「旅の愉しみ」 「日 々の 愉しみ」 「単 身赴任者の愉しみ」 「落 ち穂拾い」 新 エッ セイ・シリーズ エッ セイ No.2
「気まぐれニッポン探検」
エッ セイNo.2
「日 本を考える」

エッセイ No.1   人生の愉しみを巡るエッ セイ

エッセイの部屋

落ち穂拾いコーナー(27編)


Gleaning

目次

 
 「誰かが見ている」という標題は、一年半ほど前に読んだ同名の推理小説から頂 いたのだが、「誰か」の意味は少々異なっている。小説の方では、美貌の女流コラムニストを付け回す気味の悪い「誰か」が殺人犯の異常心理者であることがわ かってくる仕組みになっているのであるが、ここでいう「誰か」とは、文字通り誰かであり、特定されぬ人物の意である。つまり、標題は、どこの誰ともわから ぬ人間がこっそり見ているという意味である。

 ところで、こんな標題で小文を書くことになったのは、筆者が東京から四国へ転勤して来て間もない頃、県庁のある部長さんから、こんな話をうかがったこと にあずかっている。
ーー自分はかれこれ三十年間県庁勤めをしているが、部長になる前の二年間だけ東京事務所長として東京で暮らしたことがある。その時ほど気分的に 解放感を味わったことはない。県庁勤務が長く、部長という要職につくと、人口三十万そこそこの県都ではどこへ行っても顔が売れていて不自由なことこの上も ない。その点東京では、何の気兼ねもなくどこへでも行け、自分の好きなことが何でも出来た。出来れば、もう一度東京で暮らしたいものだーーというのであ る。

 当初はこの話もそこそこに聞き流していたのであるが、筆者の地方都市生活も長くなり、ちょっと出かけても知人に出くわしたり、先日どこそこへお出かけで したな、などと思いも掛けぬ人に言われたりするような経験を繰り返すにつれ、この部長さんの話が実感として次第に身につまされてきたのである。つまり、人 口三十万程度でも県都ともなると都市施設はかなり良く整備されており、実際の利用も東京に比べ格段に容易であり、いろいろと住み易い面は多いのであるが、 それらを享受するするためには、いつも「誰かが見ている」中で生活をするという思いも掛けぬコストを支払わねばならないことに気付いたわけである。

 こんなことを意識しだすと街をブラつくにしても自分の服装から連れのことまで気になってくる。バーゲンセールを冷やかすのも気が引ける。ポルノ映画館な らその前を通るだけでも何となく後ろめたい。そのうち、何となく外出するのが億劫になってくる。

 こうして、件の部長さん同様、筆者の行動も、「誰かが見ている」重圧に何かと制約を受けるようになってきたのであるが、思うに、筆者のみならず、日本人 の多くは、「誰かが見ている」ことをことのほか気にする性向を持っているようである。このことは逆から見れば日本の社会には、そういうことを意識して行動 しなければ、後でひどい目に合わせられかねない面が多分に存していることを物語ることにもなるのだろう。肩書きと地位とはどこへ行ってもついて回るので あって、自分勝手にやたらと看板は下ろせないのである。下ろしたつもりになって、肩書きや地位に少しでもふさわしくない行動に及ぶと、国家公務員にあるま じき行為とか大学教授ともあろうものが等々の非難が雨霰と降り注ぐことになる。

 たまに東京へ出張して、新宿あたりの雑踏の中へ紛れ込むと、何となくほっとするのは、このような「誰かが見ている」社会からの解放感がなせる技であろ う。
 人の住める都市ではないなどと随分悪口は言われているけれど、まだまだ東京は人を引きつける魅力を持っていると言えそうである。

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(1999/7/10掲載)
 このエッセイは、わたしの東京大学教養学部時代のクラス雑誌「MUKADE」(編集後記の日付は昭和35年1月18日となっている)に掲載したものであ る。
 
 

これはキッスで始まる


『チュッ』
親愛なる34L1-6組(注1)の諸兄への我が愛する彼女からの、初対面のアイサツ代わ りの投げキッスである。親愛なる諸兄であればこそ、彼女がこの背信的キッスを贈るのに同意した私である。御斟酌のほどを!編集者の御好意により『 』内の 実音が、シンクロリーダー方式(注2)で同部分に録音されているから、13万5千円也を 御奮発あれ。極めて肉感的実音は、諸兄に御満足いただけると信ずる。

 さて、この我が愛すべき彼女を、ここにあからさまに描写しつくすことによって諸兄の憶測を逞しゅうさせたり、羨望を買うことが私の目的ではない。 諸兄のあらゆる義姉妹(イトコ)をその美において凌駕することあまりに明確であるから。でも諸兄に安心してこの先を読んでいただくためにも、彼女のオツム が、かなり『弱い』ことだけは表明しておこうと思う。「頭のよいこと」をいわゆる『彼女』の第一条件とする大学生もどこかにいると聞くから。

 私の彼女は口が悪い。思ったことをずばずば言ってのける。オツムが弱いせいか、あの女にありがちな、一般概括的表現をしばしば用いる。そんな物の 言い方は私の最も好まぬところであるが、めいていすれば何をやっても咎められないお国柄である。オツムの悪い彼女のこと、その一般概括的表現を私はあまり 咎めないことにしている。
「東大生って・・・・・・」
「日本人って・・・・・・」
「恋人って・・・・・・・」
「九州人って・・・・・・」
という具合に、彼女は言葉を始める。
「東大生って不潔ね」
と、まあこういう次第である。
 何が不潔なのか一向に要領を得ないのだ。風呂に入るのも忘れて、勉強ばかりやっている東大生をたまたま一人見たので、彼女はこういったのかもしれないの だし・・・・・
 私の方も悪癖があって、すぐ「どうして?」と訊きたがる。すると彼女は妙な顔をして
「どうしてって?理由なんかないわよ。兎に角、不潔といったら不潔なのよ」
と来る。
 でも、こんな調子の会話でも、私は、彼女と交わしている限りにおいて大いに楽しいのである。
 ああ、そのつぶらな輝く瞳の大きな動き!
 ピチピチと元気に躍動する唇の厚み!
 言うならば話すことより彼女を観ることが主の「会話」なのである。
 まあ、こういった彼女だが、なかなか隅に置けないようなことを言うことがある。
 「東大生っていい子意識が強すぎるんじゃない」
 と彼女に言われたとき、事実、彼女のオツムの『弱さ』かげんにギョッとしたのである。
「いつも、まるで恋人の前にいるみたいな顔して・・・・」
 それを聞いて、私の顔は現実に恋人の前にいながら、恋人の前にいるときの顔とはほど遠い顔にならざるを得なかった。
 <じゃ僕はどんな顔をしたらいいんだ?!>とばかりフテくさったのである。
 私の頭の中を数列の言葉が流れては消える。
「狂乱なき世代」「絶望なき世代」
「没落なき世代」「怒りなき世代」
『Wo  ist  der  Blitz, der  euch  mit  seiner  Zunge  leck?  Wo  ist  der  Wahnsinn,  mit dem  ihr  geimpft werden  musstet? 』

 彼女は私の顔を見て微笑んでいる。
<貴方はどんなことを考えているの?>
と言った風に。
 その日の別れ際に彼女は言ったものだ。
「今日の貴方は魅力的だったわ」
 おお、彼女は東大生の顔を真に理解していた!

※   ※   ※   ※   ※   ※

 彼女はダンスがうまい。
 あのダンス・パーティの雑踏の中を縫うように踊りまくる。あまりうまくない私とは踊りたがらない。また自分の美貌を確かめているのだろう。次から次と、 決して壁の飾り人形となることなしにパートナーを替えていく。私と踊りたがらないなどと書くと、彼女における私の位置をにやにやする御仁もあろうかと思う けれど、彼女に、
「東大生って気を回しすぎるわね」
と、やられるのが、オチだとワタシは信じている。
「ほら、見てご覧なさい。あの人たちの顔!」
彼女は私と踊りながら上気した顔をほころばせる。
「哲学的メイ想に耽りながら、ダンスをやっているんだわ」
狂乱なき世代は、生命感にあふれた笑いを忘れ、何ごとをも楽しまないのであろうか。どの顔もどの顔も固く、冷たく、一種異様な雰囲気をかもしだしている。

※  ※   ※   ※   ※   ※

その帰路、月の明かりの葉陰より漏り来る銀杏の並木を二人して歩く。二人の足音は、一人の歩むがごとく静かなる夜のしじまを震わせ、二人の語らう言 葉ぞよし。
「東大生って、みんな女の子にふられたような感じがするわ」
<ー男ー雰囲気こわすナァ、タンチン>
おお、一人高き者よ、汝は孤独なり、汝は恐れられ、畏敬われる。

並木はつき、別れの時は来ぬ。二人は向かい合って、二言三言語り合いぬ。やがて・・・・

 男の腕は女をしっかりと抱きて、お別れの抱擁を彼女の唇の上に印せり。

ー注ーこのとき発せられたる音は、この文の最初に録せられたるものと同音異質のものにて、聞かんと欲せられる人は参聴されたい。

 はや、月も顔を赤らめ、一つ漂える雲後にその姿を没し去れば、四界ただなんとなく、熱っぽく寂として音もなし。
「さらば」
と、二人は別れ、女つぶやきけり。
「東大生って、キッスがへたね」

=追記=この文、現ナマ二百円が私をして書かしめた不徳の書である。クラス雑誌に二百円位はパクられるらしいとの情報を得たのが、六 日日曜日の夕暮れも近い頃。構想を練る間もなにもなく、ただ、現ナマ二百円も出して(百円ならともかく)他人の駄文(失礼)ばかり読まされるのも惜しいと いう思いにつまされて、45分間、雑誌の紙面をつぶすために文字を並べたまでのものである。情報をもう少し早く手に入れていたらもっとましなものが書けた のにと思うのだが、結局駄文の列に並べられることになりそうだ。今度彼女に会ったら、この話をしようと思うのだが、「東大生ってずいぶん打算的ね」とだけ は言われない自信がある。なぜなら、これまでずうっと、デイトの会計は私一人で持ってきたのだから。

(注1)私が属した東大教養学部の文科一類昭和34年組のクラス名である。
(注2)当時、紙に直接録音できるというシンクロリーダーなる機器がキャノンからだったかと思うが、13万 5000円なる定価で発売されていた。あまりヒットせず、すぐ発売中止になったように思う。

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(1999/6/20掲載)

あなた働く人、わたし楽しむ人
(季刊雑誌『翼のある風景』1984年秋・冬号所載)



 知人の招待で久しぶりに上野の東京文化会館へ行った。その方の奥さんのソプラノリサイタルだったのだが、約二年前に比べて声に一段と艶が出てなか なか聞きごたえがあった。ただ、申し訳なくもあり、かつまた残念だったのは、私は最初から全部は聞けなかったことだ。当日の会議が少し長引いたので、あわ てて駆けつけはしたもののプログラムはもう後半に入っていた。待ち合わせた家内が、前半もとても良かったのにと残念がった。

 日本では今もって演奏会の多くは六時や六時半に開始されるが、この時間だと勤め人にはどうも中途半端である。仕事を少し早めに切り上げなければな らないし、夕食抜きで駆けつけなければならない。場合によっては、緊急の仕事でどうしても抜け出せないこともある。

 それでどうしてもこうした文化的な催しには、男性よりも女性の数が多くなる。会場を見渡すとやはり女性の姿がかなり多い。これはその前に行った中 野サンプラザでの演奏会の時も感じたことだ。

 どうも我が国では「あなた働く人、わたし楽しむ人」という男女間の分業体制が成立しているらしい。かなり前になるが「あなた食べる人、わたし作る 人」という言葉が大はやりして、差別語ということで女性側からクレームがついたことがあったが、こちらの方は女性に不利でないためか、女性側からのクレー ムを聞いたことがない。むしろ男性側からクレームをつける筋合いのことかも知れないが、日本ではそこまで男性の力は強くないのか、それとも文化的なことは あまり関心がないのか、こちら側も口を閉ざしている。

 演奏会も終わり、満ち足りた気持ちで久しぶりに家内と一緒に食事でも、と思ったが文化会館のレストランはもう閉まっていた。近くに適当なレストラ ンは見当たらない。結局高田馬場まで出て、行きつけの居酒屋風の飲み屋で一杯飲んで家に帰った。

 どうも釈然としない。演奏会に行くということが社会システムの中にきちんと織り込まれておらず、どことなく片手間仕事の趣があるからだ。

 女性が多いと言うことはそれだけ男性が仕事に張り付けになっているということだし、女性客の多くは演奏会が終わればそれこそ、帰宅しているかも知 れぬ夫なり子供なり両親なりの待つ我が家へとんで帰らなければならず、終演後ゆっくりとレストランで食事というゆとりも持ちあわせていない。

 となれば劇場のレストランを終演後も開けということなどどだい無理な注文であり、会場の近くにしゃれたレストランが店を構えることもない。

 今年は仕事で欧米に幾度か出掛ける機会があり、その折、クラシックやミュージカル、オペラを楽しむことができた。

 開演時間は、どこも七時半以降、だから軽い夕食を済ませて出掛けることができる。もともと男女のペアが基本の国のことゆえ観客席の男と女の比率も それほど偏っていないし、それに日本のように若い人中心ということもない。老いも若きも揃って楽しんでいる。演奏の幕間には、劇場内のラウンジでグラス片 手に話に花を咲かせる。演奏が終わると、劇場のレストランでゆったり酒を飲んだり、食事をとったりできるところもあるし、歩いてすぐ近くに古いワインケ ラーが店を開いているところもある。演奏会の余韻を漂わせた人々がそういう場所で夜の更けるのも忘れて歓談する光景に幾度となく出くわした。そこには演奏 会が社会生活の中にきちんと位置づけられ、トータルに楽しまれている趣があった。

 ゆっくりと演奏が楽しめるのが海外旅行のときだけというのはやはり寂しい。仕事優先でなく、仕事とこうした文化的な催し物との比重がもう少し程良 いバランスをとったらどんなに良いだろうか。そのためには現在の「あなた働く人、わたし楽しむ人」の分業体制をどうにかしなければならないとつくづく思っ たことである。

(翼のある風景 1984年秋・冬号所載)
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(1999/1/12)
アンテナと国際性
(公研1984/10月号)


 旅に出て緑に包まれた山深い谷あいの村落を列車の窓から眺めるのは、心和むものであるが、点在する家屋からは雨 後のタケノコよろしく背の高いアンテナが一斉に同じ方向を向いてそそり立っているものだ。これは、テレビの高い普及のなせる技であるが、衛星放送が本格化 すると、このような難視聴地域では、現在のT字型のアンテナは早晩オワン型のパラボラアンテナに取って代わられるのであろう。

 電波の波長に応じて、それを受けるのに適したアンテナを備えるのは常識であるが、現在、実に様々な波長が使われ るようになったこともあり、アンテナの形にも誠に多様なものがある。

 ところで、考えてみると、人間も十人十色、一人一人が波長の違う電波を出しているようなものだ。今やこの地球上 には、四十六億人もの人間が住み、多数の異民族や異文化がせめぎあい、百六十を越える国が存在している。となると、それらが発する様々な電波をきちんと受 信しようとすると、それこそ大変な種類のアンテナが必要ということになる。

 前駐日英国大使のコータッツィイ氏は、人も知る知日家であり、日本の歴史や文化に大変造詣が深い。大使の著書 『東の島国、西の島国』を読むと、大使時代に実によく全国を旅行されているのに驚かされるのであるが、大使が地方に出かけたおり、その地方の記者から受け る主な質問が、そして場合によっては唯一の質問が、訪問地の印象についてであった。たとえ、大都市を離れた地方になると外国および外国事情についての関心 が薄くなるのは当然としても、これは残念だったと述べておられる。

 また、大使は、「教育を受けた年配の政界、財界、官界の方々と話をしていて良く失望させられるのだが、皆さんの 自国の文化に対する関心の幅が狭いのだ。『ご趣味やご関心はどういうもので?』と質問すると、たいていは『ゴルフと仕事』だといい、家にいるときはテレビ を見て過ごす、という答えが返ってくる」。これは、日本の教育が、単に英語教育に失敗しただけでなく、広い文化的素養を培わせることに失敗していることを 示している、とも指摘しておられる。

 こういう少々耳に痛い指摘を受けた場合こそ、まさしくこの、日本人はもうすこし幅の広い帯域の受信が可能なアン テナを開発しなければ、国際的に旨くつきあっていくことが難しくなりますよ、という知日家としての思いやりのあるアドバイスを活かさなければならないのだ ろう。

 日本人の同質性が高いといわれる所以は、谷あいの村落同様、同じような形の同じ方向を向いたアンテナを各人が 持っているからである。しかし、これでは日本人に耳に痛い言葉にはなかなか波長があいにくいし、地球上に飛び交っている多種多様の電波をキャッチするのも 容易ではない。

 現在は、国と国との相互依存関係が一段と伸展しつつある時代である。日本人も心して、自国民はもとより世界の人 々が発している多様な電波を受信できる高感度のアンテナの開発に努める必要がある。もし、それに失敗するようだと、ハイテクの技術開発に立ち遅れること以 上の深刻な問題が起きるに違いない。

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(1998/12/20)
バカンスへの情熱(1981.8.12 記)

 日本人と結婚したとあるフランス女性が「フランス人はバカンスに使う金は惜しみません。バカンスを楽しみに一生 懸命働き、また節約もします。バカンスへのそういう”情熱”は日本人にはありませんネ」と言っている(読売新聞1981.8.10)。

 確かにフランス人のみならず、ヨーロッパ人のバカンスへの情熱は大変なものである。わたしも三夏、欧州各地でバ カンスを楽しんだ経験があるが、彼らのバカンスへかける情熱には圧倒されたものだ。

 夏のバカンスのため、一年も前からペンションの予約もし、日頃は贅沢を避けて資金を蓄え、予定した日には、たと え社長から出社を懇願されてもバカンスへ出掛ける。

 したがって、夏のシーズン、欧州のどこへ行っても、道路はバカンスへ向かう車で、溢れる。山麓、海浜、湖畔の景 勝地ならどこでも様々なバカンス用施設が整えられており、かれらはそこで二週間から一月ないし二ヶ月にもわたる長期滞在型のバカンスを悠々と楽しむのであ る。その上、どんなに有名なリゾートでも料金が驚くほどリーズナブルなので長期滞在が可能となるのである。

 一カ所での長期滞在となると、知らないもの同士の交流が生まれる。これがバカンスの楽しみを倍加させると言って もいい。ホテルやペンションの側でも、定期的にパーティ催したりして、知らぬもの同士が仲良くなれるようにいろいろ工夫を凝らす。

 わたしたち一家(夫婦と子供二人)は、車で欧州各地を見て回ろうと言うことだったので、一カ所にはほんの2〜3 日ずつしか滞在できなかったのだが、それでもこんなパーティに出くわしたり、見知らぬ人とも仲良くなろうという精神の旺盛な滞在客の暖かいウインクに迎え られたりして、バカンス地のアットホームな雰囲気や様々な人々との触れ合いを十二分に満喫することができたのだった。

 こうして思い出すだに楽しいことや貴重な経験が、わたしたちのせいぜい一夏二十日程度の欧州での夏休みにもいっ ぱい詰まることになったのである。

 それに引き替え、日本でのバカンスには楽しさに欠けるところがある。それはあまりにバカンスの期間が短いのとバ カンス代がむやみに高いのと、そのコストの割には楽しみの質が低いことに根ざしている。いわば、バカンスの生産性が日本では極めて低いのである、

 つまり、何事にせよ、国民の大多数が情熱を注ぎ、従って需要が旺盛でそのための資本投下がせっせと行われる分野 における生産性は高くなり、コストも安くなるのであるが、日本におけるバカンスはまさしくその逆を行っているのである。

 わが国は、とにかく経済優先のお国柄のこと故、産業施設には大金が投じられ、それ故産業の生産性は世界に冠たる ものであるが、国民のほとんどが働き蜂的性向を有し、仕事に対するほどにはバカンスに対する情熱を持ち合わせず、これまでこの方面への資本投下が怠られて いたこともあって、バカンスの生産性となると欧米に比べかなり見劣りするわけである。

 また、日本ではバカンス用施設の未整備に加えて、短い夏の一時期に需要が殺到し、有名なリゾートではいわば殺人 的なラッシュ現象が生ずるため、バカンス代は鰻登りになる。こうして国民のバカンスへの情熱は燃え上がる前に水を差されてもいる。まさに悪循環というべき だが、日本のバカンスの生産性が(従って日本人のバカンスへの情熱が)欧米並に高まるのはいつのことであろうか。

(月刊時評1981年10月号掲載)

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(1998/12/7)
「北海道にこだわる会」とシンザン
 

 この会には二様の呼び名がある。「北海道にこだわる会」は文語体で、口語体では「北海道にこだわらない会」とい う。これでは全く逆の目的の集まりに思われかねないが、そうではない。口語体の方は、語尾をすこし上げ気味に「北海道にこだわらないかい?」と柔らかく発 音するのである。これで北海道に在住の人ならお分かりのように、北海道にこだわろうよ、という呼びかけになる。

 わずか一年だったが札幌に赴任し、すっかり北海道ファンになって帰京した。在京の同好の士と力を合わせ、少しで も役立つことをやりたいと思っていたら同志が見つかった。当初四人で五年前発足させた会なのだが、こだわるのは北海道だけ、他は一切こだわらない、入るも 自由、出るも自由のオープン方式てやっていたら、七十人を越す人が参加する会に成長した。毎月欠かさず定例会を開き、ビール・ジョッキを傾けながら、北海 道に関する情報やアイデアを交換し、手掛げている様々のプロジェクトについて意見を出し合う。前回は持ち込まれたとあるテーマ・バークの救援策について関 係者側も交え論議した。

 この会で設立早々にまとめたのが、北海道の名産サラブレッドをもっと売り込もう、そのため「名馬サミット」なる ものを開催してはどうかというアイデアだった。ところが、その年の八月、浦河町で全国の馬に関係する市町村が集まり、馬と文化の関わりついて語らう「第一 回ホースサミット」が開かれるという。それじゃということで、民間団体としては唯一オブザーバー格で参加してみた。そのとき、浦河町長はじめ町の皆さんと 顔見知りになった。まだ健在とは予想もしていなかった五冠馬シンザンにも初見参でき、同町で毎年「シンザン・フェスティバル」が開催されていることも知っ た。

 シンザンは意外と小柄だったが、さすがに利発そうな面構えと均整のとれたスタイルが印象的だった。

 これが縁で、こだわる会の夏の定例会は、フェスティバルの時期に合わせ北海道で開くことにし、あれから毎年出か け、シンザンに長生きするように言ってくる。昨年は、同行した妙齢の女性勢がシンザンを取り巻いたら、人間の年齢に直すと百二十にもなるシンザンが体の一 部で明らかな反応を示し、女性勢を喜ばせ、男性陣の顔色をなからしめた。

 今年の二月シンザンの体調不調が伝えられた(注)。随分気をもんだのだが、どうにか持ちこたえたようだ。今夏も 八月上旬のフェスティバルには、会の仲間ともども顔を出し、例年のようにシンザンの首筋を叩き、もっと長生きするように言ってこようと思っている。

注:シンザンは、その後元気を取り戻し、サラブレッドの長寿記録を書き換えたが、残念ながら昨年(1997/7月)、34歳で他界した。
 

(社団法人札幌馬主協会機関誌「北のロマン」1994年夏季号所載)
 

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(1998/12/5掲載)
私とインターネット

(以下の小文は、北海道新聞の「わたしのネットワーク」と題するシリーズものに昨年(1987年)6月3日に、このホームページの宣伝を兼ねて書い たものである。)

5冊分の情報を発信
人生を映す私家版全集に
 
 今年のひな祭りの日に待望のホームページを開設した。「阿部毅一郎のお愉しみコーナー」と名付け、水彩画、エッセー、 旅行記、和歌、俳句、川柳、言葉遊び、和歌日記、歌詞、童話、日本経済論、時事評論、囲碁、スポーツなど日ごろ楽しみとしていること、これまで書ききため ていたものなどを網羅的に載せている。単行本にすれば優に5冊分になるだろう。

 北海道とのご縁は平成元年(1989年)に一年間だけだが、札幌に単身赴任したことに始まるが、すっかりフアン になって帰京した。帰京後すぐ、北海道のために少しでもお役に立とうと「北海道にこだわる会」なる会をつくり、その後7年以上にわたってボランティア活動 を続けている。その様子は単身赴任時代を懐かしんでつづった「単身赴任者の愉しみ」というエッセーともども、ホームページで紹介している。
 さて、5柵もの本を商業出版しようとすれば大変だが、インターネットでなら簡単にできる。しかも、インタ一ネットに接 続した世界数千万の人に瞬時に配送できるのだ。これはグーテンベルクの印刷術がもたらしたのと同等あるいはそれ以上の、知的生産者への朗報であろう。これ で情報に関しては、東京と地方の差が一挙に吹き飛んだ。

 だれもが、財力や社会的な地位、住む場所に関係なく、社会に向けたメッセージをこれほど容易に発信したり、重要 な情報にアクセスできる時代はかつてなかった。その恩恵を享受しなければもったいないという思いに駆られ、ネットワー一クサーフィンと、自らのホームペー ジの維持管理に精力を注いでいる。やがてこれが、私の人生の足跡をそのまま映し出す私家版全集のようなものに成長していく気がしている。
(北海道新聞1997/6/3)

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(1998/4/14掲載)
 

 すべての道は・・・


 多くの人から外国赴任時代には人聞らしい生活ができたという話を聞かされる。かくいう私も金くその通りだと思う。10年ほど前社会主義国であるポーランドという国に3年間滞在したが、そのときの生活が日本での生活に比べて一番人間らしい生活だっ たような気がする。

 なにが人間らしい生活かというと、日本にいるときに比べて格段に広い家に住み、職住接近で長い通勤や「酷」電に悩まされることがないなどいろいろ あるけれど、何といっても、自分の時間を自由に計画的に使えたという点が一番である。

 日本では会社勤め、役所勤めをやっているとなかなか自分の自由時間を確保しにくい。万事が仕事優先だから、仕事が個人の自由時間に土足であがりこ んでくる。今日中に片付けなければならないと言われれば、残業しても片付けざるを得ない。

 だから前もってオペラヘ行く、家族と待ち合せて夕食を取りに出かける、仲間うちでパーティを開くというような計画が立てにくい。せっかくのプラン がおじゃんになるような経験を繰り返すうちに、退社後の時間もついつい計画的な使い方をしないようになってしまう。

 日本でマージャンや赤ちょうちんが流行るのはたまたまあいた時間の埋め草にちょうどいいからに違いない。今日は残業がないからさてオペラだ、パー ティだというわけにはいかないのだ。そこでオペラとかコンサートの方は女性や若い人に任せて成人男子はせっせとカラオケやマージャンに精を出すことにな る。こうして見事な男女棲み分け社会ができあがる。

 長期休暇なども日本では定着していないのでなかなかとれないが、それが定着している国へ赴任すると一幸いにしてポーランドもそれが一般化していた 一比較的楽にとれる。現地採用の職員が、それこそ運転手もお手伝いさんもちゃんと取るのに、雇い主たる日本人がとれないのは情け無いということで、その反 射的な恩恵に浴するのだ。

 こうして会社や役所に管理されない自由時間をたっぷり持てると人間らしい生活をすごしたという気になるものだ。日本では疎遠になりがちな妻や子供 とも付き合える。本国で見ることもできなかったオペラも見れるし、コンサートホールヘも通える。外国人ともパーティやテニスなどを通じて随分仲良しになれ る。読みたい本も読めるし、絵も書ける。旅行もできる。つまり自分のやりたいことがなにかと計画的にできるのである。

 本国では無理で、外国で人間らしい生活が送れるというのも全くおかしな話だが、この事情は今も少しも変っていない。

 日本では休むことに多少の罪悪感が付き纏っている。滅私奉公で自分の属する組織の為に自分の自由時間を何時でも快く献上する気構えが要求される。 休む=仕事をサボるという後めたさから、有給休暇さえ完全に消化しにくい。長期休暇にしても、定着にはほど遠く、盆と正月に一斉に、しかも、ちょっぴりと るよりない。ウィークデイにゴルフに行っていた公務員が新聞種にされる。自由時間でさえ回りに気兼ねしないではエンジョイできない。そういう社会ではなか なか人間らしい生活は送れない。

 ところが欧米では、皆が自分の自由時間を大切にし、心から楽しんでいる、つい我々余所者もその雰囲気にとけこみ自分の時間を心からエンジョイする ことになる。私の場合、夏休みの自動車旅行がそのハイライトだった。そのときの失敗談を一つご紹介しよう。

 3度の夏休みとも西側に自動軍で出掛けたが、一回の旅行で3000から6ooo・も走った。ヨーロッパは幸いに陸続きで、きちんとした地図さえあ れはどこへでも車でいける。共産主義国の国境を通るときには手続きに時間がかかるが。西側の国の国境は駅の改札を通るのとさして変わらない。

 ある夏はワルシャワからローマまで行った。チェコスロバキア、ハンガリーを抜け、ユーゴースラビアからはアドリア海をフェリーボートでイタリアに 渡った。朝7時に港を出、太陽が次第に高く上がっていくにつれて甲板に陣取った乗客が1枚1枚と服を脱いでいく。目の前に座っていた若い女性も最後にはブ ラジャー姿になってしまった。日光にあたる機会が少ないのでチャンスさえあれぱすぐ日光浴を始めるのだ。

 イタリアには午前中に着いたが、急ぐ旅ではないので、適当な海水浴場があれぱそこで一泳ぎしながらのんびりと進み、その晩は、アドリア海に面した ポルト・サン・ジョルジオという小きな町に一泊、翌日イタリア半島を縦走するアペニン山脈を越えてローマヘ向うことにした。
 
 さて、翌朝、高速遠路に乗ったところで、ナビゲータ役を助手席の妻に頼んだ。高速道路なら迷うこともあるまいと思ったからだ。ところが、快調に飛ばして いた高速道路が突然なくなってしまったのだ。妻はそんな筈はない、地図にちゃんと書いてあるという。しかし、現実に高速道路はそこでお終いなのである。

 地図をよく見ると何のことはない建設予定の記号が付いている。ローマに行くのなら、50キロメートルも手前の道を右に折れなけれぱならなかったの である。だが引返すのでは時間が完全に無駄になる。ままよとぱかり、そのまま前に進むことにした。今その地図を引っ張り出してみてもよくその気になったも のだと思う。

 高速道路を一歩離れてしまえば、地図の精度は極端に悪くなる。それこそ道無き道をひたすら進むようなことにあいなった。まるで田んぼの畔道を進 み、山中のけもの道を進むような難儀を繰り返しながらも、どうにかまだ日の高いうちにローマに辿りついた。カラカラの大浴場などのローマの遺跡が目に飛込 んできた時のホッとした気持ちはなにものにも替えがたいものであった。

 家族も良くやったと誉めてくれたけれど、思いかえしてみればそれは私の手柄でもなんでもなかった。何のことはない、すべての道はローマに通じてい たのである。

(「季刊輸送展望」1988年冬季号掲載)

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自費出版とホームページ

阿部毅一郎
  月刊誌に5年間連載した人生の愉しみをテーマにした60編のエッセイがあった。一冊の本にできる分量の原稿である。原稿がたまると人に読ん でもらいたくなる。なんとか本にならないものか。そう考え、2、3の出版社に当たってみた。しかし、無名の作者の原稿が右から左へと直ちに出版してもらえ るほど、事情は甘くはなかった。もちろん、原稿のレベルも問題だったのだろうけれど。

 新聞で「本にする原稿をさがしています。もちこみ原稿を積極的に本にするニュースタイルの出版社」という広告を見つけた。企画Aタイプなら、全額 出版社側の負担で出版します。企画Cタイプなら自費出版の扱い、企画Bタイプならその中間で、定価と流通コードをつけて書店注文を受けられるとの、説明が ついていた。

 いろいろ考えた挙句、その出版社に持ち込んでみた。半月ほどして、連絡があった。企画Bタイプで出版してあげられる。個人の費用負担は220万円 ほどだが、これは、採算を度外視したほとんど実費に近い金額であるので有利ですとの注釈がついていた。

 この話に乗ろうかとも考えた。自費出版しても同じ位はかかるのだし、流通コードをつけてもらえるのだから、書店注文があれば、売れるかもしれな い。

 しかし、220万円は、趣味につぎ込むにしては少々金額が大きすぎる気がした。わが家の大蔵省は、鼻から否定的だった。

 ちょうどそのころ、インターネットがにわかに注目を浴びてきて、個人でもホームページを開けるとの情報を手にいれた。パソコンとのつきあいは、ポ ケコン時代からのものだし、ワープロは、100万円もする時代に購入し、以来、ほとんどの原稿はワープロで書いている。パソコン通信にも、2年前に加入 し、歌句会などのフォーラムの常連として、楽しんでいた。

 そうだ、自分のホームページ(HP)を開設して、インターネット上で、出版してしまえばいいんだ。アイデアがひらめいた。

 さっそく、インターネットの勉強を始めた。HPの作りかたは例によって独習した。プロバイダーとも契約し、当初、他人のHPを覗き回るネットサー フィンから始めて、HP作りに必要なソフトのダウンロードもした。ワープロのフロッピーから、パソコンへの原稿の移植もせっせとやった。あまり、人まねは したくなかったので、HPのスケルトンを練り、いろいろとデザインも考えた。

 今年の節分の日に『阿部毅一郎のお愉しみコーナー』と銘打って、HP開設にこぎ着けた。構想は、膨らんで、エッセイに限らず、わたしの趣味として きたものを網羅的に取り上げることにしたので、本にすれば、5冊分には相当するものを掲載することになった。テーマは、水彩画、短歌、俳句、川柳、歌詞、 言葉遊び、童話、紀行文、日本経営論(これは、別の出版社から商業出版したものをほぼ、そっくり載せた)、時事評論、読書、囲碁、スポーツ(スキー、テニ ス、ゴルフ)と17にも及び、私家版全集の趣を呈している。

 さて、反応が心配だったので、3月27日には、訪問した人のカウンターを設けた。うれしいことには、ちゃんと見てくれる人があって、カウンターの 数字が、HPにアクセスする度に増えているのだった。

 出版の220万円に比べたらHP造りにかけた費用なんてただ同然なのに、ちゃんと読んでくれる人がいて、「『単身赴任者の愉しみ』を読みました、 わたしも単身赴任したことがあって、まったく同感です」などと見ず知らずの人からメールが舞い込んでくるのである。10月9日現在で、1400を上回る人 が、わたしのHPを訪問してくれた。

 作家の林望さんが、ある雑誌(日経ネットナビ1997/10月号)で『私のブックマーク』に、わたしのHPを取り上げて、次のように紹介してくれ た。

<ネットと付き合うようになって、新しい発見もあった。例えば、右ページで紹介した『阿部毅一郎のお愉しみコーナー』(http: //www.linkclub.com./~akybe/index.html)。俳句、囲碁、エッセイ、スポーツ、水彩画まで、何でもござれの風流な紳 士が、趣味で作っているホームページだ。「日本にも本当の意味での趣味人がいたんだなとうれしくなりましたね」>

その右ページの紹介欄には、
 

<私が連載している日本経済新聞のコラムを読んでメールをしてきていただいた方のホームページです。「人生は愉しみへの旅である」とのコンセプトに 従って、水彩画、エッセイ、俳句、ドライブ、童話などさまざまな「部屋」がとりそろえられていますが、どこも非常によくできている。作者はいかにも趣味人 という感じがしますね。この方も私と同じで、ホームページが「私自身の広告」そのものになっています。本来、ホームページというのはこうあるべきだと思い ますね>

 こんなうれしいコメントがついていた。わたしは、これまでのわたしの生き方そのものが是認されたように思えて、思わず、小躍りしてしまった。

 220万円かけて出版していても、半年の間に1400人もの人に読んでもらえるとは限らないし、エッセイのみならず、いわば雑多の趣味の数々まで も、高名な作家から評価してもらえるようなことなど、ほとんどありえなかったろう。

 このことは、インターネットの新しいメディアとしての有用性がいかに高く、それを有効に利用すれば、個人の才能を伸ばす分野が限りなく広がってい ることを示している。既存のメディアに頼らずに、ちょっとした工夫をし、新しい使い方開拓したことが報われた思いがした。(1997/10/9記)

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 三五年振りの会合


 私の出身高は、九州の西の果てにある長崎県立島原高校である。昭和33年に卒業した10回生であるが、その33にかけた「さとみ会」 なる同窓会を作っている。この会は、地元本部に、面倒みのいい人がいてくれたお蔭で、実にまとまりがよく、年二回会報を発行し、こまめに地元の様子や会員 の消息を伝えるほか、支部も関東、関西、福岡、長崎などにおいており、相互の交流も活発である。

 その「さとみ会」から卒後35年の記念集会をやるとの通知が届いた。さっそく出席の返事を送った。

 私は「関東さとみ会」では常連なのだが、地元島原での同窓会に出るのは卒後、今回が初めてである。三十周年記念の時にも、出るつもりだったが、直 前に札幌に赴任し、飛行機を乗り継いで行かなければならない島原はあまりに遠かった。

 「さとみ」の命名にちなんだ三三周年の時には、何があっても参加しよう心に決め、幹事からの講演をするようにとの話しにもそれまでの罪滅ぼしにと 快く応じた。ところが、その同窓会が、雲仙岳噴火というおよそ信じがたい事態の突発で中止になり、またしても、参加のチャンスを失ったのだ。

  東京では、地元での35周年記念の同窓会に参加できない人達に呼びかけ、その十日前に「関東さとみ会」を開いたところ、三一人も集まった。そのうちのわた しを含む五人が三一人分の消息や言伝てを携えた形で、島原に赴いたのだ。

  三五年という長い年月、まったく御無沙汰した挙げ句の参加である。当日は、今浦島の心境で、おそるおそる赴いた。ところが、お元気にしておられる十人の恩 師の温顔に接し、全国から集まった、七十人もの懐かしい面々に会った途端、不安は霧散した。

  私にとっては、三五年振りの人が大部分だった。一八の時に別れたきりになっていたのに、よく見ると、三五年という長い風雪を経た風貌の向こうに、どことな く当時の面影らしきものが浮かび上がってくる。話すうちに、様々な思い出が蘇り、懐かしさが込み上げて来た。皆なかなか魅力的に歳をとっている。美貌に磨 きをかけた女性も多い。いまや自分の息子や娘が一八才以上になっているというのに、一八才当時の思い出をベースに五十を越した男女が話に花を咲かせるの だ。これほどの年      月を経ながら、なんの違和感もなく話し合えるのが不思議なくらいだ。

 三五年前の田舎の高校生は、極めて封建的で、男女間で気軽に口をきき合うことなどあまりなかった。それが五十を越した男女の気楽さで
「あの頃、密かにあんたに惚れちょった」
「私も憧れてたの」
と冗談に託して出し遅れた密かな思いを伝え、二次会ではカラオケに合わせ、ダンスも踊った。

  雲仙岳噴火のよる火砕流や土石流の発生で、同窓生の中にも、実家を流された人、いつ流されてもおかしくないところに家屋があり、
「くよくよしてもしょぅんなか」
と悟りを開陳する人もいた。

  その当日にも雲仙岳は大噴火し、ひどい降灰があった。車のフロントガラスをたちまち白く覆い、家屋草木道路を灰まみれにし、風に煽られ砂塵となって舞い上 がった。梅雨時期で火砕流と土石流も猛威を振るっており、前々日の大雨でその矛先は新たな住宅地を襲い、市の中心部といえども、絶対安全とは言えなくなっ た。

 皆それぞれそんな心配を抱えていたが、午後一時半に始まった同窓会は明るく楽しく賑やかに、いつ果てるともなく続いた。一人一人が心からの満足感 を抱きながら、五年後の再会を期して別れたのは、もう深夜であった。
(1993.7.29)

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    単身赴任考 

(月刊「電気とガス」1991/4掲載)       

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 阿部毅一郎  
 

 私には単身赴任の経験が二度ある。最初は四国高松、二度目は札幌であった。だが、合わせても一年半に過ぎない。そんな私に「単身赴任考」の原稿依 頼が舞い込んできた。はたして私に書く資格があるのだろうか。この道十年を越える大ベテランも、回数が十回を越える熟練者もいるのだ。編集者の人選ミスで はないのか。と読者ー特に一年半以上の単身赴任の経験者あるいは経験中の人ーも疑問を感じておられるに違いない。

 思うに、これは私が単身赴任の権威ということでの申し入れでなく、恐らく私がある月刊雑誌にもう一年半近く「単身赴任者の愉しみ」と題してエッセ イを連載しているのが編集子の目に止ったからに違いない。それにタイトルは単身赴任講ではなく、単身赴任考なのだ。講義するからには、単身赴任の奥義を極 めておく必要があるだろうが、考えるだけなら、二年足らずの若輩にも、その深ささえ問われなければやれぬことはない。

 それに私ごときに、単身赴任についての総合的哲学的考察を期待されるわけがないし、与えられた枚数でそんなことができる訳もない。「単身赴任者の 愉しみ」の延長線上で気軽にいくことにしよう。読まれた後で、こんな物によくぞ「単身赴任考」とつけたものだと非難されぬために、これは、あるいは「単身 赴任好」あるいは「単身赴任恋」あるいは「単身赴任仰」でもあると逃げ道を用意しておこう。「単身赴任控」でもいっこうに差支えない。

 事実、私は単身赴任を好み、単身赴任に恋し、単身赴任を仰ぎ見ている。だから、その控えとして「単身赴任者の愉しみ」を連載しているのだ。いつま で愉しみの種が続くか分からないが、続くかぎりは連載を続けたい。掘り返せば、単身赴任からもいろいろな愉しみが出てくる。確かに、単身赴任にはそれなり の悩みや苦しみがないわけではない。といって、「単身赴任者の悩みと苦しみ」と題打って連載すれば、人生相談と間違えられかねないし、たちまちネタ切れに なってしまうだろう。苦しみを見つけ出すことにはそれほど愉しみを見出だせるものではないが、愉しみを見つけ出す作業はそれ自体が愉しみだから、結構長続 きする。これは今から単身赴任を始めようとしている人には少しはヒントになる考え方かと思う。常に物事はプラス面を見るにしくはない。

 私など、単身赴任する前から、一体どうやってこのめったに無い単身赴任生活を愉しもうかと考えていた。その意味で、単身赴任の愉しみはすでに赴任 前から始まる。二度目のときには、最初の時の経験を生かして、もっと愉しんでやろうと考えた。

「単身赴任者の愉しみ」を書く構想は、最初のときに思い付いていたので、二度目のときはそれを仕上げる意気込みで出発前に愉しみのメニューを書き出 しさえした。

  私のように齢五十ともなれば、長年連れそい、何時の間にか家庭の真ん中にどっかりと座り込んでいる妻に、大学生や高校生になり、一人 前の生意気な口を利く子供の二人程度いてもおかしくない。とすれば、多少なりとも家族に煩わされて生きているのである。日曜日にゴルフの誘いがあっても、 三週連続ともなると、大蔵省の監視の目も気になるし、家庭サービスのために空けておかなければなるまいとも思い、断ったりする。ところが、その日になる と、妻は、これ新調しちゃったとめかしこみ、同窓会があるの、留守番頼むわね、と出掛けてしまう。子供は子供でバイトだのデートだのいって出て行ったきり 帰ってこない。一人、天井を見上げてフテ寝することになる。

 単身になってしまえば、それこそ、自分のやりたいことを遠慮なくできるのだ。これだけでも愉しみが増えることは分かっていただけよう。

 例えば、音楽。あなたと家族と音楽の趣味がぴったり一致するはずがない。奥さんは女性だし、お子さんとは世代が違う。ながら族のあなたは、四六時 中好きな音楽を鳴らしておきたいとする。

「うるさい」

「そんな音楽聞くと頭が痛くなる」

「たまには静かにして」

周りから非難の一斉放火を浴びて、あなたは、多勢に無勢、しぶしぶスイッチを切らざるを得ない。ところがである、単身赴任になってしまえば、天下御 免の葵の印籠を手に入れたに等しい。何を、何時、どんなボリュームで聞こうと遠慮は要らない。あなたがもしカラオケ好きで、しかもど演歌のファンであった としても、『人生劇場』をどれほど蛮声(失礼、美声)を張り上げて歌おうと、音漏れの心配のないカラオケボックスを無期限に借り切ったようなものなのであ る。

 ただ、問題は、これまであなたがせっせと揃えたオーディオセットやディスクが何時の間にか、あなたの支配権の届かぬ所にいってしまっており、赴任 地に持参しようとしても、実現出来ぬため、別途、新しいものー多くの場合、単身赴任は仮住まいと思われているので、二重投資を避けるためにも、最初のもの に比べれば、かなり安手のものーを買い入れ、それで我慢しなければならないことである。

 もしあなたがいろいろ趣味をお持ちなら時間や家族に束縛されない単身赴任時代こそそれらを磨く最適な時代でもある。かくいう私も囲碁やゴルフなど 単身赴任時代に幾分腕を上げることができた。また赴任地で取っ付きやすいスポーツなどを新たに趣味として身につけることもできる。

 私の場合、札幌への赴任が決まったときから、スキーの腕を上げることを愉しみとしていた。東京には五十男の初心者がスキーを愉しめる環境はないか ら、赴任前の十年間は一回も滑らず、技量はせいぜい斜滑降・ボーゲン止まりであったが、一シーズンしか滞在しなかった札幌で延べ二五日も滑り、最後にはな んとか上級コースも滑れるようになった。単身赴任中も自分自身でおおいに愉しんだばかりでなく、スキー仲間も出来、家族も呼んで一緒に滑ったから、帰京後 も家族揃って毎年北海道の気に入ったゲレンデに行くようになった。

 こうして生涯の趣味が身につくし友人も増える。家族共通の愉しみもでき、土地勘が身につく。単身赴任の愉しみは、単身赴任の終わった後にも続くの である。

 だから、単身赴任の可能性がすこしでもある人は、日頃から心して、愉しみの種を殖やしておくことをお推すめしたい。一日は二四時間あり、単身赴任 時代には自らに向かい合わなければならない時間が確実に増える。自分自身が付き合いにくい人物であると単身赴任時代は気が滅入りやすくなり、単身赴任生活 を愉しむどころではなくなる。

 中年サラリーマンの蒸発のケース・スタディによれば、男には家庭でも職場でもない<第三空間>が常に必要であり、それを持たない人は蒸発の可能性 がある(笹川巌『趣味人の日曜日』)らしい。常に正気を求められ、よき職場人、よき家庭人を演ずることを求められれば、うっとうしくて、気がめいる。たま には気ままに世の諸々のしがらみから逃れぶらりといくえ定めぬさすらいの旅に出たくもなる。単身赴任住まいは、それこそ家庭でもなく職場でもなく<第三空 間>そのものであり、ある意味では公認の蒸発でもある。たまに単身赴任することは真性の蒸発防止に役にたっているのかもしれない。 

 チェスタトンの小説に、しょっちゅう妻のもとから離れて世界周遊の旅に出てばかりいる男の話がある。それというのも、妻のもとに戻ったときの喜び がひとかたではないためなのだ。「不在は並の情熱を冷まし、大いなる情熱をつのらせる。ちょうど風が、蝋燭を吹き消し、火事をあおり立てるように」(ラ・ ロシュフコー箴言集)ともいう。その意味でも単身赴任は日頃の夫婦関係が大いなる情熱の下に営まれていたかを問うことになるだろうし、互いの新鮮さを蘇え らせる妙薬になる可能性もある。単身赴任で冷める情熱であればしょせん並の情熱にすぎないのだから、他のちょっとしたことでも冷める可能性があったのだ。

 私の愉しみの一つに、なぞなぞ遊びがある。アラビアでは大の大人もなぞなぞ遊びに打ち興ずるようであるが、日本ではもっぱら子供の遊びのように思 われている。ある時、単身赴任者同志が、世のしがらみから解放された第三空間に寄り集い、童心に帰ってなぞなぞ遊びの世界に遊んだ。そのときたまたま単身 赴任と掛けて何ととくか、私より単身赴任のキャリアの長い連中になぞを出した。その中でマシなものを二、三紹介しよう。         

* * 私「単身赴任と掛けて何ととく」

A「単身赴任とは、穴の開いたアコーディオンを弾くようなものだ」

私「さて、その心はー」

A「穴を指で押さえたり、ガムテープを張ったり、いろいろ工夫すればなんとか美しい音を出せるようになるだろうが、しょせん穴の開かないアコーディ オンには勝てない」         

* * 私「単身赴任と掛けて何ととく」

B「単身赴任とは、海底遊覧船に乗って海底を見ているようなものだ」

私「さて、その心は」

B「確かに、海底にも素晴らしいところは多いが、海上に戻れると思わなければ、遊覧船には乗らないし、海底の美しさを味わうゆとりもない」         

* * 私「単身赴任と掛けて何ととく」

C「単身赴任とは、手作りのドーナツのようなものだ」 

私「さて、その心は」

C「出来立ての熱いうちは美味しいが、直ぐ堅くなって食欲があまり湧かなくなる。真ん中に大きな穴がぽっかり開いているが、それがなければドーナツ ではない」

 マシとは言ったものの、少々、ものの見方が一面的で偏っているきらいがある。単身赴任自体の愉しみを認めながらも、元の生活をより上位においてい るのが気に掛かる。とはいえ、単身赴任のキャリア不足の私には伺い知れぬ深淵を抉っているのかもしれないから、ケチをつけるのはよそう。単身赴任の真実を どれくらい穿っているか、判定は読者ー特に一年半以上の単身赴任の経験者あるいは経験中の人ーにお任せするとしよう。


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     夢  レ コ ー ダ ー       

                          (FUJITSU2035DIARY)                             阿部 毅一郎

一月二日、午前十一時五十分。晴。やむにやまれぬ思いでめったに書かない日記を書 き始めた。いや、自動意識追尾装置に自動ワープロを連動させているだけだから、書く というのは正確ではない。考えることが自動的にCRTの上に、映し出されて来るだけ なのだ。

 それにしても、初夢は奇妙で怖い夢だった。初夢ということでもあり、あら かじめ、夢レコーダーをセットしていたので、ばっちり、カラー録画できた。早速自己 開発したスーパーパソコンの夢分析ソフトで分析してみると、なんと、四二年も前の一 九九三年に見た初夢と瓜二つであることが分かった。あの年、十五才の夢多い少年だっ た私は、「二〇三五年の一日」がテーマの空想日記大賞に「夢レコーダー」のタイトル で応募し、輝く大賞に入選したのだった。そのせいで初夢に、二〇三五年の五七才にな った自分が、大晦日に開発したばかりの夢レコーダーで初夢を録画し、それを夢分析す る夢を見たのだ。

 長年の研究一筋の生活のせいで、頭は真っ白、ぶ厚い眼鏡を掛け、やや小太りの夢見 るような眼をした男が四二年後の自分かと、十五才の私はややがっかりしたことを覚え ているが、現実の自分と言えば、文字通りあの初夢に登場した男と寸部も違わないのだ 。

あの入選がきっかけで、夢レコーダーの開発が生涯かけての夢となり、これまで、結 婚もせず、ひたすら発明にいそしんできた。その成果は、脳から出る弱電波を自動的に 追尾して文字化する自動意識追尾装置に結集し、すでに十年前メディア革命を引き起こ し、数々の発明賞を受賞しただけでなく、研究と独身生活に必要なあらゆる装置を自動 化・ロボット化した、このハイテク大邸宅を建設できるほど、稼がせて貰いもした。だが 、テープレコーダーからVTRへの道のりが長かったように、意識や夢の映像をカラー 録画する夢レコーダーの開発には手間取り、あの初夢同様、ぎりぎり一昨日の大晦日に完成した ばかりだった。

 夢分析の結果が正しいなら、世の中には正夢というものがあることが、実証されたわ けである。しかし、これが本当に正夢というのなら、私は、五七才の初夢を見た日の正 午きっかりにに、突然心臓麻痺で倒れ、大発明家の常として、脳味噌だけが摘出され、水溶液 の中で自動生命維持装置に管理されて永遠に生き続けることになる。

しかもその後は、脳 味噌は夢レコーダーと直結され、電流の刺激で、ひたすら夢を見させ続けられることに なるだろう。そうして絞り取られた夢は、夢分析ソフトで分析され、人類の進歩に役立 つ発明に利用されることになるのだ。

時刻は、正午一分前。まだ、なんともない。ひょ っとすると、正夢ではないのかも..??いや、何となく胸のところが苦しくなってき た。

「く、く、苦しい。だ、誰か、いや、び、美人看護ロボット、エリコ!早く、早く来てくれ。た、た、助 けてくれー!た..」


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