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 文化としての日本的経営 第12章


十 二 

  ウ ズ 構 造 の 日 本 社 会

 日本の機能集団はおしなべて渦に似た構造(ウズ構造)になっており、その意味でウズ社会と名付けたのであったが、我が国の現状を見ると、いわば日本全体が東京を中心とするウズ構造を形成している。今もって東京一極集中が続いており、東京は、巨大な渦のように、周辺からあらゆるものを引摺り込んでいる。各々の組織がウズ構造をなしていることと日本全体がウズ構造をなしていることとは決して無縁ではない。本章では、ウズ構造をなす日本の現状と日本的経営との関わりについて考えてみよう。


第12章目次

1 組織の同質化と東京一極集中     進む組織の同質化/東京一極集中 の進展/潜水艦:東京  

2 ウズ構造の日本社会

3 倫 理 感 の 低 さ と 社 会 的 規 範 無 視 の 体 質

4 本 来 の 機 能 を 果 さ な い 機 能 集 団


1   組 織 の 同 質 化 と 東 京 一 極 集 中

進む組織の同質化

 日本には大小様々な、しかもその果す機能も千差万別の組織が存在しているが、いずれの組織もその成員が気を合せることを基本として共同体化している。気の渦巻く、ウズ社会となっている。その意味であらゆる組織が、同質化している。つまり、組織としてのビヘイビア・理念・気風や組織の構造、成員の意識等驚くほど似通っている。企業であれ、官庁であれ、学校であれ、組織としての属性はほとんど同一であって、それら組織を取仕切るソフトウエアが、日本的経営である。どの組織の経営法にも基本的にはそれほど大きな差異はない。戦後の経済復興から、今日の経済繁栄まで、まったくの混乱状況から一応の社会安定を経て高度成長へ、さらに安定した経済的発展を遂げつつある今日まで、日本的経営は一貫して、日本の大多数の組織の経営のソフトウエアとして、時代の変容に自らも変容しつつ、機能してきた。その過程で日本的経営自体が次第に洗練され今日日本的経営といわれるものに姿を整えて来たのである。  日本の経済的成功は、とりもなおさず日本的経営の成功として、あらゆる組織がそれを争ってとりいれることを促した。その結果として、各組織の同質化を押進めた。日本的経営は、組織の成員の同質化を前提としており、それが機能したこと自体が各組織の同質化を助長したのである。組織の中で、各成員の同質化が進展するのと平行的に各組織自体の同質化も進展したのだ。つまり、各組織の同質化を吸引力とする日本大の渦が巻きはじめ、その同質化を押進めたのである。各組織内の成員が、同質化の渦に巻きこまれ、次第に同質化され組織の中心へ向かって接近し一体化したのと同様に、各組織が日本大の渦に巻きこまれ、次第に同質化し東京(=中心)へ向かって集中していったのである。

東京一極集中の進展

 その結果が、東京一極集中である。

 大企業の本社の東京集中に象徴されるように、日本中のあらゆる中枢機能が東京へ集中し、一方で、各地方都市はこぞって小型東京化し、支店経済化した。

 戦後、我が国は経済的成功のみをひたすら追求めるという選択をした。経済的効率という単一の価値基準が、あらゆる他の尺度に優先して企業の行動の拠り所になった。その結果、経済的効率さえ高め得れば、皆がそれに従って行動を開始するきっかけになりえた。これが、企業の同質化を押進めた。ひたすら経済的効率の向上を目指してむしろそれ一色に同質化したのである。こうして、経済的集積がすこしでも高い所が現れると、あらゆる組織がそこへ向かって集まり始める。それがまたその地域の経済的集積を高め、一段と外部から吸引する力として働く。その結果、もっとも経済集積の高い東京を中心とする日本大の大きな渦が巻きおこり、凄まじい力で周辺から様々な機能を吸込みはじめる。最後には渦にも加速度が付き、雪崩をうって、東京へ一極集中する現象となったのである。

 本社を、経済的集積が高く、首都であり、政治的中心であり、あらゆる面でナンバーワンを占める東京に移すことが、経済的効率を高めるとともに、序列社会である日本においては、企業の格(=序列)を高めるということで、またそれが経済的な効果を産む。その意味では、戦後の経済成長を通じて、あらゆる組織が、いわば互いに争いつつも相互に気を合せて、同質化しようと渦を巻きおこし、経済的効率の最も高い東京を目指したのである。もちろん、各組織が個性を喪失し、同質化してしまい、そこの構成員も社長以下経済効率一辺倒の人物に同質化してしまったので、すんなり本社の東京移転を認める体質となったことも、それを押進めたが。

 一方において、日本中のあらゆる都市や地方自治体自体も経済的効率の高度化を志向し、経済的繁栄を目指して産業基盤整備、地域開発、一村一品運動などに取組んだ。だがそのために、それぞれの個性を喪失し、それなりの特長や独自性を失い、いわば東京と同質化し小型東京化していった。そのため、経済的集積の面ではどうしても東京の劣位に立たざるをえなかった。同じ経済的な発展という手段でのみ、あらゆる都市がその存立基盤を形成・強化することを目指し、モノカルチャー化し、個性を喪失したために、各企業にとっても、逆に地方都市に止どまるメリットが失われた。すこしでも経済的効率の高い、経済的集積の利益を享受しやすい所へ移った方が得に決っている。移らないと逆に経済的効率を損じかねない。その帰結が、次々と本社が、東京に移ることとなったのである。

 こうして、日本中、組織も都市も個性を失った。あらゆる組織、都市が均質化し、戦後一貫して採用されて来た経済的効率という単一の価値基準で一色に染上げられ、ふるいにかけられ、東京をトップとして序列化された。はっきりと東京の優位性が確立され、そこへ向かっての吸引力が益々強まっている。各都市は、東京と争わんとして同じ経済的効率で争う愚を犯したがために、本社を引きとどめる吸引力を失い、せっかくあった本社さえ東京に吸取られ、東京の後塵をはいさざるをえなくなった。大学入試の共通一次試験が、大学の序列化、非個性化を押進めをたように。今もって東京一極集中が進んでいること自体が、経済効率を最優先する価値基準が、日本中でまかり通っており、東京を中心とする渦が渦巻いていることを物語っている。また、これと平行して企業内部でも本社へ、特に管理部門へ多くの機能が集中する現象が見られ、これが東京一極集中に輪をかけている。これと軌を一として、日本人の非個性化も進んだ。

潜水艦:東京

 東京は、いわば経済優先主義・GNP崇拝の単純化された価値基準が生出した、最高傑作である。世界広しといえども、これほど経済効率の高い都市はない。経済戦争を戦う、潜水艦の様相を呈している。本物の潜水艦に入った人ならご承知のように、通路は狭く、回りの壁という壁には、計器類や、配管の類いが所せましと設置されている。兵士のベッドたるやかいこ棚のように狭い。居住空間は誠にお粗末である。

 ところが、潜水艦の先頭部分のミサイルや魚雷等の兵器類の発射装置や格納庫は、さすが戦艦だけあって、スペースも充分広く、最新式のコンピュータや計器類が設置され、至るところ、ピカピカに磨き上げられている。東京の中心部を占める千代田区、中央区、港区などにはピカピカのビジネスビルやインテリジェントビルが林立しているように。これらは経済戦争の弾頭部分なのだ。ところが、そこで経済戦争を戦っている企業戦士たちの住いといえば、はるか後方のマッチ箱のような家で、そこから企業戦士たちは、朝夕ラッシュに揉まれて二時間もかけて通勤する。休む間も無く続く激しい経済戦争に携るため、夜遅く帰宅しても、仮眠を取ってただちに戦線に復帰しなければならないのだ。休暇もなかなかとれず、心身ともにくたびれはてている。

 このように潜水艦を彷彿とさせる東京は確かに経済戦争を戦い抜くためには、最適な構造をしているが、戦場や、銃後で豊かな生活を送ろうとしても無理なように、ゆとりある生活とは無縁の構造になっている。

 ところで、日本人や日本の組織が中心への強い志向性を持っているのは、そもそも日本が周縁文化として成立したことと深くかかわっている。中心を占めたのは、外国から導入された文化であり、日本人はこの文化に追付き追越すべく周縁から中心へ向かって、気を合せ、頑張ってきたのである。中心との同質化・一体化こそ、日本人のあこがれであった。何時の時代においても都は、外国の文化を一早く取入れるので外国文化(=中心)の代替物として、日本人のあこがれの地となり、都にのぼり、都の人と交わり、それと同質化・一体化することが、日本人にとって最高の出世であった。

 2   ウ ズ 構 造 化 す る 日 本 社 会

 こうして、日本全体が東京を中心とする大きな渦の渦巻くウズ構造になった。

 日本の組織(=ウズ社会)の持つ、閉鎖性、内部志向性、対話忌避性等の属性は、そのまま日本の国としての特徴になっている。つまり、各組織が、内部の成員が気を合わせるウズ社会であり、閉鎖的で、内部志向性が強く、常に他の組織との対話を忌避しようとつとめる。「ヨソ」のウズ社会への関心は薄く、また他のウズ社会については、発言を差し控える。どのウズ社会も他のウズ社会からとやかくいわれることを好まない。国を代表して国際交渉に携る人も、全身ウズ社会に漬かっているのでおしなべて同様の性向から抜出しておらず、国という多くの組織の横断的な代表というより、自己の属する組織の代表として交渉する能力しかない。日常的に外国人と接するときも、こうした性向は、まったく変らず、そのまま現れる。内部志向的であるため視野が狭まく、相手の立場への認識が不足しがちなため、相手に傲慢な印象を与える。

 日本では各組織のトップといえども、単一の組織の中で、出世し、えらくなったに過ぎない。いってみれば一つの組織のなかでうまく気を合せることに長ければトップになれる。一国の総裁になるにしても高々百数十人の派閥の長としてその成員に対して、気配り(や金配り)がうまければなれないことはない。世間の荒波にもまれることなく、他の組織の空気に晒されることもなく、いわば自己の属するウズ社会を全社会と思って生きればよい。特に若くして優秀と目され幹部候補生になると、極めて同質性の高い本社の管理部門の中に閉じこめられ、他社への出向とか地方勤務の経験もせず、トップへの階段を昇り始める。こうして純粋培養された世間知らずの視野の狭い人物であってもトップの座を占めることとなる。トップがそうであれば、部下もまたしかりで、世間知らずが、傲慢な態度を取るのである。

 また、日本中のあらゆる組織が、同質化した結果、およそ、回りを見回しても、異質なものに遭遇する機会がないに等しくなってしまった。ウズ社会にどっぷり漬かっておれば、ウズ社会内部で通用することが、国際的にも通用するという、短絡的な思考に走りやすい。自分の組織や日本に有益なことは当然他国やその国民にとっても有益と即断する。むしろ、日本のように社会のあらゆるものが同質化した社会は例外中の例外であるにもかかわらず、世界のあらゆる社会や組織が同じ構成原理で成立していると思込み、他の社会、文化への感受性を失いやすい。これが、また、国際的な摩擦を産みだす。

 大多数の国々では、組織も、都市も、人々もそれぞれ異質なものを多く持っている。多様な価値を持つ異質な人々や集団・民族で構成されている。文化も地域により、民族により、異なっている。日本では、地域差が乏しく、戦後の経済優先主義の風潮の下、益々個性を喪失して、単一に近い文化に収斂していったのに比べ、他の国々ではむしろ、注意深く、個性を残し、地方性を温存し、異なった文化を残し育てている。

 このため、日本のような一極集中現象は起こっていない。起こらない。企業の本社も、様々な都市に分散している。それぞれの都市がそれぞれ他の地域にはかえがたい魅力を持っている。また、独自性のある人生観を持った個性のある個人が存在し、自分の住む都市の個性を愛し、生活を大切にし万事を企業優先という生き方を受入れない。

 ところが日本では都市が同質化してしまった。それを日本はむしろ押進めたのである。進むのを容認したのである。たとえ個性を残した都市があるにせよ、企業の成員の方が個性を喪失し、自らその地域の良さに気付き、それなりの独自性を愛し、そこに執着するようなことは少なく、単に経済効率が高いということのみの理由で、居を移す。個性を喪失した経営者は本店を東京に移すのである。東京一極集中を改めるには、GNP第一で第二、第三もGNPといった極めて単純化された価値基準・価値観を改めなければ、無理であろう。

 戦後、極めて単純な価値基準の下、脇見もせずに頑張った結果として、経済大国にはなったが、世界からは、そのあまりの異質性のため、逆に国際社会の正当な一員としてまだ受入れて貰っていない。個性無き大国は、魅力に欠けるのであろう。

 日本以外の国はおしなべて多民族、多文化の国であるからして、ある民族の文化に同質化させようとしても、必ず他の民族の反発を招く。こうした異質の文化の共存に慣れていないため、日本の国際社会における行動には、いらずもがなの摩擦を引きおこしたり、反発を招いたりするものが多い。こうした不注意が行きすぎると、他国の国民感情に拭いがたい反日感情を醸成することになる。

 日本は、また、身内中心社会で、成員の利益になることであれば、大概のことはやってもいいという社会になっている。これも内部志向性が強いといわれることのひとつの側面であるが、このため、自国の利益を最優先するのみでなく、日本人の落度や失敗は、自国の恥としてとらえ、これを自ら反省しようとせず、頬かぶりする性向を持っている。第二次世界戦争の責任者を今もって自らさばいている西ドイツにひきくらべ、日本では、東京裁判は、戦勝国による一方的な責任追及の裁判であったという批判はするが、国際的な罪を理由として、日本人を日本人自身でさばこうとはしない。しようとしてもできない。言出せば、裏切りもの扱いされる。ここでも「なあなあ」と「まあまあ」で身内の恥を世間に晒すことをタブー視するウズ社会特有の馴合いの構図が見られる。

 対話忌避性が強いのも、組織内の人々の関心が常に内=中心を向いており、そのため、他の社会のことを知らず、外部の人と容易に打解けず、他の組織とはいわばパイプ役を通してしか対話が出来ないからである。これが国際社会での、外交音痴、国際交流の拙劣さの原因となっている。

 3   倫 理 感 の 低 さ と 社 会 的 規 範 無 視 の 体 質

 日本全体が、倫理面で見るとき、世界の先進工業諸国に比べ、低い水準にあるのも、自らの組織の為になることであれば、大概のことは許される、ということと深くかかわっている。つまり、これが、倫理感を失わせる。社会的な原理、原則よりも、自らの属する組織の私的なルールを優先する性向を有していることはかねて指摘したところだが、これは、全員が気を合せようとするところから産まれ、気が合えば、少々法律にもとることでも平気でやることに根差している。法律違反として、責任を追及されれば、組織の全員で庇い合う。偽証も辞せず、黙秘権も行使して、身内から犯罪者を出さないように結束する。本当のことを喋った社員は、裏切りものとして、組織から排除する。

 政治献金を、直接政治家個人に渡したがるのも、パブリックな政党による政策を通じて、自らの欲する社会体制の維持強化を図ろうとするよりは、むしろ、政治家の個人的な口利き、斡旋などによって、自企業に対する直接的な利益の還元を求める体質があることを示している。これも企業の身内の利益や、経営者の個人的な利益を、優先する考え方に根差している。こうしたなりふり構わぬ、いわばモーレツ社員に相当する、モーレツ企業として、日本のより中心、より中枢に接近し、日本中の気を合わさせる、発信母体になるべく激しい競争を展開する。モーレツ社員の競争と同様、これも明らかに過当競争であり、また、一段でも高い序列を求めての、企業版出世競争である。序列の高い企業から、いわゆる財界の有力者が選ばれ、気を合わせるシグナルを発信する。そのシグナルにはなかなか逆らい難い。逆らうと、異質性ありとして、財界、企業グループから排除されかねないからである。

 日本では、排除されると様々な面で不利となる。従ってよほどのことがないかぎり、黙って、全体の(気の渦の)流れに従う。例えば、昭和天皇の発病、崩御、大喪の礼の時の自粛等はその典型例である。気の渦の流れに逆らえば、浮上るのは、企業も同じである。

 戦後の日本はとにかく経済的復興が優先課題であった。そのため、組織の成員が気を合せ一丸となって頑張ることを可能とする経営法が必要だった。その結果、経済的な効率を悪くする多少の法律や規則、ルールは無視しても、組織の成員への直接的利益還元を優先することを経営法に取入れた。これが日本的経営の本質となり、日本企業の体質となった。こうした日本的経営が成功し、これが日本経済発展の原動力として、国際的にも、評価されることとなったが、日本的経営には、無視できる社会的ルールは無視していいという暗黙の前提が付纏っており、これが、日本的経営の下の日本企業のビヘイビアを、いわゆる経済的規範の求める当為とは、大いに異なったものにしている。

 例えば、後で見るように、株主総会や取締役会に法律が本来期待している機能を十全に果させている企業は、むしろ例外に近い。政治資金規制法や労働関係法規や各種の税法を完全に遵守している企業は希である。

 こうした日本的経営が、社会全体を支配するようになるとあらゆる組織が本来求められる機能を果すことよりも、成員の利益を通して組織の機能を果すようになる。こうしたル―ル無視の体質が、社会のあらゆる側面に時折吹出す。その典型的な例がリクル―トを巡る汚職事件であろう。その裾野の広がりの広さこそ、いわば常態として同様の行為がこれまでも行なわれてきたことを物語っている。

 4   本 来 の 機 能 を 果 さ な い 機 能 集 団

 加護野らの日米一〇〇〇社の比較調査によると(一九八五年)、日本企業は平均して、企業成長、拡大にかかわる目標を重視しているが、株主利益は、最も重要度の低い目標になっている。それに対して、米国企業は、平均して、投下資本利益率をもっとも重要な目標と考え、株主の利益をそれに次ぐ目標としている。加護野は、「経済学では、自由経済体制下の企業は、短期的には利潤を極大化し、長期的には、株主にとっての企業の市場価値を最大化すると仮定されている」とし、米国の企業の目標は、経済学の規範と一致しているが、日本企業はこの規範から系統的に逸脱しているとしている。ところが、「奇妙なことに、株主の利益を軽視している日本企業の株主の方が米国企業の株主より多くの利益を得ていた」と指摘している(1)。

 加護野らの調査が明らかにしたように、日本の企業の目標のなかで株主の利益はほとんど無視されているに等しい。これと同じ傾向は、株主総会の軽視や取締役会の形骸化にも伺われる。逆に企業拡大や成長が重視されていることは、企業の成員の利益に直接つながることが重視されていることを裏付けている。ウズ社会の特性として、成員が気を合せて一丸となり頑張るようにするためにこそ、成員の利益が優先されるのである。

 商法の改正によって、株主の権利の強化が図られたが、効果はさっぱり上がらなかった。株主総会を一斉に同じ日に開催するなどの「自衛」措置で、企業は経営者や、従業員の利益を守っている(優先させている)。日本では企業の所有者は、経営者、従業員、株主であると意識されており、株主のものという意識は少ない。これも、企業の純資産は株主のものとする米国と異なっている(2)。

 以上の例からも明らかなように、日本の企業においては、本来求められている機能そのものよりも、集団の構成員の利益が優先し、その擁護のために集団が機能している側面が見られる。商法では、企業は株主の利益を擁護するものと規定し、株主総会などの様々なメカニズムを設けているのであるが、こうしたメカニズムが、いずれも形骸化し、いわば株主の権利は無視され、代わって経営者や、従業員の利益が優先されている。このことによって、会社の効率が上がり、いわば会社が構成員の利益擁護につとめた反射的利益として、結果的に株主が多くの経済的利益を得たとしても、それは結果論にすぎず、本来の株主の利益は決して擁護されているとはいえない。

 総会で自己の権利を主張することも株主の利益である。単に経済的利益が結果的に満たされたとしても、無視され軽視された株主の権利や、不利益な取扱は、それだけでは修復されない。経済的利益に満足していると、構成員の利益に合致しなくなればたちまちその利益すらも無視されてしまうだろう。それゆえ、原則は尊重される必要があるのだ。つまり経済がうまく回転し、構成員の利益と株主の利益とが合致しているうちは問題はすくないが、いったん経営が傾き、両者の利益が相反するようになった場合に株主が自己の利益を擁護しようとしても、その手段はあらかじめ封じられているのである。そこが問題なのだ。

 ウズ社会では、構成員が気を合せ、ウズ社会の利益の為に尽くすことが是認されているために、その分、株主の権利は無視されることになるのである。法律は、無視されかねない権利を擁護するためにこそ各種の規定を設けているのであるが、日本では、各組織ともウズ社会の属性が強く、近代国家では保証されている権利が色褪せている。つまり、法律の規範より、ウズ社会の規範が優先している。逆にウズ社会の成員がこのウズ社会の掟(=気風)を無視すれば、ただちに浮上ってしまい、お払い箱にされてしまう。日本では誰しもウズ社会の住人であるために、ウズ社会の成員の利益を優先させ、株主の権利を無視しても、疑念を抱く人はほとんどいない。株主総会は形骸化し、本来株主の権利を制約する会社間の株の持ち合いが容認されるのである。

 こうした文化的風土はただちに、公的な組織の私物化に結びつく。日本ではあらゆる組織がその組織の構成員のための利益の擁護組織になってしまい、本来の機能が二の次三の次ぎになってしまう。本来期待されている機能を果すにしても構成員の利益に合致する範囲に限度が設けられやすい。利益に合致しなくなれば本来の機能を放棄し、むしろ構成員の利益擁護の為に組織が全力を傾ける。旧陸軍にその典型例を見るように、機能集団が私的な利益集団化し、軍隊として本来果すべき役割を逸脱し、政治に介入し、軍という組織や軍人の利益を優先して国民の利益や安寧を忘れ、国を滅ぼす大きな原因を作った。

 官庁にしても、利益の見返りを期待できる対業界行政に走りやすくなる。(リクル―ト事件で中央官庁のトップの関与が明らかにされているように)。利権のからむ許認可権限をなかなか手放さない。こうして、国民の利益は閑却される。企業にしても、リベートや接待、贈答品等の見返りを期待できる恒常的な商取引を優先することになる。これは必ずしも、株主や消費者の利益には結びつかないが組織の成員の利益には結びつく。

 この様な権利の無視、法律の形骸化は、近代国家としての適格性に疑念をもたらすだけではなく、本来委ねられた機能を十全に果すことよりも、組織の構成員の利益を優先させるやり方は、様々な機能を分担することによって成立している近代国家の存立そのものを危うくしかねない。


注

(1)小宮隆太郎等編『国際化する企業と世界経済』東洋経済新報社、一九八九年所載、加護野忠男「日本的経営の移転」一九三〜一九四頁

(2)同一九八頁


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