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組織の成員が気を合せることを前提としたウズ社会における日本的経営の現象形態を観察すると、あたかも宗教的共同体の様相を呈している。本章ではその様相について分析を進め、日本的経営が極めて同質性の強い成員を前提としつつ、成員相互の強い結びつきに依存した経営法であり、この経営法の下、日本人が単一組織専属型の生き方を余儀無くされていることを明らかにしよう。
1 宗教的意識に類似した企業意識 終身雇用制/入社式/行動規範 /・A HREF="#kyougi">ウ義/企業内組合/合意形成/平等主義/年功序列制/冠婚葬祭 /殉教/異端審判/破門/集団行動/排他性・
2 日本的経営がもたらすもの 難しい転職/組織総合化のメカニズ ム
日本的経営の特徴としては、通常、終身雇用制、年功序列制、ボトムアップの意思決定あるいは合意による意思決定、企業内組合、経営者と労働者の平等主義等が挙げられる。これらは日本企業の強さの源泉をなすものとされるが、いずれも一つの同じ根に根差しているといってもいい。それは、我が国の組織が、これまで考察してきたように、組織内の成員の気を合せることを前提としたウズ社会であるということだ。その結果、日本社会では、成人男子は単一組織専属型ともいうべき生き方を強いられる。一家を支える成人男子は、いったん就職すると、そこを定年退職するまでその一つの組織(あるいはそこから出向の出来るその組織の関連するグル―プ内の組織)にのみ所属することを前提とした生き方をする。ここで組織とは、生計の糧を提供するものであれば、企業であれ大学であれ官庁であれすべて含み、いわゆる機能集団をさす。たとえ他の組織に転職することがあるにせよ、就職時においては、複数の組織へ所属することを意図しているわけではない。転職するとしばしば社会的に不利な取扱を受ける。これがいわゆる終身雇用制といわれるものであるが、就職先を変えることが希であるだけでなく、それ以外の経済外的組織(例えば教会、ボランタリ―活動団体、政党等)へ参加することも極めて少ない。複数の組織に参加することも、転職同様多くの場合あまり歓迎されない。
この様な成人で構成される日本型の社会はいわば単一組織専属型社会ということが出来るが、これは日本の組織が、いわゆるウズ社会であり、一度その中に入った成員をその組織の気風に染上げ他の組織に移ることを事実上不可能にする強い社会的強制力を持つからに他ならない。これに対し欧米型の社会においては、就職はその組織に終身勤務するつもりはなく行なわれ、転職がしばしば行なわれるのみならず、転職することが社会的に不利になることはない。また、経済外的組織へも成人が気軽に参加する。このような欧米型の社会は複数組織所属型社会ということが出来よう。
以下、まずウズ社会における機能集団と個人との関係について考察を加えることにより、日本的経営がウズ社会を前提とした経営方式であり、ウズ社会そのものの存立を支える強い機能をも果していることを明らかにしていこう。
ウズ社会における企業と個人の関係の現象面を見ると、両者の結びつきが非常に強いことに気付く。単に経済的動機に基づく関係を越えて、個人の私生活あるいは内面生活にまで両者の結びつきが及んでいる。これは欧米型の社会に見られぬ特徴で、欧米型社会においては、むしろ宗教と個人の結びつきに類似している。そこでここでは、日本における企業と個人の結びつきを、宗教における宗派と個人との関係に見立てて、両者の類似性を明らかにしよう。これにより、日本社会においては、企業がある種の宗教的機能を果しており、このため、企業と個人とが宗教的共同体と呼ぶに相応しいほど強く結びついていることを明らかにしよう。
[終身雇用制] まず終身雇用制であるが、この制度の下では、一つの企業へ入社するという行為は、欧米型社会における入信のように生涯にわたってその宗教を選ぶのと同等の決意の下になされる。前にも譬えたように、ちょうど鳴門大橋の上からその下に渦巻く渦の一つを選んで、飛込むようなものである。生涯にわたって選ぶチャンスは只一回しか無く、選んだ以上中途で安易に抜出すことは出来ず、企業側でも全くそれを予期しない。宗教的束縛に匹敵するほどウズ社会の拘束力は強い。転職は、後述するように改宗と同等の困難を伴うばかりか社会的にも様々な非難の対象とされる。
[入社式] 各社において「入社式」が極めて大規模かつ荘厳に行なわれ、現在では一種の通過儀礼として重要な位置を占めているに至っている。通過儀礼は、人生上の重要な時期に行なわれる宗教儀礼で、「入社式」は、青年期を迎えて、一人前の成員として社会に編入される為の重要な行事としての意味を持つ。この場合、本人が儀礼の主体であるばかりではなく、所属する集団全体の関心事でもある。今日では、伝統的な通過儀礼である「成人式」、「結婚式」、「葬式」等が後で「冠婚葬祭」の項で述べるように、既成の宗教から企業内に取りこまれる傾向が見られる。これは、企業が宗教に代る機能を果していることを示す何よりの証拠である。
[行動規範] 宗教は個人の道徳律の源泉となり、行動規範を与えるものであるが、日本社会においては宗教の果す機能が弱いため、それに代って企業が従業員に対し生計の糧のみならず、行動規範をも提供する機能を果している。ある意味では、企業が宗教の代替機能を果しているゆえ日本人の仏教・神道などの既成の宗教との結びつきが弱くなり、日本人の宗教心は薄いと見られるのかもしれない。
もとより、集団が形成されれば、集団自体が人間の行動を規定するようになるものであるが、日本においては欧米型社会に比べ、個人に占める企業の比重が格段に大きいため、従業員は、人生いかに生きるべきかというような自己の内面にわたる側面まで企業によって教えられることが多い。企業には教義=戒律に比すべき様々の行動規範があってそれは生活の万般に及んでいる。これがいわゆる社風(=気風)といわれるものであるが、コ―ランや聖書のようには成文化されていないものがほとんどで、それは空気や雰囲気としてそこらに漂っており、従業員は先輩の言動や日常業務を通してそれを感得せねばならない。
例えば,身なりや髪型、言葉遣い一つにしても、その企業に相応しいスタイルの範囲が自ずとあるのであって、それを逸脱するとなんとなく周りから冷たい扱いを受けたり、よそよそしくされる。それでも改めなければ、同僚にたしなめられたり上司に注意されたりする。企業の教義教育は新入社員研修から始まり、日常的な社員同志の接触、つきあい、上司の指導監督等様々な形で繰返し行なわれるが、入社後少なくとも十年はかけないとその企業の社員らしい一人前の企業内人間となるのは難しいほどである。
この教義教育は宗教教育にも比すべき厳格なものであって、その企業の教義の有権的解釈に反する解釈を従業員が勝手に行なうことは許されず、勝手に解釈するような従業員に対しては様々の手段で徹底的な再教育が施される。つまり、先にも述べたように単一組織専属型のウズ社会では、そこにおける行動規範が、組織の成員すべてにとっての基本規範になり、社会的行動規範に優先して、個人の行動を第一儀的に規制するのである。
こうして十年近い教義教育によって純粋培養され、その企業タイプの企業内人間が誕生する。この教育を通して多くの場合、従業員は「角がとれ」「丸く」なる。こうして企業に対する反発心を失い、異彩や個性や「若さ」を喪失し、同質化する。いわば「会社そのもの」となるのである。
[教義] 企業における教義は、慣習法的に形成されるものが多いが、その源流は教祖にも比すべき創業者や、教主にも比すべき歴代の社長から示されることが多い。創業者の履歴書や遺訓は経巻と同等に扱われる。創業者や社長がゴルフやギャンブルを好まぬ企業では、ゴルフやギャンブルをやる従業員は少ない。社長の後継者としては、入社以来長期間にわたり、教義への恭順度という尺度で篩にかけられ、最後まで残った人物が選ばれる。また、オ―ナ―経営者の子孫が世襲することもあるが、これも社長の精神を帝王学を通して学び、一身に体していると見なされるからである。
従って、歴代の経営者は、企業の教義を一身に体得した使徒的人物なのであって、こうした使徒的人物が中心となって次々と同質の人物を再生産し、これによって企業の良き伝統、良き社風が守られていく。企業における勤務評価は、実績よりやっている態度で評価される面が強く、同じ仕事をやるにしても企業の好むやり方でやるかどうか(例えば、回りの人と気を合せて協調的にやるか一匹狼的にやるか)によって差がつく。従って勤務評価は、従業員を各企業へ恭順させる有力な武器となる。
[企業内組合] このように各企業は独自の教義を持っているので、我が国には企業の数と同数の宗派があると考えて良いほどである。異なった企業に属する人と人とは、相互に異教徒に等しいのであるからその間の交流は難しい。むしろ激しく合い争う。これが激しいセクショナリズムの源泉でもあり、過当競争の原因でもある。本来は、失業して企業から排除された人を救済することを目的に結成された労働組合が日本では企業内組合に止どまらざるを得ないのは、労働者としての同質性よりも、ある特定の会社の社員としての相互の同質性の方が常に勝っており(先に述べたようにウズ社会では社風に合せ会社そのものとならなければ生きていけない)、同じ労働者の境遇にあっても異なる会社の労働者とは異質性が強すぎてお互いに気を合せることが出来ないからである。
また、ウズ社会の教義は「ウチ」優先で、「ソト」の無視ないし軽視であるので、自己の属する組織外の労働者に対しては、ほとんど内発的な関心が起きないことにも起因している。自己の属するウズ社会こそが全社会となりその外延がおよそ自己の関心の水平線であって、それより遠方には関心は及ばないのである。従って、企業から排除されれば同時に組合員の資格も失い、本来最も組合を頼りにすべき時には組合は頼りがいの無い存在と化すのである。
また合併企業がうまくいかないのも、全く教義の異なる宗派間の合併のようなものであるからむしろ当然のことと言わなければならない。異なった宗派が、融合するためには実に長い歳月を要する。
[合意形成] 企業における各種の決定が、参加者全員の合意の下に行なわれるのも(時にはそうした擬制がとられるのも)宗教が教条に対する全信徒の絶対的恭順を求め、教義にたいして、常に全員の合意を取りつけるのとなんら変わらない。企業における全員参加・全員一致の合意形成プロセスあるいはボトムアップの意思決定プロセスは一種の祭礼に近い宗教的儀式に比すべきものであり、これこそ企業の宗教的団結の核心をなすものなのである。あらゆる決定が一種の祭ごとであり、全員参加・全員一致の下で行なわれ、参加すること自体に意義があるので権限の委譲はウズ社会ではできにくい。お御輿は自ら担いでこそ意義があるのである。こうして残業にはつきあい、有給休暇を人よりよけいに取ることは憚られ、休暇をとるにしても一斉に取らざるを得なくなる。
合意は、企業の教義の全体から自然に流露してくるものであって、それを体した部下の起案や発言であれば、上司であろうと敢えて異議を唱えるのは難しい。
また上司にしても、純粋培養された同質の企業内人間であり、日常的に私生活の面をも含めてつきあいがあるので、部下の方でも上司の意向について、ほとんどあやまることなく推測出来るのである。すなわち、この様な意思決定方式は、日本企業のように上からしたまで極めて同質の成員で構成されている組織で初めて存在可能な方式なのである。
また、一度合意に達するとなかなかその変更が出来にくいのも、これが宗教的教条と同等の重みを持つからに他ならない。古い聖書やコ―ランの教えは今も信仰の厚い対象となり、信者の行動を規律する厳しい戒律として機能している。長く守られてこそ、戒律の重みも増すのである。一度合意に達した事については、教典のように頭から信じこまねばならない。すこしでも疑念を持つことは反宗教的行為と見なされ、非難・攻撃の対象となる。合意形成のプロセスで反対者が一掃されることも方針変更を難しくする。こうして一度教条化した合意は長持ちすることとなり、日本の組織は宗教同様の保守性を持ちやすい。
[平等主義] また、給与面や待遇面における経営者と従業員の平等主義と言われるものも、この様に両者が全く同質で同じ企業内訓練で養成されており、欧米の様に経営能力を買われて最初から経営者として雇用されるのではなく、両者を分かつのが単に年功のみであることに由来する。また平等主義の教義の発生の所以は、実績より姿勢や精神の在り方を重んずる風土とも無縁では無い。一緒にナッパ服を着て働く上司や大して給与の差も無いのに粉骨砕心する上司のイメ―ジは常にプラスイメ―ジとして定着している。その様な上司にならついて行きたいというのが日本人の心情でもある。
日本人にとって理想的な課長像は、時には無理な仕事も押付けるが仕事以外で人の面倒を良くみる課長に定着しており、無理な仕事はさせないが仕事以外では人の面倒を見ない課長ははなはだ不人気らしい。このことが示すように、管理者は仕事の管理をするだけではなく、従業員と同じレベルにあって同じ釜の飯を食い、日常的に接触し、私的な悩みごとの相談にも応ずるなど、従業員の私生活の面でも面倒を見ることが期待されている。
平等主義とはいいながら二代目、三代目、オ―ナ―一族などの伝統的権威が尊重されるのも、宗教が血統や伝統的権威を尊重するのと同様である。
[年功序列制] 日本の企業に年功序列制が存するのも、企業が単に経済的活動体に止どまらず、前述のように様々の教義をマスタ―する、いわば企業道ともいうべき「道」の修行の場でもあることと関連しており、宗教的ヒエラルキ―同様、企業に対する帰属度、教義の修得度、教義に対する帰依度等によって等級格差が付けられ、その結果として給料体系のランクづけが行なわれるのである。企業とはいいながら単に仕事が出来るという経済的実力があればいいのではなく、むしろ宗教的共同体としての企業に対する理解、その実践ともいうべき宗教的実力が尊ばれ、一人前の企業内人間となるまではたとえどれほど経済的貢献をしようと、それだけで直ちに給料が上がることは無い。年功とはその意味で修行期間と修行による悟りの深さとを含めた概念であり、それのみが宗教的共同体の内部においては、人々の間の格差を付けうる唯一の尺度たりうるのである。「年功」という際に問題にされる「年」が、実際の年齢ではなく、その組織に入ってからの年数であるのはこのためである。 なお余談だが、長時間労働が日本ではなかなか改善されないのも、労働は修行であり、仏行(宗教的行為)そのものであると見做されからである。仏には数多く御参りし、苦しい修行に耐えれば耐えるほど高く評価される。長時間の荒行・勤行は、悟りを開く為に不可欠のものと考えれば長時間労働や残業も苦にならないのである。模範的といわれる社員ほど、遊びたい気持ちを押え、残業も辞せず、休日出勤をやり、有給休暇も返上して仕事一途に働くのは、ひたすら仏行に勤めることによって、むしろ克己心を養い、自己の精神的向上を図り、大解脱し成仏できると考えられているからであろう(1)。文字通り日本人に取っては仕事は「お勤め」であり、「勤務」なのだ。
[冠婚葬祭] 本来宗教の専管事項に近い冠婚葬祭のすべてが企業内で取仕切られるのも、企業が経済的活動体に止どまらず、宗教的共同体であることを示すものだ。社員やその一親等の親族の葬式には社長の花輪や供え物が並び、社の有力者が顔を揃える。結婚式も同様で、主賓をはじめ客の大半を企業の関係者が占め、社長や有力者からの祝電が披露される。「入社式」の項で述べたように現代では通過儀礼のほとんどが企業に取りこまれるに至っているが、このことは取りもなおさず、現代人にとって企業が、かつての地域共同体に代る第一儀的な所属集団であることを示している。 会社の管理職は単に経営のマネ―ジャ―であることに止どまらず、冠婚葬祭を取仕切る、祭司でもあり僧侶でもある。あるときは仲人役や媒酌人や主賓の役割を演じ、あるときは、葬儀委員長を勤める。同僚も冠婚葬祭の受付けをやり、司会役を勤め、手伝い役をし、「花嫁の付添い」や「みこ」的役目を果し、祭祀を盛上げる。つまり宗教的共同体の一員に相応しい宗教的役割を果すことがウズ社会の成員には求められているのだ。これを立派に勤めないような(勤められないような)上司・同僚は組織の成員としては失格である。
朝礼で訓示をたれ個人的な悩みごとの相談に応じる上司は説教をする神父であり告解をきく司祭である。社訓の唱和、社歌の斉唱、社旗の礼拝は、聖書・コ―ラン・お祈りの唱和、キリスト像、仏像の礼拝、賛美歌、お経の斉唱に匹敵するものであり、宗教的儀礼(祈りの文句や礼拝の仕方、時期が定められている)に比すべきものである。管理職はこれらの儀礼を主催せねばならず、こうした日頃の管理職のお勤めへのお礼としての中元・お歳暮は、聖職者への献金、お布施と同趣旨のものである。いずれも自分より目上の者に捧げる構造を持っている。勤務とはお勤めであるとは良く言ったものである。
また、企業への貢献度の高い人は社葬で遇される。社員用の墓地を用意している会社もある。他の社会で宗教に委ねられている冠婚葬祭の祭祀機能がすべて日本の組織に取込まれており、一度ウズ社会の中に飛込んでしまえばその時から文字通り墓場まで、面倒を見てもらえるシステムになっている。
[殉教] 企業がスキャンダルに巻込まれると、いざ鎌倉とばかり従業員が一致団結して集団的企業防衛を行なう。中には責任を一身に被って企業の不利益となることは一切黙したまま「企業は永遠なり」と遺書を残して自殺するような人物が登場するが、こうした行為は正しく殉教そのものといってよく、企業がいわば信仰の対象になっていることを示している。企業の行動規範が宗教的戒律同様個人の内面を規制し、法律などの、外面的社会的行動規範より優先するのである。また海外や地方支局の駐在員も、同様の精神構造からいわば企業の宣教師として瘴癘の地にあっても自企業のため殉教覚悟で情熱的活動を行なうのである。
[異端審判] 上述のような様々のメカニズムに支えられ、企業の結束の強さはまさに十字軍的であり、従業員の企業に対する忠誠心や愛社心には、信仰心と同等の強靭さが有る。しかし、恭順しないものへの強制力も宗教同様強力である。企業には様々の異端審判制度が設けられており、日常的な会議、同僚の歓送迎会への参加、残業、休暇のとり方等でさえ、その機能を果すことが希ではない。
この様な踏み絵は実に様々なところに仕掛けられているので従業員は常に細心の注意を払ってそれを習得し対応せねばならない。それは教理問答に備える聖職者のようなものである。従業員は四六時中企業の従業員であることが求められており、退社後といえども企業の教義から自由になるわけにはいかない。これは信徒が教会にいる間だけ信徒であるわけにはいかないのと同様であって、企業の教義は従業員の内面をも規制し、従業員は退社後も、自らその企業の社員らしく振舞おうと意識するのみならず、同僚、上司の目を絶えず意識して行動する。
ウズ社会においては各人の異端・異質に対する嗅覚は鋭く極めて些細な点も決して見逃さない。これが魔女刈りに通ずる「いじめ」の文化的土壌であり、村八分の温床ともなるのである。
[破門] 異端審判の結果、教義に対して不服従と審判が下だれば、村八分の扱いを受けたり、最も重い時は、「破門」扱いにされ、集団からの追放に処せられ、メンバ―としての資格や権利を失うことになる。先に見たようにこの教義が必ずしも経済を営む機能集団の一員として必要とされるもののみならず、私生活面にまで及んでおり、例えば、女性関係でスキャンダルを起こしたとか親族の者が破廉恥罪を犯したというような理由で「破門」されるようなことも少なくない。転職が日本であまり良く思われないのは、「破門」による転職のイメ―ジと重なりあっているからである。
[集団行動] 日本人が集団行動するのは、一説には日本人の自我の形成が弱いため集団で行動する傾向を持つとされるが、むしろ日本では企業=集団の規制力が強く、この様な内面まで企業内人間であることが要求され、厳しい相互監視が行なわれているので、たとえ退社後といえども一人歩きには危険や不安が伴うからといえよう。少なくとも会社の上司や同僚と共に行動し、相手のすることと同じ事をやっている限りは企業の教義に反する恐れは無く安心感が有る。一人で勝手に妙なことをやったり、企業外の組織へ加わったりして、教義にもとるとされ、異端視されては困るのである。つまりウズ社会の中にどっぷり漬かっていれば安心なのである。一度「あいつは変わっている」とか「冷たい」とか「つきあいが悪い」とか、いわば異端であることを示すレッテルを貼られると名誉を回復するのは容易な業ではない。その意味でも、集団行動は、一種の相互安全保障条約を結んでいるようなものなのであって、相互に教義に背いていないことを確認しながら行動しうる最も安直かつ精神衛生上も好ましい行動形態なのである。
[排他性] 以上述べたように、日本的経営は同質的成員を前提とした経営方式なのであって、そのため従業員を同質化し企業内の結束を高める強い力を持つが、このことが逆に企業を社会から閉ざされた組織にし、従業員の目を専ら企業内のみに向けさせ、外の社会や組織に対して無関心な島国的、井の中の蛙的人物を生出し、宗教の排他性にも似た同質でないものを排除するメカニズムの温床となり、いわゆる『外人』に対する差別意識や自己本位の精神構造を醸成する土壌ともなっている。
これまで、我が国においては企業が宗教の代替的機能を果し、企業と個人の関係が宗教と個人の関係に類似した側面を多くもっていることを明らかにしてきたが、それは前述のように我が国の社会が単一組織に終身専属する形で一生を送る成人男子によって構成されていること、裏返していえば単一の組織が成人男子を一生涯にわたりその組織にほとんど一〇〇%帰属させ、それ以外の組織へは所属させぬ強い規制力を持っていることに起因している。一方、欧米諸国においては、転職が普通であるばかりでなく、各成人は、宗教活動、ボランタリ―活動、地域のクラブへの参画等外の組織への加入など日常的に行っており、企業自体も自治会へ入るなど地域社会へ貢献している(2).
日本において転職が希なのは、前述のように宗教的共同体に類似したウズ社会においては、これが改宗と同じ意味を持つからである。諸外国においても改宗となるとなかなか難しく、事実上禁止されているに等しい。また破門・挫折・脱落による転職のイメ―ジと重なることも転職が嫌われる原因になっている。転職した従業員は,それまで身につけた教義を払拭した上で転職先の教義を全く一から学び直す必要があるが、一度他宗に染まった転職者が純粋に転職先の信徒となりきるのは至難とみなされる。一度ある会社のカラ―に染まってしまえば、転職しても、そのカラ―を完全に脱色して転職先のカラ―に染まり直すことは極めて難しいと考えられるのだ。ウズ社会においては各人の異端・異質に対する嗅覚・視覚は鋭くごく些細な点も決して見逃さない。日本企業が新卒者を好むのも一度他社の垢が付くと純粋培養が困難と考えるからで、毎年、就職協定を結びながら、それをほとんど無視してまで新卒者の獲得に狂奔する。それに失敗しても中途採用で補えばよいというわけにはいかないのである。このため新卒者側でも自らの商品価値の減じない生涯一度のチャンスを生かすべく激しい就職戦争を繰り広げる。就職に失敗した学生は留年という形で自衛策を講ずるのである。
こうして日本のようなシステムの社会では、事実上転職は極めて難しくなる。もちろん職業選択の自由はあるので転職出来ないわけではないが、就職後日の浅い転職や、同じ系列会社への上司の口利きでの転職あるいは極めて専門性の高い職種での転職でもないかぎり、転職者にとって、転職がプラスになることは希である。年功序列制の下での転職は、文字どおりこれまでの年功を零にするに等しい行為なのであり、経済的にもかなりマイナスとなる(経済的に保証されていないこと自体が転職に対する社会的評価の低さを物語っているが)。年功序列式の給与はいわば生涯賃金システムなのであるから、一カ所で長く勤めず次々と転職するれば生涯賃金は終身雇用者に比べ相当な格差が生ずる。のみならず、辞めた企業からは改宗者へ浴びせるのと同様の恩知らずの裏切り者呼ばわりされ、転職先ではよそ者扱いされ順調に出世することはまず難しくなる。
こうして終身雇用制、年功序列制の下では、労働者は一度就職したが最後、その企業や自分の仕事を好むと好まざるとにかかわらず、生涯そこで働くことが運命づけられる。転職が極めて難しく不利なため、現在の職を失わないように従業員は企業に対し、前述のように信徒にも近い忠誠を尽くさざるをえない。各種のアンケ―ト調査によっても、エリ―トサラリ―マンの約四十%が転職を考えているという。このことは潜在的転職希望者が意外と多いことを示している。しかし、このうち実際に転職に踏切れる人はごく僅かである。一度就職すると、ウズ社会に封じ込められてしまうために、必ずしも自分に合っていない仕事とわかっても我慢せざるをえず、能力のあるエリ―トサラリ―マンほどそのことに対する不満を根強く持っているが、宗教的共同体に近いウズ社会の吸引力に逆らってまで外部へ出る勇気もない。このことも、事実上転職が難しいことを示している。
また、ある企業内で一度異端視されるとその企業内での信頼を回復することは極めて難しく、栄達の道が閉ざされるばかりか、労働力の流動性が押えられている社会ではある会社で異端視され破門の烙印をおされることは、正常な会社社会全体から異端とされ落伍するに等しくなる。そのためもあって、従業員は常に細心の注意を払って各種の異端審判に耐えようと努めるのである。
このようにして、個人が一企業に専属し、その他の組織には全く属さないまま定年を迎える制度が確立していくと、従業員にとっては、企業のみが自分の全社会となり、企業は逆に、欧米型の複数組織所属型社会においては様々の組織が分担している機能を一身に供えた疑似社会化の傾向を帯びる。先に述べた宗教的機能もその一例と考えることもできる。例えば海外から日本の企業の視察に来た人が驚くことの中に、各企業が極めて多方面にわたって、各種の施設や制度を整備していることがある。社宅、診療所、保養所、売店、食堂などの福利厚生施設、バ―、酒場、カラオケ、ディスコなどの各種のリクリエ―ション・趣味・スポ―ツ施設、諸種のお稽古ごとのクラブ、持ち家のための融資制度、扶養手当、結婚・育児手当、通勤手当、朝礼での社歌の斉唱、社員ぐるみの旅行・運動会等々、まさに百花繚乱、そのアイデアの豊富さに驚くほどで各企業がそれぞれ趣向を凝らした各種の企画を実施している。いわば企業は入社から定年までの生活上の物心両面の必要物と機能とを提供する総合システム化する傾向を有している。本人のみならず、家族全員が会社に取込まれる。つまりこれが、日本の社会をウズ社会とネ―ミングした一つの大きな理由であって、渦同様あらゆるものをその中に引摺り込む力を日本の組織は持っているのである。
この大家族主義的な総合機能を有する企業に全てを委ねている限り、従業員の一生は安泰で保障されることになる。つまり、ウズ社会の渦の流れに逆らわず、溶け込み、浮き上らない生き方を身につければ、まずは安心と言うものである。この安心感が従業員の愛社精神の源泉となり、いわば己れをすてて企業に奉仕する精神を醸成する土壌となっていることは否定できない。もちろん企業の持つこの様な各種の機能の総合化は,企業の利益の最大化の動機の下になされるのであるから、単に従業員にメリットを与えるという目的だけに止どまらず、前述の企業の有する様々な強制力と相まって、従業員管理の「アメと鞭」として機能することはいうまでもない。
注
(1)山本七平『日本資本主義の精神』光文社 一九八四年 一二五頁以下
(2)米国には、六百万から七百万ものボランタリー団体があり、そのうちの百万は非課税団体だという。年間予算は三千万ドルを越すといわれている(『日本経済新聞』 一九九〇年 四月二三日)。