店はどこにあるのかしら。遠いのかしら。遠いのだったら、電車に乗るか、タクシ―に乗るかした方がいいんじゃないかしら」
奥さんはブツブツ独言を言っています。まだまだかなりありそうな感じです。
「ユラ、トランバイ(電車)? タクシ―?」
「ニェ、もったいない。お店はもうすぐ近くです」
ユラは歩調を緩めず歩き続けます。奥さんは額にうっすら汗をかいています。かれこれ三十分も歩いたでしょうか、ユラは大きな衣料品店に入って行きました。ユラはそのまま真直ぐカ―テンの生地を売っているカウンタ―のところへ歩いて行きました。
「マダム、あのお屋敷にはきちんとしたカ―テンが必要です。良くあったカ―テンのない家は、家ではありません」
「そうか、カーテンね。わたしも、一日も早く、きれいなカ―テンを付けたいと思っていたところなのよ。ユラ、良いところに気付いたわね。でも、どのくらいの大きさの生地を買って帰ればよいか分らなければしょうがないわぇ」
奥さんはつぶやきました。ユラは鼻をツンと高くして、ポケットから小さな紙切れをとりだすと、それを奥さんに手渡しました。そこにはいつのまにかちゃんと各部屋の間取りと部屋ごとのガラス戸や窓の大きさが、五・二メ―トル×七・六メ―トルというふうに書込まれていました。
奥さんはすっかり感心した様子でユラを見、
「まあ、ユラっったら手際が良いのね。じゃ、良い生地を選ばなくっちゃ」
今度は目を輝かせながら、カ―テンの生地を選び始めました。
「どの部屋もカ―テンレ―ルは二本ずつ付いていたわね。そうすると窓側は白いレ―ス地にして、部屋側はそれぞれの部屋にマッチした厚手のものがいいわね。居間のテラスのところにはこのちょっと黄金の紗が織込んである生地なんかどうかしら。豪華な雰囲気だし。わたしたちの寝室は落着いたベ―ジュ系の暖かい色のがよさそうね。子供たちの部屋は明るくて清潔な感じのにしたいわ。あら、この生地、とても素敵じゃない」
奥さんとユラは部屋の見取図を指差しながら、これが良いあれが良いと相談しています。お互いに選んだ物に対して、
「タ―ク、タ―ク」
とうなずいたり、
「ニェ、ニェ」
と首を横に振りさえすれば良いのですから話は簡単です。しかし、選ぶ方はそれほど簡単ではありませんでした。
僕があくびを五回ほど噛み殺した頃、やっと家中のカ―テンの生地選びが終わりました。今度はカ―テンの生地の大きな包みが四つと、カ―テンを吊すリングの入った小さな包みが一つ出来ました。
料金を払って奥さんが今度こそ全部の包みを持とうとすると、
「ニェ」
ユラは全部の荷物を取りあげてしまいました。奥さんが必死になって頼みこみ持たせて貰ったのがカ―テン用のリングの入った小さな包み一つでした。その包みを手わたされたとき奥さんは、ごほうびを貰ったときのひろしくんみたいにニコッとしました。
「こんなに沢山買物したんだから、帰りはタクシ―にしましょう」
通りにでて奥さんが手を上げてタクシ―を止めようとすると、ユラは一声、
「ニェ」
といってさっさと歩き始めました。まるで、荷物のかたまりが歩いているみたいです。奥さんも仕方なくその後を追いました。小さな包みを一つだけ持った奥さんは並んで歩くのがなんとなく恥かしそうです。僕も何かお手伝いしたいのですが、ユラに頼んでもおそらく何も持たしてくれそうにありません。まあ、僕は通訳という頭脳労働をさんざんやったのですから今日のところは勘弁して貰うことにしましょう。
それにしても、ユラは頭がいいのか悪いのか気掛かりです。たった半日の間に何が不足しているかちゃんと調べあげたり、ガラス戸や窓の大きさを計って来たところは、とても頭が良いように見えるのですが、買物の順序を見ていると、どうも頭が良いようには思えません。最初にカ―テンを買いに来て、その次に雑貨店へ行き、最後に食料品店に寄れば、ずいぶんと楽なはずです。家から百メ―トルも行かないところで買った物をわざわざ行きも帰りも持運ぶ必要があるようには思えません。それとも、こんなことを考えるのは、僕がチビ犬で力があまりないせいでしょうか。
ユラは背筋をピンと伸ばして、相変らずかなりのスピ―ドで歩いています。僕も時々小走りで追いつかなければなりません。
家に帰ったときにはもう薄暗くなりかけていました。ユラは大急ぎで遅くなった昼食を作りました。ゆでたソ―セ―ジに酢キャベツとマッシュポテトが盛りあわせてありました。
「チビクロも今日は散々歩いて疲れたでしょう」
奥さんが僕に少しソ―セ―ジを分けてくれましたが、もうすっかりおなかがすいていた割りには僕は食欲が湧いてきませんでした。もちろん先ほどゲップが出るほど同じ物を食べたせいもありますが、ユラが往復とも歩いたのは、もしかしたら僕に食べさせたソ―セ―ジの代金分を倹約するつもりだったのではないかと、ふと思いついたせいでもあります。
「ビッビ―」
翌朝、八時少し前に玄関の呼鈴が鳴りました。ユラの出勤時間は、八時半のはずです。
「こんなに早くだれだろう」
新聞を見ながら朝食を食べていたご主人を始め、奥さん、ミコちゃんが連れだって玄関へ出ました。ひろしくんはもう幼稚園に行っていません。ひろしくんは幼稚園で毎朝朝食を食べるのです。玄関のドアを開けると、ユラが入口を全部ふさぐように立っています。
「ユラ、こんなに早くどうしたの」
奥さんが声をかけました。とユラの大きな体の影から、すらりとした若い金髪の女性が姿を現しました。少しはずかしそうにニコリとし、
「ジェンド―ブリ」
と挨拶しました。
「これは、エバ・カミュシカです」
ユラが紹介しました。皆キョトンとしてユラの顔を見ました。一体どうしてユラはこんなに朝早くエバという人を連れて来たのでしょう。居間に通すとエバが話し始めました。
「はじめまして、私エバ・カミュシカと申します」
それはきれいな日本語でした。
「私はワルシャワ大学の日本語学科の四年生です。ユラに頼まれてマダムのポ―ランド語の家庭教師に来ました。どうぞよろしく」
奥さんは狐につままれたような顔をして、
「私、家庭教師を頼んだ覚えなんかないけど…」
奥さんの言葉が終わらないうちに、ユラが例によって声を張りあげ、ゆっくりと区切って話しはじめました。話し終わるとエバの横腹をつついて早く通訳するように言いました。
「今ユラが言ったのは、マダムは残念ながらポ―ランド語がまだ充分話せない。ポ―ランドに来ながらポ―ランド語が話せないのはとても残念だ。一日も早く是非ともポ―ランド語をマスタ―して、ユラと何でも話しあえるようになって欲しい。そうでないとユラとしては、お手伝いとしての勤めを充分果すことが出来ず、申しわけない。チビクロはとってもよくやってくれるけれど、やはりマダムが自分で話せるようになって貰いたい。それで、私の知人の姪に当たるエバをマダムのポ―ランド語の家庭教師にと思って連れて来ました。エバはワルシャワ大学日本語学科でナンバ―ワンの実力の持主だから―本当はナンバ―ツ―なんですよ―きっと気に入って貰えるはずだ、といっています」
「私、今から難しいポ―ランド語を勉強してもよく覚えられそうにないわ。ポ―ランドに来るまえに英語をさんざん勉強したけれど、そっちの方だってまだよく話せないんですもの。ユラが我家にお手伝いに来るんだから、ユラの方で日本語を覚えて欲しいわ。そうそうエバさんがユラに日本語を教えて上げたらどうかしら。それがいいわ」
奥さんの話をエバが通訳し終わらないうちに、ユラがもっと大きな声を張りあげて喋り始めました。体が大きいせいか声量には限度がないみたいです。その後でエバが通訳します。
「私はもう六四歳。頭がすっかり堅くなってしまっている。今更日本語を覚えようとしても、もうどこにも入る余地がない。それにひきかえ、マダムは三十ちょっと過ぎたばかり、私の年の半分に過ぎない。それにポ―ランドに来てまだ余り日がたっていないのに、昨日一緒に買物に行ったけれど、カタコトながら結構話せる。勉強すれば、きっとうまくなる素質がある。せっかくの素質を眠らせておくのは惜しい」
「若いといったってもう三十過ぎよ。それに時間があるかどうか…」
「時間でしたら、私、学生ですから、奥様の都合のいい時間にいくらでも合せることが出来ますわ」
エバが言いました。その言葉が終わらないうちにユラが例の大声で、また、話し始めました。エバが訳します。
「ユラが言うには、マダムはエバのお手当のことを心配しているかもしれないが、それは全然心配しなくてもいい。昨日一緒に買物に行ったけれど、マダムはすぐに電車やタクシ―に乗ろうとするが、あれはもったいない。私は今後買物のときは全部歩いて倹約するので、その分ででもエバを雇って欲しい。エバも日本人と知合いになれれば、日本語の勉強にもなるので、お手当なしでも良いから行きたいといってたのだけど、すこしでも出して貰えば学費のたしになるし、私から頼んで上げようといって連れてきた。その手前、なんとかお願いしたい、と申しております。」
そのあとにエバが付加えました。
「私、本当はお手当なしでもかまわないんです。お知合いになっていただくだけでいいんです」
「お手当のことを別に心配してるんじゃないのよ。英語だってまだ中途半端でしょう。せめて英語だけでもマスタ―したいの。だから英語の先生につくつもりでいるの。そのうえポ―ランド語まで始めても、チビクロのレベルにも追いつけそうもないわ。ねえ、チビクロ」
「ワンワン」
僕は力強く吠えました。もちろんそんなことはありませんという意味です。 横からミコちゃんが口を挟みました。
「あら、ママったら、私にはやる気になりさえすれば、英語だって、ポ―ランド語だって同時にマスタ―できるって言ったじゃない。だからあたしアメリカンスク―ルでポ―ランド語も補習で取ることにしたのよ。ママだってまだ若いんだから、要するに、やる気よ」
「でもポ―ランド語の家庭教師につくなんて、これまでほんのこれっぽちも考えたことがなかったのよ。急に決めろっていわれたても、少し考える時間がないと…」
「トモコ、いいじゃないか。せっかくユラがいい人を連れてきてくれたんだから、エバに家庭教師をお願いしたら」
ご主人は口をはさみました。エバが凄い美人なのでもうすっかり気にいったような口ぶりです。
「そうねえ」
奥さんは、しばらく頭をかしげて考えていましたが、決心がついたように顔を真直ぐ上げると、
「みんながそう言うのなら、わたしもポ―ランド語を勉強することにしようかしら…少し荷が重いんだけど…」
「それじゃトモコ一人で勉強するのも何だから、僕も一緒に勉強することにしよう。その方がお互いに張合いがあっていいし、その上エバさんに二人分のお手当を払ってあげられるしさ」
ご主人は、なんだか自分一人ででも習いたいようなム―ドです。しかし、この一言で話しは決まりました。
ご主人が奥さんと自分二人の家庭教師として雇うことにし、お手当も二人分払うと伝えるとユラとエバは手を取りあい、飛上がって喜びました。その度にソファのクッションがキュ―キュ―と音をたてました。
「ジェンク―エン・バルゾ―、マダム、ジェンク―エン・バルゾ―、ミステル」
「ほんとうにありがとうございます」
奥さんはユラとエバに両側から抱きつかれて目を丸くしています。
「それじゃ何曜日に来て貰うことにするかな」
ご主人がポケットから小さな手帳を取りだしたとき、
「リ―ンリ―ン」
電話の呼鈴がなりました。一番近くにいたミコちゃんが出ました。
「ハロ―、イエス。あたしミコよ。メアリ―、何の要件? 今日の図画の時間のこと。あっそうだ、あたしも忘れて行くところだったわ。そう、この前の時間に確か先生が今日は近くの公園に写生に行くので写生板とクレパスを持って来るようにおっしゃってたわ…うん間違いない。」
ミコちゃんは電話でもう英語で話しています。 エバはミコちゃんを見ながら、
「とっても可愛いお嬢さんですねえ。おいくつですか」
[六つです」
「英語がお上手のようですけど、アメリカンスク―ルですか」
「ええちょうど三週間前から行き始めたのですよ。それまでは英語のエの字も知なかったんですよ」
「まあ、たったの三週間ですか。お子さんって早いですねえ」
「本当に自分の頭の堅さが情無くなりますわ」
「ワルシャワに来るまでは、英語にしてもポ―ランド語にしても皆こっちが教える側だったんですよ。それがポ―ランドに来たら、チビクロにまで追越される始末なんですから」
「お子さんはお一人ですか」
「いいえ、あの子の下に今年五歳になるひろしという男の子がいるんですよ。すぐ斜め向かいの幼稚園に行っていて、いつも七時半には出かけるんですの。なにしろ朝食付き、おやつ付き、昼食付き、おまけに昼寝付きなものですから、とっても助かりますわ」
「あら、ひろしくんは、わたしの娘のボグナより一つ年上ですのね」
「えっ、あなたはもう結婚してらしたのですか」
「いいえ、今はもうしていません。一年前に離婚しました」
「えっ、それでは一人で子供を育てながら、大学へ行っているんですか」
「今は、両親と一緒に住んでいます」
「まあ、それにしてもタフですこと」
「あなたの顔を見ていると、四つになる娘さんがあるようにはとても見えませんね。それに離婚女性にありがちな暗さってものがまったく感じられないし、すっかり独身と思ってましたよ」
「わたしみたいなケ―スはポ―ランドではそれほど珍しくありませんよ。離婚したからといって別に何も悲観することなんかありませんわ」
「いやポ―ランドの女性は強いんですね」
クンクン。妙な匂いがします。僕は台所は飛んで行きました。案の定ガスコンロの上で、コ―ヒ―が煮えたぎっています。
「ワンワン」
僕は、台所の入口で吠えました。
「あっ、そうそうコ―ヒ―をコンロにかけっぱなしだったわ。チビクロ、どうもありがとう」
奥さんが飛んで来ました。
「ビ―ビ―」
玄関の呼鈴が鳴りました。
「あっ、アダミヤックさんのお迎えだわ」
アダミヤックさんは毎日ミコちゃんをアメリカンスク―ルへ送り迎えしてくれるのです。
「チビクロ、あたしちょっと写生板とクレパスを二階から取って来るから、その間アダミヤックさんのお相手をしていてくれない」
ミコちゃんは二段飛びでらせん階段をかけあがって行きました。
外へ出るとアダミヤックさんは、ベンツを布で磨いていました。手入れがいいのでいつもピカピカ光っています。その側にもうご主人のプジョ―が車庫から出されて置いてありましたが、プジョ―はまだ新しいので余りひけを取りませんが、ベンツに比べると少しつやがにぶい感じがします。ご主人はそれほど手入れのいい方ではないのです。僕はそれが残念でなりません。
「ワン、ワン」
僕が挨拶をすると、
「ジェンド―ブリ、チビクロ」
アダミヤックさんはおむすびのような顔をほころばせ、
「チビクロはいつも元気そうだね」
そういうと、しゃがんで僕のあごの下をさすってくれました。気持ちがいいので目を細めていると、ミコちゃんがロケットのような勢いで玄関から飛びだして来ました。右の脇の下に大きな写生板を抱えています。アダミヤックさんが開けてくれたドアからミコちゃんはさっきの勢いのまま、ピョンと飛び乗ると広い後ろの座席にピョコンと腰掛け、
「ジェンド―ブリ、アダミヤックさん。少し遅くなったのでふっとばして」
僕は、凄い勢いで走りだしたベンツの後ろから見送りました。ミコちゃんの頭の先が後ろの窓からほんの少し見えるだけです。ベンツはたちまち幼稚園の角を右の方へ曲がって見えなくなってしまいました。
居間に戻ると、なんとなくこげ臭いコ―ヒ―を奥さんが皆に勧めていましたが、売れ行きは今一つパッとしないようでした。
どこからともなく心をわくわくさせるような香りがただよって来ます。土の奥ふかくから湧きあがって来るような、不思議な香
りです。今年になってから、この香りをかぐのは確か二度目です。ポ―ランドへ出発する日の朝、東京でかいだことを覚えていま
す。東京のときよりもほんの少し、薄めの感じがしますが、これは間違いなく春の香りです。ポ―ランドにもようやく遅い春が巡
って来たのです。
僕は、庭に出て庭の木を見て回りました。スモモの木も、サクランボの木も、スグリの木も、バラの木も、リンゴの木も、ブド
ウの木も、モクレンの木も、あんずの木も、ナシの木も、ねこやなぎの木も、皆一斉に芽をふくらませています。きっとこれから
は、日一日ごとに、木の芽が大きくなっていくにちがいありません。庭の回りには大きな木が一杯繁っていますが、今まで灰色一
色だった景色がうっすらと化粧でもしたかのように色づき、なんとなくざわめくような賑かさが感じられます。僕はピョンピョン
と跳回ったり、芝生にころげまわって背中をこすりつけたりしました。どこか郊外へでも行って広い野原を思いきり走り回れたら
どんなに素敵でしょう。
そのとき、僕はご主人が今日の午後飛行場に日本から来るお客さんを迎えに行くので昼食の用意をしておいて欲しいと、朝出掛
けに奥さんに言っていたのを思出しました。ご主人は自分で会社から一旦家に帰り、昼食を食べた後で、アドミヤックさんに迎え
に来て貰い空港まで行く予定のようです。
「そうだ。ご主人に空港まで連れていって貰おう」
僕は堅く心を決めました。ご主人が昼食に帰って来たとき、僕は玄関まで真先に迎えに行き、前足を差出しました。
「おっ、チビクロ。元気にしてるかい」
ご主人のきげんは別に悪くなさそうです。
食事をしながらご主人と奥さんが話しあっているときも、テ―ブルの下にうずくまりじっと耳を傾けていました。
「今日のお客様は、人事担当の野村常務でしょう。わたしたちのために歓送パ―ティをやってくださり、色々と赴任に当たっての
アドバイスまでくださった方でしょう。わたしも面識があることだし、空港までお迎えに行った方がいいんじゃないかしら」
「そうしてくれればありがたいよ。野村常務は、洋食はからっきし駄目で、外国に出ても日本食一辺倒の方だから、どっちみち夕
食には我家にお連れしようと思っていたんだけれど、その前にあっておけば、なんなりとご希望の料理もきけて好都合だろうし」
「それじゃ、わたしちょっと支度してくるわね」
奥さんは食事を手早く済すと二階に上がって行きました。
ご主人は食事が済むと居間のソファにひっくり返り、テ―ブルに足を投出した格好で休んでいます。僕はすぐ側に行ってご主人
に体をこすりつけ、顔を見上げながら、鼻を鳴らしました。
「チビクロ、久し振りに抱っこしてやるか」
僕は素早くご主人の膝に飛乗りました。
「お前もなかなかポ―ランドが気にいってるみたいじゃないか」
「ク―ンク―ン」
「トモコやユラをずいぶん助けてくれているようだね」
ご主人は耳の後ろや背中やあごの下をなぜてくれます。長年つきあっているので僕の好きなところをよく知っているのです。とて
もいい気持です。
「ビ―ビ―」
玄関の呼鈴がなりました。アダミヤックさんのお迎えです。玄関口に出たユラがアダミヤックさんに挨拶をしています。奥さんが
二階かららせん階段をシャナリシャナリと降りて来ました。赤いくちべにをつけ、白と黒のチェックのコ―トを着、品のいい香水
の匂いをただよわせています。昼食を食べる前とは、見違えるほどきれいになっています。
ピカピカに磨かれたベンツの前でアダミヤックさんがドアを開けて待っています。奥さんは、ポ―ランド式にご主人より先に乗
込みました。続いてご主人が乗込もうとしたその脇を僕はスルリとかいくぐってサッと乗りこみ、奥さんのすぐとなりにぴったり
と寄添い体を小さく丸めました。
「チビクロ、お前は今日はユラさんとお留守番だよ」
「ク―ンク―ン」
僕は精一杯鼻を鳴らし、奥さんの手をペロペロなめました。
「今日はね、大切なお客さんなのよ。だから、チビクロ、今日はだめよ」
僕はご主人の方を振りかえって一生懸命尻尾を振り、頭を低くして鼻を鳴らしました。
「ク―ン、ク―ン」
「いつもはおりこうさんなのに、今日に限ってチビクロは聞分けが悪いんだな。僕たちと一緒に行きたいのかい」
「ワン」
僕はさらに激しく尻尾を振り、頭を低くしました。
「ワン」
「きっとチビクロは私たちが空港に行くのが分かっているのよ。空港がなつかしいんじゃないかしら。あんなことがあったんだ
し」
「それじゃ連れて行くことにするか。チビクロ、お客さんがみえたらおとなしくしているんだぞ。トモコ、帰りはお前がチビクロ
を抱いて前の席に座ってくれ」
やっとのことで許可が降りました。
ポ―ランドに着いたとき以来空港へ行くのはこれが初めてです。僕は窓に鼻を押付けて外の景色を見ました。通りの大きな街路樹もうっすらと色づいてみえます。けぶるような淡い黄緑です。大きな建物や記念碑や、バスや、電車が後ろへふっとんで行くように見えます。なるほどこれがコペルニクスの地動説なのかも知れません。車でなくて回りの景色のほうが動いているように見えるのです。
もう空港の近くへやって来たようです。ポ―ランドについた当時、恐らくこの辺りを僕はご主人一家とめぐりあえる当てもない
まま、歩き回ったのです。
いろんな思い出が一気によみがえりました。
空港のシェパ―ドのこと、プ―ドル犬のアンナのこと。ポ―ランド語を教えてくれた、のらぐらしのキジ猫のこと。危うく腕白
な子供たちにつかまりそうになったこと。ボイテックやヤ―チェック、それにマ―トカやタト―シュのこと。あんまりいろんなこ
とが次々と起こったので、もうずいぶん昔のように思えますが、考えて見るとつい一月半ほど前のことに過ぎません。今、こうし
てご主人と奥さんと一緒に車に乗っていることが信じられないほどです。本当に運が良かったとしか言いようがありません。
窓の外を見ながらとりとめもなく物思いにふけっているうちに、車は空港の建物の前でピタリと止まりました。日本の空港に比
べると人影が少ないように思えます。建物も少し古めかしくて貧弱です。ご主人が空港ビルのカウンタ―で到着便の確認をしてい
ます。どうも、予定よりかなり遅れているようです。
「遅れは、一時間ですか、それとも二時間ですか?」
「ニエビエム(分りません)。まあ、一時間は遅れるでしょう。とにかく掲示板をよく見ていて下さい」
ご主人は後ろを振りかえって奥さんに説明しています。
「どのくらい遅れるか、いつもはっきりしないんだよ。しょうがない、この辺りをブラブラしながら待つよりないな」
「あそこの林の方へ行って見ましょうか」
ご主人と奥さんは空港のビルから出て、近くの林の方へゆっくりと歩き始めました。アダミヤックさんはビルの前の駐車場に車を
止め、その中でもう船を漕いでいます。
「ほら、あなた、木の芽がふきはじめてるわよ。もうこんなに大きくなって。ようやくポ―ランドにも春が来たんだわ。嬉しい
わ」
「北国ではみんな一斉に芽をふくんだね。どの木の芽も同じ位の大きさだよ」
「そうね。東京みたいに梅から桃、桃から桜というふうに次々と芽をふくのとは違うみたいね」
「ポ―ランドに来てみて初めて、北国の人が、春を待ちこがれる気持ちが良くわかったね」
「そうねえ、こればかりは実際にその場所に住んで見ないと分らないわね」
二人は話合いながら、林のほうへゆっくりと歩いて行きます。僕も、あちこちの木の芽の匂いをかいだり、木の幹に付いた他の犬
のオシッコの匂いをかぎながらその後をついて行きましたが、フト良いことを思いつきました。でも思いついたとたんになんとな
く照臭くなって、思わずご主人と奥さんの方を見上げましたが、二人とも僕のことなどまったく気にもとめず、恋人みたいにピッ
タリと寄添いながら歩いています。その姿がいっそう僕の心を刺激しました。
―僕が姿をくらましたりしたら、二人は心配するだろうな…
―でも、アダミヤックさんのところにでも行ったと思いそれほど気にしないんじゃないかな…
うん、きっとそうだ。すぐ帰ってくればいいんだし…
自分でも、僕がこれからしようとすることに出来るだけ都合よく考えようとしていることが分かっていました。でも、僕の思い
つきは益々僕の気持ちを駆立てるのです。自分の力ではもうどうしようもないほどそれは大きくふくらんでしまっていました。
僕は、近くの林の中に入って行くご主人と奥さんを見送り、反対の方向へさっと走り始めました。こうなったら、もう時間を無
駄には出来ません。僕は空港のビルの方へ走って行きました。それから空港のビルの後ろに回って広い滑走路を見渡しました。お
およその見当はつきます。飛行機に忍込んでこの空港に着いた日、僕が空港の人達に追われたとき、警備犬のシェパ―ドに助けら
れ、やっとのことでかいくぐった金網の穴は、ちょうど空港ビルの反対側にあるようです。空港の中を突っ切っていくわけにはい
きませんので、そこまでかなり距離があります。
僕は空港を取りまいているフェンスに沿って走り始めました。大きな木の株や、もみの木の繁みや、やぶや木のさくなど走りを
妨げるものが沢山あります。僕は木の枝の間をすりぬけたり、さくの下をかいくぐったり、時々回り道をしたりしながら、目標地
点である金網に穴のあいているところまで一気に走りました。見ると金網の穴は太めの針金でもうきちんと修理されていました。
ここからさきはちゃんと覚えています。僕は少し緑をおび始めた野原を横ぎり、小さな木造の家の側を通りぬけ、林の中の小道
を一目散に走りました。心臓がドキドキしてきました。体中が熱くなって来ました。やっと、あの大きな石造りの家に着きまし
た。僕は急いで裏手に回りましたが、大きな庭には動くものの影はなんにも見当たりません。僕は声をひそめて呼びました。
「アンナさ―ん」
返事がありません。
「アンナさ―ん」
もうすこし大きな声で呼びました。あの日、雪の中をアンナとピョンピョン飛んで遊んだ庭もうっすらと春の色に染まっていますが、いつまで待ってももの音一つ聞こえて来ません。ひょっとしたら留守なのでしょうか。ここまでやって来たのに会えずに帰るのは残念でなりません。
「アンナさ―ん」
もう一度、僕は叫びました。結局駄目だったようです。アンナはどこかへ出掛けているに違いありません。僕は重たい足を引ずり
ながらもと来た道を引き返し始めました。大きな家の表側に回り、もう一度別れを告げようと振返って見ました。そのとき、玄関
の重たそうな樫の扉がほんの少し開き、その陰から小さな白い雌犬の顔がチラリとのぞきました。僕は足を止めました。
「チビクロ!」
「アンナ!」
アンナは重たい樫の扉を肩で押しあけ、僕のところまで飛んで来ました。
「お久し振りチビクロ」
「こちらこそ、お久し振りアンナ」
僕らはフェンスごしに鼻のあたまをこすりつけあいました。毛並みもつやをまし、アンナは一段と美しくなったようです。ピンと
伸ばした尻尾をいせいよく左右に振っています。
僕が最初にアンナを呼んだとき、すぐにそれが僕の声だということがわかったんだそうです。裏庭に面した居間には飼い主一家
がくつろいでおり、テラスのガラス戸にも鍵が掛かっていました。そこで玄関の方へ回り、これまで一度も自分で開けたことのな
い樫の扉を必死になって開けて出て来たんだそうです。声をたてると飼い主一家に気づかれると思い返事もしなかった。とにかく
扉のノブを回すのにさんざんてこずっていると、僕が今にも引き返えそうな様子なので、ハラハラしながら、力を振りしぼって開
けたのだそうです。アンナは息をはずませながら、話します。見るとアンナのくちびるが少し切れて、血がにじんでいます。きっ
と扉のノブを口で回したときに切れたに違いありません。アンナにとってそれがどれほど大変なことだったかを物語っています。
僕はアンナがたまらなく愛しくなって、思わずアンナの唇の血をなめてあげました。アンナはじっと僕のするままにしていまし
たが、そっと、自分のくちびるを僕に押つけてきました。たとえようもない柔かいくちびるです。僕もアンナのくちびるに自分の
くちびるを押つけました。アンナの香しい息が僕の顔に掛かりました。
思いもかけなかったような悦びが僕の体の中を突抜けました。アンナはじっとそのまま目を閉じています。くちびるを離すとア
ンナは恥かしそうにうつむきました。
僕は近くの木陰に場所を移して、アンナから別れた後に起こったことを手短に話しました。アンナは目を丸くして聞いていま
す。
「ご主人一家に巡り会えるなんて、あなたも本当に運がいいのねえ」
「アンナ、それもこれもみな君に助けて貰った御陰だよ。今日は一言お礼を言いたくてやって来たんだ。でも空港でご主人と奥さ
んが待っているので、今日はこれで失礼しなければなりません」
「ええ、わたしも余り長いこと外にいたら、こないだみたいに見つかって、またコラッてご主人に怒られることになりかねないわ。
せっかくお会いできたのにコラッて怒られながら別れるのは味気無いわ。そんなことをしていたんじゃ、これから会えなくなるか
もしれないし…本当はもっとずっとお話ししていたいんだけど、これからのために今日はこれでお別れにしましょ。きっとまたい
らしてね」
「うん、ぜったいまた来ます」
僕はかたく約束しました。
後ろを振返り振返りしながら僕は、その場を離れました。アンナの姿が見えなくなるや否や、僕は全速力で走り始めました。ひょっとしたらご主人たちが僕がいなくなったのに気づいて捜し始めているかも知れません。僕は少々木の枝に引掛かって毛が抜けようと、足の裏をすりむこうとお構いなしにひたすら走り続けました。だから空港ビルに着いたときには、もうへとへとで、いまにも倒れそうになっていました。
僕は、激しい息をつきながらまずアダミヤックさんの車のところへ行って見ました。ところがそこには車は見当たりません。
ス―ッと血の気が引いていくのが分りました。僕は青くなって空港のビルの中に入って行きました。ご主人たちの姿は見当たり
ません。アダミヤックさんの車がないということは、もうみんな帰ってしまったということなのでしょうか。
「しまった」
僕はとんでもない失敗をしてしまったのです。恐らく飛行機が着いて、お客さんをお迎えしたご主人たちは、もう空港から帰って
しまったのです。僕をすこしは捜してはくれたのでしょうが、大切なお客さんということでしたから、やむを得ず行ってしまった
に違いありません。こうなればどうにかして、自力で家に帰りつくより外に手はありません。僕はそれでも念の為に林の方に行っ
て見ました。
ご主人たちの匂いは、もうかなり古くなっています。最後にもう一度だけ空港のビルの中をのぞいて見ました。あちこちに人が
かたまっています。新しい飛行機が到着したのか、先ほどよりかなり混みあっています。その中に少しこぶとりの小柄な小父さん
がいます。匂いからしてどうも日本人のようです。キョロキョロと辺りを見回しています。こちらを向いたときよく見ると日本人に間違いありません。あめいろのべっこうの眼鏡をかけて盛んにキョロキョロしているのです。お迎えの人がいないのでしょうか。僕は少し気になって近づいて行きました。すると眼鏡の小父さんも僕に気がついたようで、僕のほうへ近づいて来て、
「チビクロ? チビクロか?」
というのです。僕は驚いてしまいました。僕が目を丸くして見上げていると小父さんは両手を差出しながら近づいて来ます。一体
だれなのでしょう。どうして僕の名前を知っているのでしょう。
めったなことに見知らぬ人に近づきになるわけにはいきません。たとえ名前を知っていても。僕は警戒して少し後退りしました。
「お前チビクロなんやろ。捜していたんだよ」
こんな見も知らぬ小父さんがどうして僕のことなど捜したりしていたんでしょう。小父さんは僕を抱上げようとして両手を差し出しながら、近づいて来ましたので、僕は歯をむき、
「ウ―ッ」
体を低くし、おどすような姿勢をとりました。
「こりゃなかなかわし一人では手におえそうにないな」
眼鏡の小父さんは辺りを見回すと、口に手を当て大きな声で叫びました。
「お―い、チビクロがおったぞう」
周りの人は、小父さんが突然大きな声を出したので、驚いて一斉に僕らの方を見ました。小父さんは僕に手を半分差出しながら
時々振りかえっては、
「お―い、チビクロがおったぞう」
と叫びます。何時の間にか丸い人垣が出来て、みんなこの不思議な情景をながめています。とその人垣をかきわけ、最初にご主人
が、そのすぐ後から奥さんが飛出して来ました。二人ともなぜか必死の形相をしています。
「チビクロ!」
「チビクロ!」
二人が叫びました。僕はほっとしてご主人と奥さんの方へさっと走って行きました。心の半分でちょっぴり怒られることを覚悟し
ながら。それでも、べっこうの眼鏡の小父さんなんかにさらわれたりしなくて良かったと思いながら。
「チビクロ!」
ご主人と奥さんは僕を抱上げきつく抱きしめました。見るとご主人の目にも、奥さんの目にも涙が溢れ、くちびるがぶるぶるふるえているのです。
「ごめんね、チビクロ。私たちがほっといたものだから、迷子にさせたりして」
奥さんが涙声で言いました。僕は一体なんと答えたらいいのでしょう。 クンクンと鼻を鳴らしながら、僕は奥さんの涙を一生懸命
になめました。
「済みません。悪いのは僕なんです」
心の中で僕は一生懸命あやまりました。
「常務、誠に申し訳ありませんでした。ポ―ランドにお着きそうそう、犬を捜すお手伝いをさせてしまったりして」
ご主人は、何と先ほどのべっこう眼鏡の小父さんに最敬礼をしているのです。
「いや―参ったよ。このチビクロくん、わしが手を出すと歯をむきだして、『ウ―ッ』ちゅうておどかすんだよ。どれ、わしと仲直
りするか」
小父さんは、僕の頭をなぜてくれました。僕は申し訳なさに上目づかいで常務の顔をチラリと見、体を小さくしてなぜて貰いまし
た。べっこうの眼鏡の奥の目は優しそうでした。
人垣をかきわけてアダミヤックさんが現れました。
「チビクロ、見つかりましたか。それはよかった。チビクロが家に帰ったんじゃないかと思って、空港から家までの通りをずうっ
と捜してみたんですが見当たらないものですから、心配しながら引返して来たんですよ。チビクロ一体どこに行ってたんだい」
こういうときには口がきけないということは便利なのかも知れません。これだけ心配させて、まさかアンナに会いに行っていた
などとは言えません。
帰りの車の中で常務がご主人夫妻を盛んにからかっています。
「チビクロがいないと知ったときの君たちの顔は見ものだったな。だれかに連れて行かれたのかも知れんゆうて、わしのことそっ
ちのけで、やれ電話に飛びつく、運転手を捜しにやる、まあ奥さんまで必死になってそこら中えらい勢いで走りまわる。わしがそ
のうち帰って来るよゆうたかていっこうに聞きよらん。いや、ポ―ランドに着くそうそう仕事そっちのけで、犬を捜すことになろ
うとは思わんかったよ」
「この犬は、私たちを追いかけてポ―ランドまでやってきた犬なんです。わたしたちの宝なんです。もしものことがあったらと思
うと、もう何もかも分らなくなってしまって。常務にまで捜すお手伝いをお願いして誠に申し訳ありませんでした。おまけに常務
に見つけていただいて、本当に何といってお礼いって良いか分りません」
「まあ、これでわしは、君たちに貸しが出来たわけだ。今日は遠慮なしに日本メシの御馳走に預かれるな」
その晩の日本メシは、奥さんが腕によりをかけて作ったので、さすがの常務もご満悦でした。ただ奥さんが残念がったのは未だ
日本から船荷が着かないので、料理の品数が少ないことと、こまごました日本料理用の器がないために、洋風の皿に盛つけしなけ
ればならないということでした。
「早く船荷が着けば、もっといろんな料理も差し上げられますし、もっときれいに盛りつけることも出来るのですが、こんな料理
でお口にあいましたかしら」
「いや奥さんはなかなか腕がいい。日本でもこれだけうまいもんはそう食わして貰えるものじゃない。吉野君、君はいい奥さんに
恵まれて幸せだよ。船荷が着いたら、もっとうまいもんを食わしてくれるちゅうなら、船荷がついた後でまたやって来ますかな。君たちがなかなか張切ってやっていることも分かったし、チビクロとも仲良しになったことだし。な、チビクロ」
僕はこのときとばかり、懸命に尻尾を振りました。